GALIANI, F.,
Dialogue sur le commerce des bleds., Londres, 1770, pp.314+Erata, 8vo.

 ガリアーニ『小麦取引にかんする対話』1770年刊、初版。
 1759年(31歳)ナポリ王国の公使館書記として、フランス宮廷に送り込まれたガリアーニは、パリ社交界の人気者であった。「プラトンの頭を持った道化」と呼ばれた、140センチそこそこの矮躯の神父は、ヴァルテール、テュルゴー、ルソーとも交流した。『貨幣論』(1750)の著者としても知られていたのであろう。ドルバック男爵のサロンに出入りして、ディトロとも知己となる。68年11月に穀物の自由取引反対に関する草稿の一部をディトロに披露した。ディトロはこれを出版すべきだと説得する。おりしも、69年5月ガリアーニは、本国政府から召還命令を受けた。恋愛沙汰が絡んだ機密漏洩の疑いをかけられたのである。「神父」(アベ)と呼ばれても、正式な叙任を受けていた訳ではない。当時のパリ社交会には、この手の僧院出身の伊達男が多数徘徊していたそうである。ガリアーニは、何よりも恋愛を愛好した(池内、1995)。ひと月ほど滞在期間を延長して、草稿の後半を書き継ぎ、これをデビネ夫人とディトロに託して帰国する。
 ディトロは、草稿を訂正し、校正を行い、1770年『小麦取引に関する対話』として、出版した。これに対し、モルレMorellet(これも神父)という文士が、『対話』に対する批判書『小麦取引に関する対話と題する著作に対する反駁』(1770)を発表した。フィジオクラット擁護の書であるが、取引自由の原則を原理的に主張するだけで、実証を欠いた、いわば「ケネーの思想と理論をカリカチュア化するものであった」(平田、1898、p.388)。ディトロは、モルレに対する反批判の書『ガリアーニ讃』(『アベ・ガリアーニ弁護論』とも)を出版しようと、4種類の草稿を残しているが、公刊されることなく筐底に秘められた。

 ここで、当時の穀物をめぐる時代状況をおさらいする。既に、本サイト「ネッケル『立法および穀物取引論』」に書いた所である。16世紀以来穀物取引は輸出と国内流通が厳格に管理されており、1760年台半ばまでは穀物価格は、概ね安定していた。しかし、ケネーら重農主義者には、これは価格の低迷と考えられた。彼らには、穀価の低迷は、国富の源泉たる農業利益実現を困難にし、経済の再生産構造を危うくするものである。低穀価の原因を取引規制にあると見て、規制を全廃し自由競争による市場原理の導入が必要だと考えた。穀物は何等特殊な商品ではなく、「望ましい価格」(bon prix)の実現を求めた。一方民衆は、穀物の価格および供給の安定を公権力(象徴として国王)に過度に期待し、「公正価格」(juste prix)を求めた(大革命での都市住民の要求が穀物の価格統制であったことを想起されたい)。
 取引の自由化は資本主義経済成立にとって不可避の流れである。1750年代末から重農主義官僚の力が強まった。自由化路線に沿って、1763年に財務総監ベルタンの統制令が国内穀物取引を自由化し、1764年7月の王令で穀物輸出入の自由化が実現する。重農主義者の思惑とおりというべきか、結果はすぐに表れた。しかし、それは思惑以上に進展した。自由化は投機を煽り、穀物価格は不作年の1766年頃から徐々に上昇を始め、1768年には異常な高騰となる。政治的には、国王が民衆の食料(必需品)を保証するという暗黙の了解が崩れた。大きな騒擾が頻発し、人心は重農主義的な考えから離反する。当局は価格高騰の原因を投機や買占めにあるとみて規制を強化した。穀物取引の自由論者は買い占め人と同義とされたという(竹村、1965、p.108)。結局自由化二法も財務総監テレーにより廃止されてしまう(1768-1770)。
 このような状況下で、最初は独占と市場支配力に反対する自由化原理を支持していたガリアーニであったが、重農主義者の現実感覚の欠如を批判して本書を著した。
 ついでに、寄り道を重ねて、上に書いたガリアーニ、ディトロ以降の穀物取引に関する論争を一瞥する。
 テュルゴーは、リムーザン財務管区地方長官時代に同地での飢饉の経験から穀物自由化論者となり、「穀物取引に関する財務総監(テレー)宛書簡」(1770)を著していた。1774年財務総監に抜擢されたテュルゴーは、総監就任直後、自由化二法を復活させる(不幸なことに、直後に1775年小麦不作によって「小麦(粉)暴動」が起り、総監を辞任、自由化路線は後退する)。ネッケルは、『立法および穀物取引論』(1775)によってテュルゴーの穀物政策を批判した。これに対し、ネッケルへの批判が、ボードー、コンドルセ、モルレから相次いだ。特にテュルゴーの腹心コンドルセの著『小麦取引についての考察』(1775)は、よく知られている。

 本書は、1768年11月16日から12月14日に行われたと想定されている八つの対話からなる。
 登場人物は、ロックモール(Roquemaure)侯爵とザノビ(Zanobi)勲爵士(Chevalier)である。前者は、クロマワール侯爵(Marc-Antoine-Nicolas de Croismare)のことをモデルにしたとされている。クロマワール侯爵は、ディトロの小説『修道女』(1760)の登場人物である実在のフランスのディレッタントである。後者はガリアーニの立場を代弁している。最初は、穀物取引の自由を擁護していた前者が、後者に説得されるというスタイルになっている。
 第5対話と第8対話には、"Président de *** P. du P. de B."が参加している。「行政の実際にたずさわって日の浅い、向学心に富む若い官吏」(竹村、1956、p.108)と書かれている。高等法院の判事に想定されているように読める資料もあるが、私の語学力の不足でよくわからない。
 標題紙の裏には、この対話の性格が記されている。

 これらの対談が仮想のものではないことは、いうまでもない。自然で簡明を好む人間には、親しい雰囲気、自由な冗談、真実の人格、そして一種のこだわりのなさにより、より読み易くなっているだろう。

 それでは、本書の内容を参考書の助けを借りて、以下に紹介する。例によって、私訳の部分はおぼつかないもので、自信はない。
 イタリア帰りの侯爵はその国を襲った飢饉の話をする。勲爵士は、その原因を究明する討議を始める。彼は、それをまずい政治的選択に帰する。イタリアは時代に適合した政策を採用していない、小麦の備蓄を未だローマ帝国時代のように営んでいる。彼の考えでは、幸いに、フランスは、逆のコースを取り、穀物の自由移動を認めた。
 しかしながら、勲爵士は、重農主義者に懐疑的で、土地が富の唯一の源泉であると認めない。「第1対話」(p.23:以下本書からの引用はページのみを表示)で次のようにいう。

(勲爵士)
 農業はすべての国家の基礎である?…
 彼らはこれらの関係を正確に説明しているのですか?

 そして、重農主義者を信じる侯爵に、彼らは誤った原理から出発しているといい、農業、土壌、土地所有、純生産物、生産階級の概念は虚偽だとする(p.23-24)。

(勲爵士)
 ジェノヴァは領土を持たない。他にも領土を持たない多くの主権国家がある。だから、農業はこれらの国の富ではない。 

 と断言する。そして、侯爵が、彼らはフランスで書きパリで出版し、自国のことを語り他国の事は語りたがらないと述べるのに対しては(p.25)、

(勲爵士)
 それゆえ、彼らがジュネーヴ、フランクフルト、ルッカその他の主権国家のことや, オランダやジェノアのような普通の国のことを話したのではないことにあなたは同意されるでしょう。それらの中には、領土が少なく、劣悪なので、農業は確実に巨富の原理ではない国が存在する、そして最後に、彼らはロシア、トルコ、スペインのような大君主国のことはもっと聴取していない。 

 そして、政治的思考は現実の観察を抜きに考えられないと主張する。「すなわち、彼こそは人間の可変性、あらゆる政策の時間と場所とによる相対性を、常に主張していた唯一の十八世紀経済学者であったし、また彼は普遍的妥当性を要請する実践的原理<の可能性>という・人を麻痺させる信仰―これこそ当時のヨーロッパの知識人の生活に喰い入ったものであった―から完全に開放されていた唯一の人であった。またある一定の時にフランスで合理的であった政策も、同じ時にナポリにおいては不合理であるかもしれぬことを見抜いた人であった。[中略]そして彼は、フィジオクラットをも含めて、あらゆるタイプの政治的空理空論化を徹底的に蔑視した人であった。」(シュンペーター、1956、p.611-613)。時間・空間的な経済政策の限界については、同じ「第1対話」で次のように述べている。

 (侯爵)
 あなたは大コルベールのシステムを保持する方がよいと考えますか?コルベールという人は…
 (勲爵士)
 私は、この偉大な大臣(コルベール:引用者)の功績を正当だと評価します。しかし、人はそれが彼のものだというだけで、そのプランに追随することを選択するなら、イングランドの模倣をしたり、ローマで行われたのと正反対のことをするのと同じように愚劣なことを暴露するでしょう。
 (侯爵)
 それはなぜですか?
 (勲爵士)
 なぜなら今日のフランスは、イングランドやイタリア以上にコルベールやシュリーの時代に似ていないからです。

 「フィジオクラットの多数の反対者論者はその方法を現実に無縁であり且つあまりに「絶対的」であるとして排撃した、とりわけガリアニのごときはその『対話』において普遍的法則は経済的政策に対しては許すべからざるものなることを指摘している」(シュムペーター、1980p.81)。ガリアーニが、抽象的思考による、現実を考えない普遍的法則の機械的適用がいかに無力かと考えたかは、具体的に、これも「第1対話」(p.14-16)に書かれているので、次に引用する。主として、理論に与える現実の空間的な制限である。

(勲爵士)
 よろこんで説明します。広大な君主国においては、すべての地方が同じように小麦が豊穣ではありません。そのうち、特に一二の地方が供給します、異なる商品、ワインやオリーブ、桑、牧草、木材その他のような生産物を供給する地方もあります。もし穀物地方が君主国の真ん中に位置するのであれば、輸出は奨励されねばなりません。もしそれが沿岸地方であれば、それは保護するか非常に制限されねばなりません。
(伯爵)
 それはなぜですか?
(勲爵士)
 それはこんなことです。あなたは、理由とともに、この理論の応用を知りたがっています。スペインでは、小麦の地方は、他のすべての地方の倉庫、貯蔵庫である旧カステーリャ地方です。その地方は、ほぼ円形の王国のほとんど真ん中に位置を占めています。カステーリャの穀物を王国の港から輸出許可するのに何の危険もありません。何故なら、カステーリャからどの方向に向かって海へ進んでも、その港に着くまでに、あたかも車輪の外周に届く多くの輻のごとく、小麦はスペインの諸地方を横断しなければなりません。そして、これらの地方のいずれかに不足があれば、小麦は停止し、必要な調査をし、高値を見つけて、そこを去らないでしょう。留めず素通りさせるほど馬鹿な人はいない、小麦がかなりの価格となった地方はすべて、売るのを断り、不確実な将来の財産として取り置きます。外国との海上貿易による輸送費が2倍になる危険性はありません(海上と陸上の運賃に大差がなく、運賃により輸出が抑制されないとの意味か?:引用者)。こうして、スペインにおいては自由に輸出しても、全般的に豊富すなわち供給がすでに充分となるまで、カステーリャの小麦は海上に去らないことが確信できます。私がここで、カステーリャの小麦のことのみを話しているのではないことをお気づきでしょう。しかしながら、もし不幸にして、フランスで小麦の地方が、フランダース、ピカルディやノルマンディその他のように沿海地方に立地するなら、自由化は大きな危険性があります。なぜなら、もし、かたやオーストリア領フランダースやイングランド、こちらではドーフィネ、プロヴァンス、ラングドックその他の地方で同じ年に不足が見られた場合、わが小麦はきっちり国家の敵となる外国人を養うことになり、王の臣民は餓死するでしょう。

さらには、「第対話」(p.236-237)において、もう少し理論的・抽象的に、普遍的法則の非現実的な適用を批判をしている。それに続いて、理論に与える現実の時間的な制約も、例示されている。原文は段落なしに続いているが、段落を加えた。

(勲爵士)
 何も真実ではありません。何も間違っていません。形而上学者の頭の中では、自由に任せた自然は均衡する傾向があることは明快な真実です(何故なら、思考するとき、人間は全自然と同じくらいに偉大にして広大になれるからです)。原因と結果が分かるので、それは真実です。しかし、反応の持続期間を勘定にいれず、埋め合わせて不均等なものを均衡させ、頭の中でしか存在しない平均時間を取っています。しかしながらあなたのいうことは、実践家の手に懸かると、大いに誤っております、なぜなら人間は、行動する際、5フィートの動物と同様、小さく弱いものであり、体躯の矮小と人生の短さ、欲望のはかなさ、最小の不平等さえ差があることを感じているからです、そしてなにものも報えず、困窮したり死んだりすることだけしかできないからです。私は、これらの原理を穀物の理論に適用したい。穀物価格が自由に委ねられるなら、それは均衡することほど真実なことはない。自由取引が、貨幣と消費者がある所であればどこにでも、小麦を流すことほど真実なことはない。理論の上では、これほど確かなことはない、何故ならすべての人が穀物を求めており、そのことは明らかであるからです。
 しかしながら、実際上には、小麦不足を、それが起こった都市からそれがある地方へ、ニュースが郵送される物理的時間を要することが留意されねばならない。それとは別に穀物が到着する時間を要する。もし、これらの時間の間隔が15日で、糧食が1週間分だとすると、その都市は8日間パンなしで過ごさねばならない。起こるべかざることであるが、虫けら同様の人間がわずか8日で若死にします。

 但し、ガリアーニが、抽象的法則を全く否定するものでないことは、次の引用(p.237、上の引用に続いて記されている)でわかる。人間界の些末事は、大法則の適用外なのである。

(承前)このように、理論では順調であるが、問題はうまく運ばない。それゆえ、我々の些末事を「自然」に面倒を見させるのを辞めようではありませんか?彼女(自然:引用者)は、このことには、立派な淑女に過ぎる。彼女をして、大運動、帝国の大革命、長い年代を司らせよ、彼女は星々や諸元素の運動を支配しているのだから。政治は、異常な原因が起こす不正な出来事を、防止したり、やり過ごす科学に過ぎず、それ以上のものではありません。なぜなら、大革命は完全に「自然」仕事だからです。人間は無力である。創造者には遠く及ばず、器機、道具の制作者にすぎません。

現実の世界では、あらゆる事象が複雑に絡まって、互いに原因となり結果となっている。単純な因果関係はありえない。「第5対話」(p.114-115)にいう。

(勲爵士)
 原因と結果を混同しないように注意しなければなりません。それはすべての人が犯す誤りであり、避けねばなりません、同時に存在するあらゆる事物は必然的な関連で結ばれていること、そして一つの事は他の事の、原因であると同時に結果でもあることを認めなければなりません。

 「第8対話」(p.279)では、すべての事象が複雑に関連しているゆえに、穀物価格を例に、一部分の異常な変動が全体を破壊する危険性を指摘している。

(勲爵士)
 この膨大な政治国家機構においては、あらゆるものが関連し、結合し、連鎖している。全機構が転倒するのを見たくなければ、何物も均衡から取り除くべきではない。もし、農家がその重みで押しつぶされるまでに不均衡となるなら、我々は彼らを援助しなければならない。しかし、彼らが他の人を押しつぶすほどなら、彼らを助けたり救済したり、持ち上げる必要はありません。これが政治科学の難しいところです。これが、私が激変や突然の運動を回避するように力説する理由です。激変はその紐帯や発条を破壊し、機構は崩壊します。私が、この突然の穀物価値の激変を、最も暴力的で危険な激変と見なしていることはお分かりいただけると思います。基本的には、貨幣の名目的価値の引上げと同じことですが、もっと破壊的です。[後略]

 要するにガリアーニの『対話』における、経済学上の功績は、何よりも方法論的なそれにあるのだろう。

 イタリアの古書店から購入。粗末な紙装のままだったので、製本に出したが、かえって古格な風合いが損なわれて、そのままで置いた方が良かったのかもしれない。半標題紙に「D.J.Dugard」なるきれいな蔵書印が押されている。


(参考文献)
  1. 池内紀 「神父フェルディナンド・ガリアーニ 裸体は官能をそそりませんとも!」(池内紀編 『奇書』 日本の名随筆49 作品社、1995年 所収)
  2. エナウディ 高野利治訳 「ガリアニ論」(スピーゲル 伊坂市助・越村信三郎監訳 『経済学の黎明 -経済思想発展史Ⅰ―』 東洋経済新報社、1954年 所収)
  3. シュムペーター、『経済分析の歴史2』 岩波書店、1956年
  4. シュムペーター 『経済学史』 岩波書店、1980年
  5. 竹村孝雄 「ディトロの『アベ・ガリアーニ弁護論』について」、一橋論叢、54(1):105-112、1968-07-01
  6. 竹村孝雄 「穀物取引の自由をめぐるガリアーニの重商主義批判:一つの覚書」、一橋論叢、54(5):882-889、1965-11-01
  7. 平田清明 「『ガリアニ師讃』」(『ディトロ著作集/第3巻 政治・経済』法政大学出版局、1989年解説 所説)
  8. ヒッグス 住谷一彦訳 『重農学派』 未来社、1957年
  9. G.-H.ブスケー 橋本比登志訳 『イタリア経済学抄史 発端よりフランチェスコ・フェッラーラまで』 嵯峨野書房、1976年




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(2017/5/6記)



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