PETTY, W., Politcal Arithmetic, or A Discourse concerning the extent and value of land, people, building; husbandry, manifacture, commerce, fishery, artizans, seamen, soldiers; publick revenues, interest, taxes, superlucration, registries, banks; valuation of men, increasing of seamen, of militia's, harbours, situation, shipping, power at sea &c. As the same relates to every Country in general but more paticulary to the territories of his Majesty of Great Britain, and his neighbours of Holland, Zealand & France., London, Printed for Robert Clavel at the Peacock, and Hen. Mortlock at the Phoenix in St. Pauls's Charch-yard., 1691, pp.117+ads(3) , 16mo.
PETTY, W., Politcal Arithmetic; or, A Discourse concerning the extent and value of land, people, building, husbandry, etc. As the same relates to every Country in general but more paticulary to the territories of his Majesty of Great Britain and his neighbours of Holland, Zealand & France., Glasgow, Robert & Andrew Foulis, 1751, pp.97. Bound with tranlated by Moyle, Walter. Xenophon's Discourse upon improving the Revenue of Athens, Glasgow, Foulis, 1751, 16mo.
 PETTY, W.
, Several Essays in Political Arithmetick. the Fourth edition, corrected., London, Printed for D. Browne; J. Shuckburgh, J. Whiston and B. White, 1755, pp.vi+184+2, 8vo.

 ペティ『政治算術』。第二版(1961年)、1751年版および1755年版(初版1690年)。
 ウィリアム・ペティWilliam Petty(1623-87)。その生涯は、アダム・スミスにほぼ百年先行する。イングランドが、外にオランダと貿易戦争を戦い、内には二つの市民革命による社会的変革を経験する経済的・政治的激動期に活躍した。
 ロンドン南西約110キロにあるサザンプトン近くの小都市ラムジー(現在名ロムジー Romsey)に生まれる。六人兄妹の第三子であるが、実質的には長子である。父親はこの地の特産である毛織物業を営む。ただし家業は傾いていたようである。わずかなラテン語教育を含む当地の学校には行きはしたが、早くも13歳の時に商船に水夫として乗り込む。足に怪我したのを機にフランスのノルマンディ海岸に遺棄される。有能であった故に、先輩船員の嫉視を買ったため、と自らは云う。仕事のかたわら、ガラス球の偽宝石指輪の小商いをしていたとのことだから、このことでも反感を買ったのかも知れない。しかし、たくましいペティは、小商いに加えて、航海術(ラテン語による)や英語を教授して生活費を稼ぐ。そして、近くの都市カーン(Caen)のイエスズ会のコレージュで学ぶ。ここでは、中世以来の基礎教養(文法、論理、修辞、算術、音楽、幾何、天文)を一通り習得したであろう。
 1640年頃にはイングランドに帰り、海軍に属することになる。海軍での経歴詳細は明らかでない。この時期、数学的知識が全生涯の最高水準にあったと後に語っていること、及び留学資金となる60ポンドを蓄えたことが知られている。
 ペティは、まずオランダに向かう(1643)。当時の留学先としては変則であるが、当地と故郷のラムジーとは毛織物業を通じて、人事の交流があったという。この時期、この国はその繁栄の頂点を迎えようとしていた。学問の分野でも、哲学者スピノザや物理学者ホイヘンスの活躍する以前ではあるが、法学と医学の先進国として知られていた。前者はグロチィウスによって代表され、後者は現代解剖学の創始者アンドレアス・ヴェサリウス(ブルッセル生まれ)の衣鉢を継ぐライデン大学が有名である。ペティもこの大学入学し、医学を研究した。かたわら、当地で盛んなダイヤモンド研磨の年季職人として働いており、相変わらずの「勤工倹学」である。働きつつ観察した先進社会実態の知識は、後の著作に生かされることとなる。
 1645年には、ペティはパリに移る。この時期のフランスは、絶対王政確立の機となるフロンドの乱勃発の直前である。貴族の間では、ガリレオ、ベイコン等の影響を受け近代科学への関心が横溢していた。ペティの加わったメルセンヌ・アカデミーもその一つの表れである。主催者は、フェルマーの定理の本等に出てくるメルセンヌ数のあの仁である。このサークルには、パスカル、デカルト、フェルマーが参加し、ガリレオとも交流があった。当時、亡命中のホッブスもパリにおり、親しく交わった。ペティは彼のために著書『光学』(Tractatus Opticus)の挿入図を書いたりしている。ペティのホッブスに対する敬愛は終生続いた。約1年間のパリ遊学は、ペティの自然科学への造詣を深めたであろう。
 1646年にはイングランドへ帰る。パリ滞在中は、お金に窮迫し、2,3ペンスのクルミで1週間食いつないだこともあると書いているが、旅行出発時の所持金60ポンドは、10ポンドほど増えていた。一旦故郷で家業を継いだものの、すぐに新発明「複写器」を携えてロンドンに出てくる。「ペティがはじめて世に問うた成果が、論文や著書ではなくてマニュファクチュアの時代を特徴づける器具であった」(松川、1967、p.137)。これで一山当てることは出来なかったが、王立協会の元となるサークル「ロンドン理学協会(Philosophical society)」への参加は彼の世界を拡げることになった。『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』の著者グラントとも知己を得た。この頃、一時宮廷の所在地でもあったオックスフォードが、議会軍に支配される出来事があった。これに伴いカレッジの学長、教職員400人余りが、議会側の関係者に入れ替えられた。ロンドンの「協会」員も教職を求めてオクスフォードへ大挙移動した(1648-49)。ペティもその一人である。
 この地でのペティの社会的地位上昇は目覚ましく、1648年には医学博士の学位を取得し、50年には解剖学の代講から教授に就任する(注1)。併せて、ブラスノーズ・カレッジの副学長、グレシャム・カレッジの音楽(文藝の意味らしい)教授に就いている。彼の20代後半の数年の間にである。この間、絞首刑に処せられた少女を蘇生させたことで、世評を高める。しかし、51年大学に解剖学を開講して数週間後、政府のアイルランド派遣軍軍医監任命に応じる。大学から年俸30ポンドと2年の賜暇を受けたまま、再び現れることはなかった。
 軍医としてアイルランドに渡った(1652)ペティは、クロムウェルによる大反乱鎮圧後の、「大収奪」政策と深くかかわるのである。以後連続しては軍医から測量、下院議員活動を通じて7年間、更には渡航後の半生35年の中24年をアイルランドで過ごしている。この過程で、大地主となって一身代を築き、爵位を追贈されている。今に続くランズダウン侯爵家のもといである(子孫の同姓同名ペティは、首相を務めた)。ここでの活動は、彼の実験的方法を自然科学から社会科学の領域に広げる契機ともなった。
 そもそも、アイルランドは、ケルト人による古代的な氏族制共同社会が営まれていた。ここにイングランド人が侵入を始めたのは、12世紀のプランタジネット朝時代に遡る。その後、イングランド人の土地収奪とそれに対する反乱の歴史が繰り返される。宗教的、民族的、経済的利害がからみ、更に外国勢力まで巻き込んだ争いである。1641年には全島的な「大反乱」が勃発し、49年には清教徒革命により共和国軍(議会軍)となったクロムウェルが鎮圧に向かうのである。人口の2/3を抹殺したとも云われる大弾圧である。軍の兵士は傭兵であり、未払給与は叛徒の土地を担保にした「給与債務証書」で支払われた。軍資金も、「募金法」により、同様没収土地による償還を予定して募られた。アイルランド人を面積1/4ほどの偏狭の地に押し込め、イングランド人に奪った土地(家屋等の財産も含む)を分配、植民しようというわけである。もっとも、大土地所有者には廉価な農業労働者が必要なため、アイルランド人の全面的移住は実施されなかった。
 ともあれ、土地の分配のためには、その正確な計測と評価が必要となる。すでに鎮圧軍事行動に並行して、測量監ワーズリ(Worsley)の指揮下、測量が実施されていた。ペティはその不正確を批判し、自ら測量に当たることを買って出た。それは、松川(1967、第3章第4節)によると、自身の自然的諸知識を実験的方法により、社会を対象として更に発展させようとしたためだけではなく、ここに自己の致富への道を嗅ぎ当てたことにもよる。さらに言えば、せっかく手に入れた大学の役職を擲って、軍医としてアイルランドに渡ったのも、明確な計画はなかったとしても、このような心算の故かも知れない。
 ペティの測量(ダウン・サーヴェイと称される)は、契約とおり13ケ月で完了した。測量用具に工夫を加え特注した。素人の兵士約千人を測量隊に組織、訓練し、手分けして実測にあたらせる。地図作成のデスク・ワークは専門家を雇用した。最初の契約は、兵士用の土地に関するものであり、結果は満足すべきものとみなされたから、引き続き出資者用の土地の測量の下命を受ける(1658年完成)。作成した地図は2,000枚を超え、アイルランド面積の83%をカバーした。この測量を基に、世界最初の実測による一国の地図がされた。同時期に、これも最初のセンサス(人口調査)を実施したとされ、結果は草稿の形で残っている。
 その間、ペティは、没収地の分配委員にも任命される。委員は6人であるが、実質的には彼一人でその任に当たり、全力を尽くした(1656-60)。一方、土地分配対象となった兵士は、植民者として予定されていたのだが、分配を待てず、生活の困窮から次々と給与債務証書を売却することになる。加えて、出資者もほとんどが、その権利証書を売却した(1360人の中自ら定住した物は6人)ので、中世以来の特徴であったアイルランドの不在地主制が、ここに確固たるものとなった。ペティといえば、兵士の証書を捨て値で買い集めることで、大土地所有者となるのである。後に測量、分配をめぐる不正行為で議会に召喚された。
 オリバー、リチャード二代のクロムゥエルの庇護を受けたペティは庇護者を失い、一時公職を退く。王政復古(1660、37歳)の時代に成ると国王の愛顧を得て、アイルランド関係の官職に就き、所有地も安堵された。以後、所有地を27万エィカーまで増大させ、死ぬまで土地財産の管理と所有権、租税に関わる訴訟に明け暮れた(徴税請負制度による課税は不公平で、それを正すことを使命と考えたからでもある)。特筆すべきことと云えば、決闘で片目を失ったこと(1660?)結婚(1667)くらいか。44歳の新郎のお相手は、二人の子をもつアイルランド貴族の未亡人で旧友のハードラス・ウォーラー(この人も貴族)の妹エリザベス。才色兼備の婦人であった。金持ちの未亡人をものにするため、就寝時に毎夜笛に巧みな少年に演奏させたとオーブリーは書いている。
 王政復古時の学問的活動においては、王立協会に熱心に参加し、ダブリン理学協会を創設する。二重底船(一種の双胴船、船の工夫は一生の道楽であった)建造にも大きな努力を払った。経済学の主著はこの時期に書かれた。25歳以降は本を読まなかった(Aubrey、1949)というペティも、記録好きは終生変わらなかった。幼少の頃から書き溜めた草稿が53箱残されたとされる。しかし、生存中に彼名義で上梓された本は少ない(注2)。経済書では、主要なものはない。彼の貢献が大きいとされる『死亡表についての諸観察』は、グラント名義だし、『租税貢納論』(共に1662)は匿名である。この『政治算術』も、仲間に回覧されていた草稿が、1683年(1687年もある)著者の与り知らぬ所で印刷されたことはあるが、正式な初版は著者死後の1690年発行である。『アイルランドの政治的解剖』(1691)(注3)も死後出版である。
 ペティの関心は多方面に亘った。晩年の遺書には「学問および実験のことについては、私は今後はそれを人間の解剖と政治算術、ならびに、船舶、陸車、鉄砲、ポンプに限定」すると(大内、1969、p.16)書いてあるそうである。才能については、次の挿話を思い浮かべる。少年ペティは、でたらめで脈絡のない50個の言葉を一度聞いただけで覚え込んでしまい、それらを前方からも後方からも、即座に復唱できただけでなく、何番目の言葉と指定すれば、それを言えた(松川、1967、p.61)らしい。以上の彼の経歴を通観しても、記憶力が強く、数理的思考にも優れ、手先が器用で、組織を動かす能力もあり、世故にも長けた人物像が浮かぶ。オーブリーによれば、長身で茶色の眼をした本当に端正な容姿をしていたというから、向かう所敵なしである。もちろん、なされた努力の大きかったことも、尋常ではなかったであろうが。

 マルクスは、ペティを「経済学の父」であり「最も天才的で最も独創的な経済研究者」とし、はたまた「統計学の発明者」であり「統計学を創始した」とも書いた(注4)。もちろん、ペティの時代には経済学とか統計学とかの学問分野は存在しておらず、両者は未分化で混然一体となっていた。前者を代表する彼の著作は『租税貢納論』である。この本は労働価値説を創唱したことで、マルクスに高く評価され、ペティの代表作を1冊選ぶとするなら、この本になるであろう。後者の代表がこの『政治算術』である。この二つの著作の間には分析方法、対象で深刻な相違があり、これまでの学史研究においても、一方に偏りがちで、「商品価値分析と政治算術分析の双方に等しい関心を払いながら、幅広い角度から検討を加えた学史家は、意外に少ない。」(大倉、2005、p.4)とのことである。とはいえ、統計学の分野に限っても、代表的な学史書である、ウェスターゴードやヨーンの本を見てもペティに割かれた紙幅は意外に少ない。ペティの統計学分野でのもう一つの代表作は、『アイルランドの統計的解剖』であろう。ロッシャーは『解剖』を「個別統計」の模範とし、『算術』を「比較統計」の模範としている(1929、p.152)。

 ペティの創始した政治算術の方法を知る(第一に記者自身の)手引きとして、まず、近世以前の数量的認識について、少し記しておく。中世西欧の人々は、数量を正確に表現しようとせず、漠然とした表現を好んだ。クロスピーのあげる例によると、ガラスやオルガンの作り方を指示した中世の説明書には数字の記載はほとんどなく、「やや多めに」や「中くらいのサイズ」等の表記で済まされている(2003、p.62)そうである。表記法の問題もあった。西欧中世人は、何で数字を表記していただろうか。もちろん、ローマ数字である。ローマ数字では大きい数を表しにくいし、計算も簡単にはできない。計算の方はアバクスと呼ばれる計算盤によっていた。ちなみに、ギリシャ数学と云えば、幾何学を思い出し、代数や数論が発達していないように思えるのは、このことと関係があるのかもしれないと思ったりする。
 インド発祥のアラビア数字がイベリア半島経由で徐々にヨーロッパに浸透してくる。これは、筆算に便利である。アラビア数字がローマ数字にとって代わったのは、16世紀のこととされる。今に残る会計簿(メディチ家の銀行等)には、両数字の混用からアラビア数字のみへの記載への変遷が読み取れるそうである(注5)。
 近世に入って、このような道具立てが整備された上に、観察対象である社会・経済にも数量化が進んだ。ペティの頃には、「イギリスにおいては、昔の封建的な諸関係はほぼ解消つくし、商品生産と貨幣による生産物の売買が社会関係の全面を支配するようになり、土地も家屋も衣食住も労働力もみなそれぞれ貨幣的表現を得ていたのである。…すなわちその意味において、社会は当代に及んではじめて共通の分母(労働のことか:引用者)において公約され、統計的ないしは数字的計量の対象として熟そうとしていたのである。」(大内、1969、p.40)。
 前置き終えて、政治算術の方法論について書く。著者の用いた方法を彼自身の言葉でたどることにしよう。「私がこのことをおこなう場合に採用する方法は、現在のところ余りありふれたものではない。というのは、私は、比較級や最上級の言葉のみを用いたり、思弁的な議論をするかわりに、(私がずっと以前から狙い定めていた政治算術の一つの見本として、)自分のいわんとするところを(Number)・重量(Weight)または尺度(Measure)を用いて表現し、感覚に訴える議論のみを用い、自然のなかに実見しうる基礎をもつような諸原因のみを考察する手続きをとったからであって、個々人の移り気・意見・好み・激情に左右されるような諸原因は、これを他の人たちが考察するのに任せておくのである」(ペティ、1955、p.24:以下本書訳書からの引用は頁数のみ表示)。
 そして、松川が、「政治算術=解剖」と表記しているように、「政治算術」は、「政治的解剖」とほぼ同一の方法と見なしてよいであろう。そこで、『政治的解剖』の序文での言葉も参照する。「サー・フランシス・ベイコンは、かれの『学問の進歩』のなかで、自然体(Body Natural)と政治体(Body Politick)とのあいだに、また両者が健康と力とを保持する諸方法とのあいだに、いくつかの点について賢明な類比をおこなった。そして、解剖が一方のものの最善の基礎であるのと同じく、他方のものについてもそうであるということ。また、政治体の均整(Symmetry)、構成組織(Fabrick)、および比例(Proportion)を知ることなしに政治を処理するのは、老婆や薮医者の治療のように不確実なものであるということは、いずれも(ベイコンの考えと)同様に道理にかなったことである」。また、この解剖は、「念のいった切開は種々さまざまの適切な器具なしには不可能である、ということは真実である。ところが私は、このような仕事が必要とするさらに多くの助力のかわりに、ありふれた一本のナイフと、一片のぼろきれとを手にするにすぎなかった。しかしながら、たとえ私の粗雑な接近作業が、琳派管、網状組織、脈絡膜、睾丸内の血管網を識別するのには十分でないにしても、どのへんに肝臓や脾臓があるか、また肺臓があるかを見別けるくらいのことは十分間にあうのである。」(ペティ、1951、p.21-22)としている。
 これを要するに、政治算術の方法は、概要をまとめると以下のごとくか。
1. ベイコンの方法にならい、政治体の解剖に自然体のそれを応用する。
2. 政治体の解剖ほど、道具が揃ってはいないため、精密ではないが実用的には使用可能である。
3. 曖昧な言葉や思弁的な議論を排し、客観的な数・重量または尺度で表現する。
4. 五感で確認可能な観察により、原因を考察する。
 しかしここで、ペティ自身がベイコンの方法によるとした点については、論者により様々に書かれている。少し寄り道になるが、簡単に紹介しておく。
 松川七郎は、ペティの社会現象の数量的把握方法について、「政治算術=解剖の方法における数学主義ともいわれるべきこの側面は、ベイコンというよりも、むしろガリレイやホッブスやデカルトに負うものであろう。」(p.395)とつとに指摘している。大倉正雄は、ホッブス特にその著『物体論』(1655)の分析的方法がペティに与えた影響を書いている(注6)。また、ロンカリア(1988、p.42)に言わせると、諸現象を数量的相互関係で把握する研究において、同時代人では、ベイコンは漠然としており、むしろホッブスやガリレオ等に、より明瞭に現れているとする。ロンカリアは、イタリア人らしく、わけてもその最初の人ガリレオの「哲学は、眼のまえにたえず開かれているこの最も巨大な書物[宇宙]のなかに、書かれているのです。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばないかぎり、理解できません。その所は数学の言語でかかれており」(ガリレオ、1973、p.308)という言葉を特筆している。
 ホッブスも、メルセンヌを通じてガリレオに通じていたし、そのガリレオはヴェルサリウスの後任教授であるファブリチゥスの解剖学から方法的な影響を受けたとされる(注7)。結局ペティは、パドヴァ(ヴェネチア共和国の大学)学派あるいはヴェルサリウスの影響を受けたとしておくのが妥当のかもしれない。ちなみに、ペティはホッブスとパリでヴェルサリウスの『人体構造論』を一緒に読んでもいる。

 ペティが本書を執筆したのは、1670年代である。この時代イングランドの正面敵が、オランダからフランスに変わった。二次にわたるオランダとの戦争を経て、フランスの脅威はようやく明らかになって来た。この侵略的国家は、ルイ14世のもと、重商主義政策のよろしきを得て、その絶対王政の最盛期にあった。イングランドは、フランスに対抗すべく、旧敵オランダおよびスェーデンと新教国の「三角同盟」を締結した。この同盟を国民は支持したが、国王の心中は別であった。クロムウェル死後、王位に復したチャールズ2世は、ルイと従弟であり、フランスで亡命生活を送った親仏的思考の持ち主であった。国王は、イギリス外交史上最も恥ずべきとされる「ドーヴァーの密約」を結ぶのである。王は、22万5千ポンドの年金と、一朝内乱が生じた場合の援軍の約束と引き換えに、フランスと共にオランダに宣戦する約束をした。フランスは、オランダ占領を狙っていた。このあたりの諸国の駆引きは戦国春秋時代の合従連衡もかくやとの「複雑怪奇」(田添、1955、p13)ぶりである。こうして、国王は同盟国のオランダ商船隊に急襲をかけ、1672年第三次オランダ戦争に突入する。この戦争は、国民の支持を得られず、財政難から1674年ウェストミンスター条約でオランダと単独講和することとなる。しかし、この戦争を通じて侵略を受けたオランダは劣勢となり、貿易・植民地を巡る英・蘭間の国際競争において、イングランドは最終的な勝利を確定した。そして、代わって正面に立ちはだかる敵としてフランスの姿が露わとなった。
 当時の世論といえばイングランドの国力に対して悲観的であった。ロジャー・コークやフォートリー等の国家の経済衰退を訴える書物が流布していた(ロッシャー、1929、p.158)。ペティが本書序に記しているところでは、「地代は一般に低下しているということ、…全王国は日ごとに貧乏になってゆくということ、全王国には、以前には金がおびただしくあったが、いまや金・銀ともにはなはだしく払底しているということ、人民のための産業や仕事口はなにもなく、…租税は多数にのぼりしかも高いということ、アイルランド・アメリカ植民地その他王室の新付の領土はイングランドの重荷であること、スコットランドはなんの役にもたたないということ、産業は一般に悲しくも衰えているということ、海軍力の競争では、オランダ人が我々のすぐあとに負い迫ってきており、フランス人は急速に両者を凌ごうとし、いかにも富裕で勢力があるように思われるということ…結局のところ、イングランドの教会および国家は、その産業と同じ危機に瀕している」(p.19)という不安を人々が抱いていた。一般には、フランスには抗すべくもなく、その強勢は政治体制=カソリック絶対王制のゆえであると考えられていた。
 しかし、ペティの眼は「世人が相変わらず食べたり、飲んだり、笑ったりしている」し、「要するに、人並みの労苦をいとわぬかぎり、暮らしに困るものは一人もいない」(p.23-24)現状を見ていた。それゆえにこそ、「個々人の移り気・意見・好み・激情に」よる議論を排し、「数・重量または尺度を用」いた考察により、オランダ、フランス、イングランドの国力を客観的に衡量し、イングランドの国力は潜在的にフランスに十分対抗できるし、政策により現在の不備を除去すれば、全世界の貿易をも支配できることを示そうとする。
 なお、子息の献辞によると、この本が生前出版できなかったのは、「フランスの怒りを買うおそれ」(p.13)からだという。イングランド(国王というべきか)は、それほどフランスの鼻息を窺っていたことが知れよう。

 それでは、本書の内容に入る。本書目次部分に「この論文の主要な結論は次のごとし」と記されているように、全10章の標題を見ていけば、ほぼ内容が解る。
 第1章は、本文の約1/3の分量を占める。小国で人口が少なくとも、その位置、産業、政策次第では、国力で大国に伍することができる。それには航海・水運の便宜が最も有益であることが述べられる。その具体例として、フランスとオランダ(精確にはジーランド地方を含む)の国力が比較される。仏・蘭の比率が、人口では、13:1、土地面積では80:1であるが、富および力では3:1にもならないとする。ここで、「富および力」とは、国富のことであろう。その算定の基礎に不動産、船舶の価額や輸出額、公収入額等を用いているが、その内容は明確ではない。
 それでは次に、オランダのいわば相対的優位が何によるものかが問題となる。「オランダ人は、百年前まで、自然的には寒い・湿潤な・そして不愉快の国に住み、貧乏な・抑圧された人民であったということ、そのうえ、宗教上の異端者として迫害されていた」(p.52)人々なのである。今や、多くの著作は、オランダ人を、人間以上のもの=天使の如き機知、判断力をもつ者、に祭り上げている。しかしペティは、オランダ人の成し遂げた偉業は、その位置、産業、政策によるものであると考える。まず、その位置(自然的条件のことである)の利点をについて書く。1.土地は低地で肥沃であり、人口密度が高い。2.平坦で風通しがよく、動力源の風車が多数設置できる。3.三大河川の河口にあり、上流国から農産物を移入し、商工業に特化している。(ペティの法則:後記詳述)4.水運の便に恵まれている。5.防衛に有利な地形等々。
 そして第二に、産業について。イングランドの毛織物、フランスの紙等、各国は特産物の製造によって繁栄する。オランダは航海業によって最も繁栄している。船員は兵士および商人を兼ね、農夫の三倍稼得する。その仕事は全世界に開かれ、貿易差額は本国に貨幣等をもたらす。ここで、ペティは富一般ではなく、金・銀・宝石という腐敗しない普遍的富の獲得が有利だとしている。このブリオニズム(重金主義)は、『租税貢納論』等で、富の源泉を労働とした立場とは違っている。また、オランダの航海業は積荷による船種の分業が行われていることを書いている。このあたりは、ペティの船員経験や造船趣味が生かされ、非常に具体的である。
 オランダの位置が航海業を興し、航海業が他の一切の産業を興し、中継貿易により世界の製造業を支配したことを述べた後、最後にオランダ人の政策に移る。まず、第一にあげるのは、信教の自由政策である。宗教的異端者(ペティは、不信心者Dissentersという)は、「大部分が思慮深い・まじめな・そして辛抱づよい人間であって…労働および勤勉こそ、神に対する自分たちの義務だと信じている」(p.55)。産業は、大衆受けのする政府の下で最も繁栄するのではなくて、どの国でもその中の異端分子によって最も活発に運営される。といっても、産業は特定の宗教(宗派)と親和的なものとはしていない。「産業というものは、…何らかの宗教と不離なものではなくて、むしろ…全体のうちで異端的な一部の人たちと不離なものだ」から「信仰の問題に関しては寛容がみとめられねばならない、という結果になる」(p.58)。ついで、オランダの登記制度、銀行・傭兵政策が語られる。
 以上第1章で、付記することといえば、「位置」の所で書いた、コーリン・クラークのいう「ペティの法則」であろうか。経済発展につれて、第一次産業から第二次、第三次産業へと産業構成比率が高度化するとして、この本から名づけたものである。ここでは、「農業よりも製造業が、また製造業よりも商業がずっと利益がある。」(p.44)とし、産業構成の変化に関しては、「諸産業や新規な技芸が増加するにつれて、農業は衰える」(p.64)とされている。クラークもこの箇所を引用している(1945、p.213)。後の第4章では、人口密度が増加すると地代が増加する理由に関説して、増加人口のごく少数を農耕に従事させるだけで、同一土地に人口増加分の食料生産が可能で、付加された人手は「農業というまずしくもみじめな職業から、比較的有利な手工業へ移植され」(p.104)余剰所得を生むと書かれている。ペティにはリカードのごとき収穫逓減は想定されていないように思える。
 第2章は、ある種の租税・公課は、一国の富を減少させるよりも増加させるという内容である。第1章の最後の政策の続きで、財政政策として一章を独立させたものか。ここでは、富を増加させるために、二つの観点から租税・公課の適否が論じられているように思われる。一つは、有閑階級から貨幣を引き上げ、生産活動に従事する人の資材を増加さているかどうかである。前者は食べたり、飲んだり、歌舞音曲にふける以外に能のない人である。形而上学その他無用の思弁にふける者も、ここに含まれる。後者は商品、公共物を生産する人々及び貿易・武力により金銀を獲得する人々である。今一つは、耐久的な物品の増加に資するかどうかである。腐敗しやすい食料よりは、家屋が、更には金・銀が富としては、より望ましい。24時間でなくなる食用肉・飲料への課税は、その過度な消費を抑制する上で好ましいのである。
 これまでの蘭・仏間の国力比較論である1・2章が序論だとすれば、続く3−5章はイングランド・フランス間の国力比較である本論部分である。まず、第3章では、海上権力(Power of sea)を論ずる。海上権力は兵員と船舶から構成される。フランスは、大西洋に自然の良港を持たないため、大船を建造しても役立てることができない。兵員についても、フランスはイングランドの艦隊の兵員数に及ばないし、補充も困難である。兵員リクルートの基盤である航海業においても、フランスは発展の見込みがなく、イングランドやオランダが世界交易を支配している。
 第4章は、全体の20%を占める分量である。(ただし、その前半は、その大地主とも思えぬ、アイルランド放棄論である。アイルランド島を沈没させて、住民を本土に移住させても、王国の富強に変わりはないとするものである。この夢物語は余談というべきであろう。)「[英・仏]両国の領域・人民・余剰所得および領土の防衛の難易について述べ、さらに船舶・航海業および港への接近性に言及しつつ両国の貿易について」(p.114)書く。
 領域面積については、本国領土で仏は英(イングランド:以下同じ)の2.7倍、植民地を含めると、やや英を上回るが、重大な差ではない。いずれも未開発の土地が多い。次に人口である。仏は1.350万人、英は1,000万人と推計する。しかし、1.仏は英と比べて僧職者が25万人多い。これらの人々は「この世から引退した者」であり、しかも平均人の2倍に匹敵するので、仏の実質人口は50万人減となる。2.船員は農夫の3倍稼得し、船舶関係の工匠も同様である。これらの人が英国には、仏の4倍以上おり、農夫16万人程度の人口増に匹敵する。3.英は内陸部から海岸線までの距離が短く、運賃が節約できる。これは、100万人の労働以上に相当する。4.英の平民の費消は仏より1/6多く、英国民は仏国民の1,200万人に相当する。よって、全体として、英国人口は仏の人口に匹敵するのである。さらに、貿易面では、英の輸出価値は仏の倍以上である。人口を勘案した一人当たりでは、「フランス人民の三倍だけの外国貿易を掌握し、さらに全商業世界の貿易の約九分の二、全船舶の約七分の二を掌握している」(p.118)のである。
 第5章では、現在の英が直面する諸障害について論ずる。障害とは、領土の分散による植民地経営の困難とそれによる貿易阻害、王権と議会特権の解釈の相違、課税方法の不公平等、政治的、社会経済的なものである。そして、「フランスにとっての障害が自然的にして永久的であるのにひきかえ、イングランドにとってのそれが偶然的にして除去可能であることを論証」(松川、1955、p.120)している
 第6章以降は、イングランドがこれまで国力を増進して来た事実と、今後も繁栄するであろう根拠を説く。過去40年間(内乱・戦争・火災・悪疫の流行を経験したにもかかわらず)、植民地と耕地は増え、人口は増加し、都市の家屋価値は2倍になり、船舶も大いに増加した。また、貨幣利子は低下し、公収入も増加した(以上第6章)。現在の全イングランド国民に、支出の1/10を課税することにより、軍事費用および政府の経常・臨時経費を賄うことができる。そして国民はその負担が可能である(第7章)。そして、現在一年あたり2百万ポンド稼得しうる人手が遊休しており、完全雇用すれば全国民で25百万ポンドの余剰を生産できる。その仕事口も、船舶輸送の自国化、輸入品の国産化等で充分生み出せるのである(第8章)。貨幣量は、季節的な需要量を考慮しても、国内産業運営に必要な量が存在する(第9章)。その上、全世界の商業貿易を運営するには十分な船舶・資材が必要であるが、これについては、信用を利用し銀行政策が妥当であれば、「イングランド国王の臣民にとっては、全商業世界の普遍的貿易を獲得してしまうということは、不可能でないどころかまことに実行し易い問題である、という結果になるのである」(p.148)。

 以上内容については、結論だけを書いたので、実際ペティがどのように推論したかを知ってもらうため、彼の議論内容を示してみる。本書で最初に、計算によって数値を求めた例を取り上げる。第1章のオランダ・ジーランドとフランスの比較の所である。まず、オランダ・ジーランドの面積を1百万(イングランド)エィカ、フランスの面積は80百万エィカと単純な数字をあげた後、両国の土地の価値の推計に入る。
 必要部分を箇条書きにすると、1.フランスの富は、同国発行の地図によると、15百万ポンドとしている。この数字はペティの想像では、土地の地代だけの数字である。2.ある著書によると、ネザーランドの土地は1エィカあたり10ポンドを生み出す。3.オランダおよびジーランドは、1年あたり10百万ポンド生み出す。4.フランスの土地はオランダおよびジーランドに対して、7または8対1の価値がある。(p.32)
1.〜3.の前提で、4.の結論が書かれているのである。その内、3.については、前にオランダの面積を1百万エィカとしていることから、2.の単位当たり生産額を乗じて求めたと直ぐに解る(ネザーランドの平均生産額を全地域の数値とする問題はあるが)。よって実質的には、1.と3.から4.の結論が導かれているのである。しかるに、1.は地代、3.は、土地の生産物価額である。両者からどのように、4.が求められたか詳細は書いてない。
 そこで、小生の想像で補う。まず、地代が全生産物価額に占める割合を2割だと仮定する。これは、結論から逆算した数字である。すると、3.から、オランダの土地の地代は、10百万×0.2=2百万ポンドとなる。これに対しフランスの地代は、1.の15百万ポンドである。よって、フランス対オランダの地代額は、15:2=7.5対1となる。すなわち「7または8対1」である。なお、地代比率が土地価値比率と同じであるためには、もう一つ地代から地価への還元倍率が両国で同じであるという仮定も必要である(ペティは、「購買年数」すなわち、地代の何年分で土地価格を求めている)。
 以上の私の想像は、当たらずとも遠からずだとすると、ペティは「算術平均以外の統計技術を知らなかった」(ブローグ、小林の本にも同様の言葉がある)とされ、あるいはヨーンのようにせいぜい中位数をあげる(p.195)評価がなされているが、私にはそれよりも、もう少し複雑な計算操作をしているような印象を受ける。そこでペティの論文に「二重比論」1674があるのが、気になる。二重比(duplicate proportion)は、複比、相乗比ともいわれ、比率と比率を掛け合わせるものである。ペティの算術操作は、比率と比率を掛け合わせて新たな数字を求めていることが多いように思えるからである。しかし、この論文を探し出して読むほど、根気も能力もないので、このへんでとどめる。

 ハルによると、この本は単独または他の著作と併せて、1691、1699、1711、1751、1755、1769、1778.、1883、1888年に刊行されているという(松川、1955)。これは、上記海賊版を除いて、ハルの時代までのものであろう。国内外の図書館の目録によると、少なくとも1719年版もある。
 以下、私蔵本の説明。第二版は、初版と同様1690年の官許が標題紙の前に置かれている。標題紙は、初版と発行年の所が相違するだけである。1751年版は、キセノホンの翻訳と合冊。1755年版は、著者の生涯や「人類の増殖について」、「ロンドンの拡大」、「ダブリン死亡表の観察と都市の状態」等の論文が含まれている。第四版とは、ロンドンの書肆としてのものか。表紙がなかったので、製本してもらった。それぞれ別の英国の古書店より購入。
 最近送られて来た丸善雄松堂のカタログ(2019年春)では、初版に何と750万円の値が付いている。

(注1) 年号はRoncagliaによる。松川の著書とはずれがある。
(注2) ハルによれば、生前発行の著作は21。うち6つは王立協会発行、7つが匿名、8つだけが彼の署名したものであるという(大内、1969より)。
(注3) 訳書標題は『アイァランドの政治的解剖』(岩波文庫)。訳者松川七郎は、アイァランド、イリザベス女王等独自の表記をする。
(注4) 各々前の「」部分は、『資本論』第1巻第8章第5節より、後の「」部分は『反デューリング論』第2篇第10章(主要部分はマルクスの執筆とされる)より。
(注5) ヒュームの本にも次の記述がある。「それは、商人が少ない文字で済むアラビヤ式記数法の代わりに、多くの文字を用いるローマ式記数法を用いなければならないとしても、帳簿に変化が生じないのと同様である。」(ヒューム、2011、p.42)
(注6) これは、直接的には、初期の論文「交易の解明」に関して述べられている。ホッブスは、「単純な運動」が事物の究極の原因とした。ペティがこの影響を受けたのは彼の「労働」の定義等に伺われるそうである(大倉、2005、「3 政治体の分析 −最初の試みー」による)。
ホッブスはニュートン以前の人物であるから、運動と云えばやはりガリレオの影響があるのではないか。ちなみに、ガリレオには「運動について」(1590)があり、『太陽黒点論』(1613)でも「運動する物体の本性」(慣性)について書いている。
(注7) 「ガリレオが、テアトロ・アナトミコ(解剖学教室:引用者)を頻繁に訪れ、ファブリチゥスの見事な執刀ぶりを見、近代科学の方法の一つである分析的研究を触発されたことは間違いないように思われる。」(豊田、1973、p.69)とされている。

(参考文献)
  1. ウェスターゴード 森谷喜一郎訳 『統計学史』 栗田書店、1943年
  2. エンゲルス 『反デューリング論』(マルクス=エンゲルス8巻選集 大月書店、1974年)
  3. 大内兵衛 「ペッティーの生涯と学説」(大内兵衛訳 『政治算術』 大原社会問題研究所編統計学古典選集 復刻版第2巻 栗田出版会、1969年)
  4. 大倉正雄 「W・ペティ」 (『経済思想3 黎明期の経済学』 日本経済評論社、2005年 所収)
  5. ガリレオ 山田慶児・谷泰訳「偽金鑑識官」(『世界の名著 ガリレオ』 中央公論社1973年 所収)
  6. コーリン・クラーク 金融経済研究会訳 『経済的進歩の諸条件』 日本評論社、1945年
  7. アルフレッド・W/クロスピー 小沢千重子訳 『数量化革命』 紀伊国屋書店、2003年
  8. ドゥニ・ゲージ 藤原正彦監修 『数の歴史』 創元社、1998年
  9. 小林通 『国際貿易理論小史』 時潮社、2008
  10. 田添京二 『欧州経済学史の群像』 白桃書房、1995年
  11. 豊田利幸 「ガリレオの生涯と科学的業績」 (『世界の名著 ガリレオ』 中央公論社1973年 所収)
  12. ヒューム 田中秀夫訳 『政治論集』 京都大学出版会、2010年
  13. ブローグ 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1989年
  14. ペティ 松川七郎訳 『アイァランドの政治的解剖』 岩波文庫、1951年
  15. ペティ 大内兵衛・松川七郎訳 『政治算術』 岩波文庫、1955年
  16. 松川七郎 「解題=『政治算術』について」(上記邦訳1955 所収)
  17. 松川七郎 『ウィリアム・ペティ[増補版]』 岩波書店、1967年
  18. マルクス 向坂逸郎訳 『資本論』 岩波書店、1967年
  19. V.ヨーン 足利末男訳 『統計学史』 有斐閣、1956年
  20. ロッシャー 杉本栄一訳 『英国経済学史論――十六・十七両世紀に於ける――』 同文館、1929年
  21. アレッサンドロ・ロンカリア 津波古充文訳 『ウィリアム・ペティの経済理論』 昭和堂、1988年
  22. Dick, O. L. ed. “Aubrey`s Brief Lives” , Secker and Warburg, 1949(なお、冨山房文庫の『名士小伝』には、ペティの伝は含まれていない)
  23. Roncaglia, Alessandro , “Petty, William” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998

    本書訳書からの引用に際しては、地の文との調和を考え、訳文のひらがな部分を適宜漢字に変えている。




第二版

同標題紙前の官許の布告


同標題紙(拡大可能)


1751年版


同 標題紙


1755年版


同 標題紙

(2012/10/17記、2019/6/24第二版入手により追記訂正)



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