WEBER, MAX,
Die protestantische Ethik und der "Geist" des kapitalismus., in : Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, J. C. B. Mohr, Tübingen, Bd.XX, Heft 1, S.1-54; Bd. XXI, Heft 1, S.1-110., 1905, 8vo.

 マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1905年刊、初版。
(以下、地の文では、ウェーバーと表記。本書は発表当初は論文であるため、『倫理』あるいは「倫理」と表記する。邦訳の引用は大塚訳からである。)
 最初に、1905年(注1)ヤッフェ編集の『社会科学と社会政策雑誌』Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik )に発表されたもの。初版本である。奇しくも同じドイツで、同じ1905年に、世界を揺るがした論文がもう一つ発表されている。いうまでもなく、アインシュタインの「運動する物体の電気力学」である。ドイツの古書店では、雑誌の山の中に、特殊相対論の誕生を告げるこの論文を掲載した『物理年報』(Annalen der Physik )の1905年号が埋もれていないかと目を光らせているそうである。『物理年報』の揃い物が、ずいぶん高い値段で売りに出ているのを見たことがある。社会科学では、論文形態は自然科学ほど重視されていない。にもかかわらず、ウェーバーの本論文が掲載された『社会科学と社会政策雑誌』当該号を長年探求したが、入手できなかった。こうして、止むを得ず、雑誌掲載分を製本したものを、結構いい値段で買うことになった。
 なお、『社会科学と社会政策雑誌』所収のこの論文は、『宗教社会学論集』(Gesammelte Aufsätze zur Religiossoziologie BandI,1920)に収められる際、1919~20年の冬にウェーバーによって大幅に手を入れられていることを安藤英治は明らかにした。その異同は、安藤編、梶山力訳の邦訳で知ることが出来る。

 さて、「相対性理論」といえば、「素粒子の標準理論モデル」に比べて、ましてや「ビッグバン説」や「超弦理論」に比べて、ずっと実証され、信頼性の高い物理理論であろう。それでも、数年に一度の頻度で「相対性理論は間違っている」との内容の本が刊行されるのを見る。そればかりでなく、相対論の大家である故本間龍雄に対し、相対論の誤りを説く某大学の助教授がいたそうである。今すぐ自分の質問に答えよ。答えられないなら、帰るといって、内山が席を蹴立てた「事件」もあったらしい(松田卓也・二間瀬敏史、1996p.3)。繰り返し批判にさらされるのは、大きな影響を与えた名著の名誉とすべきものか。 
 このウェーバーの論文をめぐっても、「生前中に始まり。いまなお静まりそうにない大論争」(ブローグ、1997p.294)が継続している。旧聞に属するが、2002年日本でも羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』の刊行を機に、新たに大きな論争が引き起こされた。この批判本は「トンデモ本」の類か否か、原論文の入手を機に、当論争関連本を遅まきながら読んでみた。以下その感想である。
 本来は、まず本HPの目的からして、『倫理』そのものの概要を書くのがスジである。今回は羽入本をめぐる論争を主としたので、概要は末尾(附論1)に簡単に示した。直ちに論争に取り掛かる。
 論争関係で読んだものは、次の5冊である。発行順に、羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』(以下『犯罪』と簡記、以下同様)、折原浩『ヴェーバー学のすすめ』(『すすめ』)、折原浩『学問の未来』(『未来』)、橋本努・矢野善郎編『日本マックス・ウェーバー論争』(『論争』)、羽入辰郎『学問とは何か』(『何か』)である。これだけ読むので精一杯で、論争についてのホームページまで読む余裕はなかった。

羽入の『犯罪』がベストセラーとなって、広く受け入れられたのは、それなりの社会的基盤があったに違いない。つとに(1996年)、読書通と知られる谷沢永一は、次のように書いている。「しかし私はウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は』(岩波文庫)は紛い物であり下手物[げてもの:原文ルビ、以下同様]であると思っている。あの論理からは有効な応用例が生れていないではないか。[中略]私のような通常人がしかと知覚しえないような、なにやら幽邃[ゆうすい]な議論をしている書物は偽物[ぱちもん]であると思い定めるようになった」(谷沢、1996p.144-145)。本書には、議論がやたら難しくて、何か誤魔化しがあるのではないかとの印象を、少なくとも一部の人々から、既に持たれていたのである。そこには、専門家相手の論文が、名著とされるようになった不幸があるのかも知れないが。
 また、門外漢である記者には判らない世界であるとお断りしたうえで、学界の若手の閉塞感も背景にあるのではないかと感じる。『犯罪』の著者は、「著者紹介」に青森県立保健大学教授と書かれている(あとがきによると、世田谷が自宅と記されているから、少なくとも一時は単身赴任であろう)。橋本努は、『犯罪』を絶賛した専門家として当時長野県看護大学に在籍した江藤裕之をあげている。新設される大学、新たな就職口の提供は、実学的な所にしかないのだろうか。同じような境遇にある人が快哉といって悪ければ共感を感じたが故に絶賛したとするのは邪推か(それにしても、短い書評を書いただけで、応答責任を求められる(『論争』、p.4)とは、学者も因業な商売である)。
 一方、論争相手の雄である折原浩は東大退職後、名大と名古屋の私大で教鞭を取っていたそうな。東大は、慣例で60歳で早期に退職する(らしい)事情があるにせよ、結果的には、ただでさえ少ないポストを老人が奪えば、「ルサンチマン」も生まれようというものである。学界の既成階層に対する反発が底流にあったのではないかと思いたくなる。以上は、事情を知らないサラリーマン退職者の下司の勘繰りである。

 確かに『犯罪』には、ドラマチック仕立てといってもよい、推理小説を読むような楽しさがあった。加えて著者の父君が信仰されていたという日蓮宗の教祖のごとき戦闘精神にあふれている。謎解きの面白さは、多少自己陶酔的な臭みも含め、私には梅原猛の法隆寺論『隠された十字架』(1972)を読んだときの事を思い出させた。梅原のこの本も、刊行時には専門家には、評判が悪かった。しかし、梅原は、その後「梅原日本学」を展開することによって、文化勲章を受章するのである。
 『犯罪』が「山本七平賞」を受賞したことについて、著者羽入を批判する折原浩や笹部幸隆は、次のようにいう。事前に折原が紀要論文で、『犯罪』を批判していたにもかかわらず、賞の審査委員がそれを考慮していないのは疑問だと(『何か』、p.150:『論争』、p.308)。審査委員は、紀要論文の類まで目を通せと要求しているのである。普通の読書人(審査委員であっても、読書巧者とはいえ専門外については一般の読書人とそう隔絶してはいまい)に本気でそう考えているのだろうか。医学部の教授が患者の診療に忙しい町医者に、彼らは20年前の知識で仕事をしていると評するかのような、上からの目線を感じる。本は、それ自体で完結しており、それ自身が優れたものであれば、評価していいのかと思える。
 とはいえ、『犯罪』には、素人なりの疑念を持っている。鈴木あきらという方は、論争HPで、羽入の本の「検証の手付き、書き方」について、「芸」があると評価しているらしい(『何か』、p.264)。この「芸」という言葉は、書評の名人であった故丸谷才一が本を誉めるときによく使った。丸谷がよく使った著作の褒辞に、もう一つ、「柄が大きい」というのがあった。『犯罪』は、芸はあるのは確かだが、いかにも柄の大きさに欠ける嫌いがある。文献の細かな部分を論ずるだけでは、いかにも柄が小さく、一般読者の興味を繋ぎ留めることができない。そこはぜひともウェーバーを犯罪者に仕立てる必要があった。ウェーバーが、文献を参照する際、当然明確に記載すべき事項を、見落とした、あるいは、いわでもの明白なこととして省略したとするのではなく、故意による隠蔽があったとする。すなわち、知的誠実性の欠如、さらには詐欺師とすれば衆目を集めることができる。このようにして、いわば折原のいう「擬似問題」ならぬ、「擬似柄の大きさ」を仕立てたのではないか、違うか知らん。
 羽入は、序文において、あらかじめ宣言している。「本書で重要であり問題とされるのは、学者としてのマックス・ヴェーバーの「知的誠実性(原語等略:引用者)」のみである」(『犯罪』、p.10)。そして、ウェーバーが知的誠実性を欠いていたとしても、「しかしその場合にもなお、彼によって『倫理』論文において主張されたテーゼ自体は歴史的には妥当な主張として留まり続ける、ということは十分に有り得ることである」(『犯罪』、p.9)と。自分は、ウェーバーの「知的誠実性」をのみを問題にする態度を明白にしている。そして、「知的誠実性」にこだわる理由について、記者の想像を裏付けるかのように、後に『何か』の中で率直に書いている。少し長いが、引いておく。「筆者にとってはマックス・ヴェーバーは目の前にたちふさがる巨大な壁であった。それを倒すしか、筆者の生きる道はなかった。だから拙著を黙殺されることが何より怖かった。筆者のように『マックス・ヴェーバーの犯罪』などというセンセーショナルな―折原好みの言葉で言えば「耳目煽動(聳動」?:引用者)的な―書名を本に付け、「序文」でヴェーバーを「詐欺師」と断定すれば、読者の記憶には残る」(p.195)。
 羽入は、『犯罪』の主題をウェーバーの「知的誠実性」問題に絞り込んだが、それを論証する材料(テキスト)の方も非常に限定的である。ウェーバーの全著作の中から、『倫理』論文に限り、『倫理』の中から第一章(問題提起の章)に限り、それも「第三節 ルッターの天職観念―研究の課題」に付された注(3)、および同じく第一章の「第二節 資本主義の「精神」」に土俵を限っている。前者は邦訳で約8頁、後者は56頁の分量である。それを、『犯罪』の第1章、第2章(前者)および、第3章、第4章(後者)で扱っている。
 その上で、羽入は、ウェーバーを「文献学という万力の拷問にかけねばならないのである」(『犯罪、p.4』)として、「拷問」の結果、ウェーバーは詐欺師であると論断するのである。もっとも、丸山尚士(『論争』、p.21)の口を借りれば、羽入の「(自称)文献学」とは、「結局は「文献を正しく引用したか」あるいは「より一次資料に近いものを見たか」という、ある意味低次元の判断基準」であるらしい。

文献の引用ということで、冒頭の「倫理」と「相対論」の対比の連想から、社会科学と自然科学と違いを素人なりに考えてみた。自然科学では、演繹的に導かれた理論であっても、その主張を確認する方法として実験がある。実験は万人に開かれており、誰もが検証できる。実験結果が一つでも、その理論に反していれば、それは棄却される(精確には信頼度99.9%等内の範囲外であれば反例も許容)。社会科学においては、学説の論証過程で過去の文献が典拠とされることがある。引用文献が明示されていれば、確認は万人に開かれており、誰でも確かめることが出来る。しかし、引用・参照した部分の内容が誤っていたり、原文の趣旨を間違って引用しても、直ちにその学説は誤りだとはならない。引用・参照は論証のための一つの例示に過ぎない場合が多いからである。あるいは、発想の起源、優先権、権威付けを示すだけのものかも知れない。
 羽入は誤読を許さない。それも原典を正確に読むことを要求する。しかし、羽入の筆法をまねて「身も蓋もない」ことをいうと、誤読、誤引用は直ちにテーゼの誤りとは結びつかない。創造は誤読に始まることもある。「正確誤読せざるは教師に終わる」(注2)という言葉もある。マルクスもケインズも、本の読み方は相当以上に強引である。

 羽入の『犯罪』での肝要な主張はこうである。ウェーバーは、一見相反すると思われる「プロテスタンティズムの精神」と「近代資本主義の精神」(あるいは「現世への無関心」と「営利追及、貨幣蓄積」)を結びつけるのに、フランクリン『自伝』に引用されていた聖書の一句から"Beruf"という語を取り出した。古典古代時代にも、カソリック教徒にも見られず、プロテスタントに特有な「使命としての職業」思想を表現する言葉である。そして、その"Beruf"の語源分析「注3」によって、一気にルターへと跳躍し(その聖書翻訳を通じて)、古プロテスタンティズムへとたどり着いた。この「跳躍のいかんに、『倫理』論文全体の構成の成否のすべてが懸かっていることになる」(p.127)のであり、「したがってフランクリンの『自伝』からの右引用部分(聖書の句:引用者)こそが、ヴェーバーによる架橋工事(跳躍のこと:引用者)の”アルファでありオメガである”ということになる」(p.218)。ところが、その肝心要の聖書該当句(フランクリでは、"Calling")をルターは、"Beruf"と訳していない(詳細後記)。その事実を知りながら故意に隠したことを「文献学的」手法で明らかにし、ウェーバーは詐欺師だと断定する。他に、「資本主義の精神」の理念型形成に関するウェーバー批判もある。
  これに対し、折原は『すすめ』と『未来』で羽入を批判する。羽入は『倫理』の細部に見つけ出した「文献学的」な不備を問題とし、それが「「『倫理』論文全体の論証」「『倫理』論文の全論証構造」[中略]を揺るがしかねない重大な問題」(『すすめ』、p.59:強調原文)であるにもかかわらず、その箇所でウェーバーは詐術を働いたと主張している。しかしそれは、折原にすれば、「羽入の脳裏にのみ宿り、外から「倫理」に持ち込まれた擬似問題にすぎず」(同、p.60)、「羽入は、歴史的・社会科学方法論の理解を書き、「意味(因果)帰属」を「語形合わせ」と取り違えている」(『未来』、p.163)ものなのである。
  羽入は、ウェーバーの全著作から、『倫理』を取り上げ、主として、その第一章、第三節の注3という細部を取り上げ、しかもそこでの典拠の扱い方のみにこだわり、細部へ細部へと入込んでゆく。これに対し、折原はウェーバーの論証を『倫理』全体の広い文脈の中での意味、さらには全著作の中での意味から考えていこうとする。広い範囲へ、広い背景へと視野を広げようとする。
 ついで、『論争』の中から、折原以外の論者による羽入批判のいくつかをピックアップして引いてみる。

 「折原氏が早くから指摘するように、羽入氏がどれほど「『倫理』の『全論証構造』の核心がルターに関する節の脚注にある」と力説しようと、その「全論証構造」が明示されない限り、結局『犯罪』でのルター論からはどのような展望も見えてこないのである」(橋本直人:p.154)。
 「しかも彼の”間違い捜し”は所詮、ウェーバーのテーゼの”例示”のレヴェルの間違い捜しに過ぎず、例示の仕方を間違えたからといって骨組みとしてのテーゼ自体の間違にはならない。[中略]この論文の中身を知らない読者は、羽入が取り上げて批判しているところをこの論文にとって重大な箇所だと誤解し、そこが反駁されたのだからもうこの論文はダメだと短絡的に判断してしまう。ウェーバーを丹念に読んできた人間ほどこの書に反発を抱き、ウェーバーを知らない人ほどワクワクする”推理小説”のようだとこの書を称賛する、という事態の理由はここにある」(横田理博:p.213)。
  「『犯罪』にたいする反響はヴェーバー研究書としての側面からは説明できない、という点である」(橋本直人:p.156)。

 ここで、羽入の「推理小説仕立て」の文の芸に戻って来たわけだが、思うに記者のような素人にとって、「ウェーバー詐欺師説」を強く印象付けられたのは、羽入の文献学的な考証の部分というよりも、次のようなフレーズの数々であった。ウェーバーが、推論の典拠をOED(オックスフォード英語辞典)のみに依存したことに対し、いわく、「広辞苑の用例だけに依拠して、ある語とある語の影響関係を論じ、それを論文にまで仰々しく書く国語学者がわが国にいるであろうか」と。あるいは、ウェーバーが、16世紀英訳聖書の現物を確認していないことに対し、いわく「ヨーロッパにいて現物の英訳聖書が手に取れぬわけがない」(『犯罪』、p.44)と。小生のみならず、『犯罪』だけを読んだ素人が感じたのも、同様でないかと思う。門外漢には、細かい文字の詮索はどうでもいいことである。ウェーバーが簡単に調べられることに手を抜いているという羽入の記載に「知的誠実性」への疑問を抱かされたのである。
 この点に関し、記者にとって最も説得的だった丸山尚士の羽入批判(同じ『論争』の中に所収の論文)を書いておく。OED(正確にはNED)=広辞苑説に対する「義憤」に駆られて研究を始めた丸山は、それを否定する。OEDは、英語文献を網羅的に調査し、「歴史的原理」に基づいて編纂された大辞典であり、ウェーバーは、目的のために「最善かつ最強の文献を参照していると評価する」(『論争』、 p.36)。ウェーバーの当時16世紀英訳聖書を簡単に見られなかったことも、ハイデルベル大学図書館の蔵書調査で明かにする(ウェーバーは『倫理』執筆当時、同図書館を利用できない状況にあったが、資料利用環境は同じようなものであったろう)。
 これらの丸山の批判には羽入は、まともには答えていない。わずかに、英訳聖書に関して、「丸山のように断定するには無理があると言わざるを得ない」(『何か』、p.140)とあるだけだ。どこに無理があるのか、私にはさっぱりわからないが。そして、羽入は、何事もないかのように、またもや、ジューネヴ聖書やエリザベス朝国教会の宮廷用聖書の細部の事実に入り込む。
 その他にも「ヴェーバーによって『倫理』論文中に引用されていた「コリントⅠ」七・二〇における”Beruf”という訳語がマルティン・ルターに由来するものではなかったこと、このことは筆者による世界で初めての発見であり、これまで世界で誰一人として気づいてこなかったものである」(『犯罪』、p.125:終章では、他にも多くの事が世界初発見と謳われている)などという記述も、『犯罪』の素人読者をして、興奮せしめた箇所である。ところが、このことは既に戦前、沢崎堅造が『経済論叢』(京都大学)に発表していたのである。羽入は、それを上田悟司という素人が論争HP上で指摘したことで知ったと『何か』で書いている。そこで、羽入は、ごくあっさりと「筆者は、”Beruf”概念に関する議論に関して、筆者が世界で最初の発見者であるという主張をここで取り消す」とか「誰がそれを先に発見しようと、それは学問そのものには一切関係ない」(『何か』、p.194,196)と書いている。
 そうなれば、『犯罪』の一般読者に与えた衝撃力は、なにがし減殺される。そうでなくて、悪意に取る者がいれば、これは剽窃ではないか、素人でも知っていることを専門研究者が知らなかったで済まされるのかと、羽入の知的誠実性を疑うこともできるであろう。羽入が『思想』誌上に同様の説を1998年発表したとき、上田は編集部宛に疑問を送付したが、羽入の元には連絡されなかったとされている(注3)『何か』、p.196、このような所には索引がなく、確認するのに苦労する)。そのうえ、一旦、自分が世界最初の発見者でないと認めながら、後の頁で平然と、依然として「「コリントⅠ」七・二〇をルターが”Beruf”とは訳していなかった、などという問題があることに、この百年間、誰も気づかなかったのである」(『何か』、p.228)と繰り返しているのである。他人の知的誠実性を糾弾するのであれば、もう少し注意を払って欲しかった。最終校正の段階で沢崎堅造の事実を知ったという事情はあるにしてでもある。 

 次に羽入批判に対する唯一の応答である反批判の書『学問とは何か』を取り上げる。6年の沈黙の後、満を持して、刊行された本である。サインペンを持ち替えて何度も読み返したとあるとおり、批判の内容を精密に分析し、一語一語確認しながら、矛盾点をあぶりだす手つきは鋭い。もっとも、両者の言葉の定義がずれていたりして、話がかみ合っていない点などはあるように思う。それに、テキストそのものの読み込みは得意だが、一般的な判断(例えば、前述のヨーロッパでは古英訳聖書を見るのは簡単である等)は、首を傾げるところが多い。
 この本は、
冒頭、ほとんどが折原の人格攻撃に終始する、80頁になんなんとする「序」で始まる。反批判を展開する前に、折原は信用できない人物であることを印象付けることを狙ったと勘繰られかねないものである。そして巻末の「事項索引」には、「思い込みが激しく、なんど注意しても『隙だらけ』の叙述を改めようともせず、改められない人」や「折原浩における学問の惨状」という項目が挙げられている。学術書としては異例のことであろう。揶揄もあまり度が過ぎると逆効果である。読んでいて気持ちの良いものではない。
 また、『学問とは何か』は500頁を越える大部の書物であるものの、コラム(というべきか、上下線で囲った記事)が随所に配され、あまつさえ本文にも人格攻撃や著者の回想記風な記事が延々とがちりばめられている。――羽入がいうところでは、折原が自分の著述を出版要求したした時、ミネルヴァ書房は謝絶した。杉山社長は次のように述べたという。「あんな傍線だらけの論文、出せませんよ」(『学問とは何か』、p.52)と。むしろ、この言葉は、羽入の新著に対する皮肉とも思えるほどである。前著で儲けたので今回は目をつむるではなかろうが。
 『学問とは何か』という題名も、折原の批判書『学問の未来』に対する応答として、付けられたと思っていたが、それらしい学問論も、まとまっては論じられているわけではない。 「この本書もまた、学術書という体裁は取っているものの、内部告発本といっても良いような代物である」(『何か』、p.494)と書かれている所から見て、人格攻撃や回想記風記事の箇所が学問論ということらしい。こうした「学問論」を別にしても、反批判の内容もまた、前著の繰り返しが多い。きっちりとした反批判だけを書けば、150頁もあれば足りたのではないか。『何か』は、学術書としては変態であるし、少なくとも一般読み物としては失敗作である。芸を尽くした簡潔な本が読みたかった。

 「日本マックス・ヴェーバー論争」の主戦場であった、羽入―折原論争に戻る。論争の中で、熱を帯びたのか、折原の羽入批判も次第に人格攻撃的色彩を帯びるようになる。書物で見る限り、羽入の罵詈雑言は聞くに(見るに)堪えないほどであるが、羽入によればHP上での折原の発言はそれ以上だという。この論争を橋本は(『論争』、p.8)、人格を賭けた戦いという意味であろう、「人間的な、あまりに人間的な」と評している。私には「謗言的な、あまりに謗言的な」と思える。ちなみに、私は、橋本の言葉は芥川・谷崎論争の「文芸的な、あまりに文芸的な」をもじったものと思っていたが、調べてみるとニーチェの著作の題名から取ったようである。勉強になった。
 折原は、羽入を現行大学院制度の欠陥の生んだ軽佻浮薄な鬼子であり、ウェーバーのいう末人の跳梁だと責める。片や羽入は、折原が大学紛争時代に造反教官であったことをあげつらい、学問の世界に陰湿な政治的圧力をかける権力者であると難ずる。その羽入も、 ウェーバーを「倒すしか、筆者の生きる道はなかった。だから拙著を黙殺されることが何より怖かった。筆者のように『マックス・ヴェーバーの犯罪』などというセンセーショナルな[中略]書名を本に付け、「序文」でヴェーバーを「詐欺師」と断定すれば、読者の記憶には残る」( p.195:強調引用者)という。ここでの「生きる道」が学者としての生きる道というのであれば、悲しいものである。学者として生き残るのにはそこまでしなければならぬのかと思う。他の職業と同様に、「職業としての学問」の世界に生きるには、当然ながら学問だけでは生きられないのは理解できるが。
 今回の論争に関する文献を読んでいて、非難の応酬など、余り心地良い気分にはなれぬことが往々にしてあった。読んだ論文の中で、一番面白かったのは、丸山尚士のものであった。この人が、学者でなく、サラリーマンであったことは、興味深くもあり、一服の清涼剤の感を受けた。ジャスト・システム勤務で、本社勤めとはいえ(利用図書館から判断。記者の経験では本社と支社では勤務環境に大いなる差がある。現在は在職していないように記された本もある)、貴重な休暇を利用してであろうが、よくも現地にまで出向き、文献調査できたものである。学問も、「職業としての学問」より、スピノザや本居宣長のように、レンズ磨きや小児科医で生計を立てながら、本当にやりたいことをやるというのがむしろ理想と思える。これは余談。
 この論争も、詳細な点になると、どこまで羽入が正しいかとは、素人には判断しねる。羽入の主張にかなり問題がありそうだとは思うが、羽入の反批判の文章を読んでいる時には、一部納得する点もある。羽入の説が正しいものとすれば、それが受け入れられるには、村上春樹の如く、日本の業界の人間関係や派閥に捉われない外国でその業績を認めさせ、その評価を逆輸入する他ないのだろうか。

 (( 附論1 『倫理』論文の概要 ))
 神経疾患の病から回復後のいわゆる第二期著作の嚆矢となると共に、「歴史社会学」の始発点ともなった記念碑的著作である。その根底には、近代資本主義とは何であるか、なぜそれは近代の西欧だけに成立したのかとの問題意識があった。その解明の手掛かりを経済の担い手である人間の問題として、西洋固有の禁欲的合理主義に求めた。
 古代からある伝統的な商業社会の営利精神、合理性が量的に拡大して近代資本主義が生れたのではない。西洋では、伝統主義精神とは違った、むしろそれを根底的に否定するような全く新しい精神が取って代わった時期があった。伝統主義を超克し、それとは異質の合理性を有する近代資本主義の精神の成立したことが、近代資本主義の起源なのである。伝統主義打破、近代資本主義精神樹立の契機をウェーバーは、プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムに求める。
 とはいえ、プロテスタンティズムは、神への絶対的帰依、自己放棄の宗教であり、現世への無関心を示す。一方資本主義の精神は、現生の営利生活そのものであり、資本蓄積追求を目指す。一見、相反すると思われる、「この両者は決して対立するものではなくて、むしろ逆に、相互に内面的な親和関係Verwandtschaft)にあると考えるべきではないか、と」ヴェーバー(p.29:強調原文)はいう。このパラドックスを解くのがこの著作の目的なのである。
 ウェーバーが注目したのは、プロテスタンティズムの教義自体ではなく、むしろその信仰による倫理的な生活態度(エートス)である。伝統社会では、自然的な欲望が野放しにされている。何事かを実現するためには、自然的欲望を自覚的かつ持続的に抑制し、自律的で一貫する規則正しい生活態度を取る必要がある。「資本主義の精神」というエートスは、幸福や快楽を退け、ひたすら貨幣追及の努力を持続することにある。労働目的の観点からは、快楽の排斥という一見「非合理的な」形態を取る。一途な貨幣獲得、利潤追求行為が自己目的化した禁欲的職業義務観、「使命としての職業」観は、特定の時空で歴史的に成立したエートスである。「天職観念」は、古典古代時代にも、カソリック教徒にも見られず、プロテスタントに見られる。それはルター(派)による「聖書の翻訳者の精神に由来」(ウェーバー、p.95)する。
 ただ、ルター派の思想は「伝統主義」の色彩を濃厚に留めていたため、天職観念を明確にとらえることが出来ない。ピューリタン諸派、わけてもカルヴィニズムが、すぐれて現世内禁欲的職業労働のエートスを顕わしている。ウェーバーは、「予定教理」にカルヴィニズムの本質を見る。予定教理とは、来世で神に救済されるか否かはあらかじめ決定されており、現世での積善は影響しないという考えである。「人間のために神があるのでなく、神のために人間が存在する[中略]というカルヴァン」(ウェーバー、p.152)を信ずる人々は、「来世」の他に関心はなかった。カルヴァン自身は、人は堅信であるなら神に選ばれたものとして確信でき、ますます強固に信仰が深まると考えた。しかし、後代のカルヴィニストは、確信が保持できず、自分が救済されるか永遠の滅びにつくか、確信と絶望の間を揺れ動き、不安な心理状態となった。儀式も教会も役に立たず、誰も自分が救済されるかどうかを教えてくれるものはいない。個々人は内面的に孤立化したのである。
 この不安の裡で救済の自己確認を獲得する最良の手段として取られたのは、自己が神から選ばれた者であると信じ、神の栄光を現す職業労働へ没頭することであった。没頭の結果、一生を通じて職業生活が全うできるなら、それは神に選ばれた「印し」なのである。選ばれたとの確証を得るために、神の嘉された職業に生活のすべてを捧げ、毎日の努力を終生継続する。カルヴィニスト的禁欲生活は、自然的欲望を抑圧した職業労働への集中である。やがて、職業労働への献身は、宗教的不安を鎮める手段であったものが、堅固な救済確信そのものとなる。元来、善行は救済とは無関係であったのが、善行で救済が可能となる観を呈する。救済の確信が救済と同一視されていく。「カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを―正確には救いの確信を、と言わねばなるまい―「創り出す」」(ウェーバー、p.185:強調原文)。
 こうしたカルヴィニズム思想の下では、独自の職業倫理が生れた。それをウェーバーは、「隣人愛の非人格性」の形成と呼んでいる。「労働そのものではなくて合理的な職業労働こそが、まさしく神の求め給うものなのだ」ウェーバー、P.309)。職業の有益さの程度、つまり神に喜ばれる程度を決定するものが、第一には道徳的に良いとされる職業、第二には生産する財の社会全体に対する重要度、第三には市経済的「収益性」である。しかも、「実践的には、これが(第三番目:引用者)がもちろん最も重要なものだった」 (ウェーバー、P.310)。ピューリタニズム(カルヴィニズムを含む禁欲的プロテスタントの英国呼称)は、貪欲と不正な手段での営利は厳禁されている。しかし、正当な利益と社会の必需品のために働くこと、それも収益の多い職業に励むことは、神が嘉し給うことであり、罪であるどころか義務であった。カトリシズムでは信仰に熱心であれば、営利活動から離れようとするのに対し、ピューリタニズムでは信仰が深まるほど、職業に没入し、営利を追求することになった。
 ピューリタニズムの最も純粋な信奉者は小市民層や借地農業者に見られた。「まさにこうした資本家層からこそ、西洋の資本主義に特徴的な工業労働の市民的=私経済的組織は生れ出たのであって、決して大富豪たち、すなわち独占資本家、御用商人、御用金融業者、植民地企業家、会社発起人などといった人々の手で作り出されたものではなかった(ウェーバー、P.353:強調原文)。
 禁欲的労働のエートスは、資本主義の形成に大きく作用し、やがて産業革命を起こし、強固な体制を作り上げた。しかし、一旦、体制が出来上がると、営利なしには経営できなくなる。資本主義機構から、逆に禁欲的労働を強制されるようになる。「資本主義の精神」の意義は忘却され、行動様式だけが亡霊のように形式的に存続する。禁欲は、「世俗内道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界[コスモス]を作り上げる[中略]運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように固い檻としてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかって歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れ得ない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ」(ウェーバー、P.365)。こうした文化発展の最終段階では、精神のない専門人、信条の無い享楽人である「末人たち」が、「人間性のかって達したことない段階まですでに登りつめた、と自惚れるだろう」(ウェーバー、P.366)――と(ほぼ)論文の最後を結んでいる。

(( 附論2 『犯罪』の概要 ))
 『犯罪』での羽入によるウェーバー批判を章別にまとめてみる。自分には、意想外に骨格をまとめるのは、難しかった。自分の理解力の不足を棚に上げていえば、『犯罪』の論理展開に飛躍があるせいかも知れないとも思う。
 (第1章 "Calling"概念に関して)
 ウェーバーは、以下のように主張した。ルターの聖書翻訳以前は、ドイツ語"Beruf"や英語の"calling"等は、今日の世俗的な意味を持たなかった。ピューリタン諸国に見られる、「神から与えられた使命」という宗教的な観念と共に「世俗的な職業」という意義を併せ持つこれらの言葉は、ルターの聖書翻訳に由来する。「ベン・シラの知恵」(旧約聖書外典「イエス・シラク」)112021における訳語"Beruf"から生れ、その用法がプロテスタント諸国の該当語に影響を与えたと。ところが、羽入の調査によると、古英訳聖書で、「ベン・シラ」112021"Beruf"該当部分を"calling"と訳しているものはない。よって、「ベン・シラ」のルター"Beruf"訳を経由して、「天職」該当語が英訳に継承され、英語圏に伝わったというウェーバーの説は誤りである。
 ところで、「ベン・シラ」112021といいながら、ウェーバーが"Beruf"の英語該当語"calling"について論じるに際し、詳細に引くのは「コリントⅠ」(新約パウロ書簡「コリント人への手紙Ⅰ」)720の箇所なのだ。それは、ウェーバーが古英訳聖書を直接調べず、二次文献であるOEDという辞典に頼った制約のためであるというのが羽入の見立てである。
 (第2章 "Beruf"概念に関して)
 ウェーバーが『倫理』で、初めて"Beruf"なる語を取り出してきたのは、フランクリン『自伝』に引かれた旧約聖書「箴言」の一句からである。フランクリンはその部分を"calling"で引用し、ウェーバーはそれを"Beruf"と独訳再引用した。しかし、実際にルターの訳した聖書では、そこが"Beruf"とは訳されていず、"geschefft"とされていた。そこに、フランクリンの"calling"からルター"Beruf"「飛び移る」という論証上の難問が生じた。膨大な「注3」が付けられたのも、これを解決(回避)せんがためである。
 ウェーバーの解決策の第一段(と羽入は考える)は、
「ベン・シラ」112021でギリシャ語原語を、"Beruf"に訳した経緯を明らかにすることである。ルターはギリシャ語聖書独訳の際に、二つの全く異なる概念を、同じ"Beruf"で訳している。一つは、「神により永遠の救済に召される」という宗教的な意味対して、いま一つは、純粋に「世俗的職業」の意味に対してである。後者は、「世俗的職業」という意義しか持たない原語に、普通は宗教的概念を表す訳語"Beruf"を「ベン・シラ」において用いたことによる。いわばルターの意訳から聖俗の意義を併せ持つ"Beruf"の意味が創造された。ルターは何故、これら異なる二つの概念を、別の言葉で訳し分けることなく、同じ訳語を使用したのか。それは、ルターが「コリントⅠ」720で、純粋宗教的概念から少しずれた同じ原語(の一つ)を"Beruf"と訳したことに引きずられた結果なのだとウェーバーは考える。
 ルター聖書には、ウェーバーが、詳細に論じた「コリントⅠ」に確かに"Beruf"なる語が存在する。しかし、それはルター自身が訳した聖書においてではない。ウェーバーがルター聖書と称するのは、ルターの死後ルター派によって改訂された「現代(1904年当時)の普及版ルター聖書」なのである。もっとも、その事実は、目立たぬようにではあるが、ウェーバーは書いている。
 解決策の第二段は、翻訳時期の問題である。ウェーバーが「箴言」の"geschefft"を軽んじて、「ベン・シラ」"Beruf"に重きを置いたのは、時間的前後関係による。正典である「箴言」を外典「ベン・シラ」の数年前に翻訳している。その間にルターの信仰は深まった、未だ深い信仰が反映されていない時期の訳語"geschefft"は無視してよいとする。しかし、羽入によると、時間的前後関係は、初版発表時期ではなく、その後の改定版での記載を考慮して見るべきである。そうすると、時間的前後関係は逆転するか、あるいは、せいぜい同時期だとみなされる。同時期の場合、ルターは二つの言葉を使い分けていたことになる。いずれの場合も、ウェーバーの"Beruf"重視説は成り立たぬと批判する。
 (第3章 フランクリンの自伝に関して)
 ウェーバーは、フランクリンの『自伝』にはあえて言及せず、他の二文章から自己目的的な「資本主義の精神」の理念型を構成した。しかし、それは、フランクリンが『自伝』で、功利的な生き方を示していることと矛盾する。理念型形成にあたり、フランクリンの功利的傾向を排除した論拠が問題となる。
 ウェーバーの論拠の一つは、フランクリンに神の啓示が下って、徳に「改心」したという事実が倫理的な生き方示していることである。しかし、それはウェーバーによる『自伝』のコンテキストの誤読であると羽入は考える。もう一つの論拠は、『自伝』において金儲けは、個人の幸福や利益を超越した、快楽主義的観点からは非合理なものとして表れていることである。しかしこのことに、明白に反する言葉が『自伝』に書かれていることを羽入は指摘する。
 (第4章 「資本主義の精神」に関して) 
 ウェーバーは、まずフランクリンの二文書から「すでに宗教的基盤が死滅したものとして」、倫理的な色彩はあるが宗教的色彩は一切ない「資本主義の精神」の理念型を構成してみせた。その際、フランクリンの宗教的な言及部分を隠して引用していた。 論文改定時には、前記二文書は「宗教的なものへの直接的な関係を全く失っており」とさえ加筆している。そうしておいて、同じフランクリンの『自伝』から聖書の"Beruf"という宗教的言葉を発見し、ルターにたどり着き、古プロテスタンティズムと結びつけた。羽入は、宗教的感情とは「無前提的」な「資本主義の精神」といいながら、後になって素知らぬ顔で宗教感情を潜り込ませるのは不当だと考える。ウェーバーが、二文書から不都合な部分を削除したのは、「不当前提」(証明しようとすることが前提とする概念にすでに含まれていること)であるとの非難を回避するためであったと。

  ドイツの古書店からの購入本である。

(注1)岩波文庫の大塚訳の訳注(p.14,***)では原文の発行年をヴィケルマンによって、1904/5年とあるのを、1905年に訂正している。安藤(ウェーバー、1994、p.63)は、これに反対している。話を簡単にするため、1905年説に従う。
(注2)『世界の名著 ケインズ・ハロッド』 挟み込み栞 内田義彦・宮崎義一・伊東光晴 鼎談「ケインズの思想と人間像」にある言葉。
(注3) 私の小さな経験である。昔、同じ岩波の翻訳書について、疑問点を編集部あてに送付したら、転送されて訳者から説明の葉書をもらったことがある。

(参考文献)
  1. 安藤英治編 『ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 有斐閣、1977年
  2. ウェーバー、マックス 大塚久雄訳 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波文庫、1989年
  3. ウェーバー、マックス 梶山力訳 安藤英治編 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の≪精神』≫』 未来社、1994年
  4. 江藤裕之 「(書評)羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪:「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002年、京都、ミネルヴァ書房、x+pp.300)」、長野看護大学『学報』第16号、pp.18、2003-07
  5. 谷沢永一 『人間通になる読書術』 PHP研究書、1996年
  6. 折原浩 『ヴェーバー学のすすめ』 未来社、2003年
  7. 折原浩 『学問の未来 -ヴェーバー学における末人跳梁批判』 未来社、2005年 
  8. 橋本努・矢野善郎編 『日本マックス・ヴェーバー論争』 ナカニシヤ出版、2008年
  9. 羽入辰朗 『マックス・ヴェーバーの犯罪 ―「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊―』 ミネルヴァ書房、2002年 松田卓也・二間瀬敏史 『なっとくする相対性理論』 講談社、1996年
  10. ブローグ、マーク 『ケインズ以前の100第経済学者』 同文館、2002年




『社会科学と社会政策雑誌』20号の第1頁)


(21号の第1頁)

(2017/12/17記)



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