HAYEK, Friedrich A, THE ROAD TO SERFDOM, London, George Routledge & Sons, 1944, pp.vi+184
――――――――― , THE ROAD TO SERFDOM, Chicago, University of Chicago Press, 1960, pp.xix+248, Thirteenth Impression, Signed.

 ハイエク『隷属への道』1944年刊初版、および重版サイン本。
 著者略歴:ハイエク、フリードリッヒ・オーグスト・フォンHayek, Friedrich August von (1899-1992)。20世紀学問・芸術の新潮流の淵源となった「世紀末ウィーン」に生まれた。父は医師である。4代前の祖先が小工業者となり下級貴族の称号vonを得た。父の代にはつつましい生活を送っていたものの、家系に誇りを持っていたことは、王侯貴族を彷彿とさせる子供たちの名前(次男ハインリッヒ、三男エーリッヒ)でも判るような気がする。母は地主階級の出身で、ハイエク家は母の相続した土地の地代収入でも支えられていた。父は医業のかたわら植物学者としても知られ、教授職を望んだが、実際にはウィーン大学の私講師に留まった。父親の野心から、大学教授は最高の職業と教えられて育った。
 少年時代の学業は平凡というより最下級であった。ギムナジウムの入学試験に落ちているし、落第も経験している。学業では父の影響か生物学しか興味を示さず、趣味としては演劇に熱心であった。1917年、18才になる目前に兵役に就き、砲兵将校としてイタリア戦線に送られる。戦地では大抵の時間は暇を持て余し、経済学の書物を読んで将来は経済学を勉強する決心をした。休暇中には、大学入学資格を取得した。他に、兵役中のエピソードとしては、休暇で帰郷する列車で親戚であるヴィトゲンシュタインに(物心ついて)初めて遭遇したことくらいか。
 第一次大戦後、オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体したウィーンに戻り、1818年ウィーン大学に入学する。市民は飢え、大学は採暖できず閉鎖されるような状況であった。経済学を執るか、心理学を執るか迷ったが、経済学科のある国家学部(法学部)に所属した。下級時に心引かれたのは、マッハ流の心理学であった(マッハは『力学史』だけではない)。論文も書いている。それは、はるか後に『感覚秩序』1952として結実する。退役軍人としての優遇を受けて1年早く法学の学位を得た。メンガーの『国民経済学原理』と『方法論集』を読んで決定的な影響を受けたので、最終学年に二番目の経済学学位取得を目指した。おりしも、商務大臣としての公務から学界復帰したヴィーザーに師事することになる。在学中には、「ガイストクライス」という名の知的交流サークルを組織した。会員は、ハーバーラー、マハループ、モルゲンシュタインのような後に経済学者となる者はむしろ少数派で、哲学者、社会学者、心理学者、言語学者、芸術史家等多様な構成であった。学業外では社交ダンスを大いに楽しんだ。パートナーは主に、従妹で初恋の人ヘレーネであった。彼女は後に二番目の妻となる。
 1921年政治学博士の学位を得るため大学に籍を置きながら清算局に就職。国際的債務の請求を処理する一時的機関であった。ヴィーザーの推薦により、この機関の責任者の一人であったミーゼスの下で働くことになった。ここでの5年間の間に、23-24年にアメリカへ自費で留学した。経済学を学ぶにはアメリカを知ることが不可欠と考えたからである。シュンペーターが書いた、クラーク、セリグマン、フィッシャー等宛の紹介状を持参したが、アメリカ経済学の理論的水準には失望した。経済の実際面に研究テーマを移し、連邦準備制度の歴史を研究した。この1年余りの留学期間に、初恋の人ヘレーネは別の人と交際し、後に結婚してしまう。
 帰国後ミーゼスの事務所で開かれる私的セミナーに参加して、思想面や経済方法論上での大きな影響を受ける。また、社会主義経済を論じたミーゼス著『共同経済』1922はメンガー『経済学原理』とならんで最も影響を受けた書物である。26年事務所の秘書であるヘラと結婚。ヘレーネとよく似ていた女性らしい。27年ミーゼスの設立したオーストリア景気循環研究所の所長に任命される(29年所長をモルゲンシュタインに引継ぐ)。月刊で景気統計データ報告書を刊行した。所長の他は事務員二人の小組織であったとはいえ、新婚のハイエクの生活は安定した。
 1931年ロビンズの招待によりLSEで集中講義(後『価格と生産』となる)を行う。その後、20年にわたり滞英する契機となった。英国はハイエクの気質に適合し国籍も取得する。LSEで地位を得ると直ちに、ケインズとの論争に巻き込まれることになった。両人とも、自分の理論体系を再構築することが必要となった。論争は、ハイエクの名を知らしめたが、ケインズの『一般理論』1936の出版が学界を席巻すると、ハイエクは急速に忘却されることになる。ハイエクの理論経済学の総決算ともいうべき『資本の純粋理論』1941も、反響を呼ばなかった。この頃から、理論経済学の前提を考察する、より哲学的な方向の研究に向かうようになった。論文集『集産主義経済計画』1935を編集したり、「経済学と知識」1937を書いている。本書『隷属への道』1944の出版事情は後述。
 1947年ハイエクが中心となって「モンペルラン・ソサエティー」を設立。各国の自由主義的なグループをまとめた国際的組織である。スイス実業家の財政援助を受けジューネブ湖畔のペルラン山で第一回会議を開催。地名が協会の名前となった。最初な参加者の名前を挙げると、米国からはフリードマン、スティグラー、ミーゼス(米に亡命)、独のレプケ、オイケン、仏のアレ、英のロビンズ等の経済学者だけでなく、カール・ポパーはじめ計39名が参加している。
 私生活では、第二次大戦後オーストリアに親戚を訪ねた際、初恋の人ヘレーネが寡婦となっているのを知って、密かに交際を始めた。ヘラと離婚しヘレーネと結婚する決意をする。ヘラとは結婚して25年、二人の子供をなしている。私が知る範囲でも、ヘラの独訳したカンティロン『商業試論』に序文(1931年)を付けたりしているから夫婦仲が悪かったとも思えない。それでも、ハイエクはヘラとの結婚は不幸だったと言っている。初恋の人が忘れられなかったのである。ヘラはもちろん離婚を拒絶した。ハイエクは妻子を捨てて、1950年渡米する。本人50歳、長女20歳、長男15歳という分別盛りの年齢である。離婚法の緩やかなア―カンサス州に移住、当地の大学の客員教授となり、法的な離婚手続きを済ませた。時を置かず、ヘレーネとウィーンで結婚。渡米したのは、新旧二家族を扶養するために高報酬を求めたことにもある。アインシュタインで知られるプリンストン高等研究所を希望したが、シカゴ大学に奉職することになる。1951年に『ジョン・スチュ-アート・ミルとハリエット・テイラー:二人の友情とその後の結婚』を上梓する。注釈付きの二人の往復書簡集である。ミルも長年慕っていた人妻が寡婦になって結婚(但し、初婚)しているから、自分たちと重ね合わせての著作であろう。しかしこの離婚によって親友ロビンズに絶縁されている。54-55年新妻と、フランス、イタリア、ギリシャを旅行する。百年前のミルの旅行をなぞったのである(ミルは単身旅行)。旅行中、主著『自由の条件』1960の構想を固める。
 シカゴ大学では、社会思想委員会に属した。いわゆる「シカゴ学派」の経済学者達には共感と反発のアンビバレントな感想をもらしている。52年には、『感覚秩序』、および『科学による反革命』を出版する。大学では、広範なテーマのゼミを毎週主催した。ナイトやフリードマン等の経済学の教授連はもとより、原子物理学者の教授フエルミ、レオ・シラードその他、デヴィット・リースマン、考古学者、シェークスピア学者迄が参加したという。62年定年の2年前に、ドイツのフライブルグ大学に移る。定年が3年長いだけでなく終身年金が付いていたのが理由である。そして、1969年70歳でザルツブルグ大学に移籍する。彼の蔵書(古書コレクターとして著名)を買い上げてくれ、しかも今までとおり自由に使ってよいとの条件であった。今回も金銭面が動機である。ハイエクは家計管理に疎く、貯金もなかった。離婚後の扶養の影響を引きずっていたのである。1974年ノーベル賞の賞金で一息着くまで、生活に余裕はなかった。この時期、彼を襲った抑うつ病に悩みながらも、よく回復して『法・立法・自由』1973-79を書き上げる。
 晩年は英首相サッチャーに賓師の礼をもって迎えられ、米国のレーガン大統領にも大きな思想的影響を与えた。社会主義国の市場経済転換に際して、ハイエクが守護神とされたことは記憶に新しい。1979年フライブルグに居を構えて、『致命的なうぬぼれ:社会主義の誤り』(1988年)刊行。92年同地で逝去。

 ハイエクは1931年にLSEに客員教授として招かれた。32年にはトゥック経済学・統計学記念講座の教授となる。大学はケンブリッジに戦時疎開し、少し遅れて彼も41年にロンドンから転居する。教育負担も軽かったので、40~43年に余暇の時間を利用して本書が書かれた。『資本の純粋理論』1941著作の苦しい作業の息抜きともなったのであろう。英語で物を書く楽しみを覚え、英語をマスターできたと思ったという。ハイエクは、自ら「文化的な意味の国籍は、イギリスであってオーストリアではない」(クレスゲ/ウェナー、2000、p.109)というように、滞英の最初から完全に自分にしっくりした雰囲気を感じたという。38年にはイギリス国籍を取得した。その英国では、ナチズム(国家社会主義)は、資本主義者が社会主義に対抗して発生したものだと信じられていた。その代表が学長ビヴァレッジ卿だった。そこでイギリスのインテリを対象として、社会主義とナチズムは同根であり、英国はドイツと同じ道を歩みつつあるという警鐘を鳴らすために本書を書いた。元となる論文はビヴァレッジに宛てた覚書で、38年に「自由と経済体制」としてContemporary Reviewに発表されたものである。社会思想を扱ったもっと大きな著作となるはずであったが、その一部を独立して出版した。
 1944年3月にルートリッジ出版から、2,000部で初版発行、1ケ月後に2,500部を増刷するも売切れる。しかし、戦時の紙不足でそれ以上のことはなされなかった。アメリカ版は、ハイエクの依頼でマハループが出版に尽力したが、3社に断られた。そこで、アーロン・ディレクター(フリードマンの義兄)が協力し、同年9月にシカゴ大学出版局で出されることになる。初刷2,000部、同月中に2,3刷と増刷、累計17,000部となる。45年4月本書の宣伝のためにアメリカに講演旅行に向かう。経済学部での学術講演が目的である。しかし、航海中に本書がリーダーズ・ダイジェスト(新刊書の要約を載せた雑誌、小生が子供の頃は日本版もあった)に取り上げられ、大旋風を起こした。渡米すると一般聴衆向けの講演旅行がセットされていた。着いた翌日には、3,000人以上相手にしたホールでの講演である。会場に向かう車のなかで演題と公演時間を知らされる。おまけに、ラジオ中継されるという。草稿なしの講義しかしたことのないハイエクがぶっつけ本番で一般公演を行い、自分にはその才能があると自覚した。5週間アメリカ中を講演旅行した。
 しかし、アメリカでは本書に対する反発も大きかった。イギリスでは、少なくとも善意で書かれた本であり、検討に値するとされた。米国では、ニューデーラーたちは計画化の高揚期にあった。理想に対する裏切り行為と見なされたのである。攻撃はハイエクの経済学者としての信用を失わせたほどであった。1940年代の中頃の状況は「今やケインズは死んで聖人となり、私は『隷属の道』を出版することで信用を失墜したのです」(クレスゲ/ウェナー、2000、p.114)と語っている。
 この本のエッセンスは、引用されたトクヴィルの一節「民主主義は自由において平等を求めようとするのに対して、社会主義は統制と隷属において平等を達成しようとする」(ハイエク1992、p.25:以下本訳書からの引用はページ数のみを表示)によく尽くされていると思う。それではこの本の要旨を書いてみる。

 本書は第二次世界大戦中に書かれた。大戦の勝利の暁には、敵国を支配した全体主義の途へ自分たちも陥らないようにせねばならない。ドイツ(ナチズム)、イタリア(ファシズム)、ロシア(共産主義)諸国の全体主義は、英国をはじめとする自由主義諸国とも共有していた思想の発展の結果なのである。ただ、思想の変化が余りに急速で自分たちと衝突したのであって、それら思想の変化と自分たちは無縁ではなかった。全体主義国で起こったことが自分たちの国に起こらないとはいえない。自由主義哲学の創始者達は、つとに警告していた。経済的自由なしには、個人的自由も政治的自由も存在することができないと。例えば、トクヴィルは、社会主義は隷属を意味すると戒めた。しかるに、自分たちは経済的自由を次々に放棄してきた。
 かつての封建制の厳格な階層社会から、商業の成長による社会の発展によって誰もが自分に好ましい人生を選択できるようになった。それは、日常活動に縛り付けていた慣習や制度から人びとを解放していく過程であった。と同時に、各人の自発的で誰にも管理されない経済活動の結果が、複雑な秩序を形成することが認識されるようになった。政治的自由の実現が生んだ予期も企図もしなかった自由経済活動の成長が、その後の経済的自由の理論化を発展させる。自由主義の基本原理は、自分たちの活動を秩序づけるには、社会の持っている自生的な力を最大に活用し、強制は最小に抑えるべきとする考えである。
 今日われわれは、社会主義は発生当初には明らかな独裁主義であったことを、忘却してしまっている。「民主主義は一人一人の人たちすべてを、それぞれかけがいのない存在であるとしてこれに最高の価値を付与するが、これに反して社会主義は、各人を単なる「将棋の駒」、あるいは「数字」としか見なさない。[中略]すなわち、民主主義は自由において平等を求めようとするのに対して、社会主義は統制と隷属において平等を達成しようとする」(p.25)とトクヴィルを引用する。かつて、自由とは圧政からの自由、すなわち従属を強いる権力者命令からの解放を意味した。社会主義者は「新しい自由」主張し、自由の意味を変容させた。人民が真に自由になるには、物資の欠乏から解放されねばならず、経済体制による制約から逃れねばならないと。「新しい自由」とは、結局人々の間にある富の大きな格差を、無くさねばならないという意味であった。
 社会主義がもたらすのは予期せぬ惨禍ではないかとの古くからの懸念が、近年再度唱えるようになって来た。人びとはファシズム、ナチズムと共産主義という新しい専制体制は同じ社会主義という思想的傾向がもたらした結果なのではないかと思い始めている。社会主義という言葉は、一つには、社会的正義や、平等、生活の安定等のそれが目標とする「理想」の意味で用いられる。今一つにはそれらの目標を達成するための特定の「方法」を意味する。「理想」のほうは異論が少なく、多くの論争は「方法」に関するものである。社会主義に限らずナチズム等を含め、多くの計画化経済を実現するための「方法」の意味で、「集産主義(collectivism)」なる言葉を用いることにし、社会主義(の方法)はその大きな一分類だとすることにする。
 経済的自由主義者は、個人の経済活動を相互調整させる手段として、競争以外の方法を採ることに断固反対する。その理由は、競争が我々の知る最も効率的方法であるだけでなく、競争こそが政治権力の恣意的介入なしに相互調整が可能な唯一の手段であるからである。もちろん、競争を有効にする条件の整備や、スミスのいう夜警国家サービスの提供、外部経済・不経済の際の統制、等の国家の役割の必要は認める。しかしながら、競争を有効にするための適切な制度が十分に整備される前に、競争に代わってそれと共存できない計画化を導入する運動が多くの国で起こった。競争を排する競争反対者がその旗印の下に結集した。
 経済活動の統制を完全に中央集権化することには、多くの人が反対するが、それでもその方向に向かって急速に進んでいるのは、完全な中央集権化統制経済と原子論的競争体制の間に「中庸の途」があると信じているからである。しかしながら、競争も中央統制も中途半端に使用した時には、効果がない。二者択一の原理であり、併用した場合は専ら一方の原理を採用した場合よりも悪い結果をもたらす。
 競争は比較的単純な状況で効力を発揮すると思われているが、全く逆である。現代の分業化社会が複雑であればあるほど、競争こそがそのような複雑な社会の調整をなすことができる唯一の手段なのである。現在の文明が存在可能なのは、分業が広範囲に成立しているからである。それは、計画して作り出されたのではなく、試行錯誤を重ねながら事前に企図された範囲を大きく超えて拡大してきたものである。それゆえ、現代文明が複雑化するにつれて、中央統制ではなく、意図的な統制に依存しない方法がより重要となる。
 個人主義は利己主義ではない。人間の想像力には限界があり、自分の価値尺度に組み込めるのは社会の多様なニーズのほんの一部分にすぎないとの認識を基礎としている。価値尺度は個人の内にあり、各人個々で一致せず、しばしば互いに衝突する。それゆえ、個人主義の本質は、各人が自分の目的に対する最終的審判者であり、自身の考えによって自分の行動を決するべきだとの信念である。
 生産手段がすべて国有となり、単一の計画によって使用されねばならない体制は、何をなすべきかの社会的決定規準が必要とされる。このような社会では、われわれの現在の倫理的規範は使い物にならないことが判る。計画とは、一元的な概念であり、部分は他の部分との間で慎重に調整される必要がある。有機的関連を持った全体のまとまりを要するものだから、対立意見の間の妥協・調整のツギハギを組みあわせてできるものではない。それは、民主的手続きで軍事行動に成功するよりもむずかしい。独裁は強制と理想の押し付けに最も適しており、大規模な中央計画経済を可能とするためには不可欠である。それゆえ、計画経済は独裁へと向かっていく。現代の流行は、民主的手続きによって与えられた権力は恣意的になることはないとの議論である。しかし、権力の恣意性を防ぐのは、その源泉ではなくそれに対する制限にある。民主主義的統制は権力の恣意性を防ぐかもしれないが、民主主義が存在するだけで権力の統制が可能になるわけではない。
 自由な国家と恣意的な政府が支配する国家の違いは、前者には「法の支配」の原則が遵守されていることである。その本質は、強制権力を行使する行政組織の自由裁量権が最小限に抑えられていることにある。集産主義国家の生産計画を決定するには、国民の多様な必要の優先順位を判断しなければならない。限られた生産資源の下で、何を生産すべきかの判断である。生産物には、多様な集団・個人の利益が係わる。結局は、誰かの見解が、どの利益が重要かを判断することになる。そうすると、その見解はその国の法の一部となり、時に改訂される生産順位は政府の権力によって国民に強制される他はない。
 逆説的であるが、法の下の形式的平等は、物質的・実質的平等と矛盾する。分配の平等の理想を目指す政策は、法の支配の崩壊を招く。異なった国民に平等な結果を与えるためには、人によって取扱いを変えねばならないからである。それゆえ、「法の支配」が経済的不平等の結果となるのは不可避である。ただ、特定の国民を特定の方法で、そうしようと意図したわけではない。
 もちろん、どんな政府であっても活動はする。そして、その活動は何らかの干渉を伴うものではある。問題は、国民が政府の活動を予め予想でき、計画を立てる時、それについての知識を役立てることが可能かどうかである。「法の支配」は立法の範囲を形式法とされる種類の一般的ルールに限定するものである。特定の国民を直接ターゲットとした立法や、差別的取り扱いのために国家権力使用する立法を禁ずる。経済の完全統制へ歩み出した国々においては、個人の権利あるいは少数派に対する平等の権利が形式的には認められている。しかし、権利保護の法を少しも犯すことなく、公式に承認された経済政策によって少数派への過酷な差別政策が実施可能であったことは経験から明らかとなっている。
 自らの進めるプランを真剣に考える計画主義者は次の帰結を承認するだろう。多くの活動が関連する複雑な体制は、意図的に統制されるべきとするなら、専門家集団によって統制されねばならず、最終的な責任と権力は一人の指揮者に委ねられ、その行動は民主主義的手続きに拘束されてはならないと。その際、計画主義者は、統制経済は経済問題という、生活のそれほど重要でない、もっといえばあさましい側面での自由は放棄するが、もっと高次元の価値追及についてより大きな自由を獲得できるとして自らを擁護するであろう。しかし、経済目的は他の人生の目標とは独立ではない。個人が所得や財産を自由に処分できる限り、経済上の利害得失は、自分の多くの必要や欲求のどの部分をあきらめるかを個人が決定できることを意味する。経済的価値が他の価値より重要でないのは、現体制では経済的問題において何が重要かを自己決定できるからである。計画経済では、何が重要かは計画者が決定する。それは、精神にとって重要でないとされる経済問題に影響を与えるだけではない。重要かどうかを決めることが、個人に許されなくなることを意味する。
 競争社会では、ほとんどのものがお金を払えば入手可能である。このことが逆に、競争社会を非難する根拠となっている。しかし、生命、健康、真・善・美等の高次の価値を守るには、多額の物質的費用が必要である。我々は、快適な生活を送るために自分自身や他人の生命、健康、精神的価値を犠牲にしているのである。自動車事故を無くすのは、費用例えば自動車そのものを廃止することで可能である。過酷な現実から、人はそのような状況は現在の特殊な体制によるものだと信じようとする。しかし人が本当に許せないと思っているのは、この世に経済的問題というものが存在するということである。
 登場以来、社会主義は経済問題をなくせるとの宣伝が行われてきた。しかし社会主義者で貧困をなくせるほどの生産拡大が可能な現実的経済計画を提出する人は出なかった。それどころか、計画経済が競争経済よりはるかに生産的であるという主張は研究者によって否定されるようになった。今では、社会主義を支持し集産主義計画経済を研究する経済学者の多数は、計画経済は自由競争体制と同等の効率を持つだろうとの希望で満足している。彼らは生産の効率性ではなく、分配の平等という正義に計画化の根拠を求める。
 現代は分業によって他者の経済活動に依存している。人々の活動は社会全体のプロセスの一部を構成する。分業化社会に中央集権的計画が導入された場合、人びとの生活は中央権力に統制されることは必至である。統制は経済活動に留まることはありえない。集産主義国家では、国民の余暇の過ごし方までに干渉した。今日忘れがちなことは、私有財産制は財産を持たぬ者にとっても、自由を保証する最重要な制度であることである。生産手段の管理が独立した多数に分割保持されているがゆえに、誰もが完全な権力を持たない。すべての生産手段が単独者に保有されるなら、それが国家であれ独裁者であれ、人々に完全な権力をふるうことができる。前述のごとく、あらゆる経済現象は密接に相互関連を有するために、計画化を開始すると一定の範囲に限定することは出来ない。また、自由市場活動をある程度制限すると、経済統制は完全に包括的な計画とならざるをえない。
 ドイツやイタリアにおいてナチやファシストは多くのものを発明する必要はなかった。「揺籠から墓場まで」のスローガンのごとく個人の全生活の面倒を見、すべての問題を「党の世界観」の問題にしようとする理念は社会主義運動に由来するものである。また、特殊な挨拶の仕方やお互いの呼び方によって、一般人から同志を区別するようになったのも、最初は社会主義者からであった。「細胞」組織を作り、個人生活を終始監視できるようにしたのもしかり。旧社会主義党派は、特定集団の経済的地位向上政策によってその集団の支持を獲得した。しかし、それはその集団を超えて支持を広げることはできなかった。事務員、管理者、学校教師、商人、下級公務員等の中産階級からは多くの労働運動指導者が出た。彼らは、自らの階級の地位が産業労働者から比べて低下する状況を見て、産業労働者の支持する理想に失望した。対抗的社会主義運動が起こる。こうして、「ファシズムや国家社会主義は中産階級の社会主義である」との見方には真実が含まれている。旧社会主義は、民主的・自由主義的世界のなかで発展し、巧みに自由主義の理想を取り込んだ。社会主義成立の暁には、折衷的でもすべての問題は解決されると信じていた。対して、新社会主義運道は、統制の実経験を踏まえ、民主的・国際的社会主義は不可能であることが明確になった地点から生まれてきた。新社会主義者は、平等の約束に裏切られ失望した多くの人びとの支持を獲得する最善の方法は、改めて新しい階級社会を樹立することだと考えた。彼らに新秩序の下で特権を与えると公約したのである。特権を正当化する理論あるいは「世界観」を提供することによって成功を収めた。
 社会主義者は真の自由のためには経済的保障が不可欠だとしてきた。経済的保障には、社会全員に最低限の生活を保とうとするものと、ある個人ないし集団が自分に相応しいと考える特定所得を保障するものがある。後者は生命や自由と引き換えの「兵舎における保障」でしかない。こういった経済的保障を達成しよう努力は、ドイツが先導し、社会主義思想によって促進された。それは、経済的リスクを伴う職業への軽蔑であり、リスクを取った後に少数者に与えられる利潤への道徳的非難である。現代の若者は、リスキィな企業者より安定した職業を選好する。商業的精神はいかがわしく利益は不道徳であり、百人を雇うのは搾取だが、百人に命令するのは名誉だと思い込んでいる。ドイツでは、国民の大部分が自分たちは独立した市民というより政府任命の役人のごとき存在と考える社会的風潮があった。
 集産主義者は国粋主義的である。全世界を一丸とした集産主義は考えられない。英国のプロレタリアが英国資本から発生する利潤は搾取によるものだから、平等に分配される権利があると主張するなら、同様に全インド人も同様の権利があると主張できる。全世界の資源を人類全体に平等に分配するなど真剣に考えた社会主義者はいない。集産主義哲学の基本的な矛盾は、限定された集団においてしか実現されないことである。社会主義は、理論上は国際主義であるが、実践段階になると露・独でみられたごとく非常な国粋主義となった。その理由は、自国外に存在する世界を考慮することは、計画化実行の重大な障害となることにある。
 集産主義者にとって、権力獲得はそれ自体目的とされた。それは、目的を達成するには強大な権力創出が必要だからである。「目的は手段を正当化する」という原則は、個人倫理上は否定される。集産主義の倫理では、この原理は最高の倫理規範となる。集産主義者にとっては、「全体の善」のためにしてはならない行為はない。「全体の善」こそが、何をすべきかの唯一の判断基準だからである。こうして、国家の目的を決定できるのは最高指導者のみであり、その道具となって活動する国民は個人的道徳信念を持つことができない。むしろ要求されるのは、あらゆる道徳的規範を破る覚悟をもって指導者個人に無条件に自己の全存在を任せることである。それ自体悪行であると明らかなことでも、目的実現のためには不可避で、それなりに熟練と効率が要求される仕事が存在する。伝統的倫理上は許されないが、誰かがやらねばならない仕事を平然と実行できる者が、上位の権力者に登用される。全体主義社会では、脅迫やスパイ行為が必要とされる役職が多くある。
 全体主義体制を効率的運用するためには、国民を強制的に労働させるだけでなく、計画の目的とするところは国民の目的でもあると自ずから信じさせる必要がある。国民の努力を統制・糾合する手段として公の教義が必要とされた。全体主義的理論家の手によって、主観的見解が科学的な理論と化される。国民が奉仕する特定の価値観が正しいものであると認識させるのに最適の方法は、新しい価値観はこれまでの信条と実質的には同一であり、ただ適切に理解されていなかったと説くことであった。その目的を有効に実現するための技術は、昔からの言葉をその意味内容を捻じ曲げて、そのまま使用することである。
 全体主義社会では、当局によって指導されていない如何なる自発的活動も認められない。それは、予見できない結果や、当局が考えもしなかった何かを生み出すかも知れないからだ。全体主義体制の性格は、様々な副産物を生んだ。その一つは、科学は真理のために奉仕すべきではなく、階級や国家のための利益に奉仕すべきとの信条である。そうなれば、科学の唯一の任務は、共同体社会運営の価値観を理論的に正当化し、より多くの人々に拡げることのみとなる。
 「真実」は計画当局者によって決定される事象であり、社会の統一を保つために人々に教え込まれるものとなる。「真実」は状況が切迫した場合には、当局者の都合で変更されることになる。これに対し、現代のインテリの多数は、われわれの社会に本当の意味での自由はないとして信条の強制を正当化しようとする。大衆の見解や好悪は、自主独立した思考の結果ではなく、宣伝や上流階級の模倣等環境的要素によってステレオタイプ化されたものだとするからである。たしかに、思想の自由は少数者にしか直接的重要性をもたないかもしれない。だとしても、思想の自由は誰に与えるべきかを誰かが決定できるとか、誰かにその権利があるということにはならない。誰もが自主的に独立して思考なり著述できるわけではないが、個々人が異なった見解や知識を持ち、相互に影響を与え合うことこそが思想の命運を握っている。それは、個人間に相違が存在する事を前提とした社会的過程なのである。人類の理性の成長にとって肝要なことは、理性の成長の結果は事前に予想可能ではなく、どのような識見が理性の成長を促進したり、阻害したりするかも事前には知りえないことである。集産主義思想の悲劇は、人類の理性を至高であるとして出発したにかかわらず、理性の破壊で終わるという矛盾にある。集産主義の教義は理性による意識的管理・意図的計画を要求するがゆえに、特定個人が最高指導者としてすべての理性を支配すべき要求へと必然的に転化する。
 ドイツの集産主義ナチズムを支持し権力の座に就かせた勢力は社会主義陣営であり、ブルジョア階級ではなかった。むしろ強力なブルジョア階級がドイツに存在しないことが原因の一つであった。ドイツ国家社会主義思想の最初の代表者はゾンバルトであった。そして直接の生みの親たる学者は、シュペングラーとブルックであった。英国の階級は、富裕者と貧困者の区別による、これに対しドイツ(プロイセン)の階級は命令するものと服従するものの区分による。英国とプロイセンの体制には本質的相異があるとシュペングラーは指摘した。競争的体制と「経済管理」体制の相違である。つまるところ、プロイセンの理念が要求する所は、全国民が国家公務員となり、すべての賃金・俸給が国家によって決定されることである。一歩進めて、『第三帝国』の著者ブルックは、西欧的自由主義に汚染されていないドイツ的社会主義のイデオローグとなった。
 ほんの十数年ほど前(1930年頃)まで、ドイツでかかる事態が起こりうるとは、ドイツ人自身のほとんどのみならず、ドイツを警戒する敵対的な外国人も想像できなかった。英国では、全体主義をまるごと取り込もうとする人は極めて少数であろうが、部分的には見習うべきだと主張されている。E・H・カーは社会の組織化を要求している。科学の分野では、ドイツで成長した知的発展の傾向、科学者が社会の「科学的」組織化を煽動する運動が英国でも姿を現している。ドイツにおいて、学者や科学者のほとんどすべてが、ドイツの新支配者のために喜んで奉仕するようになった光景は、国家社会主義の台頭を目撃した我々を最も憂欝にさせた経験である。
 知的影響を別とすれば、全体主義に導く本当の影響は組織された資本家・労働者団体から発生したものである。現代の独占が発展する過程で、歴史的に転換点があった。本来すべての特権と闘うことを使命とする「労働運動」が反競争主義的教義を受容するようになり、労働運動自体が特権獲得の闘争に組み込まれてしまったことである。最近の独占の成長は、多くは組織化された資本と組織化された労働の意図的な共同作業の結果である。労働側の特権的集団が、独占利潤を企業者と分かち合うことによって、我々、特に貧困な未組織労働者や失業者を犠牲にしてきた。労働運動の指導者は、自主独立と自由を確保してきた唯一の秩序を破壊して、少数者による独占体制を支持してきた。四半世紀も前なら、競争的自由体制を廃して計画化体制を採用すれば、より自由な社会を実現できるとの素朴に信じることができたかもしれない。しかしその後の経験を経た上で、未だ労働党が反動的な運動に味方しているのは、悲劇である。
 昔の人は、個人を超越した力を甘受していた。現代人は、個人の努力を挫折させてしまう様々な力に反抗するようになった。人びとは、理論的根拠が理解できない規則や必要に対しては、従わない現象が多くの分野でみられるようになった。だが、世界には人間の理解の及ばない分野が厳然として存在する。理解不可能なことに従うことを拒否するなら、文明の崩壊は必然となる。取り巻く世界が複雑となり、個人の希望や計画を挫折させる力の実態はますます理解し難くなるのは、現代文明の必然である。現代に活動する我々は、自分では理解できぬ原因による変化に、自分を調整させねばならない。今日まで文明の発展が可能となったのは、人びとが市場において個人を超えた非人格的な力に依存してきたからである。毎日、誰もが十分理解できない力が偉大な仕事をなすのを受け入れてきたのである。必然性が理解できない事象が多くあるのが文明の基本的性質である。
 われわれの複雑な社会を維持するには二つ方法しかない。一つは、市場における非人格的で非合理的とさえ思える力に任せること。もう一つは、人びとにとって制御不可能で、恣意的な権力を他人が行使するのに委ねることである。第一の途にうんざりして第二の途を選択すれば、計画的に課される権威主義的制約がより多大な苦痛を与えるだろう。人類は、自然の諸力を支配する方法について驚くべき程高い進歩を示したのに、社会諸力の研究は遅れているというのは正しい。しかし、一歩進めて自然諸力を支配するのを研究したと同じやり方で、社会諸力の支配していくことを学ばねばならいとするのは誤りである。それは、現存の文明を維持するのさえ、個人努力を相互調整するために、どれほど個人を超えた非人格的な諸力に依存しいているかを理解していないからである。
 戦後英国が豊かになるためには、経済運営には叡智が求められる。そこで重要なことは、貧困を解決するためには、経済成長政策によるべきで、「所得の再配分」という近視眼的な方法を採ってはならないことである。様々な階級の可処分所得を減少させて、彼らを既存政治体制に対する敵対者にまわすべきではない。終戦直後はどれほど所得水準が低くとも、急速な経済発展を開始可能で、成長が持続するという見通しの有無が英国の命運を決定する。 高邁な理念に基づいているにもかかわらず、集産主義は個人行動の面で反道徳的となるのは避けられない。不平等問題の解決も、個人としては、できる限りの努力をすべき義務があるとの考えが弱められてしまった。集産主義運動は、望ましい社会は政府によって実現されるべきと考えるから、政府がすべての国民に同じ行動を強制するかぎり、誰もが政府の指導に進んで従属すべきだとなる。
 国際秩序について、最近の経験から明らかになったことは、各国独自で実施される多様な経済の計画化の複合された結果は、純粋経済学的に有害であるのみならず、加えるに深刻な国際的摩擦を生じるということである。多くの経済計画は、計画当局が海外からの影響をうまく遮断できたときに、ようやく実現可能となるから、国際的な人や物の移動が制限される。経済がブロック化される危険がある。多くの人は、国際的規模の計画化の問題に気付いていない。
 第二次大戦の結果、国の大小にかかわらず、国家が経済的主権を回復しても、他国や国際機関の制約なしには、永続的な平和秩序の希望を持てないことが判った。それは超大国に巨大権力を与えるのではなく、各国が近隣諸国に有害な行為をするのを規制する権力が存在する必要を意味する。国家がすべき・すべからず行為のルール、及びこのルールを強制できる当局の必要性である。この権力の大半が消極的なもので、各国民に何をなすべきかを命じる権力ではなく、ある国の国民が他国民に害を与える行為を抑制する国際的政治権力である。本質的には、極端な自由主義的「自由放任」国家が持っているのと同じ権力である。厳密に規定された諸権力が一国際的当局に移譲され、残るすべての権力に関して諸国が自国内の事項に責任を保持する国際的な政府形態は連邦制である。連邦制の当局は、現代の国家が保持する無制限な権力すべてを掌握するのではなく、分割された権力を持つ。権力の分割により、国際的当局の権力全体を制限し、同時に個別国家の持っている権力も制限する。法の支配の国際的拡大が、最善の解決策である。この制度は、今日流行の計画化を総て無にするわけではない。直接的な利害関係を有する諸国だけでなく、何らかの影響を受けるすべての諸国においても、意見が一致できる分野のみに、国際的な計画化を制限するものである。

 以下は読後感である。
 ケインズが1944年6月にハイエクに宛に感想を記した書簡(ケインズ全集27巻)に、本書批判が見られる。特に次の二点が私には、正鵠を突いていると思う。
 第一点は、「あなたがご自身がなさっている主張は、計画化より効率的なものではない、という非常に疑わしい仮定に依拠しています。純粋に経済的見地から見て、計画化が効率的であるというのは大いにありそうなことであります」(ケインズ、1996、p.442)としている点である。「自由の余分な犠牲」は別として、すなわち計画化による自由の圧迫を勘定にいれないで、純経済学的には、計画化経済が自由市場経済に比べて劣ることを前提にして議論を進めているのをケインズは批判しているのである。
 ただし、ここにいう「効率的」なる言葉には、両者に微妙な差があると私には思われる。 ハイエクが「計画経済は競争体制よりはるかに多くの産出を生み出しうるという主張は、多くの専門研究者によって、ますます捨て去られるようになってきている」(p.125)というとき、「社会主義計算論争」におけるバローネやランゲの論文で明らかなようにパレート最適的な効率性を問題にしているのであろう。それに対し、ケインズは雇用や国民総生産の拡大を含めた経済全体のパーフォマンスのことを経済の効率性としているのではなかろうか。ケインズが、『一般理論』のドイツ語版序文で、自分の理論は全体主義国家の方がより適合するとしたように、ナチス経済を一定評価したことはよく知られている。ソビエト社会主義が崩壊後の今となれば、計画経済は自由市場経済より効率的でないと後講釈でいえるのであろうが、1940年代ナチス計画経済が優勢と見えた時代に、明確に計画化経済の効率が劣っていると断定する根拠があったかどうか。
 第二には、自由経済と計画化経済を区分する境界の線引きに関する件である。ハイエクも自由競争体制を維持するためには、政府の活動が必要なことは認めているから、健全な政府活動と計画化を志向する政府活動は区分する必要がある。「あなたは、処々で、それはどこで線を引くべきかを知る問題であるということを認めておられます。[中略]しかし、どこで線を引くべきかについてなんの指図もわれわれに示されておりません。ある意味でこれは実際的な問題を回避することであります」(ケインズ、1996、p.443)。なぜなら、ハイエクは計画化の法方向へ一歩でも踏み出せば、それは完全な計画化へ向かうと途である主張していたからだ。線が引かれることは、そこを超えれば「断崖絶壁」へ至る道しか残されていない。そんな線引きは可能であろうか。ケインズは、無計画でもないし、完全計画化でもない中道で穏健な計画があり得るとする。
 その他では、つまらない所で気になるのは、本書タイトル『隷属への道』の隷属がserfdomと書かれていることである。辞書によれば「農奴制、農奴の身分」としか書かれていない。農奴身分は隷属の一部であろうが、特殊な言葉のように思える。最初は、著者が引いているトクヴィルの文章(「1848年9月12日の制憲議会での労働権の問題に関する演説」、全集9巻:前述)に元々使われている言葉かと思った。調べてみると、その言語はservitude(英語に同じ)、これではないようだ。そこで、邦訳の「隷属」とされた部分の原語を抜き出すと(途中で面倒になって見落としがあるだろう)、bondage、slavery、servitudeで、どうも、テキスト本文中にserfdomは使われてないようである。何故この言葉を使ったのかが気に掛かる。
 もひとつ気に掛かるのは、この本が社会主義に対する批判だけではなくケインズ主義に対する批判本だとされていることである。邦訳書の帯には「マルクス主義・ケインズ主義を批判し」と書かれている。雑誌論文(三浦編、2007,p.43:佐伯執筆)のなかでも、「ハイエクの『隷属への途』は、ただ社会主義の陥る全体主義に対する批判であっただけでなく、ケインズ主義のような自由経済における政府活動の強化に対しても強い異議申し立てを行う者であった」のようにも書かれている。
 ケインズ主義が何を意味するかは使われる場面によって区々と思うが、ここでは、財政・金融政策によって失業を減らし、経済の安定を目指すものだとしておこう。そうするとこの『隷属への道』では、それほど明確にはケインズ主義は批判されていないように思う。
 ハイエクは、個人の自由と計画化は両立しないが、この唯一の例外が戦争だと述べている。長期的観点で自由を維持するためのコストと考えるからである。平和の時代では、単一目的が総ての目的に対して絶対的に優先することは許されない、たとえ失業の克服という最重要問題についてもそうであるとしている。しかしそれは、失業は「あらゆる犠牲においても解決されなければならない」とする無責任な主張に対するものである(p.282)。
 経済変動とそれに伴う大規模な失業の問題について、「経済学者の中には、この問題は、政府の大規模な公共事業がきわめて巧みなタイミングで実施されることによって、初めて本当の解決が期待できるのだと信じている人々もいる。だが、このような解決策は、自由競争の領域にはるかに深刻な制限をもたらすかもしれない」としながらも、「いずれにしても、こういった経済変動への防衛として真に必要とされる諸対策は、われわれの自由に脅威を及ぼすたぐいの計画化へと導いていくものでは決してない」(p.157)としている。とすれば、真に必要な財政政策(上述のごとく具体的な線引きは困難である)は是認されているようである。ちなみに、金融政策については短期的に雇用を増加させるだけで「本当の解決策を提供することができない」(p.284)と懐疑的である。
 これらは、橋本努(2006、p.117-118)の書いているように、「ハイエクは、第二次大戦中のケインズの政策案を基本的には支持している」という態度に由来することなのかもしれない。もっとも、戦後の1947年講演「「自由」企業と競争的秩序」においても、景気循環による失業緩和策と金融政策はできるだけ分離すべきとしながら、「ほとんどの国が「完全雇用」と呼ばれるものに対して責任を持つとしたことにより、[中略]私がこれまでこれらをできうる限りそれから切り離しておくべきものとしてきた金融政策についての一般的な問題から、もはやそれを切り離しておくことができるとは私には思われなくなる」(ハイエク、1990、p.160)とケインズ的政策を不承不承ながら黙認しているように思われる。
 明確にケインズの名前を上げて完全雇用政策を非難しているのは(私の見た範囲では)、1950年の論文「完全雇用、計画化、そしてインフレ」である。それは、拡張的金融政策を非難するもので、財政政策にはふれていない。以下その概略を記す。
 完全雇用という言葉は、通貨政策により短期的に実現可能な最大限の雇用を意味するようになった。いわゆる「完全雇用」と失業、あるいは、あらゆる生産要素の不完全利用状態を対比する思考慣習は、「ケインズの偉大な影響力がもたらした最も危険な遺産」(ハイエク、2009、p.75)である。信用拡張が可能な場合のみ雇用水準が拡大できるような職種に労働者を導入し、完全雇用を実現する政策は、ある部門の失業を減少させるが、他部門の急激な労働不足を派生させて、インフレを引き起こすことがある。その結果、完全雇用政策は、いつまでもインフレを伴う信用拡張を継続するか、信用を制限して一時的雇用拡大がなかった場合に比しより大きな失業を発生させるかの二者択一とならざるをえない。第二次大戦後、インフレは必要悪とされ、「それは完全雇用と中央計画化の政策に身売りした」(同、p.73)。戦後、各国が採用した長年の拡張的政策は、深刻な政治的・社会的混乱なしに収拾できるかという大きな問題をもたらした。
 ケインズが失業の原因を短期的な全般的需要不足に見たのに対し、ハイエクは長期的な産業部門間労働力の需給不一致を重視する。ハイエクにとっては、人為的刺激なしに持続的な高雇用の労働配置を実現することが重要なのである。それには、市場の自由な力に任せるしかない。人為的金融緩和策によるインフレが、次にインフレ抑止のために全面的統制と中央計画化に向かうことは自明であるとする。

 欧米の古書サイトで、投資の対象として推奨本に、経済学書ジャンルでは、ハイエクやミーゼスの著書を勧めている場合が多い。現在(2022/11月)古書サイトのABEを検索すると、本書初版、ハイエクのサインと書き込みがある本で$450,000と天文学的な値段が付いている。『国富論』初版の数倍である。サインがない本書初版では、$15,000。ハイエクのサインのある著書は、$1,000以上というところか。完全に投機の対象となっているように思える。古書収集家であったハイエクも泉下で苦笑いしているかもしれない。
 このサイトは、本来(経済)古書に関するものであるので、私蔵本の取得価格について書いておくと、いずれも15~20以前の購入であるが、初版本が$10.25、サイン本が$6.45と送料の方が高かったくらいである。前者は、遊び紙がなくなっているが、ダスト・ラッパーも付いている。後者は、本屋の説明文 ”Inscribed by author” は ”Inscriptions” (書込みあり)の誤りでないか、桁が2つほどは少ないのではないかと半信半疑で発注したが、ちゃんとした署名本であった。もちろん、これらは非常にうまく買えた例で、復刻本を本物だとして非常な高値でつかまされたこともある。


 (参考文献)
  1. ケインズ 平井俊顕・立脇和夫訳 『ケインズ全集27 戦後世界の形成―雇用と商品 ―1940~46年の諸活動』 東洋経済新報社、1996年
  2. コールドウェル、ブルース 田村勝省訳 『ハイエク 社会学方法論を巡る戦いと経済学の行方』 一灯舎、2018年
  3. クレスゲ、スティーヴン/ウェナー、ライフ・編 嶋津格訳 『ハイエク、ハイエクを語る』 名古屋大学出版会、2000年
  4. 佐伯啓思 「経済的自由と「公民的自由」」(三浦雅士編 『大航海 No.61 特集ケインズ/ハイエク』 新書館、2007年 所収)
  5. ハイエク 嘉治元郎・嘉治佐代訳 「「自由」企業と競争秩序」(『ハイエク全集3 個人主義と経済秩序』 春秋社、1990年 所収)
  6. ハイエク 西山千明訳 『隷属への道』 春秋社、1992年
  7. ハイエク 小浪充訳 「完全雇用、計画化、そしてインフレ」(『ハイエク全集Ⅱ-6 経済学論集』 春秋社、2009年 所収)
  8. 橋本努 「F・A・v・ハイエク―人間像の考察」(橋本努編 『20世紀経済学の諸潮流 経済思想8』 日本経済評論社、2006年 所収)
  9. 松原隆一郎 『ケインズトハイエク 貨幣と市場への問い』 講談社現代新書、2011年
  10. 間宮陽介 『ケインズとハイエク <自由の変容>』 中公新書、1989年


初版本(ルートリッジ版、左)とサイン本のPB版


初版本標題紙(拡大可能)


PB版標題紙のサイン(拡大可能)


(2005/4.作成、2022/11/17全面改稿)



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