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 マーシャル『経済学の現状』1885年刊初版、『新しいケンブリッジの経済学カリキュラム』1903年刊初版、および「経済学の旧世代と新世代」1897年刊雑誌抜き刷り。
 著者略歴:Marshall, Alfred アルフレッド・マーシャル(1842-1924)。イングランド銀行出納官(cashier)である父ウィリアムと母レベッカ・オリヴァーの次男として、ロンドンに生まれた(妹あり)。のっけから余談であるが、この父ウィリアム(1812-1901)の名が、『資本論』に載っている塩梅なのである。第33章(第3巻2部)の注11に銀行券の流通速度に関する表があげられており、そこに「(イングランド銀行出納人マーシャルの報告。『銀行条例にかんする報告』1857年、第二部付録300.301ページ所載)」(マルクス、1967p.634)と書かれている。調べてみると、当時英蘭銀行には約500人の職員がいたとされているが、出納官に同名の人物がいたとは思えない。
 本題に戻る。ウィリアムは、その父(アルフレッドの祖父)が海軍の主計官の要職であったにもかかわらず、退役後事業に失敗して一家離散の目に遭う。そこから、(コースの定理の)コースのごとくマーシャルの出自は中産階級というより労働者階級に近かったという説をなす者もある。ただし、通説どおり中産階級の出身とみてよいようだ(西岡、1997、第1章)。ウィリアムは、厳格な福音主義者で、息子の性格形成にも影を落としている。「アルフレッド・マーシャルは賢者や牧師の種族に属していた。しかもまた彼ら(ケンブリッジの道徳学の同僚:引用者)と同様に、二重の本性を授けられていて、科学者でもあった。[中略]科学者として、彼はその専門分野において、100年間を通じて世界中で最も偉大な学者であった。にもかかわらず、彼自身好んで優位を与えようとしたのは、彼の本性の第一の側面であった」(ケインズ、 1980p.232)。
 教育熱心な父親によって「ザ・ナイン」と呼ばれる名門パブリックスクールの一校、マーチャント・ティラーズ・スクールに入学した(1852年)。できが良かったとはいえ、俸給生活者の家庭からの、兄も果たせなかった進学は、当校が寄宿制ではなく、通学制のパブリックスクールで経費が安かったからである。当校は、現在は移転しているが当時はロンドンにあった。学校では古典語教育偏重を嫌い、数学の勉強に慰めを見出した。父親はそれを疎ましく思っていたけれども。そして、数学を学ぶため、マーチャント・ティラーズ校と関係の深いオックスフォードのセント・ジョーンズ・カレッジではなく、ケンブッリジの同名セント・ジョーンズ・カレッジに進学する。そこには、奨学金の他に、一家離散の後、オーストラリアで牧畜業で成功した叔父の学資援助(借金というべきか、後に返済している)があった。
 1865年数学トライポス(優等卒業試験:詳細後述)の第二位優等者となる。この時の第一位優等者は、ジョン・ウィリアム・ストラット(1904年ノーベル物理学賞)である。ケインズも書いているように年度は異なるが、ケルヴィン卿やマックスウェル等も第二位優等者なのである。この成績により、同年セント・ジョーンズのフェローに挙げられる。借金返済のこともあり、クリフトン・カレッジというパブリックスクールの数学教師も兼ねることになった。同校の同僚の交流から、1867年ケンブリッジでシジウィック(道徳哲学教授)が主催していた知的サークル「グロート・クラブ」に参加する。
 応用数学の分野である「分子物理学」(20世紀初頭の物理学革命―量子論以前の物性論にあたるか)を専攻しようとしていたマーシャルは、サークルでの討議を通じて、社会的・倫理的な問題に興味を魅かれ、心理学に関心を移していく。「機械論」(1868年)他計3編の心理学論文を発表する。ダーウィンの進化論やハーバート・スペンサーの社会進化論の流行という時代思潮の影響もあったであろう。一方、原文でカントを読みたいという思いが、1868年ドイツ(ドレスデン)に行かせる。再度1780-71年の冬にベルリンに滞在している。ドイツ観念論哲学からヘーゲルの歴史哲学、ドイツ歴史学派も学ぶこととなる。1868年にはフェローに兼ねて、科目の一つとして経済学が含まれる「道徳諸科学」担当の講師となる。
 心理学か経済学かを専攻するのに迷ったが、1871-72年頃には、生涯を賭けた仕事として経済学を選び取る。人間自身の発展の可能性に関心のあった彼には、人間の心だけではなく、外部環境がより重要と考えた。当時ケンブリッジでは、盲目のヘンリー・フォーセットが、初めての経済学教授(彼はむしろ政治に野心があった)であり、経済学は研究者からも学生からも無視されるような存在であった。1870年以降、公刊されていないが多くの経済学論文を執筆している。1873年には、女性向けの経済学の講義やリフォーム・クラブで「労働者の将来」という講演を行った。この時期に、後に発展させることになる「価値と分配の理論」のコア部分は掴んでいたし、経済学は生物学的・進化論的な研究法によるべきだと確信を持った。晩年の回想で、ミル『経済学』を読みながら、スラム街を見て廻ったというのも、この時期であろう。1875年には叔父の遺贈金を受けて、4ケ月アメリカを旅し、経済学者と交流し産業の実態を調査している。
 1877年メアリー・ベイリーと結婚。彼女は、上記女性講座の受講者であった。名門の出であり、ケンブリッジで女性としてはじめて道徳科学優等卒業試験(経済学を含むトライポス)を受け、資格を得た。ケインズの母ローレンス・エイダやベアトリス・ウエッブとならんで、女子高等教育の先駆者である。マーシャルは、結婚により、独身が条件の学則に従がって、フェローの資格を失った。そこで、彼は同年に、新設のブリストル・ユニバーシティ・カレッジに学長兼経済学教授として、メアリーは講師として赴任する。1870年代以降、民衆のために大学教育を地方都市に拡げるために、オクスブリッジの教員が地方を巡回したり、大都市と連携して新しい大学施設を創設したりする「大学拡張運動」があった。該大学も、その一環としてブリストルに新設された。
 メアリーとの共著『産業経済学』(The economics of Industry 1879)を著す、元々メアリーが公開講義用に書き始めたものであるが、アルフレッドの最初の著書となった。「手に入る限りのずば抜けてすぐれた小教科書であった。初歩の教科書というものがともかく必要であるとすれば、この書物はおそらく、これと同時代のものや従前のものと比較して類書のなかでは最善のもの」(ケインズ、1980p.268)であり、全11刷、計15,000部発行される。しかし、マーシャルは、内容に不満だったのか、後に絶版とし、極力回収したとされる。
 ブリストルでは、資金集め等の雑務に追われ、元々丈夫ではない健康を害す。新学長を迎え、1881年妻と療養のため、約1年かけて南欧へ旅する。この時期に『経済学原理』を構想し、執筆を始めた。
 一旦、ブリストルに復帰するも、1883年夭折したベリオル・カレッジ講師アーノルド・トインビーの後任に乞われ、オックスフォードに移動する。翌1884年には、初代経済学教授フォーセットの急逝により、母校ケンブリッジの教授となる。この時の就任公開講演が『経済学の現状』(1885)である。
 マーシャルが教授として在籍した33年間に、参加した重要な運動として、ケインズは次の三つをあげる(ケインズ、1980p.289)。1.英国経済学会(後、王立経済学会)の創設(1890)、2.ケンブリッジにおける婦人の学位論争(1896)、3.ケンブリッジの経済学優等卒業試験の創設(1903)、である。1980年、主著『経済学原理(第1巻)』を出版する、当初は2巻本の予定であったが、結局続刊は出版されなかった。8版まで改定を重ねているが、第1巻の表示を削った(代って、入門巻 an introductory volumeの副題を付す)のは、第6版(1910)からである。この本は、直ちに著者のみならず経済学に対す赫々たる名声を確立した。国内外の書評も好評であった。学生用入門書として、『原理』の簡略版として『産業経済学要論』(Elements of Economics of Industry 1892年)も上梓した(3版まであり)。
 1908年ピグーに教授職を譲って引退。在職23年(66歳)であった。残りの人生を過去の収穫を取り入れるべく努力を続けた。『原理』第2巻のプランは変更されて、曲折を経て『産業と交易』(1919)および『貨幣、信用および商業』(1923)となった。『原理』第5版(1907)で出版予告されて12年、『原理』初版から実に30年近い歳月が流れている。
 ケインズ(同、p.233)はいう、「マーシャル経済学の発展を説明するという仕事は、最初の発見と口頭による弟子たちへのその伝達と、書物の形での外部の世界に対する最終的な発表との間に、たいてい長い隔たりがあるために、容易なものではない」。彼が早くから研究して完成していた経済理論で、50年近く公刊されなかったものもある。その間彼は自分の着想を、秘匿せずに「講義や談話の中で腹蔵なく友人や学生たちに分け与えた」。それは、個人的印刷したパンフレットや教え子の著作を通じて広範囲に流布した。書物の形となって出現した時には、とかく新奇さと開拓的功績のないものと見なされた。「出版された著作だけでマーシャルを知る世界中の経済学者には、イギリスの彼の同時代人や後継者が彼のために法外な地位を要求するのが、了解しがたいかもしれない」(同、p.240-241)。
 記憶力の減退と肉体の衰弱と闘いながら、さらに書物をまとめ上げようと虚しい努力を続け、「賢人か預言者の風貌」のまま81歳で永眠。

 導入部として、イギリスの大学における経済学教育を振り返る(注1)。まず、1830年中葉までの第一段階と呼ばれる教育の初期段階である。1805年にマルサスが社員教育向けの東インド・カレッジ(ヘイリーベリー・カレッジとも)の現代史・経済学教授に就いた。イギリス最初の経済学教授であるが、カレッジでありユニヴァーシティでないので教授と称すべきでないといわれた。1825年には、オックスフォード大学のドラモント講座が創設される。これはマルサスの隣人である銀行家ドラモントの寄付講座である。初代教授シーニア、二代目はホエートリが就いた。ケンブリッジでは、G・プリムが1816年経済学の講義を開始した(正式な経済学の教授職は遅れる:後述)。オクスブリッジとならんで19世紀に三大大学と称されたダブリン・トリニティカレッジでは、ホエートリ講座が1832年に創設される。ドラモント講座二代目教授のホエートリが、当地で大主教に赴任後、自分が資金提供して創ったもの。初代教授は、ロングフィールドである。
 大きな大学以外では、1820年にマカロックがエディンバラで経済学の講義を開始し、リヴァプールやロンドンでも教室をもった。1828年には、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(1826年創設:後ロンドン大学に加入)の教授に就く。同じロンドンのキングス・カレッジ(1829年創設)では、歴史学派R・ジョーンズが、1833年に経済学教授に就任する。 
 次に第二段階。1850年以降、大学拡張運動で生まれた新設の都市大学で経済学教育が行われ、オクスブリッジ等では経済学教育の充実が見られた。前者では、代表的なオーエンズ・カレッジ(マンチェスター:1851年創設)において、1854年に「経済学および商業科学」のフォークナー教授職が設立されRC・クリスティが教授となる。ブリストルのユニヴァーシティ・カレッジ(1876創設)では、わがマーシャルが初代学長兼経済学教授となった。後者では、ケンブリッジで1863年正式に経済学の教授職が認められた。初代教授は、ヘンリー・フォーセットである。ロンドンのキングス・カレッジ(ロンドン大学に統合)でも1859年トゥーク「経済学および統計学講座」が新設される。初代教授JET・ロジャーズ、第二代教授FY・エッジワースである。
 第三段階は、ロンドン・スクールオブ・エコノミクス(LSE)の創設(1895)年やケンブリッジの経済学トライポス新設(1903)に見られる専門科学としての経済学の確立である。これについては、もう少し詳しく後述する。  

 ((経済学の現状))
 邦訳は、永沢越郎訳による。山田雄三訳(杉本栄一編に所収)も参照したが、ともにピグー編の『アルフレッド・マーシャル追憶文集』所載のものによっている。『追憶論文』と原論文とを比べてみると、細かい点では、センテンスが脱漏(?)する等、多くの異なる箇所がある。下記の「経済学の旧世代と新世代」も同様。後者の方が、相違が大きい。

 ケンブリッジ初代経済学教授ヘンリー・フォーセットの急逝(188411月)により、マーシャルは二代目ケンブリッジ経済学教授の地位に就いた(18851月)。いわゆる「ケンブリッジへの帰還」である。『産業経済学』および「外国貿易の純粋理論」と「国内価値の純粋理論」(共に1879:私的流通印刷物)の出版に加えて、ブリストルおよびオックスフォードにおける熱心な教育・指導の評判が、直ちにその地位をもたらしたのであろう。この公開教授就任講演が『経済学の現状』である。すでに、上記出版によって、ジェヴォンズ、フォーセット、バジョット等に匹敵する経済学者として国内外での評価を得ていた。マーシャルは、講演を印刷化した本書によって、それを揺るぎないものとした。

 以下は、本書の内容について。
 19世紀初頭に定着した英国の経済思想は、事実の研究を無視した理論家によるものだと一般に言われている。マーシャルは必ずしもこの意見に賛成しない。しかし、過度に抽象的な理論に過ぎるという非難が正当であるとすれば、それは卓越した天才リカードの影響によるものである。リカードの精神は、その長短所ともユダヤ出身に由来し、イギリスの経済学者には、類似した精神の持ち主はいない。
 現世代に(というよりマーシャルに?)おいて生じた経済学の見方に関する変化は、演繹法を帰納法で補完する重要性を発見したというような単純なものではない。それは、研究の対象である「人間自身が高度に環境の所産であって、環境とともに変化するという発見によるもの」(マーシャル、1991p.3)である。同じ19世紀初めに、数学・物理系科学は隆盛を見たが、その研究対象は空間的・時間的に一定不変であるとした。科学の進歩は熟知された事実であるが、科学の対象の進歩については知られていなかった。 
 生物学の著しい発展が、徐々に物の見方を改めた。「人々は、有機的成長の本質について、より明瞭な観念を獲得しました。科学の対象が異なった発展段階を経過するとしますと、一つの段階に適用される法則が、修正されることなしに他の段階に適用できることは稀であること、科学の法則は、取り扱う対象の発展に即応した発展を持たなければならないことを、人々は学びつつありました」(同、p.4)。それは他の科学にも影響を与え、経済学にも変化が生じた。
 過去に、英国経済学者が犯した誤りは、歴史と統計を無視したことではなく、彼らは人間を不変量と見做し、人間の多様性を研究しなかったことにある。彼らが知っていたのは主としてシティの住人で、世界はすべてシティの住人で構成されているように論じた。労働者の人間的な感情に配慮することなく、労働者を一種の商品として扱った。それゆえ、供給と需要の働きについて、余りに機械的規則的に扱い、現実に適用できない法則を主張した。「しかし、彼らが陥ったもっとも致命的な誤謬は、産業上の習慣と制度がいかに可変性を持つものであるかについて、考えなかったことであります」(同、p.4)。
 人間自身が環境の産物であり、環境とともに変化する。一方、人間の環境である産業の慣習や制度も人間により変化する。それら人間と環境の弁証法的ともいうべき相互発展により、労働者の生活改善と貧困解消が可能となる。この有機的成長論が経済学の方法論として最初に発表されたのは、『経済学の現状』においてである。
 また、過去に犯した経済学の不幸は、社会主義者に経済学上のドグマを誤用する機会を与えたことである。リカード学派が、「構築しつつあったことは、普遍的な真理ではなく、ある種の真理を発見することに普遍的に適用できる機関(オルガノン)であったこと」(同、p.7)を明らかにしなかったためである。リカードの時代以降、多くの改善が行われ、経済学の機関は現実の状態により適合するようになりつつある。
 なさるべき経済学の機関の研究に対し、二つの反対論が提起されている。第一は、コント社会学によるもので、経済現象を他の社会現象から分離して研究すべきではないとするもの。第二は、歴史学派によるもので、形式的な理論の介入なしに、事実から直接推論すべきであり、経済問題の解決には歴史の教えに従うこと主張する。いかし、マーシャルは二つながら、排斥する。
 現在ケンブリッジには、才能を擁した人材が多く存在するにもかかわらず、経済学に進もうとする人は少ない。富裕な人を軽蔑し、富に関する事には無関心の態度を取るのは誤りである。多くの人々が貧困であるのは、富が充分に存在せず、存在しても良好に配分されていないからである。より多くの大学人が、実業界での地位のために準備するなら、実業界に変化をもたらし、「寛大なイングランドが、工場をより楽しく、美しいものにする道を開拓する仕事において、他の国々に後れをとることはなかったでしょう」(同、p.30)とする。英国が米・独に追い上げられていることを意識しての発言であろう。
 そして、「私がもっとも深く心に期しておりますことは、またそのためにもっとも大きな努力を払いたいと思っておりますことは、冷静な頭脳をもって、しかし暖かい心情をもって、[中略]ケンブリッジで学ぶ人々の間から、ますます多くの人々が、私たちの周りの社会的な苦難を打開するために[中略]学窓を出て行きますように[中略]、私にできるかぎりのことをしたいという願いに外なりません」(同、p.31)と、周知の"cool head but warm heart"の言葉をもって講演を結ぶのである。 

 最後の点に関しては、マーシャルには、経済学を社会の改善のために、役立てたいという熱い思いがあった。少なくとも、ケインズがある書簡で述べたような、「私は次第に経済学がおもしろくなってきた。私は、かなり経済学に向いているのではないかと思う。私は鉄道経営をしたり、トラストを組織してみたりしたいし、少なくとも大衆投資家をたぶらかすぐらいはしてみたい。これらに関する原理を会得することは、きわめて容易かつ魅惑的だ」(スキデルスキー、1987p.270)というような、気分や動機は微塵も見られなかった。後述するが、経済学を学ぼうとする人々が就く職業の一つとして、「貧民の奉仕の職業」をあげている。

 ((ケンブリッジの新しい経済学カリキュラム))
 1903年の経済学優等卒業試験の創設に伴い、経済学教育のカリキュラムを明らかにしたのが本書である。
 優等卒業試験と訳されるトライポスとは何か。ケンブリッジ大学で学士号を授与する在校生の試験である。語源は、受験生が口頭試問の際に座る三本足の椅子に由来するともいわれる。元々数学トライポスのみが1780年代から存在した。後1810年代に法学にも拡大されたが貴族の子弟であること等の資格制限があった。1850年頃に制限が解除され、1860年代にモラル・サイエンスと自然科学のトライポスが始まる。二部に分かれ、パートⅠは、広範な基礎分野を対象とし、パートⅡは学生が選択した専門分野に特化した試験である。普通、3年間で取得し、2年かけてパートⅠかⅡを採り、残り1年で他のパートを取得する。一部の学科ではパートⅢもある。最高得点者は、第一位優等者、シニア・ラングラー(wrangler)、次点は第二位優等者、セカンド・ラングラーと称される。合格者であれば、最低得点者でも第三級合格者と呼ばれる。
 すでに教授就任時の『経済学の現在』において、マーシャルは、経済学を専攻するものが極めて少ないと嘆き、「このことの理由は、幾分かは、経済学がもっとも重要な役割をはたしている唯一のカリキュラムが、道徳科学の卒業試験のそれであるという事情であります」(マーシャル、1991p.28)とその理由を分析している。
 当初より、経済学はモラル・サイエンス(1854年創設?)(注2)のトライポスのパートⅡ及びそれから独立した歴史学トライポス(1867?)のパートⅡの選択科目の一つであった。1889年には、マーシャルは担当教授のシジウィックと交渉して、モラル・サイエンスのパートⅡでは、経済学を必須科目に格上げに成功する。それでも、経済学を専攻したい者にとっては、形而上学や中世史を学ばなければならない負担があった。学生時代に古典語の学習で苦しめられたマーシャルにすれば、学生を経済学学習に専念させるために、経済学トライポスを創設する必要を感じたに違いない。
 つとに、大陸諸国では、経済学は法律専門職や高位行政職に就くための資格試験の必修科目であり、特に独・墺では官吏養成のための経済学教育学制が整備されて来た。英国内においても、1900年にロンドン大学では政治経済学部(LSEの編入)が、1902年にバーミンガム大学では商学部が創設された。これらの動きにも刺激されて、マーシャルは、19024月に『経済学および政治学の関連分野におけるカリキュラム創設の訴え』の請願書を大学評議員会に提出した。
 大学での「近代的」な経済学教育が制度化されるのはマーシャルに始まるとされている。ここで、「近代的」というのは、教授一人が「経済学」を総論的に講義するのみならず、その原論講義を受けて、レクチャラー(講師)やチューター(カレッジ指導者)が、各論講義・論文指導を行う教育体制のことである(井上、1987p.249)。イギリスでは、大学は必ずしも経済学研究の中心ではなかった。教授職が設けられても、ドイツほど効率的でなく、政治的経歴のお飾りにすぎず、生活を保障するほどの給付もなかった。専門職を育てるというより教養与える教育で、現実の経済との関りも薄かった。マーシャルの教授就任以降も、長らく公式な(有給の)経済学担当レクチャラー職は認められなかった。トライポスの創設と近代的教育体制の成立が表裏の関係となっているのが判る。
 経済学カリキュラムの目的について、本書は、次のように述べている。「職業のための準備とは無関係に多くの人々に歓迎されると信ずべき勉学の機会を大学は提供すべきであると提唱する。しかし特に、理事会は二分類の学生を視野に入れた。第一に、職業的に経済学研究に生涯を捧げるつもりの人たち、そして第二に、ビジネスや公的職業の高級部門に職業を求める人たち」(本書、p.2)であると。「経済学の専門学徒」のみならず、職業に就こうとする人々に役立つとして、マーシャルが、1901年に同僚フォックスウェル宛手紙に添付した「経済学および政治学トライポス案」では、さらに詳しく、次の職業をあげた。(a)国会および地方の代議機関での仕事、(b)国内およびインドの行政官、外交官および領事、(c)公営・私営の大企業の高位の仕事、鉄道、海運、(d)ジェントルマンの勤め(duties of a country gentleman)、および(e貧民の奉仕、の職業に就こうとする人々(西沢、1991p.168)、である。
 実際の教育の中身を知るには、巻末に付されたトライポス試験の「問題の一覧」(The Schedule of Subjects:本書p.30-34)を見るのが、解り易いであろう。試験が自ずと教育の対象範囲を示していると思われるからである。まず、PART Iである。全部必須である。 

PART I 

  1. 論文の主題 1paper
  2. 現在の英国政治体制 1paper
  3. 最近の経済史および一般史 2papers
  4. 一般経済学原理 3papers 

「1.論文の主題」とは、論文を書くことを求め、その論題の一覧のようである。2~4は、問題のテーマであり、数学トライポスの実物(経済学は見つけられなかった)を参照するに、1paperに何問か列記されている。
 次に PART II

  1. 論文の主題 1paper
  2. 一般経済学 3papers
  3. 上級経済学、主として実際的 2papers
  4. 上級経済学、主として分析的 2papers
  5. 近代政治理論 1paper
  6. 国際法、現状の政治状況を参照して 1paper
  7. 国際法、現状の経済状況を参照して 1paper
  8. 法の原理 経済問題の適用として2papers
  9. 特殊問題 1paper

  1、2は必須。3~9の2つ以上5つ以下を選択。3、4、8を選択する時は、その1 paperだけを選ぶことはできず、2つとも選ぶ必要がある。政治学の分野が多いのは、この本の正式標題が『経済学および政治学の関連分野における新しいケンブリッジのカリキュラム』とされているように政治学を学ぶ学生も対象としていたからだろう。
 3、4が経済学の専門的教育に該当すると思われる。それは、次の4つの分野に分けられる。A.近代工業の構造と問題点、B.賃金と雇用状態、C.貨幣、信用および価格、D.国際貿易とその政策、である。 

 トライポス創設から1910年第中葉までのケンブリッジの経済学教育の陣容を見るに、教員に、マーシャル、フォックスウェル、WE・ジョンソン、ピグー、ケインズ、フエィ、レイトンの名があげられている(コラード、1997p.210)。このうち、フェィは経済史、ジョンソンは論理学者であるから、純粋の経済学者は5人か。マーシャルの教授職の他は、2つの公認ポストのみが経済学に割り当てられたにすぎない。ガートラーズ・レクチャラー職(1911年に初代ケインズ就任)とユニヴァーシティ・レクチャラー職(同年、初代レイトン)である(同、p.208)。フォックスウェルとピグーは、単なるフェローということであろうか。教授陣もこじんまりとしたものである。
 第一次世界大戦の影響があったといえ、経済学トライポスの発足によって、経済学の専攻者はそれほど増加したようには思えない。もっとも、ケインズのように公務員試験に専念して、マーシャルの勧めにもかかわらず、経済学トライポスを受験しなかった例もあるから、トライポスの受験者と専攻した学生は同じではないだろうが(さらにいえば、ケインズは経済学を教えたが、専攻したとはいえないかも知れない)。以下コラード論文(p.211)に付された図によるもので正確な数字は判らないが数えてみる。経済学トライポスの年間合格者は、第一大戦前のピークで30人弱、戦間期は10人程度、1921年は復員によるものか一時的に55人ほどの人数となるが、その後1545人くらいに減り、1929年になってやっと60人となりピークを更新する。「この事業において最も驚くべき事実の一つは、その数の少なさであり、これは学部学生の数が際立って増加した後年になってさえそうである」(同、p.208)。
 なるほど、経済学トライポスの合格者は少なかった。しかし、その目的の一つたる実業界・官界の幹部を養成するという点ではいざ知らず(注3)(ケインズの外務省A課の働きは一例か)、もう一つの目的たる経済学者を育てるということには成功したといえるだろう。「トライポスがケンブリッジの経済学者を造り出す機関として企画されたとすれば、それはどれほどの程度の功をなしたであろうか。決して悪くはない」(同、p.212)。合格者からは、ヘンダーソン、ロバートソン、ドッブ、ロビンソン夫妻等を輩出し、ケンブリッジ学派を形成したのだから。

((経済学の旧世代と新世代))
 1896年にケンブリッジの経済学クラブで行われた講演である。翌年「クォータリー・ジャナル・オブ・エコノミックス」に載せられた。ハーヴァート大学経済学部の紀要である。そのせいか、この抜き刷りは、ボストンで印刷となっている。 『経済学の現状』と『カリキュラム』の部分を書いている最中に入手したので、発行年順ではないが、最後に記す。

 マーシャルは、経済学者の「新世代」と「旧世代」という言い方を好んでしたそうである(西沢、2015p.30)。講演では、旧世代(19世紀)の経済学が定性的・質的分析に大きな進歩をあげたのに対し、新世代(20世紀)の経済学には定量的・量的分析の向上が必要であると訴えた。社会的進歩の目標についても論じている。大層読みにくい論文であるが、もう少し詳しい概要を以下に書く。

 マーシャルが経済学を学び始めたころ、経済学は現在(講演時)と比べ確信的であった。その確信は、ドイツ歴史学派の批判および、特に社会経済構造と政治思想の急速な変化により、凋落した。英国人は自分自身の経験によって大きく影響される。自らの限界を進んで承認するようになった。マーセット夫人やマルティノー嬢の信仰箇条や単純物語が、経済学の真理を語るような状況は、決して再び起こることはない。
 実際問題を一般的学説によって、即座に解決することはできない。考慮すべき事柄が極めて多いからである。それゆえ、科学的機関(machinery)の完成は、常識の役割を増大させる。それが働く環境の調査なしに、力の作用の結果を予測できないからである。原理の知識の増大は事実の研究を刺激した。19世紀末には、ますます、自然形態の多様性と原理の単純性の共存が承認されるようになった。特定の事実を他の特定の事実から直接推論することはできない。特定の事実から、一旦一般的な原理を通過することによって、他の事実を推論することができる。
 もう一つの進歩は、古典派経済学者思想の解釈上の熟練である。彼らが当然としていた潜在的な前提を補うことによって、それらが真の洞察者であることが知れるようになった。さらにそれ以上の進歩として、経済学は人間を全体として取り上げる認識が生れた。それに伴って、歴史に基づく研究するには、経済史以上の人間自身の歴史を必要とすることになった。それは、人間がある時点でどうであったかだけでなく、どのように発展してきたかを教える。将来の、特に社会改良に対する、人間の発展方向とその速度を理解する助けとなる。
 社会科学は統一に向かっている。自然科学は分子運動を支配する諸力に隠された統一(マーシャルが最初に研究しようとした学問?:記者)を求めつつあるが、社会科学は人間性の諸力の統一を求めている。政治史は著しく進歩し、経済史に大きな助力を与えている。
 古典派経済学者は、充分意識せずに、自然科学の成功の基礎となった知識の支配と同一のものを獲得するために働いた。傾向を推測するために、特定事実を研究する時に、既述の二つの大規準に従った。第一に、特殊から特殊に移る際に、一般という通路を媒介しなければならないこと。第二に、存在するものより、形成しつつあるものを学ぶことである。
 自然科学は、自然の傾向を記述する簡潔で正確な用語を作り上げて来たので、経済学者は近年それを借用するようになった。経済学者は、現代の知識の基礎に、事物の微小変化間の関係の研究(微分法?あるいは弾力性概念の如きもの?:記者)が存在する事を認識することになった。新しい方法は未完成で、新世代の学者の手に多くが残されている。
 技術的でなく一般的な性質に目を向けると、19世紀経済学は質的分析に大きな成果をあげたが、量的な分析は新世代の仕事として持ち越された。質的分析は、甲の点では利益を、乙の点では損失を生むことを教える。しかし、単なる質的分析は損益を通算してどうなるかを教えない。実際的な行動を決定するためには、同一尺度で計測し、経済力の合成的な動向を知る必要がある。そこには、法律的な制限はあるのだが。
 人々が現実に認める相対的な重要性と倫理的に認める重要性の区分がある。経済学者は、人類をあるがままに研究すべきで、非現実な、ありうる世界、あるべき世界を扱ってはならない。それは狂気を生む。社会の研究において、自らの意見による評価の偏向を無くす、それは不可能としても、できる限り少なくすることである。
 旧世代の経済学者も、真の展望を義務としたときは量的分析を追求していた。また、単純で身近な「見えるもの」だけでなく、遠くの不分明な「見えないもの」を強調した。そして、強力で声高な少数者より、不満を漏らさぬ声なき多数者を強調した。経済論争では、前者の例はしばしば生産者集団であったので、経済学者は後者である消費者集団の側に立った。
 量的分析の困難は、次の例に見られる。生産者が多数で消費者が少数であるから、消費者の利益は、生産者の利益に劣るという逆の主張である。それは、すべての人が消費者であり生産者(あるいはその雇用人)であるのに、消費者として多額の消費が可能な人々を、生産者として賃金労働者を想定している。働く人の利益は消費者の利益であるというより生産者の利益であるとの主張は作為的で、真実であることが稀である。それは、それらの量を探る正しい道を知らないからである。
 例えば、労働者は食物と衣類の消費者であることは知っていても、鉄の(間接的な:記者)消費者であることは知らない。鉄の安価は労働者の利益である。経済進歩は、賃金の購買力を大きく増やした。人々は進歩を当然と考え、それから生じた軽微な損害を堪えがたいと感じる。物事を、誤った比率で見がちである。これらの問題は、一部は推定によらねばならぬが、確実に算定可能なものもある。
 量的分析はアカデミックな経済学者の仕事である。算出した数字を恐れる階級的・個人的利害に関係しないからである。新世代の経済学者は、多数者の福祉は少数者の福祉より重要であるという労働者階級の立場に立つ。しかし、多数者自身の利益のために多数者に反対する行動を取る大胆さも必要である。人気の高い社会運動には批判的な立場をとり、保留の態度を保持する。流行中の予言(例として、団体交渉は個人交渉に取って代わる)に対しても、批判的でありたい。
 もう一つの困難は、自然の治癒力(healing force of nature)の作用の仕方に関する推定である。自然の治癒力が以前より活発になるのを発見するかも知れない。企業の規模が拡大するにつれて、権限と責任が、企業の所有者から、俸給を受ける支配人や職員に、全面的に移転してきている。このことは平均的な人間の徳性や公正さに大きな進歩があったことを意味する。なぜなら、17,18世紀になっても、大貿易会社の破綻は、大概、職員の腐敗と利己心に起因していたからである。そのような不正をしない人々も、新規の創意工夫の労を避け、安穏な日常を求めた。
 企業規模の拡大は、産業に増大する不調和を導入した。企業所有者が何らかの変更を試みる時は、それがもたらす利益の損得を考える。しかるに、支配人や職員にとって、変革は、苦労の割に、失敗すれば恥辱を受けるし、成功しても彼らの受ける利益は極めて小さい。最も快適で危険がないのは、改革のための努力をしないことである。利益は少ないが骨折りの多い独創的活動を忌避する官僚主義的慣行は、社会有機体を停滞させる可能性があった。大企業は社会の進歩に対して危険の源泉となったであろう。
 しかし、そのような傾向は部分的には緩和されている(これが治癒力か:記者)。規模の拡大は、経験的方法に代えるに、科学的な方法を採用するに至った。変革は金銭的報酬を生まないが、専門的な仲間内の賞賛を得られる。賞賛も一種の報酬である。それは、われわれの性格のなかで最高ではないが強力な要素である共感に訴えることにより、着実に機能することが期待できる。そのような力が、私的、物的利益を追求する粗野な力に代替する程度を数量的に研究するのは、新世代の経済学者にとって緊急かつ愉快な課題である。
 最後に要約に入る。経済学の真の研究者は、時に帰納的方法を用い、時に分析的方法(演繹的方法)を用いる。それぞれの研究は補完的で対立はない。旧世代の学者は、方法論争を経て、両方法の調和を確立した。しかしながら、量的方法については、充分な進歩が見られなかったものの、新世代の学者が研究すべき準備を整えた。
 社会的目標は時代により変化する、しかしその根底には基本的原理が一つ存在する。進歩は、社会の福祉のために、人間性の最強(最高ではない)の力をどの範囲までに利用できるかに依存するという原理である。能力の健全な行使と発展こそが、社会の福祉が依存するものである。われわれは、優れた仕事と新鮮な創意を、人々の共感と評価のもとに育てなければならない。新世代の学者は「あなた方の歴史の知識を、とくに同時代の歴史の知識を、また、あなた方の分析的な力と量的な尺度の力を、さらにあなた方の想像力と直観力を、本能と同情を、それ自身が喜びであり、また喜びの源泉である人間生活の創造のために、人間努力の産物の今日の浪費を活用するという、偉大な仕事に向けるように招かれております」(マーシャル、1991p.53)。新世代は、旧世代がその前の世代に勝っていたように、旧世代に勝るだろう。大企業の専門職において見られた協同と共感の力がどれほど一般人民に拡がるかを探求することを求められている。増大する知識と物質を利用して、品性を低下させるような仕事と生活を根絶せねばならない。人間の生活状態は突然の大きな改善はありえない。しかし、すべての人が高貴な生活を過ごせる機会を持てるという偉大な目標を目指して、人類は着実に前進を続けるだろう。

 『経済学の現状』は、パンフッレト程度(一応ハード・カバー)にもかかわらず、20万円ほどの高い古書価が付いている。他の二編は、市場に出ることが少ないので古書価は良く判らない。
 
(注1)井上琢智、1987、p.63-68を参照した。
(注2)資料(インターネット情報を含む)により年度が一致しないので、?を付した。
(注3)もっぱら、実業界幹部の養成を図ったバーミンガム大学商学部も、人材輩出に成功したとは言い難いようである。西沢1991年論文参照。

(参考文献)
  1. 井手口一夫 『マーシャル』 日本経済新聞社、1978
  2. 井上琢智 『ジェヴォンズの思想と経済学』 日本評論社、1987
  3. 井上琢智・坂口正志編著 『マーシャルと同時代の経済学』 ミネルヴァ書房、1993
  4. 岩下伸朗 『マーシャル経済学研究』 ナカニシヤ出版、2008年
  5. ケインズ 大野忠男訳 『人物評伝 ケインズ全集10巻』 東洋経済新報社、1980年
  6. コラード、ディヴィッド A. 「マーシャル以後のケンブリッジ」(J・K・ホイティカー編著 橋本昭一監訳 『マーシャル経済学の体系』 ミネルヴァ書房、1997年 所収)
  7. スキデルスキー、R 古谷隆訳 『ジョン・メイナード・ケインズⅠ 裏切られた期待/1883~1902年』 東洋経済新報社、1987年
  8. 西岡幹雄 『マーシャル研究』 晃洋書房、1997年
  9. 西岡幹雄 「マーシャル経済学の定着 ―『経済学の現状』にたいする評論を中心として―」 経済学論叢402)、p.318-3451988-11、同志社大学経済学会
  10. 西岡幹雄・近藤真司 『ヴィクトリア時代の経済像』 萌書房、2002年
  11. 西沢保 「アシュリー、マーシャルにおける経済学・商学教育の制度化 ―創設期のバーミンガム大学商学部を中心に―」、経済研究、42(2)、p.153-174、1991-04-15 、一橋大学経済研究所
  12. 西沢保 「マーシャルにおける経済学者の旧世代と新世代」経済学研究69(2)、p.29-59、2015-09、関西学院大学経済学部研究会
  13. 橋本昭一編著 『マーシャル経済学』 ミネルヴァ書房、1990年
  14. マルクス 向坂逸郎訳 『資本論 第三巻第二部』 岩波書店、1967年
  15. マーシャル 永澤越郎訳 『経済論文集』 岩波ブックサービスセンター、1991年
  16. マーシャル 杉本栄一訳 『マーシャル 経済選集』 日本評論社、1940年
  17. ロバーツ、R./カイナストン、D.編 浜田康行他訳 『イングランド銀行の300年』 東洋経済新報社、1996年
  18. Pigou, A.C. ed, Memorials Of Alfred Marshall、Macmillan, 1925

     
        (左から、『経済学の現状』、『カリキュラム』および「新世代」)

 (2018/7/18記)


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