SENIOR, N. W. , An Outline of the Science of Poltical Economy, London a, W. Clowes amd Sons, 1836, pp.129~224-228+ads, 4to
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SENIOR, N. W. , Poltical Economy Fourth edition, London and Glasgow, Richard Griffin and Company, 1858, ppviii+231+ads, 8vo

シーニア『経済学綱要』初版、第2版(以後標題は『経済学』)、及び第4版(標題・版次については後述)。
 この本を読んでみての第一の感想は、スミス、リカード、マルサス等他の古典派著書と違って、経済用語を次々に定義することにより、議論が展開されていることである。シュンペーターもいう「彼はその『政治経済学の科学』の問題のすべてを、定義を規定することによって解決しようとする傾きを持っていたように見えた」(1957、p.1023)。これは、彼の「公理的方法」によるゆえなのであろうか。あるいは、本書が元々百科事典の一項目として書かれため、小項目の如く経済用語を配列したのではないかとも思ったりする。あるいはまた、シーニア自身の次のような言葉からは、当然の帰結なのであろうか。「経済学者は、…その主たる困難はその用語の使用にあり、その事実の確定にないことに気付いていたのなら、彼らの努力は、主として厳密な術語を選んでこれを矛盾なく使用することに、必ず向けられたであろうことを疑わない」(シィニオア、1929、p.10:以下本訳書からの引用は頁数のみを表記)。
 第二の感想は、各種委員会の報告書(青書というべきか)からの経済実態の証言が、煩雑なほど多く引用されていることである。一見、これは彼の「公理的方法」と反するようにも思えるくらいである。

 それでは、本書の内容の紹介に入る。冒頭の経済学の定義については、『序講』に記した所と重なるので省略。著者が経済学を「富の性質、生産および分配を論じる科学」とし、経済学は幸福を扱わずして、富を扱うとしたことだけを繰り返しておこう。
 続いて「富」を定義して、「譲渡が可能で、供給に制限があり、かつ直接間接に快楽を生み、もしくは苦痛を防ぐ一切のものを、そしてそのもののみと考える。換言すれば交換(交換の言葉で、絶対的購買および賃貸を示す)可能なもの、更に換言すると「価値」を有するものをいう」(p.12)とする。シーニアにとって富と価値(交換価値に等しい)は同一である。そして、富の構成要素として、次の三つの条件ないし属性をあげる。
Ⅰ.効用 三属性中、最も著しいもの。快楽を生み苦痛を防ぐ力である。これを適格に表現する言葉がないので、一番近いものとして効用 utility を用いる。効用は諸物に内在する属性を指すのではなく、それらが人類の苦痛と快楽に対する関係を表現するに過ぎない。
Ⅱ.供給制限 「経済学上では、占有の煩さえ厭わなければ、欲しいだけ所有できる状態にあるものは、すべて、そのままならば、供給に制限がない」(p.14:下線[実際はイタリック]原文)。そのまま( in their existing state )とは、労働を加えない自然状態ということであろう。逆に言えば、骨董品のごとき増加できない財や,労働により増加可能な財は供給制限があることになろう。シーニアの例示では、欧州の銀の存在量は金の45倍である。しかるに金の生産には、同量の銀の生産の16倍の労力が必要である。ゆえに、金の供給を制限する障害の力は銀のそれの16倍である。それらの存在量如何には関係しない。
Ⅲ.可譲性 効用の全部または一部が、絶対的にあるいは一定期間譲渡可能なことを意味する。人間の才能・技芸も部分的に譲渡可能(弁護士の活動の如き)であるから、富であるとされる。しかも、イングランドにおいて、この富の行使から得られる収入は大ブリテンの全土の地代(注1)より多いとする。
 以上の富(価値)の三条件の中、供給制限が、特に重要である。「価値に影響を及ぼす主たる原因は、人間性の最強力原理の二つである多様性( variety )の愛好および卓越性( distinction )の愛好にある」(p.23)。「多様性の愛好」の説明において、シーニは続ける。人は、生活の進歩に応じて、最低限の生活必需品から多様性を求めるようになる。そして、「我々の欲求は、明らかに量よりも雑多を目指す。いかなる種類の商品をとっても、これが与えうる快楽は、ただ単にその限度を有するのみでなく、このような限度に到達するはるか以前に、急速な加速度を以て減少する。同種の品二個が与える快楽が、一個の二倍であることは滅多にない。十個の快楽が二個の五倍であることは更に稀である。…かかる限り、供給の増加はその効用の全部またはほとんど全部を喪失させる。反対に、これが減少に比例して、これを欲する人数および度合いは増加する傾向がある」(p.25)。この所が、「限界効用逓減の法則」を述べたとして知られている箇所である。しかし、シュンペーターによると「彼に限界効用なる観念を発見した栄誉を認めている一般共通の見解――これにはワルラスもまた同意していた――は、正しいものである。しかし私はここでもう一度繰り返して言いたい、彼は此の観念を十分に検討することが無かったし、またこの観念は一顧を払われた後で、単なる供給需要の背後に実際は消え去ってしまった」(1958、p.1261-2)のである。
 先に富と価値は同一とした。その「価値は二物の間に存する相互関係を示し、この関係を正確に表すものは、一定量の他物との交換により収得可能な一物の量である」(p.30)。この相関価値( reciprocal value )を決定すべき原因は二組に分けられる。交換対象の二物のそれぞれに対する需要と供給である。日常語に従い、「商品に効用を与える原因の強さを「需要」なる語によって、また商品の量を制限する障害の弱さを「供給」なる語によって、表示する」(p.32:下線原文)。対句の気の利いた表現である。この表現の巧緻さに引きずられたのか、先述の価値の三条件の中、いつのまにか譲渡性が消えてしまっている。ともあれ、二組の原因のうち、一商品に働く原因(需要・供給)を「内在因」と呼び、この商品と交換される商品に働く原因(需要・供給)を「外在因」と呼ぶ。価値の変動はこれら変動の複合であるが、内在因の変動はその価値一般に騰落を与え、外在因の変動は互いに相殺し合うので安定傾向がある。
 加えるに著者は、富と価値を同一とする定義に反対する議論について記す。ミル・マルサス等は、富を人間労働の所産に限定する。しかしながら、牡蠣を食している時、偶然真珠を噛み当てることがある。これは労働の投下がないのに価値を有する場合である。「効用が存在するなら、生産に必要な労働を加えれば、価値が構成されることは真実である。これは、労働供給に制限があり、従って、供給に労働を要する物は、実にこの必要のために供給を制限されるからである」(p.52-3)。物の価値の原因として生産に必要な労働供給の制限も、(真珠の希少性のごとき)その他の供給制限も全く等しい。供給制限をもって価値構成の原因としているのである。投下労働価値説の「リカード氏にはこう答えたい。第一にその価値の主要部分を、その生産に実際に投じられた労働に負わない種類の富は、少数で重要でない部分どころか、富の大部分を占めること。第二に、供給の制限は労働自身の価値にも不可欠であるから、価値の条件として労働を採り供給の制限を退けるのは、部分的原因を以て一般的原因に置き換えるのみならず、明らかに原因そのものを拒むものであると」(記者曰く、第一の部分で、価値の「大部分」を占めるとしているのは、後述のレントを含めて云っているのだろうか)(p.53)。
 この後、「経済学の四基本命題の説明」の記述がある。命題そのものについては、『序講』のページで簡単に触れたので、個人的に興味を引かれたところだけを摘記する。
 まず、第一命題「各人は、できるだけ最小の犠牲をもって、富を増やそうと願望する」に関してである。シーニアは、部分的在庫過剰は認めても、普遍的・一般的在庫過剰(の学説)は認めない。なぜなら、一般的在庫過剰の存在を認める唯一の仮説は、一般的飽満の仮説であるが、これは「各人は富の増加を願望する」という命題に反するからであるという。願望はあっても実際の購買力が伴うかどうか、有効需要であるか、は考えられていないように私には思える。
 第二命題「世界人口、すなわち世界に住む人数は、道徳的または肉体的害悪か、もしくは各階級の住民が各人の習慣上要求する種類の富の不足を懸念する事からによってのみ、制限される」関して。この命題の前半は、マルサスの人口増加に対する積極的抑止、後半が消極的抑止に当たろうか。シーニアは、富の種類を、生活必需品、品位品、奢侈品の三種に大別する(『序講』のページを参照のこと)。このうち、品位品(「一定人が現在の社会的地位を保持するために用いるべき物品」)の喪失する不安が、人口の予防的抑止に効果があるとしている。健康や社会的地位と無関係な便宜品を喪失する不安によっては、大きく妨げられることはない。必需品の不足は、未開国に頻発する。必需品の不足が起こる時は、むしろ積極的抑止が働く時である。独身時代の社会的地位を保持できない恐れや、自分が受けた教育を子供たちに与えられない懸念が結婚を延期することになるのである。
 さらにシーニアは、マルサスの人口法則に与しない。人類の増加力は、常に長期的には、生産手段の増加に対する勝者であるというマカロックの説に同意する。このことは、すべての文明国が現在、従前以上の割合の富を保有する事実で明らかである。生存手段は人口よりはるかに増加する自然的傾向をもつ。「もし人類の中に、野蛮より文明に進む自然的傾向があること、および生存手段が野蛮国よりは文明国に比較的豊富なことが認められ、これら両命題が否定できないならば、当然食料は人口以上の率で増加する自然的傾向があるということになる」(p.104)。
 第三命題「労働力や富を生産する他の器具(生産要素)の力は、それらを更なる生産の手段として使うことにより、無限に増加されるだろう」に関して。シーニアは、物質的生産物のみを富とすることに反対する。非物質的生産物=サービスも富であるとする。生産物を物質的と非物質的、すなわち商品とサービスに別ける。この区分はアダム・スミスの生産的労働と不生産的労働の区分に暗示されたものに淵源するという。
 シーニアによれば、これらの区分は「考察の目的である物自身に存在する相違にあるのではなく、我々の注意を引く様式の相違にある。変更を起こす行為ではなく、その行為の結果、変更された物に、主として注意が引かれるとき、経済学者はその変更を起こした人を、生産的労働者、または商品・物質的生産物の生産者と名づける。他方、変更された物ではなく、その変更を起こす行為に、主として注意が引かれた場合は、経済学者はその変更を起こす人を、不生産的労働者、その働きをサービス・非物質的生産物と名づける」(p.110)。例えば鞣革から靴を作った結果に注目して生産的労働者あるいは商品、靴磨きの掃拭行為に注目して不生産的労働者あるいはサービスと称する如きである。この区分の原因は、第一に生産による変化の程度、第二にその変化の受益者が、その利益を購入する様式による。第一は労働の対象の名称が変化するかが、メルクマールである。第二は、支払様式の習慣である。医師や理髪師対しては、変更する労働を買うのに慣れている。そして、石炭貯蔵所から応接室まで石炭を運ぶ家僕の労働と、抗底から坑口まで石炭を運ぶ炭鉱夫の労働は全く同一であるが、前者は行為に対して支払い、後者は石炭その物に支払う。前者は非物質的生産といわれ、後者は物質的生産といわれる。未発達の社会では、製造は家内で行われた。主人の監督の下に、家僕が衣類を製造した。分業の発達は、糸巻棒と織機を広間から製造場へ追いやった。「分業は、紡ぎ手と織り手を不生産的労働者から生産的労働者に、非物質的サービスの生産者から物質的商品の生産者に転じた訳である」(p.113)。
 結局シーニアは、生産者をサービスの生産者と商品の生産者とに区分することには反対であるが、サービスと商品を区分することは便宜上認める。オックスフォードの講義においては、スミスの生産的・不生産的労働概念の不明確さを批判しているそうである(注2)。価値または富の形成に関しては、生産的労働と不生産的労働の差はない。彼においては、商品生産も、サービスの生産も等しく価値、富を形成するのである(注3)。
 もう一点、第三命題に関連して書かれたところで、よく知られるのは著者の「制欲説」である。生産要素( instruments of production )に関して述べられる。古典派の生産要素は、労働、土地、資本である。シーニアは、この三区分の原理には賛成するが、異なる用語を使用する。第二区分は「自然的要素」とする。これは、土地よりも広い概念であるが、説明を要しまい。独自なのは、第三区分が、「制欲」( abstinence )とされることである。資本は、人間労働の結果であり、一種の富である。資本は三生産要素の結合した生産物であり、それ自身生産要素ではない。生産要素として資本を排し、代わって制欲を採る。制欲とは、「自己の支配できるものを不生産的に使用することを差し控える行為、もしくは、即自的結果の生産よりも将来的結果の生産を意図的に選択すること表す。」(p.125およびp.191)と定義している。あるいは、制欲は、「労働および自然的要素とは区別される要素であり、資本の存在にはその協力を要し、それと利潤の関係は労働と賃金の関係に同じである。」(p.127)とする。第三命題において、富が無限に増大するだろうとしたのは、この制欲の働きにもよる。人間の生存状態を向上させるあらゆる手段の中、制欲が最も効果的であるにもかかわらず、最も増加が緩慢で、一般に浸透も遅れている。
 最後の第四命題「農業技術が同様の状態に留まるならば、所与の地域に投下される追加的労働は、逓減的な収穫を生じる。」に関して。著者は、製造業に使用される追加労働の能率は増加し、農業においては減少することを強調する。すなわち、労働に対し製造業は収穫逓増、農業は収穫逓減であると想定されている。
 さて、経済学の三大部門の中、富の性質と生産は考察したとして、「富の分配」に移る。社会は、労働者、資本家および自然的要素の所有者の三階級に分かれる。労働者には、安易を犠牲とした労働に対して賃金が支払われ、資本家には即自的な快楽を犠牲とした制欲に対し利潤が支払われ、自然的要素の所有者には無犠牲で「レント」が支払われる。その内容をまとめてみれば、下表の如くなろうか。

階級 行為 犠牲の内容 報酬
労働者 労働 安易の犠牲 賃金
資本家 制欲 即自的快楽の犠牲 利潤
自然的要素の
所有者
自然の援助の受理を認容 無犠牲の報酬 レント

 ここでシーニアに独特なのは、「レント」概念の拡張である。土地は自然的要素の主たるものであるが、唯一のものではない。自然の作用に関するわずかな知識でも、法律や秘密により制限される限り、土地のレントと同様な収入を所有者にもたらす。村の理髪師アークライトは水力紡績機の発明で巨万の富を得た。それが生む収入は、使用する労働・資本に対し、平均賃金および平均利潤を支払って尚余りある。それは、発見の成果であり、土地のレントに類似し、同一名称で呼ばれる。それ以外でも、「すべての境遇・関係の特別な利益および心身の特異性の利益は、同一項目に入れられるべきである」(p.195)。例えば、土地の場合、地主や小作人のなした土地改良の結果としての増収(注4)。ウォルーター・スコットの筆力の如き、心身の特別な才能による特別の報酬。戦争や突発事による在庫品の価格高騰で得た特別利益。等々。「レントをもって、自然または偶然時によって自発的に提供された収入」(p.273)とするのである。
 ここで記者云う。シーニアの rent は、訳書では「レント」と訳され、「地代」とは訳されていない。英和辞典で rent を引くと、「地代」( ground-rent )の外に「超過利潤」と書かれたものがある。手持ちの経済学辞典類には、なぜか後者の意味について説明したものがない。現代(少し古いか?)の教科書を調べると、サムエルソン『経済学 第13版』には、地代を説明した所で(注5)、地代決定の原理が、資本財・自然資源等すべての投入物にも適用できるとして、本文中は「レント」と訳されている。これは、シーニア的用語・概念である。また、シーニアの「レント」は、マーシャルの「準地代( quasi rent )」に似た概念だと思うが、調べた範囲では、このあたりについて書かれたものもなかった。
 これまでの説明を踏まえて、交換の議論に入る。価値(価格)の要因としては、供給側の要因が重視されている。そして、「供給は、その生産費によって制限される」(p.209)ので、「自由競争の下において、生産費は価格の規制者( regulator )である」(p.217)。しかし、トレンズが指摘するように、利潤は生産の終了後に発生すべきものである。利潤は費やすのではなく、造るのである。生産時に費やされるのは利潤ではなく、利潤を報酬とする節欲である。同様に賃金は報酬であって、費用ではない。そこで、「生産費は生産に要する労働と制欲の合計である」(p.215)と定義している(注6)。
 この生産費は生産者(販売者)側の生産費と消費者(購買者)側の生産費の二つに区分される。後者はシーニアに独特な概念であり、「一定の商品またはサービスの販売を受ける人が、購買する代わりに、彼らや彼らの一部が自分で、自身あるいは他人のために生産するとすれば、負担すべき労働と制約の総量である。」(p.216)と説明している。前者は価格の最小限に等しく、後者は最大限に等しい。なぜなら、価格が生産費以下で販売される商品を生産者は生産しない。また、消費者は自分で生産できる費用以上の商品を購入することはないからである。平等な競争の下では、すなわち誰もが平等な利便で生産可能な商品については、生産者価格と消費者価格は一致する。この論理は、消費者の一部が、いつでも生産者に成れるとする彼独自の論理である(森、1982、p.290)。こうして、「我々が、自由競争における価格の統制力を生産費に負わせる場合には、これを価格が定着する一点としてではなく、常にこれに接近しようとしつつある動揺の中心だということである」(p.219)。アダム・スミスの「自然価格」とその機能に類似した説明である。
 しかしながら、シーニアの慧眼は、自由競争の成立する条件を指摘する。「その完全な作用は、資本と労働が直ちに何らの損失なく一事業から他事業へと移動でき、かつ、あらゆる生産者があらゆる生産形式から引き出される利潤について十分な情報を持っているとの、なんら妨害要因がないと想像するときにおいてのみ、想定できるのである」(p.218)。ここで、現代ミクロ経済学の代表的教科書に書かれた完全競争の条件をあげてみる。それには、1.製品の同一性、および企業・消費者双方について、2.数が多く、その取引量は市場規模に比べて小さい3.市場価格等についての完全情報をもつ4.市場の参入・退出が自由である(ヘンダーソン、クォント、1973、p.129)――とされている。シーニアは、基本的な部分を押さえていると言っていいのではないか。のみならず、自由競争の条件は現実には成立しないことも、認識していた。「しかしながら、明らかに上記の仮定は、全く事実と相違する」(p.218)。資本、労働を他産業へ転用するには困難が伴うし、資本家が自己および他人の利潤を計量するのも簡単ではない。
 それでは、自由競争が成立しないとは、どのような状況か。「いかなる場合にも、特別な土壌や位置の利益、あるいは心身の特殊能力、または一般に未知の、もしくは、法律によって模倣から保護された方法の助けを受けないで、生産される商品は、いかに少ないであろう!」(p.220)。現実は、大部分の商品が、そのような自然的要素の援助を受けて生産されている。これら商品の価格(労働および制欲の合計)は、かかる援助を受けないで生産される商品の同一量価格より高い。こうして生産された商品は「独占」の目的物、自然的要素の所有者は「独占者」と呼ばれる。
 シーニアは、独占を4種に分類する。1.独占者が独占的生産力をもたず、一定の独占的便宜をもつ。生産量を同等または増加的便宜で増せる場合。2.競争の恐れなく供給増加も不可能であって、価格は消費者の意思と能力のみによって制限される場合。3.独占者が唯一の生産者であるが、労働と制欲の追加によりいくらでも増産しうる場合。4.生産を助ける自然的要素が有限でその力にも差異があり、かつこれに投じられる労働と制欲の量が増すごとに、これが与える援助が相対的に減少していくような場合。である。価格は、1.の場合は、消費者生産費によって上限が決まり、2,3の如く、消費者生産費がない場合は、消費者の意思と能力が上限を定める。下限はいずれも、生産費である。下限と上限の間のどこで決まるかは、「ほとんどいかなる準則にも支配されない」(p.244)。第4.の場合は、差額地代に典型的にみられるように、価格は最高の生産費に一致し、限界内の生産者の生産費と価格の差がレントとなる。
 ここに見られるのは、理論から生産量や費用総額を決定するにはほど遠いものの、「独占においてはその供給量が産業構造に基づく利潤極大の見地から考察されたことであろう」(森、1982、p.295)。なにがし、1930年代のロビンソン、チェンバリンによる不完全競争論、独占的競争論を思い起こさせる。いずれにせよ、これら一連の競争の議論が、古典派一般とは異なっているのは確かであろうと思う。
 ここで、少し独占に関して私見を付け加えておく。上記では第4.種の独占に関してだけ、レントとされているように読める。しかし、レント概念を記した所では wind fall gain のようなものまで、レントとしていることから、1.-3.を含めたすべての「独占利潤」をレントとしてよいのではないかとも思える。
 この後のレントや利潤を論じた箇所で、重要と思われる部分を追記する。「最良の方法は、賃金という用語を単なる労働の報酬に、利子という用語を単なる制欲の報酬に、利潤という用語を制欲と労働の結合に適用することであろう。この結果、資本家を、非活動的と活動的の二階級に分けることが必要となる。第一は単なる利子を受け、第二は利潤を獲得する。」(p.288:下線原文)として、企業経営を行う企業家には利潤を、資本を運用するだけの資本家には利子を、と報酬を区分する進んだ見解を示している。しかしながら、正確ではあるが、既存の用語と余りに乖離することを理由に、せっかくのこの区分を捨て、従前とおり利潤の用語を「資本の所有または使用により得る全収入」に戻してしまう。この利子・利潤区分の混乱原因は、高橋誠一郎によると、制欲の定義の曖昧さにある。既述のように、著者は制欲を「自己の支配できるものを不生産的に使用することを差し控える行為、もしくは、即自的結果の生産よりも将来的結果の生産を意図的に選択すること表す。」とした。前半の資本の形成行為と後半の資本使用の行為と云う全く異なるものを無造作に「もしくは」という接続詞で繋いで同一の用語で呼ぶことになった。制欲概念に、資本の運用の意味まで含ませたのが、混乱の元だと高橋はいいたいようである。
 賃金および利潤の決定要因に入る。「賃金を支配する諸原因の研究によって、利潤に影響する諸原因も大いに明らかになる」(p.426)とされており、まず賃金率決定の原因が探究される。しかしながら「これは経済学の包含するすべての主題中、最も重要にして最も困難なものである」(p.425)。シーニアは、賃金を「労働者が受け取る貨幣ではなく、商品を表すのと考えよう」(p.316)と実質賃金ととらえる。それは、なんら妨害原因がなければ一意に決まるはずであるが、現実には同一時所でもばらつきがある。彼の賃金決定メカニズムは、賃金基金説である。「簡単に言えば、労働者支持の基金 fund の大きさと、支持されるべき労働者数の割合」(p.329)によることが明らかである。
 それでは、その基金の大きさを決めるのは何か。「第一に労働者用商品の直接的または間接的生産における労働生産力。第二に直接間接に労働者用物品の生産に従事する人数と、労働家族総数との比で決定される」(p.374)のである。ここで、間接的という言葉が使われているのは、直接的に労働者用商品を生産するのではなく、資本家用商品である奢侈品を生産しても、それの輸出代価で労働者用商品が輸入される場合を考えるからである。
 まず、第一の労働生産力から見ていこう。シーニアは、労働基金説の父とされるマルサスに比べて、賃金に及ぼす労働生産力の影響を重視している。この点を、高橋は、近代的賃金学説の骨子が明らかに見いだせると評価する(高橋、1929、p.61-62)。労働者生産力に影響する原因として、次の四つをあげる。1.労働者の肉体的、知的および道徳的諸性質。2.労働を援助する自然的要素、すなわち、その国の気候、土壌、位置および人口密度。3資本使用によって受ける援助の程度。4.政府の干渉の有無。である。これらは、特に説明を要しないであろう。
 次に第二の、労働者家族総数に対する労働者商品生産労働者数の比である。分子が労働者数、分母が家族数となっているが、シーニアは賃金も労働者家族単位で数えたりするから、このような表現になったのだろう(後記では、労働者総数に対する、賃金生産に従事する労働者割合ともいっている:p.425)。要は、生産物全体に占める労働者用商品の比率、「もっと平たく云えば、労働の所産が資本家と労働者の間に分割される割合である」(p.305)。賃金基金は、一定期間に生産される労働者支持の商品のこと(実質ターム)であるから、この商品の質の改善か量の増大がなければ増大しない。もし、全労働者が自己用の商品生産に従事すれば、賃金率は労働者の生産力によってのみ決定される。文明化した社会では、労働者の大部分が自己の使用しない物品の生産に携わるので、この比率が重要となる。
 しかしながら、本来労働者が使用する基金(労働者用商品)の供給に雇用されるべき労働は、その外には、資本家用商品の生産に雇用されだけではない。自然的要素の所有者が使用する物品、政府の使用する物品の生産にも雇用される。「不正確ではあるが、簡単にいえば、労働は、賃金の生産に用いられるのではなく、レント、租税および利潤の生産に用いられるであろう」(p.388)。この中、レントは自然的要素の生産力の援助に対して支払われる。レントが存在するのは、それがない場合より生産力が増加したことであるから、レントが賃金を低下させる傾向は全くない。事実、過去の実例に照らしても、レント増加には賃金増が伴ったとする。労働が政府消費物の生産に雇用される場合は、不要・有害な目的に雇用されるなら、それは賃金からの控除となる。そうではなく政府の大目的である安全(記者曰く、トンプソン同様、18世紀中葉の著者にとって、安全は最重要のようである。)を守るのに使用されるなら、経費の一形式である。
 「こうして、レントをもって外在的なあるもの( something extrinsic )と考え、課税をもって経費の一形式( a mode of expenditure )とみるならば、唯一賃金の控除として残るのは利潤だけである」(p.304-5)。もう一度、先に上げた第二の場合、資本家と労働者が共同の基金をどのように分割するかの問題に戻ることになる。その割合を決定する原理は、二つある。第一に一般利潤率であり、第二は資本の回収(回転)期間である。
 第一原理、一般利潤率を考える。利潤の計測ついて、「資本家の利潤は、前払い価値( the value of the advance )と収益価値( the value of the return )の差にかかる」(p.400)としている。生産に投下した賃金、原材料の流動資本と機械設備である固定資本の価値合計が、前払い資本。加工された商品と古くなった機械設備の価値合計が収益価値である。この差が利潤である。一期古くなった機械設備を結合生産物と考えるのは、トレンズの影響かとも私には思えるが、意味するところは明解である。ところが、利潤率決定のメカニズムを、実例で説明する段になると、資本家用商品を生産する労働者割合での説明に戻ってしまう。この説明には、不明な点があり、福原や高橋も扱い兼ねているように見える(福原、p.50:高橋、p.62)。私にも理解できぬところがあるので、省略させてもらう。一方で、シーニアは、利潤率は、資本家と労働者の過去の行動によるとも、言う。また一般的帰結として、資本と人口の増加、および利潤率低下の不断の傾向が示せるとしている。
 第二原理の資本前払いに平均期間については、何ら一般原則がないが、利潤が低ければ長く成り、利潤が高ければ短縮する傾向があるという。オランダとイングランドは、世界のどこよりも利潤が低い。このため、収益回収の遅い事業はこれらの国で独占している。
 賃金率に影響する諸要因を最後にシーニア自らまとめている。これも、図式にしてみると、次のごときものとなるであろう。

労働者数

労働者総数に対する
労働者財生産者数
利潤率(労資の過去の行動による)
賃金
基金の額 労働生産力 資本前払期間
(利潤と逆傾向)

 最後に種々の職業や用途による賃金・利潤率の差異について述べている。これについても特段のことはないと思うので、省略する。以上で書きもらしたことを、一つだけ付け加える。シーニアは、利潤・賃金は相反するものではなく、同時に騰貴しうると考えていたことである。その点でリカードの説く所とは明らかに異なる。

  (補論 最後の1時間説)
 シーニアといえば、「制欲説」と「最後の一時間説」で知られている。後者は、『資本論』におけるその批判の一節(第1巻第3編第7節「シーニアの『最終一時間説』」)を通じて広く知られるようになった。本書には直接の関係はないが、この最後の一時間についても、少し説明を加えるべく、調べてみた。もっとも、原文は読んでおらず、主として福原の論文(1965,1971)を参照したことを、予めお断りしておく。
 18世紀中葉には労働者保護のための労働時間短縮運動があり、立法化の動きと共に議論がなされた。シーニアは、労働時間短縮に反対する論拠としてこの説を提出した。それは最初、商務省長官に対する書簡の中で述べられ、経済学クラブで公表、議論された後、それに対する反論と共にパンフレット Letters on the Factory Act(1837) に収められ公刊された。
 シーニアの根拠とする作例を見る。ある工場の資本と生産についての仮定は次の通りである。用語等は、わかり易いように自分なりに改めている。
1. 期首に、固定資本8万ポンド、流動資本2万ポンドの計総資本10万ポンドを投資する。
2. 総資本の純利潤率10.%で、年間純利益額1万ポンド。
3. 固定資本8万ポンドの原価償却額を年0.5万ポンドと仮定(16年償却)。原価償却を含んだ粗利潤は年1.5万ポンド必要となる。総資本に対する、粗利潤率は15%である。
4. 流動資本は年5回転する。年間生産量の直接費(主要費用)は、2万ポンド×5=10万ポンド。
5. こうして生産される商品の販売額は、直接費10万ポンドと粗利潤1.5万ポンドの合計11.5万ポンドとなる。粗利潤は、間接費(減価償却)0.5万ポンドと純利潤1万ポンドの合計である。
6. 労働者の労働時間は、1日11.5時間である。

 以上から、1日11.5時間の労働で、年間11.5万ポンド売上の商品が生産される。ということは、1日1時間の年間労働で、年間1万ポンド商品が生産されるということである。ここで、労働時間を1日1時間短縮して10.5時間にすると、売上高は10.5万ポンドになり、直接費と間接費を賄うだけで純利潤額は0となる。逆に労働時間を1.5時間延長して13時間とすると、売上高13万ポンド、費用10.5万ポンドで純利潤は2.5万ポンドになると計算している。従前の2.5倍である。こうして、労働時間短縮は、生産者から利潤を奪い、産業破壊につながるとして、シーニアは反対の立場を取る。
 以上の作例は、総資本額と直接費合計額が同じ数字であるので誤解を招き易いと思う。なによりも納得できないのは、労働時間の変動による、間接費の増減はもとより、直接費の増減が考慮されていないと思われる点である(労働時間延長の場合には、追加直接費が必要であるとは記しているが、原価には反映されていない)。
 さて、マルクスの批判に移る。労働者は、労働を支出する限りでのみ、価値を生産する。また、その価値は労働時間で測定される。労働者は、労働時間11.5時間を労働賃金と利潤の生産のために消費する他は何もしない。マルクスは賃金と純利潤を同価値であるとの仮定を追加し、労働者は自分の賃金を5と3/4時間(11.5時間の半分)で生産し、資本家の純利潤も5と3/4時間で生産するとする。シーニアのいう最後の1時間労働で、純利潤相当の価値を生産し、最後から二番目の1時間労働で賃金相当の価値額を生産する。そこで、問題となるのは、5と3/4時間の撚糸価値(マルクスは撚糸としている)をもつ生産物を,なぜ1時間労働で生産できるかということである。それは、撚糸価値5と3/4時間の中、4と3/4時間は、もともと生産手段(綿花、機械装置他)の中に含まれており、労働者の助けをまたないで、価値が移行するからである。1時間分だけが労働者自身によって付加されるにすぎない。労働者は生産に際し、シーニアの云う如く、流動資本補填分、賃金支払い用、粗利潤用と段階的に労働するのではない。労働者が紡ぐことによって、綿花と紡織の価値はおのずから撚糸に移るのである。最後の2時間の生産物は、他の時間の生産物と区別はない。
 剰余価値率を、剰余労働時間と必要労働時間の比で計算すれば、11.5時間労働の場合のそれらは、ともに5と3/4時間であり、剰余価値率は100%である。労働時間を1.5時間延長し、13時間となれば剰余価値率は126%余となる。逆に1時間短縮し、10.5時間になれば剰余価値率は82%余である(前者と後者の剰余労働時間は、5と3/4および4と3/4時間。必要労働時間はともに4と3/4である)。剰余価値率でみれば、シーニアの利潤ほど極端な変動はない。
 以上がマルクスの批判の概要である。批判と云うより、自らの剰余価値論の説明の便宜のため取り上げた感がないでもない。「教授はこれを「分析」と呼ぶ」とか「シーニアの記述は、内容の誤謬は全く別としても、混乱をきわめている」とかの悪罵が、その節の標題である「最後の一時間」というフレーズと共に印象に残る。このフレーズは、「このような工場では、全利得が、最終の1時間から出ていることを示している。」と書いたシーニア自身にも責任はあろう。しかしながら、どうもそのフレーズの故か、シーニアといえば、生産労働の最後の一時間から利潤が生まれる法則を主張した。今日では、ややもすると、このように受け取られているのではないかと、小生には思われる。しかし、彼が云いたかったのは、利潤は生産の1時間労働分に相当する統計的傾向があるということではなかったか。『経済学』で取り上げている、賃金の変動が資本利潤に影響することを書いたのと同じレベルのものでは、なかったかと思う。その例では、賃金額が1割、騰貴すると、それが資本家の取り分から控除されるとすると、利潤はゼロになる、2割騰貴すると、従前の利潤額相当の損失を被り、賃金が1割下落すれば、利潤は倍になる等々を記載しているのである(マンチェスターの調査例、但しシーニアはこれに同意していない)(p.306-7)。
 もう一つ、この説を述べるにあたって、生産量の変動が費用に与える影響を考慮していないのではないかという問題については、シーニアは一貫して(読んだ本書の範囲であるが)規模における、農業の収穫逓減と、工業の収穫逓増を強調していたことを想起させる。この立場から見れば、工業では、生産減は費用増となり生産増は費用減となり、利潤の増減を増幅させるだけであり、費用の詳細ことは考えるまでもないと、シーニアはしていたのではないか。そんなふうにも、私には思える。

 *少し本HPのシーニア、『経済学序講』ページの記載とは重なるが部分があるが、シーニアの著書 “An Outline of the Science of Political Economy” (以下 “Outline” と称す)と ”Political Economy”の関係、及びこれらの版次について書く。
 高橋の手になる訳書「経済学」に付された解題によると、”Outline”は、An Introductory Lecture on Political Economy. (1827) 他のLectures類をまとめて1836年にグラスゴーで出版された。全五編からなる Encyclopædia Metropolitana の、第一編第一部第五項の政治学中の経済学の項目として書かれたのが、 “Outline of the Science of Political Economy”であると書かれている。
 しかしながら、“Outline”の標題紙の次葉にADVERTISEMENTとして ”The following pages from the Article Political Economy in Encyclopædia Metropolitana. A few Copies have been struck off separately for private distribution.” と印刷された本がある(Google book および British library のカタログで確認)ことから、“Outline” には、抜き刷りのような形で発行されたものもあることが判った。そして、幸いに、この抜き刷り本も入手できた。この抜刷本がいわゆる “Outline” 「初版」とみなされているようである。なお、抜刷本のページ付は、辞書のページのままである。
 一方で、1850年に Encyclopædia Metropolitana の叢書のような形で、独立した単独の書物として “Outline” とほぼ同じ内容で、”Political Economy” が出版された。書肆はロンドンおよびグラスゴーのRichard Griffin Co.である。この1950年版には版次の表示がない(私蔵本の標題紙写真参照)。そして、海外図書館のカタログを探ると、”Political Economy” 1854年版が第3版、1858年版が第4版(これは私蔵)となっている。
 高橋の解題では、“Outline” と ”Political Economy” との関係は掛かれていない。このため、1850年刊行の”Political Economy” が書名を改めた初版で、1850年と1854年の間に第2版があったのではないかとの疑問が私にはあり、初稿(第一version)ではそう書いた。
 結論を言うと、そうではなかった。書名は変っても、版次は “Outline” と”Political Economy” とを通じて付けられているようである。従って1950年の”Political Economy”は、“Outline”の第2版と位置付けられると思われる。
 その根拠はAugustus Kelly の、“Outline”リプリント本(1965)標題紙裏にこう記載されていたのを見つけたからである。

  First edition, in quarto, 1836
  Subsequent edition in 8vo.
  Second 1850
  Third 1854
  Fourth 1858
  Sixth 1872
  ・・・・・・・

 同リプリント本のBibliographical Note にも、同様の趣旨が書かれている。
 もっとも、Encyclopædia Metropolitanaは、1836年以前から発行されていたようであり、以前発行の辞典にいわゆる”Outline” 同様の記事が掲載されていなかったかどうかの疑問は依然残る(もし掲載されていれば、独立本の形ではないが事実上の初版であろう)。これについては、いまのところ私には調べるすべがない。
 ついでながら、別刷りの“Outline” ではなく、その元記事にあたる部分をEncyclopædia Metropolitana そのものから抜き取った(extracted from )ものも入手したので、この写真もあげておく(発行年時は書肆に問い合わせたが不明)。
 初版及び1850年と1858年刊行本を、英国の別々の古書店から購入。以前から1858年版は私蔵していた。1850年版は、以上を確認するために、購入したようなものである。


(注1)訳書では「レント」と訳されているが、ここは地代とした。レントについては、後述。
(注2)福原行三 1964、p.73
(注3)シーニアには、またよく似た用語として、「生産的消費」と「不生産的消費」の区分がある。前者は「将来の商品生産を生じるように使用する」ものであるし、後者は「何ら将来の商品生産を生じない使用」(p.117)とされている。生産的消費とは、生産財の消費および労働者の消費財の中、必需品の消費からなるように読める。著者の云う品位品の消費は生産的消費らしい。私には、不明な点が多い。
(注4)土地改良を行った人にとっては、改良は資本の投下であり、増収は資本の利潤である。しかし、同じ土地が贈与や相続によって、自己の制欲や努力を以て創造した人以外の者の財産となると、増収はレントとなる(p.275)。
(注5)「第27章 生産要素の価格付け」の「土地の地代の場合」の記述。
(注6)そうは言いつつも、シーニアは、生産費は賃金と利潤の合計に等しいとも書いている。「また、こうして生産された商品は、生産費で販売される。換言すれば、生産に要する労働と制欲の総計に等しい価格で売れる。もっと親しみ易い表現を使えば、生産者がその活動を継続させるのに支払うべき賃金と利潤の総計に等しい価格で売れる。」(p.219)と。
 
(参考文献)
  1. サムエルソン  ノードハウス 都留重人訳 『経済学』第13版 岩波書店、1993年
  2. シィニオア 高橋誠一郎・濱田恒一訳 『経済学』 岩波書店、1929年
  3. シュムペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史3・4』 岩波書店、1957-8年
  4. 高橋誠一郎 「『経済学』解題 」(上記 シィニオア 所収:解題は高橋の著述とは明記されていない。共訳者との共著とも考えられるが、内容から見て高橋のものだと判断した。)
  5. 福原行三 「N・W・シイニョアの経済学の性格について」 大阪府立大学経済研究31、p.64-78、1964-04-02
  6. 福原行三 「N・W・シイニョアの労賃および利潤論」 大阪府立大学経済研究34、p.40-60、1965-02-01
  7. 福原行三 「10時間労働法とN・W・シイニョアの利潤最終1時間説」 大阪府立大学経済研究16(3・4)、p.1-30、1971-08-02
  8. マルクス 向坂逸郎訳 『資本論 第一巻』 岩波書店、1967年
  9. 森茂也 『イギリス価格論史』 同文館出版、1982
  なお、翻訳書からの引用については、文体が古いこと、述語が現代的でないこと(fundは「基本」とされている如き)から、原文にあたって、適宜改めている。


初版


(初版 標題紙ー標題紙はすべて拡大可能)

 
(別刷りの告知)



第2版と第4版


(第2版辞典標題紙)


(第2版経済学標題紙)


(第4版辞典標題紙)


(第4版経済学標題紙)


Encyclopædia MetropolitanaのPolitical Economy 記事部分



(2012.9.6記)
(2013.5.8 *以下の版次の説明を改定。これにともない前versionの初版を第2版と改める。Encyclopædia Metropolitanaの写真も追加する。2018.12.18 初版の入手により、これに合わせて書名及び「版次の説明」部分を改訂。初版写真も追加する)




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