MILL, J. S.,
Principles of Political Economy with Some of their Applications to Social Philosophy, in two volumes., London, John W. Parker, 1848, ppxvi+593; 549+ads,8vo

 ジョン・ステュアート・ミル『経済学原理、社会哲学への若干の応用をふくむ』、1848年刊、初版。
 著者略歴:1806年父ジェームス、母ハリエットの九人兄弟(四男・五女)の長男として生まれる。ジョン・ステュアートの名前は、ジェームスの勉学後援者の名前にちなんで名付けられた(ジェームスは、小商人兼小農家の出身である)。3歳の時から、父と隣家に住むジェレミー・ベンサムの作成したカリキュラムに従い、ギリシャ語・ラテン語をはじめとする父の英才教育を受ける。学校教育は受けていない。また、宗教教育も受けなかった。1820年14歳の時約1年間父の膝下を離れて、フランスに旅行した。セイの家にも泊まった後、トゥールズ近くに住むジェレミーの弟サミュエル・ベンサム家に滞在し自然を楽しんだ外、モンペリエ大学の講義を受講した。ミル青・少年期の唯一とも言える楽しい期間であったであろう。
 1823年父の勤務する東インド会社に就職(通信審査部)、ここでも直属の上司が父である。出勤前には、引続き父の教育がなされた。ジェームスがジョンを就職させたのは、自身の健康(結核)に不安があり、万一の場合大家族の生活に不安がないよう慮ったためである。もっとも、仕事は勤務中に著作が出来るくらい楽なものであったようだ。四六時中父の監視下にあったジョンは、感情に乏しい「無味乾燥で生硬な論理的器械」に成長していった。こうして、人造人間キカイダーは20歳の時、感情を喪失する「精神的危機」を迎える。『自伝』の山場でもあるこの危機の原因が疲労によるもの(W・トマス)であるかはともかく、これを突破できたのは、マルモンテル『回想録』で筆者の父が死亡するくだりを読んだ折である。ここにフロイド的解釈を施せば、ジョンの「父殺し」を見ることは容易であろう。
 以後、ベンサム主義者たるジョンは次第に詩と感情を重んじ、思想は合理主義よりロマン主義の色調を帯びて来る。そこで巡り合ったのが、ハリエット・テイラーである。ハリエットは、富裕なロンドン商人の夫人であり、知性に恵まれた女性であった。そして、ジョンにインスピレーションを与え続け、『論理学体系』(1841)、『経済学原理』(1848)等の著述に多くの影響を与えた。彼女が『自伝』に描かれたように真に優れた知性を持っていたか、あるいはそれは「恋は盲目」のなせる業かは、未だ議論が別れる所である。ただ、強い性格の女性であったことは確かなようで、世間の非難にもかかわらず、夫・子供と別居してジョンと大陸各国に旅行している。ハリエットは、父に代わって精神的指導者の地位に立ったのである。夫の死後(最後は看取っている、遺産も受贈)1851年にジョンと結婚、「純愛」状態は終わった。
 ジョンは、1857年東インド会社廃止により同社を退職。しかし好事魔多し、妻とフランス旅行中に、アヴィニオンでハリエットが急死する。ジョンはハリエットの墓地近くに居を構え、アヴィニオンとロンドン(国会議員活動等)で生活するようになる。晩年の彼を支えたのは、ハリエットの先夫の子で女優のヘレン・テイラーであった。『自由論』(1859)、『功利主義』(1863)等の著作を公刊し、スコットランドの大学総長にも就いている。1873年ナチュラリストでもあったジョンは、『昆虫記』のファーブル(注1)と植物採取に出かけ、帰宅後病の床に就き、そのまま数日後に死亡。ハリエットの墓と並んで葬られた。

 19世紀後半の争うことなく経済学者たちのバイブル(ブローグ)であった書。1846年遅くに執筆を開始し、翌年3月には第一稿を脱稿、短期間で完成された。ミルは成人以後この執筆期間を除けば、経済学の研究に時間を割いたことはほとんどなかった。経済学の著作は、他に『経済学試論集』、遺稿『社会主義論』くらいである。本書の副題「社会哲学への若干の応用をふくむ」が示すように、社会哲学の一環としての経済学書を企図した。
 ミルは序文で、原理と応用を組合せたスミス『国富論』の新版―以後の経済学の発展を反映させた―を目指すとしている。理論的にはリカード学説の継承と完成を標榜し、価値論を除いてほぼリカードにしたがっている。本書には「リカードの理論からの系として示しえない(純粋に経済学上の)見解が、ひとつでも」あるかどうか疑わしいと友人に語ったという(トマス,1987,p.94)。
 錯綜した事実を解きほぐし、抽象的概念を解りやすく説明することは彼の得意とする所であった。新理論を提供するとの気負いはなく、既存知識を整理・発展させたのみとの風を装ってはいるが、リカードの比較生産費説の拡張、スミスの相対賃金論を労働市場の非競争集団として説明する等々独創的な理論に満ちている。そう感じさせないのは、著者自身の謙遜に加えて、「マーシャル『原理』同様、その独創的特徴が目立たないようにうまく書かれている。」(ブローグ,1989,p.182)せいか、あるいは「ジェヴォンズは陳腐の言を発した場合でさえ新鮮であり刺戟的であるが、ミルはたとえ貴重な英知を言明している場合でも新鮮とも刺戟的とも響かない」(シュンペーター,1957,p.954)ゆえか。
 しかし、ミルは自身には謙虚であったが、当代の経済理論に対してはそうではなかった。この啓蒙の時代は、あらゆる問題を解決してしまっており、自分の述べていることは、これ以上のものはない終局的なものだとの自負が見え隠れしているのである。例えば、「価値の法則には、今日の著述家が究明しなければならないものは、幸いにしてなにも残っていない。この問題に関する理論は完成している。」(邦訳V,p.19)との記述がある。
 本書は、「生産」、「分配」、「交換」、「生産および分配に及ぼす社会の進歩の影響」、「政府の影響について」、なる標題を有する5篇からなる。最初の4篇が理論篇であり、第五篇は『国富論』の第五篇に対応する応用篇である。そして、理論篇のうち最初の3篇が静態の理論で、第四篇が動態の理論である。
 ここで、静態論は静止的・不変的・均衡的な理論で、動態論は前進的で変化の理論である。動態・静態の区分はミルによって初めて経済学に導入された。ミルはこの区分を「数学で使われる成句の適切な一般化」(邦訳W,p.9)であるという。しかし、シュンペーターいわく、ミルは親交のあったコントからこの語を取り、さらにコント自身は動物学者ブランヴィルの用語法から借用している。「その最終の貸主は力学ではなくて動物学であった」と(シュンペーター,1957,p.877)。とまれ、コントは、社会の構造論を静態論、社会の歴史を動態論としていたのである。
 本書の構成について、さらに続けると、分配は交換と貨幣メカニズムに媒介されて行われるので、交換論は分配論の続編に位置付けられている。また、生産・分配・交換の静態論の区分は、セイの『経済学概論』の3分法に同じ(但し、セイは第三が消費)で、父ミルやマカロックの4分法(第四は消費)に近い。
 本書内容について、篇を追って見てみよう。ミルは「生産」(第一篇)について、人間ができるのは、自然力が働けるように対象を妥当な位置に置くことだけで、後は自然力=物質の性質が総ての仕事をなすとする。そしてその自然の代表である土地に分量と生産性の限度があることこそ、生産の真の制限となる。「それは、富裕勤勉なる社会に何ゆえに貧困があるかという、その原因の問題の全部を含んでいる。そしてこの一事を完全に理解しないかぎり、われわれの研究をこのうえさらに進めることは無駄となるのである」(邦訳T,p.328)。特に土地生産性による制限=収穫逓減の法則に重きを置き、それに対抗する生産改良策および人口制限の必要を提唱している。
 第二篇「分配」に入って、その序説で、ミルの名と共によく知られる「生産と分配の二分法(ダイコトミーというのだそうである)」が出て来る。およそ、富の生産は物理的法則によって制限され人間が自由に変更できないが、富の分配は人間の造った歴史的な制度によるもので変更可能であるとする考えである。「富の生産に関する法則や条件は、物理的真理の性格をもち、人間の意のままに動かしうるものは何もないものである。…ところが、富の分配はそうではない。それはもっぱら人為的制度の上の問題である。ひとたび物が存在するようになったならば、人間は、個人的にも集団的にも、それを思うままに処分することができる」(邦訳U,p.13-14)。この点を、古典派経済学者として初めて、私有財産制度の一過的性格を明らかにしたものと評価するむきもある。――私はむしろ、生産は限界原理にもとづき、分配は国家が支配する、市場社会主義(競争的社会主義)を思い浮かべます。
 続いて分配篇は、私有財産制を社会主義(共産主義はその極限とするが、区別は明確ではない)と関連付けて論じる。次に私有財産制の分配要因として競争と慣習をあげる。慣習を分配要因とするのが奴隷制、自作農、分益農であり、競争を要因とするのが入札小作農、三階級制(労働者・資本家・地主階級)である。慣習による共同体経済と競争による市場経済について述べている。そして、賃金論・地代論・利潤論でこの篇を終わる。
 この分配篇では、初の部分である社会主義思想を論じた箇所、一種の比較経済体制論をもう少し見ておく。その論調は、版を重ねる毎に、これらの社会主義思想に対する同情が深まって行った。ミルは、共産主義よりも社会主義、サン・シモン主義よりはフーリエ主義の方に好意的である。フーリエ主義は、全員に最低限の生活資料を分配した後、残余の生産物を労働、資本、および才能の三要素へ割り当てるものである。
 ミルは、資本主義(私有財産制)と共産主義とを比べる場合、とかく資本主義は現実のもの、共産主義は理想的なもの(「今日観念上に存在するに過ぎない」)を取り上げ比較しがちで、不公平であるとする。今日のような実質上労働者の移動・職業選択の自由がない社会、女性が隷属している(資本主義)社会は比較の対象ではない。また自らの労働と制欲の果実以外を保証するのは私有性の本質ではない。
 最善の社会主義と理想的な私有財産制を比較してみた場合、どちらが人類社会の最終形態となるのかを決するのは、「ただひとつ、二制度のうちどちらが人間の自由と自主性の最大量を許すか」(邦訳U,p.31)という点にある。問題となるのは「共産制には個性のための避難所が残されるか、世論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監視される結果、すべての人の思想と感情と行動が凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか」(邦訳U,p.32-33)である。
 結局ミルが望んだのは、所有の廃止や平等化ではなく「だれもが生計のために働き、適度な財産を享受し、自分の心を向上させるだけの余暇をもつような全体のブルジョア化」(トマス、p.104)ではなかったか。
 第三篇交換論は、価値論(価格論)である。部分均衡論による需要・供給説で説明したものである。この篇には、著名な国際価値論等が展開されているが、詳しい内容紹介は省略する。
 第四篇は、先述の動態理論の部である。その第六章が、よく知られた「停止状態について」である。富の増加は無際限ではく、経済進歩の終点には停止状態がある。最も富裕にして繁栄している国も、生産技術の進歩が止まり、可耕地が開拓し尽くされ、後進国への資本流失が終われば、停止状態に達する。それは不可避である。これまで、経済学者は進歩的状態を経済的に望ましい事と同等と考えて来た。ミルは次の如く、停止状態に積極的評価を与える。「旧学派に属する経済学者たちが…示していたところの、あのあらわな嫌悪の情をもって、見ることをえないものである。私はむしろ、それは大体において、今日のわれわれの状態よりも非常に大きな改善となるであろう、と信じたいくらいである。」(邦訳W,p.104-105)
 現在の産業的進歩の状況では、人びとは、自らの地位の向上のため、互いに他人を踏付け、押倒し、押退け、している。しかし、人間性にとって最善の状態は、誰も貧しい者はおらず、そのためもっと富裕になりたいと思わず、他人に抜け駆けしようとあくせくすることのない世界である。あるいは、自ら獲得蓄積したもの以外に多くの財産を持たず、荒々しい労苦や機械的な煩雑な事柄から免れて、人生の美質を自由に探求できる状態といえようか。これは、「ただに停止状態と完全に両立しうるというばかりでなく、また他のいかなる状態とよりも、まさにこの停止状態と最も自然に相伴うようである」(邦訳W,p.107-108)。
 さらには、むしろ進んで早めに、停止状態に入るにしくはない。というのは、人間が思索や人格を深めるためには孤独(人口稠密では不可能)が必要であることを考え、そして食糧増産のため、家畜以外の動物は絶滅させ、可耕地にするため豊かな自然が掘り返され、草花は引き抜かれるようなことになるのであれば、「しかもその目的がただ単に地球により大きな人口――しかし決してより優れた、あるいはより幸福な人口ではない――を養うことを得しめることだけであるとすれば、私は後世の人たちのために切望する、彼らが必要に強いられて停止状態にはいるはるか前に、自ら好んで停止状態にはいることを」(邦訳W,p.109)――産業革命時代に、若い頃野花をつんだ田園が、ロンドンの市街と化したのを目の当たりに見たミルの感慨もあるのであろう。停止社会では、産業上の改良が富の増大に奉仕するのではなく、労働を節約するのに使用されるとも評価している。
 続く第七章「労働諸階級の将来の見通しについて」は、ミル自身が云うように、「他のどの章にもまさって世論に大きな影響を与えた」ものであり、また「完全に妻に負うものであって、同書の最初の草稿にはあの章はなかった」(ミル,1960,p.213)ものである。
 時代の要請は分配の改善と労働に対する報酬増加である。もはや、人類を雇用者と被雇用者という二つの世襲的階級に永遠に区別しておくことはできない。この二階級区分の形態を取らずとも、集団の結成が持つ文明化力と大規模生産が持つ効率は生かせる。それが、共同組織(アソシェーション)である。それは資本家と労働者の協同組織となり、あるいは労働者同志の協同組織という形態を取る。
 労資間の協同組織は、すでに以前から実行されている。「出来高払い」あるいは「利潤参加」方式といわれるものである。労働者同志のものも、英仏の成功例を詳細に書いている(それは、第二篇のフーリエ主義に対応するものではないかと思う)。そして、結局においては、労働者が共同所有し、自らのリーダーを選ぶ後者の組織が支配的になると予想した。そこでは、報酬に対し最少の仕事をする資本家の下の労働と異なり、報酬に対し最大の仕事をなし、生産性が増大する。優秀な労働者はアソシェーションを組織するので、ついには資本家は残った劣等な労働者を雇って苦労するより、資本を協同組織に貸与して利子を受け取る方を選ぶ。「結局、しかもおそらくは予想以上に近い将来において、私たちは、協同組合の原理によって一つの社会変革にたどりつく道を・・・もちうるであろう」。協同組織はその成功を得るための唯一の手段である(邦訳W,p.176,下線は記者)。
 しかしながら、深井英吾(注2)の著書と推定される「現時之社会主義」が早くも明治26(1893)年にいったように、ミルの未来社会予測は当たらず、社会改造もなされなかった。いかに偉大な人物によるものであれ、とかく予言は実現し難い。マルクスしかり、スペンサーしかり(杉原,1980,p.179-180)。
 第五篇の内容についても略す。
 
 以前、革装美本の初版をオーストラリアの書店から購入した。ただし、上巻だけであった。下巻の出るのを待っていたから、安い揃い本が出ても見逃すことが続いた。なかなか、別々に揃えることは難しいと思い知らされた。しかし、幸いに元装のままの更に安い上下揃い本に巡り合って、ようやく買うことができた。アメリカ古書店よりの購入。

(注1)ファーブルとは、ハリエットの死後、知遇を得る。ファーブルが借家を追い出された時、ミルは金銭援助をした。度々、植物採取行を共にしている。日本ファーブル会のHPには、ミルを英国の植物学者!としている
(注2)ここは、確認せず記憶で書くが、深井は徳富蘇峰の外遊時の秘書を勤めた人。蘇峰と同じく同志社の出身。日銀に入りその見識は他を圧したという。後日銀総裁になる。
(参考文献)
  1. 小泉仰 『J.S.ミル イギリス思想叢書10』 研究者出版、1977年
  2. 四野宮三郎 『J.S.ミル 経済学者と現代3』 日本経済新聞社、1977年
  3. 杉原四郎 『J.S.ミルと現代』 岩波書店、1980年
  4. 杉原四郎他編 『古典派の経済思想 経済思想史1』 有斐閣、1977年
  5. シュンペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史 3』 岩波書店、1957年
  6. W・トマス 安田隆司・杉山忠平訳 『J.S.ミル』 雄松堂出版、1987年
  7. イヴ・ドゥランジュ ベカエール直美訳 『ファーブル伝』 平凡社、1992年
  8. ブローグ 久保芳和他訳 『経済分析の歴史 上 古典派』 東洋経済新報社、1966年
  9. ブローグ 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1989年
  10. 馬渡尚憲 『J.S.ミルの経済学』 お茶の水書房、1997年
  11. ミル 末永茂喜訳 『経済学原理(一)〜(五)』 岩波文庫、1959−1963年(邦訳と表示、一部翻訳を改めた箇所あり)
  12. ミル 朱牟田夏雄訳 『ミル自伝』 岩波文庫、1960年
 




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(H22.8.1記)



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