MUN, T.
, England's Treasure by Forraign Trade. or, The Ballance of our Forraign Trade is the Rule of our Treasure. , London, Printed by J. G. for Thomas Clark, and are to be sold at his shop at the south entrance of Royal Exchange, 1664, ppiv+220+ads., 16mo

 マン『外国貿易によるイングランドの財宝、すなわちわが国の外国貿易の差額がわが国の財宝に関する法則である』、1664年刊初版。
 著者(1571-1642)は、ロンドンの絹織物貿易商の三男として生まれる。若年地中海貿易に従事し、長くイタリアに駐在。その後ロンドンに落ち着き巨富を積む、東インド会社の理事にも就いた。重商主義の書物の著者には、チャイルド、デッカー等東インド会社関係者が多いが、「凡そ当時に於ける論客の論議は、其の個人的地位に由りて動かさるる所多し。」(高橋、1993、p.85)である。
 そのかみ、大陸の貨幣価値切下げ等の原因による毛織物を中心とする輸出停滞が起り、国内産業の不況、貨幣不足が生じた。議会でも、これらの原因が取り沙汰されたが、貨幣不足の原因の一つとされたのが、東インド会社による貨幣輸出であった。マンが1621年に『東インド貿易論』を出版したのは、東インド貿易のための銀(実際は、リアル等の外国通貨)輸出を擁護するためであった。この『貿易論』上梓が一契機となり、マリーンとミッセルデンとの間に論争が起る。両者は、貨幣不足の原因から始まり外国為替の機能にまでに内容を拡大、相次いで著書を刊行(1622-3)することにより、応酬を重ねた。本書『財宝』は、この論争を踏まえて著されている。刊行は、息子のジョン・マンによって著者死後の1664年になされた。しかし、本書の主要部分は1622-5年に書かれたと見られている。前年(1663)の地金銀輸出を原則承認した条例施行が出版の契機となったのであろう。重商主義を代表する書物である。
 著者は貿易商人であることに誇りを持ち、商人の「子は富をのこされながら父の職業をさげすみ、(名だけにすぎないのに)ジェントルマンになって、その財産を暗愚と放縦のうちに費消することを名誉に思い、勤勉な貿易商人として親のあとを継いで、その資産を護り増大することを考えない」(マン、1965、p.16)ことを苦々しく思っている。商人が国を富ますことを明らかにすることも、本書執筆の一動機であったように思われる。本文は、子に与える教訓の文体で記されている。

 マンが『貿易論』で、東インド貿易擁護のために展開したのが、、「重金主義(ブリオニズム)」や「取引差額主義」に代えるに「貿易差額主義」である。『財宝』ではこの理論を更に体系的に展開した。(上記の事情で両書の執筆時期はほぼ同時期のため、以下『貿易論』からも併せて引用する。『貿易論』翻訳も、『財宝』の書名で一括して収録されているため、引用は通し頁数で表示する。ただし、『貿易論』からの引用は区別のため注記する)
 「わが国王陛下がこの東インド会社にあたえられた特許状においては、会社の社員は、イングランドから東インドに年々輸出する外国鋳貨がどれほどの金額であろうと、持ち出したと同じ額の銀貨を年々持ちこまねばならない(「取引差額主義」:引用者)、と特別の注意をもって規制されていることである。会社はつねに確実にそれを履行し、剰余をさえともなってわが王国の財宝の増大をもたらしてきたのである。」(『貿易論』:マン、1965、p.180)と記す。
 マンが考える財宝(注)の増大とは何か。まずは、東インド会社が買付のため持ち出した富(商品・貴金属)と持ち帰った増加した富=総元本general stockeとの差額を強調する。マンの例では、ヨーロッパで消費される香料・藍・ペルシャ生糸をシリアのアレッポでトルコ人から購買するのに比べて、東インドから直接購入する方が三分の一の金額で買える。といっても、その差額が商人の利得となるのではない。売価が下がるのを別としても、取引期間・危険の増大に応じて利子・保険料・運賃・代理人等に費用が発生する。しかし、これら「(現金のかわりに)わが王国の物資と臣民の労働employmentとが、いまいったインド商品のために支払われる代価=費用の非常に大きな部分をしめることは、われわれのよろこびとするところである」(『貿易論』:マン、1965、p.170-171)。あるいは、元本増大分は「関税と賦課金として国王陛下に、また給与として代理商や職員や水夫に支払われるし、同時に航海のための食糧や武器や保険料その他に支払われるのであるが、しかしこれらは[中略]わが国の元本=富の[国内での]移転にすぎないのであり、けっしてその費消ではない」(『貿易論』:マン、1965、p.184)ともいう。――ここから、利益の大きい、そして富の増加の大きい遠隔地貿易の奨励が当然導かれる。
 それでも、貿易によって富が増加すると認めたとしても、輸入商品が国内消費されるか再輸出されて第三国の商品と交換される(そして国内消費される意味であろう)場合は、現金が失われるのではないかとの疑問が出てくる。マンは答える。相手国によっては、自国製品を必要としない場合がある、その場合は貨幣を輸出せざるを得ない。しかし、輸入品を今まで以上に国内消費しなければ、輸入品は結局再輸出されることになり、直ちにではないがいずれ貨幣として還流する。「われわれが商品輸出の手筈をととのえ、なるべく節約して、海外へ売れるものは何なりと送り出すばあい、そのときに貨幣をそれに加えて輸出すべきだというのは、一層多くの貨幣を、直ちに獲得するためだというのではない。そうではなくて、最初は一層多くの外国商品の輸入を可能にし、もってわが国の貿易を拡張する。そうして、それを再輸出すれば、そのうちにわが国の財宝を少なくからず増加することになるのである」(マン、1965、p.33) 。輸出と輸入の差額である「その超過差額ないし余りは、すべて貨幣としてか、または再輸出せざるをえないような商品としてか、いずれかによって戻ってくるほかはない。この再輸出は、すでに明らかにしたように、わが国の財宝を増加するためには一層すぐれた方法なのである」(マン、1965、p.35)。
 イタリアでは、日常の商取引では債務証書を使って貨幣を節約し、貴重な金銀は商品として外国貿易に使用している。一見、東インド貿易で貴金属を輸出するのは財宝の流失のようであるが、実はそれ以上の財宝をもたらすのである。アダム・スミスが『国富論』で引いた有名な箇所を、ここでも引用する。「ひとびとは、この仕事の端緒だけしか吟味しようとしないので、その判断を誤り錯誤におちいるのである。すなわち、もしわれわれが、農夫の行動を、種まきどきに大地の中へ良穀をどんどんまき捨てるさまでしか見ないならば、われわれは、かれを農夫husbandmanとは見ずにむしろ狂人mad manだと思うであろう。しかし、かれの努力の結末である穫入れどきになってその労働を考えるならば、われわれは、かれの行動の値打ちと、その行動による豊かな増収を見出すのである。」(マン、1965、p.40)いわゆる、個別的貿易(取引)差額主義に対する総合的貿易差額主義の主張である。
 マンは貿易差額論に基づいて、貨幣論、為替論、財政論を展開し、整合的な国富の一般理論を試みた(小林、1977、p.116)と書かれた本もあるが、これらの論はそれほど詳細とも(私には)思えないので、ここでは興味をひかれた二論点についてのみ見ておく。
 まずは、富についての考察である。彼にあっては、富とは市民生活に必要なものを所有することであり、富には自然的なものと人為的なものがあるとする。前者は天然資源であり、後者は住民の勤労に依存する。海外貿易を論じて、「他の諸国民の財貨をもととして…富裕になることは、われわれみずからの資産をこつこつと増加する方法に比べ、名誉や思慮の点から見ておとるものではない」(マン,1965,p.26-27)とするマンは、「海外では貿易業を増大し指導するのみならず国内においては手工業を維持し増進せしめねばならぬ」(『貿易論』:マン、1965、p.228)という。貿易業と手工業がゆるがせにせられるときは、国家〜社会が頽廃し、貧困になるからである。加工産業の生産物が自然の物産より、利益が多い事は鉄鉱石と鉄製品、原毛と毛織物を比べて解るとおりである。富の増大の「真の原因をさがしだすことこそ、いまわれわれが追求するこの論考の主題なのである」(『貿易論』:マン、1965、p.220-221)とまで云い、商業と製造業、特に後者に関して勤労を奨励した。製造業と労働(勤労・努力とも)を強調したマンであるが、残念ながら今一歩踏み込んで、いかに生産力を増大するかについては、触れることがない。
 次に貨幣数量説。「誰もが認めるように、一国内に貨幣が多ければその国に産する商品を一層高価にする。それは、ある一部のひとびとにとってはその収入からみて利得になるが、国家にとってはその貿易量から見て利益にまさに反する。すなわち、貨幣が多ければ商品は一層高価になり、同様にまた、商品が高価になればその使用と消費が減少する」(マン、1965、p.36-37)。貨幣の増加が物価水準を高め(貨幣数量説)、輸出商品価格の高騰が、輸出を減少させることは認識しているのである。それゆえ、貿易によって貨幣を貯え、引き留めようとすることは、貿易を活発にすることはないとする。マンは、単なるブリオニスト(重金主義者)ではない。ただし、彼には後のヒュームが貨幣数量説と併せて、重商主義批判の道具とした、金本位制の貨幣量自動調整機能の認識はない。

 米国の書店から購入。古い本に良く見られるように小さな版形である。Conditionは、 very goodとされていたが、ご覧のごとく一部虫食いがある。17世紀の本としては、保存状態は良いとの意味であろう。本の後ろには広告が4ページあり、マリーンの本や会計の本、航海記が載せられている。
 さて、この『財宝』の一本が、2019年7月のクリスティのオークションにおいて£37,500で競り落とされた。そして、その数か月の後、同じ『財宝』(落札本そのものかも知れぬ)が、ロンドンの著名古書肆にて£95,000で売りに出された。なんと千数百万円の値がついているのである(但し、コンデションは私蔵本より良好)。本書はほとんど、公共施設に収まり、市場にはめったに出回らぬせいであろう。

(注)「重商主義者は貨幣をいっそう重視し、「財宝」(treasure)――重商主義者がよく使う言葉――と同一視した。「財宝」とは、支配者が高額の裁判費用に充てるため、また傭兵を雇う経費のために、必死にため込もうとする金の貯えを主に指す言葉だった」(ハイルブローナー、2003、p.49) マン自身は、財宝は戦争の腱であるとし、それは必要があれば、人の力・食糧ならびに武器を、調達し・統合し・動かすものだからであると(マン、1965、p.121)書いている。

(参考文献)
  1. 小林昇編 『T 経済学の黎明』(遊部久蔵・小林昇・杉原四郎・吉沢友吉編『講座 経済学史』) 同文館、1977年
  2. 高橋誠一郎 『重商主義経済学説研究』(高橋誠一郎経済学史著作集 第二巻) 創文社 1993年
  3. ハイルブローナー 中村達也・阿部司訳 『私は、経済学をどうよんできたか』 筑摩書房、2003年
  4. マン 渡辺源次郎訳 『外国貿易によるイングランドの財宝』 東京大学出版会、1965年
  5. 渡辺源次郎 『イギリス初期重商主義研究』 未来社、1959年




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 (H22.3.29記)
(2022/5/10 最後のオークション部分を追加、他にも分かりやすいように数か所表現を改めた)

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