MARX, KARL,
Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Dritter Band, erster Teil, Buch III: Der Gesammtprocess der kapitalistishen Produktion. Kapital I bis XXXVIII. Herausgegeben von Friedrich Engels. Hamburg, Verlag von Otto Meissner, 1894, pp.xxviii+448, 8vo.
MARX, KARL, Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Dritter Band, zweiter Teil, Buch III: Der Gesammtprocess der kapitalistishen Produktion. Kapital XXIX bis LII. Herausgegeben von Friedrich Engels. Hamburg, Verlag von Otto Meissner, 1894, pp.iv+422, 8vo.

 マルクス『資本論 第三巻 第一分冊 資本主義的生産の総過程』および『資本論 第三巻 第二分冊 資本主義的生産の総過程』共に、1894年刊初版。

 はじめに、
1.『資本論』からの引用は、鈴木鴻一郎他訳を用いて頁数のみを表示する。但し、鈴木訳は省略部分があるので、マルクス=エンゲルス全集の岡崎訳を用い補う。その場合は岡崎訳と注記する。
2.巻・部・篇の表示は漢数字を用い、章以下は算用数字を使用する。

 マルクスは、第一巻の出版(1967年)以前に全三巻にわたる草稿を書き上げていた。第二部(巻)は三章14節からなり(1864年)、第三部は七章からなる(1865年)もので、第一稿といわれる。第二部はその後、70年までに第二~第四稿と改稿され、更に病気の中断を経て、印刷用原稿たるべく81年まで第五稿~第八稿と書き改められた。それに対し、第三部は第一章のはじめに手を入れた三つの断片(第二~第四稿)と利潤率に関する剰余価値率の数学的展開原稿の他は、いくつかのメモとノートがあるのみであった。エンゲルスが第三巻編集の基礎とするには二つ折り判600ページのこの第一稿しかなかった。
 「第三部のためには、たったひとつの、しかも欠けたところのまったく多い最初の草案があっただけだった。概して、各個の篇のはじめほうはかなり念入りに手が加えてあり、文書もたいていは仕上げてあった。ところが、先の方に進むにつれて、論述はますますスケッチ的で不完全なものになり」(第三巻序文:岡﨑訳)、順序が定まらない副次的論点の余論がますます多くなり、文書はますます長く錯綜したものになったと。
 「ずっと完全に書き上げられていた」(同)第六篇でも、「19世紀の初め [時期をもっとくわしく示すこと] 」(p.1192)とか「表Ⅰに対応する [ここで当時の劣等地の耕筰に関する引用文をあげること] 」(同)とかのマルクスの「メモ」が残っているようなあんばいである。
 不備を補うために、エンゲルスが所々に補注を加えている。「第四章については表題があるだけだった」(同)場合では、まるまる一章がエンゲルスによって書かれている所もある。話が脱線するが、面白いのは、エンゲルスの肉声が聞こえてくるような箇所である。例えば、ロイドーオーヴァストーンのことを [彼はマンチェスターの私の商会の取引銀行業者であった] (p.1040)とか、手形の利子に対するマルクスの説明に対し、[これは私の経験とは一致しない―― F.エンゲルス] (p.1110)とかのように。

 第三部(巻)は、第一篇から第七篇の全七篇から構成されている。章は篇を通して付けられ第52章まである。これから第三部の内容を見ていくことにする。ただし、「第一篇 剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化」、「第二篇 利潤の平均利潤への転化」、および「第三篇 利潤率の傾向的低下の法則」については、本HPのベーム・バウェルク「マルクス体系の終結」(古典派・19世紀)、ボルトケヴィッチ「マルクス体系における価値計算と価格計算」(20世紀)、同「『資本論』第三巻におけるマルクスの基本的理論構造の修正について」(20世紀)で書いた内容と重複するので省略する。
 ただ、この省略する第一~第三篇について、マルクスの考えを最小限でいうならば、以下のごときか。剰余価値は生産過程で労働によって発生する。マルクスはしばしば、剰余価値を可変資本(賃金支払い資本)と同額だと仮定している(剰余価値率100%)。各産業(企業)で発生した剰余価値が全産業でプールされ、そこから競争により個別資本に配分されて利潤となる。その配分基準は、総資本に占める個別資本の割合である。こうして一般利潤率および価格(費用価値+利潤)が成立する。
 マルクスにおいては、価値と価格は混同されている、あるいは明確に違いが意識されていない。それは、価値表現を無名数で表したり、ポンドで表現することに見られる。重要な命題である「総価値(総費用価値+総剰余価値)=総価格(総費用価格+総利潤)」が成立するのも、当然であろう。費用価値は費用価格のことであり、利潤は剰余価値が分配されたものであるから総額では同額であるからである。

 そこで、第四篇から、みていくことにする。
  ((第四篇 商品資本と貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化[商人資本]))
 商業(商品取引資本)そのものは、剰余価値を生まず、それを実現する機能がある。「商業資本も、産業資本によって実現された商品価格ではまだ剰余価値または利潤の全部が実現されていないからこそ利潤を実現するわけである」(マルクスによる、ジョン・ベラーズからの引用)。
 商品の現実価格=商品の生産価格+商業利潤、となる。この商業利潤は生産過程から生まれた剰余から派生したものである。マルクス(p.909:強調引用者)はいう、「商業資本は、価値を実現するというその機能によってのみ、再生産過程で資本として機能するのであり、したがって、機能する資本として、全資本によって生産された剰余価値から分け前をひきだす」。先に、個々の産業(企業)は自己の生産した剰余価値にかかわらず、産業界全体から発生した総剰余価値のプールから、総資本に占める自己資本の割合で利潤を受け取るとするマルクスの考えかたを見た。商業はその極限で、何ら剰余価値を生まないが、資本は使用するので、その使用割合に応じて利潤を受け取ると考えれば、解りやすいのではないかと思っている。「商人資本にとっては利潤率は与えられた大きさなのであって、一方では産業資本の生産する利潤の量によってきめられており、他方では全商業資本の相対的な大きさによって、すなわち生産過程と流通過程に前貸しされる資本総額に対する全商業資本の量的な割合によってきめられている」(p.925)。商業資本家は剰余利潤の分け前を獲得するために、必ずしも自ら労働者を雇用して搾取する必要はない。
 それでは、商人(商業資本)に労働者が雇用される場合、商業労働者の生む剰余価値(彼らも必要労働時間以上に労働する)は、どうなるか。それらは全産業で生まれた剰余価値のプールに加わるのであろう。しかし、商業部門で発生する費用そのものが、産業部門で生まれた剰余価値で賄われるはずである。そうなると、商業部門の費用価値から同剰余価値を引いたもの(c+v-m)が、産業資本からの剰余価値で賄われることのなると、私は思っている。それに関連するのだろう、マルクスは、商人の可変資本(雇用労働者の賃金)の性格について長い議論を行っている。それらが費用に入り価格を構成するかというような問題である。よく理解できぬ所があるし、重要ではないと思うので割愛する。
 産業資本家にとって、商業(資本)の独立は、自らの手で流通を担うよりも利潤を減らすことになるが、商業資本の集中(規模の利益)により、商業費用の減少が伴う。産業資本家の必要流通資本(運転資金)も減少し、資本の回転を速められる。
 ついでながら、産業資本の回転に関連して、つぎのようにのべているのは、私には面白い。商業資本は、資本の回転速度に応じて、商品価格に上乗せされる利潤率が増減する。たとえば、年1回転の資本では15%の利潤が付加されるのなら、資本が年5回転する場合は3%の付加でよい。「ところが産業資本のばあいは、回転期間は生産される個々の商品の価値の大きさにはけっして影響しない」(p.928:強調引用者)。所与の期間に生産される価値や剰余価値には影響はする。しかし、個々の商品の価値には資本の回転期間は影響しない。同一労働の投入であれば、3か月で生産されようが、1年かけようが価値は同一である。生産過程で発生する価値は時間概念と無関係。価値の無時間性をいっているのであろうか。それでも実際には、時間当たりの剰余価値が多い生産方法が選択され、長い生産期間の方法は採用されないことをいいたいのだろうか。良く判らない。

  ((第五篇 利潤の利子と企業者への分裂。利子うみ資本))
 エンゲルスは編集上の「おもな困難は第五篇にあった」とする。対象が第三部の中での最も込み入ったものである上、執筆途中でマルクスが病に襲われたので、できあがった草案がなかったとしている(第三巻序文:岡崎訳)。叙述は体系的とはとてもいえない。さらに、篇中には、当時の経済制度についての記述や学説の引用、コメントなども多く、今となっては重要でないと思われる記述も多い。
 それらの章を除いて、読んで興味を覚えた箇所を拾い上げて、箇条書的に摘記する。第五篇は長いこともあり、箇条書きの標題の意味合いで、適宜、章区分を加える。

  (第21章 利子うみ資本)
 商業資本はそれ自身、流通行為では剰余価値を生まず、資本としては機能しない。商品資本が資本として機能するのは剰余価値生産過程の一環(剰余価値の実現)としてである。同様に貨幣資本も、実際には単に貨幣として、つまり商品の購買手段としてしか働かない。商品と貨幣が流通過程で資本とされる理由は観念的なもので、客観的には再生産過程の要因としてである。現実の運動で資本として存在するのは、流通過程のなかではなく、生産過程(労働力の搾取過程)においてである。
 だが、利子うみ資本はそうではない。「自分の貨幣を利子うみ資本として増殖させようとする貨幣所有者は、貨幣を第三者に譲り渡し、これを流通に投じ、これを資本として商品にする。自分にとってだけではなく、他の人々にとっても資本として。[中略]はじめから資本として、すなわち剰余価値、利潤をつくりだす使用価値をもつ価値として、第三者に手渡されるのである」(p.944:強調原文)。貨幣は、貨幣そのものとしての使用価値に加えて、資本として機能するという追加の使用価値を持つことになる。それは、貨幣が資本に転化して生産する利潤のことである。
 剰余価値生産という追加使用価値を実現した資本は、返還されるとの条件付きでのみ、この価値が譲渡される。「それは貨幣として支出されるのでもなければ商品として支出されるのでもなく、[中略]それは資本として支出されるのである。[中略]こういう関係のなかで資本は貨幣をうむ貨幣としてあらわれる」(p.946)。こうして、利子うみ資本を貸し出す資本家が成立する。マルクスは彼らを貨幣資本家と呼び、機能資本家(産業資本家、商業資本家)と区別する。出資者と企業者のことである。
 資本として存続するために、前貸しされた資本は、自己を維持するだけではなく、増殖(剰余価値を付加)して、G+ΔGとして還流しなければならない。そしてこのΔG部分が利子であり、(平均)利潤のなかから機能資本家の手から離れて貨幣資本家に移譲される部分なのである。一般の商品の場合は、使用価値が消費されると商品そのもの、そしてその価値もなくなる。資本という商品の場合は、その使用価値の消費によっても、価値と使用価値が維持されるのみならず、増加する特性もある。
 商品一般の場合は、買い手・売り手双方とも、取引後にも等価を所持している。買い手は商品形態で、売り手は貨幣形態で。貸付の場合は、貨幣資本家はこの取引で等価なしに一定期間、価値を手放す。しかし、価値の所有者は貸し手のままである。貸付時点では可能的資本にすぎない資本は、借り手に使用されてはじめて、増殖され資本として機能する。それは、借り手により実現された利潤の一部を加えて、価値プラス剰余価値(利子)として貸し手に返される。利子がなければ、資本は貸し出されない。
 ここでの商品は資本である。そして、貸借であって売買でないことがこの特殊な商品の性質からでてくる。ここで支払われるものは、利子であり商品の価格ではない。一見、利子は貨幣資本の価格のように見える。しかし、「資本の価格としての利子というのは、はじめからまったく不合理な表現なのだ。ここでは一つの商品が二通りの価値をもっている」(p.955)。一つは、貨幣資本の価値であり、もう一つは利子という価格の貨幣表現の元となる価値である。

  (第22章 利潤の分割。利子率。「自然」利子率。)
 利子は利潤の一部であるから、利子率は利潤率によって決定される。この利潤率は、個別利潤率ではなく一般利潤率のことである。一般利潤率の決定は資本間の利潤を求める競争(古典派に同じ)による。商品の平均市場価格の生産価格への均等化をつうじて、間接的に一般利潤率が成立するのである。資本のばあいは、資本そのものが買い手に対して商品であり、利子率は直接に確定される。マルクスはこれを、利子率決定は「同時的な大量作用」(p.967)であると言っている。貨幣(資本)市場では、資本は独立した、区分の無い均質の貨幣形態を取る。資本が、生産部面や流通部面に投ぜられていた特殊な形態はすべて無くなっている。
 商品の価格は需要供給の競争とは独立して、価値にもとづく生産価格という資本主義の内的法則によって規制されている。需要供給の変動は、市場価格の生産価格からのずれだけを説明する。「しかし貨幣資本の利子はそうではない。ここでは競争が法則からのずれをきめるのではない。競争によって命ぜられる法則以外には分割の法則は存在していないのだ。[中略]利子歩合の「自然」率なるものは存在しないからである」(p.958)。絶えず変動する市場利子率の平均利子率、あるいは自然利子率を決定する法則はない。「利子の自然率なるものは、経済学者が利潤の自然率とか労賃の自然率とかいっているような意味では、存在しない」(p.963)とマルクスはいう。労働価値説では説明できないということであろう。

  (第23章 利子と企業者利得)
 資本家の貨幣資本家と機能資本家(産業資本家と商業資本家)とへの分離が、利潤を分割し、一部分を利子に転化させ利子という範疇を生み出す。他の部分は企業者利得という範疇となる。後者を監督賃金[wages of superintendence]とも呼んでいる(p.960)。自己資本だけを使って、他人資本を借り入れない資本家もまた自己の利潤の一部を利子という範疇で捉え、利潤を利子と企業者所得に別ける。内部計算のことであろう。
 機能資本家は、再生産過程において、賃金労働者に対立する貨幣資本家所有の資本を(も)代表する。貨幣資本家は、機能資本家に代表されて、労働の搾取に参加している。そのことは、見逃されがちになる。利潤(剰余価値)を利子と企業者利得の二つに区分する形態では、労働に対する関係はなんら表現されていない。労働との関係は、労働と利潤すなわち二部分の合計であり統一である利潤(剰余価値)との間においてのみ存在するからである。
 「この利潤に対し請求権をもつ二人の人(貨幣資本家と機能資本家:引用者)がこれをどのように分け合うかは、それ自体としては純粋に経験的な、偶然に属する事実」(p.965)であるとマルクスは書いている。貨幣資本家の受け取る利子は市場利子率に従うと考えれば、特別な剰余利潤は機能資本家に帰するのだろう。あるいは、下記にみるように機能資本家が受け取るものが監督「賃金」と考えるなら、特別剰余は貨幣資本家に帰することになるのだろう。
 「貨幣資本家に対しては産業資本家は労働者であるが、しかし資本家として、つまり他人の労働の搾取者として、労働者なのである。彼がこの労働に対して要求し手に入れる賃金」(p.989:強調引用者)は、この労働の搾取量に依存し、彼の努力には依存していない。イギリスでは、恐慌後に元の工場主が、以前に自分の所有していた工場の管理者として、債権者に安い賃金で雇用されているのがしばしば見られる。
 さて、監督労働は二面がある。協業から生ずる協働業務を遂行する諸機能および資本家と労働者の対立から生ずる特殊な諸機能である。前者は、社会的労働としての労働機能から生じ、共同の結果を得るために、労働者の結合と協業を推進するためのものであり、この監督労働は資本とは無関係である。社会主義になっても必要とされる監督労働である。後者は、単なる資本主義的な生産過程から生ずる監督労働であり、他人の労働を搾取する機能に限定されたものである。したがって資本制がなくなれば消滅するものである。
 さらには、一方で管理者賃金には、欺瞞的な形態が見られるとされる。「現実の管理者とならんで、一連の取り締まり・監査役員会がおかれ、管理と監査が実際に、株主からまき上げて自分を富ますためのたんなる口実となるからである」(p.991-2)。

 ここで、私の疑問点について付け加える。「利潤の、つまり剰余価値の、二つの部分が、利子と企業者利得」(p.982)としていることから、利潤は=利子+企業者利得であることは明らかであろう。しかし、後者の企業者利得は「監督賃金または管理賃金」(p.991)のみからのみなるのであろうか。マルクスは、次のようにいっている。
 「労働の監督賃金としての企業者利得の観念は、[中略]俸給のうちに、純粋な形であらわれる。すなわち一方では利潤[利子と企業者利得のとの合計としての]から、他方では、利子を引き去ったあとにいわゆる企業者利得として残る利潤部分から、まったくきりはなされて、独立にあらわれるのである」(p.985)。そして、「管理賃金は、商業的管理者にとっても、産業的管理者にとっても、労働者の協同組合工場でも資本主義的株式企業でも、企業者利得から全く分離してあらわれる」(p.990)。あるいは、「企業者利得と監督賃金または管理賃金との混同は、最初は、利潤のうち利子をこえる超過分が利子に対してとる対立的な形態から生じた」(p.991)と。
 どうも、管理(監督)賃金は企業者利得の一部であるように私には読める。しかし、企業者利得として、他に何があるかは書かれていない。当然内部留保(蓄積資本)が考えられるが、ここでは蓄積の無い単純再生産が前提にされているのかもしれない。よく判らない。

  (第24章 利子うみ資本の形態での資本関係の表面化)
 貨幣資本家と機能資本家が分離後の、利子うみ資本の運動形態は、G-G-W-G'-G'と表現できる。ここでは、資本が二重に還流している。中間のG-W-G'では、産業資本家の価値増殖過程により、G' = G+利潤となる。その利潤の一部が貨幣資本家に還流して、G' = G+利子となる。「利子うみ資本の形態では、このことが直接に、生産過程と流通過程に媒介されないであらわれる」(p.993)。両端を媒介する労働搾取による自己増殖過程を省いたG-G'と表現される。そこでは、「現実に機能する資本も、機能資本として利子をうむのではなく、資本それ自体として、貨幣資本として、利子をうむのだというように、自分をあらわすのである」(p.994)。
 貨幣自体が本来、潜勢的に自分を増殖させる価値であり、かかる価値として貸し付けられる。これが貨幣という独自商品の販売形式である。貨幣である商品が、「再生産から独立して自分の価値を増殖させることができるということであり―最もまばゆい形での資本の神秘化である」(p.994)(以上24章)。

 「第27章 資本主義的生産における信用の役割」では、マルクスが3番目にあげている「Ⅲ株式会社が形成されるということ」をみてみたい。
 株式会社化による生産規模の拡大によって、従来政府企業であったものも会社企業になる。それらは、個人資本の直接に結合した形態をとり、私的資本に対立する社会的企業としてあらわれる。「それは、資本主義的生産様式そのものの限界内での、私的所有としての資本の廃止である」(p.1048)。株式会社では、機能が資本所有から分離されている。労働の方も、完全に生産手段(及び剰余)の所有から分離されている。「資本主義的生産の最高の発展のこういう結果こそは[中略]結合された生産者としての彼らの所有に、直接の社会的所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである」(p.1049)。社会主義への通過点として、株式会社を見ているのである。「株式制度は資本主義体制そのものの基礎のうえでの資本主義的な私的産業の廃止であり、そしてそれが拡がり、新たな生産部面をとらえていくにつれて私的産業を消滅させる」(p.1050)という表現もある。
 信用制度は、資本主義において私的企業が株式会社に次第に転化していくもといであるだけではなく、協同組合が国民的な規模に拡大する手段でもある。「資本主義的な株式企業も、協同組合工場と同じく、資本主義的な生産様式から結合生産様式への過渡形態とみられるべきであって、ただ株式会社では対立が消極的に、協同組合工場では対立が積極的に止揚されているというだけのことである」(p.1052)とされている。
 株式会社化した資本主義では、機能資本家は他人資本の単なる管理人、支配人に転化し、資本所有者は、単なる貨幣資本家に転化する。機能分化が徹底するのである。後の言葉で言うと所有と経営の分離(あるいは積極的にとらえれば「経営者革命」)である。そこでは、管理人の俸給は、一種の熟練労働の労賃となり、この労賃は他の賃金と同様に労働市場で規制されるようになる(上記監督賃金を参照下さい)。貨幣資本家は、全く生産過程の機能から分離し、「受け取る配当が利子と企業者利得を含んでいるばあいでも[中略]この全利潤はなお利子の形態でのみ、受け取られる」(p.1048)。
 もちろんマルクスは以上の株式会社化の「肯定的」な面だけではなく、それらが独占、金融寄生階級、いかさまの制度をうむという反面の記述を忘れてはいない。エンゲルスもそれに詳しく注を加えている。それでも、念のために言及するという感を受けるのではあるが。

  (第29章 銀行資本の諸成分)
 銀行資本を構成する一部分である擬制資本について論じている。利子うみ資本の形態にともない、「確定した規則正しい貨幣収入はどれも、それが資本から生ずると否とを問わず、資本の利子としてあらわれる」(p1055)。銀行資本にかぎらない。国債もそうである。国債では「国に貸しつけられた金額がもはやけっして存在しない」(p.1055)という表現は解りにくいが、後の30章で、「ずっと以前に支出されてしまった資本のために発行されるもの」(p.1067)としているから、とうの昔に支出された軍事費等の借り換国債をイメージしているのであろうか。とまれ、利子をうむ元本と見なされて、国債という「一つのマイナス」が、仮象資本として現れる。俗流経済学では、定期的な賃金を生じることから、資本と対立する労働力さえ一種の資本として扱われる。

 【30章~第32章は、貨幣資本の蓄積と現実(産業)資本の蓄積の関係を論ずる】
 所有名義は現実資本に対する自由処分権を与えない。現実に資本をひきあげることはできない。現実資本によって獲得される剰余価値の一部分に対する法的請求権(配当だろう)にとどまる。こういう所有名義(株式だろう)の「価値変動による損得も、鉄道王などへのそれの集中も、事柄の性質上ますます賭博の成果になってくるのであって、賭博こそが労働に変わって資本所有の本源的な獲得方法としてあらわれ、直接の暴力にとって代わりもする」(p.1068)と。

 貨幣資本家の蓄積の源泉となる利潤は、機能産資本家がつくりだす剰余価値からの控除分である。機能資本家が、利潤のうち収入として支出しないで蓄積する額から、さらにさしあたり自分の事業に使わない残りの部分である。収入として支出される部分も、消費されるまでの間は銀行預金として貸付資本を形成する。「貸付資本の蓄積とは、たんに、貨幣が貸しつけられる貨幣として沈殿するということなのである。この過程は、資本への現実の転化とはひじょうに違っている。すなわちこの過程は、資本に転化されうる形態での貨幣の蓄積でしかないのだ」(p.1099)。貨幣資本の蓄積は産業資本の現実の蓄積とは基本的に異なっているのである。
 地代、労賃などからの貨幣資本の蓄積、すなわち蓄積の諸要素の最小限を受けとり、節約や禁欲によって、蓄積を提供するのは、銀行破産時に自分の貯蓄さえ失ってしまう労働者のように、零細な人々の手で実施される。他方、産業資本家の資本といえば自身によって「貯蓄」されるのではなく、資本家は自分の資本の大きさに比例して他人の貯蓄を調達する。
 産業資本家は、利潤を他人の労働の搾取から取得するだけでなく、搾取に必要な資本も他人から調達する。貨幣資本家は必要資本を産業資本家に提供し、かわりに「貨幣資本家が産業資本家を搾取するのである」(p.1100)。産業資本家がその再生産過程で循環・転化するなかで使用する貨幣は、すべて資本家たちが「前貸しする」のではなく、彼らが「借りる」形態をとっている。貨幣の「前貸し」は、実際は借入貨幣の前貸しである。「すなわち再生産する資本家のある部分から貨幣を借りる銀行業者が再生産する資本家の他の部分に貨幣を貸す」(p.1097)。

 【33~35章はマルクスの「混乱」と題する手稿から編集したもの。記述は、やはりまとまりに欠ける上、報告書等からの抜書とそれに対するコメント類が多い。同前、興味を引かれた箇所を摘記する】

  (第33章 信用制度下の流通手段)
 信用資本で事業が行われる場合、高利潤率は時に思惑あるいは、見込みである場合が多い。「高い利子率は、高い利潤率で支払えるが、しかし企業者利得は減少する。それは利潤からではなく、借り入れられた他人資本そのものから支払える[中略]のであり、しかもそれがしばらくはつづきうる」(p.1104)。

  (第35章 貴金属と為替相場)
 貴金属の入超・出超の指標は、銀行制度の中央集権化の程度によるが、中央銀行の金属準備量の増減である(金準備でないのは複本位制の故か:記者)。そして、中央銀行は信用制度の要であり、金属準備は中央銀行の要なのだ。総生産に比べればとるにたらぬ貴金属量が、制度の要だということは諸学者によっても承認されている。ブルジョア経済学は、「公然と「資本について」論じているあいだは、金銀を、実際に最もとるにたらない最も役に立たない資本形態として、最大の侮蔑をもって見おろしている。だが銀行制度を論ずるやいなや、すべてが逆転して、金銀は特に資本に、金銀を保持するためには資本と労働との金銀以外のどの形態も犠牲にしなければならないような資本になる」(p.1150)。実際上も恐慌に際しては、「すべての手形、有価証券、商品は、一挙に同時に銀行貨幣に換えられるべきであり、そしてこの銀行貨幣は銀行貨幣ですべて金に換えられるべきだという要求が、あらわれてくるのだ」(p.1151)。

  ((第六篇 剰余価値の地代への変化))
 マルクスは第六篇で地代を論じている。この篇は最初に書いたように「ずっと完全に書き上げられていた」部分である。広義の地代レント(46章)を別にすれば、地代は差額地代の第一形態[差額地代Ⅰ](39章)、差額地代の第二形態[差額地代Ⅱ](39-43章)、および絶対地代(45章)に区分されている。
 まず、差額地代について書く。穀物需要が高まった場合の増産方法に対応して、発生する地代を区別している。第一形態は、豊度(肥沃度)の劣る新たな土地に資本(労働量と合体)が投入され耕作地が拡大されることによって形成される差額地代であり、第二形態は既耕地に更に資本を追加投入することによって形成される差額地代である。前者を「外延的」、後者を「内包的」とも呼ぶ論者(スラッファやブローグ)もいる。差額地代は、増産に収穫逓減の法則が働くことの結果である。

 アンダーソンという先駆者はいたが、1815年にウェスト、トレンズ、マルサス、リカードはそれぞれ、(穀物)収穫逓減の法則と差額地代説を発表するパンフレットを発表した(マルクスはこの「同時発見者」からトレンズの名を落としている:p.1191)。彼らは、ナポレオンの大陸封鎖による穀物価格高騰と劣等地への耕作拡大の経験から、あるいは種々の豊度の土地が同時に耕作されている事実の観測から、収穫逓減の法則を導き出した。それは、リカード(1970、p.19)によれば、食糧増産に際し「資本の利潤が低下するのは、等しい豊度の土地が得られないからである、また社会の全進歩過程を通じて、利潤は食料獲得の難易いかんによって調整されるのである。これはきわめて重要な原理である」。すなわち、農業では資本投下が進行するにつれて生産費は累積的に増加し、投下資本当たりの剰余生産物が減少するということである。増分で考えれば、等量の追加資本量(「鍬付き労働」)に対して、生産費増分は逓増し、剰余生産物の増分は逓減することになる。そして、その剰余生産物の差が差額地代となるのである。
 差額地代の理論は、限界生産力の理論と形式的には同一である。「もっとも前者の理論が考える限界増分は、限界分析が要求するように、無視できるほど小さいものではなくて、とてつもなく大きいものではであるという違いはある」(ブローグ、p.129)から単純に「限界生産力理論」と呼んでいいかは疑問であるが。ともあれ、限界原理によれば、剰余利潤(=地代)がゼロになるまで、外延的ならびに内包的耕作を増大させるというのが、差額地代説の帰結である。すなわち、「利潤+生産費」が価格と一致すまるで、耕作が拡大される。マルクスはそのことを認めている。地代の「増大の限界はここでは、平均利潤しかもたらさないような、すなわち自分の生産物にとっては個別的生産価格が一般的生産価格と一致するような、追加資本によって形成されている」あるいは、「平均利潤しか生産せず、したがって超過生産性=0の追加資本が投下されても、既成の剰余利潤の大きさは、それゆえに地代の大きさは少しも変わらない」(p.1225)、それゆえ「一般的な市場規制価格的生産価格をPと名付けるなら、Pは最劣等地Aの生産物にとっては、それの個別的生産価格と一致する」(p.1239)をといっている。
 マルクスの数値例、なかでも最も総合的と思える「第44章 最劣等地にも生ずる差額地代」所載の表(p.1231)をみる。
 まず、次の表(「表1」と仮称する)が掲げられている。A-Dの順で土地の豊度が低いものから高いものとなる。各農地の面積は1エーカーで同じ。

  (表1)
 (1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)
土地
種類
エー
カー
生産費
ポンド
生産物
クォー
ター
販売
価格
ポンド
貨幣
収益
ポンド
穀物
地代
ポンド
貨幣
地代
ポンド
 A  1  3  1  3  3  0  0
 B  1  6   3・1/2  3  10・1/2  1・1/2  4・1/2
 C  1  6  5・1/2  3  16・1/2  3・1/2  10・1/2
 D  1  6  7・1/2  3  22・1/2  5・1/2  16・1/2
 計  4  21  17・1/2    52・1/2 10・1/2   31・1/2
 (注)第1行は説明の便宜のために付けた。原表にはない。

 ここでの生産費(3)には利潤が含まれている。Aでいえば投下資本が£2・1/2、利潤が£1/2計£3である(利潤率は20%)。Aだけが£3で、他は倍の£6。生産物(4)は、生産量を表し、A→Dで生産量が上昇している(Aを同生産費にすれば限界生産力逓減で2クォーターを下回る生産量となろう:記者)。土地の豊度の違いによるものである。販売価格(5)はクォーター当たり£3と仮定されているから、販売収入である(6)は、(4)×(5)となる。貨幣地代(8)は、(6)−(3)である。穀物地代(7)は、(8)÷(3)で求められる。
 これから、Aは最劣等地すなわち限界地であり、利潤は獲得できるが地代は生まない。他の土地は豊度に応じて地代が発生することを示している。A地では限界余剰利潤がゼロなのである。マルクスには、「限界生産物」の概念が根底にあったと思えるが、どうであろうか。Aの生産物(量)をわざわざ1クォーター、したがって生産費も他の半分にしたのは、限界生産物を意識したと私には思える。但し、マルクスは「Bで1クォーター生産をふやす」(増分、限界生産物:記者)という所に、括弧で(注1)、「1クォーター[ここでは100万クォーターあらわしてとしてもよいし、または各エーカーは100万エーカーをあらわしているとしてもよい] 」(p.1229)と付け加えているのは、この「説」にとって一寸まずいが、ブローグのいうように、地代理論の「限界増分は、[中略]とてつもなく大きいもの」とでも考えたらよかろう。
 以上は差額地代Ⅰのモデルである。マルクスは、ここに差額地代Ⅱの要素を加える。「表1」のB地に£3・1/2の追加生産費を投入して1クォーターの生産物を増産したものが「表2」(これも記者の仮称)である。「このばあいは、3・1/2ポンドが全生産にとって規制的価格となるだろう」(p.1230)としている。生産物を1単位(1クォーター)増産するのに必要な限界費用が価格を規制すると考えている――ここでも、限界概念が使われている。「表1」の生産費£3よりも£1/2だけ高いB地での限界生産費が価格となる。「表2」の(5)である。B地以外の生産量(4)は不変であるから、新価格で同様な計算により、追加投資後の各土地の収入、地代が(5)~(8)のごとく求められる。かくて、これまで無地代地であったA地にも地代が生ずるようになる。

 (表2)
 (1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)
土地
種類
エー
カー
生産費
ポンド
生産物
クォー
ター
販売
価格
ポンド
貨幣
収益
ポンド
穀物
地代
ポンド
貨幣
地代
ポンド
 A  1  3  1  3・1/2  3・1/2  1/7  1/2
 B  1  9・1/2   4・1/2  3・1/2  15・3/4  1・11/14  6・1/4
 C  1  6  5・1/2  3・1/2  19・1/4  3・11/14  13・1/4
 D  1  6  7・1/2  3・1/2  26・1/4  5・11/14  20・1/4
 計  4  24・1/2  18・1/2    64・3/4 11・1/2   40・1/4

 ここで、私には理解できない点が、さしあったって2つある。
(1)B地だけに資本投下されて、他の土地に追加投資がなされないこと。マルクスは、A地での1クォーターの増産に£3・3/4を要するため、その経費が£3・1/2と低廉なB地で行われると仮定しているから、A地での増産が行われないのは理解できる。しかし、C・D地はB地より豊度が高いのである。C・D地の農業資本家(借地農)は、(1クォーターの増産に要する)生産費が増加しても、価格より低い限り増産するだろう。利潤が増大するからである。
 ここで、追加投資実施前(表1)の各農地の平均生産費((3)÷(4))を計算し、マルクスの仮定した限界費用と比較すれば、次のようになる。

   A  B  C  D
 平均費用  3  1.7  1.09  0.8
 限界費用  3.75  3.5  ?  ?

 C・Dの限界費用は書かれていないが、平均費用から見てBの限界費用よりも低いと推定される。そうであれば、多少価格が下がったとしても、C・Dにも追加資本が投入され、更なる差額地代Ⅱが発生するだろう。マルクスもいうように、個別の生産費が価格に一致する点まで増産は続くだろう。「表2」は、均衡状態には至っていない途中の過程ではなかろうか。A、C、Dの農地については、B増産結果としての価格効果による地代(及び利潤)変化のみの叙述に終わっている。
 (2)Bの限界費用が価格を規制すること。「表2」作成に当たって、B地の限界費用が価格を規制するように書かれている。A-Dの土地からなる世界が全世界を表しているとすれば、全体のたかだか1/4ほどの生産量の土地Bが価格を支配することの理由が良く判らない。ここはやはり、価格は外から与えられて(所与)、その結果世界の一部であるA-D地に与える影響をモデル化したと考えるのが妥当と思える。B地の限界費用が価格を規制するのではなく、逆に価格に規制されてB地の限界費用が決定されるのである。そうであれば、他の土地にも所与の価格に応じた増産がなされるだろうと思う。
 この辺りの叙述の混乱がエンゲルスの理解を妨げ、読者をより混乱させる注釈を付けさせたのであろうか。「表2」のマルクスの計算に対し、エンゲルスは、[この計算も完全に正確といいがたい。Bの借地農業者にとっては、4・1/2クォーターには、第一に生産費として9・1/2ポンド、第二に地代として4・1/2ポンド、合計14ポンドかかるわけで、クォーター当たり平均=3・1/9ポンドである。こうして、彼の全生産のこの平均価格が規制的市場価格となる](p.1231)と書く。ここで、地代とされる4・1/2ポンドは「表1」のBの地代をそのまま使用しているようである。これがまず判らない。そして、エンゲルスはB地(のみの)の平均費用を規制価格としているのである。エンゲルスは、限界原理ではなく一種の平均原理を採っている。その理由も良く判らない。

 差額地代に関連で最後に気になる点をもう一つ加える。収穫逓減の法則といっても、規模に関する収穫の法則は一切言及されていない。マルクスは、あれほど執拗に差額地代の前提を列挙しているのにかかわらず、何の説明もなく土地の豊度が一定なら、土地面積と投入資本を比例的に増大させると、収穫量も比例的に増大するものとして扱っている(先ほどの1クォーター [ここでは100万クォーターあらわしてとしてもよい云々]の箇所もそうであろう)。規模による収穫不変を当然のこととしている。これらは、マーシャル以降に流布した概念だろうから、古典派やマルクスの眼中にはないのだろう。

 以上述べた差額地代は、土地の剰余利潤が地代に転化したものである。「もし土地所有がなければ借地農者がポケットに入れる剰余利潤を、また土地所有があっても借地契約の継続中はある種の事情の下では実際に彼がポケットに入れる剰余利潤を、土地所有がこのばあい横取りする」(p.1246)のである。地代への転化には、土地が自由財でなく独占物になっていることが前提である。この引用文中の「また」以下の「ある種の事情」は、借地契約後に借地農が追加投資をした結果は、差額地代Ⅱ部分を自ら入手することを指す。しかし、地主は契約更改時にそれを追加地代に転嫁しようとする。
(注1)最初読んだ時には、この括弧はエンゲルスによるものだと思っていた。鈴木他訳では、すべての括弧が[ ]で表されているからである。原文(岡崎訳も)では、マルクスのものは( )で、エンゲルスが付加したものは { }で表されていることがわかった。ここはマルクスの括弧である。
 (絶対地代)
 最劣等地であっても平均利潤は期待できるのであるから、資本家的借地農が耕作できる条件は存在する。しかし、借地農はこの土地を自由にはできない。「地代さえ支払わなければ自分の資本を通例の利潤で増殖できるからといって、土地所有者は自分の土地を借地農業者にただで貸し出し、この取引相手に対して無償の信用を与えるほど情け深いわけではないのだ。こういった前提のふくむものは、土地所有からの抽象であり。土地所有の廃棄である」(p.1241)。差額地代の支払われない最劣等地にも土地所有の制限は存在する。土地所有者は自分の土地を利用させない力を持つ。それが「絶対」地代として現れる。
 土地を開墾するには、土地所有者に地代を支払わなければならない。所有者は地代を支払ってもらえる時にだけ土地を貸与する。そのためには、穀物の「市場価格は生産価格をこえて P+r まで上がっていなければならない」(p.1249)。それでは、なにゆえ生産価格を上回る市場価格の実現が可能なのか。それは、農業部門の有機的構成が工業部門より低く、農業生産物の価値がその価格以上であるからである。工業品に比べて、農産物の同一資本額に対する剰余価値が多く、利潤率も高いからであるとする。この高利潤率は農業資本への参入障壁(土地所有の制限)により維持される。「農業生産物はつねに独占価格で売られる」(p.1254)。
 判りにくいので、マルクスの例で説明する。農業部門の資本構成が 75c+25v、工業部門は 85c+15v だとする。剰余価値率を100%と仮定すると、農業生産物の価値は(剰余価値25mを加えて)125、工業生産物価値は(同15m)115となる。総剰余価値は40なので、総資本200に対して20%となる。競争が行われ農業・工業部門とも資本額に応じた一般利潤率が実現するなら、一般市場価格は両部門とも120となるであろう。ところが、農業部門の土地独占によって競争が働かないから、市場価格は価値と競争価格の中間となる。工業製品は多少価値以上の、農業製品は多少競争的生産価格以上(そして価値以下の)の価格となる。農業製品の通常利潤を上回る価格が絶対地代の源泉である。「もし農業資本の平均構成が社会の平均資本構成と同じかあるいはもっと高ければ、絶対地代は、再三説明した意味での絶対地代はなくなるだろう」(p.1256)。

  ((第七編 収入とその源泉))
 第七篇の草稿は「完全に書き上げられていたが、ただ最初の草案でしかなく」(第三巻序文:岡崎訳)、全五章からなっていた。各章も非常に短いので、編集された第七篇は併せても他の篇の一章くらいの分量である。

 利潤、地代、労賃という収入(所得)は、労働者の生み出した価値生産物を源泉とし、生産手段の所有関係により、それぞれ資本家、地主、労働者の各階級に分配されたものである。ところが、これら収入が自律的に再生産の過程で発生するように誤解されて、本質が覆い隠された結果、利潤は資本から、地代は土地から、労賃は労働の各源泉から生まれるとブルジョア経済学では説く。これを収入の「三位一体の定式」とマルクスはいう。「いまや、これらの価値構成分は、商品価値の分割から生ずるのではなく、逆に価値構成分をよせ集めることによってはじめて商品価値を形成するのだ、と想像することもできるわけで、そこに見事な悪循環が、すなわち商品の価値は労賃、利潤、地代の価値の総額から生ずる」(p.1296)との謬見が生れる。
 そして収入に関連して、この篇でもスミスの V+M のドグマを述べている。総収入(V+M)が総生産物(C+V+M)をいかにして購入できるかとのドグマについて、第二巻の再生産表式で解明した要旨を再述している。
 
 2007年に第二分冊がスイスの古書店で非常に安く出ていたので、思わず購入した。その後、第三巻の二冊セットは見かけたが、高くて購買意欲が起こらなかった。ようやく、丁度10年後の2017年ドイツの古書店に、第一分冊がバラで比較的安価にあるのを見付け入手した。気長にセット物を集めたケースである。それにしては、装丁が揃っているところが良い。
 
 このページを書くにあたっては、『資本論』の注釈書をほとんど見なかった。森嶋通夫は『マルクスの経済学』の「日本版への序」で、彼が「日本にいてひとたび文献の山と格闘しはじめたら、私は本書を書く機会を失していたであろう」と書いた。小生が見たのは新書版の入門書を別にすれば、たまたま所蔵していた宇野弘蔵編『資本論研究』の該当箇所を参照したにすぎない。そこに上げられている文献の多さに恐れをなして、森嶋(比べるべくもないいが)と同じような恐れを抱いた。訓詁の学とまではいわないが、まさに汗牛充棟。それでも、注釈書の講座類や、コンメンタールの古書を探そうとしたが、これがかなり高価なのである。結局購入を断念した。一昔前は捨て値で古書店に出ていた記憶が残っているのだが、その後新刊が出ずに、一定の需要は根強くあるという状態なのであろう。それゆえ多々の勘違いはお見逃し下さい。


 (参考文献)
  1. 宇野弘蔵編 『資本論研究 Ⅳ資産価格・利潤』 筑摩書房、1968年
  2. 宇野弘蔵編 『資本論研究 Ⅴ利子・地代』 筑摩書房、1968年
  3. 佐藤金三郎 『マルクス遺稿物語』 岩波新書、1989年
  4. 杉原四郎・佐藤金三郎編 『資本論物語』 有斐閣、1975年
  5. ブローグ、M  久保芳和・真実一男訳 『新版 経済理論の歴史Ⅰ 古典派の展開』 東洋経済新報社、1982年
  6. マルクス・エンゲルス 岡崎次郎訳『マルクス=エンゲルス全集 第25巻第1分冊』(資本論 Ⅲa ) 大月書店、1966年
  7. マルクス・エンゲルス 岡崎次郎訳『マルクス=エンゲルス全集 第25巻第2分冊』(資本論 Ⅲb ) 大月書店、1967年
  8. マルクス・エンゲルス 鈴木鴻一郎他訳『資本論―経済学批判 第一巻、第二巻』(世界の名著 43) 中央公論社、1973年
  9. 森嶋通夫 高須賀義博訳 『マルクスの経済学』 東洋経済新報社、1974年
  10. 山中隆次・鶴田満彦・吉原泰助・二瓶剛男 『マルクス資本論入門』 有斐閣、1976年
  11. リカード 木下彰訳 「穀物の低価格が資本の利潤におよぼす影響についての試論、1815年」(『リカードウ全集Ⅳ 後期論文集1815-1823年』 雄松堂書店、1970年 所収

 
 
 
第一分冊 標題紙(拡大可能)
 
 第二分冊標題紙(拡大可能)


(2021/3/29記)


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