MORISHIMA, M.,
Marx's Economics : A dual Teory of Value and Growth, Cambridge University Press, 1973, pp.viii+198, 8vo.

 森嶋通夫『マルクスの経済学 ―価値と成長の二重の理論―』1973年刊、初版。
 著者略歴: 大阪市生まれ、幼少期を神戸で育つ。ナンバー・スクールではない七年制(中高一貫校に該当)の浪速高等学校に入学。在学中、父親は国策航空会社の中華航空に勤務し、北京に赴任。もとより、高校時代は、下宿生活である。漱石の『文学論』の影響を受け、文科系学問の科学化に志を抱く。社会学・経済学者高田保馬の書物を愛読した。浪高時代に、高田の京都大学での講義を盗聴して、経済学を専攻する決心をする。1942年京大経済学部に進む。在学中は、青山秀夫の指導の下に、ヒックス『価値と資本』を研究する。
 1943年学徒の猶予廃止により海軍に徴兵さる。通信将校として大村航空隊に赴任。インテリは通信兵(将校)に配属されることが多かったようだ。梅崎春生の『桜島』が思い出される。この作家も同じ九州の坊津で暗号通信下士官を務めたのだ。将校として赴任したためか、軍隊の陰湿ないじめも自身は受けなかった。実質8ケ月の勤務であったが、日本の組織や風土を考えるうえで貴重な体験だったのであろう、自伝でも第1巻3部のうち2部を占めている。日本の中の英国ともいうべき海軍生活は、職業軍人でなくとも、なつかしく回想する人が多い(将校にかぎられるだろうが)。森嶋も言う、海軍には愛憎綯交ぜたアンビバレントな感情を持ったと。
 終戦により、45年復学。大学院特別研究生、講師を経て、50年助教授となる。同年処女作『動学的経済理論』を出版。助教授人事のことで51年京大を辞す。人事といっても本人の事ではなく、他人の選考課程、選考方法を巡るものである。その後も森嶋「独特の正義感」といわれるものが、その出処進退の原因となった。
 同年、阪大の法経済学部助教授となる。経済学部(53年分離独立)でもない、阪大を選らんだ理由は、自称「急進的自由主義者」として、教官にマルクス主義者も戦前の皇国主義者もいない「価値自由の原則」の大学であったことと、青山と並ぶ日本の近代経済学の大先達安井琢磨が在籍(東北大学と兼任)したこととされている。同じ51年には、高田保馬が教職不適格指定を取り消されて、同学部教授となっているが、移籍判断後の出来事だろう。
 52年計算助手であった津田瑤子と結婚。53年高田が創設した「社会科学研究室(後研究所)」に籍を移す。当初の所員は、学部長・教授の高田と助教授(専任)の森嶋のみである。その後、市村真一、建元正弘、二階堂副包、畠中道雄、稲田献一、(森嶋体制後であるが)筑井甚吉等、錚々たる顔ぶれが所員となった。経済学、それも数理経済学者に偏しているように思われるのは森嶋の影響か。
 56年ロックフェラー財団の援助でオックスフォード留学、ヒックスの下で研究する。経済学術雑誌の不充分なことから、60年クラインを編集長、森嶋を副編集長とするIERInternational economic review ) を発刊するため、資金面まで含めた尽力をする。63年39歳でエコノメトリック・ソサエティ(計量経済学会)の副会長、後65年会長に選出される。世界的に学問的業績が認められたのである。
 63年社研の教授に就任。Equilibrium stability, and growth (1964)出版。しかし、俊英を集めた社研も、主として森嶋―市村間の意見の対立から「わずか、二三年の間に根底から崩壊し、大喧嘩のうちに分裂、遂には所員は四散してしまった」のである。その原因は実質的運営者の森嶋にあると責任を認めている。
 阪大を辞任する意思を固め(正式な辞任は、69年)、68年新設期にあったイギリスサセックス大学の客員教授となる。69年主著Theory of economic growth を出版。70年カルドアの斡旋で、(フィリプス・カーブの)フィリプスの後任としてLSEの教授となる。1976年文化勲章を受ける。栄典嫌いの森嶋が勲章を受けたのは、副賞に年金があると聞いたからである。院生の奨学金に使うためである。LSEに経済研究所を創るため、サントリーとトヨタの寄付金を得て、STICERD(78年)を設立。この時も苦手な資金集めに奔走している。

 この人には、理論経済学(上記以外に、『資本主義経済の変動理論』(1955)、『マルクスの経済学』(原著1973)等)と経済社会評論(『イギリスと日本』(1977)、『なぜ日本は「成功」したか?』(原著1982)、『日本の選択』(1995)等)ともいうべき二系列の著作がある。前者の本はどれも素晴らしいが、後者はどれも下らないと、誰かが書いていたと記憶する。前者が世界的な名声を得た書が多いのに対し、後者はいわば「新手一生」のごとく突飛な説をなしているようにも思える(谷沢永一の如く、批判者は彼の論調を真面目に受け取り過ぎで、それは左翼に対する皮肉の書だとする考えもある)。少なくとも森嶋が青山の啓蒙書を評した言葉、「作品の質とそれに投じられた努力量からいえば、[中略](理論書に:引用者)はるかに及ばない」がそのまま当てはまるのではないか。数学的な能力に不足はなかったが、社会科学的な分析眼はそれには及ばなかった。本人もそのことが判っていて、社会科学的な著作をものにする憧憬があったのではないかと邪推してしまう。丁度才能的には逆のシュンペーターが、数学書を著したように。
 ただ、創造力が晩年まで衰えず、著作を発表し続けたことは驚異である。サムエルソンの言葉であったと思うが、日本人は若いころ良い論文を発表していても、いつの間にか姿が消える学者が多いと。森嶋の喧嘩相手であった市村にもその感なきにしもあらず。森嶋自身も、学者はそんなに早く枯れるべきではないと書いている。
 自伝によって、この略歴を書いた。読んだのはずいぶん前の事だが、その印象は残っている。 自伝の中でも、湯川秀樹夫人に対する冷笑や恩師青山秀夫に対する冷徹な、そこまで書くかと思わせる叙述から見ると、他人の小さな欠点も容易に許せない性格のようである。自ら和を崩して面白くすると言ったり、人柄が悪いとも自覚している。随分付き合いにくい人ではあったろう。自伝中、好意を示したのは、高田保馬とジョーン・ロビンソンくらいか。

 「序文」にあるように、マルクス経済学への貢献を目指したものだが、著者成長論の三部作をなす一冊でもある。刊行年とは逆に、本書はその序論にあたり、Theory of Economic Growth (1969)が本論、Equilibrium, Stability and Growth(1964)が数学的補遺をなすという。その意味では、『経済成長の理論』を読まずしては、本書を充分理解できないのだろう。動学的レオンチェフ体系あるいはフォン・ノイマンモデルは、著者の長年の研究領域である。その研究成果から、マルクスの経済学に光をあてたものなのだ。副題の「価値と成長の二重の理論」も、線形計画の価格と産出量の双対性を言っているようにも思える。ともあれ、本文にはフォン・ノイマンモデルという言葉が頻出するが、その内容は詳述されていないのでもどかしい思いがする。本論の書を読めということなのだろう。
 『10歳からの相対性理論』ならぬ『70歳からの線形数学』が欲しいと思う小生には、「数学的にむつかしいものではない」とされる本書を読むのが精一杯である。幸い訳書には「訳注」として、数学的注釈が付いている(中には私が見ても、おかしいと思われ注があるが)。それに助けられ、訳文で不審なところは原文を見て納得したりして、何とか読み通した。もちろん、完全な理解には程遠い。せっかく読んだからには、わかる範囲で、自分の読書ノート代わりに、本書を取り上げた。本来の趣旨の古典・名著の紹介とは少しずれているので、読まれるなら、多々あると思われる誤りに注意してください。

 本書の概要は以下のとおり。マルクスの全著作の内、『資本論』、それも2部門分析を扱う第2・3巻焦点を合わせた。それは、「マルクス経済学の核心、すなわち、価値論と再生産論を二つの主たる構成要素とするかれの一般均衡モデルだけを論ずることに自己限定する」(本訳書、p.i:以下訳書からの引用は頁のみを表示)と。もう少し具体的には、(1)労働価値論、(2)搾取理論、(3)転化問題、(4)再生産、(5)相対的過剰人口の法則、(6)利潤率の傾向的低下、(7)資本の回転の問題を、現代経済理論の水準から論ずる。(1)~(3)の問題はそのまま本書の第 Ⅰ 部~第 Ⅲ 部の標題と一致するし、(4)~(6)の問題は第 Ⅳ 部、第 Ⅴ 部で論ぜられ、同名の章題が存在する。
 以下章ごとに概要を記す。数式が多く、文章が長くなったため、注は分載した。

 (第1章 価値の二重の定義)
 マルクスの経済学では、労働価値論は二つの機能を持つとする。
 Ⅰ.現実の価格が、それを中心に変動する均衡価値を説明すること、及び Ⅱ.多数の産業部門を集計する時に用いるアグリゲーター(集計因子)あるいは集計のウェートをとしての機能である。Ⅱ.については、マルクス自身は、気づいていなかった。「労働価値を統合の係数とするとき、その統合が偏った結果を導かないための条件(非偏倚的統合の条件)を森嶋は問い、それを見事に解いた。これは数理経済学の美しい成果のひとつ」(塩沢由典、『著作集』第7巻「解説」、同p.273)とされる。しかし、Ⅱ.については、後の8章で扱われる。ここでは、Ⅰ.の機能が取り上げられる。
 森嶋が構築するマルクスの経済体系モデルは、行列式を使った n 個の産業からなる多部門モデルである。とはいえ、それらは、1.資本財部門と、2.賃金財あるいは奢侈財部門、の2部門に大別されている。2.の生産には、1.の商品は使用されるが、2.の商品は使用されない。序章にいうように、マルクス『資本論』第2・3巻の再生産表式を踏襲したものである。
 余談ながら、ここでちょっと不思議なのは、本書を通じてオスカー・ランゲの引用はあっても、柴田敬への言及がないことである。『資本論』の核心は再生産表式にありとした、柴田は森嶋在学中の京大教授であった。戦前に世界に名を知られた数少ない学者でもある。もっとも、森嶋は柴田を嫌っていたことが自伝から窺われるのであるが。
 価値決定の方程式体系は、次のように書かれる。2つの資本財と1つの賃金財という単純な場合は(他の単純化のための条件は略す)、各財の価値(λ1, λ2, λ3)は、
 λ1a11λ1+a21λ2+l1
 λ2a12λ1+a22λ2+l2
 λ3a13λ1+a23λ2+l3
 である。ここで、商品1,2が資本財、商品3が賃金財。1単位の商品i (1,2,3)は、a ji 単位の資本財 j (1,2) とli 単位の労働で生産される。
 n 個の資本財と m-n 個の賃金財の一般的な場合は、行列式で次のように表示される。
 Λ = Λ I
 Λ II = Λ II II    (1・1:以上2式)
 ここで、 Λ = ( λ1, … , λn ), ΛII = ( λn+1 , … , λm
  は投入係数 aij の正方行列( i , j = 1, … , n )、Λ II は投入係数 aij の矩形行列( i = 1, … , n j = n +1 ,… , m )
 =( l1, … , l ),  II= ( ln+1, … , lm )である。
 本書では、これらの行列式を使って、厳密に議論が展開証明されるのであるが、以下では言葉によって概要を追うのみである。
 最初に、『資本論』の労働価値論の価値の定義には、1.投下労働価値(との言葉は使っていないが)、と2.生産に社会的に必要な労働時間の二種類あるとして、引用がなされている。2.で意味するのは、いわゆる平均的な必要労働時間の意味の「社会的必要労働時間」とは異なる。ある商品の純生産物を1単位生産するのには、各投入商品の一定の粗生産物量の生産が必要である。それら粗生産物を生産するのに必様な労働時間の合計のことである。そして、これら二つの価値が一致することを証明する。
 2.の定義は、通常の本では説かれていないと思う。線形計画の双対性の分析から判明した結果を、「後知恵」で持ち込んだように私には思える。引用も本来の趣旨からズレているのではないか。
 ともあれ、二つの価値の一致から、国民生産物の価値は総雇用に等しいことが証明される。国民生産物価値は、(粗)国民所得の価値であり、①資本損耗分価値(間接雇用)、②資本財の純生産物を生産するのに必要な直接的雇用量、③賃金財と奢侈財を生産するのに必要な直接的雇用量、の合計(=総雇用)であることも示される。
 そうなれば、価値は国民所得と、雇用を結びつけるもので、カーン(ケインズ)の雇用乗数に他ならないとする。価値は形而上の概念ではなく、「観察可能」であるとの、人を驚かすような結論が出てくるのである。

 (第2章 隠された仮定)
 価値決定の経済的体系のモデルでは、全部の価値が正、少なくとも非負でないと経済的な意味はない。マイナスの労働時間が投下されるのは無意味だからである。しかし、原料や労働の投入が正であることは、価値が正であることを意味しない。容易に負の価値が生ずる連立方程式の例を作ることができる。マルクスは、価値が正であることを証明せず、自明としていた。
 価値の非負の条件は、社会が生産的、すなわち純生産物を生産できること、投入物以上に生産物を産出できることである(ついでながら、価値ゼロの財(=自由財)は、投入に比して産出が無限大の生産物であり、投入に比べて産出が少なくなるにつれて生産困難のため価値が大きくなり、投入=産出で生産が停止すると考えると、この条件は何となく納得できるように思える)。本書のマルクス体系モデルでは、賃金財・奢侈財は生産に投入されないから、資本財産業が生産的であることが必要・充分条件である。
 資本主義存続のためには、生産過程で要する費用が生産物の価格(価値ではない)より低い、すなわち利潤が発生することが必要である。利潤が発生する「価格および賃金体系」が存在する必要条件も、同じく社会が生産的であることが証明される(十分条件は、労働者搾取を可能とする実質賃金水準が設定されることである。後の第5章で示される)。
 それゆえ、著者いわく、マルクスは、「資本財産業が生産的であることを前提している。それが労働価値を有意とし、かつ、それなしには資本主義体制は維持されないのである」(p.30)。マルクスがそれを意識していたがどうかは別として、と付け加えるべきかもしれない。

 (第3章 相対価値の量的決定)
 マルクスは、特定の商品の絶対価値を価値測定の基準商品(価値ニューメレール)として、価値測定対象商品との相対価値を議論している。そこでは、相対価値は、基準商品の価値が不変であるなら対象商品の価値に比例して変動する等の、同義反復であり自明のことしか述べられていない。
 マルクスには、一商品の価値変化が他の商品価値に与える影響を知る手立てがなかった。価値決定方程式(レオンチェフ体系)を用いれば、「はっきりした結論をうることは、困難ではない」(p.36)。――記者いう、このことはまさに、シュンペーターが、『理論経済学の本質と主要内容』(第四部 変化法)で、一般均衡理論の優位を解いたところに該当するのではないか。純粋経済学の第二の問題として、均衡値に変化が生じた際に、その影響が示せるとしたところである。
 とはいえ、「はっきりした結論」といいながら、方程式体系は、現実の生産関数ではなく、係数を aij とする理論的モデルであるからには、具体的な結果が出てくるわけではない。ある産業 i で、技術改良があり、労働投入係数 li あるいは資本投入係数 aij の減少があった場合。結論は:1.特定商品を生産するのに、直接投下労働あるいは(間接労働が結晶化した)生産手段の投入量が減少すれば、その特定商品の絶対価値は低下する。2.その他の商品の絶対価値は、変化するとすれば、低下する。3.その他の商品の価値低下は、特定商品の価値低下以下である。2.の「変化するとすれば」とされているのは、特定商品が賃金財あるいは奢侈財であれば、生産される財の投入物とならないため、他の商品の価値に影響がないためである。
 これら結論はヒックスが均衡価格で明らかにした法則と同様であると森嶋は言うが、(マルクスと同様に?)極めて常識的である。この章は重要なことは書かれていないとすべきであろう。

 (第4章 価値・使用価値・交換価値)
 マルクスは、交換価値(=価格)は、価値とは一致しないことを知っていた。資本主義以前の「単純商品社会」と全産業の資本構成(可変価値と不変価値の割合)が同一という特殊な場合を除いてである。思うに、前者は、アダム・スミスが「資本の蓄積にも土地の占有にも先立つ社会の初期未開の状態」として論じた所であり、後者はリカードが価値論の要の部分であるから、古典派経済学を研究したマルクスとしては、当然の事であろう。

 この章は単純商品社会という「関数の特異点」での価値と価格の関係を扱う。そのために、単純商品生産社会を生産の一般均均衡式で表現する。価値論だけで消費者需要理論なしには、一般均衡は不可能である。マルクスは、労働者の必需品の消費バスケットからなる特殊な需要関数を想定していた。彼は、消費者需要の限界効用理論を知らなかったが、もし知っていたならば、自分のモデルに統合したと森嶋は確信する(注1)。
 まず、単純商品社会の一般均衡体系を構築するために、消費理論を導入するに際し、消費は予算制約の下で硬直的に割り当てられる仮定を採る。マルクスの消費関数に近いものだと思う。労働者の生存水準での消費バスケットが、bn+1 ,bn+2 ,…,bm の各消費財(注2)(m -n 個)の分量からなるとする。諸商品(m 個)の価格をp1, p2, … , pm とする。労働者は、1人1時間当たりの賃金率 w で1日T 時間働くものとする。労働者は、次の収入の予算制約式の下で消費水準 β が決まる。生存水準の β 倍である。
 pn+1 β bn+1 + … + pm β bm = w T
 この時、消費財に対する総需要D は、N を総労働者数とすると、個人の消費水準(各人同一)を集計したものだから
 
 消費財の需給均衡式は、
 x IID
 となり。消費財の生産量 x II は、次のように、生産財の生産量 x I を誘発する。生産財の需給均衡式である。
 x I = A I x A x   
 そして、労働市場でも需給は均衡しなければならないから、生産財産業と消費財産業[原文では「資本財」と「賃金財および奢侈財」となっているが、以下特に断りがない限り、便宜のため「生産財」と「消費財」と改める、(注2)も参照のこと]での雇用は全体の労働量(労働時間表示)に等しく、
 L x + L x = T N
 となる。この単純商品社会では、利潤はないから、価格は生産手段の価格と賃金額の合計となり、価格体系は次の方程式で表せる、
 p = pw L
 p II = p IIw L II  (4・1:以上2式)
 , p は、それぞれ生産財生産の投入ベクトル及び価格の(行)ベクトルであり、, p は消費財生産の投入ベクトル及び価格ベクトルである。w は賃金率。
 以上7本の方程式が最小の単純な生産の一般均衡体系である(注3)。(4・1)価格方程式は、第1章の価値方程式(1・1)と同形である。(4・1)式の w =1 とおけば全く同一となる。すなわち賃金率をニューメレールとすれば、価値と価格は等しい。あるいは、価格は価値に比例する(λ i = p i /w )。任意の商品をニューメレールとして表現した各商品の価格は相対価値に等しいともいえる。これで、単純商品社会では、価値と価格が等しいことが示せたわけである。私などは、直ちに(1・1)式と(4・1)式を比較して、結論を導けばよいように思えるのだが、(4・1)式が成立するには、他の6本の式が必要ということなのだろう。
 この章の残りの部分では、個人が予算制約下で効用の極大化を図るものと仮定を採用する。上記の消費割り当て仮定における諸式のうち、予算制約式と需要関数を個人効用極大化仮説の式に置き換える。主観的需要理論を採用しても同様の結論を導ける。いずれにせよ、価値とは単純商品社会の(労働で表した)均衡価格であることが証明された。同時に、マルクスの価値理論は、現代の需要理論と共存できることが示された。
(注1)「ある使用対象」は、「その所持者の直接的欲望を越える量の使用価値と」なるとき、その所持者にとって、非使用価値となる――という『資本論』の箇所を引用して、著者は個人の価値総額の式を作る。商品はi (=1,…m )よりなり、当初所有する商品ストックを(1, …m ) とし、交換よって実現する最適ストックを( 1 ,…) とし、個人の効用関数 u ( 1 ,…) とする。そして、商品 i の非使用価値をv とするなら、v は交換価値に比例する(このところが記者にはよく理解できない)として、下式を得る。
 ある個人の使用価値と非使用価値の総額は、
 u ( 1 ,…) +
 となる。この式を極大化のため、p i を一定として、x i について、偏微分してゼロとおけば、
 u 1/p 1u 2/p 2 = …= u m/p m
 が、求められる。ここで、u i は効用関数を x i について編微分して得られる限界効用(使用価値)である。これは限界学派の定式化と同じものである。
(注2)原文では「生存水準(原文:subsistence level)での労働者の消費を、b n+1, b n+2, …,b m であらわそう。これらは賃金財および奢侈財の所与の分量である」(p.50)となっているが、生存水準で奢侈財が含まれているのはおかしいと思うので、消費財と改めた。森嶋は他の処では、奢侈財を資本家のみの消費対象としているように思える(「資本家の便宜のための奢侈財産業」(p.61))。それとも、単純商品生産社会では、労働者は資本家でもあるから、奢侈財も消費するのであろうか。どうも奢侈財の定義が曖昧に思える。
(注3)。この体系では、T, N, i, A, A, L, が外生変数、w, D, β, x, x, p, p が内生変数ではないかと思うが、私にはよくわからない。
(第5章 剰余価値と搾取)
 単純商品社会と異なり、資本主義社会では、全産業の資本構成が同一であるという特殊な場合を除いて、一般に価値と価格は乖離する。マルクス経済学では、価値計算体系と価格計算体系という独立した二つの計算体系がある。しかし、マルクス自身及び後世の追随者、批判者も含め、共にしばしば、両者を混同した。例えば、利潤率を剰余価値と使用資本の価値の割合として、剰余資本率と利潤率の関係を論じている。利潤率は価格タームであり、剰余価値率は価値タームであるにも、かかわらず。
 『資本論』には、剰余価値率あるいは搾取率について、下記の3つの異なる定義がある。①不払労働/支払労働、②剰余労働/必要労働、③剰余価値/労働力の価値、である。①は、1単位の労働を1時間提供することによって得る生存手段の価値をもとに計算したもの。②は、「資本財産業+奢侈財産業」と「賃金財産業」の産業間労働の配分から求める。③は、社会全体の総剰余価値と労働力の総価値から産出する。これら3つの定義が同一であることが、数式を用いて示される。
 ③を個々の産業で見ると、生産物の価値は、不変資本、可変資本及び剰余価値の合計として表され(Λ i i i i )、i 産業の剰余価値率= i i である。労働者の産業間移動(労働時間選好)により、各産業の剰余価値率は均等とされる。

 そして、剰余価値の存在が、利潤の源泉であることを明らかにした「マルクスの基本定理」(森嶋の命名)の証明にむかう。資本家による搾取が、資本主義存続の条件であること示したものである。この定理を、次のように定式化する。全産業で正の利潤をもたらす、一組の非負の価格と賃金率が存在するための条件は、搾取率が正となるように実質賃金が与えられる事である。その必要条件の証明は置塩信雄によってなされた。ここでは、その必要・十分条件が証明される(注1)。
 「この基本定理は、マルクス経済学において、価値体系式と価格体系式を結びつける橋の役割を演じる」(p.66:式の表示は省略)とするのは、価値体系で定義される搾取率と、価格体系で定義される利潤率との関係の定理だからであろう。
 こうして、正の搾取率が存在するための必要・十分条件(正の利潤が存在する必要・十分条件でもろう)が列挙される。1.社会の技術が、商品価値が正となるほど生産的(第2章で証明)であること、2.さらに技術が非常に生産的であって、賃金財の価値が下がり、最長可能な労働をしなくとも、労働者生存手段の総価値を生産できること(労働者が最大労働しても生活できないなら搾取の余地はない)、3.実際の労働日(時間)は、労働者が生存手段を獲得するのに必要な労働日以上に長いこと、である。
(注1)よく理解できないのは、ここでは、搾取の存在→正の利潤率の証明に、p iαΛ i (i = Ⅰ、Ⅱ)という条件がつかわれている(p.66)ことである。すなわち、価格が価値に比例するという資本主義一般には成立しない条件である。もっとも、第6章では、一般的な条件での証明がなされている。ノイマンの黄金経路のケースではあるが。
 (第6章 利潤率)
 マルクスは、資本論第3巻において、まず価値と価格が一致する単純な場合から始めて、その後価値と価格が乖離する一般的な場合を論じた。第3巻第1篇では、価値=価格そして、剰余価値=利潤として、分析を行った。「利潤と剰余価値は、ただ形態だけが違っている同じ数量として取り扱われている」(『資本論』第3巻第1篇第3章)(注1)。
 剰余価値率 s' は、s/v であり、利潤率 p' は(剰余価値=利潤、そして価値=価格から)、p's'v /Cs'v / (c + v ) となる。ここで は、総資本( )。
 p's'v /C の右辺を s'v /C に分離し、マルクスは、二つの産業の (i) 剰余価値率と資本の百分比構成(v /C ) が等しい時は、利潤率も等しい、(ii) 剰余価値率が等しくても、資本の百分比構成が不等であれば、利潤率も不等、(iii) 総資本のうち、不変資本が可変資本より大きな割合で増大する時は、利潤率が低下する、とした(注2)。
  いま、マルクスがしたように、Π i (i 産業の利潤額) = S i (i 産業の剰余価値額)を仮定すれば、おのおのの産業について、C ip + Vip = Ci + Vi が証明できる(C ipV ip は価格表示のC iV i :第7章で証明)。従って、これもマルクスと同様に
  π i s' i Vi / (C i + V i )   (6・1) 
 とできる。ここで、π i は利潤率、s' i は剰余価値率である。
 そうして、利潤と剰余価値、および価値と価格が等しいと出来るのは全産業が同一の価値構成であるときに限られることが証明される(これも7章)。 すなわち、(6・1)は、
 C 1 /V 1 = C 2 /V 2 =  … = C m /V m
 を意味し、このことは、s' 1 = s' 2 = … = s' m ならば、π 1 = π 2 = … = π が明らかである。
 よって、マルクスの上記命題 (ii) は、この仮定の下で導き出せない(資本構成が不等ということは、仮定に反している)、(i) の資本構成が同一の条件は、当然であり余分である(マルクスは「資本の百分比構成 v /C 」とし、ここでは「資本構成 c / v 」を使ったが、結論的には同じことである)。

 マルクスは、『資本論』第3巻第2篇では、諸産業の利潤が剰余価値に一致しない一般的な場合を取扱った。諸産業の資本構成は異なるが剰余価値率(搾取率)は均等化すると仮定した。剰余価値は可変資本に比例し、利潤額は総資本に比例するから、諸産業の利潤と剰余価値は一致しない。(利潤率が一定の)均衡価格は、価値から乖離する。その場合でも、全産業を合計した総利潤が総剰余価値に等しくなるように、価格を設定することができる。マルクスは、Σ Π i = Σ S i とおいて、π = Σ S i / Σ (C i +V i) を均衡利潤率の第一次接近と見做し、価格を(1 + π )(C i + V i )と計算した(注3)。

 さて、マルクスは、価値と価格を混同したまま、利潤率 p' ( = s / (c + v ))は、常に剰余価値率 s' ( = s / v ) よりも小さいと考えた。なぜなら、v < c + v だからである。本章で、森嶋は、価値方程式からの搾取率 e ( = s' )と、価格方程式のからの利潤率 π を用いて、π < e を証明する。これらは、比率であるから相互に比較可能である。この証明を、シートンと共に、置塩とは独立に発見したとして、「森嶋―シートン―置塩定理」と名付ける。時に、巧妙なネーミングが効果的に使われる。
 この定理の証明では、労働者の生存財がバスケットとして、あてがわれていたのだが、次に労働者が賃金財を選択するモデルに拡張される。この拡張モデルの方を以下に摘記する。
 F を1人の労働者が1日分の賃金を全部支出して消費する賃金財のベクトルとする。w が1時間当たりの賃金率、1日の労働時間はT 時間であるから、労働者は予算制約式
 w T = PF   (6・2)
 の制限下にある。労働者が、消費の効用を最大化するならば、F は価格P と賃金w T に関して零次同次の関数F = F (λ p , λ w T ) として表現され、 λ = 1 /w とすると、
 F = F ( p Ⅱ,w ,T )
 として、表示できる(全労働者の選好は同一との仮定)。p Ⅱ,w は、賃金率で割って実質化した賃金財価格である。
 (6・2)式から、
 1 = p Ⅱ,w D  ここで、D =  (1/T ) F  (p Ⅱ,w ,T )    (6・3)  である。
 搾取率を、第5章①の定義から、(6・3)式を使って、
 不払労働/支払労働 = e = [T Λ F (p Ⅱ,w ,T ) ] /Λ F (p Ⅱ,w , T ) = ( 1 - Λ D ) / ΛD  (6・4)
 と定義する。 (労働日で、価値概念でもある)が、価値と価格を結びつける役割をしているのではないかと思う。
 さて、長期均衡の価格方程式は
 P i = (1+π )(p I A i + w L i ) であり、これを w で割ると、
 P i , w = (1+π )(p I, w A i + L i ) となり、右辺のL i にp Ⅱ, w D = 1 を掛けると、以下二部門で表記して、
 P I , w = (1+π )(p I, w A I + p Ⅱ, w DL I
 P II , w = (1+π )(p I, w A II + p Ⅱ, w DL II
 となり、一方価値方程式は(6・4)の剰余価値率 e の定義を考えて表現すると、
 Λ = Λ A + (1+e ) Λ D L
 Λ II = Λ A II + (1+e ) Λ D LII
 となる(注4)。
 ここで、y をその第1番目から n 番目の要素から構成される部分ベクトルとし、y をその第 n +1 番目から m 番目までの要素から構成される部分ベクトルとする y ベクトルを考えると、上記価格方程式と価値方程式から、消費者選択を含む次の「森嶋―シートン―置塩定理」を導出できる。
すなわち、
π eV / (C +V )    (6・5)
ただし、V = Λ D L y + Λ D L II y II
      C = Λ I A y + Λ I A II y II
 この、yy は、後に説明されるフォン・ノイマン経路上にあって、「黄金時代の」最大成長の均斉成長率を示す産出量比率である。そこでは、資本家は消費せず、労働者は貯蓄しない。
 (6・5)の分母・分子にある総不変資本と総可変資本は、価値タームで計測されたものであるが、共に正であるので(詳細略)、利潤率は搾取率がゼロでない限り、搾取率より小さいことが判る。「この修正され、拡張されたマルクスの結論は、資本主義経済において正の利潤が存在するためには「搾取」が必然的であることを改めて確認するものである」(p.83)と書かれている。たしかにこれは、「マルクスの基本定理」を証明するものではあるが、フォン・ノイマン経路上の経済という制約があるように思える。「マルクスの基本定理」の一般的な証明は、塩沢由典(『著作集』解説)が、行列の性質を利用していとも簡単に示している。

 章末にこれまで検討された、利潤率を剰余価値 / 総資本と同一と見做せる4つの条件が挙げられ比較されている。
(1)搾取も利潤もなく、π = e = 0 の場合。単純商品生産社会で成立する特殊なケース。
(2)全産業の資本構成が同一で、従って価値が価格に比例する場合(第7章参照)。これはマルクスの想定したモデルではない。というのは、マルクスは、全産業を(A)資本財産業、(B)賃金財産業、(C)奢侈財産業、からなる3のセクター、あるいは(A)および(B)+(C)の2セクターからなるモデルを構築しようとした。これらのセクターに各産業を集計するためには、セクター内の産業の資本構成は同一比率を持つ必要があるが、セクター毎には資本比率は異なっているからである。
(3)サムエルソンが明らかにした条件。これは内容の記述を省略する。このモデルは、賃金財が生産に投入されるため、マルクスの想定に合わない。
(4)森嶋が提起するモデル。フォン・ノイマンの動学的体系と結合したベクトルで産出量を評価するもの。
 しかし、(4)による「この問題の解決には、生産と評価づけとの間のフォン・ノイマンの双対性についての十全の認識が必要である」(p.86)といわれてしまうと、小生の様な無学のものには立つ瀬がない。

(注1) 元来、労働時間単位の表示数とニューメレール単位表示数という、表示単位の違うものを等号で結びつけているのである。本1冊=1千円のようなものか。数字が同じでも意味はないと思える。これが、森嶋のいうマルクスの価値と価格の混同の一だろう。
(注2)しかし、マルクスはそれらの意味するところを十分に理解していなかった。剰余価値と利潤を同一の量と扱うことは、個々産業の剰余価値(労働時間表示)と利潤(ニュメレール表示)が比例し、「利潤はそれに対応する剰余価値に数値のうえで等しくなるような水準に規格化されている、という仮定」(p.72)なのであると森嶋はいう。第4章の単純商品社会で、価値と価格の一致を相互の比例とニューメレールの選定で示したことと同様のことか。
(注3)いうまでもなく、真の均衡利潤率は、π' = Σ Πi  / Σ ( C ip + Vip )であり、真の均衡価格は、(1 + π' ) ( C ip + Vip ) である(この記述は原書にはない、従ってπ' も便宜的に付けた記号である)。
(注4) 労働日=支払労働+剰余労働(不払労働)から、(1+e ) Λ F = T 、すなわち (1+e ) Λ ω F = 1 (ただし、ω = 1 / T  )から、価値方程式Λ i = Λ I A i + L i は、Λi = Λ I A i + (1+e ) Λ ω F L i  と書け、(6・3)式から D = ω F  であるから、Λi = Λ I A i + (1+e ) Λ D L i と表せる(と思う)。
 (第7章 静学的転化問題)
 著者は、転化(転形)問題は二つからなるという。一つは剰余価値率を利潤率に転化する問題であり、いま一つは商品の価値を(生産)価格に転化する問題である(普通は後者が、転化問題とされていると思う、著者の理論展開の都合上の区分か)。前者は、前章(第6章)において、価値を「黄金時代」の均衡状態で評価すると、制約的仮定無しに成立することを証明した。しかし、後者が成立するためには、均衡均斉成長仮定に、もう一つ、産業は互いに「一次従属」であるという追加的仮定が必要であることが本章で述べられる。
 まず、森嶋は、マルクス自身の転化問題に対する結論として5つあげている。
 (ⅰ)社会全体として、生産価格総計は価値総計に等しい。
 (ⅱ)商品の費用価格は常にその価値より小さい
 (ⅲ)剰余価値と利潤は量として等しい
 (ⅳ)回転期間の相違を無視すれば、価値=価格となるのは、資本構成が同一の商品だけである
 (ⅴ)より高い資本構成で生産される商品の価値は生産価格より小さい。 より低い資本構成で生産される商品の価値は生産価格より大きい。
である。
 森嶋は(ⅰ)~(v)を『資本論』からの引用の形で示している。いずれも第3巻第9章からのものである。ここでは、単純に箇条書きにした。これら命題について、説明を補足しておく。マルクスは、第3巻では、可変資本は同額の剰余価値を生むと仮定し、社会全体として、総価値=総生産価格、総剰余価値=総利潤、という「総計二命題」が成立するとしている。その上で。個々の産業の「資本家たちは以前のように、可変資本の大きさに応じてではなく、彼らの総資本の大きさに応じて剰余価値のプールからその分け前をとる」(スィージー、1967、p.137)、それが利潤である。
 諸商品の価格(マルクスの「生産価格」)は、生産に支出された資本(マルクスの「費用価値」)プラス費用価値の一定比率である利潤から構成される。マルクスは、価値と価格を区別せずに、価値を積み上げたものを価格としている。その上で、
 (ⅰ)は、「総計二命題」の一。前提である。(ⅱ)については、生産物の価値は費用価格(費用価値のこと)プラス剰余価値であることから明らかである。(ⅲ)は、後の森嶋の記述からみると、「総計二命題」の「総剰余価値=総利潤」を指している。しかし、引用箇所は短く「社会全体の」形容詞もなく(原文には「第一編にみたように」が付加されているだけ:全集、p.207)、マルクスの原文はむしろ、個々の産業・企業においても、剰余価値の転化形態が、利潤額であり、さしあたり「利潤は、剰余価値と同じもの」(全集、p.45)であることを指しているように思われる。適切な引用と思われない。(ⅳ)・(ⅴ)は、剰余価値は、可変資本と同額(仮定)であり、利潤率は総資本に比例して配分されることから明らかである。(ⅴ)のより高い、より低い、の基準は社会全体の平均である。
 マルクスは、価値と価格を混同したが、価値は労働時間で測られ、価格は貨幣(ニュメレール)で測られ次元が違う。転化問題を扱うには、次元を合わせる必要がある。そのためには、価格の基準化(normalize)が必要である。そのための方法は簡単で、価格を労働のタームで測ればよい。労働で表した商品価格 p i,w = pi / w は労働量を表すと著者はいう。こうした操作を経てはじめて、両者の一致、あるいは、その大小を論じる意味がある。
 このへんは、解りにくいので小生の理解を書いておく。次元とは物理学でいう。単位の組み合わせの事であろう。「労働のターム」(in terms of labour)で測るは、時に「労働時間表示であらわせば」(p.76)と訳されている。要するに賃金率で割って実質化するということである。価格を賃金率で除すと、何故時間表示となるか。価格の単位はドルとする。賃金率の次元は、賃金額を労働時間で割ったものであり、ドル / 時間である。そして、価格 ÷ 賃金率の次元は、ドル ÷ (ドル / 時間) = 時間となるのである。支配労働価値説に当たるのではないかと思う。
 マルクスは、社会全体として、総価値=総生産価格、総剰余価値=総利潤、という「総計二命題」が成立するとしたが、これら命題は、搾取も利潤もない極めて特殊な場合以外は正しくない。均衡利潤率が正である限り、労働で評価した商品の生産価格(マルクスのいう生産価格ではない)は、それに対応する価値より大きい p i,wΛ ii = Ⅰ, Ⅱ )ことが証明(第6章末尾に記載)できるから、二命題は成立しない。そこで、これらの命題は、両者の同額を意味するのではなく、価格表示の産出量と総価値が比例し、総利潤と総剰余価値が比例すると解すべきだと著者はいう。
 次いで、森嶋は、全経済において、個々の産業の利潤(額)が剰余価値(額)に比例 S i = α Π i するのは、全産業が同じ資本構成を持っている場合に限り成立すること、またその逆も成立することを証明している。これは、総計二命題を森嶋流に比例解釈するとして、それが成立する特殊な要件を示したのであろうか。

 最初に戻る。ここでのマルクスの転化問題は、前章で論じた剰余価値率を利潤率に転化する問題ではなく、商品の価値を(生産)価格に転化する問題であった。前述のように、マルクスは、『資本論』第3巻第2部で、個々の産業の利潤が剰余価値と同一でない(森嶋流の言い方では比例しない)、そして(全産業同一資本構成のケースではなく)各産業の資本構成が異なる前提の下で議論を進めている。その上で、これも前章で書いたように、マルクスは、総利潤率=総剰余価値 Σ Π iΣ S i とおいて、π = Σ S i / Σ (C i + V i ) を均衡利潤率の第一次接近と見做した。[前章では、C i 、V i i 産業で使用される不変資本、可変資本を意味するが、本章では i 商品の単位当たりの不変資本、可変資本を意味する:p.72注参照]その上で、、価格を q i = (1 + π )(C i + V i )と計算した。これを「マルクスの価格」と呼ぶ。
 しかし、同じアルゴリズムを用いて、転化第一問題を解決した均斉成長の生産量 y で計算しても、マルクスの価格 q i は均衡価格 p i に同一とも比例するともいえない。なぜなら、本来の均衡価格は p i = (1 + π ) ( C ip + Vip ) であり、
 π = Σ S i y i / Σ (C i + V i ) y i   (7・1)
 により均等利潤率πは価値から正しく導かれた(前章で証明:(6・1)式がこれに該当すると思う)けれども、C ip + Vip は、C i + V i に等しいとも、比例するともいえないからである。
 ただし、全産業の資本構成が同一であるなら、均斉成長の均衡状態にあるマルクスの価格 q i は価値 λ i に等しく、同時にマルクスの価格は均衡価格 p i に等しいことが証明される(このあたりは、よく理解できない所があり上手く説明できない)。そうして、マルクスの諸価格が価値と等しくなるための条件は、この「全産業同一の資本構成」の条件からさらに「産業の一次結合的」条件に緩めることができる。思うに、同一の資本構成は、マルクスの前提と異なるから、この条件を持ち出したものか。いずれにせよ、条件は大して緩んだようには思われない。一次結合的とは、産業の投入を行列にした場合、列の一つは、残りの列の一次結合で表されるという意味らしいが、数学的にはともかく経済的な意味は明確ではない。
 価格を労働時間で計測(基準化)するやり方では、「総計二命題」のみならず、マルクスの5命題の(ⅰ)~(ⅲ)は、誤っていることが判る。労働で表した商品 i の価格 p i,w は、すべてその価値 λ i よりも大であることから、誤りは明らかにできる。しかし、労働だけがニューメレールではない。「そうするかわりにマルクスは、価値を価格に転化することによっても生産費は影響を受けないように、価格を基準化したのである。そのような手続きは[中略]産業が一次従属的であるという仮定のもとでだけ可能である」(p.97:一部訳を変更)。ここで「マルクスは」とあるのは「著者は」とするのが適当でないかと思う。
 ともあれ、一次従属の条件を満たしていれば、「すでにみてきたように、均衡価格 p 1 , … , p は、マルクスのアルゴリズムで決定された q 1 , … , q に比例する」 ( p =α q )(p.97)(注1)。よって、p で評価された費用価格は、q で評価された費用価格に比例する
  p + p = α q + )    (7・2)
 ここで、価格均衡式
 p i = (1+π )(C ip + Vip ) と
 q i = (1+π )(C i + V i )       (7・3)
 が成り立ち、 p =α qであるから、
 C iq + Vi q = C i + V i となる。   (7・4)
 それゆえ、産業の一次従属の仮定の下では、マルクスのアルゴリズム価格で計算された各商品の生産費は、価値 Λ から価格 q への転化にもかかわらず、不変である。
 (7・1)、(7・2)および(7・3)式から
    (7・5)
 となる。これは、均斉成長の均衡状態において、産出物総額をマルクスの価格(=均衡価格)で表示すれば、それは価値総額に等しいことを意味する。これは、マルクスの結論(ⅰ)が改訂されて成立することを意味する。
 結論(ⅱ)も、λ i > C i + V i と(7・4)式から、 q 表示の費用価格はその商品価値より小さいことは、明らかである。(ⅲ)も、同様に(7・4)と(7・5)から、
   (7・6)
 から証明できる。先に、結論(ⅲ)が、総利潤=総剰余価値の意味であるといったのは、この式のゆえである。
 こうして、一旦否定されたマルクスの結論(ⅰ)~(ⅲ)は、蘇ることになる。ただし、産業が一次従属的であり、均斉成長で評価した価格を用いるとの条件の下ではあるが((7・1)式が均斉成長を必要とする)。
 これに対し、結論(ⅳ)、(ⅴ)は、産業が一次従属的であると仮定しても成立しない。一次従属的であるときに成立する改訂版の(Ⅳ′)、(ⅴ′)があげられているが、省略する。ここでは、一次従属でなくとも成立する改定版ヴァージョンを示す。
 (ⅳ″)資本の価値構成がたまたま同一であるような場合だけ、商品の価格は価値に比例する。
 (ⅴ″)商品 j の価格に対する商品 i相対価格 p i /p j は、資本の価値構成で商品 j が商品 i より高い(低い)ならば、j に対する i相対価値 λ i / λ j よりも大きい(小さい)。
 である。
 (ⅳ″)と(ⅴ″)は、一次従属でなくても、相対価値と相対(均衡)価格の間に成立する関係である。
 その証明は、資本財産業に属する諸産業資本の価値構成は全部同一であるが、賃金財産業に属するいくつかの産業資本構成がそれとは異なる(全産業として一次従属的ではない)と仮定して行われる。この場合、資本財産業ではいずれも価格が価値に比例する乗数が存在する事(α Ip I,w = α I Λ )が示される。その上で、任意の賃金財 i に関して価格が価値に比例すると仮定する。それから導出された i 賃金財産業の比例乗数 (α i ) の式から、1.α iα I となるのは、i 賃金財産業の価値構成が資本財産業の価値構成と偶然に一致するときのみ、2.i 賃金財産業の価値構成が資本財の価値構成より大であれば α iα I ことを示せる。このようにして、マルクスの改定結論(ⅳ″)、(ⅴ″)が求められる(注2)。
 すなわち、eπ > 0 の資本主義では、(a)労働で示した価格は、必ず価値とは乖離する、(b)ただ、資本構成が等しい産業では、相対価値に等しい相対価格がえられるとの結論がえられる。

 この章の結論として、著者はいう。マルクスは、転化問題において価値と価格の比例性(同一性というべきか)を証明しようとしていたのではなく、何らかの制約条件がないと比例しないことを証明しようとしていたのであると。これに関連して、次の3命題を立証しようとしていた。1.e π であり「剰余価値率の均衡利潤率への転化にかかわる」、2.p 1,w λ i 「労働表示の均衡価格への価値の転化にかかわる」、3.Π i αS i 「剰余価値の利潤への転化にかかわる」(p.103-104)、である。そして、命題3.は個別資本には、搾取と利潤には比例性がないが、命題1.で総体としての資本は搾取が利潤の条件であることを示していると。
(注1) 「全産業が資本の価値構成において同一であるなら、マルクスの価格は価値に等しいことは[中略]明らかである。このばあいには、マルクスの価格は真の均衡価値にも等しい」(p.95)と書かれている。価値構成同一条件下で、マルクスの価格は均衡価格と等しいとされていた。ここでは、一次従属条件下で、マルクスの価格は均衡価値に比例するとなっている。「すでにみてきたように」とあるが、それがどこか私にはよく判らない。
(注2) この証明は、資本財産業の資本構成は同一とした、非一次従属のケースであるが、資本構成が区々なようなすべての非一次従属産業でも成立するのか、私にはよく判らない。特に、i 賃金財産業で価格が価値に比例するとの仮定は、証明すべきことを前提としているようで、その点も不審である。
 (第8章 集計問題)
 マルクスは、『資本論』第2巻の再生産表式にみられるように、各生産部門を集計して生産財部門と消費財部門の2大部門に集計した。著者の表現では、「資本財部門」と「賃金財及び奢侈品部門」の2大部門である。集計(aggregate)と訳されているのでそれに従うが、私としては統合の方が解り易い。
 しかし、マルクスは意識もしていなかったが、そこには問題がある。集計する前の単純な産業を構成要素とする価値決定体系から得られた結果が、集計体系から得られたそれと一致する(あるいは誤差を最小とする)条件あるのか、生産価格と産出量にも同様に非集計の元のままの体系で決定された価格・産出量が、集計体系から決定されたものと一致する条件は何か。そして、これらの3条件は相互に整合的であるかの問題である。
 具体的に森嶋のいう所を見てみる。産業を、(多数の)いくつかの部門に統合(集計)するとする。集計前の分類(セクター)を産業と、集計後のそれを部門と呼ぶ。これまで同様、元の産業構成は全体で m 産業、生産財産業は n 産業、消費財産業は m -n 産業からなるとする。これらの産業を生産財は s 個の部門へ、消費財は r - s 個の部門へ計 r 部門に統合する。
 集計後の任意の部門 i は、産業 n in i +1、…n i* から構成されている。n i* は、部門 i の最後の産業の番号である。部門 i +1は、番号でいえば産業 n i+1n i* の次の産業がn i+1 産業である)から始まり、n i+1+ 1、…、n i+1* から構成されている。産業を並べて、上から順に数産業(必ずしも同一数でない)をまとめて部門とし、番号を振るイメージであろう。
 集計前の元々の産業における、価値、価格、産出量の方程式は、生産財と消費財に大別して、これまで同様に次のとおり、
 Λ = Λ I
 Λ II = Λ II II          (8・1:以上2式)
 P I = (1+π )(p I A I + w L I
 P II = (1+π )(p I A II + w L II )     (8・ 2:以上2式)
  = A x + A x Ⅱ             (8・3)
 ここで、n × n の行列であり、 II n ×( mn )の行列である。
そこで、m 個の産業を r 個の部門に集計した後の価値、価格、産出量の方程式は、生産財と消費財に大別して、次のとおりとする、
 Φ = Φ H I + M I
 Φ II = Φ H II + M II            (8・4:以上2式)
 q = (1+π )(q H I + w M I
 q II = (1+π )(q H II + w M II )     (8・5:以上2式)
  = H I y + H II y               (8・6)
 ここで、H I は生産財の投入係数行列( s × s )、H II は消費財の投入係数行列( s ×( r - s ))、M I は生産財の労働投入係数ベクトル( s 次元)、M II は消費財の労働投入係数ベクトル( r - s 次元)である。
 そうすれば、集計の問題は、厳密に次のように定式化することができる。
 (ⅰ)集計的評価体系(8・4)式で計算された部門別産出量の価値(注1)ΦΦ II が、(8・1)式で決定された価値ΛΛ II を部門別の産出量構成に従って集計して得られる真の価値に一致する条件
 (ⅱ)部門別の価格体系(8・5)qq II が、その要素である元の産業の価格体系(8・2)P I P II で決定された価格を部門別産出量構成によって集計した真の部門価格と、利潤率のあらゆる可能な値 π について、一致する条件
 (ⅲ)(8・6)で求めた部門別産出量が、あらゆる可能な生産財及び消費財の産出量ベクトル x xに対して、(8・3)から得られる真の部門別産出量と一致する条件
 (ⅳ)以上(ⅰ)~(ⅲ)の正当な集計(非偏倚集計)のための条件は、相互に整合的か
である。
 価値については、部門産出量1単位の価値は、それを構成する産業の産出量で加重平均したその単位価値の合計として算出できるので、価値に関しては何ら非偏倚集計の条件は不要である(注2)。またもし、部門が資本構成同一の産業を集計することによって構成されるなら、同一部門に属する産業の価格は価値に比例していることから、価値、価格、産出量が非偏倚的に集計出来ることが判っている。これは特殊なケースである。
 資本構成が異なる産業を集計して部門を構成する場合の非偏倚集計条件は何か。これら集計規則は、まずマルクスが行った生産財と消費財の2部門に集計する簡単なケースで証明される。
 生産財を合成商品とする商品 Ⅰ と消費財を合成商品とする商品 Ⅱ を作ることによって、
 (ⅰ)については、集計的価値決定方程式は、何らの条件を加えることもなしに、元の価値方程式の価値の集計を正しく表現していること。
 (ⅱ)については全生産財産業の資本構成が同一とすれば(注3)(消費財の資本構成は区々であっても良い)、2部門への集計は正確であり、部門別の産出物価格は、集計方程式体系で、偏倚なく正しく計算される。
 (ⅲ)については、消費財産業の資本構成も同一であるとの追加的仮定を導入すれば、2部門の産出量は偏倚なく正しく計算される。
ことが証明される。「以上の考察が明らかにしているのは、第一次接近として、資本財産業の資本の価値構成が相違なく、しかも賃金財および奢侈財産業の資本構成も相違ないと仮定すれば、価値のみならず、価格と産出量のいずれに関しても、産業を2大部門に集計してよいということである」(p.117:一部改訳)。
 2大部門集計の場合、非偏倚集計の条件は、厳しいものであることが判った。次に、一般的な、m 個の産業を r 個の部門に集計する場合の、非偏倚条件の検討に入る。この場合も、価値については、上記のように、何ら条件を付けることなく非偏倚集計ができることは解っているので、価格と生産量についての非偏倚集計の条件が何かという問題である。その検討過程の数学的展開は私にはわかりづらいものの、答えは生産財産業に属する各部門を構成する産業の資本構成が同一であることである。すなわち、生産財の部門内部では各産業の資本構成に違いがないことである。これが、n 個からなる産業の価値、価格および産出量の決定体系が、r 個のより小さな部門体系に正確に集計される必要十分条件なのである。
 この条件もかなり厳しいものである(最初に掲げた、資本構成が同じ産業で部門を構成するのを資本財産業にのみ適用した形であろう)。これで判るのは、価値のみに関しては無条件に非偏倚集計が成立する。しかし、価格による集計は、一般的には偏倚的である。ケインズのマクロ・モデルも、国民所得を求めるのに、市場価格を賃金率で割り引いたものを集計因子としており、集計は偏倚的である。J・ロビンソンが主流派経済学の生産関数が循環論法であるとした批判は、よく知られている。それに対し、「マルクス経済学において価値は、それが価格の第一次的接近であるからではではなく、まさにそれが価格よりも基本的なものであって、循環論法を取り除くことを可能ならしめるために、必要なのである」(p.123)。
 
(注1)原文"the values of the departmental outputs"を、邦訳本では「産出量の価値」と訳されている。私には、「産出物の価値」とした方が解り易いが、(ⅲ)との関係で邦訳に従がった。
(注2) i 部門産出量1単位に、産業 n i の産出量をδ ni単位、産業 n i +1 の産出量をδ ni+1 単位…含むとして、部門産出量(1単位)価値は
 λ ni δ ni + λ ni+1 δ ni+1 + … + λ ni* δ ni*
で求められるとしている(p.112)。
(注3)翻訳では、「全産業の資本構成が同一のケースでは」(p.115)となっているが「全資本産業の」(all capital-good industries)の誤りである。
 (第9章 単純再生産)
 著者は、マルクスが『資本論』第2巻に書いた2部門からなる再生産表式を検討する。この章では、単純再生産すなわち同一規模での再生産モデルを扱う。再生産表式には二つの目的があるという。一つは価値補填の研究であり、もう一つは経済の動態運動を説明のためである。この目的のためには、集計可能性=価値構成一定が決定的に重要だと主張する。単純再生産は、拡大再生産動態モデルへの導入モデルである。前者は、「トリビアルではない運動ではない(「とるに足らない運動」のこと、原文:no non-trivial movement)から、この段階のモデルは集計条件を問題とする必要はない」(p.132)。にも関わらず、前章で論じた集計理論を単純再生産に適用すべきであり、どのようにしてそれらが不変構造係数(翻訳では「固定的構造係数」:価値構成一定の意であろう)を持つ2部門に帰着させることができるかを見るべきである。単純再生産を拡大再生産モデルの特殊ケース(成長率ゼロ)として研究すべきであると。要するに、集計問題は価値補填の観点からは問題にならないが、後の拡大再生産表式検討のための準備として、単純再生産において、前章の集計理論をここで確認しておくとの意味であろう。
 
2部門生産は価値で表して、一般的に次のように書ける(『資本論』第2巻第2篇第20章第3節:森嶋の記述と同じではない)、
 y = c + v + s
 y IⅠ = c IⅠ + v IⅠ + s IⅠ
 この時、単純再生産条件は、労働者は貯蓄せず、資本家は剰余価値をすべて消費する(蓄積はない)ので、
 y = c + c
 y = v + s + v + s
 すなわち、
 c = v+ s
 である。
 著者は、次の事を前章で明らかにした。2産業への非偏倚集計条件は、生産財産業と消費財産業において、それぞれを構成する内部諸産業の価値構成が同一であることである。この章で明らかにされたことは、数式を省いて大胆にまとめてしまえば、以下のことである。まず、この非偏倚集計条件の下、価値表示の単純再生産の条件が成立することを確認する。次いで、同じ非偏倚集計条件の下では、産業ごとに価格は価値に比例することを使って、価格表示でも単純再生産条件が成立することを示すことである。

 (第10章 拡大再生産)
 拡大再生産が実現できる条件は1.資本家の生活必需品に必要な以上の剰余価値が生産される経済であること、2.生産拡大が可能なように労働供給余力が十分にあること、である。マルクスは数値を使って拡大再生産の2部門モデルを例示している。まずは、出発表式(『資本論』第2巻第21章第3節)が始まりである。
 Ⅰ  4,000c + 1,000v + 1,000s = 6,000
 Ⅱ   1,500c +  750v +  750s = 3,000
 拡大再生産を可能とするために、マルクスは次の仮定を置いている。(ⅰ)部門 Ⅰ の資本家は、剰余価値の一定割合を蓄積する(本例では50%)、残りは自己のために消費、(ⅱ)部門 Ⅰ の資本家は蓄積を自己の部門 Ⅰ に、しかも現行の不変資本・可変資本の比率とおりに投資する、(ⅲ)部門 Ⅱ の資本家は、生産財投資を、部門 Ⅰ の需要と供給がバランスするように投資する、しかもここでも投資は自部門内に不変資本・可変資本の比率を維持するように行われる、(ⅳ)剰余価値率は100%、すなわち剰余価値は可変資本と同額とする。(ⅳ)労働者は貯蓄をしないで全部消費する。特に(ⅲ)の過程は余りに都合よいものと思われる。
 ともあれ、この過程により、具体的には、①部門 Ⅰ で、剰余価値 1000s の 50% である 500 が蓄積され、② 500 は、同部門に、出発資本構成比率 (4c:1v) で、400c と 100v として投資される、③部門 Ⅰ の供給 6,000 に対し、自部門での需要 4,400(4,000c+400c) と部門 Ⅱ の需要 1,500 との合計は、5,900 である。需要不足分 100 は、部門 Ⅱ の投資で調整されると仮定から、部門 Ⅱ の部門 Ⅰ 商品への追加投資は 100c となる。部門 Ⅱ の自部門商品への追加投資は、 Ⅱ 部門の出発資本構成比率 (2c:1v) とおりに 50v となる。
 部門 Ⅰ (生産財)については、部門 Ⅱ の投資を調整することにより、需給を一致させた。この時、部門 Ⅱ (消費財)に対する需要を検証する。部門 Ⅰ の労働者の消費財需要は 1,100(1,000v+100v) であり、同部門の資本家からの消費財需要は 500(蓄積の残余、剰余価値の50%) であり、合計 1,600 である。部門 Ⅱ 自身の消費財需要は、労働者需要が 800(750v+50v) となり、資本家需要は、剰余750sから上記投資 150(100c+50v) を引いた 600 となる。合計は、1400 である。消費財需要のⅠ・Ⅱ部門総計は、3,000 となり、消費財の出発点の供給と一致する。蓄積は目論見とおりに実現される。かくて、1年の期末には、
 Ⅰ  4,400c + 1,100v + 1,100s = 6,600
 Ⅱ   1,600c +  800v +  800s = 3,200
 となる。
 1年の期末は、2年の期首であるから、これらの数値を元に、1年と同様の仮定を継続して蓄積、投資が実現すると、2年の期末には、
 Ⅰ  4,840c + 1,210v + 1,210s = 7,260
 Ⅱ   1,760c +  880v +  880s = 3,520
 となる。3年以降も反復計算できる。その結果、年毎の部門別産出の成長率は、以下のとおり。
  
 部門  1年  2年  3年以降
 部門 I  10%  10%  10%
 部門 II  6.67%  10%
 10%

 「マルクスの経済において均斉成長への傾向が支配していることは明白であり、その傾向は、マルクスの経済においてはどのような不均斉成長の状態もわずか1年で消失することからみて、ソロー、ミード、宇沢といった新古典派の経済学者たちの主張する収斂性よりも、はるかに強いものである」(p.144)。そしてこの強収斂性の原因は、たまたまマルクスの取り上げた数値によるものではなく、その投資関数にある。各部門の投資は自部門内にのみ投資される(蓄積で他部門の商品を需要しても、それは自部門に投下された資本による)。そして、部門 Ⅱ の投資は、生産財需要の不足を補填する額に調整されるのである。著者は行列式を使って、収斂性の原因がその特殊な投資関数にあることを、一般化して証明してみせる。
 一般利潤率の成立する経済では、剰余価値(利潤)は、部門を越えて有利な産業に投資されるはずである。そこで、著者はマルクスよりも一般的な次の仮定をおいて、成長率を検証する。(ⅰ)部門 Ⅰ 、Ⅱ は同じ蓄積率 a を持つ、(ⅱ)両部門で蓄積されたものは、両部門に投資される。すなわち、両部門の蓄積 a [ s y ( t ) + s y ( t ) ] が、両部門の投資 (c + v Δ y ( t ) + ( c + vΔy ( t ) に一致する。ここで、s i , c i , v i は、剰余価値、不変資本、可変資本の総価値に対する割合である。
 これら仮定から、部門別の需給均等式を使って、再生産の基本方程式である連立差分方程式を定める。その一般解として、2部門生産物の t 時点での価値方程式を表現することができる。それらは、2部門のそれぞれに、成長率を t 乗した係数 [ ( 1 + 1 、 ( 1 + 2 ]を持つ2項からなる。それらの解の性質から導かれる結論だけを書くと、均斉成長は可能であるが不安定であり、均斉成長経路からはずれた位置から出発する経済は、時間の経過とともに、ますます均斉経路から離脱して行く。その離脱の経路は、部門 Ⅱ の資本構成が部門 Ⅰ の構成よりも資本集約的な場合は、均斉成長経路を中心に周期2の発散振動となり、それ以外は均斉成長経路からの単調な発散が起こる。マルクスが再生産表式数値モデルで描いた均斉成長とは逆の動きである。
 マルクスは10年の周期をなす景気循環を認識しそれを解明しようとしていたが、彼の再生産表式を用いては景気循環を説明出来なかった。森嶋は、彼の一般的な仮定に基づく連立差分方程式に近代経済学の景気循環理論を接ぎ木することは比較的簡単だとして、ヒックス『景気循環論』の理論を接合してみせる。そして、基本方程式から、景気の波動を導出できることを示した。理解のためには、ヒックス景気循環論の概要を知る必要がある。残念ながら、私はよく知らないため、ここでも結論のみを記した。

 (第11章 産業予備軍と利潤率低下)
 マルクスは、生存賃金論者であったが、生存賃金率水準においても、(労働需要の成長率に比して)高い労働力成長率を想定していた。人口の自然増、後進の地域、セクターからの労働力の流入の要因を考えたからである。本章では、労働力の自然成長率が一定不変と仮定して、マルクスの雇用に関する次の3命題を検証する。(ⅰ)資本の価値構成が不変とすれば、資本の成長は労働雇用を比例的に増加させる。(ⅱ)10年周期の景気循環は、産業予備軍の形成と吸収および再形成に基づく。(ⅲ)資本の技術的構成において不変資本が可変資本に比して増大(有機的構成の高度化)することは、総資本の増大に反して労働需要は相対的に減少する。
 以上3命題をマルクスは『資本論』第1巻において、1部門モデルを使って説明した。本書では、これまでの章と同様に、2部門モデルを使って確認する。
 まず(ⅰ)について確認する。2部門の基本的需給方程式を使って、次の式を導出できる。
 g ( t ) =        (11・1)
 1 + g L ( t ) =  ( 1 + g K ( t ) )    (11・2)

 ここで、g L ( t ) は 時点の労働需要の成長率、g ( t ) は資本の総価値成長率である。k ( t ) は、 時点の資本の価値構成を表し、
 k ( t ) = =
 であるから、y Ⅰ とy Ⅱ が同率で均斉成長するなら、k ( t ) は一定である。同時に、翌年の価値構成も不変( k (t ) = k ( t + 1 ) )であるから、(11・2)式から g L ( t ) = g ( t ) となる。マルクスのいうように労働需要は、総資本の増大に比例して増加する。労働需要成長率 g L ( t ) が労働力の自然増加率 ρ に等しけ れば、失業率は不変である。
 高水準雇用率の維持は、均斉成長でのみ実現できる。しかし、前章で明らかとなったのは、均斉成長は不安定であり、衝撃を受ければ簡単に雇用率は大きな変動―累積的な増大か減少あるいは、発散的な振動―を受けるであろうということである。この発散的な振動のケースをマルクスの(ⅱ)の命題に結びつける。
 このケースは、消費財産業 Ⅱ の資本構成が生産財産業 Ⅰ の資本構成より高い時に起こる。増大する振幅を伴う資本構成率の振動が、労働需要成長率の振動を生み出す。これが景気循環だというわけである。「こうして、資本による労働者の吸引と反発の交代があらわれ、時間の経過とともにその規模はますます大きくなる。以上の分析から、このような仕方で生産された産業予備軍の収縮と拡張の交代が、究極的には産業活動の周期的変動に帰着させられるべきことは明らかである」(p.162)と書かれている。しかし、「以上の分析」というほどの詳しい説明はなされていない。
 第(ⅲ)命題である。これまでは、資本の価値構成は不変としてきた。ここでは、価値構成が上昇する技術改良を考える。労働力に対し、より多くの生産手段が組み合わされる。それらは、資本投入係数 a ij 及び労働投入係数 l j の変化として表現される。ただし、以下では簡単化のために、それらの変化は中立的で価値 λ r の変化を起こさないと仮定する。資本投入増による価値の増加を労働投入減少による価値減少が相殺するのである。
 さて、k ( t ) は、部門 Ⅰ 、Ⅱ のそれらの平均値であり、中間値である。k ( t ) と k ( t ) が大きさは異なっても、それぞれ増加する時、(11・1)式と(11・2)式の k ( t ) を含む係数の動きから、「( t ) および g L ( t ) は共に、下落する天井によって限界づけられていること」(p.164)が示せる。マルクスは、k k が蓄積の進行に並行して増大するとの仮定から、総資本の増大は相対的な可変資本の減少を生み出し、失業を生むとして命題(ⅲ)を導き出した。失業は実質賃金を低下させ搾取率を高めることにより、資本蓄積率の低下を緩和する。このことは、労働需要を生み、失業も緩和することが考えられる。しかし、それは一時的なもので、永続しない。蓄積率の上昇も同様に失業を緩和するが、これも永続性はない。

 最後に「利潤率の傾向的低下の法則」が検討される。マルクスのいう利潤率は社会的平均構成の資本利潤率である。しかし、厳密な証明のためには、現実の総不変資本及び可変資本の平均に代えて、黄金時代の均衡総不変資本および可変資本を採用する(というより、森嶋-シートンの定式を使うために、黄金時代成長モデルを使わざるを得ないということであろう)。そこでは、次の森嶋―シートンの定式
 
 が成立したから、これを2部門モデルにすると、
 
 この式から、k 増加した時、π が減少するのは明らかであり、「利潤率の傾向的低下の法則」が示せる。
 なお、ここで k は部門別の資本の価値構成の平均値であり、
 
 となる。技術変化が前述のとおり中立的で価値変化を起さず、また技術変化の前後を通じて各部門内の産業の資本価値構成が同一と仮定して、経済が黄金時代の成長均衡状態にあるとすれば、
 
 との式を導き出せる。この時、c i が増加し、v i が減少する時(中立的技術変化)、k は増加することも示せる。
 技術革新に関わらず、価値量には変化はしないという仮定をはずすのは、次章で扱われる。

 (第12章 動学的転化問題)
 マルクスは、再生産の理論によって価値の補填の過程を研究した。拡大再生産では、蓄積率が主要な中心概念である。それは、総剰余価値に対する投資の価値の比率である。しかし、資本主義は貨幣経済であるから、資本家は利潤に対する貯蓄(=投資額)は意識しても、労働時間タームである剰余価値の蓄積率 a は意識しない。マルクスの再生産論の要である蓄積率は現実に観察可能な資本家貯蓄率(あるいは資本家消費性向)に結びつける必要がある。また、マルクスの蓄積率は、資本第 Ⅰ 部門では定率であり、第 Ⅱ 部門では調整的に決定される所与の外生的に決定されるものであった。蓄積率 a を所与と仮定するのも妥当ではない。とすれば、それは内生的に決定されるように体系を構築しなければならない。商品の需給方程式を、価値ではなく、現物量と資本の利潤からの貯蓄性向を用いて書き換えることによって、それは可能である。そうすることによって、(静学的)転化問題が価値から価格への転化問題を扱ったように、資本制蓄積の法則も価値から価格へ転化することにより、より現実的な法則となる。動学的転化問題と名付ける所以である。

 資本家は利潤の一部を消費し残余を投資すると仮定し、拡大再生産式を作る。x( t ) 、x II ( t ) をそれぞれ、生産財産業、消費財産業の t 期に生産された産出量のベクトルとする。t + 1 期の生産に必要な(投入される)生産物は t 期に生産され需要されることから、生産財の需給方程式は、
  x( t ) = A x ( t + 1 ) + A x ( t + 1 )     (12・1)
 となる、一方消費財の需給方程式は、
 x(t ) = ωB [ Lx ( t + 1 ) + L x ( t + 1 ) ] + F ( t )  (12・2)
 と表せる。ここで、ω は1日労働時間の逆数 (1/ T ) 、B は1日当たりの生活必需品のバスケットで、式の第一項は、労働者の消費量である。 F ( t ) は、資本家の t 期の消費量である。
 上記2式はいずれも物量の表示である。資本家消費量 F ( t ) がすべての t について知られており、初期の産出量 x(0) 、x (0) が与えられれば、これらの差分方程式から、各期の産業別の産出量の確定経路を求めることができる。
 しかし、(12・2)式の F ( t ) は、資本家消費性向を c c として、資本家消費額は消費性向×利潤額から
 P F ( t ) = c c π [ ( p I A I + w L I ) x ( t ) + ( p I A II + w L IIx ( t ) ]  (12・3)
 の関係式があるだけである。これは、価格表示の消費の集計値が決定されるだけであり、F ( t ) の内容は決定できない。そこで、ミクロの消費関数の知識がなかったマルクスは、「資本家の個々の需要関数が(2)式(ここでは、(12・3)式のこと:記者)をみたすかぎり、不変的に正しい集計理論を確立することに向かっていった」とある(p.174)。この辺りは記者にはよく判らないところである。動学的転化問題の解決のため、著者は(12・3)式が成立するものとして議論を進める、といっていると解釈しておく。この式を用いることにより、資本家消費性向と蓄積率の関係式が導出される。蓄積率が内生化されるということだろう。

 森嶋の動学的転化問題は、二つよりなる。1.資本家の平均貯蓄性向 s c を蓄積率 a に転化する問題、2.集計的総資本成長率を価格表示*( t ) から価値表示( t ) 転化する問題である。証明上の都合から、(静学的)転化問題の価値→価格ではなく、動学的転化問題は価格→価値となっているのだろう。
 ここで、先のマルクスの集計条件を導入する。生産財部門と消費財部門のそれぞれの部門内産業の資本価値構成が同一である仮定である。各部門は集計可能であり、部門内では価格と価値は比例する。
 価格が価値に比例する(比例係数:α i )ことと、上記(12・3)の式を使って、a s c の関係式(略)が求められる。この式から、下記の結論(1)~(3)を導出できる。また、価格表示成長率*( t ) と価値表示成長率( t ) の関係については、それぞれが次の式で表現されることから、下記の①~③の結論が出る。
 
 
 平均貯蓄性向 s c と蓄積率 a が同一となるのは、3つのケースがある。(1)資本家が消費しない、すなわち利潤あるいは剰余が総て投資のために貯蓄される場合、(2)搾取が存在しない場合、(3)2部門の資本価値構成が等しい場合、である。
 一方、価格表示成長率*( t ) から価値表示成長率 ( t )への恒等転化(要するに等しくなることであろう)の十分条件は、次の3ケース。①産出量の均斉成長の場合、②搾取が存在しない場合、③2部門の資本価値構成が同一の場合、である。
 ここで、
 *( t ) = s c π かつ ( t ) = a S ( t ) / [ C ( t ) + V ( t ) ]
 であることから、利潤率 π が「剰余価値 / 総資本の比率」 S ( t ) / [ C ( t ) + V ( t ) ] と同一になるのは、(1)~(3)のケースと①~③のケースが共に満足させられる場合で意味のある、(ⅰ)資本家が消費せず、均斉成長の経済の場合、(ⅱ)搾取が存在しない場合、(ⅲ)全産業の価値構成が同一の場合、の3ケースである(これらケースは、動学的転化の2命題を満足させるものとしてあげられているのだろうと思う)。
 (ⅰ)~(ⅲ)の条件の内、最後の2つは、すでに静学的転化問題で転化の成立条件としたものである。そして、(ⅲ)の条件も静学的転化問題同様に、「産業の1次従属性」条件に弱められることを示す。依然きわめて制約的な条件ではあるが、「マルクスの静学的および動学的転化問題は、「産業の1次従属性」の仮定のもとでは整合的に解くことができ」(p.181)るのである。
 新たな(ⅰ)の条件は、資本家の消費については、その消費量が相対的に無視しうることから、必ずしも非現実的とは言えない。資本家消費がゼロで、均斉成長のモデルは、フォン・ノイマン経路に他ならない(とのことである)。技術に(一次従属のような)制限的な条件がないならば(注1)、利潤率と「剰余価値 / 総資本の比率」が同一となるのは(注2)、資本家が消費せずかつ均斉成長の経済の場合に成立する余地がある。「すなわち、マルクスの転化定式――つまり、集計的総資本に対する剰余価値の比率が利潤率に等しい――は、マルクスーフォン・ノイマンの黄金時代の均衡経路での1つの関係としては成立する」(p.185-186:下線引用者)。この条件以外の場合は、両者には簡単な関係がない。
 「このやや否定的な結論は、マルクスを大きく傷つけるものではない」(p.186)。なぜなら、資本家の貯蓄率が1ではなく、一定と変更することにより、マルクス経済学の重要な部分である相対的過剰人口理論を第11章で見たように組み立てることができるからである。蓄積率が一定という仮定からも、同様に行えるが、こちらは価値概念を使うから、反証可能な命題ではないとする。「マルクス経済学で決定的に重要なことは、労働価値論から独立している理論と労働価値論と切り離せない理論とを峻別することである」(同)
 
 本章の最後で、中立的技術進歩の仮定を外す時に、マルクスの資本主義崩壊理論の反例が見出されることが示される。資本構成を高度化し、同時に価値を変化させる技術進歩は存在する。商品価値の変化(特にその減少)が賃金財に起これば、労働力の価値は減少し、搾取率は上昇する。それは資本成長率と労働需要を増加させる。価値低下による利潤率上昇が、資本主義の危機を救うかもしれないのである。
(注1) 訳書では、「技術と資本家消費に関して制限的な条件がなければ」(p.185)となっている。後者の「資本家消費」は明らかに制限的なので、これを除いた。原文も、構文がおかしいと思う。
(注2) 原文では「平均貯蓄性向 s c蓄積率 a が同一となるのは」(p.185:下線引用者)と書かれているが、直後の引用部分から見て、「剰余価値 / 総資本の比率」が同一となるのは」と改めた、全然自信はないけれど。
 (第13章 資本の回転)
 これまで敷衍されて来た再生産の理論は、マルクス自身のモデルと異なっていた。理論上の困難を回避するために、資本財が1期間に消尽されると仮定していた。実際には資本財のうちの生産設備である固定資本も使用される。固定資本は、数生産期間にわたって使用され、その更新(置き換え)がなされるのは数期間後である。マルクスは、新古典派の経済学者と同様に、不変資本を消費されると部分と使用される部分とに区分した。耐久資本財の消耗部分(減価償却)のみを生産物価格に含めた。一方生産設備の更新(需要)は、間歇的に実施される。商品資本の構成諸要素の価値補填と素材補填の不一致が生じる。「固定資本財は、(新古典派的減価償却によって)連続的にその交換価値を失うのであるが、素材的には、あたかも「一頭の馬を、ばらばらに置き換えることができない」のと同様に、時間的間隔を置いて補填されるである」(p.205)。
 この矛盾は、マルクスにとって重大な理論的問題であった。単純再生産においては、「固定資本の消耗分を補填するべき商品価値成分を貨幣化するための貨幣が Ⅱ 自身よって流通に投ぜられるという」「馬鹿げた仮定」(『資本論』第2巻第20章第11節2)を置くことによって、解決した。拡大再生産における矛盾については、検討されないまま残された。
 森嶋は、拡大再生産におけるこの矛盾を、固定資本財を生産に用いる2部門モデルで明示する。2部門で需要・供給の均等方程式が成立するには、減価償却すなわち生産物に移転する不変資本部分は、補填投資に等しくなる必要があることを証明する。ここで、補填投資とは設備更新のための投資で、純投資以外の投資である。そして、この条件は、(固定資本の年齢構造が一定であるとマルクスが仮定したような)特殊な場合を除いて一般には成立しないことが明らかである。
 しかし、この矛盾はフォン・ノイマンの結合生産の方法を用いれば解決する。異なった減耗段階にある耐久資本財を別の商品とする方法である。固定資本財を使用する生産は、通常の生産物の他に1期古くなった固定資本財を副産物として生産すると考えるのである。これにより、不変資本に流動的要素と固定的要素の区分がなくなる。不変資本の価値はすべて1期間内に生産物に移転される。主生産物と副生産物に、剰余価値を含めた総生産費用を配分する問題が、新たに出てくるのであるが。

 著者は、マルクスとフォン・ノイマン理論の経済学的な類似性を立証しようと試みる。マルクスが、すべての資本財が1生産期間にだけ使用でき、すべての商品が1生産期間に生産されるとし、ノイマン流方式で計算していれば、「そうすれば、かれは、わたくしが Equilibrium, Stability and growth の中で「マルクスーフォン・ノイマン型」と呼んだ再生産モデルを得ていたであろう」と(p.199)。このモデルが「単純再生産および拡大再生産についてのマルクス理論の完全な数学的展開」であるというのである。考えるに、マルクスは結合生産の考え方は知っていた(確かマルサスの結合生産の引用をどこかでしていた)が、著者も認めるように数学的才能は高くなかった。著者がマルクスに代わって、再生産の数学的モデルをフォン・ノイマンのツールを使って構築したと言いたいのだろう。
 具体的には、すべての資本財が1期間で消耗するものとし、期間が過ぎた耐久財は別の財として生産されるとすることに加えて、生産に数期間を要する財は期末に中間生産物として生産されるとすることによって、現実の生産過程をすべて1期間からなる抽象的生産過程に還元することができる。資本財は、1期間経過すれば、質的に別な財となる。この場合、すべての資本財は、固定資本も変動資本も経常的投入係数 a ij として表せる。「プロセス」 i の測度(intensity)1単位生産について技術的に要求される財 j の量が a ij である。そして、l ij i の単位測度当たりの消費労働時間とし、b iji の単位測度当たり生産される財 j の量とする。そうすると、各プロセス i は、( a 1i ,… a ni , l i ) → ( b 1i ,… b ni ) に変換するプロセスである(流動資本は b の値がゼロなのだろう)。
 中間生産財を生むプロセスは、1中間財(1期間で生産)ごとに1プロセスが対応するので、財の数とプロセスはバランスしている。一方、耐久資本財を使用した生産を1期間ごとに分解するプロセスは、1(主)生産物に対して複数のプロセス(資本の耐久年数相当)が生じ、全体のプロセス増加数は、財の増加数に比して大きい。例えば、非耐久資本財が n - 2 個存在し、別の n - 1 番目の財のみが耐久資本財であり、2年の耐久期間をもつとする。この耐久財が1年経過すると、別の商品となるので財 n とする。財の数は n であるが、プロセス数は 2( - 1 ) である(注1)。財の数とプロセス数とのバランスが崩れるのである。
 プロセス数>財数 なら等式体系では、価格について過剰決定となり、産出量については過少決定になる。厳密な等式は余りに制約的である。「いまや、評価と生産のシステムが、フォン・ノイマンの定式化のように、互いに双対な2組の不等式のタームで定式化されなければならないことは、志操堅固なマルクス経済学者にとってすら、明らかなことであろう」(p.207)。こうして、以下の4本の式が挙げられている。第1は、産出物価値(価格の意味:記者)が総費用プラス極大利潤率を越えることはできないという、費用―価格(等号付き)不等式である。第2は、第一のケースの内、実際に操業されるのは利潤を生むプロセスであるから、第1式の両辺に生産量を乗じて等号で結んだ、「収益性規則」の方程式である。第3は、産業の需要と労働者の需要の合計は、供給を越えられないという、総供給―総需要の(等号付き)不等式である。第4は、供給>需要が厳密に成立する財は自由財すなわち価格ゼロとなるため排除され、第3式の両辺に価格を乗じたものは等号で結ばれて、「価格設定規則」として成立する。念のため、式だけを書いておく、
 P B ≦ ( 1 + π P ( A + w c L )
 P B x = ( 1 + π P ( A + w c L ) x
 B x ≧ ( 1 + ) ( A + w c L ) x
 P B x = ( 1 + P ( A + w c L ) x
 ここでの、A , B は上記の投入係数 a ij と産出物 bij に対応する行列である。ノイマンの理論により、適当な仮定の下で、PBx ≧0 を充たす、経済学的に有意味な解の集合 が存在し、均衡成長率が正 であるなら、それがマルクスの拡大再生産に対応するものである。そして、資本家は消費しないと仮定すると、 の均衡均斉成長の状態が見いだせる――とのことである。この辺りはノイマン経路に関する知識が必要なのであろう、私には難解な部分である。

(注1) - 1 個の財を生産するのに新品の資本財 n - 1 を使用するのと、1年経過の古い資本財 n を使用する2つのプロセスがある。財 n は財 n - 1 を使用するプロセスの副産物として生産されるので、財 n 自身の固有の生産プロセスはない。
 (第14章 労働価値論再説)
 この章の目的は、第1に結合生産と代替的生産プロセスを採用しても、等式体系に固執するなら、財の価値は非負かつ一義的に決定されないことを述べることである。第2には、価値の理論をノイマン流の不等式体系で再定式化することである。これにより、価値は非負となり、労働生産性を極大化するシャドー・プライス(影の価格)として機能することが、双対問題から示される。最後に、価値の再定式化にもかかわらず、労働価値説は矛盾を含むものであるので、その放棄を勧めるものである。
 著者があげるマルクスの価値体系の条件は(a)非負であること、(b)一義的に決定されること、(c)市場の偶然的変動から独立であること、(d)方程式(不等式を含む)体系で決定された、搾取率が社会全体で均等であることである。(a)、(b)は、マルクスに限らず、すべての価値論に必須である。(c)は、マルクスが目指した長期マクロ動学理論としての条件である。(d)は、マルクスの二階級理論からの必要である。
 まず、上記4つの条件が結合生産と相容れないことが示される。新古典派的な減価償却法の方程式体系では、経済が生産的であることが、流動および固定資本財の価値が正となる必要・十分条件である。しかし、この条件をもってしても、結合生産の(等式)方程式体系では負の解を持つことが、数値例をもって示される(結合生産の方程式体系が、負の産出量や負の価格の解を持つことは、私の小さな読書範囲でもスラッファやパシネッティの書物などで知っている)。
 すべての数値が非負の値を持つために、価格理論において、フォン・ノイマンが等式から不等式へ方程式体系を変換した(前章)ように、著者は価値理論についても、同じ方法で方程式体系を不等式体系に定式化し直す。不等式で表現された線形計画法で、純産出量所与の下で、総雇用労働量を極小化する原問題に対し、シャドー・プライスで評価した純産出量を極大化するのはその双対問題である。双対定理から、総産出量の価値は、その生産に直接・間接に必要とされる総労働に等しいことが判る。ここでは、労働が投下されても使用されないものは価値がないことに言及されているが、個々の商品の価値が非負である証明はなされていないように私には思える。
 ともかくも、労働が唯一希少な生産要素である集権経済(社会主義だろう)では、雇用量を最小化する生産技術が採用される。資本制経済では利潤を最大化する生産技術が採用される。現実の資本主義経済で採用されている技術によって計算した価値は、線形計画法で求められる最適の価値とは一致しないのがふつうである。
 次に、現実経済で成立している価値が一義的であるかを検討される。代替的な生産のプロセスがある場合、価値体系が必ずしも一義的に決定されないことが、代数式及び(1財生産モデルの)数値例で示される。同じ利潤率の複数の生産プロセスを持つ経済は、同一商品が異なる価値を持つのである。なお、この価値が一義的でないことは、等式体系の代替生産プロセスを持つ経済のみならず、再定義された不等式体系の現実的経済にも当てはまる、と著者が主張しているのか否かは、私にはよく読み取れない。
 最後が異種労働の問題である。マルクスは異種労働の存在を認めていた。具体的な使用価値を生産する(リンネルと上着)労働は質的に異なる。また熟練労働と不熟練騒動の差異もある。異種労働をそのまま持ち込むと、異種労働ごとに異なった搾取率が成立し、搾取率が社会全体で均等化するというマルクスの法則に反することになる。労働階級に多様な搾取率が存在する事は、労働者と資本家への二極分解を考えるマルクスの体系と矛盾する。さればといって、価値計算で、異なった種々の労働は「抽象的人間労働」という共通の質に還元することは、現存する相対的な賃金体系を前提とし、これもまた市場から独立な内生的価値体系の樹立を目指すマルクスの思想に反する。
 もう少し説明を加える。これまでの価値方程式を異種労働を含むものに変更する。簡単化のために、結合生産や代替的プロセスがない単純な方程式とする。h 個の財と n + 1 種類の労働が存在する。1単位の j 財( j = 1 , … , h )を生産するのに、a ij 単位の i 財( i = 1 , … , h ) と、l kj 単位の労働 k i = 1 , … , n + 1 ) が必要とされる。1単位の労働 j j = 1, … , n ) を生産するのには、q ij 単位の i 財 ( i = 1 , … , h ) と m ij 単位の労働 k k = 1 , … , n + 1 ) が必要である。この時、商品の価値 Λ λ 1 , … , λ h ) と(複雑労働を単純労働への)転換比率 Θθ 1 , …, θ n ) は次式で表現できる。
 Λ = Λ A + Θ R + l
 Θ = Λ Q + Θ T + m
 ここで、ARQT はそれぞれ、a ijl hjq ij m ij の行列である。lm は、n + 1 番目の標準(単純、不熟練)労働に対応するもの。
 この式の体系は、一見なんの問題もないように見える。しかし、この体系では、その1単位の労働が不熟練労働の θ i 倍に該当する各種労働者の搾取率を求めると、それは θ i に応じて、区々となる。全労働者の搾取率が均等となるのは、実質賃金率が搾取率に比例する場合、すなわち、あり得ない場合のみとなる。といって、この複雑労働を決定する決定体系を取らないなら、異種労働を市場で成立する貨幣賃金率で評価するほかない。市場任せの短期に変動する要因となるのである。「この窮地からのがれる道はけっして容易ではない。われわれの結論、すなわち労働価値論なしのマルクス経済学を、マルクス経済学者は受け容れたがらない、にもかかわらず、わたしは[中略]かれらにそれを強くすすめるつもりである」(p.214)。
こうして、著者は結論として、マルクス主義者に労働価値論を放棄することを勧告する。そうすれば、2部門動学理論としてのマルクス体系は集計の基礎を失い、多くのマルクスの法則は放棄を余儀なくされるであろう。しかし、マルクス体系をマルクスーフォン・ノイマン(黄金時代)体系に組み替えることによって、大きな未来が開けていると著者は本書を結ぶ。
 労働価値論が客観的なものであるとして、マルクスの労働価値論の肯定から始ったように思える本書が、労働価値論の否定で終わる。なんだか、否定のほうには説明が物足りないような気がする。著者が半生を費やして研究したフォン・ノイマン体系から、マルクス体系を検討した結果であり、後者を前者に包摂しよう(これからの計画も含めて)というのが本書というべきか。

  (参考文献)
  1. 塩沢由典 「解説」(『森嶋通夫著作集7 マルクスの経済学』 岩波書店、2004年 所収)
  2. シュンペーター 大野忠男他訳 『理論経済学の本質と主要内容』(上)・(下) 岩波文庫、1983-1984年
  3. スウィージー 都留重人訳 『資本主義発展の理論』 新評論、1967年
  4. 大内兵衛・細川嘉六監訳 『マルクス=エンゲルス全集 第24巻』 大月書店、1966年
  5. 大内兵衛・細川嘉六監訳 『マルクス=エンゲルス全集 第25巻第1分冊』 大月書店、1966年
  6. 大内兵衛・細川嘉六監訳 『マルクス=エンゲルス全集 第25巻第2分冊』 大月書店、1967年
  7. 森嶋通夫 高須賀義博訳 『マルクスの経済学 ―価値と成長の二重の理論』 東洋経済新報社、1974年
  8. 森嶋通夫 『血にコクリコの花咲けば』 朝日新聞社、1997年
  9. 森嶋通夫 『智にはたらけば角が立つ』 朝日新聞社、1999年
  10. 森嶋通夫 『終わりよければすべてよし』 朝日新聞社、2001年
  訳書の引用は東洋経済版による。資本論からの引用は、訳書が『マルクス=エンゲルス全集』によるので、できるだけそれに従ったが、巻・章で示したところもある。いずれも、私蔵本との関係である。

 
 
 
 (標題紙)


(2019/11/1記)


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