VEBLEN, T. H.
,The Theory of the Leisure Class, An Economic Study in the Evolution of Instituteions, New York, Maclillan Company, 1899, ppviii+400.(2.advertisment), 8vo.

 ヴェブレン『有閑階級の理論ー制度の進化に関する経済学的研究』、初版。
 著者(1857〜 1929)は、ノルウェー移民の子として米国ウィスコンシン州に生まれる。幼年時代を閉鎖的なノルウェー人コミュニティで育ったため、大学に入った時にはほとんど英語が話せなかったともいう。母親は地域住民の相談相手であり医師の役目も務めた農婦である。「神の造った最も回転速い機械である頭脳」をもった賢い人で「ソースタインは、その人格と頭脳を母から受け継いだ」(ドーフマン、p.14) と子供の一人は言っている。父親も農民ながら、すばらしく頭が切れて、「父に匹敵するほどの人物に会ったことがない」とソースタイン自身が語っている。兄アンドリューも数学者と知られるが、甥には高名な数学者(位相幾何学者)であるオズワルド・ヴェブレンがいる。
 入学した大学は、カールトン大学。ここで、アメリカ限界学派の祖J・B・クラークから経済学を学んだ。しかしながら、クラークは正式には図書館員で、彼は経済学の他歴史から作文まで教える「なんでも屋」の教師であった。ここでのエピーソードはもう一つ、最初の妻エレン・ロルフ(学長の姪にして名門の出、彼女を通じて上流社会の風習を知ったであろう)に出会ったことくらいである。
 一時教職(数学の教師である)を経てジョンズ・ホプキンス大学で2年半を過ごす。その後、奨学金の問題もあり学期の途中でイェール大学に移った。ここでは、主に哲学を学び、スペンサー流の社会ダーウィニズム学派学者であるサムナーの影響を受けた。哲学博士号を授与されるが、就職はままならず、7年間親元の農場で閑居の生活を送る。この間、エレンと結婚している。
 1891年妻を故郷に残したまま、コーネル大学に34才にして学士入学。経済学を本格的に研究する。論文「社会主義論における若干の無視された問題」を書いたのもこの時代である。新設されたシカゴ大学に就職がかなうが、最初は特別研究生でJournal of Political economyの編集が主な仕事だった。それでも、ここシカゴ大学で学問に没頭できるようになり、この時期本書『有閑階級の理論』や『営利企業の理論』を著わしている。14年間の在籍にもかかわらず地位は助教授止まり、俸給も上がらなかった。その上、女性問題で居ずらくなり、他に職を求めて結局スタンフォード大学に移ることとなる。しかし、ここも2年ほどしか続かず、ミズーリ大学に講師として採用されることとなる。ミズーリ時代、地位は低かったが生活上は小康状態だったようで、アン・ブラッドリーと再婚しているし、『製作者本能論』、『アメリカのおける高等学術』等後期重要著作を出版している。
 やがて、そのミズーリ大学も去りニューヨークに出て、文芸誌『ザ・ダイアル』の編集者になったり、新設の「社会科学新学院」に関係したりしたが、いずれも長続きしなかった。晩年は一人さみしくカルフォルニア山中の小屋で、ニワトリ四十羽と牛二頭と暮らし、死を看取ったのは親戚の女性一人であった。貧窮のうちに亡くなったと書いている本もあるが、本人は貧窮と思っていたかどうか。ヴェブレンの職歴が不遇だったのは、女性関係に対するルーズさと授業の不熱心さに原因があったようだ。前者は、妻を置いたまま他の女性とヨーロッパを旅行する等数々の艶聞が残っているし、後者については受講者全員に一律「可」(C)しか与えず、講義の内容は小声で聞き取りにくく、やる気がないとの印象を与えていた。

 この本が書かれた時は、マーク・トゥインが『金ピカ時代(金メッキ時代とも)』でその拝金主義を揶揄した時代である。アメリカ社会が農民的、独立小生産者的社会から巨大株式会社体制に移行し、資本の集中が進む一方で、反独占の農民運動や労働運動の高潮期でもあった。資本家に雇われたピンカートン探偵社がスト破りをした、ダシリー・ハメット描くところの荒々しい資本主義の世界でもある。一方、書かれた場所はシカゴ。銀行と株主を信用しないヘンリー・フォードが武骨なT型フォードを生産していた。『世界を揺るがした十日間』を書いたジャーナリスト、ジョン・リードさえフォードに入れ込んだ。フォードこそがヴェブレンのいう「産業」の体現者であったとする見方もある(都留)。
 経済学はもとより、社会学、文化人類学、哲学等豊富な知識を駆使して、「取得の制度―金銭的な制度―ビジネス」に対するに「生産の制度―産業的な制度―産業」という独自の二元論視点に立脚して本書は書かれている。ヴェブレンが学生の一人に語ったところによると、この本は「全体的な構想は少年期の頃にでき上がり、その多くの部分は父親の意見に基づくものであった。」と。
 本書は、また著者の一番知られている書物であるが、とても処女作とは感じさせない。 ヴェブレンのすべての著書には索引はないが、この本は学術書にして参考文献の表示すらない、世間では(著者には不本意だったが)「風刺文学」とみなされていたのも不思議ではない。出版時には多くの女性読者に迎えられたそうである。
 全体は14章からなり、前半7章は初期論文「社会主義論における若干の無視された問題」(1891)を展開したもので、主として金銭的文化における競争心の動機の性質を論じており、後半7章は前半部分をより具体的に解り易く述べたものである。
 章の標題にもなっている「顕示的消費」(衒示的消費とも)、「顕示的閑暇」、「代行的閑暇」等々の独自な概念を使って、叙述に精彩を与えていることは、つとに指摘されているところ。次にさわり(と思う)の部分を引いておく。
「ここで用いる「閑暇(レジャー)」という用語は、倦怠や静止状態を意味するわけではない。その意味するところは、時間の非生産的消費である。時間が非生産的に消費されるのは、(一)生産的な仕事はするに値しないという意識からであり、(二)また、何でもない生活を可能にする金銭的能力の証拠としてである。」(ヴェブレン、p.56)「財の生産に充用される奴隷の保有と維持は富と武勇の証拠である。何も生産しない使用人の維持は、さらに高度な富と地位の証拠である。…こうして、一つのグループが所有者のために財産を生産するのに対して、ふつう妻を筆頭とする別のグループが所有者のために顕示的閑暇に時間を費やし、こうすることによって、彼の卓越した富裕を少しも傷つけることなく、莫大な金銭的損害に耐え抜く能力を証明することになる。」(同、p.76-77)
 この本で、もうひとつ重要なのは、本書副題にある「制度の進化に関する経済的研究」である。ヴェブレンは、別の論文でいう。古典派経済学においては、人間は外界の刺激に対し受動的で、最小の努力で最大の快楽を得ようとする「経済人」として捉えられる。しかし、人間は、過去の生活習慣と過去の物質的基盤から構成される環境に支配されながらも、夢を持ちそれを実現しようとして行動する。そして、行動自体を本質的なプロセスとする性向を有する有機的存在である。古典派経済学の快楽主義の前提では、思考の習慣の累積的変化プロセスや経済的利害と経済制度との関連を分析することができないと。しかしながら、本書では、この制度の進化を扱った部分は「序説」で概略が、そして「第八章 (産業からの免除と保守主義)」および「第九章(古代的特質の保存)」で述べられているにすぎない。
 この本によりヴェブレンは、制度学派経済学(1970年代からは「進化論的経済学」と称されることが多いとのことである)の創始者とされる地位を経済学説史上に確立した。
 次に、ダヴェンポートとともに、彼の教え子の中の双璧というべきミッチェル(あの景気循環論のミッチェルである)の著者に対する評価を記しておこう(いずれも、ドーフマンに書かれている)。
「ヴェブレンは、当時のアメリカの経済学者の誰よりも誤解されていた…人物であり、誤解されたのは、彼の思考がきわめて独創的であったからであることはもとより、その気質もきわめて風変わりであったことによる」(p.550)と教室で学生に語った。『ザ・エコノミック・ジャーナル』誌上(ヴェブレン死亡時の追悼論文)では、この雑誌がヴェブレンの著作について行った唯一の書評は、1925年9月号での『有閑階級の理論』についての短いものでしかなく、それは出版26年後であり、第9版が出た年であった(p.701)と、ヴェブレンへの関心のなさを嘆いている。しかし早くから「今から50年後には、彼はこの世代の経済学者の中でもっとも重要な人物とされることになると私は思う。」と確信していたのである(1904年ヴェブレンが国会図書館の文書部長に応募した時の推薦状。p.358)。
 私がこの本を読んだのは、ちくま文庫で新訳が出た時であるが、正直な印象はこれが経済学の本なのだろうか、文化人類学の本ではないかというものであった。ちょうど、ルース・ベネディクトの『菊と刀』のように人類学者が未開社会でなく現代社会を研究したもののように思えた。解説を読むと同じようなことが書いてあったので、それほど印象が誤っていたのではないと安心した。
 ノルウェー人コミュニティで育った著者の孤立的環境が思想形成に重要な影響を及ぼしたかどうかについて議論があるようだ。私には、「外国人」のように同時代を眺められた我が国の山本七平の例から素直に影響を首肯できる。戦前の軍国主義の時代にクリスチャンの家庭で育ち、世間と家庭との風習の違いを痛切に感たことが、後の「山本日本社会学」の書物に結実したものと思うからである。
 それにしても、ヴェブレンは艶福家らしく写真写りがいいですね、参考文献に挙げた本の3冊(宇沢、高、ドーフマン)が同じ肖像写真をカバーに使っているのでもわかります。松尾博『ヴェブレンの人と思想』の巻頭写真も、横顔ですが渋いです。雑誌にも関係したから、専門の写真部員が撮影したのでしょうか。もっとも、容貌についての学生の印象は、冴えないように書かれてはいるのですが。

 米国のニューメキシコ州の片田舎の書店から購入したもの。長らく上院議員を務めた人の蔵書票が貼付されている。スリップ・ケース入り。状態は良。この本は普通非常に高い値段が付いて、収集対象としては諦めていたもの。邦訳解説によると、かなり後の版まで初版の紙型を使って印刷されたようで、現に私蔵の1912版で見ても版組も初版と全く変わらない。標題紙(タイトル・ページ)1枚で、価格に雲泥の差が出るということだ。

 (参考文献)
  1. ソースタイン・ヴェブレン著 高哲男訳 『有閑階級の理論』、筑摩書房、1998年
  2. 宇沢弘文 『ヴェブレン』、岩波書店、2000年
  3. 高哲男 『ヴェブレン研究ー進化論的経済学の世界ー』、ミネルヴァ書房、1991年
  4. J・ドーフマン著 八木甫訳 『ヴェブレン:その人と時代』、ホルト・サンダース・ジャパン、1985年
  5. 都留重人 『現代経済学の群像』、岩波書店、1985年
  6. ロバート・レイシー著 小菅正夫訳 『フォード ー自動車王国を築いた一族ー』(上)・(下)、新潮社、1989年




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(H21.1.12記)



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