BENTHAM, J.,
Defence of Usury; shewing the impolicy of the present legal restraints on the terms of pecuniary bargains. in a series of letters to a friend. to which is added, a letter to Adam Smith, Esq; LL,D. on the discouragements opposed by the above restraints to the progress of inventive industry. the second edition., London, Printed for T. Payne, and Son, at the Mews Gate., 1790, pp.4+206, 12mo.

 ベンサム『高利の擁護』、1790年刊第二版(初版は1787刊)。
 著者略歴:ジェレミー・ベンサム Jeremy Bentham (1748-1832)。事務弁護士ジェマイアの長男としてロンドンに生まれる。父は息子を大法官(法務大臣に該当か)にする夢を抱いた。父の膝下で古典語の英才教育を受ける。10才にして母を亡くした。ウェストミンスター校での5年間を経て、12歳でオックスフォード大学クイーンズ・カレッジに入学。しかし、入学に当たっての入学宣誓への署名は、思想・信条の自由を信じる彼を傷つけ、生涯癒えることはなかった。大学では後に批判をすることになるブラックストーンの講義を聞く傍ら、法曹実務を学ぶためにリンカーンズ・イン司法修習学校にも通った。
 地上の職業のうち最も重要なものは立法者である、というエルヴェシウスの言葉を承けて、立法者たらんとしたのはベンサム20才の時であった。1769年(21歳。72年とするものもある)に弁護士資格を得たものの、法廷に立つことはなかった。もっぱら、法思想や法原理を研究し、ヒューム、ロックやエルヴェシウス、ベッカリアの書物を学んだ。ベッカリアの書物からは「最大多数の最大幸福」という言葉を知った。また、化学と植物学にも並々ならぬ関心を寄せている。若年の頃から、母の遺産と父の贈与財産で生活できたので、仕事をしなくとも、研究・執筆に専念できたのである。
 1770年代から80年代中葉にかけ、彼の思想は発展を遂げた。「最大多数の最大幸福」を道徳と立法の基本原理として、師ブッラクストーンの法学を批判した匿名の書『統治論断片』を1776年に出版した。『道徳および立法の原理序説』が書かれたのもこの時代である(出版は1789年)。この本は功利主義を体系的に展開した彼の主著とされている。また、この時期にシェルバーン伯爵の知己を得、庇護を受けることになる。後首相を務め、ランズダウン侯爵となるウィリアム・ペティ(同名の政治算術家の子孫)のことである。
 1785年ロシアのクリチョフに滞在する弟を訪ね、2年の滞在期間に『高利の擁護』と『パノプティコン、別名、監視施設』の原稿を書く。ロシアからの帰国(1788年)後、1803年までの約15年はディンウィディによれば中期とされ、「約15年間[これは「前記」の15年を意味しているようである:記者]主として法律と立法の理論に没頭し、その後かれの関心は、もっと実際的な問題と、今日では刑法学、行政学、社会政策、経済学と呼ばれるものと立法の分野が交差する、あるいは立法の分野がそれらを包含する領域へと移った」(1993、p.11)。たしかにベンサムの長い生涯のなかでも、彼が経済学と取り組んだのはこの時期に限られている。
 この中期には、勃発したフランス大革命への関与、パノプティコン刑務所建設のための政府への働きかけ、救貧施設の提案等、現実問題に多く関わった。自らの天職と自覚していた法律家としての仕事からは逸脱した非生産的時期とも受け取れようが、概して彼の思考に新しい領域を拡大した多産な時期と評価されているようである。
 19世紀の初頭に『訴訟証拠の理論』(出版は1827年)や『スコットランドの改革』(1808)の執筆を通じて、ベンサムは法曹界や議会に対する批判を次第に深めていった。1808年、彼は自由主義者ジェームズ・ミルと親交を結ぶ。この年をもって、ベンサムのトーリからラディカルへの転身の時とし、以後を後期として区分する。「ウェストミンスター評論」に拠って、J.S.ミルによって名付けられた「哲学的急進主義」の指導者となる。主なメンバ-は、ミル親子、法学者オースティン、歴史家グロートなどである。父ミルとの縁でリカードとの交際もあった。晩年のベンサムは、腐敗選挙と不正な選挙制度の現実から、議会改革に最も関心を抱いた。急進派国会議員コベット等の議会活動も支援した。
 一方、自分の余命を自覚して、『憲法典』の完成を急いだ。これは、彼の構想したパノミオン(完全な包括的法律体系)の一つであるが、唯一完成段階にまでこぎ着けたものである。「ベンサムが生涯をかけてした仕事は、多岐にわたるが、大要を言えば、イギリスのみならず、あらゆる国に応用可能な合理的法体系の整備と建設、またそのための法哲学の構築であり、そうしてこうした建設のための条件つくり、すなわち近代国家としての権力機構と官僚制の創造のプラン作りであった」(永井、1982、p.9)。ベンサムは基本的に経済法学者であり、副次的には経済政策論者とする永井氏の言が妥当であろう。
 名声と健康に恵まれた晩年であった。遺体は遺言により解剖に付され、そのミイラが現在もロンドン大学に陳列されていることはよく知られるところである。
 最後にベンサムが可愛がったJ.S.ミルのベンサム評を付け加える。「誰がベンサム以前に、…イギリスの憲法なり法律なりを、公然と無礼に批評することを、考えてしたであろうか?ベンサムはそれをやったのである」(ミル、1952、p.126)。そして、ベンサムが近世ヨーロッパの破壊的思想家と異なるのは、「ベンサムの方は積極的であったという点である。すなわち、彼らがたんに誤謬を攻撃したにすぎなかったのにたいし、彼は、それに代わるべき対応的な真理を樹立しえたと思うまでは、誤謬を攻撃しない方針を良心的に厳守していたのである」(ミル、1952、p.132)。

 ベンサムの弟サミュエルは技師であり、ロシアに滞在したことがあった。エカテリーナ女帝の寵臣ポチョムキンの領地であった白ロシアのクリチェフ地方(現ベラルーシ)で、その地の開発に当たった。弟との縁でベンサムも、クリチェフのツアドブラスに居住する。1785年から約2年間の滞在中、弟のように華やかな社交界に出入りすることもなく、小屋に籠り勉学に沈潜した。その勉学の成果が本書『高利の擁護』と著名な『パノプティコン』(1791)である。いずれも、書簡体の論文集である。私は詳しくはないが、モンテスキュー『ペルシア人の手紙』(1721)、ヴォルテール『哲学書簡』(1734)のようなエッセイ(小説?)が好評を博した事から見て、18世紀当時には、このような書簡体の体裁が好まれたのであろうか。
  「近代世界は『高利の擁護』を書いたベンサムから始まった」と、彼のチェスタトンは云っている(注1)。本書は、ベンサムが公刊した最初の経済書にして、匿名ではなく著者名を明らかにした最初の書物でもあった。約3ケ月という極めて短期間に書かれたものであるにもかかわらず好評を博し、ベンサムの論壇での地位を確固たるものにした。本書執筆の直接の動機は、ロシアにあって首相ピットが法定利子率を5%から4%に下げることを仄聞したことにある(友人ウィルソン宛て手紙。但し、これは噂にすぎなかったようである)。ただし、題名にかかわらず、内容は高利を積極的に擁護するというより、利子率の統制に反対するものである。
 ベンサムがいつスミスを読んだかは不明だが、ロシアで『国富論』を読み返したことは確かであろう。ちなみに本書によるとそれは、第三版(1784)である。そのスミスの研究により、経済学分野に新境地を開いたのである。もっとも、本書は経済学プロパーというより、法学の著作とした方が妥当かも知れない。最高利子率法定の是非を論じたものだからである。ベンサム自身も、経済学的研究の不足を認識しており、第二版のための「追伸」(Postscript:書簡体のための表現で、附録とすべきであろう)で思索を深めようとした(実際は第二版に入らなかった)。
 ともあれ、ベンサムは『国富論』のなかに、アダム・スミスの自由主義経済原理に反する箇所を発見した。第二篇第四章での高利貸付禁止法の容認であった。ベンサムにはそれは、「何らかの誤りもしくは見過ごし」であるとしか思えなかった。それが、この書簡体著作となるのである。なお、直接スミス宛とされたのは書簡十三だけである。他は、この著作の出版に協力もした友人、ウィルソン宛て書簡ということになるのであろう。書簡十三では、「起業家」を論じている。スミスは、前代の南海泡沫事件やジョン・ローの「ロー・システム」の企ての反省からか、「起業家」を胡散臭い者として見ている。ベンサムの方は「起業家」をシュンペーターのアントンプレナーと近い捉え方をし、積極的に肯定している。

 以下、本書の内容について書く。今のところ、本書翻訳は第十三書簡だけの部分訳しかない。翻訳のない書簡(といってもほとんどである)部分は、私の理解が及ぶ限りで、まとめておく。学力不足で、誤読が多いと思われることを、予めお断りしておく。書簡第一~書簡第十二、中の引用は私訳であり、引用ページは、私蔵の第二版のものである。書簡十三の引用ページは、翻訳書によるものである。但し、『国富論』の引用部分のみは、読みなれた別本による。下線部分は、原文のイタリック。[ ]内の記述は記者の注記である。
 
<<書簡第一(序論)>>
 「私がこの主題についてずっと考えてきたことを一言で云えば次のとおりである。すなわち、成人で健全な精神を持ち、自由に行動でき、現実を見る目がある者が、自己の利益の観点から、適切と判断する利率で金銭を借入れるならば、その取引実行は妨げてはならない。のみならず、(必然的な帰結として)如何なる条件でも、借主が適切だと同意するなら、貸付は妨げられてはならない。」(p.2)と本書の云わんとすることを簡潔に述べている。
<<書簡第二(制限の根拠―高利の防止)>>
 「立法者によって他の商品の価格を固定するやり方は、これまで多くはなされて来なかったと考える。…利子を取って金銭を貸すことは、現在の金銭を将来の金銭と交換することである。交換一般について、馬鹿馬鹿しく有害であると考えられている処置が、何故この特定種類の交換の場合に必要と考えられるのか、人はもっと考えねばならない。」(p.13)として、金銭貸借の利子を商品売買の価格と同様に扱うべきで、制限してはならないとする。
<<書簡第三(制限の根拠―浪費の防止)>>
 まず、高利禁止法の効果の内、浪費防止に関して述べる。浪費は悪であり、その防止が本当の目的であれば、反対はしない。思慮分別のある年齢に達した人が、現在と将来の欲望を制限される苦痛の大きさを考えねばならない。過たぬよう成人に紐をつけて操縦するようなやり方は、論外である。こんなやり方が取られる限り、消費制限に効果があると思えない。その理由は以下のとおり。
 第一に、普通浪費家は、需要を満たす普通率以上の利子率で借金するようなことは、しない。そして、浪費家であろうとなかろうと、自分自身の手持金を持つ人はお金を借りようと考えない。また、英国では、確実な担保を持つ人は、普通以上の異常な高利率で借入するように思えないからである。
 残された浪費家の部類、すなわち提供する担保をもたない者については、「これらの人は、異常な高利でよりも、むしろ通常の利率で金銭を借り入れることがありそうに私には思われる。借り手に友情を感じるか、感じたふりをする理由がある人は、通常の利子率以上を取れない。借り手にこのような動機を持たぬ人は、全く貸さない」(p.24)。もう一つ考えねばならないのは、高利禁止法にもかかわらず、信用が続く限り、欲しい物を常に手に入れられる別の浪費者がいることである。「私が意味するのは、自分たちの欲しい物品を扱う商人である。金銭より財の方が手に入れ易いことは周知のことである」(p.26)。財での貸借に、高利は影響しないのである。「明らかなことは、消費のために得たものに対し異常な高利を支払わせて浪費を押さえることが法の目的である限り、その目的は借入金利率を固定することによっては、全く実現できない。反対に、その法が何らかの効果をもつなら、その目的の逆に働くだろう」(p.30)。
<<書簡第四(制限の根拠―貧窮者保護)>>
 高利禁止法には、浪費者の他に三種の人が想定されていると思われる。そのうち、まず貧窮者について。彼らは、普通に暮らしている人に比べて、判断力や気質で欠点があると思われない。金銭借入による利益見込みと、借入の必要は当人がよく知っている。高利であっても、自分にとってその価値があるか、よく判断できる。立法者は、状況や借入内容について何も知らないし知ることもできない。次に冒険的な借手の部類、「企画家」と蔑称される人たちについて述べねばならないが、これらの人については、スミス博士宛て書簡で詳述する。
<<書簡第五(制限の根拠―愚者保護)>>
 残るは愚者の場合である。絶対的な白痴を除けば、利率を一定に制限しようとする立法者ほど、個人は根拠のない判断をすることはない。財の購買は日常の仕事である。金銭の借入は、特殊な事態で偶にしか生じない。財の場合では、価格を全般的に統制するのはきりがない。価格統制で、愚者保護の実を挙げようとするなら、各人の購入量も統制する他ない。しかし、どの程度の愚者に干渉するかの判断は難しい。また、財価格の数パーセントの上昇は注意を引かないが、普通利子率は1パーセント上回っても人目を引きつける。
 財の売買(ベンサムは土地を例示)の場合では、詐欺や事実隠蔽がないかぎり、安く売り過ぎても、高く買い過ぎても、それだけでは、取引が無効とならない。法律で、価格が制限されることもない。そして、借入の場合は、売買と異なり救済策も残されているのである。「私が土地を取得して、お金を支払った時は、法律は処理を助けてくれるが、後悔は役に立たない。売手はお金を消費して、残っていないかもしれぬからである。しかし、お金を借りる場合、無期限か短期間かに関わらず、借手は安全である。借り手が犯した金利に関する無分別は、いつでも修正できる可能性がある」(p.43-44)。安い金利での借換えを言っているのである。
<<書簡第六(高利禁止法の錯誤)>>
 この法に何ら良い所がなく、避けられぬ錯誤があることを示す。
 その第一は、個々人の緊急性に応じ、多くの人が必要とする資金調達を、なべて不可能にすることである。
 第二の錯誤は、資金調達を不可能にする状況の下で、多数の人により劣悪な手段を強制することである。金銭を借りられない人も、売物をもつ限り、欲しい物を入手できる。この法は、不利な借入れを禁じても、不利な売却を禁じていない。強いられた売却は損失となる。動産の強制執行では、上手く行っても、再調達価格の2/3にしかならないだろう。ベンサムは言う、このように神の摂理にして博愛の法は33%の費用がかかる。不動産の場合も例示されている。近時の戦争により不動産価格は、1/2,1/4になった。遺贈を受けた抵当権付(借入金付)不動産が一定期間値下がりした例をあげる。高利禁止法で利率が6%から5%に抑制されただけでも、実収入が減少し(著者の計算で資本の37%の損失)、物件を維持するより売却を選択することになる。
 以上は、金銭に代えて提供できる価値物を持つ人の場合である。これを、持たない人が、この法のお蔭で貸付を得たとすると、貸手が報復を受けるであろう。
 錯誤の説明に関する最後の項目は、法の実施によって人々の道徳に与える破壊的影響である。不信と忘恩から生まれる、彼らが受けざるを得ない苦痛のことである。この法を強行法とするには、約束を破り、援助の手を差し伸べた者を裏切る密告者が必要なのである。
<<書簡第七(高利禁止法の効力)>>
 高利禁止法がその目的に役立たぬとする考えを終えるに際し、アダム・スミスの記述について一言。『国富論』第二篇第四章の「どんな法律も、一般の利子率を、その法律制定当時における最低の市場利子率以下に引き下げることはできない」(スミス、1978、p.560)云々の記述は曖昧であり、将来の版で改定を希望する。
 どうして、この見解が真実となるのか、理解できない。この見解を真実と証明する理由は不十分である。事実は当然としても、どのように根拠づければよいのか。高利禁止法に、欠点があり、実施細目について「ざる法」だったからかも知れない。この見解が真実であるためには、法があらゆる手段の脱法行為を排除していなければならない。この法の効果を殺ぐには、すべての人が通報しないと決意―政府に対する共同行為か反乱なしには考えられない―することほど有効なことはない。この場合において、該見解がその法の効果は「最低の普通市場利子率」以下の利率だけには及ばないと限定することは、真実ではない。高利禁止に対しては、[最低市場利子率に比べて]より高い利率も、より低い利率も同様に、その維持が可能である。
 こうして、問題の低利率、すなわち当法制定直前の最低普通市場利率が、他のどの利率よりも、当法に対抗して公衆の保護に役立だろうことは、疑いがない。普通率のものが異常な高利率よりも多く、高利で貸すことの不評が異常率を防止するからである。
 スミス博士の言及した例が正しいと思っているのかと問われるなら、私は、当法律がまったく脱法に対する備えなしに制定されていると答える。それなしでは、説明不可能である多くの例がある。さもなければ貸したであろう人が全く貸さない例があり、下がった法定利率で貸す例もあろう。もう一つは、法律違反の例である。この貸手は借手を半信半疑で見ている。この事例では、旧法定利率(現法定利率より高い意味であろう:記者)に固定された貸付が、一番多いと考えるのが自然である。「その数が多い状況のみならず、問題の当法の新法への直接的反感がある状況からも、それらは自然に最も注意を引くだろう。思うに、これが上述の博士の一般的見解とって、基礎事実の要点であった」(p.69)。
 英国においては、自己の判断を信じ、高利問題に対する当法の意図を想起する限り、上述の見解が真実とは想像できない。ロシアでは、この主題に対する全法体系は、幸いながら、完全に効力をもっていない。
<<書簡第八(実質的高利の容認)>>
 高利禁止法がその名目にもかかわらず、如何に自己のよって立つ原則に矛盾しているか、諸事例をあげる。
 1. 手形振出しと再振出し
 2. 引受手形の額面以下売却
 これらは、効果的であるにしろ脱法に違いなく、いやしくも法により課税可能なら、見落とし以上に税を逃れられるものではない。これらを別にしても、法の保護の下に、堂々と、日常的に実施され、また実施可能な二つの便宜的方策があるのを思い出してもらいたい。第一は質屋である。第二例は、船舶抵当金銭貸借( bottomry )や船荷抵当金銭貸借( respondentia )である。その他、保険及びその派生商品、年金売買等高利取引を列挙できる。
<<書簡第九(ブラックストーン説の考察)>>
 これまでで、貸金において最善の手段を取っても他種の取引同様の弊害がある、とする私の考えを理解されたと思う。[ベンサムのオックスフォードの師]ブラックストーンは金利に言及する際に、貸金取引と馬の取引とを対比し、良好な取引に対する害悪は、両取引で同じだと断言した。この対比をもう少し推し進め、推論に役立たせたい。両取引の事例で、規制が望ましくないことは、充分明らかにしたと考える。
 ブラックストーンの議論が、馬貸借であったのに対し、ベンサムは、より重要な馬取引ビジネスである馬売買を用いる。「馬取引を円滑にするため、規制を拡大させる状況は、貸金と同様に公衆の悪評を得た。Jockey-ship なる非難の言葉では、馬に乗る人の芸より売る人の芸に使われ、郷紳の耳には高利と同じに聞こえる」(p.87)。当事者より格言に信を置く人は、悪名を押し付ける厄介者をののしるだけで、半ば勝利したとすることは良く知られている。
 ブラックストーンの文章で、貸金を馬売買に、利率を価格に、等々置き換えると以下のようになる。[( )内は置換された元の言葉。理解しにくい所のみ注記する]「文明国では、馬の売手の手放す不都合と買手の欲求に比例する以上の代価は法で禁じられる。それ以上の利潤は非道な jockey-ship (高利)として刑罰を加えられる。馬の価格の異常か適当かは、二つの状況に依存する。馬を手放すことおよび、同様な物が入手可能かの危険性(貸し倒れ)の不都合である。これらは法で見積もりが不可能なため、便宜的に郵便馬車(交換)に必要な以上に走り回る馬の頭数(流通貨幣量)による。売手の余剰が多くなるに従い、馬体価格(金利)は下がる。」等々[以上、お金と馬を置換して高利禁止の理不尽さを示すものか]。
 異常利潤は禁止されず、法の無視と矛盾に憤慨の極に達すると、様々な馬の価格を一定にして、売ってしまうのが簡単だと思われる。一定価格への反論として、個々の馬には個々の価値があるというものがあるかもしれない。私は、馬の価値の相違は、同一量のお金が、個々の個人や機会に使われる際の価値の相違ほど大きくはないと答えておく。
<<書簡第十(高利に対する偏見の諸原因)>>
 なぜその法が造られたのか、存在理由も考えねばならない。我々の先祖が誤っていたのなら、なぜそうなったのかを質す事は自然問いである。その理由は、特に制度とあいまって、権威による心の支配、偏見が生じることにある。我々の大方の宗教概念において、徳は禁欲から成る。多くの場合に役立つ規範のひとつが、自分のやりたい事、自己の利益になることを行うべきでないということである。お金を入手することは、多くの人がしたいことであるので、誰も行うべきことではない。利子付でお金を貸すことも、お金を得ることであり、どのような条件であっても、もちろん悪いことである。もっと悪いのは、ユダヤ人のようにふるまうことである。お金を得ることに対する反感はいや増し、そのユダヤ流は憎悪され、ユダヤ人を迫害した。
 歴史の中で、反ユダヤ感情はアリストテレスの言葉に支えられた。それはキリスト教世界を支配した。お金はすべて不毛なものであるとの格言である。偉大な哲学者にとってお金は何も生まない。しかしながら、お金を借りて一匹の牡羊と二匹の雌羊を買い、一緒にしておけば、たぶん不毛とはならない。その年の終わりには2、3匹の仔羊が得られるだろう。お金を返して、一匹を対価として支払っても、1、2匹が手元に残るであろう。
 貸金業はキリスト教徒の間では、盛んでなかった。借りる時は、友人であり利益供与者である貸手は、返す時には暴君に代わる。軽率な人々の間では、利己的な愛着と、浪費を熱愛し節約家を嫌う社会とが結びつく。消費を許される限り最大にするのが、少なくとも人生の利益である。そう考える人には、自分の資力内に消費を制限することがない習わしが生じる。功徳と消費習性が結びつき、資力がない者にも消費が好ましく思われる。成り上がり者は尊敬を購い、借りた富で飾った名声は、繁盛の間は、彼の性格を傲慢にする。
 節約家の状態は逆である。乱費せず、所有や遠い将来の愉みに満足を見出す。豊かではあっても、証券を所有することもなく、人々からは一種の支払い不能者、強欲で本当の破産者より犯罪的と見られかねないのである。
 借手に比べ貸手は嫌われ、利子を取る習慣も嫌われ、貸金業の立法は、遅々として進まなかった。ギリシャの昔から、お金の借手は、保護、愛情、憐憫の対象とされたが、貸手はケチな者として悪評を引き受けてきた。制限はもっぱら貸手に課され、実際に借手よりずっと抑圧された。
<<書簡第十一(重利)[複利とも訳されているが、ベンサムが問題としたのは、計算方法ではなく、利息に利息を付けることだったと想像する。故に、重利と訳した]>>
 重利は高利の一種であろう。いずれにせよ、法律は重利を高利の名の下には、罰することができないと思う。重利反対の理由は高利の罪とするか、過酷であるかによる。実際にはなかったことではあるが、コモンローが一貫していれば、重利は否定することはできなかった。重利否認の見方は善良ではあるが、有害である。
 もし、借手が契約に従い、その日の利息を支払えば、貸手はそれを再度貸して重利を得られる。もし支払わないなら、借手は利益を得、貸手は損失を被る。[重利の否定は]コモンローの衡平の原則に反し、利得者が損失者より優先されている。法は、不履行者を優遇し、信頼の不履行、不平等、不精励、怠慢に報いることになる。
 借手がその日の利息を支払うのは、往々にして出来ないかも知れない。その結果は?貸手が借手を破産させる権利を持っているのに行使すべきではないとされ、貸手はその代償を取り返せるのに損失を引受けるべきであるとされている。逮捕された債務者が破産者監獄ではなく審査官事務所へ連れていかれるなら、破産審査官は、債務を猶予する。それは不可能かもしれぬが、猶予されれば、保釈金や債権者の訴訟経費により、[社会的に?]重利としての費用の百倍も物入りである。
 これが、人が借金返済で窮地に陥った際の優遇策が生んだ結果である。数百ポンドの臨時の懲罰的費用が度々上院[最高裁判所を兼ねた]に支払われるのである。上院議員に正義の執行を求めるのは、当然でそれなりに自然であるが、処分の手間まで掛けるのは不自然である。
<<書簡第十二(訴訟幇助と訴訟援助)>>
 成人の金銭貸借の条件を自由にすべしという原則を、擁護できぬ別種の規制にも適用する。その規制とは、訴訟幇助と訴訟援助と呼ばれるものを禁ずる古臭い法のことである。訴訟幇助とは、[第三者が]どのような手段でもお金を支払って、訴訟を継続させることである。訴訟援助は、その内の特に、勝訴時の利益配分を条件として不動産係争者に金銭を供与するものをいう。
 これらの違犯に罰則は必要ないし、捜査する価値もない。目的にとって充分厳格となっている。この法の誤りを明らかにするのには、私がたまたま観察したお話をするだけでよい。幼少にして年3,000ポンドの価値のある地所を相続した人が、後見人に奪われた例である。有望な訴訟であると有能な弁護士は意気込んでも、お金がなかった。正義の裁判所も、財産を守るために別の財産を投入できる人達のためのものでしかない。原告と弁護士は、成果を二分することで費用を賄う合意をした。しかし、訴訟援助禁止の壁に突き当り、目論見はすべて駄目になった。
 野蛮時代でも、封建の無秩序下でも、こんな拘束的規制は奇妙である。一方の手で原告を誘いながら、もう一方の手で追い出すことが、不誠実で、矛盾し、かつ理性に反した政策でなかった時代はなかったし、ありえないと思う。しかし、法が進んだと万人が認める時代にも、法で救済できぬ危害が存在する。持てる権力で強化できそうな薄弱な権利を購うこと、そして、剣の力が金の力と相まって、裁判所を闊歩し、裁判官を恐怖させる危害である。現代英国の裁判官は、剣は全く気に掛けない。しかし、職務に相応しいもう一つの措置は求められことはなかった。「富は貧困に対して正義を独占している。そしてこの独占は、これらを強化し確実にもする規制の直接的趨勢であり、避けがたい結果である。しかし、この独占には現在裁判官の咎めがない。法がこの独占を生んでいるのである。しかし、法が望めば、いつでも解消できる。」(p.123)
 現実的には、必要とされる役立つ対策は、一つは反・「訴訟幇助および訴訟援助」法を打破することであり、もう一つは反高利法を打破することである。前者の場合、上記の例での原告は、訴訟援助―高利貸しに支払っても、なお半分が手元に残るだろう。後者の場合、現状では、反高利法が存在するために、必要額を借りられたとしても、かえって高利の金を借りることになる。もし、反高利法がなくなれば、現行の10倍の利率ではなく、1/10の利率で借りられるだろう。法の廃止で確実によくなるだろう。
 最後に、
<<書簡第十三 スミス博士へ、技芸の企画などについて>>
 再び、国富論の一節を取り上げる。「書簡第七」での引用箇所の直前にある、次の文章である。「ここで注意しておきたいのは、法定利子率は、最低の市場率をいくらか上回るべきであるにしても、それを大きく上回るべきではない、ということである。たとえば、大ブリテンの法定利子率が、8ないし10パーセントというように高く定められたならば、貸し付けられるはずであった貨幣の大部分は、浪費家[ prodigals ]や企画家[原訳:投機起業家][ projectors ]に貸し付けられてしまうだろう。というのは、こうした高い利子をよろこんで支払うのはかれらだけだからである。真面目な人々は、貨幣の使用にたいして、その使用から獲得できそうなものの一部分以上は支払わないだろうから、かれらはあえて競争までして借入れようとはしないだろう。このようにして、この国の資本の大部分は、利益をめざしてそれを有利に使用する見込みが最も多い人たちの手の届かないところにおかれて、それを浪費し破壊する見込みが最も多い人たちの手中に投げ込まれるであろう」(スミス、1978,p.559)[記者云う:ここで prodigals と projectors という言葉は、韻を踏んでいるというか、似た字面から選ばれたように思える。 projectors 「起業家」、「企画家」、そのもの自体には、悪い意味はないと思う(注2)が、大河内訳では「投機的企業家」、杉山訳では「投機家」と訳されている]。それ以外でも、スミスは、『国富論』第一篇第十章にも、企画家について好意的でない文章を書いている。
 スミスの狙いは、二種の人たち「浪費家」と「企画家」のうち後者に向けられている。冒険的精神を「浪費家」と同列に置いている。富を求めて、富の助力を得て、発明の道に打ち込む努力をする人びとに、この名称は無差別な非難の評価を伝えるものである。新製品の生産や既存商品の品質向上・費用節減を意図するすべての人を非難するものである。
 確かに高利子率は、浪費家だけでなく企画家の境遇にも適応している。しかも、慎慮を欠く企画家だけではなく、慎重かつ根拠のしっかりした企画家の境遇にも適応している。新しい事業は、既存の事業が提供できるほど確実な担保を提供出来ない。それに、金融業者はどんなに成功の見込みがあっても、新しい企画には手を出したがらない。利率は高くならざるを得ないであろう。しかしながら、「今、事業の日常業務であるものすべてはその最初には企画ではなかったかどうか、今、既存のものであるものすべてはかつて革新ではなかったかどうか」(p.236)を考えねばならない。根拠のしっかりした、慎重な企画家を高利禁止法が邪魔をしてきたことは間違いがない。もし、それらの障害が取り除かれれば、人類の繁栄はより促進されるだろう。
 ベンサムは、経済の繁栄は企画家の働きによるものと考える。スミスは、利子率を固定することによって企画家の無謀を押さえ、資本を生産的使用に導いた諸法律を評価している。ベンサムが繁栄の原因と見なすものを、スミスは障害と見なし、ベンサムが障害と見なすものをスミスは原因と見なしている。浪費を資本蓄積の障害と考えることについては、意見の相違はない。浪費は国の富裕に対して本質的かつ必然的に有害であるが、企画は偶然そうであるにすぎないからである。
 スミスは特定の技術製造業において、生産物の独占を供与することは有害であると認めている。ベンサムはこれに、こう付け加えたい。「法定利子(率)を、最も古い、最も基礎の固い、危険の最も少ない業種の経営者がつねに喜んで借入れる利率に制限することは、新しく考えられた業種の企画家たちを抑えて、それら経営者たちに貨幣市場の独占を与えることであって、この新規業種は、それが新しいという事情からだけするならば、すでにわたくしが述べましたように、古いもの以上に危険に見えないものは、一つとしてないのです」(p.245:一部改訳)。
 企画には失敗が不可避であるが、少しでもそれらを回避するために役立つのは、過去の企画の失敗の情報である。過去の企画の歴史を記録し、収集し、公刊するのが有効な方法であろう。鉱山で一山当てたり、海賊行為が上手くいくかというような一攫千金的行為は、成功体験は役立たず伝承されることもない。しかし、新しい機械や、高収益農法の発明は、成功例が模倣、拡大されて拡がってゆく。発明途上で、発明者や高利貸しの資金が消失したとしても、公共は利益を受ける。
 ベンサムはスミスに云う、「あなたは、…企画家たちは愚かで軽蔑すべき人種であるか、無頼で破壊的な人種であるかのどちらかだと聞かされておいでです。…わたくしは、二種の極めて有用で同様に迫害された人びと、高利貸しと企画家とを同じく強力に保護してくださるよう、お勧めする努力にやっと成功したと考えてよろしいでしょうか」(p.253-4)。

 次に本書とは直接の関連はないが、ベンサムと経済学を考える上で重要と思われる二点について、調べたことを追記しておく。
  [補論1.功利主義]
 「功利性の原理」あるいは、「最大多数の最大幸福の原理」。ベンサムがときに応じて「道徳寒暖計」「道徳的算術」「幸福計算」と呼んだものである。ベンサム自身の説明では、「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。」(ベンサム、1979、p.82)としている。
 ベンサムは思想自体についてはそれほど独創的ではないが、思想を実際面に応用する手段、方法においては最も独創的であるとされる。有江論文では、ベンサムの独創性を、「ベンサムに独特なのは、功利ないし効用を個々人の快苦の大きさというかたちで客観的に計算可能であるとみなした点にある。」(有江、1993、p.50:下線原文)と評価し、道徳の判断基準から(F・ハチソンの如き)先験的・神学的目的論を排除して、人間を基礎に置いたとされている。このあたりは小生には不明ながら、個人の功利・効用を計算可能と考えたのは、ベンサム以前にも、グラスランやコンディヤック等がいたであろう。しかし、個人の集合=社会についても、功利・効用を考え、道徳の判断基準としたのは、彼以前にいたかどうか。この点に彼の独自性があるように思えるのだがどうであろうか。ベンサムは言う「ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会の幸福のことであり、特定の個人である場合には、その個人の幸福のことである。…それでは、社会の利益とはなんであろうか。それは社会を構成している個々の成員の利益の総計にほかならない」(ベンサム、1979、p.83)。小生などは、功利主義( utilitarianism )という名称から、つい効用( utility )と結び付け考えがちである。一般にも、ベンサムージェヴォンズのラインで限界効用学派を考える見方は多い(例えば、ハイルブローナー)。しかしながら、ベンサムを、限界効用学派の先達とするよりも、いわば社会的厚生関数のそれとする方が相応しいと考えたいのである。
 与太話は切り上げて、功利主義の批判点について書く。当時からベンサム主義には批判があった。その一つは、「幾何学的方法」を適用しているというマコーレーに代表されるものである。不可測のものを測定可能のようにして、数学的装いを凝らし、観念的遊戯に耽っているとの批判である。当時は幾何学の声望が高かったのでそう呼ばれた。現実的知識を増やすことのない、見せかけの科学と批判されたのである。実際に、ベンサム自身は功利主義の計算方法を提唱してはいるが、実際にその計算を示したことはないのである。
 もう一つの批判は、個人と社会全体との調和の問題である。ベンサムによれば、同情という例外を除き、個人的利害のみが個人を動かす動機であり、個人を幸福に導く。ベンサムの世界は、利益や快楽を追求する個人の集合体なのである。当然個人間に利害の対立が考えられる。けれども、諸個人の利害の調整は、「三つの源―すなわち法律、宗教、および世論―から生まれる希望と恐怖によって実現することができるというのである」(ミル、1952、p.139)。しかしながら、ヴァイナーによれば、「ベンサムによる自然的調和論の明白な公式化については、私は、彼の著わしたもののなかのどこにもそれをみいだすことができなかった」(1952、p.170)のであり、「個人の幸福と一般の幸福との間に橋渡しすることができなかった」(1952、p.173)と批判する。ベンサムの個人は抽象的な存在であって、均質な物であり、単純に加算できるとの想定されている。ベンサムも、経済政策的には貧者への分配を認めているから、貧しい人ほど効用が大きいとの限界効用逓減的な考えが根底にあるのであろうが(注3)、個人の効用の集計では、加算の困難性については考えられていないようである。

 [補論2.ベンサムの経済学]
 ベンサムが経済学を研究した時期は、先に見たように、ほぼディンウィディのいう人生中期(1788~1803年)約15年間に該当する。この時期を『ベンサム経済学著作集』を編集したW.スタークは、さらに三期に分けている。以下に主として山下論文に寄りかかりながら、その概要を記す。
 第一期(1786~93年)
 『高利の擁護』(1787)についてはすでに詳述したので内容は省略。ただ、第二版に予定されていて、実際には付けられることのなかった「追伸」には、彼の意図が明確に現れている。国富の増加は、一国の利用可能な資本量によって制限される。高利禁止法は、貯蓄を妨げる結果を招き、資本蓄積を、ひいては国富増進を阻害すると考えられたのである。この国富増進は資本量に制限されるという原理は、一方では彼の自由放任主義のドグマとなり、他方では植民地放棄論[『植民地と海軍』(1790頃執筆)]となった。
 政府の産業奨励、規制は、部門間の資本移動にすぎず、資本の絶対量を増加させない。そして、植民地貿易を奨励しそれに資本を集中することは、国内産業向けの資本を移転することで、国内産業(特にベンサムは農業を有利な産業と考えた)の発展を妨げる。
 ベンサムは、スミスとちがって、功利主義的方法を経済学に持ち込む。経済学も他の学問同様、サイエンス(原理論)とアート(政策論)に分けられが、あくまでアートを主体とすべきで、サイエンスはこれに従属するものとする。アートの立場からは、ベンサムのいう agenda (政府のなすべきこと), non-agenda (なしてはならないこと)が重要である。彼が希求したのは個々の政策の可否を判断する基礎原理である。第一期の経済的政策の基調は国内的には自由放任主義であり、対外的には植民地放棄と自由貿易であった。『政治経済学便覧』(1793~95執筆)には agenda, non-agenda としてこれらの政策が列記されている。
 第二期(1794~1800年)
 1793年革命政権との対仏戦争が開始。英国は、戦争の長期化による戦費負担と外国貿易途絶から経済的危機に見舞われる。ベンサムの関心は財政問題に集中する。しかしそれは、戦費負担の問題を直接的な契機とするものではなく、『便覧』の立場をさらに拡張して租税問題にも及ぼそうという意図であった(山下、1959、p.63)という。ともあれ、公債発行と英蘭銀行からの借款で調達した財政は、危機的状況にあった。ベンサムは、増税によらない財政再建を構想した。貨幣取引分野、金融・保険業務の国営化も検討したが、彼が最も思索し、かつ実現に努力した事案であり、また経済理論的にも興味深いのは利付政府紙幣( Annuity Note )の発行計画である。「歳入増大計画」(1794-5年執筆)および「新種紙幣発行の提唱」(1795-6年執筆)の二論文がある。
 これは、利付年金証券としての機能と流通手段としての紙幣の機能が結合したものである。「この紙幣は永久年金( perpetual redeemable annuity )のかたちで発行されるわけである。…新紙幣は一方では利付たることによって、同一人の手に保持されているかぎりで債権(ストック)[=利子元本]すなわち恒久的所得ともなり、他方、任意に移転しうることによって貨幣(マネー)=流通手段ともなる。この二重機能こそ、新紙幣のもっともオリジナルな特質としてかれの自負するところであった」(山下、1959、p.66)(注4)。この新紙幣のメリツットには、第一に、既発行の公債を、順次低利の新紙幣で借り換えることにより、財政の利子負担を減らせるという大きな意義がある。第二に、下層階級にも簡便な利子取得の手段を提供し、勤倹貯蓄の精神を涵養し、もって生活改善に役立させる効果がある。そして第三に「経済的利益」として、生産拡大に資することである。公債償還により投資家の手に戻された貨幣は、新資本として投入され生産を拡大すると期待されるのである。
 最後の第三点の考察が、貨幣量の変動と実物的生産との関連との研究へ道を開いた。旧来の実物的分析から新しい貨幣-実物分析への思考の発展である。「利付政府紙幣と国富」草稿(1800年執筆)がそれである。貨幣量の増加は単なる名目的富の増加にすぎない。ベンサムにとって唯一の基本的生産要素は労働である。増加貨幣量=名目的富増大が実質的富の増大となるには、労働雇用を増加させる必要がある。増加貨幣は、一つには失業者の雇用と不完全就業者の労働強化により雇用量を増大させることによって、また機械設備への投資等、生産条件改善による生産性の向上によっても実質的富を増加させるとした。
 しかしながら、貨幣量の増加は一方では失業者の雇用等によって実質的生産の増大に寄与することは確かだとしても、他方賃金率上昇を通じて物価水準の上昇にその効果を奪われることも認める。物価上昇は万人に影響し、所得増は一部階級に限られる。功利主義で判定すれば、利得は損失に及ばぬとして、紙幣増発策は否定される。それでもベンサムは、国債の償還と国富の増加のためには、止むを得ざる策であると紙幣増発を肯定しようとする。そのため、つとめて物価上昇を低評価しようとするが、草稿を改めるごとにベンサムの態度は動揺する。また、後の稿ほど、物価上昇の説明を競争による生産要素価格上昇によるものから、貨幣量変動と物価水準を直接結び付ける貨幣数量説的なものに変化してゆく。
 その他、この「利付政府紙幣と国富」の3,4稿では公債償還の二つの方式、減債基金方式、と政府紙幣発行方式、が国富増進の観点から比較されている。基金方式は、税負担者の消費削減分が公債所有者に移転されるだけで、貨幣量は不変。紙幣方式は、償還分が新紙幣で調達されるので、貨幣量増となる。経済効果に差が出ることになる。
 ベンサムにおいては、紙幣の増加が即資本の増加とされている。その転換を制約する条件である1.生産資源の利用可能性、2.資本の存続を保証する予想利潤率、の内、2.についてはほとんど考慮されていない。1.については、もっぱら遊休労働力の存在を前提としてその機能化に考察を集中した。彼がケインズと対比される所以である。ただしケインズの直面したのは、労働のみならず資本設備も完全に稼働せず遊休している時代であったが、ベンサムが生きたのは生産力や国富の増大が資本量で制約されていた時代、資本不足の克服が課題とされた時代であった。
 第三期(1800~1804年)
 対仏戦争の最中1797年英蘭銀行は銀行券の兌換を停止した。その後、物価上昇と為替の逆調が著しく、この原因を巡って地金論争が起こった。不換銀行券の乱発にその原因を求める地金論者と、銀行券の発行は必要に応じたもので、銀行券の収縮はかえって銀行及び政府を破綻させるとする反地金論者との論争である。ベンサムは『真の警告』(1801年)において、反地金論者と同じく銀行券は英蘭銀行だけでなく地方銀行により独自の原則で発行されていることを強調する。とともに、地方銀行の実情から、その脆弱性と不健全な投機性が経済的混乱を引き起こしているとした。しかしながら、「ベンサムの議論には、いくたの論証の不備や独断のみられることも否みがたいところである。」(山下、1960、p.25)そうであるから、詳細は略す。
 ただ『真の警告』(および第三期に書かれた論文と併せて)には、現状分析のよって立つ理論的基盤も伺える。「とくに物価騰貴の問題が効用価値論とそれに由来する貨幣価値の把握を基礎として究明されていることは注目されねばならない」(山下、1960、p.30)。すべての価値は効用にもとづくとされ、財貨の価値から労働や費用が排除される。価値(価格)は生産過程との関係を離れ、交換過程から把握される。しかし、貨幣は内在的価値を有する一般財貨と異なりそれが媒介する交換対象の財貨の価値を反射的に持つ。一般財貨の量の増加は、(逓増的であるとの認識は明示されていないと思われる:記者)価値の増加となる。これに反し、貨幣の増加は、交換される財貨量したがって価値量が不変の場合、その単位価値は増加量に反比例して減少する。
 さらには、第二期での貨幣の増加が、生産増と物価騰貴を生むという考察がより深められた。貨幣増が富を増加させる程度は、増加貨幣量だけでなく貨幣の導入径路にもよると考えた。貨幣が生産階級の手に渡り生産の増加に用いられるなら国富は増える。不生産階級により奢侈に消費されるなら国富は増加しない。この二つの径路を商業的方法( commercial way )と非商業的方法( non- commercial way )と呼んだ。
 ベンサムの経済理論は基本的には、遊休労働力の雇用に着目した貨幣数量説の拡充版とされる。貨幣の中立性を否定し、その実物経済に与える影響を(連続的影響説と云ってよかろう)認めた。上記のように価値論でも古典派と大きく異なり、リカードにより批判されることとなる。

 米国の古書店より購入。標題紙に "LIBRARY OF THE BUSINESS SCHOOL OF HARVARD UNIVERSITY” の型押しがある。本書初版は、1787年、1788年にダブリン版(いわゆる海賊版だろう)があり、1790年に私蔵の第二版発行となる。状態は良好。


(注1) 利子徴収を禁じたスコラ哲学者トマス・アキナスの伝記(チェスタトン、1976、p.366)中の言葉。この箇所は有江論文で知った。
(注2)「企画家という単語の醜悪な響き」(邦訳、p.251)あるいは、「もし言葉を人間と同様に破門することが法律の権限内のことであるとしますならば、発明を生もうとする勤労の起動力はおそらく、特許の認可を与える法律から得られる奨励に劣らない奨励を、企画および企画家という言葉に対する私権剥奪法から得られるだろうということです。」(邦訳、p.252)とのベンサム記載から見ると、これらの言葉には、当時、負のイメージがあったとも思える。
(注3)「「より富める者の幸福超過の大きさは、富の超過とおなじではないであろう」…といった限界効用逓減的発想」(坂井、2005、p.129)があった。
(注4)新紙幣が、当時も流通した償還期限のないコンソル公債と大きな違いがあるのか、私にはよく解らない。あるいは、小口化して庶民に買いやすくした点が違いだろうか。

(参考文献)
  1. 有江大介 「ベンサムにおける功利と正義 ―市場社会と経済学の前提-」 (平井俊顕・不貝保則編 『市場社会の検証 ―スミスからケインズまで-』 ミネルヴァ書房、1993年 所収)
  2. 市岡義章 「ジェレミー・ベンサム 社会工学者―治世と管理の経済学」 (太田一廣・鈴木信雄・高哲男・八木紀一郎編 『新版 経済思想史』 名古屋大学出版会、2008年 所収)
  3. ヴァイナー 富田富士雄訳 「ベンサム、ミル論」 (スピーゲル編 越村信三郎・長洲一二監訳 『古典学派 経済思想発展史』 東洋経済新報社、1952年 所収)
  4. 坂井広明 「ジェレミー・ベンサム ―利益・エコノミー・公共性の秩序学―」 (鈴木信雄他 『経済学の古典的世界 1 経済思想 第4巻』 日本経済評論社、2005年 所収。)
  5. アダム・スミス 大河内一男監訳 『国富論 Ⅰ』 中公文庫、1978年
  6. アダム・スミス 水田洋監訳 杉山忠平訳 『国富論 2』 岩波文庫、2000年
  7. J.K.チェスタトン 生地竹郎訳 「聖トマス・キナス」 (『G.K.チェスタトン著作集6』 春秋社、1976年)
  8. 千賀重義 「ベンサムのスミス批判 ―『高利の弁護』を中心に-」 (田中正司編著 『スコットランド啓蒙思想研究 ―スミス経済学の視界-』 北樹出版、1988年 所収)
  9. 中央大学図書館編 『ジェレミー・ベンサム著作解題目録』 中央大学図書館、1989年
  10. 土屋恵一郎 『怪物ベンサム 快楽主義の予言した社会』 講談社学術文庫、2012年
  11. J.R.ディンウィディ 永井義雄・近藤加代子訳 『ベンサム』 日本経済評論社、1993年
  12. 永井義雄 『ベンサム 人類の知的遺産』 講談社、1982年 (この本に『高利の擁護』の部分訳が収められている)
  13. 永井義雄 『自由と調和を求めて -ベンサム時代の政治・経済思想―』 ミネルヴァ書房、2000年
  14. 永井義雄 『ベンサム イギリス思想叢書7』 研究社、2003年
  15. ロバート・L・ハイルブローナー 中村達也・阿部司訳 『私は、経済学をどう読んできたか』 ちくま学芸文庫、2003年
  16. ベンサム 山下重一訳 『道徳および立法の諸原理序説』 (『世界の名著 第49巻』、中央公論社、中公バックス版、1979年 所収)
  17. ミル 田中正司訳 「ベンサム論」 (スピーゲル編 越村信三郎・長洲一二監訳 『古典学派 経済思想発展史』 東洋経済新報社、1952年 所収)
  18. 山下博 「ベンサムの経済理論(一)」 同志社大学経済論叢 9 ( 3-4 ) , pp.46 - 87 , 1959-05-25 , 同志社大学経済学会
  19. 山下博 「ベンサムの経済理論(二)」1同志社大学経済論叢10 ( 5 ) , pp.12 - 46 , 1960-07-25 , 同志社大学経済学会


 
 
 
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(2013.2.2 記)



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