WALRAS, ANTOINE AUGUSTE,
Théorie de la richesse sociale, ou Résumé des principes fondamentaux de l'économie politique, Paris, Guillaumin et Cie, 1849, pp.103, 8vo.

 オーギュスト・ワルラス『社会的富の理論 ―経済学の基本原理の要約―』1849年刊、初版。ローザンヌ大学旧蔵本。
 著者略歴:オーギュスト・ワルラスAntonie Auguste Walras(1801-1866)。地中海近くフランス南部の都市モンペリエに生まれる。祖父は、オランダから移住した渡りの仕立屋であった。エコール・ノルマル(高等師範学校)に入学。ここでは、たまたまA.A.クールーノー(Antoine Augustin Cournot:名前も良く似ている)と同窓であった。1822年同校卒業後、サンテチェンヌのコレージュ(高等中学高)に勤務。しかし、王政復帰期の保守的雰囲気に耐えられず、1823年末に教職を辞してパリに出る。家庭教師等をしながら、弁護士となるべく法科大学に通った。そこでの講義において、所有権の法理論に失望を感じ、その理解を深めるために経済学の研究を始める。彼の経済研究の根底には、所有権の基礎理論としての価値論研究という動機が一貫して存在する。この時期29年から30年にかけてパリ・タランヌ街のサン・シモン派の集会に熱心に通った。良く知られるようにサン・シモン自身は産業主義者で社会主義的要素は少ない。しかし、その弟子たちが結成したサン・シモン派は、ヨーロッパ社会主義思想の一源流となり、時にその活動は新興宗教に紛うほどであった。6年間の研鑽の後にまとめられたとされる処女作『富の性質と価値の起源について』(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur)を31年に公刊。
 同年7月革命により反動の時代の終焉を感じたゆえであろうか、教職に復帰する。以後、エヴルー、リール、カーン、ドゥーエー、ポーなど各地のコレージュの校長または視学官として多忙な日々を過ごす。34年エヴルー出身のサント・ブーヴ家ルイーズ・アリーヌ(Louise Aline de Saint Beuve)と結婚、長子レオンを同年12月に設けている。家庭的には幸福な生活を送ったとされるが、職務の多忙と夫人の協力を得られなかったこともあり、経済研究には専念できなかった。数篇の論文と公開講義の他には、47年に休暇を取得してまとめた本書『社会的富の理論』を49年に刊行したのみである。経済学の研究と講義に専心できる地位を求めながら、その願いもむなしく在野の研究者として生を終えた。叶わぬ彼の夢はレオンに託されたのである。
 父親子二代の経済学者としては、他に、ジェームスとジョン・ステュアートのミル父子、ネヴィルとメイナードのケインズ父子、ベイツとモーリスのクラーク父子が思い浮かぶが、クラークを除いては、いずれも子の方が父より有名である。

 本書は、100ページほどの小著ではあるが、「これから読まれようとする六つの章は、私の二十年にわたる辛苦、観察そして探究の要約である」と「はしがき」に書かれているように、著者長年の研究を「経済学の基本原理の要約」(副題)としてまとめた密度の濃い本である。
 上述の如く、元来著者が経済学研究を志したのは、所有権の理論的解明にあった。にもかかわらず、全6章より構成される本書には肝心の所有権そのものの議論は欠落している。しかし、やはりというべきか、所有論は予定はされていたのである。公刊されざる所有論二章分の原稿は、ローザンヌ大学のワルラス文庫に保管され、子息レオンの手によって「社会的富の理論の第7章」、「同第8章」と鉛筆の書き込みがなされて残っていた。有難いことに、それは訳書の付録として掲載され、日本語で読むことができる。
 なぜ所有論の原稿は筐底に納められたのか。佐藤(1981)によると、それは時代の風潮の故である。1848年の「二月革命」により、ルイ・フィリップ王は亡命し第二共和政が成立、自信をつけた民衆は国立作業所の閉鎖を機に「六月蜂起」へ突き進む。しかし、反乱は武力で鎮圧され、農民と組んだブルジョアが勝利する。ナポレオン三世の第二帝政の登場である。急進的共和主義者・社会主義者は後退を余儀なくされた。手近なトクヴィル『フランス二月革命の日々』(1988、p.288)で、この時期の雰囲気を窺うと、「独立不羈の精神への愛に続いてきたのは、自由な制度への恐れと、おそらくはそれへの嫌悪だった。あのような自由の乱用の後では、こうした回帰は避けがたいものだ。この後退の動きは実際に六月二十七日から始まった。まず肉眼ではとらえられないくらいにきわめてゆっくりと。ついで急速に、更に激烈におさえがたいほどになる」。反動期には、私有制度批判は社会主義者によるものかを問わず、社会的なタブーとなった(佐藤、前掲)。まして、自称「社会主義者」であるオーギュストは、社会的な反発を恐れて発表を控える他なかったのであろう。
 更にである、所有論は本来、『社会的富の理論』の一部をなすはずのものであったが、それらを併せてもこの著作の第一部をなすものにすぎず、それに続いて第二部が予定されていた。「ティエール所有論批判」の部である。未公刊の「所有論」の最後の部分にその旨が記されている。『社会的富の理論』(「所有論」を含む第一部)が原論部分で、「ティエール所有論批判」が応用部分となろうか。オーギュストの目指すところは土地公有(後述)であったが、その実現への最大の障害は世論の説得である。そのためには、私有制度護持のイデオローグであったティエールの書を批判せねばならない。世間の無知を代表し権威を持つ彼の著書『所有論』(De la propriété,1848)の「理論体系を木っ端みじんに打ち砕く」(ワルラス、1995、p.92:以下訳書からの引用は頁のみ表示する)必要があったのである。このティエール(Thiers, Louis Adolphe)とは、後に第三共和制の初代大統領となる人で、『フランス革命史』を著わす等歴史家としても著名である。トクヴィルの書にも保守派として度々名前が出てくる人物である。
 各章ごとに説明を加える前に、本書概略を頭に入れてもらうため、また手っ取り早く概要を知りたい人のために、次に簡単なまとめを記す。

 われわれに有用な効用を持つものを富という。富には二種類ある。一つは、量および耐久性が無限なもの、空気・陽光・重力・磁気の如きものである。今一つは、量に限りがあるもの、云い換えれば希少性を持つものである。有用であり、希少性があるから、交換価値を持ち、所有の対象ともなる。交換には社会が含意されているから、これらの富は「社会的富」とも呼ばれる。
 社会的富はさらに、耐久性の有無によって二種類に分類される。長期にわたって消費される資本と一度で消費される収入である。前者は生産の元本であり、後者は消費の元本である。資本には、土地と人間の能力から成る自然的資本と機械・道具等よりなる人為的資本がある。これらの資本からは収入が生じる。土地からは地代、人間的能力からは賃金、人為的資本からは利潤である。
 途中に貨幣の章がはさまれている。社会的富の重要なものに貴金属がある。貴金属の第一の機能は、価値尺度としてのものである。第二に、貨幣機能を持つことである。

 それでは、以下本文に即して、章ごとにもう少し詳細に内容を説明し、適宜解説を加える。
(第1章 富一般について、および、特に社会的富について ―効用と交換価値について― )
 経済学で、効用とは欲求を満足させうる力能、または享楽を獲得させうる力能の事である。効用は、直接的でも、間接的でありうる。また、物質的でも、非物質的でもありうるし、耐久的でも非耐久的でもありうる。「という言葉と効用はという言葉は同義語である」(下線原文:p.3)。効用を持つものの占有により富一般が成立する。富一般を「絶対的な富」、「不変的な富」とも呼んでいる。古典派の用語でいえば、使用価値を持つものが富ということであろう。
 富一般のうち、あるものはその量および耐久性が無限である。空気、陽光、重力等我々が使い尽くす恐れのないものである。有用なもののなかには、逆に量的な制限のあるものがある(そのなかにはさらに耐用性に制限のあるものもあるが、まず量的制限のあるものについて探究する)。
 有用なものにして、量に制限が加わると、「きわめて大切な注目すべき二重の刻印を受け」(p.5)る。第一に、そのものは所有の対象となる。すべての人の欲求を満足させる量が存在しないから、排他的使用のために占有の対象となる。第二に、その希少性により、価値を持つようになり、交換の対象となる。交換価値を持つ富は「相対的な富」と呼ばれる。狭義の富を意味する。「富は、より特殊な意味では交換価値として定義される。そして、この意味からすると、富は当然社会的富と呼ばれる。というのは 交換には社会が含意されているからである」(下線原文:p.4)。
 現在の用語でいえば、財は「自由財」と「経済財」より構成されることをいっている。後者のみが、「自然権」および「経済学」の対象となるとする。そして、「いまこそ、経済学が、なぜ所有の研究にとって非常に大きな助けになるかが判明する。[中略]この共通点こそ、実は、これら二つの科学の対象の同一性そのものに他ならない。社会的富を形づくるものは同じく所有物を形づくるし、所有物を形づくるものは同じく社会的富を形づくる。所有の理論と社会的富の理論は、まさに同一のものを対象にしているのである。」(下線原文:p.6)。
 しかし、経済学は社会的富の現象の本質を把握してきたとはいい難い。経済学者たちは富の二面を混同して来たためである。効用と交換価値を明確に分離しなかったからである。オーギュストは効用と交換価値との相違を四点あげている。すでに今までに説明した所と重複する部分は省略して、二点(ユニークな論点でもあると思う)を以下に示す
 まず第一点(原文では三番目)、効用は本来それ自体好ましいものである。これに反して、交換価値は相対的な一利益を示すにすぎない。交換価値は、それを持てる者にとっては好ましくとも、持たざる者には苦いものである。「それは、まことに不都合なものとして現れる。というのは、それによって多かれ少なかれ、ある数の人々の困窮が予想されるからである。価値は貧乏人の喜びを妨げるものとして現れる。価値を占有する人は、おそらく幸福であろう。だが、それを占有しない人びと、その必要を感じている人びとは、それによって苦い思いをするであろう」(p.9)。
 ただし、交換価値は悪いものではなく、有用な財の数量に制限があるのは、宇宙の摂理によるものであろうと考える。人間が労働せざるを得なくなったといえば、「楽園追放」の聖書の世界を思い浮かべるが、オーギュストは、ローマの詩人ヴェルギリウス『農耕詩』を引いて、神の意図を忖度する。

 父なる神はみずから
農耕がけっして容易でないことを望んだ
まず、技を尽くして耕さない限り作物が収穫できないよう
収穫への不安によって人間が賢くなるよう
かれの王国が怠惰によって朽ち果てないよう
望んだ

 第二点(原文では四番目)は、効用は不変で、現実のものではあるが、秤量できるものではない。これに対し交換価値は測定しうる事実である。交換価値は価格として測定できる。一方、「たしかに効用には大小がある。したがってある対象は他の物よりは有用であるという言い方はできるであろう。[中略]だが、いかなる場合でも、ある何らかの対象が他の対象よりも正確に2倍、3倍、4倍だけ有用であるとは言えないだろう」(p.11)。この記述は、後の時代の効用可測性をめぐる論争における、基数数的効用可測主義に対する序数的効用可測主義の立場を予示しているようで面白い。

 [希少性についての補足:煩瑣と思われる時は、第2章まで進んで下さい]
 希少性についてのオーギュストの議論を補足するため、本書に記載されていない所を『富の性質と価値の起源について』に即して述べる。『性質』には翻訳がないので、松島(1972)と山下(1984)の論文に拠る。原文引用はこれら論文からの孫引きであるので原文ページ表示は略する。
 オーギュストによると、「希少性とその結果である価値を決定するものは何であろうか。それは第一に有限な財の数ないし量であり、第二にそれを必要とする人間の数、言いかえればそれを享受することを求める欲望の総量である。希少性はこれらの二つの数の比にすぎない」(山下訳)。希少性は、有限な財の総量と欲望の総量の比で決定されるとしているである。そして、欲望の総量は人間の数と等置されている。
 オーギュストは、「我々の服する欲望」を「効用」とほぼ同義で使い、それは「強度」と「外延」の二面を持つものであることを認めている。しかし、外延と強度とは正比例の関係にあると看做す。強度は独立した変数とはされず、外延に従属するものである。「外延」=「欲望を抱く人間の数」を「欲望の総量」として把握するためには、一人当たりの欲望量が一定であるとしなければならない。その考の根底には、平均的人間は平均的な欲求を持つとの暗黙裡の想定があろう。効用は秤量できるものでないとする彼の立場からは、「欲望の総量」を「欲望を抱く人間の数」と代置する他はなかったのであろうと推察できる。それは、「彼が個人的・主観的観点を排し社会的・客観的観点を重視するあまり[中略]個人の消費の変化を無視することを意味する。これがために個人の消費量の変化にともなう効用の強度の変動はまったく考察の俎上にのぼりえなかったのである」(山下、1984、p.117)。消費者の行動を個人に還元して、変化する個人の消費量と「満たされた最終欲望の強度」を関連付け、限界効用の価値論を展開する道は、レオンに残されたのである。
 オーギュストの希少性論に関して独自な所がもう一つある。上記のように、希少性は有限な財の総量と欲望の総量の比で決定されるとしているので、希少性は「供給の需要に対するあるいは需要の供給に対する比率関係」(松島訳)ともいえる。しかしながら、彼のいう需要・供給は金銭によって裏付けられた現実の有効需要・供給ではないのである。それは「絶対的で一般的な」需要・供給なのである。
 ここで、絶対的需要とは、「希少なものが与える快楽を知っており評価できるすべての人によって、すべての時代・すべての場所において形成される人間の福祉に役立つすべての希少物に対する欲求を、それらを入手するための手段を考慮せずに、集計した」(主として松島訳による)ものである。絶対的供給とは、「若干の人々のもつそれを入手するための手段と、より多数の人々にそれなしで済ますことを余儀なくさせる必要性とを捨象したうえで、人間が処分できる稀少または有限な財の量」(山下訳)とされている。
 絶対的需要は実際の需要ではなく、貨幣的な裏付けのない欲望のようなものであると思えるが、絶対的供給の意味が私にはよく理解できない。ともかくもオーギュストの説くところでは、有効需要と有効供給は相互に他を上回るか均衡することができる。それに対し、その性質上、絶対的需要は常に絶対的供給を上回るのである。「有効供給、有効需要はたしかに市価または経常価格には影響を与えることができるが、それ自体として考えられた価値が生ずるのはこの種の供給・需要からではない。価値は絶対的供給と比較された絶対的需要からのみ生じる」(山下訳)。有効需要と有効供給は市場価格=交換価値を決定するが,価値自体は希少性から絶対需要と絶対供給によって生じるとされる。そして、オーギュストには価値の本質に関心があったのであって、交換価値の決定要因には立ち入らなかった。ここでも、交換価値の決定のメカニズムの解明は、レオンによる一般均衡理論の完成に待たねばならなかった。

 (第2章 価値の尺度について -貴金属の第一の機能― )
 貴金属が、貨幣として使用される理由として、①普遍的有用性、②同一性、③耐久性、④分割性、⑤高価値の5つの特質をあげている。そして「このような性質を、方法にもとづき確信をもって列挙した経済学者はほとんどいなかった私は思う」(p.15)と自負している。しかしながら、オーギュストのいう「方法」の意味が不明ではあるが、貨幣の特質としてこれらの性質はすでに、スミスやテュルゴー(注1)によって取り上げられているし、独創的なものはないと思われるので詳細は割愛する。「秤量に必要な特性は何か。(1)一般に知られており(2)不変的であること。つまり、周知不動こそ、さまざまな[価値の]大きさの評価に用いられる秤量単位もしくは比較標識の特長でなければならない」(下線、[ ]は原文:p.21)を結論として引いておくだけでよいだろう。万人に受容され、最も価値変動が少ないものが価値尺度の財として選ばれるのである。
 以上では余りに簡略過ぎるかも知れない。そこで、この章で、私には目新しかった箇所(もちろん先人がすでに述べたところであろう)を一つだけ引用しておくことにする。「は場所によって価値が変動することがもっとも少ない商品である。さらに言うと、それらは地球上どこでも、ほとんど一様な価値をもっている。言い換えると、一定の時代をとってみると、それらの価値は同一であり、あらゆる場所でほとんど同一である。このことが、金と銀のすぐれた携帯可能性に由来すること明らかである」(下線原文、p.18)。貴金属の移送費用が小さいことが、国際的な価格差異を生じさないのである。

 (第3章 貨幣について ―貴金属の第二の機能― )
 この章は、オーギュストの研究の原点である所有あるいは占有の概念を使って経済分析を行っているので、少し詳細に見てみる。
 社会的富とは、「効用」を持つ一般的富のうち「交換価値」を持つものであった。一方、人間は「占有」と「消費」の二つの観点から考察することができる。そうして、効用は消費されるし、交換価値は占有される関係にある。
 「われわれは一般に、占有するもの以外はほとんど消費しない」し、「われわれが占有するものは、けっして消費するものほど変化には富んでいない」(p.26)。各人の多様な消費財を入手するには、各人に固有な占有財産による他はない。それは土地であったり、自己の生産したラシャ、リンネルのような商品であったりする場合もある。しかし、「もっとも多数の人間は、そのすべての基本財産が労働・勤労から成り立っている」(p.26)。かれらは、自分の腕と才能以外の富=財産を所有していない。オーギュストは、人間の個人的能力も富と考えている(後述)。
 「各人は多数のものを消費せざるをえないにもかかわらず、通常ただ一つのものしか占有していないことがわかる」。そしてそうなるのは、「分業によって各人に固有の占有財産がますます狭められているからであり、各人がなしうる消費の分野がたえず増大するからである」。「もっとも多くの場合、かれらは使いたいと感じる他の多数の対象を自分の犠牲を払って入手するために、占有しているものの一部を保管する。かれらは自分が占有するものを介して自分が占有しないものの一部を入手するのである」(下線原文:以上p.37)。ここから交換の必要性が発生する。そして交換の媒介物としての役割を貨幣が果たす。
 自己消費用以外(自己消費ゼロの場合を含む)の占有物を交換に出すことによって、自己の欲する多様な消費財を手に入れる。その意味で「占有者としての人間を考えてみると、人間はどんな所でも同じである。占有はつねにそれ自体が類似している。占有は、常に、そして至るところで、占有しない者にたいして占有する者の有利さと、その有利さの合計を表現する。占有は、それが達する合計以外の区別を許さない単一で一様な現象である」(下線原文:p.24)。占有の観点からすれば、占有物の種類ではなく、価値の大きさのみが問題なのである。
 占有は消費の条件である。直接に欲求の対象を占有できないのなら、「そのような対象と同じ効用はもたないが、しかし同じ価値を持ち、しかもそれを媒介にして欲求を感じるものを入手できる」(p.28)別の対象を占有せねばならない。ここまでは、交換手段としての価値の占有といえようか。しかし、それだけに留まらない。人間は時々の欲求を満足させられたとしても、将来の満足も確保されるのでなければ、幸福を感じない。人が分別をもって熱望するのは、「さまざまな欲求が生じたときにいつでもそれを確実に満足させることができる保証に対する希望である。だから占有の欲望は消費の欲望に先立っている」(p.28)。時間と場所を問わず、自由に消費を享受するために、人はまず何よりも占有を追求する。「占有の基礎つまり消費の基礎をなす願望によって、人間の勤労と活動が生み出され、次いで、蓄積または貯蓄が生み出される」(p.29)。占有者にとって、すべての価値は、それに等しい価値の保証である。ある価値物を占有する者は、現在それを手放すことも、将来の必要に備えて保持することもできる。占有により、占有物自体の現在及び将来の消費が保証されているだけでなく、将来必要とするかもしれない他の消費財の等価値分をも、交換によって保証されているのである。
 しかしながら、価値を持つ社会的富の多くは、耐久性、分割性、硬質性に欠けている。金・銀の貴金属だけが、これらの欠点がなく、占有がきわめて容易であるという特質を持つ。「一般的に、販売よりは購買の方が容易である理由が、ここにある。貨幣を占有している者は、だれにも好都合な商品を占有している。なぜなら、だれもが、その占有者となるからである。金(かね)以外のものを占有している者は、何人かの人々、また、消費者のある階層にだけ好都合な商品を占有している」(p.32)ことになる。『資本論』(第一篇第三章第二節)の商品から金への「命がけの飛躍」を想起させる文章である。あるいは、この箇所は、「セイの「販路説」をのりこえる考察」(松島、1972、p.60)といってよいのかも知れない。ここでは一般商品と比較して、貨幣の価値保蔵手段としての機能が前面に出ているのである。貨幣の機能を、第一に価値尺度手段として捉えた(第2章)。さらに、この章では交換手段(支払手段)、そして何よりも 価値保蔵手段として説明している。
 以上オーギュストの富に関連する概念は、次の相関する二系列に分類できる。
 占有 → 交換価値→ 社会的富→ 一様性 → 販売
 消費 → 効用   → 富一般  → 多様性  → 購買

 (第4章 資本と収入 ―資本のさまざまな種類― 資本の価値と収入の価値との関係 )
 先に第1章で、効用を持つ財=富一般のうち量的制限があるものを、社会的富とし、社会的富を更に耐久性の有無により資本と収入に区別した。「この二重の事実の中に理論のすべてがある。そこには一つの科学、あえて言うなら、一つの大変興味ある大変重要な科学を作り出すための素材がある。量における制限は、純粋かつ単純な効用に対応する交換価値を生み出す。耐久性における制限は、資本に対応する収入を生み出す」(p.5)。オーギュストは、二重の制限に経済学解明の基礎を置いた。「このようにして彼は「制限の」概念のなかに経済現象を統一的に解明する基本的な説明原理を見出したのである」(山下、1984、p.113)。二重の制限のうち、耐久性による制限から生じる資本と収入の詳細な説明はこの第4章で行われる。
 まず、彼のいう区別を聞いてみよう。「消費されないか、もしくは長期にわたってのみ消費されるすべての社会的富、当初の用役を上回って用役を提供つづけ、一度ならずそれ以上の同じ使用に耐えうる、すべての制限された有用性を、私は資本価値または資本と呼ぶ[中略]一度だけ役に立ち、直ちに消費され、そこから引き出される最初の用役を上回って役立つことがまったくない、すべての社会的富または交換価値を、わたしは収入と呼ぶ」(下線原文:p.35)。彼のあげる資本の例は、地所、鑑賞用庭園、住居、輓馬・役馬、馬車、犂、蒸気機関、印刷機であり、収入の例は、ワイン、パン、牛肉、薪、食用油、燃料用油、石炭、蝋燭である。
 「資本」と「収入」の区分は、現在の用語では「資本財」と「消費財」にほぼ対応すると思う(住居は耐久消費財となろう)。しかしながら、オーギュストの両者の区分は必ずしも耐久性によってのみ区分されていないように思う。なぜなら、「流動資本」を認めているからである。固定資本に対するに「流動資本は、産業において、たえず消費され再生産される価値の総量を著わす」(下線引用者:p.41)と書いている。直ちに消費されても、生産に用いられる財(流動資本)は「収入」ではなく「資本」とされているからである。次の引用は、一つの財が用途によって、資本とも収入とも解釈できる文脈(果樹園の木が果実の生産にも薪にも使用可能)で使われており、正確には資本・収入の区分に関する物ではないが、区分は使用法にも依存することを暗示していると思える。「資本収入の性質は、われわれがまたはと称するものの性質に必ずしも正確に依存していない。資本収入は、ほとんどの場合、まさに社会的富の使用に依存している」(下線原文:p.35)。あるいは、「資本は生産的な元本であり、収入は消費される元本である。資本の本来の用途は生産にあり、収入の本来の用途は消費にある」(p.42)との記述もまた、用途が第二の暗黙の区分基準であることを示しているように思われる。
 テキストに戻る。資本と収入の性質の説明が続く。「資本の属性は、資本と少しも似ていない用役を提供するところにあり、資本とまったく異なった、そして資本から切り離された収入を生むところにある」(p.37)。林檎樹とりんご、乳牛と牛乳、あるいは、テイーラーと洋服の仕立て、医者と治療等もその例であるとする。後二つは個人の仕事上の能力を資本とし、その生産するサービスを収入としているのである。また、資本と収入の相違は、取引の形態の相違としても表れる。「資本は販売され借入れられ貸付けられる。収入は賃貸借になじまない。それは販売または贈与されるが、賃貸されることはない」(下線原文:p.37)。
 次にこれまでの経済学者によってなされた資本の区分を検討している。5つの基準をあげているが、一部区分基準のみ簡単に内容まで触れる。第一に、資本は「自然的資本」と、「人為的資本」に区分できる。前者は、土地と人間の自然的能力である。後者は住居、家具、蒸気機関等人間が手を加えて作り出したものである。しかし、自然的資本といえども、土地の改良や職人の技術の修得等に見られるように「人為的改良」が加えられる。
 第二に、「消費されうる資本」と「消費されえない資本」の区分がある。後者の代表は土地である。個人的能力は終身的な資本である。普通の資本設備は、物理的な消費の他に、経済的な消費が加わる。「これらの資本は、その使用によって消費されるばかりでなく、ある新しい発明の結果、これらが使い果たされる以前に無用となり、その価値の大部分が一挙に失われるといったことが、しばしば起こる」(p.39)。
 第三に、「物質的資本」と「非物質的資本」の区分がある。「物質的資本が、非物質的収入(注2)を生み出すことがあるうる」(p.40)として、住居が天露を凌ぐという非物質的「収入」を生む例をあげている。耐久消費財の例であろう。第四に、「譲渡可能な資本」と「譲渡不可能な資本」の区分がある。最後に、「固定資本」または「拘束資本」と「流動資本」または「流通資本」の区分もある。この区分の問題点については、すでに述べた。
 資本は収入を生み、収入の賢明な出費により資本は維持され、蓄積される。よって、「(1)資本は遊休させるべきでない。(2)資本の消費はできるだけ避けるべきである。この二つの掟は議論の余地のない明白なことである」(p.41)とされる。更にいうと、(2)の資本の食い潰しを避けるのは勿論、(3)収入の節倹によりできるだけ資本を増加させるべきである、と付け加えるべきだと思われる(第6章では「収入の資本化」として、これを記述している)。
 資本との関係において収入は三つの要素からなる。第一部分、資本用役そのもの、資本からの受益権。第二部分、資本の消費に際して、その維持・再生産のために支払う出費。原価償却費である。第三部分、資本損失の危険に対する保険料である。三要素はそれぞれ、独自の変動要因を持つ。
 土地は消費できず、消滅することもないから、その収入は第一要素からのみなる。人間の個人的能力は、終身的資本で人が死ねば消滅する。それゆえ、個人的能力の収入は第一要素に加えて第二要素の原価償却部分を含む。人間は、生涯の生活費(再生産費)を労働可能期間に稼ぐ賃金で賄わねばならない。そえゆえ、収入=賃金には、この原価償却相当部分が含まれているのである。人為的資本は、あらゆる耐久性を持つものから成り、様々な消耗の危険に曝されるため、その収入は、第一、第二、第三のすべての要素が含まれている。こうして、土地の収入<個人的能力の収入となる。個人的能力の収入<人為的資本の収入とは、書かれていないのは、第二の要素の変動幅が、第三の要素以上の場合があるからであろうか。
 なお、貨幣利子率は、「永久的なものと想定された人為的資本」であり、第一と第三要素のみから成る。利子率に代表される、資本に対する収入の割合は、繁栄する社会では低く、衰退する社会では高い。

 (第5章 社会的富の三要素:土地、個人的能力、人為的資本 ―各収入の特殊法則― )
 社会的富(資本としての意味であろう:記者)は、土地、個人的能力、人為的資本の三要素からなる。土地は地代と呼ばれる収入を生み、その契約価格は借地料である。個人的能力は、労働と呼ばれる収入を生み、その契約価格は賃金である。人為的資本は、利潤と呼ばれる収入を生み、その契約価格は貨幣利子と呼ばれる。「賃金という言葉は特に自然的能力の収入を指すために用いることにしよう」(下線原文:p.49)と書かれているようにオーギュストの用語は独特である。ここでの貨幣利子も通常の使い方ではない。「借地料賃金利子、または、そう言いたければ、地代労働利潤」(下線原文:p.50)とオーギュストも書いているので、以下は地代・賃金・利潤を通常の用語法で用いることにする。
 この章では、地代・賃金・利潤の三大収入(所得)について、経済発展によるマクロ的な変化の法則が示されている。
 第一に、「土地の収入=地代」の法則である。土地または耕地の広さは有限である。繁栄する社会は人口が増加する。「発展する社会で土地の価格が絶えず増大することは確実である」(p.51)。したって、地代も同様に高騰する。しかし、土地価格、地代の双方が増大しても、地代率は低下することに著者は注意を促す。地代率とは、地代(収入)を土地価格で除したものである。先に第4章の終わりに、利子率で代表される「収入の割合」は、進歩する社会では低下するといった。地代率も収入の割合であり、進歩する社会では、利子率に連動して低下する。 
 その理由は以下のとおりである。地代率=地代(収入)/土地価格である。商で表される数の増加率は、分子の増加率と分母の増加率の差額として近似式で表される(注3)。従って、地代率の増加率 ≒ 地代増加率 ― 土地価格増加率 である。地代率の低下(増加率が負となる)ことは、地代及び土地価格が絶対値として増加しながら、土地価格の上昇率が地代の上昇率を上回っていることを示している。但しオーギュストは、土地価格増加率>地代増加率 となる理由は示していない。
 「この結論そのものから、つぎの事が示される。進歩する社会では、土地所有者の境遇はしだいに安楽になり、しだいに有利になる。上記の法則の単なる結果によって土地所有者は何の犠牲も払わずに、かれが所有している資本の交換価値の増加とその資本の所有によって保障される収入の総額の増加という特別な利益を手にすることができるのである」(下線原文:p.53)
 第二は、「人為的資本の収入=利潤」の法則である。「進歩する社会では、これらの収入の割合が減少するばかりでなく、収入の総額もまた、それを生む資本価値の減少そのものによって下落する。だから、人為的資本の収入の減少には二重の理由が存在している」(下線原文:p.55)。利潤率も、利潤総額も、資本価値(総額)もすべて増加率が減少するというのである(注4)。利潤の場合もまた、利潤率の増加率 ≒ 利潤増加率 ― 資本価値総額増加率 の式で示されるであろう。3項目すべてが減少率(負の増加率)となると、オーギュストは、いっているようである。けれども、この式からは、利潤総額と資本価値総額の増加率がともに減少(負値となる)したとしても、資本価値総額の減少率が利潤総額の減少率を絶対値で上回れば、利潤率は増加する(正の値を取る)はずである。この可能性に著者は言及していない。
 ただ、利潤総額及び資本価値総額がともに増加しながら、利潤率が減少する場合があることは認めている。数字で例示しながら、「人為的資本の絶えざる増加と、それによってもたらされる価値の低落、それぞれの収入の減少と結びついた利潤率の低下は、[中略]人為的資本の総額および同じく利潤の総額[中略]がいちじるしく増加し、常より高くなることは妨げはしない」(p.55)といっている。上式の利潤増加率 < 資本価値増加率の場合(2項目はともに正)であろう。
 いずれにせよ、実質資本量が増加する進歩する社会は、利潤額・資本価値総額の増減にかかわらず利潤率は低下することになるとされる。資本の増加により、「それぞれの資本が、とりわけ市場性のある価値の減少を被り、より少ない収入を生むということである」(p.56)。「進歩する社会では、資本家人為的資本の所有者と称してもよい)は次第に苦境に陥り、ますます不利になるということである。[中略]資本家にとって無為は次第に高いものにつくことになる。かれは自分の立場を守り、その欲求の高さに応じた収入を維持するため労働と節約を恒常的に求めざるをえなくなる」(p.55)。
 第三は、「個人的能力の収入=賃金」の法則である。社会の発展によって、地代が絶え上昇し、利潤が減少するのに対し、賃金はいわば無変化の状態に止まる。それは、経済学的に見て、人間が「生産者」と「消費者」という二重の役割を果たすからである。人間は消費するための口と生産するための腕を持つ。そして、生産と消費は、「同時かつ同じ割合で増加したり減少したりする関係が発見される。[中略]ここに、労働の価値があらゆる時代を通じてほとんど同じ状態を保つこと」(p.57)の十分な理由がある。生産と消費、すなわち労働の供給と需要は均衡する傾向があるのである。
 ちなみに収入の資本価値に対する割合は社会の進歩につれて減少するのがオーギュスト「一般法則」である。それは富の三要素に共通する。賃金の個人能力価値総額に対する割合(安藤の呼ぶ「賃金率」;単位労働時間当たりの賃金額ではない)も、地代率、利潤率同様に減少する。社会発展とともに人口、そして個人的労働能力総額も増加するからである。

 (第6章 産業または生産 変化させる生産および増大させる生産)
 これまでの章で、社会的富には次の3つの不便さがあることが明となった。1.量的な制限(希少性)がある、2.耐久性に制限がある、3.間接的効用を持つにすぎない、である。そのうち2.は厄介なものではないので、希少性と間接的効用の二つが実質的な不便である。
 経済学の観点から見た人間の活動である産業または生産は、二重の目的をもつ。(1)希少な効用を増大させる、及び(2)間接的効用を直接効用に変化させることである。まず第二の観点、効用変化としての生産を見る。人間は物資を創造できない。既存の物質を結合したり分離したりできるだけである。量的制限がある効用を持つ物質を、人間の欲求を満足し易いように、直接的効用を与えるように変化させることに活動の大部分が割かれている。セイは、「生産は一つの大きな交換である。そこでは、生産的用役が与えられ、その代償として生産物が得られる」(下線原文:p.62)と述べた。この生産の理論によると、生産物の価値は、それを得るために消費された生産的用役価値の合計に等しい。農業の例でいえば、 農産物価格=土地地代+資本利潤+労働賃金 となる。価値の生産費説である。二番目の利潤は利子率に相当する普通利潤を意味していると思われる。価格が生産費を上回れば利益(超過利潤のことであろう)が出、費用を賄えない時は損失が出ると書いているからである。
 同じように、交換の理論によって、工業製品も扱える。工業品価格もその生産に要した生産用役の価値合計で表せる。商業への適用は、なお容易である。工業は形態の変化から成る。しかるに、商業は場所の変化から成り、その真髄は輸送にある。運搬人の賃金だけ価格が加わるのである。さらには、「もし、セー氏が労苦を厭わなかったたら、今日、非物質的産業と称されているもの、つまり自由業や公務員の生産性を同じやり方で説明していたであろう」(下線原文:p.64)という。オーギュストは、サービス労働も生産と見ていたセイに今一歩の前進を求めたごとくである。
 「交換は、これを厳密に受け取るならば、本質的に不毛で、また不生産的な現象である。交換所有のたんなる移転にすぎない。それは諸価値をある手から別の手へと移動させるのだが、それらの価値を増加も減少もさせない。交換は、それが行われる二つの対象が等しいところにその本質がある」(下線原文:p.64)。交換は生産の間接的手段に位置づけられるが、直接に生産することはしない。交換は、それ自体で社会の価値総領に何ものも附加しない。しかるに、「真の生産とは増大する生産のことである」(p.65)。ここで記者いう、「真の生産」といっているのは、先に「二重の目的」とか、あるいは後に「人間固有の産業には二つの側面が見られる。それは間接的効用を直接的効用に変化させること、稀少な効用を拡大させることである」(下線原文:p.69)書かれているように、同一の生産を見るに増大と変化(交換)の二つの観点があり、真の観点は上記第一範疇である「効用の増大」にあるといっているのであろう。生産に二種類ある、ということではないと思う。
 富の生産を増大させるには、二つの方法がある。1.節約と貯蓄により、「収入資本化することである。収入の節約は資本を増加させ、より多大な資本は、より多大な収入を生む。ここに裕福となる基本的方法があり、交換によっては解決できない方法がある」(下線原文:p.65)。2.「同一の資本からより大きな収入をひきだすこと、あるいは、よりわずかな資本から同一の収入を引きだすことである」(p.65)。第二の方法こそ、希少性に対する人間の挑戦であり、経済学が希求するものでもある。三種の社会的富について具体的には、土地の改良、個人的能力の開発、人為的資本の生産性の向上が求められる。
 それにしても、産業によって交換価値、消費財が絶えず増加しながら生産されるのは、どのような根本的性質にもとづくものかと、オーギュストは自問する。それに答えるためには、最初に戻って、富は無制限な財(自由財)と制限された財(経済財)の二種類あることを想起しなければならない。世の中が自由財のみからなるのなら、経済学も産業も不要である。必要なものを時・場所を問わず、自然から取り出せる「黄金時代」である。しかし、現実の世界は、自由財と経済財よりなる。自由在とは、熱、風、重力のような自然の賜物であった。経済財は究極的には、土地、個人的能力、人為的資本に還元できる。人類は、これら究極の経済財である資本を使って、自由財をふんだんに取り出す手段に使用している。「土地個人的能力人為的資本は、創造主の鷹揚さがたえず社会に流れ出てくる三種類の運河のようなものと見なすことができる」(下線原文:p.68)。重要なことは、この三種類の運河を絶えず拡張し、閉塞せぬようにして、尽きせぬ無制限の富が慈悲深い天の恵みとして、我々に届くようにすることである。「それは、結局、真の生産増大する生産の秘術のことであり、[中略]われわれの経済的環境の明確な説明」(下線原文:p.68)である。
 以上は生産の本質の議論であった。次は生産の目的というべき議論が続く。さて、生産による交換価値の増大は、価格を低下させる。このことは、幾人かの著述家を惑わせて来た。社会的富は、交換価値を有することにその意義がある。しかるに人は、何故その交換価値を低下させる生産活動を「最高目的」とするという矛盾した行動を採るのであろうか。ここで、交換価値は希少性によっており、それは購買力を持たぬ貧乏人は財を消費する恩恵に浴さなかったことを意味する点を想起しなければならない。生産とは、希少性を解消することである。そのことは、交換価値を低下させるにしても、効用を増大させることでもある。人びとにより多くの消費可能な効用の総量が生産されるのである。それが疑問にたいす解答でもあろう。「すなわち、あらゆるものが安価なのは富と文明の徴であり、このことは、可能な限り最大多数の人びとに余裕と安楽を保証する裏づけとなるということである」(下線原文:p.70)。
 そして、「交換価値の観点そのものから見ると、社会が貧しくなったり[社会的富の総額が減少と同義?:引用者]、進歩する社会で社会的富の総額が減少したりすることは憂慮する必要はない。社会的富の総額はこれとは逆に持続的に増大するからである。価値の減少なしに生産物が量的に増大することはありえない」(下線引用者:p.70)。この箇所で、社会的富の価値が低下しながらも社会的富の総額は増大するとしているのは、現代の用語でいえば、社会の総供給曲線の価格弾力性が弾力的(e>1)であることを意味するのであろう。実質生産額が増加して、物価水準が下がっても、名目生産額は増大するので、富の総額は増えることになり、憂慮する必要はないといっていると思う。
 こうして富の三つの運河論から、機械や競争の導入に対する反対論は運河を狭めるとものとして排した後、最後に経済学について述べる。経済学の伝統的区分法は富の生産、分配、消費の三分法である。ここに書かれてはいないが、セイに始まるとされているものである。オーギュストは、消費は生産に結びつくとして、生産と分配の二分法に与する。そして、「生産は工芸と科学と熟練の成果であるが、分配は権利正義の問題である。生産は多産でなければならず、分配は公正でなければならない。生産分配の間には当然、所有の問題が存在する。[中略]あるいずれかの社会を一瞥するだけでも富の分配が常に所有にかんする民法大系に左右されていることが充分理解される」(下線引用:p.72)。所有の問題となれば、自然法の分野である。経済学は、社会的に最良の分配を目指す自然法の研究に、問題解決の手立てを与える科学である。「自然権が負うべき義務は経済学に意見を質すことであり、富の科学が提供しうる真理の確認によって、その探求を正当化することである」(下線原文:p.72)。公刊されざる所有を扱う第7・8章を予示するようにして、本書は終わる。

 [所有の理論]
 訳書で付録として収められている「所有の理論」を概観しておこう。本書の続きとなって公刊されるはずであった内容である。訳書では「第1章 所有について:占有のさまざまな形態;私有について、共同所有について」および「第2章 富と公有、富と私有」からなるが、ここでは一括して見ることにする。
 所有権とは物を自由に使用・収益・処分する権利と定義しているのは、通常の扱いである。著者独自なのは、所有権を人と物の関係として、人を権利の主体、物を客体とすることは誤りとしていることである。「権利とは道徳的関係である。道徳的関係は二つの道徳的存在、二つの人格の間でのみ成立しうる。権利の主体たる[二つの]人格が有する権利を尊重する義務を負う人格的存在、これこそが所有権の真の対象なのである。所有は物を人格に結びつけるのではない。それは人格どうしを結びつけるものである」([ ]は訳文:p.76)。訳文で「二つの」が強調されているが、ここは「複数の」とした方が、理解しやすいように思う。直ぐ後に、「同胞」という言葉が使われているからである。ともかくも、所有権を単なる物権とせず、「人格ともの、あるいは人格相互の間にものをめぐって成立しうる関係」(p.76)としてとらえる。所有により、私の権利を同胞が尊重する義務を持つ関係が成立する。
 物の所有には、私有と共同所有がある。私有が決して許されない、街路、河川、港湾、要塞等は、共同の物として所有されなければならならず、国家に属し管理される。一方、その性質上、共同所有出来ない物がある。日常の消費財、パン、ビール、コーヒ等々である。消費は私的で、個人的なものであるので、消費に先立ち私有が必要となる。直ちに消費されないで、ある程度耐久性ある衣服等も私有の対象とされる。それらの中間には、私有ともなり共有ともなる物がある。消費に耐久性ある物、例えば書籍は個人あるいは公共図書館の蔵書ともなる。公園も同様に私有と共同所有がある。
 上記は、物の本性、あるいは、その使用法によって我々にもたらされる用役の利益を理由とした区分である。私有・共有の区別には「ものの本性から引き出されるこれらの理由のほかに、われわれが従わなければならない正義の根拠や便宜さの根拠が存在する。」(下線原文:p.83)。そうして以下の如く、第2章でこれらの根拠で所有制度を検討する。が、実際は正義を根拠として区別されているだけである。「便宜さの原理を認めながらも、私は、やはり自分の提案が正しく、しかも合法的であることの証明にこだわざるをえない。[中略]正義はあらゆる時と所を通じて、あらゆる人間を義務付ける。そして、ここに正義が便宜よりはるかに優る理由がある」(p.89-90)と考えるからであろう。
 社会的富(資本)が、土地、個人的能力、人為的資本の三要素からなるとする著者は、自然権と経済学の研究により、所有に関する考察の結果として、次のごとく、宣言する。「土地は国家に属し、労働は個人に属する。これこそ所有問題において、すべての権利を両立させ、あらゆる合法的利益を護る方法にかんして私が提起した問題にたいする解答である」(下線原文:p.84)と。注意すべきは、ここで個人に属する「労働」には、「個人的能力」だけでなく、「人為的資本」も含まれていることである。「結局、資本は労働と節約の成果であり、それは蓄積された労働の成果なのである。[中略]資本は、労働によってそれを作り出した者にまったく合法的に帰属する」(p.85)というのが著者の考えだからである。土地は国家の所有とするため、土地収入、地代は国家の歳入となる。労働賃金と、資本利潤は生産要素が個人のものであるため、個人に帰属する。資本家は勤勉で節倹な労働者から上昇してくるとオーギュストは考えており、その社会観は、松島(1972)のいうところでは、「独立小商品生産者」の「「単純商品」生産社会的所有」の世界である。
 進歩する社会では、土地価格や地代収入の高騰により、土地所有者のみが利益を享受する。そうして、公的財産や公的収入の強奪までに及ぶようになる。社会は、土地所有階級と無所有階級という、敵対する二大階級に分裂している。後者は勤労者と資本家からなる。農耕社会の出現以来、市民の間に起こったあらゆる反目の根源が、この対立から生じた。著者の考えでは、土地は、個人的所有の対象となりえないし、すべきではない。一方、労働と資本は共同所有の対象ではなく、対象にすべきではない。それから生まれる賃金と利潤も私有の対象である。どんなことがあろうと、自由な同意、自発的な妥協なしにそれらを奪うことはできない。社会は権利と義務の不動の基礎の上に築かれるべきである
 しかるに、現状はどうか。土地は私有されており、賃金や利潤には課税されている。「耕地の私有は公有、共同所有にたいする明白な侵害であり横奪である。また、他方、課税は私有、個人的所有にたいする明白な打撃である」(p.88)。正義が二重に侵害されている。土地を公有化し、地代収入により国家歳入を賄い、賃金・利潤に対する課税をなくすべきである。「所有問題と租税問題を扱っているあらゆる人びとが証言している、相互に深い結びつきをもつこの二つの問題を一挙に、はっきりと解決する利点がこの解決策にはある」。権利と正義を実現し、「合法的で根拠を持った平等不平等[機会の?:記者]とを実現する唯一の手段が含まれている。ここには共産主義にたいする死刑の宣告があり、社会主義の生命と未来がある」(下線原文:p.87)と書いている。
 理論はさておき、現実の土地公有化政策である。個人は土地に対して、暫定的な、一代限りの権利しか持ちえないとしていることからも判るように、著者の考えた公有化手段は、穏和なものである。少しずつでも、地租を増加させ、土地売買時に取引税を一部物納することにより公有地を拡大することを考えていた。わずかな動きが、道を開き、状況を動かすと楽観的である。
 最後に、自分の提案する制度に対する障害は経済学の原理に対する無知に由来するとし、「私は、二十年以上にわたり、獲得しうるかぎりのあらゆる知識をもってこの仮説を解明し、自然権[論]や経済学財政[論]を駆使して検証してきた。そして歴史や権威の試練にこれを委ねてきた。私はこの仮説をあらゆる側面から考え尽くしてきたのである。この仮説に欠けているのはただ一つ、最後の厳粛な試練、すなわち世間による承認だけである」(下線原文:p.91-92)とし、前にも引用した自分はティエール氏の理論体系を批判して、粉砕する著述をなすことを約して所有論は幕を閉じる。

 オーギュストは、息レオンの持ちえた唯一の経済学の師であり、レオンは「父の性格上の特長をまったく余すところなくたっぷりと受け継ぎ、またかれは父の非正統的な経済的見解をもことごとく受け入れた」(ジャッフェ、1977、p.2)。レオン自ら云う、1858年父とポー川渓谷を散歩していた時、「私は父に文学と芸術批評を放棄して父の仕事を引き継ぐことに完全に身を捧げると約束した」(御崎、1998、p.151)。
 オーギュストは価値本質論にこだわり、レオンは、相対価値の決定機構を求めて、限界効用概念にもとづく一般均衡理論を構築しようとした。目指すところは異なっても、子は父の分析概念(収入・資本の区別等)を引き継ぎ、研究を進めた。経済思想(科学的社会主義)上の影響も少なくない。レオンの輝かしい業績は、父・子二代にわたる研究の成果ともいえる。父オーギュストの経済理論自体は、上記でみたように、それほど独創的でないと判断してよかろう。その意味では、オーギュストの最大の作品はレオンではなかったかと思える。

 英国の書店からの購入。Académie de Lausanne(ローザンヌ大学のことである)のbibliotheque des étudiants(学生図書館?)の蔵書印スタンプが押捺されている。同アカデミーには、レオン・ワルラスが1870~1893年教職にあった(パレートが後継者)。本には、誰かの書いた図表入りのメモが挟まれている。紙装であるが、本形の収納ケースに納められている。

(注1)スミスは、『国富論』第一篇第四章「貨幣の起源と使用について」。テュルゴーは『諸省察』第42節「これら二つの金属は、すべての商品のうちで最も簡便にその性質検査し、その量を分割し、それを変質させずに永久に保存し最小の費用でどんな場所への運搬できるのである」。
(注2)訳文では「物質的資本は非物質的資本を生み出す」(下線引用者)とされているが、原文を見ると、「資本」は「収入」の誤りのようである。訳文を変えた。小生は仏文は読めないので、偉そうなことはいえないが。
(注3)商で表される数の増加率が分子数の増加率と分母数の増加率の差で近似できる証明は思い浮かばない(調べてみると対数微分を使う方法があるそうだ。どうせ、自分には理解できないだろう)。乗数の増加率が、二数の増加率の和として近似できることを示すのは簡単であるので、簡略法でそれを利用して、「証明」する。
C=A×B の場合、A,Bの増加率をそれぞれ、a,bとすると。Cの増加率は、
A(1+a)×B(1+b)=AB(1+a)(1+b)=AB(1+a+b+ab)
であり、最後の項abは、増加率のような小数では乗数となれば非常に小さく無視できる。
よって、上式をABで除した増加率は、(1+a)×(1+b)≒(1+a+b)となる。増加率は普通、100%を上回る部分だけで示されるから、
 C=A×B の場合、 Cの増加率=Aの増加率+Bの増加率
となる、この結論を変形すると、
 A=C/Bの場合、  Aの増加率=Cの増加率-Bの増加率 となる。
以上いわでもの、冗長と知りつつ。
(注4)ここで、「資本価値」の減少をその直前の記載から考えて、「資本価値総額」の意味としたのだが、「資本価値」は資本の単価の価値を意味するのかも知れない。その場合、単価価値が下がっても、資本の実質量が増えているので、資本価値総額は増加することが可能である。このケースでは、利潤増加率は負、資本価値総額増加率は正となり、当然利潤率の増加率も負となる。
 また著者は、それぞれの資本が、「よりすくない収入を生む」としながら、各資本家の個別的収入は低下するが、「人為的資本の総額は次第に多大な価値を想定させるようになり、利潤または利子の総額も増大するようになる」(下線引用者:p.56)とも書いている。そうであれば、利潤増加率も正となり、上記引用文とも矛盾する。いずれにせよ個別資本家の利潤率が低下することは同じである。


(参考文献)
  1. 安藤金男 「オーギュスト・ワルラスの経済思想とフランス民法典」 名古屋市立大学『オイコノミカ』 45(1)、2008年、p.61-97
  2. 佐藤茂行 「オーギュスト・ワルラスの土地国有論」 北海道大学『経済学研究』、30(4)p.129-147、1981年3月
  3. ウィリアム・ジャッフェ 安井琢磨・福岡正夫編訳 『ワルラス経済学の誕生』 日本経済新聞社、1977年
  4. チュルゴ 津田内匠訳 『チュルゴ著作集』 岩波書店、1962年
  5. トクヴィル 喜安朗訳 『フランス二月革命の日々』 岩波文庫、1988年
  6. 松島敦茂 「オーギュスト・ワルラスの経済学」 滋賀大学『彦根論叢』155、1972年4月、p.47-67
  7. 御崎加代子 『ワルラスの経済思想』 名古屋大学出版会、1998年
  8. 山下博 「オーギュスト・ワルラスの経済理論」 『大阪大学経済学』 34 (2・3)、1984年12月、p.110-123
  9. オーギュスト・ワルラス 佐藤茂行訳 『社会的富の理論 ―経済学の基本原理の要約―』 北海道大学経済学部、1995年


(本形のケース)


表紙(拡大可能)
標題紙と同じ

(2014.8.11記)



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