KEYNES, J. M., AUTOGRAPH POST CARD SIGNED To May, 19 September 1922 J.M.ケインズ、メイ宛自筆署名入り葉書1葉。1919年9月22日付。 内容を購入当時の解説文を参照に解読すれば下記のとおり。 消印は、Oare Marlborough となっている。宛先は、 52 Pyrford Rd. Cannonbery N L (North London ?) の G (R ?).E.May Esqである。 文面は、
となる。 投函地オェアは、ウィルトシャー州に属しマルボロー近郊、ロンドンの西約130キロの農村。宛先住居地を現在のグーグル地図では見つけられないが、Pyrford Rd.もCannonbery もロンドン市北部にある。 ざっと、調べた事だけを書く。 宛名人の最初の文字は、RともGとも見える。もし、G. E.May だとすれば、May, Sir George Ernest(1871-1946) プルデンシャル保険会社に勤務、事務局長(Secretary)を勤めた人物のことか。Moggridge Maynard Keynes 1992 巻末・人物一覧表に記載あり。1931年に財政支出と経済に関する国会のメイ委員会の議長となる(ケインズも首相に当委員会レポートの意見を求められた)。 さらに妄想を逞しくすれば、翌1923年にケインズは、「プロヴィンシャル保険会社」の取締役に就任(終身その地位に留まる)しているから、業界の先輩と何らかの連絡があったのかも知れない。メイは投資部門の専門家であった。先にケインズは、1919年9月に、ナショナル相互生命保険会社の取締役に就任(1938年退職)している。この時にケインズを取締役に推したのは、同社の全国的に著名な保険計理人の一人、ジェフリー・マークス(Geoffrey Marks)である(ミロ・ケインズ、1978、p..293)。それにしても、同業の二社の役員に就くのは、利益相反行為等に抵触するように思えるが、そのような規制はなかったのであろうか。 1922年のケインズの大きな活動は、次のとおり。 ・年初『条約の改定』を公刊。 ・『ヨーロッパの再建』を1922年4月から1923年1月にかけて刊行した。「マンチェスター・ガーデアン」(新聞) の商業補遣として発行されたものである。 ・4月ジェノア国際会議(金本位復帰を決めた国際会議)に「マンチェスター・ガーデアン」紙他の特派員として参加。 投函時前後のケインズの動静について詳しく見ると、 8月8日ベルギーの保養地オステントで、リディア(結婚は1925年)と逢瀬を愉しみ、ディアギレフバレー団を鑑賞しギャンブルを楽しむ。ハンブルグの「国際週間」会議(開催は8月17日から27日)に参加、最終日に公開演説をする。リディアは一足先に戻ったようで、23日には英国でバレーを踊っている。ケインズは帰国後、ブルムスベリー・グループの根城であるチャールストンに8月30日から9月5日まで滞在。「9月7日、二人(メイナードとリィデア:引用者)は、ウィルトシャー州マルボロー近郊のオェアの牧師館に旅した。その建物は、財務省で部下であったジョフリー・フライから借りた。ここで、結局3週間一緒に過ごすことになる」(Skidelsky,1992,p.115)。そこでは、乗馬を楽しんだ。29日にバレーのリハーサルのために、リディアがロンドンに先発。メイナードはなお数日留まり、鹿狩りで無聊を慰めた。 J.M. Keynes The economic Consequence of the Peace 1920 の遊び紙に貼付。ケインズの書簡は高くて買えないので、本に貼られている葉書を見つけて購入。これまで、サインのページに載せていたが、こちらで掲げることにした。 (参考文献)
(2013.3.10作成) |