GRASLIN, J. J. L.
, Essai analytique sur la richesse et sur L'impôt, où l'on réfute la nouvelle doctrine économique, qui a fourni à la Société Royale d'Agriculture de Limoges les principes d'un Programme qu'elle a publié sur l'effet des impôts indirects. , Londres, 1767, pp.(12)+xii+408, 8vo.

 グラスラン『富および租税にかんする分析試論』、1767年刊初版。
 著者略歴:グラスラン Graslin, Jean-Joseph-Louis (1727?−1790)。フランスのツールの生まれ。当地は絹織物業の盛んな地で、幼少期に商工業の発展を目の当たりにした。パリで法学を学び法曹資格を得る。サン・カンタンの王領地収税官(receveur des fermes du Roi)を経て、1758年ナントの王領地総収税官の地位を購う。ナントでは、捺染綿布(更紗)の工場創設、沼地の干拓事業等の実績をあげる。サン・カンタン時代から数学の他、政治経済学を研究し、1761年には経済学発展のためのツール王立農業協会の創立会員となる。商港ナントでは職務上廻船業者と交流があり、その一人でグルネ・サークルに属したモントドアンMoutaudouinとも交流があった。
 なお、グルネ・サークルとは、通商監督官ヴァンサン・ド・グルネが主宰したサークル。彼はコルベルティスムの旧体制を打破し自由競争を目指す一方、先進国イギリスに対する保護を求めた。チュルゴー、フォルボネ等の若きエコノミストを組織し経済書や翻訳書の出版も行った、

 本書は、元々1766年にチュルゴー(当時リモージュ地方総監であった)が主宰するリモージュ王立農業協会の懸賞論文に応募した論文である。募ったテーマは、「間接税が土地所有者の収入に及ぼす効果の論証と評価」である。当選者はサン・ペラヴィなる者であった。しかし、協会が「特別な栄誉」を認めたのがこの論文である。「反重農主義学説を発表したグラスランの方は受賞論文よりもはるかに注目に値する論文である」とチュルゴーはいう(チュルゴ、1962、p.126)。グラスランはこの論文を本書、正式には『富および租税にかんする分析試論、すなわち王立農業協会の、間接税の効果にかんする一綱領の諸原理となった新経済学説への反論』として1767年に出版した。
 協会が期待したのは、間接税が最終的に純生産物を生み出す土地所有者に転嫁される効果の論証である。さらに、重農主義者のチュルゴーとしては、課税は土地単税として土地所有者に課せられて当然との考えを抱いていたであろう。グラスラン論文の直接的な目的は土地単税や所得税を否定して、消費に対する累進課税を提案するにあった。そのために、「新経済学説」(重農学説)のかなめ石であり、土地単税の理論的根拠でもある「純生産物」を否定せねばならなかった。こうして、富とは何かとの分析および富を生む価値について、本書の前半が割かれることになった。
 まず本書第一編の富と価値論部分の内容説明に入る。最初に、グラスラン自身の云うところを聞いてみよう。「富とは、それがどのような性質のものであろうと、またどのような源泉に由来するものであろうと、つねに我々の欲求に充てられるすべての事物である。そして事物にその価値を、言い換えれば富の性質を与えるのは欲求のみである」(本書、p.24:以下本書からの引用は頁数のみを表示する)。「価値の属性は事物の性質とは関係がない。;原理は人間の内にのみあり、人間の欲求に従い増減し、消滅する」(p.51)。あるいは、「欲求は価値の唯一の原因であるので、欲求が消滅する所ではあらゆる価値も消滅する。」(p.124)と。
 著者にとって、土地・家屋のごとき有形のものや労働のごとき無形のもののみならず、税金と交換に国家が与える保護にいたるまで、欲求の対象である限り富であった。ただし、個人の栄誉のような交換の対象とならないものは、社会的な富ではない。社会的な富となるためには、「相対価値」(ここでは、とりあえず価格と同じとする)あるいは彼の云う「売上価値」を持たねばならないのである。しかしながら、相対価値は、欲求が唯一の原因であるとした上述の価値とは、直接には結びつかない。グラスランは、欲求から「絶対価値」あるいは「直接価値」を説き、それらから「相対価値」ないし「売上価値」を演繹するという手続きを踏むのである。
 グラスランが、「欲求のみが、価値を与える」という場合の価値は、「絶対価値」(全体的絶対価値と部分的絶対価値に区分できる)である。欲求は価値の原因ではあるが、欲求はまた一つではなく多様でもある。個人は主観的評価により、小麦のような生存に必要なものに対する第一次的欲求から、嗜好品の葡萄酒に対するような高次の欲求を経て、最高次の欲求に至る種々の欲求を持つ。これら諸欲求の対象となるものは、欲求の程度(欲求の度合とも)に応じて富となる。各財(富)は個人の「要求の序列」に従って絶対的価値を持つことになる。
 グラスランにとって、個人にとっても個人を併せた社会全体でも、欲求の総和は一定である(注1)。グラスランの掲げた例示の表(表1)を見てみよう。四種の欲求しかない場合、各種類的要求のうち、第1次的欲求(例えば食欲を満たす小麦)は400単位、第2次的要求(同;毛織物)は、300単位、第3次的要求(同:葡萄酒)は200、第4次的要求は100単位の絶対価値をもつ。そして、種類的欲求の総和は1000で一定である。

価値
単位
富全体
第1次的欲求(富) 400 1000
価値単位
第2次的欲求(富) 300
第3次的欲求(富) 200
第4次的欲求(富) 100
表1 (p.37より)

 ここで、新たな下位の財が欲求の対象となっても、富や価値の総和が増加することはない。欲求は一定であり、従って価値や富も一定とされているからである(注2)。よって、新たな欲求が追加されると、新規の増加分だけ従前の欲求が低下する。これも著者の例示(表2)を掲げる。新たな欲求が第5次から第10次まで生まれ、それぞれ60,45,40,30,15,10と計200単位増えた。価値の総和は不変で1000のままであるから、従前の第1次から第4次までの欲求が併せて200単位減少し、計800単位となる。新規欲求が併せて全体の1/5を占めるので、従前の各欲求の対象物はそれぞれの価値を1/5づつ減少する。「六つの欲求対象が増え、それらの価値が全体の1/5とすれば、最初の4項目の価値合計は併せて全体の1/5を失うだろう、…そしてこれら四つの対象物は、相対価値(注3)を同率で減少させるであろう。それゆえ、すべての新旧欲求対象物の価値分配は、ざっと下記のようになろう。」(p.37-38)。従来の欲求対象物は同率で価値を減少したので、これらの財(富)相互の「相対価値」(種類的欲求の絶対価値比率)は変わらない。「こうして、以前に一樽(muid)の小麦が二樽のワインの価値に等しいなら、これら二つの食料の量が変化しないと仮定すれば、依然としてそれは二樽のワインの価値があろう」(p.39;下線は引用者)。

欲求減少分 (価値
単位)
(小計) 富全体
第1次 80 320 800 1000
価値単位
第2次 60 240
第3次 40 160
第4次 20 80
(小計) 200
第5次 60 200
第6次 45
第7次 40
第8次 30
第9次 15
第10次 10
表2 (p.38 より)

 上記の表は、各個人の欲求を表したものとも思えるし、個人個人の主観的評価の総和として社会的な価値に転化した(注4)表とも思えるが、私にはよく解らない。このあたりの説明はごたついているように思えるが、ともあれ著者によれば、上記の種類的欲求の絶対価値は、ただちにこの種類の富の個々の価値とは結びつかない。個々の富の価値を求めるためには、部分的絶対価値あるいは部分価値という媒介が必要である。ここに至って、価値の原因として欲求の他に、「希少性」が加わる。「個々の物の価値は、この種の物の量が多くなるにつれて減少する。それは、次の原理から派生する;同じ物の個々部分はすべて、どのような量であれ、つねに同一の欲求物であり、全体として同じ価値を持っている。欲求が同一割合である限り、この対象物の価値、すなわち、全体との関係においてみた物の価値は、個々の部分の大きさに関わらず、不変である。しかしながら、事物の部分が増加することによって、その部分価値は絶対的に減少する。なぜなら、全体の60分の1価値は同じ全体の30分の1の価値と同じ大きさではありえないからである。こうして、何か所与のもので測ると、例えば1樽の小麦の価値は、その生産量が二倍になる時、前に全体のなかで持っていた価値の半分になるだろう」(p.27)。
 欲求の程度による主観的な対象物の序列である種類価値に、希少性という客観的契機が加わり部分価値となる。「富は欲求と希少性の程度の結合に比例して定まる」(p.26)。ある富(財)の種類的欲求としての全体価値を部分量で割ったものが部分価値なのである。最終的に財の相対価値(部分的絶対価値の比)を規定するのはこの部分価値である。あるいは後世の用語でいえば、総効用を供給量で除したものが部分価値であると解釈しても、当たらずといえど遠からずか。効用といえば、グラスランの理論は効用理論発展史上無視できぬものであるが、あくまで価値決定原理は平均原理であり、限界原理ではないのである。というのは、上記のごとく、(単位当たりの)相対価値は、種類的(全体)価値を部分量で除したものとしているからである。
 こうして、空気,日光、水等は、種類的価値が大きくても、数量が無限にあるため部分的価値は無限に小さい。大きな種類的絶対価値と相対価値との間にある「価値のパラドックス」を彼なりの理論で解いたのである。
 なお、付け加えておけば、第一編第四章に、後の補完財・競合財についての説明及び、メンガー、ウィーザーの帰属理論につながる高次財価値論(ここで述べたグラスランのいう消費財の次数とは意味が異なる、念のため)のプロト・タイプと思われる記述がある。
 著者は、生産要素の価値は、それぞれの要素市場における需給関係によって決定されるとしながらも、生産要素価値はその生産への貢献に応じて、最終生産物の価値に規定されているとも書いている。例示では、屋根に使用されるスレートへの欲求は、採石場、砕石と運搬の勤労、屋根職人の勤労等の部分的欲求が含まれる。これら補完的な諸生産要素(と原料)の価値は、相互に影響することはない。これに反して、屋根葺用のスレートと石のような競合財、代替可能な生産要素の価値は相互に影響する(p.80)。
 ある財の生産に使われた生産要素の部分価値は二重に規定される。ひとつは最終生産物の価値によって、いま一つは、その生産要素の欲求と希少性(重要と供給)によって。そしてこれらの差異から利潤が生まれる。単純に生産要素の費用を合計したものが最終生産物の価値ではない。最終生産物の価値が高まれば、生産要素の価値が一定の場合、利潤が発生するのである。
 第一部の後半、第八章以下において、「新経済学(重農主義のこと:記者)に対する評注」等の標題の下に分配論が展開されている。「かれの重農主義批判としての経済思想の特徴は、価値の唯一の原因としての欲求理論とともに、欲求対象に対する権利の根拠としての労働を併置したことにあり、さらにこれを平等主義的な理念で支えたことに」(津田、1962、p.81)ある。
 社会は不平等な対立する二階級からなる。所有者(possesseur)と消費者(consommateur)である。両者は、そもそも富概念からして異なる。前者の富概念は、既にみたとおり、希少性によるものであり、対象物の最大価値を富として求める。後者の富の概念は対象量との比較でより少ない欲求程度を富とする(注5)。欲求に対し、存在が少ないものが後者にとっての富とされているようである。
 本来、「富は、すべての人間が欲求の対象に対して持ちうる権利において存在する。」(p.184)のであり、「(欲求の)対象物に対する権利は、人間各自の自身および能力の内にある。;実際、大地は生産のための人間労働を待っている。:加えて、生産は私的欲求を必要とする。あらゆることが、人間の労働と勤勉が自然権であることを示している。そして、彼が第一に欲求の対象物の大部分を所有することになる」(p.184-185)。
 すべての人間は、欲求の対象物を自身の労働で得るという掟に従っていた。しかし、各人はより少ない労働で、より多くを得ようとする。すべての人間が、一つの目的のために仕事に従事すれば、より高い能力を発揮でき、互いの便宜となることを知るようになる。こうして、全体的あるいは部分的に、欲求対象物の生産労働を協働することになった。「すべての人が労働し、個人的厚生の果実がより大きいという理由でのみ、この秩序は自然法的にして始原的法則から直接に生じた。しかし、それは労働を分けて、所有者のものと消費者のものとの、富の二つの区分を生んだ」(p.186)。
 そうして、所有権の発生は不平等を拡大した。自分の労働の貢献以上に欲求の対象物を入手する権利を主張することが出来たからである。さらには、何ら労働せず生産物の要求する者も現れる。土地所有者である。これら特権者は、労働量の増大に何ら貢献することがないにもかかわらず、欲求は一定のままであるから、他の人が生産した欲求の対象物を奪う。特権者が増大すれば、奢侈品等高次的欲求の富に対する生産を拡大し、低次の基礎財の生産に携わる労働量を減少させるので、第一次的富等の基礎財は不足する。結局実際に労働する者が、特権者を負担するのである。
 グラスランは、重農主義者が前提とする土地所有の不平等を否定する。平等を回復するために、自から土地を耕作する者以外には、土地所有者の存在しない社会を求める。本書と同年にペテルスブルグ経済・農業協会に応募した論文(注6)でも、土地耕作者兼所有者からなる社会構想を展開している。
 第二部が税についてである。以下の記述は、参考文献の制約から、特に米田の著作に拠りかかるところが多い。
 著者の考えでは、税を公共的な特別なものととらえず、それの支払いと交換に国家の保護等を入手する取引の対価であるとする。公共的用役も、消費者の欲求を満たす富である。税の支払(=公共的用役の入手)は、生存資料(と若干の余裕を含む)以上の余剰を持つ者であれば支払い可能であるし、また支払う義務がある。このような余剰即ち「自由処分可能な富」は、重農主義者がいうように(最終的にではあるが)地主のみが持ちうるのではなく、土地耕作者や製造業者も持ちうるのである。
 そして、種々の税の検討に入る。重農主義者は、結局地主のみが自由処分可能な富を持ちうることを理由にして、土地単一税を主張する。しかし、グラスランの考えは異なる。土地への課税は小麦の需給関係によっては、直ちに消費者に転嫁できるわけではない。費用の圧迫を受けて、生産性の低い劣等地の耕作は放棄されることもある。そこでは、小麦の生産は減少し、価格が上昇することにより、耕作者は税金支払いが可能となろう。けれども、小麦価格高騰は第一に、消費者を困窮させる。のみならず、第二に、労働者を劣等地耕作から追い出し、残存耕作地に向かわせる。労働供給の増加により労働価値は下落する。「こうして、一方で農業労働者(cultivateur-manouvrier)の生活必需品である小麦や羊毛の価格が品薄により上昇し、他方で労働の価値が人余りにより低下する」(p.264)。土地単一税のみならず、物品税は同様の結果を招くから、彼にとって認められないものであった。
 次に所得税を検討する。所得にかかわらず、固定税率を課す所得税は公平を欠く。貧者(グラスランの言葉では市民)にとって、(例えば)1/4の税金は富者の1/4とは負担感が異なる。貧者の税金は低次の欲求、生活基礎財に充当されるべきものであったに対し、富者のそれは高次の奢侈品に充当されたであろうお金である。貧者の10倍の所得のある富者が、固定税率により、たとえ貧者の10倍の税金を納めたとしても、税金の重み、その絶対価値は両者で等しくはないのである。
 貧者と富者の「両者は、保護と交換にさまざまな欲求の対象物を与える。自身の欲求に従い、保護の価値とこれらの物の相対価値を比較したからである。」しかしながら「その交換は与えられた事物の直接的、絶対的価値で考えるべきである。すなわち、彼の欲求について受け取ったものにのみ関連して与えるべきである。…彼と他人との欲求からなる相対価値を考慮すべきではない」(本書、p.287)。
 したがって、国家の保護の対価として支払われる税金は、普通の財や用役の交換とは異なる基準に拠るべきであるとグラスランは考える。すなわち、税の価値基準は相対価値ではなく個人的な絶対価値に従うべきである。富者はその社会的地位や財産に応じて一般市民より大きな国家の保護を必要とするから、当然その対価である税も大きくなければならない。これが公平性からみて欲求理論にも適うし、交換原理にも則っている。
 具体的には、所得最上層の税率が1/4であれば、以下所得に応じて1/5,1/8,1/20のように逓減税率を適用し、最低生活者には課税しない(p.284)。累進所得課税である。 しかしながら、累進所得課税を採用するには、現実的な困難がある。その理由は1.富者に過酷で導入の支持が得られぬこと 2.所得を増やしても、税率が上昇するなら、競争心や勤労意欲を阻害すること 3.納税額決定が実際上困難あること、等である。
 そこで、累進所得課税の困難点を回避しながら、なおかつ課税の累進性を保持する方策として、グラスランは累進的な消費税を提案した。第一次的財のような生活基礎財には課税されず、高次的な財になるほど税率が上昇する累進的消費税である。なるほど、消費税は物価を上昇させ消費量を減少させる恐れがあるが、消費減少分は税収を通じた財政支出により相殺される。むしろ、高次的な財ほど価格が上昇するので、奢侈品から生活基礎財への生産シフトが期待できる。また、累進的消費税は享楽の対象と一体化しているため、購入者に負担感がなく、納税者の負担力に応じて支払われる。徴税上の困難は少ないし、不正も起りにくい。こうして、グラスランは、主観的価値理論を貫きながらも平等主義理念を忘れない。現実的に公平性を実現するべく、累進消費課税に富の不平等是正の手段を求めたのである。

 取り上げられることは少ないが、グラスランの欲求と希少性にもとづく主観価値論・効用価値論は無視できないもののようである。著者の文体の持つ不明瞭さのゆえに、彼の貢献が経済学に影響力を持つことができなかったという論者もいる。ジードをはじめとして、通説はフランス主観主義価値論の系統をガリアニ→チュルゴー→コンディヤックと続く流れと捉えている。これに対し、山川(1968)はガリアニ→チュルゴーの間に、グラスランを加えるべきであるという。チュルゴー自身は、上記懸賞論文についての評論(「グラスランの覚書きについて」)で、グラスランの価値論部分はほとんど無視し、彼の重農主義「純生産物」批判に対する反批判に終始している。にもかかわらず、彼の価値論に大きな影響を受けたとする。グラスラン『分析』出現を境にして、チュルゴーの著作を前・後期に分けるとする。前期の著作『富の形成と分配にかんする諸考察』(1776)等では、「根本価値」と「売上価値」にもとづき、価値論は費用理論の立場に立っている。これに対し、後期著作『価値と貨幣』(草稿)(1769頃)では、「尊重価値」と「評価あるいは売上価値」にもとづいて有用性と希少性による主観価値論を展開しているからであるという。

 フランスの古書店から購入。それなりの高い書価の付いている本であるが、私蔵本は革装の背の部分がテキスト部分と離れている欠陥のせいか、安く購入できた。

(注1)山川によれば、この欲求の総和が一定であると意味は二様に解釈できる(1968、p.229)。第一義は、第1次的欲求、第2次的欲求等、各種類的欲求毎の総和が一定ということである。表1では、第1次的欲求400等の表示が第一義の欲求総和一定にあたる。第ニ義は、各種別要求を併せた欲求の総和が一定の意味である。表1では、富(欲求)全体が1000単位の価値で不変であることが第二義の欲求総和一定を表している(説明の便宜のため、山川とは第一と第二義の順番が異なる)。
(注2) ここでの議論からわかるように、欲求の種類が増えても欲求の総和、従って富全体も一定である。よって、著者の考えでは、一次的欲求しか存在しない原始的社会も、多様で高次な欲求が存在する文明社会も、富の総和は一定であることから、どちらの社会も豊かさは同じだとなる。
(注3) ここでの相対価値は、富全体に対する種類的絶対価値の比率の意味で用いられているようである。部分的絶対価値の比較による相対価値(価格に該当)の意味とは異なる。
(注4) 絶対価値が社会的価値に転化した段階では、もはや絶対価値ではないが、相対価値でもないとして、著者は「直接価値」と称する(米田、2005、p.295)。
(注5) 消費者にとっての富を次のように説明している。「これまでの分析に使ったのとは全く逆のものである。それは、いわば、最少量の欲求、対象量との比較でより少ない欲求程度を富とする。ここにこの富の顕著な特徴がある。事実、相対的により少ない欲求程度は(対象の多いこととおなじであるが)、消費者にその対象について最大の権利を与える。必要の程度が少ないほど、対象の入手はより容易になる」(p.182)。
(注6) 募集論文の課題は、「農民が自分で土地を所有すること、あるいは動産だけを所有することは公益にとって有益であるか、またその所有権はどの程度まで拡大されるべきであるか」であった。

(参考文献)
  1. 岡田純一 『フランス経済学史研究』 御茶の水書房 1982年
  2. チュルゴ 津田内匠訳 『チュルゴ経済学著作集』岩波書店、1962年
  3. 津田内匠 「J.-J.-Louis Graslin についての覚書き」 『経済研究』第13巻第1号 1962年
  4. 山川義雄 『近世フランス経済学の形成』 世界書院、1968年
  5. 米田昇平 「グラスランの経済思想 ―効用価値説と累進課税の原理―」下関市立大学論集 41(3), 165-191, 1998-01
  6. 米田昇平 『欲求と秩序 18世紀フランス経済学の展開』 昭和堂、2005年
  グラスランに関する参考文献は少ない。事実上は3.〜6.だけである。5.は、手を加えて6.に収められたようである。特に税の部分は、ほとんど同じ内容である。





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(H24.3.2記.)



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