TORRENS, R. ,
An Essay on the Production of Wealth; with an Appendix, in which the Principles of Political Economy are applied to the actual Circumstances of this Country., London, Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown, 1821, pp.xvi+430, 8vo.

 トレンズ『富の生産試論』1821年刊、初版。
 著者略歴:Torrens, Robertロバート・トレンズ(1780-1864)。経済学をはじめとする著作家、軍人、国会議員、新聞経営者、植民政策家と多彩な活動家である。 同名の牧師の長子として、アイルランドのデリー州(現北アイルランド、ロンドンデリー)に生まれる。1796年16歳にして海兵隊(Royal Marine)に入隊、職業軍人として歩みを始める。海兵隊という兵種は解りにくい。思いつくのは勇猛な、米軍のものである。米軍では海兵隊というのは陸軍・海軍とは別の軍となっている。まずは、陸上戦闘のための海上勤務兵士の軍隊と考えてよかろう。旧日本軍には海軍陸戦隊というのがあったが、それに近いものであろう。軍籍には1834年まで40年近く在し、少佐で退役(名誉中佐に補される)。英国では、少佐は地元の名士のイメージであるとか。退役してもトレンズ少佐と称されるのは、我が国の白瀬中尉や郡司大尉と同断だろう。軍人としては、カテガット海峡(デンマークとスェーデンの間)のアンホルト島の駐屯部隊長(デンマーク領なるも1908-14年英が占領)として、寡兵でデンマークの大軍を撃退したこと(1811)で知られる。
 アンホルト島守備の無聊を慰めるためアダム・スミスを読んだといわれる。1808年『エコノミスト論駁』で経済学者としてデビュー。ここでいうエコノミストは重農主義者のことであり、イギリスの重農主義者に対して自由貿易を主張したものである。1812年『貨幣および紙幣論』を出版。1815年には彼の代表作の一つである『穀物貿易論』が出る。差額地代説や比較生産費原理の叙述も含まれており、リカードに高く評価されたものである。5版(1929)を重ねる。公務の間に経済学の研究に励みパンフレットや評論を執筆、王立協会(the Royal Society)の会員(Fellow)に選出された(1818)。彼の著作の著者肩書は、多くF.R.S.と書かれており、誇りとしたものであろう。軍籍にありながら、政治活動も行い(この点で宿敵ともいうべきコベットCobbetの批判を受ける)、1817年には早くも下院議員に立候補するも、落選。その後も、当選後の失格を経て、1832年ようやくマンチェスター近くのボルトン選挙区で議席を獲得する。35年に落選するまで議員活動は続いた。
 1820年頃(彼の活動の中期とされる)、ホイッグ党急進派の新聞紙『トラヴェラー』の経営者の一人となり(軍籍にあるため弟名義で所有)、編集に携わる。経済問題に紙面を割き、トレンズによる経済学新著の評論も掲載されるようになった。この夕刊紙は幾つかの他紙を吸収し、『グローブ・アンド・トラヴェラー』となって、日刊紙としてイングランド第二の発行部数を誇るようになった。1821年刊の本書『富の生産試論』は、主著ともされる経済学全般を扱った著書である。同年、当時の著名経済学者を網羅した経済学史上有名な「経済学クラブ」がロンドンで創設される。トレンズは創立に加わり、第一回会合で議長を務めた。例会の雰囲気は、リカード・父ミルの意見にマルサス・カゼノウヴ(Cazenove)(注1)の見解が対峙し、そのどちらにも反対していたのが、トレンズとトゥックだとの記録が残っている。
 トレンズの議会活動は、素志の自由貿易の主張が中心だったとはいえ、結果的には低調なものであった。それでも、そのなかから彼の後期(1830年以降)経済学の主要領域が立ち現われてくる。第一は、貨幣および銀行理論の分野である。英蘭銀行の特権の更新を議会で論じたことは、1837年の『メルボルン卿宛書簡』に繋がる。これは、英蘭銀行の発券機能と銀行機能を分離することを最初に主張したことで重要である。また、『ピール条例の原理と運用』(1848)によって、通貨論争の通貨学派のリーダーとして名声を確立した。中央銀行として英蘭銀行の最大の義務は、貨幣制度安定のため、銀行券発行に十分な金地金を準備、維持することにありとした。何といっても、当時トレンズの名声は、通貨・銀行の部門の上にあり、経済思想史上での地位においても同様である。
 第二は植民問題である。彼のなした最長の議会演説は、海外移民問題であった。経済危機の原因である過剰人口を、人手の足りぬ植民地への移住で解決しようというのである。彼はウェークフィールドと協力して「南オーストラリア土地会社」を設立した(1831)。南オーストラリア州設立委員会の議長にもなった(後いざこざで辞任)。この系列の著作としては、『南オーストラリア植民論』(1835)が知られる。現在も、アデレード近くに、トレンズ川、トレンズ湖の名を留める。1864年ロンドンで死去。リカード・マルサスとも交わった古典派経済学者でありながら、ミル『経済学原理』出版の10年後まで100編近い論文・著作を発表し、限界革命の直前まで生き延びた
 ながらく二流(以下の)経済学者とみなされていた。彼を忘却の淵から浮かび上がらせたのはセリグマン『忘れられた経済学者たち』(原著1903年)で、トレンズを紹介する文章には、枕としてセリグマンが引き合いに出されることが多い。ついで、巨匠ロビンズが『ロバート・トレンズと古典派経済学の進化』(1958)で取り上げた。今日では、リカード、マルサスとJ.S.ミルを結ぶ古典派経済学者として、シーニアと肩を並べるほど評価が上昇しているのではないかと思う。
 セリグマンは、トレンズの功績として次の5点を挙げている1.マルサス、リカードと独立して地代法則を発見した。2.賃金が生活水準に影響されるという理論を提起し、リカードに継承された。3.通説では、リカードに帰せられる比較生産費法則を発見した。4.利潤と賃金は逆に変動するとするリカードよりもいちじるしく真理に近い利潤論を提起した(注2)、ことである。これでは、リカードより独創的だと思えそうであるが、一般理論における彼の成果は「評価するのは困難である。というのは、トレンズはその定式化においてそそっかしく、また<経済学>の立派な技術者でもなかったし、玉石を混交して一緒くたに万事を提示しているからである[中略]、1890年頃リカードの讃美者がリカードためになしたところを、彼のためになすような解釈家が彼には必要である。かような解釈家が現れて成功するまでは、[中略]リカードやマルサスに伍して、彼を「古典派の建設者」の一人に数えることには、少なくともその機が熟していないのである」(シュムペーター、1957、p.1033-1034:一部変更)ということであろうか。
 トレンズ自身は、リカード『原理』(初版)に自分のアイデアに由来する論議があるにかかわらず、自分の名があげられていないことに不満であったし、差額地代説の優先権を主張したりしている(『穀物貿易論』重版、序文)。しかし、晩年にはリカードの不滅の理論を使用しながら、借り物の理論をあたかも自分で創造したような自己欺瞞にふけっていたと悔悟していた(久松、2015、p.86)。

 残念ながら、参照できるトレンズに関する邦語文献は少ない。この『富の生産試論』についても、部分訳ともいえぬような、小部分が紀要に邦訳されているだけである。それを見る限り、独創的な議論があるとも思えない。また、トレンズを扱った邦語論文は、彼の伝記的な事実と価値論についてのものにほぼ限られている。その価値論も彼の著作段階によって変遷している。そこで、以下では本書全般の内容紹介を諦める。ずっと内容を絞って、昔から気に掛かっていた点の周辺を確認したノートのようなもの書いてみた。
 記者がトレンズの名を初めて知ったのは、たぶん学生の頃だと記憶する。テキストとして使われていたスラッファ『商品による商品の生産』を通じてである。スラッファは、生産方程式体系へ固定資本を導入するに際して、結合生産の考えを用いる。普通結合生産といえば、羊毛と羊肉、小麦と麦藁のように、生産過程から複数の生産物が生産される場合である。スラッファは、生産設備が、原料、労働と同時に生産に投入されるに際しては、生産設備の減価償却分が生産物に移行するとの考えを取らない。結合生産の考えを応用して、耐久的生産設備は、投入面では、生産期間(1年)で完全に消尽されるものとし、産出面ではいわゆる「生産物」と結合して一期古くなった生産設備が同時に生産されると扱うのである。
 『商品』巻末付録四で、スラッファ(1962、p.157)はいう、「固定資本のうち年末に残されたものを一種の結合生産物として扱うという工夫は、産業生産の不断の流れを背景にしてみれば人為的なもののようにみえるかも知れない。しかし、それは容易に農業体系の古典的図式にはまり込むものである。[中略]この工夫は、リカードの学説を批判する途中で、トレンズによって最初に導入された」。そして、この方法は、リカード『原理 第三版』、マルサス『価値尺度論』、マルクス『資本論』でも採用されたが、その後は忘却されたと結んでいる。なるほど、このような工夫があるのかと感心し、トレンズの名と共に、四十年の星霜を経て未だ記憶の端に留まっている。

 アダム・スミスは、『国富論』で初期未開の社会と、資本蓄積さらには土地私有がなされる社会とでは、交換価値の原理が異なるとした(第一篇第六章)。価値論の社会区分において、スミスの二段階区分に対し、トレンズは本書では三段階区分を取っている。第一段階は、「分業の永続的確立に先立つ初期社会の時代」(本書、p.17:以下本書からの引用は頁のみ表示)であり、第二段階は、「頻繁に行われる交換が、次第に永続的な分業をもたらす」(p.19)社会状態。ただし次の第三段階までには、至っていない。第三段階は、「資本が蓄積され、資本家が労働者と明確に区分された階級となり、どの産業部門を手掛ける人も、自ら仕事を遂行することをしないで、他人に賃金材や原料を前貸しする」(p.34)時代である。
 第一段階は、初期未開の社会である。「この粗野で初期の状態においては、それゆえ、交換価値を規制あるいは決定する確固たる基準はなかったであろう。偶発的に行われる物々交換の条件は、連続した事例にあっても、契約当事者の喫緊の欠乏や欲望に影響された」(p.19)。
 第二段階は、分業は確立されてはいるが、資本制は確立していない。「かかる社会の初期段階では、等量の労働が投下された物品は、相互に等価であろう」(p.25)。特定の職業に従事する個人は、自己の労働の余剰物と交換に得られるものは、彼自身が当該他職業を兼務したとする場合と同じく、他人が同じ労働量を使って生産できる物の量に違いない。分業は全体の生産物を増加させるが、その利益は各生産者間の交渉により均等に配分される。「特定職業への専業化が始まるや、分業の利益にあずかろうとする競争が、個々商品の交換価値を決定する」(p.20-21)。ただし、「ある職業の一日労働の生産物は、別の職業の一日労働の生産物に等しいことは、全労働が消費商品を獲得するために即時的かつ直接的に使用されるか、その一部が商品生産に必要な資本を獲得するために事前に使用されるかにはかかわらない」(p.22)。「交換条件を調整するに当たっては、資本を準備した労働は、実際に適用された労働と同様に、勘定に入れられる」(p.23)。「明らかなことは、このように、労働者階級が資本家から区別される以前、労働者がその使用する資本をすべて用意する時、直接適用された労働のみならず、資本に蓄積された労働を含む、生産に費やされた全労働量が、所与の他商品に対して交換されるべき一商品の量を決定する」(p.24-25)。直接労働のみならず、間接労働を含めた投下労働価値説が成立する社会である。
 第三段階は、「先進的で複雑な社会の段階」(p.25)である。「資本家が労働者と区別された一階級と成る時、同一資本すなわち同量の蓄積資本の使用の結果得られるものは、交換価値において等価となるだろう」(p.26)。ここで、蓄積資本とは使用総資本量のことを意味している。「競争という絶えず作用する掟が、恒に資本を最も儲かる方面に投下したい利己心に導かれ、不可避的に」(p.27)、同一使用資本同一価値生産物の原理を実現する。資本家の利潤を求める競争が、産業間の利潤率均等化を通じて導かれる原理である。そして、「等価の資本でも、耐久性の程度が非常に異なるものからなっているかもしれない。しかしそうだったとしても、同量の資本を使用した結果得られるものは同交換価値であるという我々の一般原則の例外とはならない」(p.28)。
 要するに、交換が普遍的となって以来、交換価値原理は、前資本主義社会では生産に要する投下労働量により決定され、資本主義社会では利潤の発生のため使用資本量により決定される。後者の原理は、資本がいかなる固定資本・流動資本の構成割合であっても、原理は不変であるとするのである。
  まず、後者の原理を説明するために、トレンズが最初にあげた例(その他の例は重要でないか、混乱しているため省略)を見る(p.28-29)。

 羊毛製造業と絹製造業が各々£2,000の資本を使用する。羊毛業者は耐久機械(durable machines)に£1,500、賃金・原料(wages and materials)に£500使用する。絹業者は、耐久機械に£500、賃金・原料に£1,500を使用するものとする。いま、固定資本の1/10が毎年消費され、利潤率が10%とする。製造期間(1年)の固定資本消耗額は、羊毛業者£150、絹業者£50である。両業者の使用総資本は£2,000で同じであるから、利潤は各々£200となる。
 同資本使用の結果は、同交換価値を生む。ただし、重要なのは、生産物と生産に使用した固定資本の残存部分(residue)を併せた価値で見ることである。両業者の価値の明細を示す。

 (羊毛製造業:単位£、以下同様)
生産物価値850=固定資本消耗価値150+賃金・原料500+利潤200
固定資本残存価値1,350= 期首価値1500−消耗価値150
保有価値総額2,200=生産物価値850+固定資本残存価値1,350
 (絹製造業)
生産物価値1,750=固定資本消耗価値50+賃金・原料1,500+利潤200
固定資本残存価値450= 期首価値500−消耗価値50
保有価値総額2,200=生産物価値1,750+固定資本残存価値450 

単位£ 耐久機械 賃金
原料
投下資本
利潤 生産物
価値
機械
残価
保有価値総額
期首価値 消耗価値
羊毛製造業 1,500 (150) 500 2,000 200 850 1,350 2,200
絹製造業 500 (50) 1,500 2,000 200 1,750 450 2,200

 等しい総資本を使用して生産した両製造業者の保有価値総額は、等しい。
 トレンズは書いていないが、両業者の消耗率(償却期間)が異なっても、この原理は当然成立する。製造期間の期首の価値が、二分されて生産物価値と機械残価に分割されるだけで、双方に移行した価値の合計は期首価値額のままであるからである。たとえば、羊毛製造業の固定資産消耗率が1/5、絹製造業が1/10とした場合の数値は次のとおり。

単位£ 耐久機械 賃金
原料
投下資本
利潤 生産物
価値
機械
残価
保有価値総額
期首価値 消耗価値
羊毛製造業 1,500 (300) 500 2,000 200 1,000 1,200 2,200
絹製造業 500 (50) 1,500 2,000 200 1,750 450 2,200

 こうして、同資本価値で生産したものは、固定・流動資本の構成割合にかかわらず、生産後の保有価値総額でみれば、同交換価値を持つことになる。これは、「資本価値説」とも呼ばれる。
 一般式で考えると、期首に総資本K(固定資本F+流動資本L)を使用して、固定資本償却n年(単純償却)、利潤率rで生産した後の生産物価値V、保有価値総額Sの関係は、
  V=L+F/n+rK        (1)
  S=K(1+r)=L+F+rK   (2)
となる。

 さて、トレンズは、価格には、市場価格と自然価格との二種類があるとして、独自の定義をしている。「市場価格とは、その用語が十分示しているように、市場において交換の方法によって、ある商品を得るために我々が与えるところものである。:自然価格は反対に、自然という大倉庫から欲する品物を得るために、我々が与えねばならぬもの、すなわち生産費と同じものである。[中略]市場価格は、いつも時々の慣例の利潤率を含まねばならない、さもなければ産業は停止するだろう。;しかしながら、自然価格は生産費、すなわち別の言い方では商品を産出、製造するのに費やされた資本からなり、利潤率を含み得ない。それゆえ、市場価格は、自然価格に一致するというより、慣例の利益率だけ上回るのである」(p.50-51)。最後の箇所は、スミスのごとく市場価格は一時的なもので、自然価格は絶えずそこに向かう中心点であるという定義とは異なっている。利潤は、「本質的に、生産費すなわち別の言葉でいえば前払い資本(capital advanced)を補填するに必要以上かつ超過する余剰―新創造物―である」(p.54:下線引用者)。要するにトレンズの自然価格は生産費であり、市場価格は自然価格(生産費)プラス(慣例の)利潤率である。
 こうして、トレンズは自然価格と市場価格を峻別したにもかかわらず、「自然価格において等しい物品は、平均して、市場価格においてもまた等しくなるだろう」(p.55)とするのである。その意味するところは、市場価格は自然価格に比例するということであろう。トレンズが、その理由とする所を列挙する(p.55)と以下のとおりである。
 1.第三段階では、自然価格=生産費は、生産に使用される資本から構成される
 2.既述のように、同資本を使用した商品は、同交換価値を持つ
 3. 同交換価値、すなわち同購買力を持つ商品は、同市場価値を持つ
 よって、同自然価値を持つ商品は、同市場価値を持つ
 ここでは、資本の意義に混同があるのではないかと思われる。1.での資本は彼の言う「前払い資本」(上式L+F/n)の意味であるし、2.での資本は総使用資本Kの意味である。しかも、2.が成立するのは、保有価値総額で見る場合である。「自然価格において等しい商品は、市場価格においても等しくなる」ことは、一般には成立しない。
 そこで、トレンズがいう、「自然価格が等しければ市場価格も等しくなる」ことをもう少し検討してみる。それは、市場価格が自然価格に比例することを意味していよう。そして、トレンズによれば、自然価格は生産費であり、市場価格は、自然価格に利潤率を上乗せしたものであるという。自然価格は、(単位当たりの生産物でみると)「前払い資本」(L+F/n)、市場価格は上式(1)で表現できるから、自然価格・市場価格均等条件は、αを比例定数として、
  α(L+F/n)=L+E/n+rK
 となる。K=L+F を考えると、
  (α―1)(K−F+F/n)=rK
 となり、両辺をKで除して、n>1 を考慮して式を整理すると、
  F/K(1−1/n)=1−r/(α―1)・・・・一定
 よって、均等条件は、各生産物(添字で表す)において、
   Fi/Ki(1−1/ni)=Fj/Kj(1−1/nj
 Fi/Ki=fi 、Fj/Kj=fj とおけば、
   fi(1−1/ni)=fj(1−1/nj)     
 が成立する特殊な場合に限られることが判る(注3)。

 本題に戻って、素人の素朴な疑問を述べる。トレンズといえば、ふつうリカード価値論の批判者として評価されている。投下労働価値説が資本主義社会で成立しないことを直接説明する彼の設例は、投下労働と支配労働が混同されていたり、可変資本の二重計算がなされていて、解りにくいので省略した。投下労働価値説を否定した上で、資本価値説という彼の積極的な主張をしているのである(例示では順序が逆になるが)。資本価値説が正当であることは、リカードも「この命題の正しいことを疑う者は誰もいない」と認めている(サラッファ編、1970、p.469)。ただ、資本価値説の資本量は何を意味するか。それは、労働量のことであるとするリカード自身(前の引用直後の文章箇所)やマカロックらの批判がある(久松、2007、p.45)。資本価値説は一種の労働価値説に過ぎないとの批判がなされているのである。
 そこで、この批判を逆に積極的に捉えたらどうなるか。トレンズ自身は、リカード価値論批判の延長で資本価値説を唱えたにとどまる。結合生産という考え方も前面に出ていない。しかしながら、トレンズの考え方をもとに、先に引用したスラッファのごとく、固定設備を1年で消尽されるものとし、生産後の固定設備を結合生産物と考え、使用総資本を投下労働と見做すとすると、投下労働価値説が、スッキリ説明できるように思える。
 リカードは、『原理』のなかで、「諸商品の生産に投下される労働量がその相対価値を左右する原理は、機械およびその他の固定的かつ耐久的資本の使用によって、相当に修正される」(第3版第1章第4節標題)とし、「価値が賃金の上昇または低下とともに変動しないという原理は、資本の耐久性が不等であること、および資本がその使用者の許に回収される速度が不等であることにもまた修正される」(同第5節標題)と記している。すなわち、投下労働価値説は、諸生産業の@生産に要する固定・流動資本比率A固定資本の耐久性B流動資本の回収期間、が異なる場合、投下労働量で価値は決定されず、修正が必要になるというものである。
 結局、リカードの価値修正論は、平均利潤率の成立を通じて、「商品が市場にもたらせうるまでに経過しなければならない時間の[相違の]ために、それらの商品の価値は、それに投下された労働量に正確には比例しないであろう」(スラッファ編、1972、p.38)結果となるのである。
 そこで、(1)トレンズのように固定資本設備を生産期間(1年)内に消尽されると見做せば、固定資本・流動資本の区別もなくなる。すべての生産要素(機械設備、原料・労働)の価値(費用)は、生産期間内に投入される量で統一され、時間要素の差異という問題は生じない。正確を期せば、賃金・原料費等の費用は生産期間必要分を期首に支払い、生産設備も期首に消尽されると仮定されることになろう。さらには、(2)生産期間内で消耗し価値の減じた後の残価値を持つ耐久資本設備を、いわゆる「生産物」との結合生産物ととらえ、(3)投下労働価値を使用総資本と解釈するならば、「投下労働価値説」が素直に成立するように思われるのだが、どうだろうか。重ねていうが、もちろん、トレンズにおいては、スラッファのごとく、耐久資本設備が1年で消尽されるとも、生産後の資本設備を「結合生産物」とするとまでは、明確にはいっていない。
 使用生産設備(固定資本)の価値を償却分ではなく、設備全部の価値で計算し、これと流動資本の合計すなわち使用総資本を投下労働量とし、製品と期末の生産設備を結合生産物として産出物とする。産出物の価値の合計は、投下労働量プラス利潤(剰余価値)となる。利潤は全製造業で一定だから、産出物の価値は投下資本量に比例する。よって、投下労働を使用総資本と解釈するなら、結合生産物について投下労働価値説は成立する。期首の固定資本の価値が、期末の固定資本の価値と生産物価値(の一部)に分解するだけで、その合計は不変だからである。この場合、生産設備は前年に製造されたものとして、その期首価値を前年の投下労働量でとらえようが、利潤を加えた支配労働量でとらえようが、どちらかに統一すれば結果は同じことである。
 トレンズの「資本価値説」をこのように、積極的に一種「投下労働価値説」に拡大解釈することは、間違いであろうか。いずれにせよ、わたしには、トレンズのアイデアは中々のもののように思える。しかしながら、このアイデアを積極的に評価・発展させた文献はみられないようである。最近の本(中村、2009)でも、リカードとトレンズの「論争」は、本書以前の1818年のトレンズ「リカード価値論批判」を中心に取り上げられていて、この辺の説明はない。
 トレンズのこのアイデアも、その後の経済学者によって、発展させられることなく忘れ去られたといったが、少数の学者によって取り上げられてはいる。最後に、スラッファの注記に従い、同様の考え方を採用した例を確認しておく。
1.リカード『原理 第三版』
 100人を1年間雇用して1台の機械を製造し、翌年にその機械を使用して、さらに100人の援助を得て製造した「財貨と機械を合計したものは、[中略]むしろ、二年間にわたる100人の労働の結果であろう」(スラッファ編、1972、p.37-38)。
2.マルサス『価値尺度論』
「諸商品が大量のきわめて耐久性のある固定資本の助けによって得られる場合には、前払いはたんに部分的に消費されるにすぎない、したがって、使用された蓄積労働と直接労働との総生産物は、得られた新生産物と、固定資本のうち消費されない残りの部分との合計からなると考えなければならない(原註)。
(原註)この点は、トランズ大佐が、「富の生産」(第一章二八頁)のなかできわめて適切に述べている」(マルサス1949、p.20)。
3.マルサス『経済学原理』第二版
 「使用される固定資本を前払い資本の一部として勘定するなら、年末におけるこれら資本の残存価値を毎年の収入として勘定しなければならないことに、読者は気付かれるであろう。この種の修正なしでは、最大の固定資本を適用する、生産物価値に比べて固定資本量が最大になる、産業部門は、利潤率が最低になるように見える。しかしながら、当然資本家は使用する資本の全体を前払い資本と考える。それでも、実際には、毎年の前払いは、流動資本と、利子を乗せた固定資本の損耗分、および毎年の支払いに必要な貨幣からなる流動資本の一部分の利子より構成される」(Malthus,1935,p.269)。
4.マルクス『資本論』
 「生産物価値と比較されるものは、その生産物価値が形成されるとき、消耗されてしまった生産要素の価値である。ところが、使用された不変資本のうちで、労働手段から成り立つ部分は、その価値の一部分を生産物に移すのみで、他の部分は、そのもとの存在形態で存続する、ということを見た。後者は、価値形成においてなんの役割も演じないのであるから、ここでは考慮されないでよい。それを計算に入れても、変わりないであろう。かりに、410ポンド・スターリングのc[不変資本:引用者]は,312ポンドの原料,44ポンドの補助材料、過程において摩損する54ポンド機械装置、から成り立っているのであるが、現実に充用された機械装置の価値は1054ポンドであるとする。生産物価値の生産のために前貸しされたものとしては、われわれは、機械装置がその機能によって喪失し、したがって、生産物に引き渡す54ポンドの価値のみを計算する。もし、蒸気機関、等々として、元の形態で存続する1000ポンドを算入するとすれば、それを双方の側に、すなわち、前貸しされた資本の側と生産物価値の側に参入せねばならず(原註あり。マルサス『経済学原理』第二版の引用がある:引用者)、かくして、それぞれ1500ポンドおよび1590ポンドを得るであろう。差額、すなわち剰余価値は、依然として90ポンドであろう」(第一巻第三篇第七章(注4)、訳は向坂逸郎による)。
 なお、スラッファは、『剰余価値学説史』におけるトレンズからの引用にも触れているが、そこには特段の内容はないと思う。
 マルサスによって少し詳しく取り扱われているが、いずれも軽く触れられる程度である。その後、トレンズのアイデアを発展させようとする試みは見られない。あるいは、私の調べが及ばないだけか。
  
 英国の古書店からの購入。トックヴィル全集の編者であり、研究家であったJ.P.Mayerの旧蔵書。彼の空押し印(blind stamp)あり。National library clubの Gladstone library蔵書票も貼付。セリグマンの『忘れられた経済学者たち』に取り上げられた本は、みな高価である。価値のない本として早くから散逸してしまったせいか、あるいはセリグマンの評価が値を高めたのであろうか、よく解らない。

(注1)カゼノウヴは、トレンズ以上に忘れられた経済学者である。出雲雅志(2000)の紹介がある。
(注2)セリグマン、1955、p.21以下
(注3)南方(1958)を参照した。市場価格(V:上式1)が、使用総資本量K(あるいは保有価値総額S)に比例する――投下労働価値説の一種であろう――とした場合も、同じ条件が導出できる。
(注4)スラッファは、第一巻第九章第一節としているが、これは英訳本が第四版をもとにしているためであり、邦訳はディーツ版をもとにしているためだと思う。

(参考文献)
  1. 出雲雅志 「もうひとりの「異端者」ジョン・カゼノウヴ」 (中矢俊博・柳田芳伸編 『マルサス派の経済学者たち』 日本経済評論社、2000年 第3章)
  2. 河合康夫「ロバート・トレンズの政治活動 −1830年代前半ボルトンでの選挙活動を中心としてー」 (飯田裕康他編 『マルサスと同時代人たち』 日本経済評論社、2006年 第11章)
  3. 小林時三郎 『古典学派の考察』 未来社、1966年
  4. シュンムペーター 東畑誠一訳 『経済分析の歴史 3』 岩波書店、1957年
  5. 杉野圀明 「翻訳 R・トレンズ「国内貿易について」」 、『立命館経済学』、26(1)、185-239、1977-06
  6. セリグマン 平瀬巳之吉訳 『忘れられた経済学者たち』 未来社、1955年
  7. アダム・スミス 大河内一男監訳 『国富論 T』 中公文庫、1978年
  8. ピエロ・スラッファ 菱山泉・山下博訳 『商品による商品の生産』 有斐閣、1962年
  9. スラッファ編 堀経夫訳 『リカード全集T』 雄松堂書店、1972年
  10. スラッファ編 玉野井芳郎監訳 『リカード全集W』 雄松堂書店、1970年
  11. 中村廣治 『リカード評伝』 昭和堂、2009年
  12. 堀經夫 『リカアドウの価値論及びその批判史』 評論社、1950年
  13. マルクス 向坂逸郎訳 『資本論 第一巻』 岩波書店、1967年
  14. マルクス 大内兵衛・細川嘉六監訳 『剰余価値学説史 第三分冊』 (マルクス=エンゲルス全集 第26巻第三分冊) 大月書店、1970年 
  15. マルサス 玉野井芳郎訳 『価値尺度論』 岩波文庫、1949
  16. 南方寛一 「トレンスの価値論」 国民経済雑誌 97(3):15-30、1958-03
  17. 久松太郎 「R.トレンズの投下労働価値説批判」 、『経済学史研究』49(1)、37-52、2007-06
  18. 久松太郎 「古典派経済学者の知的交流 −ロバート・トレンズの生涯とその著作―」 、『国民経済雑誌』 210(5)、67-95、2015
  19. Malthus,T.R. Principles of Political Economy 2nd.ed. ,London,1836

    マルサス『経済学原理 第二版』は、邦訳(依光良馨訳)があるが近くの図書館にないため、原文から私訳した。




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(2016/1/30記)



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