FORBONNAIS, F.V.D. de, Elemmens du Commerce , Leiden and Paris, Chez Brasson and three others, 1754, pp.(4)+400+(2eratta),+276, 12mo. フォルボネ『商業要論』、1754年刊、初版。 著者略歴:Françis Véron Duverger de Forbonnais (1722-1800) ル・マンにある祖父創業の繊維製品製造を業とする家に生まれる。ド・フォルボネを称するのは、彼の10代の頃、一家がル・マン近郊のフォルボネ古城塞を得た後だという。もって、裕福な家であったことが判る。4歳で母と死別。11歳でパリに出、ジャンセニムスの学校で学んだ後、郷里に戻り家業を手伝う。19歳にして、スペイン・イタリアに2年間出張する。父の再婚のせいで折合いが悪かったのか、帰国後、実家に2年も居つかず、ナントで貿易・海運業を営む叔父の下に身を寄せる。アメリカ大陸向け奴隷貿易の中心地でもある該地で、商業に従事し実務経験を積む。 しかし、彼の望みはパリで官職を得ることにあった。1747年頃には上京、就職のために執筆した経済論文を要路に送った。1750年モンテスキュー著作の経済面での注釈書である『法の精神に関する考察』で文筆の仕事に携わる。「彼はここで『法の精神』に「計算の精神」を対置」(津田、1784、p.342)した。経済論文が機縁となったのであろう、いわゆる経済自由主義者の集まりであるグルネ・サークルの主催者、グルネの知遇を得た。グルネの指導を受け、1753年には、スペインのウスタリス(ウツタリッツとも)『商業と海運の理論と実践』(原著1724刊)およびキングの『ブリティッシュ・マーチャント』(同1721)の翻訳にも手を染めた。これらの訳書には、序文や訳注で彼の経済論が述べられている。1754年『スペイン財政考』も著わしている。ディトロ=ダランベール編『百科全書』には「保険会議所」、「為替」、「植民地」、「商業」、「貿易商社」、「競争」、「信用」および「土地の耕作」等の項目を執筆(1753-1754)。これらの寄稿論文を拡大して、主著である本書『商業要論』(1754)が成った。1758年には、四つ折版二巻よりなる大著『フランス財政史研究』を上梓する。 この間経済学者としての世評が高まり、1956年造幣局総監に就く。1758年には新財政総監エティエンヌ・ド・シルエットのアドバイザーとして改革に従事する。1763年メス(Metz)議会のアドバイザーとなり貴族に列せられる。しかし、その手がけた改革により、ポンパドール夫人をパトロンとする重農主義者から攻撃を受けた。 そこで、一時自分の領地に隠棲して著作の改定作業の専念することにした。1766年パリに戻り、『農商財政雑誌』の編集に携わる。前任者デュポン・ド・ヌムールの下では重農主義者の機関誌と称された同誌の論調を変えた。1767年もう一つの主著とされる『経済の原理と考察』を出版。この本の第1巻第2部はもっぱら「経済表」の批判に終始し、ケネーは同年『市民日誌』誌上で「市民日誌の筆者への、アルファ氏の手紙」において反批判を発表した。『原理と考察』自体も反重農主義的であるが、この時期起こった商工業の生産性を巡っての重農主義学派といわゆる「統制派」との論争においても、フォルボネは後者の指導的役割を果たした。 1786年65歳にして廃兵院長官の娘ルレイ・ド・ショーモン(Leray de Chaumont)と結婚、フォルボネ城に隠退する。彼女とは20年の長きにわたる交際があった。自分の死後の若い夫人のために、蔵書と手稿を内務省に売却し、終身年金を受給するとの試みもなされた。実現せざるエピソードである。1789年大革命期には制憲会議の財政委員会で穏健派として数か月活動した。1795年科学アカデミーの創設時に会員に選出される。パリにおいて死亡。 『商業要論』は、1754年初版出版後、すぐに同年に第二版が出され、「新版」と題されたものが、1755、1766、1767の各年に版を重ねている(他に刊行年不明のものあり)。その間、ドイツ語訳が三度、ポルトガル語訳が一度出版されている(注1)。同時代に三度独訳本が出版された例は他にみない。まことに、「圧倒的な好評を博して、一次期、フランスの経済学を代表する感があった」(津田、1984、p.341)のである。カンティロンの『商業試論』(1755)やケネーの『経済表』(1758)に比べて理論面では顕著なものが見られないが、「フランス経済のリアルな観察と展望という点では、ケネーに対抗しうるほとんど唯一のものであった」(津田、同)。 フォルボネは、「農業、製造業、芸術、漁業、海運、植民、保険、為替が商業の八つの分岐を構成する」(本書、p.5:但し『百科全書』≪商業≫では、保険がなく七つの分岐とする)と書いている。commerce は、狭義の「商業・交易」を意味だけではなく、経済活動全体économieをも意味していた。このあたりは、ジョン・ローの『貨幣と商業』(1705)の「商業」が「経済」を意味していたのと同断。commerce が狭義の意味に限定され、広義の意味にéconomieが充てられるのは、重農主義の台頭によってである。フォルボネの二つの主著の題名、『商業要論』と『経済の原理と考察』にもその変化が現われている(米田、2005、p.174)。よって、『商業要論』は『経済要論』の意である。 「最後の重商主義者」、「新重商主義者」あるいは「フランス固有の重商主義者」とも云われる、フォルボネの経済思想はどのように形成されたのであろうか。彼が、「重商主義者」として対外的な保護主義の思想を抱くに至ったのは、1713年のユトレヒト条約が契機となっている。この条約の付帯条約「ユトレヒト英仏自由通商条約」を巡って英国では、保護関税論者のキングと自由貿易論者のデフォーのあいだに論争が起こった。定期刊行誌『ブリティッシュ・マーチャント・通商維持』対『マーケーター・通商回復』の論争である。保護関税論の『ブリティッシュ・マーチャント』の翻訳を通じて、自由主義を標榜する(グルネ自身は、対外的保護は必要と考えていた)グルネ・サークルに属するフォルボネは「保護主義」思想に傾斜した。フォルボネには国際的な生産力競争におけるフランスの劣勢という認識があり、後進国フランスの勢力挽回という立場から対外的な保護を求めたのである。一方、工業国イギリス、農業国フランスという国際分業を決定づけた1786年のイーデン条約については一切批判をしなかった。この頃にはすでに、実質的には著作活動を終えていたのである。「象徴的に云えば、フォルボネの経済論の展開は2つの英仏自由通商条約の間の、生産力に勝るイギリスの主導のもとで絶えざる対応を迫られるフランス経済の発展と混乱の激動の時期にあったといえよう」(津田、1984、p.342)。 主著とされる本書『商業要論』を著述するに至る経済思想(それ以後も大きくは発展していない)の形成過程を、主として津田(1984)に拠りかかりながら、もう少し詳しく書いてみる。著作『法の精神に関する考察』から始まった彼の経済研究は、求職のための経済論文執筆を経て、ウスタリス『商業と海運の理論と実践』の翻訳(1753)に至る。この翻訳に附された序文と訳注において、ウスタリスが製造業・海運の再建と財政改革を訴えながら、農業、商業、製造業と財政を有機的に結合して分析することなく、特に農業を軽視していることを批判している。スペインの過重な財政優先主義がかえって、産業の衰退を招き財政破綻を招来したことを指摘する。すでに、財政状況を決定するのは、「国民の勤労」であるとし、国民の労働による富裕の重要性を述べているのである。 『ブリティッシュ・マーチャント』の翻訳(1753)にも、長い序文と詳細な訳注が附されている。特に序文には、30頁に及ぶ「訳者の予備的論説」が含まれている。そこでは、所収論文を読むためにイギリス経済の基礎知識を読者に提供するという本来の目的の範囲を超えて、外国貿易の重要性を説くフォルボネの自身の理論が詳細に述べられている。かくて、これらの論説は『商業要論』の内容を先取りしたものとなっているのである。 そして、ヒューム『政治論集』(1752)により、外国貿易による貿易差額が、国内生産の産業活動を増大させること、すなわち貨幣が実物面に影響を与えるハイエクの云う「連続的影響説」を吸収する。しかし、ヒュームが貿易差額には、金本位制の下では国際収支均衡メカニズムが働くとしたのに対し、フォルボネは現実の国際政治状況でのその効力を否定して貿易絶対論を唱えた。 フォルボネは、『百科全書』には(1)「保険会議所」、(2)「為替」、(3)「傭船契約」、(4)「植民地」、(5)「商業」、(6)「組合」、(7)「貿易商社」、(8)「競争」、(9)「密貿易」、(10)「信用」、(11)「土地の耕作」および(12)「現金」の12項目を執筆した。(1)~(8)が第3巻(1753年11月出版)、(9)~(11)が第4巻(1754年8月出版)の掲載である。これらの寄稿論文を拡大して、本書『商業要論』(1754年3月出版)が成った。寄稿論文と同時期の産物であることは、いくつかの論文末尾に「詳しくは、同著者の『商業要論』を参照」と書かれているのでも判る。 論文を拡充して本書が成ったことは、『商業要論』全12章のうち、過半の7章分の標題が『百科全書』の項目名と同じか、ほぼ一致することで明らかである(注2)。「Ⅰ章 一般商業」、「Ⅱ章 競争」、「Ⅲ章 農業」、「Ⅵ章 植民地」、「Ⅶ章 保険」、「Ⅷ章 為替」、「Ⅹ章 信用」の各章である(それぞれ項目(5)、(8)、(11)、(4)、(1)、(2)、(10)に一致)。「Ⅳ章 製造業すなわち勤勉なインダストリ」、「Ⅴ章 航海」、「Ⅸ章 貨幣の流通」、「ⅩⅠ章 贅沢」、「第ⅩⅡ章 商業の均衡」の5章が新たな書下ろしである。但し、Ⅸ章は、項目名を変更して論文(12)として、『百科全書』第4巻に収められた。 (生産力主義) 18世紀のフランスでは、先進国イギリスの経済的脅威を受けながらも、前世紀の遺物であるコルベルティスムの産業統制のくびきに苦しんでいた。通商監督官であるグルネは、外圧に対しては一定の保護を求めつつ、独占の棄却と規制の廃止を求め、競争を促進する経済自由主義を実現しようとした。自由と保護の両面政策である。グルネは、経済政策の策定・実行を行う一方で、テュルゴー、フォルボネ等若きエコノミストを組織し、経済書・翻訳書を出版して経済思想の面でも先進イギリスに伍すべく努めた。 強国が覇権を争う当時の国際的環境のなかで、グルネの対外保護、国内自由競争政策は、国富の増大の源を生産力の全面的な拡大に求める生産力主義に基づくものであった。生産力主義とは、「生産力の継続的な発展・進歩のうちに、社会問題を解決するためのカギを見出し、生産を拘束する諸条件を撤廃し、その自由な発展を保障する諸条件を設定することに関心を集中するイデオロギーである」(河野他、1954、p.189)。グルネは、貿易商人、製造工、農業者、職人等の働く人びとが、国富の源泉であり、労働人口の増加は生産と消費の併進的相互増加により生産量を拡大すると考えた。英国チャイルドの影響を受けた生産人口論を基礎とした生産力主義である。グルネによる生産力主義を経済政策の思想および理論面で継承したのがフォルボネである。フォルボネは云う、「貨幣の量によっては、二国の臣民の安楽さを比較できない。この比較は、かれらの所有する貨幣量によって獲得することができる便益品の質と量によってなされるべきである」(本書、p.170-176)。フォルボネは貿易差額を主張する点で重商主義者とされるが、この表現にみられるように、ブリオニズムを脱しており、労働による生産物を重視することでは古典派に近いと思える。 元々、「百科全書派」の「基本的な考え方は、民衆の生産活動を促進し、富を蓄積させ、生活程度を引き上げることによって、できるかぎり多くの人々を「財産」所有者たらしめるという点にある。[中略]経済思想の基本線が、私有財産の安全と自由という財産論と、生産あるいは労働の尊重という生産力論との二つに置かれているということ、しかもその二つが別々のものではなくて、結合し得るものとして把握されている」(河野他、1954、p.166:強調原文)。生産力主義思想は、「百科全書派」に共通してあったと思える。ケネーとルソーを両翼とする百科全書派のなかで、フォルボネは、重農主義者ケネー(「借地農」、「穀物」、「明証」を寄稿、他にも寄稿予定の論文を書いている)とともに、最保守層とされる。両者に異なるのは、生産力を発展させるための経済的自由に関する考え方である。 フォルボネは、国内経済に限定して自由経済制度を導入しようとした。一方、ケネーは、内外の区別なく普遍的な自由競争制度を求めた。フォルボネは対外的には、貿易干渉主義あるいは保護主義を保持することを主張した、ケネーはそれを拒否したのである。フォルボネの「保護貿易」対ケネーの「自由貿易」である。ケネーは、経済の再生産にとって拘束となっている貿易規制を排斥した。農業の再生産を中心に考える彼は、具体的には穀物貿易の自由化である。フォルボネは、後進国フランスにとって貿易面での国家の庇護を必要とすると考えたのである。そこには、「ケネーは、発展の原動力を、国内的な支出の方向(「支出の良き使用)にみたに反して、フォルボネは、それを外国貿易にみた」(菱山、1962、p.82:強調原文)という基本的な経済観の相違があったのであろう。 ケネーにとっては、内外を通じた競争による経済自由化は、第一に、価格の自動調整メカニズムによって価格を安定化し、もって再生産体制を維持拡大する。第二に、国際価格と国内価格を均衡させ、生産階級に経費プラス利潤を保障し、再生産可能となる価格を実現させる。そして、最後に、国際的経済関係に安定をもたらす、となろうか。それは、フォルボネの「公正価格」に対しケネーの「良価」(bon prix)という言葉に象徴される。自由競争の問題は、当時において喫緊の実践的政策課題であった。フォルボネとケネーの自由競争制度に対する考え方の違いは、菱山(1962、p.87)によれば、「経済機構的にみれば、いわゆる価格の自動調整機構に関する観点いかんに依存するであろう。そして、ケネーは、概して、このようなメカニズムの存在を確信していたのに反して、フォルボネは、その動きに疑惑のまなざしをなげかけたといえるだろう」ということになる。 フォルボネにとって、一国の繁栄は、近隣国に対して貿易差額を保持できるかどうかに一に依存している。近隣窮乏化政策というべきものである。そのことは、彼の云う政治的富裕すなわち一般的富裕を達成するためには、輸出の増加を俟たねばならず、貿易に関連する国内産業の生産や能率が問題となる。具体的には、競争する諸外国製品に比較して、輸出商品価格を低く抑えることが必要である。すなわち、国際経済における競争力優位を保つために取るべき経済政策は、輸出産業およびそれを支える基礎産業の経費節減のための生産の合理化、流通経費削減のための流通機構の整備および低金利の実現となる。ここで、フォルボネにとって基礎産業とは、農業が想定されているようである。「かれにとって、社会は放任されるべきではなくして、「社会の一般的利益」を洞察した政策家によって、「計算の精神」esprit de calculをもってコントロールさるべきものであった」(菱山、1962、p.92)。 グルネから引き継いだ自由と保護の両面政策は、師の保護政策が輸出入の規制という直接的なものであったのに対し、フォルボネのものは彼の現実的な姿勢から、産業保護政策中心の穏やかなものであった。海外市場を獲得し貿易差額を確保するために、自由競争の例外としての経済規制や輸出助成金支出による輸出産業の保護育成政策である。「競争」と並ぶ、彼のもう一つの経済原理である「均衡」または「釣り合い」の原理によるものであろう。グルネが創ったとされる「レッセ・フェール、レッセ・パッセ」(自由放任)という言葉を、フォルボネは『商業要論』において、一度も使っていない(津田、1984、p.349による)。 (消費論) フォルボネの生産力理論を支える二つの柱は、大衆消費論と就業人口論である。消費は生産と雇用を導くだけでなく、それらの水準をも規定する。経済の安定成長のためには、消費の中心となる生産者人口(就労人口)の拡大およびそれらの人々の一人当たりの消費量の増大によって消費を拡大する必要がある。「このために彼が求めたのは、一、低価格による所得効果によって就労者大衆の実質購買力を高めること、二、消費と生産を同時に増大させるために就労人口を増加させること、三、さらには所得分配を可能な限り平等化すること、この三点であった」(米田、2005、p.167)。 第一に、大衆的消費の拡大のためには、商品の品質より価格が問題となる。庶民には、外見が大事で品質に関心がない。値段が安ければ、需要は出てくる。ケネーが良価(=高価)による生産拡大を説いたのに対し、フォルボネは安価による一般的富裕を求めたのである。安価をもたらすためのコスト削減策の要は、(国内における)自由競争とされた。ただし、農産物価格についてはもう少し複雑である。農業人口が一国経済を支える根幹であり、安い穀価が農村を荒廃させてはならないからである。しかしながら、穀価は、農業者に生産を保証する水準でなければならないが、賃金を押し上げて製造品価格を高騰させるほど高くてもいけない。「中庸な価格」が、国内消費の面ばかりではなく、貿易差額確保のために国際経済面からも要請されたのである。フランスの現状では、輸出政策から低賃金・低穀価がやむなしとされた。「劣勢にあるフランスでは、高賃金や高穀価はあくまで発展の結果であって、決してその原因とはなれない。[中略]低価格(ただし農産物の場合は「中庸な価格」)による実質購買力の増大こそが求められることになる」(米田、2005、p.170)。 第二に、経済の繁栄には、ただ人口が増大するだけでは充分ではない。生産者であり同時に最も活発な消費者でもある「能動的人口」の増大によって、生産と消費の均衡発展が期待できる。生産人口の増大が経済発展の要石であり、生産力主義の理論的基礎である。 第三に、経済発展には、所得分配の平等化が必用と考えた。それは、供給面では独占的な企業より小規模経営の方が効率が良いと考えたからであり、需要面では所得が平等なほど貨幣の退蔵が少なく、流通・生産を活発化すると考えたからである。さらには、土地ができるだけ平等に分割され、小土地所有者の増加することを求めた。百科全書派でも、ディトロの場合は、再生産額全体の増大にしか関心のないケネーとは異なり、分配を問題とした。しかし、分配問題の根幹にある土地所有関係については触れなかった。フォルボネは分配のみならず、富や土地所有の平等にも踏み込んでいるのである。 この項は、引用文以外にも、米田(2005)の本に多く負っている。 (貨幣論) 小池(1987、 p.5)によると、後の『原理と考察』において、フォルボネは貨幣に二つの機能を認めている。一つは、商品の標章(signe des denrées)機能であり、いま一つは擬制的不動産の所有(propriété d'immeuble fictif)としての機能である。小池に詳しい説明がないので、判然とはしないが、後者は貨幣の価値保存機能のことだと思われる。ケネーは、貨幣形態での富の蓄蔵を流通過程からの引き上げ、あるいは、たとえ支出されても不生産的に使用されると考えた。蓄蔵貨幣は生産を活発化させることはなく、再生産体制の攪乱要因なのである。フォルボネにとっては、蓄蔵貨幣はあくまで、将来投資か消費に支出される貨幣の一時的滞留形態にすぎない。 経済繁栄のために彼が求めた貿易差額が、直接に有効需要となって経済を増大・成長させるのは論を待たない。その他に、貿易差額はその結果としての貨幣流入の径路を通じても、また経済を成長させる。貿易黒字による貨幣流入が、利子率を低下させ一国を富裕化せることは、グルネに学んでつとに知っていた。それでも、貨幣の流入は物価を上昇させ、交易条件を悪化させる危険性も予想される。先に引用したように、フォルボネには、一国にとって重要なのは重金主義者の主張するような貨幣量そのものではなく、むしろ貨幣で購入できる生産量である。しかし、彼は、その生産量が貨幣量の増大により増える事実の存在を知った。ヒュームの『政治論集』によってである。このことにより、フォルボネは一部執筆しつつあった『商業要論』の手稿を大幅に改稿した。「人びとによって望まれるのは、貴金属そのものではなくして、むしろ社会における貨幣的な富の継続的な増加から結果する諸効果、すなわち、その増加によって生産や人口が必然的に増大すること、なのである[中略]顕著な貨幣量が新たに商品の流通界に投じられる場合、一定の時間の後には、不可避的に商品の価格が騰貴する。それは、労働の有用性をひきあげ、それを通じて、仕事をする者や生産をともに増加する」(後の『原理と考察』による:菱山、1962、p.82からの孫引き)。 フォルボネは、ヒュームの説く、貨幣増大が実物経済に好影響を与えること、ハイエクの名付けた「連続的影響説」は認めた。しかし、ヒュームが同時に唱えた、貨幣(貴金属)の移動による国際収支の均衡メカニズム説は否定した。当時の国際的覇権を争う環境の下では、あまりに非現実的に見えたからである。貴金属を求めて互いに鎬を削り合う強国は、不信と嫉妬が渦巻き、交易どころか時に戦争状態に至る。貴金属の量もヒュームが想定したように一定ではなく、新大陸からスペイン・ポルトガルを通じて追加供給されている。なによりも、各国は貨幣数量説が妥当するような完全雇用に近い雇用水準にない。それは、フォルボネにとって「嵐が遠く過ぎ去れば、波もまた静まるであろう」(ケインズ『貨幣改革論』)といっているように思えたのであろう。ちなみに、彼の貨幣論は、『商業要論』「Ⅸ章 貨幣の流通」で詳論されている。 (重農主義批判) フォルボネの重農主義批判は、本書ではなく、主として『原理と考察』によっており、その批判も、「明らかにケネー批判には成功していない」(津田、1984、p.342)される。しかしながら、ケネー批判者としてのフォルボネは重要である。重農主義者デュポンの活躍により、貿易自由化を決定づけたイーデン条約が締結された。結果は、フランスの綿工業をはじめとする製造業は没落し衰退する。重農主義理論が非現実的であると論難される際に、持ち出されたのはグルネー・グループの代表的学者としてのフォルボネの経済学なのである。フォルボネのケネー批判のうち、上記では触れられなかった点について付け加える。 ケネーにとって重農主義の再生産体制は自然の秩序なのであるが、フォルボネにはそれが人間性に反した「形而上学」に見えた。そこでの人間は情念を有せず、生産階級は余剰をあげて再生産の拡大につぎ込む。農業に支えられたインダストリを重視するフォルボネは、ケネーの云う純生産物を生まない非生産階級の労働が、かえって国民の富裕を実現すると考えた。 先に(貨幣論)の所で、「ケネーは、貨幣形態での富の蓄蔵を流通過程からの引き上げ、あるいは、たとえ支出されても不生産的に使用されると考えた」と書いた。しかし、「経済表」では再生産体制の正常な循環のためには、必要とされる貨幣量は地主階級の収入に等しい額で充分とされている。ミラボーは「この賞賛すべき発明(「経済表」)の最も有益な効果の一つは貨幣をその真実の所有に定着させることである」と書いているそうである。フォルボネは、この箇所に注して、それは、「人々をして貨幣に擬制的不動物たる機能を禁ずるにいたらしむるところのもの」であろうと記している(以上、小池、1987、p.12による)。要するにフォルボネには、ケネー体系には蓄蔵貨幣はなく、貨幣は流通手段にとどまり、再生産に必要な量だけ存在するとしていると思えたのであろう。貨幣は実物経済に中立的なのである。これに対するフォルボネの考えは、上述のように貨幣の実物経済に与える影響を認める「連続的影響説」である。 ケネーは、また、工業生産が地主階級の収入を増やし、社会全体の富を増加させることは認めない。工業製品購入のためには、地主階級や借地農(フェルミエ)に購入のための貨幣が蓄蔵されているか、交換のための余剰農産物がなければならない。それは、富の形態を転化したにすぎず、社会の富の増大を意味するものではない。そればかりか、地主階級の収入からの工業製品への支出増加は、全体の再生産額を縮小過程に導く恐れがある(参照、本サイト、ケネー「経済表」の菱山動学モデル)とする。フォルボネにおいては、流通過程において本源的な富に利得が次々と積み重ねられ、新しい富を形成する。農業を基礎においた製造業、商業の発展が経済の繁栄を導くのである。 (数理経済学) 最後に本書の数理経済学書としての側面を簡単に触れておく。 ジェヴォンズの『経済学の理論』の「附録5 ― 数理経済学の著書、論文およびその他の著作表 ―」には刊行年順に数理経済学の文献があげられている。その6番目が本書である(注3)。その注記には(Henry S. Jevonsによって)「2版、2巻Ⅸ章、その他諸処(et passim.)」と記されている。一方、パルグレイヴ経済辞典には、「『要論』は、フランスの経済学の著作で初めて数学的議論を使用したことで知られる。これは、2国以上で、かつ金銀の価格比率が異なる国々について、複本位制下での為替レートに関する著者による均衡条件の分析である」(Groenewegen、1998)と書かれている。 ジェヴォンズは、主として「第Ⅸ章 貨幣の流通」のことを、Groenewegenは「第Ⅷ章 為替」のことを示しているように思える。私が瞥見した範囲では、この二章に数式(といっても加減算の代数式程度)が集中しているようである。けれども、数理的な分析には敏感であったように思えるシュムペーターも、『経済分析の歴史』においてこの点には触れていない。ともあれ、『要論』はフランス経済学の数学的思考の嚆矢としても、記憶されるべき書物である。 英国の古書店からの購入。1・2部合巻。標題紙の一部が汚れており、表紙も外れている。CiNiiによると、日本の大学図書館には、初版と同年に発行された第二版は2冊(メンガー文庫、九大)所蔵されているが、初版は所蔵されていないようである。稀覯書であろう。きれいな本には、$10,000の値が付いている。 (注1) Carpenter,1975による。なお、吉田静一(1977、p.100)によると、1790に第4版が出されたとされるが、詳細は不明。
(2015.4.1記) |