GALIANI, F.
, Della Moneta Libri Cinque, Edizione Seconda., Napoli, Nella Stamperia Simoniana, 1780, pp.(28)+416, 8vo.

 ガリアーニ『貨幣論』1780年刊第2版(初版は1751年刊)。
 著者略歴:ガリアーニ Galiani, F. (1728-1787)。イタリアはアドリア海に面するアブルッツオ州の谷合の町キエーティの生まれ。信長に謁見したイエスズ会の宣教師ヴァリニャーノの出身地でもある。同地は、ナポリ王国の統治下にあり、父マチューはナポリ王国の判事であった。男子5人、女子6人という子沢山の家庭の三男坊である。幼少にしてその才を愛され、賄い付の無料教育機関でもある僧院に入れられる。古典古代語はもとより、哲学と数学を修得した。特に、当時の新学問であった経済学について、初歩の手ほどきを受けて熱中した。12歳にしてエリート養成機関であるナポリ・エミュール学院に入る。同時に「トロイ戦争期における貨幣の状態」他1論文を提出したことからも、非常な秀才であることが判る。その雄弁から21歳にして教区で説教をしたともあるが、神学は熱心に勉強していなかたようである。真に驚くべきことは24歳の若さにして、『貨幣論』を出版(匿名)したことである。才気を買われて、僧院長の使者として、大都会のローマやナポリに旅した。俗世の華やかさに魅了されたのか、26歳のとき僧院を脱走、いつのまにかナポリの宮廷に入り込んでいた。
 31歳のときナポリ王国のパリ公使館書記官に任じられ、フランスに10年間ほど駐在する。彼の地で、ディトロ、ヴォルテール、チュルゴー、ルソー等との交流を持った。人生の最も華やかな時代というべきであろうか。しかし、1770年恋愛沙汰に絡んで外交機密を漏洩した廉で本国に召還される。帰国に際し、重農主義批判の書『小麦取引に関する対話』(1770)の出版をディトロに託した。ディトロはまた、この書の批判に対し擁護のために、『ガリアーニ師讃』を書いた(未刊)。
 以後ナポリで59歳にして亡くなるまでの17年間、俗世間での栄達と政治学の著作はあったにせよ、残りの人生に特筆すべきことはほとんどない。ただ、6巻からなる『アベ・ガリアーニ書簡集』(1818)に収められた膨大な書簡―ほとんどは女性宛て―が残された。アベすなわち、神父や師の意であるが、別段僧職に叙されたわけではない。当時のパリ社交界には、アベを自称する輩が溢れていた。
 文学者池内紀の手になる著者の略伝によると、「ヴォルテールが何十巻という著作と、何百という政治的パンフレットを書いたのに対して、ガリアーニはひたすら手紙を書いただけである。おおかたは女性に宛てて男と女に関することがらを書き送った。」と紹介されており、経済学者としての叙述は片鱗もない。政治(経済ともいってよいだろう)についてのガリアーニの本を読みたいとの淑女からの質問に対し、「私の本は悪魔的に深遠です。何分そこ(根拠)がないものですから」と答えたとも書かれている。パリの人士は、ガリアーニを「プラトンの頭をもった道化」といい、「豚」と自称したと、戯画化して描かれている。
 ガリアーニの方法論について、少し付け加える。特定の時代と状況を超越した真理を少数の要素から演繹するデカルト的方法はガリアーニの取る所ではなく、真理は歴史的・相対的なものと捉えた。このため、ガリアーニがヴィーコに多大な影響を受けたと多くの著書に書かれている。しかし、ガリアーニ自身はヴィーコの名に触れる所はない。一方、経済現象の法則に全幅の信頼を置き、物理法則と同様に、普遍的に有効で、その発現を阻止することはできないともした。このため、経済政策は、短期的にはともかく、自然法に反したものは無効である。経済過程はスミスの「見えざる手」ならぬ「至高の手」(Suprema Mano;初版p.53)に導かれると書いている(Cesaranoによる)。

 本書初版は1751年にガリアーニ22歳の時に匿名で出版された。ダヴァンツァーチをはじめとするイタリアの著者はもちろん、イギリスのものではロー、ペティ、ロック、タッカーの、フランスのものではサバリ、サン・ピェール、ムロン、モンテスキューの著作への言及がある。相当な経済学研究の形跡が伺われる。早熟の天才といわれるシュンペーターは、『理論経済学の本質と主要内容』を25歳で、『経済発展の理論』を28歳で書いている。ガリアーニは、それを凌ぐものであり、「経済学の学問領域では、これほどの早熟はない」。匿名で出版されたこともあって、本書の著者に対し長い間疑問が呈されてきたという(ブスケー、1976)。私蔵本である第二版では、著者ガリアーニの名前が明記されている。
 イタリア人は、ガリアーニについてその二大著作『小麦取引にかんする対話』と『書簡集』を誇りとしている。それらがヴォルテールをはじめとする百科全書派のフランス文化を形成するのに寄与したからであり、ガリアーニは「フランス精神」の代表者と見なされている。しかし、この『貨幣論』は、外国語に翻訳されず、外国人には広く知られなかったが、イタリア本国では『対話』以上に読まれた。内容的にも、「『貨幣論』こそガリアーニの重要な経済書であって、『対話』は科学的にみて新規なものを前書に何も附加していない」。「本書は経済学の通史ならどんなものにも出てくる値打ちのあるものなのである」(ブスケー、1976、p.60-61及びp.57)。シュンペーター(1956、p.612)は、「<百年の後の>1851年に出版されたとしても、敬意をもって受け容れられたであろう。」とし、著者を価値論において「分析を十八世紀の最高峰にまで進めた経済学者」と評価している。
 フランスでは、16世紀の物価騰貴に触発されて、マレトロアやボダン(1530-1596)によって価値論が展開し始めていた。財貨を評価する貨幣自体が価値を持つと同時に、貨幣によって評価される財貨もまた価値を有しなければならない。そうしてグラモンは、つとに貨幣と財貨は同じ価値原理により説明されねばならないと主張していた。イタリアでも、ダヴァンツァーチ(1529-1606)がボダンの影響を受け、財貨と貨幣の主観的価値論を主張した。価値論はもともと、貨幣価値論と密接に関連しながら発展してきたのである。イタリアには、ダヴァンツァーチを遡るスカルッフィ(1519-1584)以来の貨幣論の伝統があった、その上に、ガリアーニは独創的な価値論を提出したのである。

 価値論に入る前に、まず『貨幣論』自体の内容を簡単に見てみる。著者は、「公共の福祉への愛」という動機から政治学の著作の一部となるべく書いたという。単にナポリ王国の財政改善のためというより、貨幣価値の安定と経済繁栄によるイタリア社会全体の富裕を目指した書と言える。『貨幣論』の構成は、第1編(全4章)「金属論」、第2編(全6章)「貨幣性質論」、第3編(全4章)「貨幣価値論」、第4編(全4章)「貨幣流通論」、第5編(全4章)「貨幣利子論」となっている
 第1~第3編が重要で、3編を通じて次の3つの思想が述べられている。(1)鋳貨の価値は契約によるものではなく、鋳貨は自然的・内在的な価値を有している。(2)貨幣は価値尺度となる財のうち最も価値安定的であるが、完全に安定した貨幣は存在しない。(3)鋳貨は必需品であるが、主たる富ではない。
 第3編までで、上記以外の特筆すべき論点は下記の通り。第1編では、第2章で価値論を論じているが、これについては本書の中心部分なので後に詳記する。第2編では第1章「貨幣の性質とその効用に関する討論」が重要である。1社会のモデル・ビルディングの方法により、理論的に貨幣の発生を説明する。まず、有徳な人々のみからなる共産社会から出発する。すべての人が働き、必要に応じて消費する社会である。しかし、社会の成員として普通の人々が増える段階になると、働きに応じた公正な社会の分配を図る必要が出てくる。労働者は自己の生産物を公共倉庫に供託し、そこから必要な財貨を引き出すことになる。生産物を供託する際に、その内容と数量を記入した証券を受けとる。そして、この証券と交換に同価値の他人の生産物を受領することになる。そのためには、君主(君主国モデルである)は、該証券が財貨と交換できることを保証する必要がある。更に、交換のためには、各財貨の価値を決定することも必要である。次の段階では、共同体に必要な奉仕者(官吏、軍人)を養うために、市民は無料で(証券の受領なしで)君主の決定した一定量の財貨を倉庫に納入しなければならない。最終段階では、証券が不正に発行されないように、君主だけに発行権限を限定する必要がある。
 この段階まで来て、このモデルの実現が可能かと反問して、ガリアーニは突然、モデル社会が現実の世界に入り込んでおり、現実と一致していることを悟ったのである。仮想的な証券は現実の貨幣に等しいと気づいた。エナウディによると、この方法はE.バローネが、「集産主義国家における生産省」(1908)の論文で採ったのと同じだという。
 第3編では、第3章で平価切下げを論じている。平価切り下げを鋳貨の価値を毀損する絶対悪として捉えず、君主の財政上の資金調達の一方法であることも認めている。平価切下げに対する賛成論と反対論を冷静に評価する。先験的な真理を排し、真理は歴史的相対的なものであるという考えである。ガリアーニがヴィーコの徒であるとされる所以の一例である。
 第4編に入る。貨幣流通は富の原因ではなく、その結果である。一国の生産量に応じた貨幣流通量が必要であると考える。なるほど、貨幣の速やかな流通は、産業を発展させる。しかし、貨幣は既に存在する富を確保、増加させるだけで、未だ社会に存在することのない富を創造・増加させることはできない。ガリアーニは、貨幣的要因が実物経済に与える影響を軽視する。密室で行われる賭博での金銭の遣り取りが何ら実質的生産を伴わない例になぞらえている。いわば「花見酒の経済」である。そこで実物的な富の増産を図らねばならないが、生産活動の増大は必需品や便宜品の増産にではなく奢侈品の生産に求められる。奢侈は肯定されるのである。
 第5編では、利子率と為替相場が効用価値論を応用して説明されている。数字的には等価値になっているが、時間的・区間的に分離されている諸価値を均等化するものが為替相場や利子率である。元々等しかるべき価値を不均等にする原因は、危険および便宜である。財貨の真の価値は、その使用の可能性あるいは不可能性を規定する確率に応じて変化する。将来苦労して獲得できる100ダガット金貨は、現在の90ダガット金貨に等しい。(また)失われぬ確率が90で、失われる確率が10の場合、それが賭博や交換の評価額である。為替相場や利子率も、このことに起因し、兄弟関係にある。前者は手持ち貨幣と遠隔地の貨幣を均等化する。より少ない便宜あるいはより大きな危険のために一方が引き下げられる。後者は、現在の貨幣と将来の貨幣を均等化する。どちらの場合も、その基礎は真の価値の均等化である(以上原書第2章:エナウディの訳文を参考)。
 以上利子論の説明については、ボェーム=バヴェルクを直ちに思い浮かべる人もあろう。ボェームの利子時差説との類似について、エナウディ及びカウダーは肯定的であるが、ブスケーは否定的である(注1)。なお、この第5編は利子論と題されているが、上述の為替論以外に、公共負債論をも含んでいる。

 上記以外にも『貨幣論』には、素描の域を出ないものの、先駆的な経済思想がいくつか見られる。需要の価格弾力性、独占価格の理論、価格と需要の相互依存性の記述である。内容については省略する。
 ガリアーニは、多くのことに興味を持ち一つの事に関心を継続する性格ではなかった。根気よく仕事をするよりは、ともすれば安逸に流れた。粘り強い探究心、持続的努力ながなければ、一学派を形成する巨匠になることができない。せめて、ガリアーニが上記の論点について、ヒュームの『政治論集』のような形式で展開していてくれたら後世に与える影響は異なっただろうというのが、ブスケーの嘆きである。かくして、ガリアーニの経済学史上での評価は、経済学体系の形成者ではなく、新規の経済思想の提示者として位置づけられる。

 それでは、これまで説明を後回しにしていた価値論に入る。ガリアーニの経済思想でも最も偉大なものであり、彼の名を後世に伝えるに最も力のあったものである。第1編第2章「すべての事物の価値が生まれる原理の宣言―価値の確固たる原理、効用と希少性について-それは多くの異議に答える」が、主として彼の価値論を展開した箇所である。
 彼には説明の才があった。『対話』が上梓された時、ヴォルテールは議論を展開する巧みさを、まるでプラトンとモリエールが協力してこの本を書いたようだと評した。エナウディ(1954、p.106)は、本書第2編第1章(上述した貨幣を導入するモデル社会の記述)を「イタリアのゼミナール課程においては、学生とこの章を読み、討論することが慣例となっている。」としている。この価値論の箇所も、同様に「イタリアのゼミナールで常に読まれる古典的な一節である。」(同、p.119)と書いている。まことに、シュンペーター(1956、p.630)がガリアーニの価値論について、「これらの概念を、あたかも今日の多くの初歩的な講義においても説明されているのではないかと思われるのとまったく同じ方法で、展開している。」といったのも虚言ではない。現代(といってもエナウディの論文が書かれたのは、1945年であるが)でも通用する説明なのである。
 下手に要約するよりも、まずガリアーニの説明を見てみる。邦訳(英語での部分訳もあるが、参照できない)がないので、諸書(エナウディ、山川、ブスケー等)に引かれたところから、価値論の部分の原文をできるだけ「復元」してみよう。今の場合長いことが望ましいので、長い引用となるのは我慢いただきたい。全体の用語・調子を整えるため、翻訳は適宜変更してある。

 「人間生活にとってきわめて効用のある空気や水が全く価値をもたないのは、それらが希少性に欠けるからである。これに反して、日本の海岸から持ってきた一袋の砂はきわめて希少ではあるけれども、特別な効用をもたないので、何ら価値をもたない。このことは明白である。しかしながら、私は、きわめて価値の高い多くの財貨がはたして大きな効用をもっているかどうかについて、一部の人が疑いをもつ理由を、容易に知ることが出来る」。
 ここで、「私が効用といっているのは、我々に幸福をもたらす一財貨の性能である。人間は諸感情の合成体であって、それは異なった力で人間を行動させるのである。これら感情の満足は快楽である。快楽を持つことは幸福である。…真の快楽をもたらすものはすべて効用を持ち、したがって、それは感情を満足させるものである。」
 効用と希少性はまったく無関係である。最も効用のある財貨の価値が、最も価値が低いのは、その財貨が豊富であるからである。
 「ある財貨の第一級の効用が増大すると同時に、この財貨の数量もますます豊富になることがあり、その結果その財貨の価値は騰貴しえない」ことがある。
 「ベルナルド・ダヴァンツァーチを含め、多くの人々は次のように考える。「自然の仔牛の方が金の仔牛よりもずっと、貴重でありながら、自然の仔牛の価値はなぜこれほど低い評価なのか」と。私はこう答える。自然の仔牛が金の仔牛と同じくらい希少であるなら、自然の仔牛の効用ならびに人間のそれに対する欲望の方が、金の仔牛に比べて大きい分だけ、自然の仔牛の価値は金の仔牛の価値より大きくなるであろう。人は価値がただ一つの原因から生じると考えており、合成されて混合物と化した数多くの原因より生じるとは考えていないのである。」
 「他の人にいわせればこうなる。「1ポンドのパンの方が1ポンドの金よりも有用である」と。私は次のように答える。これは、正しくないばかげた結論である。それは「有用である」とか「より有用でない」とかいうことは、特殊な諸事情に依存する相対的な概念であるという事実の無視にもとづいている。もしパンと金をもたない誰かについていうのであるならば、確かにパンの方が彼にとってより有用である。このことは、生活上の諸事実と一致している。なぜなら、パンを捨てて金を求めて、餓死するような人はいないからである。金を採掘している人々は、食うことと眠ることを決して忘れはしない。しかし満腹の人にとってパンほど無用なものはないである。その時、彼は他の必要を満たしたいと思うであろう。このことから明らかになるのは、貴金属は奢侈の友であること、すなわち基本的欲求が既に満たされている身分の人々の友であるということである。ダヴァンツァーチは、金1/2グレインの値を付けられたたった1つの卵は、餓死しようとしているウゴリノ伯を刑務所での10日目に死から守るだけの価値――世界にあるすべての金の価値以上の価値――をもっていたであろうと主張している。しかし、この主張は、卵がなくて餓死するおそれがない人によって支払われた価格とウゴリノ伯の必要を無様に混同している。ダヴァンツァーチは、はたしてウゴリノ伯が卵にたいして1,000グレインの金を支払わなかったと確信できるのであろうか?ダヴァンツァーチは、明らかにここで誤りを犯している。そして、彼はそれに気づいてはいないけれども、彼がもっと先で述べていることは、彼がそれほど愚かでないことを示している。彼はいっている、鼠はなんという恐ろしいものだろう、カシリノが包囲されていた時、価格が非常に高騰したので、鼠は200グルデンで売られた――しかも、この価格は、それでも高価でなかった。なぜなら、売手は餓死し、買い手は助かったからである、と」

  繰り返すようであるが、価値のパラドックス、すなわち、「有用」な水が低い交換価値しか持たないのに、何故ダイヤモンドのようにそれほど「有用」ではないものが、はるかに高い交換価値を持っているのか、については、アリストテレスまで遡る議論がある。近いところでは、ジョン・ロー『貨幣と商業』(1705)による、まさに水とダイヤモンドを例に採った秀れた説明がある。ガリアーニは、その明確な説明に際立った才能を示したのである。彼の『貨幣論』を読んでおれば、19世紀に至っても行われた多くの無用な論争を不要とした(シュンペーター)と評されるほどである。
 水一般、ダイヤモンド一般という抽象的価値、あるいは内在的価値といってよいと思うが、ではパラドックスは解決できない。財の価値は数量的に限定された、具体的状況において、消費者の心理と結び付けて説明されなければならない。ガリアーニは、一財貨の価値は他の財貨の一定量との関連で定義されるとした後、この価値は、効用と希少性に依存するとした。
 エナウディ(1954、p.119-120)は、ガリアーニの書いたところ(具体的には引用の最後の部分)から、次の諸法則を読み取った。()は理由とする記述内容である。
1. 追加財の限界効用逓減の法則[ゴッセンの第1法則](パンに飽きて、追加的に提供されるパンに何ら効用を感じない人)。
2. 限界効用均等の法則[ゴッセンの第2法則](パンに飽きて、他の欲望を満足させようと他の財貨を獲得しようとする人)
3. 財の階層の法則(通常の状態と餓死寸前では、同じ食糧に支払う対価が異なること)
4. 財の代替の法則(財貨の希少性に応じて価格=交換比率が変化すること)
 3.4.はあまり聞き慣れぬ「法則」で、これらを別としても、ガリアーニの所説から、限界効用逓減の法則や限界効用均等の法則を発見するのは、読み込み過ぎとするのが妥当であろう。
 限界効用逓減の法則についていえば、彼の相対的希少性の概念は限界効用の概念に極めて接近しているが、それに到達していないとしてよいであろう。効用が所有する財貨量によって変化することは、満腹の人と飢餓状態の人の比較において述べられている。しかし、その中間状態の段階的変化については明確なに説明がなされていない。
 限界効用均等の法則に関しても、同様に明確には説明されていない。ガリニアーニは、消費者がいくつかの欲求を持っている場合、複数の財貨をどう選択するかを書いている。まず、重要度の高い欲求を満たす財貨が選ばれ、それらの欲求が飽和した後、初めて低位の欲求が求められると考えた。これらの欲求の等級付けは、社会的心理で決定されるもので、個人的な心理によるものではない。第1等級が生命の維持、衣食住に関するものである。第2等級が、名声、肩書、名誉、高貴、権威に関するものである。第3等級は、美、装飾品等である。上位の等級の欲求が完全に満たされてから、はじめて低位の欲求が発動すると考えるのである。
 これでは、一個人にとって、各財貨を通じた限界効用均等が直ちに成立するは考えにくい。この点ロイド(Lloyd, W.)『価値概念に関する講義』(1834)においては、より高い等級の要求も、より低次の等級の欲求も最終単位では、同じ強さあるいは同じ価値であることを示しているとされる。ロイドは、腕時計の動力源である主ぜんまいと調速機構テンプのひげぜんまいが、大小の力の差がありながら、一種の均衡を保っている例えを用いている。
 それゆえ、「ガリアーニは、金がなぜ、普通パンよりも高価であるのか、を容易に示すことが出来る。しかし、1片のパンがなぜ金の極小量と同じ価値をもっているのかは、ガリアーニの分析用具の助けをもってしても、計算されえない。」とするカウダー(1979、p.36)の評価が妥当だと思う。そしてこの点が、ガリアーニをジェヴォンズ、メンガーから隔てるところでもあろう。
 ガリアーニの価値論では、最後に付け加えておくべきことがある。彼が限界効用理論の先覚者であることは疑いないが、彼にはまた労働価値説の先駆者としての一面があるのである。ガリアーニは、価値は効用と希少性に依存するとした。その希少性を説明する中で労働価値論が現れる。希少性とは1財貨の量と、その使用との間の比率と定義され、その際財貨は2つの範疇に区別される。第1範疇は、希少性が人間の意志にではなく、気候や自然力に依存するものである。第2範疇は、希少性が気候や自然力に左右されず、生産に必要な労苦や労働、すなわち、人間の意志に依存するものである。前者は、土地の果実や動物等であり、後者は鉱物・石・大理石等である。第2範疇の財貨を考える場合は、生産は労働のみに依存するから、労働のみが価値を与える。労働は「事物に価値を与える唯一のものである。」と明記している。「驚くべき急旋回をもって、商品の数量という径路を通じて、希少性から労働に(fatica)に目を転じ、立ちどころに労働を以て唯一の生産要因にして且つまた物に価値を与えるところの(che dá valore alla cosa)輝かしい唯一の事情であるとした」(シュンペーター、1956、p.632)。
 さらに、その労働を考察するに、3要素である「人数」、「労働時間」、「働く人の異なる価格」に論点を進める。人数は生産に必要な労働者の人数である。労働時間は、生活に必要な休息時間やその仕事の修得に必要な時間も考慮する必要があるとしている。労働量は労働者の食費に相当すると考えられているようである。最後の労働報酬の差の説明が独特である。ガリアーニにあっては、芸術品も労働による任意増加財である。上品な芸術家の労働は休みなく実行できない。音楽家や彫刻家は1年の中100日以上も働かないから、彼らの労働は高価である。ここで、人間の才能の分布をみるに1000人中、600人は農業に、300人は製造業に従事している、残りは商業と研究・指導に50人ずつ従うとすれば、農民と比較した文学者の価値は600対50すなわち12倍になるとする。この希少性は、天才ではなく、その習得に時間と費用が掛かるからだとしている。
 労働の要素の中人数・時間の説明までは投下労働価値説に基づくと思わせるような展開が、報酬の差額の考察では希少性(さらにいえば生産費説をも思わせる)による説明に戻る。その意味で、ガリアーニの価値論は効用と希少性により一貫して説明されているという論者もいるのである。

 イタリアの古書店からの購入。CiNiiによると我が国の大学では初版5冊、第2版3冊が所蔵されている。CiNiiでは、初版が1751年ではなく1750年となっている。標題紙に発行年が記載されていないためであろう、初版を1750年とするものと、1951年とするものがある。
(注1)エナウディ(1954,p.123-4)は、「オーストリア学派、およびその他の学派の理論を、ガリアーニが既に早くから予想して論じていたことは、彼の非凡な功績であるある。」とし、カウダー(1979、p.33)は「ガリアーニの利子理論は、ずっと後のボェーム-バヴェルクの時差説に非常に類似している。」としている。一方、ブスケー(、p.70)は「ある人々によれば、ガリアーニはベーム=バヴェルクvon BÖem=Bawerkの先駆者であるという。事実はそうではない。」と否定的である。


(参考文献)
  1. 池内紀 「神父フェルディナンド・ガリアーニ 裸体は官能をそそりませんとも!」(池内紀編 『奇書』 日本の名随筆49 作品社、1995年 所収)
  2. エナウディ 高野利治訳 「ガリアニ論」(スピーゲル 伊坂市助・越村信三郎監訳 『経済学の黎明 -経済思想発展史Ⅰ―』 東洋経済新報社、1954年 所収)
  3. カウダー 斧田好雄約 『限界効用の歴史』 嵯峨野書院、1979年
  4. 黒須純一郎 「ガリアーニ『貨幣論』の基本構造」 イタリア学会誌 (37), 42-56, 212-213, 1987-10-30
  5. 小林昇編 『経済学の黎明』 同文館、1977年 (遊部久蔵他編 『講座 経済学史Ⅰ』)
  6. H.R.シューアル 加藤一夫訳 『価値論前史』 未来社、1972年
  7. シュンペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史 2』 岩波書店、1956年
  8. セリグマン 平瀬巳之吉訳 『忘れられた経済学者たち』 未来社、1955年
  9. 平田清明 「『ガリアニ師讃』」(『ディトロ著作集/第3巻 政治・経済』解説 所説)
  10. G.-H.ブスケー 橋本比登志訳 『イタリア経済学抄史』 嵯峨野書院、1976年
  11. ブローグ 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1989年
  12. 山川義雄 『近世フランス経済学の形成』 世界書院、1968年
  13. Cesarano, Filippo ”Galiani, Ferdinando” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998




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(2013.9.1記)



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