THOMPSON, W. , An Inquiry into the Principles of The Distribution of Wealth most conductive to Human Happiness; applied to the newly proposed system of voluntary equality of wealth., London, Lomgman, Hurst, Rees, Orme, Brown and Green, 1824, ppxxiv+600, 8vo. ---------------- ,An Inquiry into the Principles of The Distribution of Wealth most conductive to Human Happiness.; A new edition by Willam Pare, London, Wm. S. Orr and Co., 1850, ppxxxii+463, 8vo. ウィリアム・トンプソン、William Thompson (1775-1833) 『富の分配の諸原理』1824年刊初版、およびウィリアム・ペア編1850年刊新版。著者の表記は、トムソン、タムスン、トンプスンとも。ここでは、鎌田に従いトンプソンとする。以下引用文中の表記もトンプソンに統一する。本書の正式標記は、『人間の幸福に最も貢献する富の分配の諸原理についての研究―新たに提唱された富の自発的平等制度への応用』である。 著者略歴:アイルランド南部の大都市コークCork生まれ。名門の大地主の家系である。父親は州長官や市長も務める。39歳の時父親の死去により、小商船隊と家業と1,400エーカーの土地を相続した。自らを、他人の労働生産物である地代に寄食してきた有閑階級の人間である、としたのはこの故である。 進歩思想に興味を抱いて大陸を旅行し、フランスではサン・シモン主義者と交流し、シスモンディの著作を研究した。1819年、当時のアイルランド教育制度を批判する文章を雑誌に発表するにあたり、ベンサムの教育論を研究した。これを機にベンサムとの交流が始まり、1822年にはロンドンのベンサム邸に滞在する。この時、経済学者のトレンズ、ジェームス・ミルを知った。主著である本書のあらましが出来上がったのもこのころである。上京直前、オウェンがアイルランド訪問した際に、オウェン主義にも目覚めたとされる。 本書上梓の後、翌1825年にはジェームス・ミル「統治論」を批判する女性解放思想の書『人類の半数である女性の訴え』を出し、1827年にはホジスキン『労働擁護論』の資本主義批判に同感しつつもホジスキンの前提とする自由競争社会を批判した著書『労働報酬論』を出版する。 次第に,オウェン流の協働組合運動に傾斜するようになったトンプソンは、機関誌への寄稿、組合大会の議長や委員を務めるようになり、J・S・ミルからは「協働組合サイドの闘将」と呼ばれるようになる。1830年には相互協働社会建設の実践的マニュアル『共同社会の迅速かつ経済的な設立のための実践的指針』を出版している。 1833年コーク西郊ロスカーバリーRosscarberyの自宅で死去。彼の遺書には広大な地所を協働社会建設のために寄付すること、遺体を解剖のために献体することが書かれていた。後者の遺言はただ、博物館での展示のため骸骨の返還(これが本当の「骸骨を乞う」である)を条件としていた。当時は死刑囚以外、解剖されることはほとんどなく、無知な所有地農民の反対があったが、実施された。しかし、前者については、親戚の異議により訴訟となり、結局実現できなかった 蒲柳の質の故もあったろうが、生涯の最後の20年は菜食主義者で禁酒家(煙草も毒物と書いている:トンプソン, 2011, 2.p.355; 以下邦訳からの引用は頁数のみを表示)であった。あまりに謹厳実直居士であるゆえに、婦人解放運動の協力者ウィーラー夫人(J・S・ミルのハリエット夫人に該当)との下世話な関係を想像したくなるのは下司の勘繰りか。 いわゆる「リカード派社会主義」の著書。この名称はフォックスウェルが用いたのを嚆矢とするのが定説である。アントン・メンガー『労働全収権史』の英訳本に付した彼の解説で使ったものである。フォックスウェルによれば、リカードの著作から受ける印象は次のようなものである。富がほとんど全く労働に依存するにもかかわらず、その大部分が地代・利子等の形で不生産階級に取られてしまうと。このことにリカード派社会主義者は影響を受けたとするのである。トンプソンも、またしかりとする。そして本書「前書き」で「われわれの目的は、社会科学に政治経済学の論証された真理を応用して、これらとその他のすべての分野の知識を、人間の幸福にもっとも貢献する富の正当な分配に役立てることである。」(1.p.xi;下線は引用者)と記されたことをあげ、「政治経済学の論証された真理」とは、リカード学派の学説のことであるという(フォックスウェル, 1954, p.43)。しかし、これはちょっと読込み過ぎではないかと思う(注1)。 ずばり『リカード派社会主義』(1911)という標題の著者であるローエンソールは、これらの派に属するとされる社会主義者が、特にリカードの学説から感銘を受けたとの証拠はないとしている(平尾, 1975, p.124)とのことである。他は知らず、ことトムプソンに関してはローエンソールの考えが妥当ではないか。 ベンサムの功利原理がトンプソンの指導原理であり、「彼はベンサムに心酔の余り、ただにその学説のみならず、不幸にしてその文体をも採用したと称されている。その冗長饒舌なる文体とその反復重複の言辞」(高橋, 1943, p.548)までも、とされていることからしても、むしろ「ベンサム派社会主義者」というべきか(注2)。 この本の執筆動機は、コーク市文芸協会での雄弁家が発した富の不平等にかんする質問に始まると書かれている。純粋経済学者の唯一の目的は「どうやって最大限の生産物を作り、最大限の消費ないしは有効需要を保証するか、ということであった」(1.p.vii)。しかし、社会の主要関心事は、富の増大ではなく、富の利用と分配である。重要なのは、富の所有ではなく、個人的にも社会的にも、正当な分配である。「それゆえ、富を、それが勤労と再生産に及ぼす影響という点ばかりでなく、その道徳的、政治的影響という点からも、すなわち富が人間の幸福に影響するあらゆる方法でも考察することが必要である」(1.p.x)。 これまで、政治経済学が解明してこなかった問題がある。「ここに、人類が置かれてきた冷酷なジレンマがある、ここに、道徳科学の解明されるべき重要な問題、『平等と安全とをどうやって両立させるか、つまり公平な分配を、生産の継続とどうやって両立させるか』が、存在する。この問題を展開していくことが、本書の目的」(1.p.xv)である。そして、人間労働の三つの様式が以下で議論される。第一は暴力を用いた直接ないし間接強制労働、第二は自由な個人的競争による労働。第三は相互協働による労働である。(以上「前書き」) 「第一章 富のすべての正しい分配の基礎となる…自然の原理の研究」の冒頭、ベンサム等によって確認された「功利」が指導的原理となることを宣言している。トンプソンにとって、ベンサムは、ベーコンが自然科学で果たした以上の大きな貢献を、道徳科学で果たした学者である。「ここで研究しようとしている分配とは、人間幸福の最大可能な量、つまり最大多数の最大幸福を増進するであろうと思われる分配である」(1.p.3)。 著者にとって、「社会の全構成員(非健常者の場合をのぞく)は、その肉体的組織の点では似た体格をしているので、同じような処遇をすることによって、等量の幸福を楽しむことができる」(第3節の標題)という命題は真理である。各人の感覚の不等性は取るに足りない。それゆえ、快楽の感受性、「楽しむ能力の不均等性は存在しないのである」とされる。なぜなら、われわれは、それを感知できないし測定できない。「幸福の感受性の程度の相違がどこにあるか、そしてどのような割合か、を明示できないなら、それが存在するということは無益であるし、これなくしては実用的であり得ない」(1.p.35)。かくて、各人の効用関数の形は同じとされ、後世に議論となる効用可測性の可否や個人間の効用比較の問題は意識されていないようである。また第二章では、「幸福自体を形成する感覚やその他の感情を直接測定できないが、物理的手段、つまりこれらの快楽感を刺激する道具を測定することはできる。」(1.p.272)という記述もあり、消費材の量から効用を測定可能と考えていたようでもある。いずれにしても、効用の測定については深刻に考察していなかったのであろう。 ただ、「限界効用逓減の法則」に該当するものは、はっきり意識されている。獲得された富が一人のものになるか、多数に分割されるかによって幸福の総量がどうなるかを論じたところで、それは各人の富の絶対量に左右され、「それぞれの場合に、利得が大きければ、大きいほど、それから生じる相対的幸福は、ますます減少する。」(1.p.109)と書いている。 こうして、個人間の効用加算が可能であり、限界効用逓減が前提されると、社会の幸福の総量は富が平等に分配される時、最大となろう。社会的厚生関数というべきものは、富が富者から貧者に分配され、平等となるとき最大となるとトンプソンは述べている。もっとも、すでにベンサム自身が限界効用逓減の法則を発見(注3)しており、富の平等な分配は幸福の総量を増大させることを認めていた(注4)ようでもある。 功利主義と並ぶトンプソンのもう一つの考察の基礎は、スミス以来の古典派経済学説、特に富の唯一の源泉は労働であるという学説である(あえて労働価値説とはいわない)。「富は労働によって生産される」(第一節標題)。富を構成するための二つの必要条件は、「欲求の対象」と「労働あるいは努力の生産物」(1.p.15)であることである。「あるものが欲求の対象にひとたびなるとすれば、労働こそ、それを富物品に仕立て上げるのに必要な唯一の構成部分である。欲求がなくなると、労働は強制されなければ、それに費やされないであろう。欲求が刺激され、対象が努力なしに獲得されないなら、労働がそれに加えられて、富物品に変換される」(1.p.21)。しかし、富が構成されるのは費やされた労働のみではない。節約された労働にもよる。自然にできた井戸は労働を必要としなかったが、遠隔地から水を運ぶ労働を節約するので、節約された労働で評価される。 通常、富の価値は、それを生産するに必要な最小労働量で決まる。欲求の対象に支出あるいは節約された労働総量は、対象の価値の最大限度となる。労働は価値の普遍的尺度である。しかしながら、「労働が富物品の価値の唯一の尺度である、と主張しているが、この尺度は、すべての場合、精確な尺度とは主張していないのである。」(1.p.23)さらには、「富に適用される正確な価値尺度が全然存在しえないのである。それを求めるのは、影を追いかけて狩りをするようなものである。」(1.p.24)ともトンプソンは云う。 以上の基礎的考察から、本論に入る。富は労働によってのみ生産されうる。富を増大させるためには、労働を効率的にする必要がある。労働を効率的にするためには、それに対する刺激が必要である。それを可能とするのが安全(security)である。それは、「最大可能な生産を促進する」ものであり、「安全だけが肉体的、知的なあらゆる有益な人間エネルギーの完全な発達を喚起する」(第11節標題)。 しかし、これまで「社会がいつも努力してきたことは、生産労働者を、欺き、宥めすかしたり、脅迫し、強制したりして、彼自身の労働生産物のうちできるかぎりの最小部分を報酬として働かせることであった」(1.p.55)。そこでは、「安全という名前で間違って崇排されてきたものは、多数者、特に富の活動的で真の生産者全集団を略奪し、没落させるという犠牲を払った、少数者の安全であった。」(1.p.147)。人類は初期段階のみならず、歴史を通じて「安全」の欠如に曝されてきた。勤労の結果の食料が成熟し、消費できるようになると、強大な勢力に奪われた。まず、安全なしには生産努力は不可能である。暴力から解放されて、勤労意欲は継続する。現在の世界では強制的労働が支配している。自発的労働が取って代わらなければならない。自発的労働が広範囲に作用するにつれて生産と幸福も増加するであろう(第5節)。 次に、生産者がその生産物を完全利用する安全が必要である。労働者は労働手段や労働対象(道具、原材料、土地の使用)に対する対価を差し引かれず、労働の絶対的全生産物を与えられねばならない。現在は土地や資本を占有する人が、労働者と同様の刺激と安全を要求している。しかし、「生産者以外の誰が、どんな原理にもとづいて、もう一人のひとの勤労が生産したもののいかなる部分といえども、要求できようか」(1.p.68)。問題は、完全利用が道徳性に与える影響ではではなく、生産に及ぼす影響である。生産者の必要かつ自発的な、あるいは自然が賦課する、もの以上の控除は生産への刺激を低下させる。生産への最も強い刺激は、労働生産物をその生産者に保障すること、完全利用を認めることである(第6節)。 さらには、交換の安全を保障する必要性である。自発的交換は労働を生産的にする。どんなに小さい社会でも、協働あるいは分業が不可欠である。労働を生産的するだけでなく、とにかく人を働かせ、未開状態から脱出させるためにも、交換が実施されねばならない。交換は、道徳面でも人を博愛的、社会的にする。「自発的交換の安全は、労働とその生産物との自由使用における安全と同じく、必要だ、ということである。それらは生産の両親である。しかも生産ばかりではなく、道徳性と幸福の両親でもある」(1.p.86)(第7節)。 自発的交換の対極にあるのが、労働生産物の「強奪」である。強奪は、強奪者の幸福を増加させるが、それは強奪された人々の幸福の損失より小さい(注5)。さらには、強奪される者は、自己の労働が無駄になったことから勤労意欲を削がれる。この生産意欲の減退が社会に与える悪影響がずっと重大である。この理屈は明白で、否定されることはほとんどないが、だれもがこの目に余る侵害に加担しているか、無関心に見ているだけである。さらには、多数の個人から少量ずつの富を強奪したとしても、強奪者の幸福の増加は各人の損失の合計より少ないという同様の命題が成立する(注6)。事実上「勤労者の損失は、略奪者の利得にくらべて、無限大対1に等しい。」(第8-9節)。 万人の幸福を平等に推進すること、すなわち平等な幸福が我々の目指す目標である。上述の限界効用逓減の帰結として、「正義は、社会の富の総量がその構成員の間に等しい分量で分割されることを要求しているように思われる。」しかし、それには一つの条件が付く。「平等が生産を減少しないところではどこでも、それは追求される唯一の目的であるべきである。」あるいは、「絶対的平等制度が生産と矛盾しないなら、あまねく世界中でその制度は固持されるべきである」と(1.p.138)。 「あらゆるひとは、新分配法則がここで導入されなければならないことを知っている。」(1.p.143)。労働は富の生産に必要である。勤労者は、「かれらの労働のみが現在あるがままに作ったものを、かれら自身のもの、かれらの財産だとして、身辺のまだ専有されていない、自然のままの物品と区別して、主張し、要求している。…この権利を承認しなければ生産されないであろう。…労働によって生産される物品の、新しい供給が開始するや否や、新しい分配法則、または労働によって生産されない商品に適用される古い平等法則の手直しが、図らなければならない」(1.p.143-144;一部改訳)。 では、何をすればよいか。平等は観念的で、非実際的だと放棄すべきか。そうではない。労働が生産に用いられていない時は、分配の平等は保持されなければならない。労働による生産に際しては、その安全=生産者の生産物完全利用権が保障されるのが原則である。しかし、希少例ではあろうが、この原則から逸脱する場合は、平等化の方向に向かうべきである。すなわち個人的競争制度の下では、「物品の絶対的平等は問題外であるので、次に英知と仁愛の対象になるのは、平等にできる限り接近して、最大生産と両立するほどに近づけることである」。生産には普通、余剰が発生するだろう。余剰生産物には自発的交換の原理が「平等と安全のあらゆる矛盾を調停する」(1.p.143)。 具体的には、富に関する安全、すなわち「労働の自由処分」、「労働生産物の完全利用」、および「自発的交換」が保障されるべきである。これをトンプソンは平等な安全という。平等な安全の維持は生産を最大化し、結局最大可能な平等につながる。「あらゆるもののなかで、最大可能な安全を促進せよ、そうすれば、最大生産と最大平等を促進することになる。平等な安全から離れるかぎりにおいて、平等は減少する。不平等を促進するために干渉する限りにおいて、安全は減少する。」(1.p.148) トンプソンは、平等な安全を「分配の自然法則」ともいい、第一章の最後に、次のようにまとめている。 第一 すべての労働はその方向と継続に関して、自由かつ自発的でなければならない。 第二 すべての労働生産物は、その生産者に保障されなければならない。 第三 これらの生産物の交換はすべて自由かつ自発的でなければならない。 そして、各人に彼の労働と労働生産物の自由な使用、および自発的交換を保障することから発生する富の不平等、この不平等のみは維持されるべきである。この程度の不平等がなければ安全はなく、それゆえ生産、および分配すべき富もありえないからである(第13章標題)。「平等な安全を維持することから必ず生じる富の分配における不平等の部分が、何であれ、富から派生する最大幸福を生産するために、甘受されなければならないのは歴然としている」(1.p.226)。しかし、それ以外のすべての分配の不平等は有害であり、抑圧すべきである。「われわれの幸福は、…圧倒的に富の公正な分配に大きく依存しているので、他の原因から生じる見込みのある利益はどれも、万一その利益が実現しても、富の公正な分配の喪失による損害を補填できないだろう」(1.p.244)からである。 以上が、第1章の内容の概要である。第14節の最後に、線で区別されて付論(のごときもの)がある。「労働者はかれらの労働生産物のうちのどの割合を、資本と呼ばれる物品の使用に対して、資本家と呼ばれるそれらの物品の所有者に支払うべきなのかと」題されている。この部分は、興味ある議論なので、少し付け加えて書いてみる。 労働者は、資本家に労働生産物のうちの大きな部分を奪い去れて、自由な処分ができるものをわずかしか残されない。実際に働いているのではなく、資本の貸与でしか生産に関与していない人々により、生産物の大部分が消費・蓄積されるのである。政治権力による強制的窃取とは無縁な、自由で自発的な交換ルールにおいても、生産能力の他何も持たない労働者には不利に思える。労働者は生産手段の使用に対して資本家の了解を得るために、資本家に彼らの望むだけの生産物分量を処分させるのではないか。労働生産物の完全利用と自発的交換は回復可能であろうか。資本家の搾取総額に何か自然的制約はあるのであろうか、とトンプソンは問いを発する。 著者は、労働者が自分で資本を所有していない場合、それらの使用に対する対価を支払うことを当然と認める。問題は、労働生産物のうちから、どれ程を支払うべきかである。それには、労働者の尺度と資本家の尺度の二つがあるとする。労働者尺度は、原価償却プラス資本の管理費用である。彼の計算では、資本が労働者のものであれば、現在資本家に支払っている半分以下で充分に賄える。資本家の基準は、「建物または機械の製作者に、または自発的交換によってそれらを手にしたものに、生産された品物の全剰余価値を…労働対象たる原材料の前払いに対して、…同じ割合で支払いをさせよう」(1.p.252-253)として、固定資本、流動資本に対して全「剰余価値」の支払いを基準としている。ここで、「剰余価値」とは、「資本家の尺度は、…機械またはその他の資本を使用する結果、等労働量によって生産された付加価値であろう。」(1.p.250-251)と書いているところから見て、資本の限界生産力のごときものであろうと思う。そしてこの付加価値は「資本の数人の所有者に、その総額と耐久度に比例して」分割されるのである。 労働者の尺度が普及すると、労働の生産性を高める蓄積投資への意欲は、必要以上のものを求めないので一時は薄れるが、ある点を超えると高まる。全生産物の完全利用が保障されると、最大エネルギーが生産に注がれ、人間労働はますます生産的になり、報酬も増加する。改良は万人のために行われ、資本は10倍に増大し、絶対的なゆとりのある生活のために人は生産するであろう(注7)。 第2章は、富の大きな不平等から生じる弊害は、富の生産、政治的、私的道徳そして幸福に与える影響が非常に大きいので、「個別に、明確に解説する必要がある」としたものである。内容の概要を、章の冒頭に掲げられた要綱(目次とほぼ同じ)に従い記す。 T.道徳的弊害について、1.分配の自然法則を維持するのに必要な以上の不平等、すなわちすべての過剰な不平等は、多数者から幸福を奪い、人間の快楽の総計を減少させる。2.それは、その差引勘定の結果、もっと大きな配分を持つ少数者の幸福を付加しない。3.それは、もっと大きな配分を持つ人々、最上の富裕者に明らかな悪徳を生む。4.それは、賛美と模倣をかきたてることによって、社会のその他の人々に富裕者の悪徳の習慣を拡げる。あるいは、最上の富裕者の相対的地位から生じる他の悪徳をその他の人々に惹起する。U.経済的弊害について、1.その過度の富の年々の所得は、不生産的労働者によって消費される。それ故、国民的勤労生産物の年々の損失となる。2.過度な富は、消費に先立って所得と交換に、国民的福祉に一番役立ちそうにない技術と職業を奨励する。それらは、報酬において何よりも不安全かつ不平等でもある。V.政治的弊害について。正当な資格のない、国民的利益に反する利益集団によって、行政的、司法的権威、立法的権力の簒奪が行われている(注8)。 第3章は、分配の自然法則の副次的利益についてである。巻頭目次(本章本文では、なぜか目次に示された節区分がなされていない)をもとに、概要を記す。1.分配の自然法則の政治的利益について。分配の自然法則はすべての正当な政府の基礎である。それなしには、立法、租税、法律は施行できない。このことは、ただ代議制統治によってのみ達成可能である。それは、戦争の危険を減らし、犯罪の動機を除去し、行政費を最低に切り詰め、宗教団体の支持を任意なものにする。2.経済的利益について。「おそらく、主要な経済的利益は、前代未聞な速度と規模とで生産は増加し、資本は蓄積されるだろう、ということである。」(1.p.359)。3.道徳的利益について。過度な貧困と富裕が社会から除去されるので、贅沢と欠乏から生じる特有な悪徳はほとんど根絶される。 ここで付記すべきは、2.で論じられている資本に関する箇所である。資本は、労働生産物のうち、直ちに消費されない部分あるいは、一般的には生産物の耐久性から生じるとしている。しかし、「では、もっとも正確な資本認識とはなんだろうか。それは『耐久性があろうが、なかろうが、利潤の用具になりうる労働生産物の部分』である」(1.p.362)。ここから資本家と労働者の権利の対立が生じる。労働手段を占有している資本家は、できるだけ安価に労働とその生産物購入する。「この説明につれて、自明の命題となるのは、資本の利潤が高ければ、高いほど、― 他の事情が変化しなければ ―ますます、労働賃金は低くならざるを得ない、ということである」(1.p.363)。ただ、労働者間の競争だけでは、賃金を最低に引き下げるのに十分ではない。分配の自然法則(自由労働、労働生産物の完全利用と自発的交換)の侵犯の影響のほうが、10倍、100倍の大きかった。 労働大衆が物品を安く豊富に提供されるには、生産手段の潤沢、生産のための技術と知識の存在があればよい。賃金や利潤率は、労使間の問題であり、大衆とは関係ない。そして、「当然の成り行きとして、すべての生産労働者が、自分自身の原材料、労働期間中の自分自身の食料供給、自分自身の道具、自分自身の住居を、これらの生産諸要素を駆使するための適当な技術と知識とともに所有すべきである」(1.p.363)。このような社会に資本家はいないが、資本は豊富であり、生産的労働者の大多数が資本家であり、かれら自身が、小区画の土地耕作に必要な資本の所有者である。製造業者の大多数も同様に「労働者であるとともに資本家であり、各人が、仕事ができるような、彼自身の小さなストックを所有している」(1.p.368)。功利は労働者の資本家化を求める。平尾の云う著者の「独立小生産者社会の構想」である(1975, p.43)。 それでは、労働者兼資本家の小生産者のみで生産は可能か。大製造業と大商業企業は、大資本家がいなければ、どうやって運営するのか。「少数の企業に必要なのは、大資本であって、大資本家ではない。」(1.p.380)。安全の下で株式が広く募集され、経営は有能な人に委ねられる。小資本家はまた、製造業部門でも商業部門でも連帯し、損失を補填する保険会社の役割を果たす、それは新たな未知への挑戦を勇気づける。 第4章は、標題にある如く「分配の自然法則の永続性を保証する一手段としての知識と習得と普及について」である。もともとトンプソンは教育に関心が深かった。富は有限であるが、知識は無尽蔵である。自然科学的知識の目的は、富の生産を増加させることにあり、道徳的知識の目的は、万人のために最大可能な幸福量を引き出すことにある。知識を普及したり、抑圧したりする第一の手段として社会制度がある。この制度で彼が問題とするのは、まず黒人奴隷制と家内奴隷である女性の地位である。そして、(富の世襲的所有を前提として)遺言作成権限による不平等遺産分割である。第二の手段は講義もしくは書物による成人教育である。第三の手段は、厳密な意味での教育である。学校教育は知的部門と道徳的部門からなり、精神と頭脳に作用する。従来はもっぱら道徳的部門つまり習慣の形成に注力されてきた。しかし、学校教育は知識の伝達に比類なく大きな善をもたらす。そしてこれまで、貧困層の子供の教育は無視されて来た。しかし、貧困層の子供は富裕層の子供より知的教育に対してすぐれた素質がある。貧困層の子供は、子守に守ってもらうこともなく、自分自身の感覚により判断力を養って育って来たからである。 「第5章 不安全の制度に起因するものとしての富の分配の現状について;および現存の不平等分配の強制的方策を、安全によって制限された平等自発的方式に変更する手段について」である。標題に掲げた内容については、著者の批判が読者に不必要な刺激を与えぬために(そして大部な本にならぬように)100頁、一章分の文章が省略された。目次だけが記されている。そして、その後に一文を付加している。この付加部分はペアの編んだ新版では、第6章とされ、初版の第6章は新版では第7章となっている。 ペアが「富の生産と幸福における個人競争の便益と弊害、相互協働と比較して」と題した付加部分を摘記してみる。トンプソンがその功利を立証したとする平等な安全が実現した後の問題である。「だが、平等な安全が確立され、理性のある成人男女の自由労働、労働生産物の完全利用、および自発的交換の権利が確立されると、新しい問題が生じる。安全と両立する人間労働様式は――それが、生産にとってさえ、最高に重要だということは、すでに論証されている――個人的競争の労働様式以外にないのであろうか」(2.p.142)。豊富な生産と全機能の発達を生み出す安全を保持したまま、個人的競争以上に多くの利益を持つ労働様式が存在するなら、それが優先されるべきであろう。そこで、「以上のような労働様式が提唱されているのである。それは相互協働による労働制度と呼ばれてきたものである。そしてその目的と結果は、団結した労働の全果実を完全に自発的に平等に楽しむことである。この制度は、その実行可能性を証明できる程度に、部分的に利用されている。その功利と個人的競争の制度より優れていることとが、まだ研究されていない。」(2.p.143)。 こうして、人間の労働制度は三つあることになる。1.暴力と詐欺の混交した強制労働制度2.自由な個人的競争労働制度3.相互協働労働制度である。個人的競争制度は(資本を労働者が保有しているとはいえ)個人的所有と分かちがたく結びついて、多くの弊害をもたらすことは明らかである。 分配の自然法則(平等な安全)は、維持されなければならない。しかし、安全を侵害しないで実現できるなら、平等の利益は非常に大きいので、両原理の一致は、人類の達成すべき、もっとも望ましい目標となる。「個人的競争と個人的所有の全利益を包摂し、これらの不利益を何ももってない」(2.p.161)制度が提唱された。それを次に検討なければならない。 富の分配における自発的不平等について 個人的競争に対立する協働による労働」と題された第6章は、原文で約200頁、翻訳で300頁に及ぶ大部な章である。分配と楽しみの平等を、平等な安全を侵害せず、暴力も行使せずに、労働生産物を自発的に譲渡することで、実現できるか。「ある一個人が、合理的原理にもとづいて、この巨大な問題、『分配の平等を完全な安全と一致させる方法』の解決に着手し、それを促進させるほど大胆不敵であることが知られている。この個人こそ、スコットランド、ニュー・ラナークのオウェン氏である。相互協働と分配の平等が、かれの操作する手段である。」(2.p.169)それは、深遠な思想と比類なき実践的知識の稀に見る統合である。 オウェンも、分配の平等を原理とする。安全には、社会的安全(協働)と個人的安全(競争)とがある。前者は平等な分配を享受するために何ら制約を必要としないのに対し、後者は再生産を保証するため平等に対する制約が必要である。問題はあるが、これらの安全制度をより単純な制度に代替することである。「個人的労働の生産物を、その他の全連帯労働(associated labor)の生産物を平等にエンジョイするという条件で、共通基金へ自発的に譲渡することは、この処理に関する限り、もっとも完全な安全を意味する」(2.p.180)。オウェンの案はメンバーの自発的同意に基づいている。「それらが要求する協働は、自発的協働であり、これのみが、この協働こそ一般的幸福はもとより個人的幸福の最大量を生産する傾向ある、という認識にもとづいている」(2.p.173)。 この旧社会の一隅に、コロニーともいうべき相互協働制度による共同(協働)社会を建設しようとの試みである。それは、共同財産の保護を除いて、現存の不安全制度のいかなる改変も全然要求していない。(共同社会外の)資本家の搾取は看過され、政治権力の奪取も必要としない。相互協働から生まれる豊富な生産物に対する外界の攻撃から防衛するのみである。これまで提唱されてきた平等計画は、宗教的で、強制や幻想にもとづいたもので、圧倒的な弊害を生む専制政治体制にすぎなかった。それらは、ありふれた量の勤労生産物をメンバーに公平、平等に分割することを約束するにすぎなかった。相互協働制度は、技術普及と労働節約、団結、分割の新計画によって生産物と生活を大幅に増加することが可能である。「平均的なゆとりのある生活の三倍ないし四倍は即座に増加する」(2.p.256)(注9)。現行の不安全の制度の下では、大衆は政治権力と資本家に無報酬の筋肉労働を強制されているのである。トンプソンは相互協働生産による生産力の増大が多くの困難を解決すると考えているように思われる。 また、相互協働生産では、怠け者やそれほど勤勉でない者がいるのに、勤勉な労働者は労働報酬が自分に正当に支払われないと失望しないか。この問いに対しては、トンプソンは楽観的である。現在の競争的制度でも、ほとんどが同一賃金で働き、優秀な労働者は最悪のものより一倍半か二倍の働きをしている。しかし、労働の喜びと「最良の仕事師という評判だけで優秀者の優秀な努力を発奮させるのに十分である」(2.p.295:この問題は、後記も参照のこと)と。 著者の理想とする相互協働制度社会(共同社会)の姿はどんなものか。少し長いが引用しておこう。「そこでは、万人が欲求以上に充たされている。ただの差別の原因としての、または、その生産物をエンジョイする合理的目的以外のための富の追求はそこには実存しない。全青年は、そこではすべて、真に有益な知識と善良な習慣とで平等に教育される。そこでは、万人が知的研究のための余暇を持つ。そこでは、世論は堅実に、かつ有益に作用して、珍しい、困難な努力をして、幸福の共同資産を増やそうと苦労したにもかかわらず、失敗したひとにさえ、かれの努力に対して、つねにその同感と感謝の念で喜んで報いようとしている。そこでは、一般社会の役に立ちたいという願望が、非常に強烈に働く。…」(2.p.365)等々。 この章のあちこちで簡単ながら描かれた共同社会の具体的な姿を集めると次の通りとなる(トンプソン自身による共同社会の詳細は『実践的指導』に描かれている。蛯原,1994,第五編第二章参照のこと)。成人は個室を与えられ、(同一人が交互に)農業と工業に従事する。食事は、共同厨房で調理される。2、3歳以上の子供は共同寄宿舎で育てられる。女性は家事と育児から解放され、「有用な生産的労働のストックに投下される」(2.p.194)。基本的には、所有は共同であり、「衣服と個室が、少なくとも専用使用期間中は、ある程度個人的所有と呼ばれるかもしれない」(2.p.214、一部改訳)状態である。その衣服も、家具と共に「個人の趣味のため、色などおそらく若干の違いがあっても、万人にとって同一」(2.p.198)である。そして、食事も「健康に良くない多様な、刺激過剰な動物性食物からの過剰摂取への誘惑は控えられ、淡白な自然の味覚のみが斟酌され」(2.p.215)る。結婚は、成人用の部屋に空きがない場合延期させられるのである。共同・社会的所有で羨望・嫉妬等はなくなり、犯罪は消滅するとされている。 余剰労働は、直接かまたは間接的な交換によって生活を快適にする物品の生産に充てられる。余剰労働の充当部門を誤ったときには、様々の熟練労働者の存在と機械設備の所有から、労働の資本設備はすぐ新需要に適応できる。「かくて、供給と需要とは、厳密に、かつ永遠に合致するであろう。かくて、貧困層にとって、失業という永遠の不名誉な問題は。安らかな眠りにつくであろう」(2.p.228)。 相互協働社会が多数存在するようになると、相互の必要品・余剰品を交換するようになるが、その交換基準は「交換されるべき品物に包含されている労働量である。」(2.p.376)。労働者個人間の賃金引下競争のように、共同社会間の賃金切り下げ競争起こらない。資本家による不安全の強制がないからである。少量の労働で多くの富を生産できる肥沃な土地の所有者は、寄付、課税が提案されている。 * * * * * * 以上トンプソン描くところの協働社会は、平等な競争社会に比べて優れたものされている(注10)。しかし、その完全雇用や商品分配に対する記述は余りにナイーブで楽天的すぎるように思われる。そしてなにより現代の目から見ると、上記トンプソンの協働社会の姿は、余りに画一的に思われる。なにがし、何とかイズムのコミュニティや『1984年』のごとき監視社会を想起させる(注11)。当時の社会状態では、生活さえできれば幸福だった点を考慮すべきかもしれない。その上、トンプソンは消費について偏狭な見解を持っていたこともあるだろう。彼にとっては、合理的な消費は、社会の普通の衣食住に対する欲望と楽しみに限定されていた。それ以上は、すべて奢侈であり我儘であった(フォックスウェル, 1954, p.46)。 ちなみに、トンプソンの共同社会はオウェンから多く学んだものである。協働社会建設には、広大な土地と資本を要する。オウェンは、国王や貴顕、資本家等を含む多くの善意に頼っても、発足当初から完璧な協働社会を目指した。一方、トンプソンは労働者階級が新社会の担い手だとして、小さくとも労働者・農民が自分達で当面建設可能な規模から始めることを主張した。協働社会の建設運動は、1820年代後半に興隆したものの、多くは2-3年の寿命で消えていった。やがて40年代には、労働組合運動と、莫大な基金を必要としない地道な消費組合運動に道を譲ることになった。 富の生産には、個人や多人数の協力による努力が必要である。労働生産物をその生産に関与した者から取り上げて、生産者以外に広く分配するにつれて、全体の快楽は増加するとしても、生産労働者の生産意欲は確実に減退するであろう。一方社会には、自らの労働生産物のみで生活できない弱者がいる。身障者、老齢者等々。そこにトンプソンのいう安全と平等の矛盾がある。それは、アントン・メンガーによって、二つの経済的基本権「労働全収権と生存権」として、表現された。「これら二つの経済的基準は、すべての首尾一貫した社会主義的または共産主義的制度が、その範囲内に終始しなければならないところの限界を示している」(メンガー, 1971, p.22)。 そして、この安全・平等問題から派生するもう一つの問題がある。現代ではほとんどの生産は、多人数が生産に関係する。生産した価値を、協働者間に如何に分配すべきかという問題である。優秀な労働者、生産に寄与するところが大きい労働者と劣等な労働者、生産への寄与が少ない労働者との賃金格差の問題といってよいだろう。 トンプソンは、第一の問題は相互協働による生産の増加により、この矛盾は解決可能だと考えたようである。第二の問題は、上にも記したが、後の著書『実践的指導』では、各人が自分の能力・学識に従って自発的に等時間(当然等賃金だと思われる)労働する「尽力の平等性」で事足れりとしたごとくである(蛯原, 1994, p.180)。「冷酷なジレンマ」とした割には、解決策は、過度に単純な楽観的解答のように思える。そして、他の社会主義者の多くは、生存権を重視する立場に立った。生産物をもっとも緊急に必要としている者に分配すべきであるという考えである。ここでも、分配基準に確固たる基準があったようには思われない。 現代の資本主義社会では、労働全収権はありえないので、利潤の範疇は残ってもいる。それにしても、生産力は、19世紀に比べて大きく増大しただだろう。しかし、安全・平等問題の解決は依然難問である。それは、現代に至るまで形を変えて連綿と続いているように、私には思える。「働かざる者食うべからず」原理対生きる権利の対立、あるいは効率と公正の問題と形を変えて。戦後の経済思潮を見ても、福祉国家論から新自由主主義の台頭とその衰退がみられた。平等に針が振れ過ぎると経済の効率が問題になり、効率主義が過剰となると公正が問題とされる。近頃で云えば、「格差の拡大」が云われていたのに、次第に「生活保護者の増大」を問題とする声が高まるという風潮である。経済学では最適解は出せなくて人間の永遠の課題であろうかとも思う。 もう一つ安全について思う所を書いておく。トンプソンがあれほど強調した安全が、これも彼の希求した「社会主義」の下でも守られるかという問題である。例えば、初めての「社会主義国」ソビエト・ロシアを訪れたケインズの感想。「ロシア管見」で云う、「私にとっては、赤色ロシアは嫌悪すべき点が多すぎる。快楽と習慣は、これを捨てる覚悟をわれわれももとう。しかし、私には、日常生活の自由と安全(security)がどれほど破壊されようと意に介しない信条を受け入れる用意はない。」(ケインズ, 1981, p.306:一部改訳)と。 エンゲルスは、資本論第二巻の序文において、マルクスが剰余価値論をロドベルトゥスから剽窃したという非難に答えている。マルクスは剰余価値論を、「リカードの価値論および剰余価値論を…逆用し、ブルジョアジー自身の武器を持って、ブルジョアジーと戦う文献」に学んだものであると。その文献とは、エドマンズ、トンプソン、ホジスキンの著書である。そして、トンプソン(のみ)から、4か所を引用している。 アントン・メンガーはここを捉えてか、「マルクスはまったく、以前の社会主義者、とりわけウィリアム・トンプソンの影響下にある。マルクスが叙述の中にまじえており、事態をあきらかにするよりも、むしろあいまいにしているところの多数の数学的公式を除外すれば、剰余価値全体、すなわち剰余価値の概念、その名称、その額にかんする見解は、本質的な点ではトンプソンの著書からとりだしたものである。(中略)これらすべての方面で、マルクスはトンプソンにはるかに劣っており、したがってトンプソンの著書は、社会主義の基本的著作だと認めることができる。」(メンガー, 1971, p.188)。言い過ぎはあるにしても、メンガーの評価はトンプソンにとって大きな名誉であろう。 そして、フォクスウェルによれば、トンプソンは富の分配問題を、それ以後のイギリス経済学において最高の地位に置いたとする。「ジョン・ステュアート・ミルにいたると、その生産論が、明らかに…分配論に従属させられているのをみいだす。私はこの変化がトンプソン ― 彼のミルにおよぼした影響は、いろいろな方面に明らかに現れている ― に大いによるものであることを確信している。」(フォクスウェル, 1954, p.50)としている。 二つながら米国の古書店より購入。初版は、ハーバート大学の経済史の教授だったEdwin Francis Gay なる人物の旧蔵書であると、本屋の説明にある。新版は、デユーク大学図書館の除籍本、状態が悪い。初版本は高くて買えなかったので、新版を購入したわけだが、後に安い初版を見つけて買ったため、二冊所有するはめとなった。 (注1) なるほど同派に属するとされる、ホジスキン、ブレーの著作には、はっきりとリカードの名があがっている。しかし、本書全部を読んでみても、リカードの名は一回も出てこない。むしろ経済学は軽んじられている。「蔦細工と革製の政治経済学」(1.p.203)や「政治経済学は、支配者とかれらと結託した人々の物質的楽しみが増加するという期待ほどには、彼らの不安感を引き起こさず、しかも、ほとんど富の機械的考察に局限されているので、非常に自由に、徹底的に論究されてきた」(2.p.82)という具合である。 特に注記がなければ、下線部分は原文のイタリック、訳文の傍点を施したところである。 (参考文献)
(H24.5.29記) |