MARX, K. ,
Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Zweiter Band. BuchII: Der Cirkulationsprocess des Kapitals. Herausgegenben von Friedrich Engels., Hamburg, Verlag von Otto Meissner, 1885, pp.xxvii+526, 8vo.

 マルクス『資本論 第二巻 資本の流通過程』1885年刊、初版。 
 はじめに、
1.『資本論』からの引用は、鈴木鴻一郎他訳を用いて頁数のみを表示する。但し、鈴木訳は省略部分があるので、マルクス=エンゲルス全集の岡崎訳を用い補う。その場合は岡崎訳と注記する。
2.巻・部・篇の表示は漢数字を用い、章以下は算用数字を使用する。
3.本文が長くなったので、注は( )で表示したまとまりごとに附す。
 第二巻は、エンゲルスの編集による死後出版である。
 『資本論』は、第一巻だけを読んでも無意味で、第二巻と第三巻を読まねばならない。それは付録ではなく、体系上不可欠なものだからであるとブローグはいっている(ブローグ、1969、p.370)。いな、むしろ『資本論』は第二・三巻から読み始めるが解り易いと書いた本があった。確かに私にとっては、この巻は第一巻のような形而上学的な議論が少なく、経済の事物に則して論じているので解り易い。むしろ、マルクスの説明が周到過ぎて、議論をいたずらに複雑にし、理解しづらくしていると思える。特に、貨幣の循環には不必要と思われる記述があり、エンゲルスをして「私のみるところでは―事実上あまり重要でない事情を、不当に重要視するに至らしめた。私がいうのは、彼が貨幣資本の「遊離」とよんでいるところのものである」(p.334)と註をつけさせるほどのものである。
 第二巻「資本の流通過程」全三篇の構成は、第一篇「資本の諸変態とその循環」、第二篇「資本の回転」、第三篇「社会的総資本の再生産と流通」である。『資本論』全三巻の従来の研究を顧みると、第二巻に関するものは比較的手薄であった。例外的に、第二巻全三篇のうち、第三篇は良く研究され広く論争された。なかでも、「マルクスに批判的な経済学者でも再生産表式分析だけは評価するのが普通である」(高須賀義博、1991、p.46)とマルクス経済学を越えて議論された。

 (第一篇)
 マルクスは独自の術語を用いている。「第二巻 資本の流通過程」で多く使われるのは、貨幣資本、生産資本、商品資本の概念である。「第一篇 資本の変態とその循環」は、資本がそれら諸資本に変態(メタモルフォーゼ)しながら、循環する様を描く。「資本がそのさまざまな段階で身に着け、またその循環の反復にさいして、ときにとりときにすてる、あれこれの形態」(p.387)の様である。
 おなじみの範式を次に示す。

  

  (略式では、 G ― W … P … W'― G’)
 貨幣資本→商品資本→生産資本→商品資本→貨幣資本の循環である。
 ここで、G は貨幣資本 Geldkapital、W は商品資本 Warenkapital、P は生産資本 Produktionskapital の略。A は労働力 Arbeitskraft、 Pm は生産手段 Produktionsmittel の略。小文字の w と g は普通の記法では、ΔW と ΔG とでもすべきところ、W と G の増分である(注1)。
 資本循環の第一段階は、資本家の手もとにある一定の貨幣額(前払い)が一定額の商品に換えられるものである。商品生産には、物的要因と人的要因とが必要である。すなわち、生産手段と労働力とである。前者は、作業用建物、機械、原料、補助原料等よりなる。後者は労働者が持つ唯一の商品、労働力である。「労働力はその売り手である賃金労働者の手中にあるときにのみ商品であるとすれば、反対にその買い手である資本家の、つまり一時的にこれを使用する資本家の手中にあるときのみ資本となる」(p.399)。資本家は商品市場と労働市場から貨幣によって必要なものを集めて、生産のためにそれらを用意する。
 第二段階は、生産資本の機能である。「生産資本 P を構成する商品要素 A と Pm は、P の存在形態としては、それがよび集められるさまざまな商品市場にあるときと同じ姿態はもっていない。それらはいまやいっしょにされており、結合された形で生産資本として機能できるのだからである」(p.454)。この段階は、価値増殖過程である点で他の段階と決定的に異なる。他の段階は、価値変化のない資本の形態変化すなわち、流通過程である。価値増殖過程であり労働搾取過程でもあるこの生産過程は、同時に資本主義生産過程でもある。「商品生産のどの経営も同時に労働搾取の経営になる。だが、資本主義的商品生産がはじめて画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式こそは、それが歴史的に発展してゆくうちに、労働過程の組織と技術の巨大な発展により、社会の経済構造全体を変革し、以前のいかなる時代をも比類なく凌駕するのだ」(p.399)。
 第三段階は、増殖された資本価値を貨幣の形で回収する過程である。生産過程を経て商品(資本)となった W' は、その生産に支出された資本価値 W と剰余価値 w から構成されている。資本が再生産過程に入り、一連の循環を繰り返すためには、商品資本から最初の振出の貨幣資本に戻らねばならない。これが、商品の販売である。但し、元に戻るといっても量的には相違がある、前貸しされた G は剰余価値の分 g だけ増殖し、G' になっていなければならない。そうでなければ、資本主義的生産の意味がない。資本家は、使用財を商品市場及び労働市場から引き出すが、生産した商品を商品市場にだけ投げ返す、「はじめに引き出したものよりももっと大きい商品価値を投げ入れる」(p.403)のである。

 マルクスは、資本循環をその出発点(回帰点)を異にする三循環の形式に区分する。形態名と範式を下記に示す。
 形態 Ⅰ: G ― W … P … W'― G
 形態 Ⅱ: P … W'― G'― W … P(P')
 形態 Ⅲ: W'― G'― W … P… W'
 上記の説明は、「第1章 貨幣資本の循環」によって記した。第一篇はその後「第2章 生産資本の循環」、「第3章 商品資本の循環」と続き、更に「第4章 循環過程の三つの形」で終わる。マルクスは、各章でこの区分した形態ごとの特徴を述べているのではあるが、紙数を割くほど重要ではないと思うし、私には理解できない所(形態 Ⅲ が剰余価値含みの増殖した価値から終発する点など)もある。マルクス自身も次のようにいっているので、詳細は省略する。
 回転する円は、どの点も出発点であると同時に回帰点であるように、異なる出発点による区別は形式的だといえる。どの循環も他の循環を前提とし、他の循環を含んでいる。「実際には、個々のどの産業資本も、同時に三つの循環のすべてのなかにいるのである。これら三つの循環は、資本のこの三つの姿態の再生産形態は、連続的に相並んでおこなわれるわけである」(p.459)。
 ただし、形態 Ⅲ (第3章)に記された所は、再生産表式の理解の参考になるので、後に引用する。

 さて、以上の循環過程では、労働による価値増殖過程を別としてではあるが、価値は不変に維持されている。すなわち、資本は時間とともにその形態を変態するが、時間の経過によってはその価値を増減しない。「価値はこのばあい、さまざまな形態、さまざまな運動を経過するのであって、この運動の中で維持されると同時に増殖され増大されるのである」(p.463:強調引用者)。マルクスには価値を重量に譬えた個所(『資本論』第一巻第1章第3節A3 等価形態)がある。目に見えず、触ることもできぬが、他物と独立して物に内在するとのことであろう。マルクス価値論は、リカードを引き継ぐ絶対価値論なのである。
 リカード価値論を批判した相対価値論者のサムエル・ベイリーは「価値とは同時代の商品の間の関係である、なぜなら、このような商品のみが相互に交換できるからである、それでわれわれがある時における一商品の価値を他の時におけるその価値と比較するならば、[中略]それは一時期におけるある商品の内在的、独立的な性質と、他の時期のおける同一性質との比較ではなく、相異なった時期において二つの商品が相互に交換された比率の比較、または相対的数量の比較である」(ベイリー、1941、p.64:一部訳を変更)(注2)とした。マルクスも、ベイリーの批判が気になるのか、第一巻に引き続き、ここでもベイリーを引用して批判している。「つまり彼(ベイリー:引用者)は、価値が資本価値または資本として機能するのは、同時にではなく連続しておこなわれるさまざまな循環段階において、価値がやはり自分と同じものであり、自分と比較されるかぎりでのことしかないということに、少しも気がついていないのである」(p.465)と。
 資本循環過程の価値不変で、私が気になるもう一つの点は、価値減価の可能性である。生産過程での剰余価値によるものではない価値増加、例えば葡萄酒の時間経過による価値増加について、リカードは労働価値論から除外し、マカロックは自然力も労働力と考えることにより、労働価値説を貫徹した。さて、マルクスはといえば、生産資本が労働過程にあることなしに、生産過程で機能することによって価値増加が生じるとしている。「労働対象がそれ以上に人間労働をつけ加えられることなく、自然過程の作用にゆだねられる期間がそれである。このばあいは、労働過程は、したがって労働手段としての生産手段の機能は、中断されてはいるけれど、生産過程は、したがって生産手段の機能は、つづいている。たとえば、まかれた穀物、穴蔵で発酵している葡萄酒、多くの製造業たとえば皮なめし業などの労働材料で化学的過程にゆだねられるているものが、そうである」(p.479)。直接的に労働力は作用していないが、間接的に生産手段の機能を通じて労働力が価値を増加させるように考えていると私には読める。労働価値説が貫徹されていると考えられているのだろう。
 ところが、マルクスは労働価値生産物の減価も考えている。商品の老朽化による劣化(劣価)のことである。「商品は本来滅びゆくものである。したがって商品は、ある期間内にその使命に応じて生産的または個人的消費に入らなければ、いいかえれば、一定期間内に売られなければ、傷んで、その使用価値とともに、交換価値の担い手であるという特性を失ってしまう。商品に含まれる資本価値が、だから資本価値といっしょになっている剰余価値も失われてしまうのである」(p.484)。もっと具体的には、「それはお気の毒だ、と買い手はいう。君の隣にもう一人売り手がいるが、その人の商品は一昨日でできあがったばかりだ。君の商品は棚ざらしで、たぶんそのために多少とも傷んでいるだろう。だから君は君の競争者よりも安く売らねばなるまいと」(p.500)と書いている。商品価値は個別的でなくて社会的に決定されるのであろうが、時間とともに劣価することは間違いない。このことは、労働価値論ではどのように考えられるのか、マルクスに詳しい説明はしていない。

 資本の循環運動の期間は、生産期間と流通期間よりなる。流通期間は、G-Wの購入期間とW-Gの販売期間から構成される。生産期間と同じく流通期間も資本を拘束するから、流通期間の長短は前払い資本の大小に関係する。資本家は流通を商人等の他人に任せることによって、自己の資本は節約できる。一方、商人は労働はしても、本質的には価値も生産物も生産しない。彼は「生産上の空費に属する」(p.488:強調原文)。それでも「彼は、むしろ、社会の労働力と労働時間のうち、この不生産的な機能に拘束されている部分を減少させるという点で有用なのである」(同)。商人はそれ自身空費であっても、空費である流通経費を節約する点では意味を持つということであろう。
 マルクスは流通費を、1.売買費用、2.簿記費用、3.貨幣費用、4.保管費用、5.運輸費に区分している。2.は、現在でいえば経営管理費用とでもすべきものであろう。3.は、貨幣として流通する金銀を生産する社会的費用。貨幣としての金銀は生産にも消費にも役立たないまま、社会の富の一部が固定される。
 1.~3.は純粋な流通費と呼ばれている。純粋な流通費は使用価値には影響を及ぼさず、商品形態←→貨幣形態の形態変化に関りを持つのに過ぎない。これに対し、4.と5.の費用は空費ではあるにしても、商品の劣化を防ぎ、商品を消費地に届けるという価値実現には不可欠な働きをする費用である。商品価値を保存または増殖する費用は、ある程度まで商品の価値に入り、商品を高価にする。これらの費用は生産過程が流通過程にまで延長されたもの、流通によって覆い隠された生産過程から生ずるものといえよう。私には理解できぬ点もあるが、マルクスは、「一般的法則は、商品の形態変化だけから生ずる一切の流通費は商品に価値は付加しない、ということである」(p.504:強調原文)と主張する。
(注1) マルクス自身もこういっている、「W は、W + ΔW であり、W と W の増加分との和である。この増加分を w と名付けよう」(p.401)
(注2) 現在では先物商品市場があるため、異時点の商品価格の比較は可能であろうが、先物取引商品は限定されているという理解でよいのだろう。
 (第二篇 資本の回転)
 生産には労働力と生産手段が必要である。これまで、マルクスは資本主義的生産様式の下での価値増殖の観点から、前者を可変資本とし、後者を不変資本として、資本を区分した。この篇では、資本の回転様式により、資本を流動資本と固定資本に区分する。生産過程における生産物への価値移転の様式から見た区分である(第8章 固定資本と流動資本)。
 労働力は流動資本である。生産手段は、労働対象(「本来の意味で労働手段ではない生産手段」とも)および労働手段よりなり、次のように両資本に分類される。前者は流動資本とされ、補助材料、原料、半製品、燃料等からなる。後者は固定資本とされ、機械設備、工場等よりなる。
 労働対象は生産過程で完全に消耗され、全価値が生産物に移転する。これに対し、労働手段は生産過程の進行に伴い、その価値の一部は消耗し生産物に移転するが、他の部分は生産過程に固定されたままである。ゆえに固定資本と呼ぶ。固定された価値は、繰り返される生産過程によって減少を続けて、ついには消耗しつくされる。その間、一部分づつ生産物に移転された価値は、販売され貨幣として順次回収される。これら複数の生産過程にわたって蓄積された償却資金をもって、消尽した労働手段に代え、新しい労働手段が購入されるのである。
 貨幣で補填される固定資本の消耗分は、直ちには現物では補填されない。後の再生産表式を考える場面を先取りすれば、その分需要の不足が生じる。「この問題には固有の困難があり、[中略]これまでおよそ経済学者によって取扱われたことのない」(全集版、p.559)ものである。Ⅱ 部門(消費財部門)で貨幣として蓄積された分だけ、Ⅰ 部門(生産財)の生産物は必要とされず同部門に過剰生産が生ずる。その解決のためには、マルクスは「固定資本の損耗分[中略]の貨幣が Ⅱ 自身によって投ぜられる」、すなわち、価値喪失分を「自分自身のふところにして」いながら、別に同額を「自分のポケットから追加する」という「ばかばかしい」(全集版、p.564)仮定を採る。しかし、資本家は多数存在し、それらの償却段階は様々である。一方では貨幣積み立てが行われ、他方では償却期間が満了して更新投資が行われていることを考えると、荒唐無稽な仮定ではないともいう。
 付け加えていうと、マルクスは固定資本の消耗には、物理的なもののほかに経済的なものがあることを認めている。固定資本の生命は、「資本主義的生産様式の発展とともに同様に増大する生産手段の不断の変革によって短縮される。だから資本主義的生産様式の発展とともに、生産手段の変化も、それが物理的に生を終わるはるか以前に無形の摩損の結果としてたえず補填される必要も、増大する」(p.525)。さらには、固定資産設備の平均償却期間が当時10年であることから、これを経済恐慌の周期10年の物的基礎であるとも見ている。

 資本の回転には、一年が自然の単位をなす。「この単位の自然的基礎は、資本主義的生産の母国である温帯の最も重要な果実(穀物のことだろう:引用者)が年一回しかないという点にある」(p.510)。年単位で測った「回転期間」の逆数が年間の「回転数」である。生産資本を構成する、流動資本(例えば1/4年)と固定資本に回転期間の違いがあるだけでなく、固定資本の間にも、回転期間の差(例えば2年、10年)がある。使用される資本の加重平均が、「総回転」(期間、数)である。「前貸し資本の総回転はとはそのさまざまな構成分の平均回転である」(p.523)。章の標題「第9章 前貸し資本の総回転、回転の循環」に掲げられた、もう一つの「回転の循環」については、恐慌の物質的基礎を論じた所で言葉として使用されているに過ぎず、詳しい説明はない(注1)。
 「回転期間は資本の生産期間と流通期間の合計に等しい」(p.532)とする。生産期間は1.労働期間、2.労働休止期間(農閑期、工業の休業日・夜間休業等)、3.非労働生産期間(ワインの発酵期間、森林の生育期間)、4.生産滞留期間(生産在庫期間等)からなる。流通期間は、6.販売期間(W→G)と7.購買期間(G→W)よりなる(「第13章 生産期間」および「第14章 流通期間」)。
 使用総資本額とそれに対する利潤率が一定だとすれば、資本の回転時間を短縮すれば(回転数を増やせば)、資本の効率が高まり、年利潤額(率)は増大する。利潤を増やすためには、上記の各期間を短縮すればよい。かくて、資本家は、労働強化、生産性の向上および運輸手段、流通機構の改良に尽力する。
 ここでは、解りやすいように、利潤と書いたが、実際にはマルクスは剰余価値年率(年単位の、剰余価値/可変資本)で論じている。剰余価値年率=資本1回転期間の剰余価値率×回転数である。そして、マルクスは、たいていの例示では、剰余価値率を100%に固定しているので、当然のことながら剰余価値年率は回転数に比例して増加する。剰余価値年率増加させる別の手段は、(1回転期間の)搾取率(剰余価値率)そのものをを高めることである。剰余価値率が一定なら剰余価値は可変資本の大きさで決定されるから、可変資本の相対的比重を高めることによって剰余価値を増大させることができる(第16章 可変資本の回転)。

 マルクスは、この間「第15章 回転期間が資本前貸しの大きさにおよぼす影響」において、貨幣の「遊離」という現象を延々と説いている。生産は生産期間を単位として繰り返されるが、貨幣収入は資本の回転期間(生産期間+流通期間)を単位として繰り返されるのでそれらのサイクルのずれから生じる現象である。章末において、編者エンゲルスは、これに註して「マルクスは、一つの――わたしのみるところでは――事実上あまり重要でない事情を、不当に重視するということになった。私がいうのは、彼が貨幣資本の「遊離」とよんでいるもののことである」(p.563:ここは最初にも引用した)。そして、「本文で肝要なのは、一方では産業資本のかなり大きい部分がつねに貨幣形態で存在しなければならず、他方でもっと大きい部分が一時的に貨幣形態を取らねばならないということの証明である」(p.564)と結んでいる。
 そしてこの箇所に限らずマルクスは、資金の流れにこだわる箇所が多く、いずれも私には、不要あるいは不毛と思われる議論である。

 他にも、マルクスが多くの紙数を割いている議論に産金・銀業のものがある(「17章 剰余価値の流通」)。社会の貨幣流通のために、最小でも金属貨幣の流通による摩損分の金・銀は生産されねばならない。さらには、貨幣の流通速度の増大や信用制度の発達を別とすれば、年々生産・流通する商品量が増大すれば、商品価値額増大分の金銀が増大されねばならない。社会の労働力と生産手段の一部が金・銀生産に支出されるのである。一般資本家は、彼らの年々の剰余価値を消費(単純再生産では全額消費)するため使用する貨幣は、生産物の転化形態である。これと異なって、産金・銀業の資本家が、彼らの剰余価値を使用するための貨幣は、生産物である現物形態である。固定資本の償却も、「生産物たる金の直接的断片として還流するのであって、生産物が売れてその結果生産物が金に換えられることによって還流するわけではない」(p.596)。
 そうして、マルクスは流通に必要な貨幣量を考える。資本家は、生産により剰余価値を生むから、商品資本(生産物)として流通に投げ込む価値は、労働力プラス生産手段として流通から引き上げた生産資本よりも価値が大きい。剰余価値の分だけ余分に価値を流通に投げ込むわけである。商品資本は、生産資本に再転化する前に、また資本家が剰余価値を支出する前に、貨幣化されねばならない。「したがって問題は、[中略]剰余価値を貨幣化するための貨幣はどこからくるのか、ということである」(p.598)。そして、「この問題は一見したところ困難にみえるのであって、トゥックも他のだれもこれまでまだこれにこたえていない」(p.599)。
 このように問題提起しながら、結局一般的回答は既に与えられている。商品が流通するとすれば、商品に剰余価値が含まれているかどうかにかかわりなく、必要な貨幣額は不変である。「したがって問題そのものが存在しないのだ。[中略]商品価値を流通させるためにはある一定額の貨幣量が必要なのであって、[中略]その問題は、一国の商品流通に必要な貨幣額はどこからくるのか、という一般的問題と一致する」(p.601:強調原文)というのである。
 その回答とすべきは、明確には答えと書かれていないが第17章の2節に分散して記載されている。より大きな商品量の流通に必要な追加貨幣は、流通貨幣量の節約(支払いの相殺、貨幣の流通速度を速くする等)によるか、蓄蔵形態から流通形態への貨幣転化によって、調達されねばならない。それでも、充分でない場合は、金の追加生産によって賄われる(p.612-613)。「資本家の一部が、流通につぎこむよりも多くの貨幣をたえず流通からくみだすのに反して、金を生産する他の一部は、生産手段として流通から引き上げるよりも多くの貨幣をたえず流通につぎこむわけである」(p.605)、そして「貨幣に転化さるべき追加商品にとって、必要な貨幣量が存在するわけは、他方で、商品に転化さるべき追加の[金および銀] が、交換によってではなく、生産そのものによって流通に投げ込まれるからなのである」(p.612)と。はなはだ常識的な答えで、拍子抜けするほどのものである。ちなみに、供給される金には生産物を輸出することにより、金を輸入する分も考慮されている(p.605)。
 後の第三篇第20章「第12節 貨幣材料の再生産」においても、繰り返し、産金業の生産を含む貨幣の動きを長々と記述して、「これによって、資本主義生産の考察にさいして出発点となる前提、再生産の当初からの商品取引に見合った貨幣量が Ⅰ と Ⅱ の資本家階級の手もとにあるという前提は、説明がつく」(p.679)ことを確認している。議論が微に入りすぎてかえって理解を妨げるように感ずるほどである。「貨幣価値についていうと、それはたしかに存在しているのであり、労働力、生産された資産手段、富の自然的資源と並んで存在しているのである」(p.624)とだけ、いっておけばよいのではないかと思うくらいである。
 流通手段としての金・銀を年々の生産するために支出される労働力と生産手段との総額は、資本主義的社会の空費である。そして、「むしろ信用制度がなければ、資本主義的生産は貴金属生産の大きさのなかにその限界を見出しただろう」(p.614)と金本位制の限界も指摘している。

 最後に、第二篇の標題となった資本の回転は第一編での資本の循環とはどのような関係にあるのか考える。マルクスは、「資本の循環が、個々の事象としてではなく、周期的な仮定として規定される場合、それは資本の回転とよばれる」と書いているだけである(p.510)。しかし、資本がその形態を変える一循環は生産期間と流通期間よりなっている(一回転も同様に、生産期間と流通期間よりなるとしている)。その生産期間には固定資本は回転を終えていないはずである。流動資産と固定資産を総合した資本の総回転の一回を資本の一循環であるとは理解できない。資本の循環は「資本の回転循環」でもない。資本の循環と回転は違う概念で、直接的な関係はないと考えていいのではないか。
(注1)「恐慌はいつも大きな新投資の出発点をなす。したがってまた――社会全体としてみれば――多かれ少なかれ次の回転循環のための新たな物的基礎をなすのである」(p.525:強調引用者)。もっとも長い固定資本の回転時間を基準にし、他の資本成分の数回転を含む現実的回転を資本の回転循環と定義している本もある。
 (第三篇)
 『資本論』第一巻では資本主義生産過程は、個別事象としての再生産過程として分析された。そこでは、資本家は生産物をその価値で売りながら、生産過程を開始・継続するための物的生産手段を流通部面から購買する、ということが前提とされていた。この第二巻では、第一篇で資本が循環中にとる様々な形態と、この循環自身の様々な形態とが考察された。第二篇では、循環が周期的な事象として、すなわち回転として考察された。そこでは、固定資本と流動資本が期間と形態を異にする循環をおこなうことが研究された。そして、生産期間と流通期間との長さの相違を決定する条件が検討された。
 第一巻のみならず、「第一篇でも第二篇でも、問題にされたのは、つねにただ一つの個別資本でしかなく、社会の資本のうちの一つの独立の部分の運動でしかなかった。だが個別資本の循環はたがいに絡みあい、前提しあい、制約しあっているのであって、まさにこの絡みあいにおいて社会の全資本の運動が形成されているのである[中略]いまや社会の全資本の構成分としての諸個別資本の流通過程[その全体が再生産過程の形態をなす]が、したがってこの社会の全資本の流通過程が考察されねばならない」(p.620)。
 社会の資本の運動は、それを構成する独立した断片的な資本の運動の総体からなっている。しかし、個別資本のばらばらな運動は、同じ運動でも社会の資本の総運動の一部分として、他の資本の運動との関連において考察される場合には違った現象を呈する。「また、同時にこの運動は、個々の一個別資本の循環の考察ではその解決が得られず、むしろその解決が前提されていなければならぬような問題を解決する」(p.456)ことが必要である。具体的には、「一国の年々の全商品生産を考察して、その一部分がすべての個々の事業を補填し、他の一部分がさまざまな階級の個人的消費に入る運動を分析する」(p.455)ことである。

 (第三篇 単純再生産)
 たがいに絡みあい、前提しあい、制約しあっている個別資本の循環の状況を分析するのに、マルクスは「表式」というツールを用いる。まず、産業全体を二部門に分割する。生産手段生産部門(第 Ⅰ 部門)と消費手段生産部門(第 Ⅱ 部門)にである。そして、この二部門下で、生産物をやり取りしながら、生産的消費と私的消費が行われ、生産が遂行される状況が分析される。マルクスのいう生産的消費とは現代用語では中間需要であり、私的消費とは最終需要といってよいだろう。
 ここで、二部門分割といったが、マルクスは消費手段生産部門をさらに分割して、生活必需品生産部門と奢侈品生産部門の亜部門に分割し、三部門としている箇所(第20章第5節)もある。しかし、もっぱら二部門分析が用いられる。多部門分析を扱えるには時代は尚早であったと思われる。この生産財と消費財に区分する二部門分析は、単純であるが強力で、現代経済学でもなお使われているのだから、天才的発想といってよかろう(後述)。

 マルクスの最終的な関心は拡大再生産にあるのだが、表式分析は単純再生産から始まる。拡大再生産の基礎に単純再生産があるからである。とはいえ、単純再生産を扱った20章は、拡大再生産の21章の約2.7倍の紙数が充てられている。
 単純再生産といっても、投入物と同量の産出物が生産されるものではない。すなわち、剰余生産物(剰余価値に同じ)がゼロの生産体系ではない。分析の対象の資本制社会では、剰余価値なしに生産は行われないからである。ここでは、剰余価値は総て消費される(剰余価値は総て、必然的に資本家消費に費やされる)。そして、毎年同じ形式で、すべての生産物が、生産的・個人的に消費され、生産される。
 表式は、生産物の「三価値構成」と「二部門分割」により形成される。マルクスの例示は次のとおり。
  Ⅰ.  4000c + 1000v + 1000m = 6000 生産手段(生産財)部門
  Ⅱ.  2000c +  500v +  500m = 3000 消費手段(消費財)部門
 c、v、m、はそれぞれ不変資本、可変資本、剰余価値を表す。Ⅰ 部門でいえば、4000の不変資本と1000の可変資本を投入して、1000の剰余価値を生じ、6000の価値の生産物を生産することを示している。作例では剰余価値率( m/v )が100%と仮定されているため、v と m は同じ数値となっている。
 さて、この再生産費表式で総括された資本運動は、1.Ⅰ 部門内取引、2.Ⅱ 部門内取引、3.部門間取引に大別できる。貨幣を媒介させた動きは、私にはわかりにくいので、貨幣を捨象して説明してみることにする。1.は、Ⅰ 式の下線部分である。Ⅰ 部門の資本家が、生産財の生産のために消費した生産財4000cを、生産された生産財6000(自己の生産物及び Ⅰ 部門の他の資本家と交換して)から回収し、補填する取引である。2.は、Ⅱ 式の下線部分である。Ⅱ の資本家は、500vの消費財(ex:小麦)を賃金として労働者に支払う。また、Ⅱ の資本家は自ら剰余価値500m分の消費財を消費する。それらあわせて1000の価値は、3000の生産物から消費財の形で回収する。
 3.は、Ⅰ 式の下線を付されていない部分と Ⅱ 式の下線を付されていない部分の取引である。Ⅰ 部門の資本家はⅠ 1000vとⅠ 1000mの計2000の価値に相当する生産した生産財を、Ⅱ の資本家の持つⅡ 2000cに相当する2000の消費財と交換する。そのうち、1000の消費材を Ⅰ の労働者に賃金として与え、残る1000の消費財を Ⅰ 資本家自らが消費する。一方、2000の生産財を受け取った Ⅱ 資本家は、それで Ⅱ 生産に消費した2000cの生産財を補填するのに用いる。
 以上により、両部門の資本家は、その全生産物の価値を実現し(売却できたということ)、同時に前期と同価値の不変資本と可変資本を補填できた(とりあえず、交換は期末に一挙に行われると考えればよい)。賃金を支払うことによって、労働者は自己の労働力を再生産できたことを考えると、前期と同一の生産手段と労働力を補填したことにもなる。
 以上の単純再生産過程を一般式で表示すると、
  C + V + M = X
   C + V + M = X
 (Xは生産物価値)となる。
 ニ部門の価値構成は、それぞれの式で表現されている。素材補填(原料供給)は2式を跨いだ関係で表現される。
 今期に生産により、投入(生産的消費)された生産財の価値は C + C  であり、今期に生産された生産財はXである。
  X = C +  C
 であれば、ともかくも生産された生産財で消費された生産財を補填でき、来期も同規模の生産が可能となる(生産財側での)条件が整う。
 次に、消費財の側をみる。二部門の可変資本は、それぞれの労働者に支払われて、労働者は貯蓄しないと仮定されているので、全額が個人消費として使われる。二部門の資本家が手にする剰余価値も、蓄積はされないと仮定されており、全額が消費される。
  X = V +  V + M + M
 であれば、労働者は生活必需品を購入できて生活を維持し、来期にも労働を提供することができる。資本家も消費生活により(変ないいかただが)来期の生産に携わることができる。
 以上の式から、二部門各々で、
  C + V + M = C +  C
  C + V + M = V +  V + M + M
 が成立する。左辺は供給を、右辺は需要を表すものとみれば、これらは二部門の需給均衡式である。この両式から
  C = C               (均衡式の右辺のCⅠ と左辺のC が等しいということ)
  V + M = V + MⅡ     (同様)
  V + M = C  または C = V  + M
 が導き出される。第一式が上記1.の該当し、第二式が同2.に該当する。第三式は同3.に該当し、単純再生産の条件を集約するもので、基礎条件といわれるものである。

 以上で主要な点を説明したから、もう少し詳細な点を見てゆく。
Ⅰ .表式の前提
 第二部(第二巻)に共通となっている者も多いが、表式前提の主要なものは次のとおり、
 1. 封鎖経済体系、外国貿易捨象
 2. 資本家と労働者の二階級分析
 3. 価値表示であり、価値変動の捨象
 4. 貨幣・信用の捨象
  (高須賀、1968、p.33 参照)
Ⅱ .基礎条件式の意味
  C = V  + M は、消費財部門が生産財部門から入手しなければならない生産財補填部分の価値が、生産財部門の労働者や資本家が消費財部門より入手しなければならない消費財の価値に等しいことを示している。
 この条件式が導出されたのは、二部門各々での需要と供給か一致しているとの前提からであった。しかし、マルクスは次のようにもいっている。「一方では多数の単なる買いが、他方では単なる多数の売りがおこなわれるかぎりは[中略]均衡は一方的な買いの価値額と一方的な売りの価値額とが一致するという仮定のもとでしか成立しない」(p.692)。そして、その「均衡は――資本主義的生産の自然のままの姿態にあっては――それ自身一つの偶然だ」(p.693)と。マルクスが「均衡」(原書では、Gleichgewicht)という言葉を使っていたことは私には一つの発見であるが、ともかく需給均衡は偶然でしかないと認識していたのである。それでは、基礎条件式、ひいては単純再生産も偶然でしか成立しないのか。
 その辺の説明を高須賀(1968)に求めると、需給一致の実現は表式分析にとっては単に前提とされるけれども、それは「仮説」ではない。それを達成させるメカニズムが資本制経済のなかに存在するからこそ、表式分析においてそれは前提される。それは、「供給が需要を生む」とするセイの法則とは、根本的に異なる。産業循環(景気変動のこと)の1周期を通じて、需要・供給の状況を総括すれば、需給一致は実現されている。「再生産表式分析でそれが前提にされるのは、かかるメカニズムの存在を認めたうえで、産業循環を1単位とする長期の仕組みを対象としているからである」(同p.44-45)。「再生産表式分析は価値法則の貫徹(需給一致のこと:引用者)の結果成立する長期平均的な再生産構造を対象とするもので、[中略]これは単に再生産表式分析論だけではなく『資本論』全体に共通していることである」(同p.45)と。別の論者はこのことを、「『理想的平均』たる法則」といっているし、また別の論者は「そうした均衡関係は現実の不断の不均衡化の過程をとおして結果的に充足されるもの」(山中他、1976、p.156)といっている。何となく了解できるような気がする。
 先に引用した均衡は偶然であるとのマルクスの言葉は、恐慌の説明に関連した箇所から引いた。長期的・趨勢的法則を扱う時と恐慌の原因を探求する時とは、おのずから観点が異なるということであろう。

 以上は単純再生産をマルクスに従って、価値表示の再生産表式で述べてきた。単純再生産とは、剰余価値がゼロの生産体系ではないとも、先に述べた。しかし、単純再生産は剰余生産手段(剰余生産財)がゼロの体系ではある。それは剰余価値がすべて(資本家)消費に費やされるのだから当然ともいえるが、その意味は単純再生産体系を物量表示してみると、より明白になると思える。次段階の拡大再生産の理解のためにも、高須賀の『鉄と小麦の資本主義』(第11章)によって(用語は一部変更した)、それを説明する。
 最初に用語の定義から。純生産物は、総産出物から物的投入物(投入生産財)を控除したものである。剰余生産物は純生産物から、労働者生活資料の消費財(賃金)を控除したものである。そして、剰余生産物は剰余生産財と剰余消費財(資本家消費分)からなる。すなわち、
  純生産物=労働者生活資料+剰余消費財+剰余生産財
 である。単純再生産の場合は、剰余生産財がゼロである。

 さて、高須賀の数値例では、単純再生産が下記のように物量であらわされている。経済が第 Ⅰ 部門(生産財)の鉄生産と第 Ⅱ 部門(消費財)の小麦生産の二部門よりなるとする。投入財の鉄(K)は(産出物としても)トン表示、労働投入量(L)は時間表示。産出量(X)の小麦はキロ表示する。当然生産物全体の通計はできない。

          K     L      X
         (トン)   (時間)
第 Ⅰ 部門    48     80  → 96 トンの鉄
第 Ⅱ 部門    48     120   → 960 キロの小麦
 合計      96     200

 第 Ⅰ 部門は、補填のみ生産で、第 Ⅱ 部門の小麦960キロが純生産物である。
 一般的には二部門の物量生産体系では、
  純生産物 =( X- [ K+ K])+ X
  余剰生産財 = X- [ K+ K]
で表されるが、単純再生産の条件は、剰余生産財がゼロ、すなわち
 X- [ K+ K] = 0
である。ちなみに、拡大再生産条件は、X- [ K+ K] > 0 である。
 この式は(価値表示の)再生産表式の単純再生産における第 Ⅰ 部門の需給均等式のみに該当する。消費財である Ⅱ 部門の生産量はすべて消費(需要)されると仮定されているのであろう。その意味で、第 Ⅱ 部門の需給均等式と基本式は陰伏的(意味をよく理解できていないながら)に存在すると考えてよいのだろう。
 この点とも関連するが、消費財(小麦)が食べきれないほど生産されても資本蓄積には役立たない。むなしく朽ちるに任せる他ないのだろう。この経済体系内では生産財は増加させる余地がない。また、仮定により輸出入がないので、余分な消費財を外国の生産財と交換することもできないからである。たとえ、消費を節約できても、生産財と交換できない。将来のために、現在の消費を節約する「米百俵」の美談は成り立たないのである。

 上の数値例を少し補足する。賃金と利潤との関係にふれていないからからである。読み飛ばしてもさしつかえない。
 実質賃金率が時間当たり2キロとして与えられると総賃金は400トンの小麦、資本家(階級)の純生産物の取り分は、960-400=560キロの小麦である。
 この時、資本家の取り分560キロが2部門に分配されねばならないが、高須賀の例では、Lに応じて、第 Ⅰ 部門の資本家に224キロ(560×80/200)、第 Ⅱ 部門の資本家に336キロ(560×120/200)となっている(注1)(高須賀、1991、p.50-51)。
 この分配法は、マルクスが、剰余価値は可変資本(賃金支払い)に比例すると考えたものに倣ったものか。ここで、高須賀は「労働者間の競争が保証されていれば」と書いているが、賃金率が一定であることを意味するのであろう。この分配法では、資本の競争は考えられていない。同じ48トンの鉄である資本の使用に対して、利潤率が異なるのである。交換比率は部門間取引量から、1トンの鉄8キロの小麦である(注2)から、第Ⅰ部門の利潤率は58.3%(28/48:鉄表示)、第Ⅱ門の利潤率は87.8%(42/48)となる。逆に、資本が競争的であり利潤率が一定で、賃金率が部門によって異なるモデルも考えられるであろう。

(注1)実際の高須賀の記述では、まず資本家と労働者の分配率を求めて、それに労働者の取り分を乗じて資本家取り分を出している。
(注2)第1部門が必要とする第2部門生産物が48トンの鉄、第2部門が必要とする第1部門生産物が384キロの小麦(賃金80×2と資本家消費分224キロの合計)の交換から、48トン鉄=384キロ小麦即ち1トンの鉄=8キロの小麦である。

 (第三篇 拡大再生産)
 ここでも、単純再生産と同様に、マルクスの用いた数値例から始めたい。幸いに、本ホームページの「森嶋通夫『マルクスの経済学』」で書いたものがあるので、そのままそれを利用する。但し、それは欧米式に剰余価値を s (surplus value)で表しているので、マルクスの表示とおり m (Mehrwert)に表記を訂正する。

 拡大再生産が実現できる条件は1.資本家の生活必需品に必要な以上の剰余価値が生産される経済であること、2.生産拡大が可能なように労働供給余力が十分にあること、である。マルクスは数値を使って拡大再生産の2部門モデルを例示している。まずは、出発表式(『資本論』第二巻第21章第3節)が始まりである。
 Ⅰ  4,000c + 1,000v + 1,000m = 6,000
 Ⅱ   1,500c +  750v +  750m = 3,000
 拡大再生産を可能とするために、マルクスは次の仮定を置いている。(ⅰ)部門 Ⅰ の資本家は、剰余価値の一定割合を蓄積する(本例では50%)、残りは自己のために消費、(ⅱ)部門 Ⅰ の資本家は蓄積を自己の部門 Ⅰ に、しかも現行の不変資本・可変資本の比率とおりに投資する、(ⅲ)部門 Ⅱ の資本家は、生産財投資を、部門 Ⅰ の需要と供給がバランスするように投資する、しかもここでも投資は自部門内に不変資本・可変資本の比率を維持するように行われる、(ⅳ)剰余価値率は100%、すなわち剰余価値は可変資本と同額とする。(ⅳ)労働者は貯蓄をしないで全部消費する。特に(ⅲ)の過程は余りに都合よいものと思われる。
 ともあれ、この過程により、具体的には、①部門 Ⅰ で、剰余価値 1000m の 50% である 500 が蓄積され、② 500 は、同部門に、出発資本構成比率 (4c:1v) で、400c と 100v として投資される、③部門 Ⅰ の供給 6,000 に対し、自部門での需要 4,400(4,000c+400c) と部門 Ⅱ の需要 1,500 との合計は、5,900 である。需要不足分 100 は、部門 Ⅱ の投資で調整されると仮定から、部門 Ⅱ の部門 Ⅰ 商品への追加投資は 100c となる。部門 Ⅱ の自部門商品への追加投資は、 Ⅱ 部門の出発資本構成比率 (2c:1v) とおりに 50v となる。
 部門 Ⅰ (生産財)については、部門 Ⅱ の投資を調整することにより、需給を一致させた。この時、部門 Ⅱ (消費財)に対する需要を検証する。部門 Ⅰ の労働者の消費財需要は 1,100(1,000v+100v) であり、同部門の資本家からの消費財需要は 500(蓄積の残余、剰余価値の50%) であり、合計 1,600 である。部門 Ⅱ 自身の消費財需要は、労働者需要が 800(750v+50v) となり、資本家需要は、剰余750sから上記投資 150(100c+50v) を引いた 600 となる。合計は、1400 である。消費財需要の Ⅰ・Ⅱ 部門総計は、3,000 となり、消費財の出発点の供給と一致する。蓄積は目論見とおりに実現される。かくて、1年の期末には、
 Ⅰ  4,400c + 1,100v + 1,100m = 6,600
 Ⅱ   1,600c +  800v +  800m = 3,200
 となる。
 1年の期末は、2年の期首であるから、これらの数値を元に、1年と同様の仮定を継続して蓄積、投資が実現すると、2年の期末には、
 Ⅰ  4,840c + 1,210v + 1,210m = 7,260
 Ⅱ   1,760c +  880v +  880m = 3,520
 となる。3年以降も反復計算できる。その結果、年毎の部門別産出の成長率は、以下のとおり。
    
 部門  1年  2年  3年以降
 部門Ⅰ  10%  10%  10%
 部門Ⅱ  6.67%  10%  10%

 拡大再生産でも、表式を一般式で表現しよう。
 まず、剰余価値は蓄積部分と資本家消費部分(Mk)に別れ、前者はさらに追加不変資本(Mc)と追加可変資本(Mv)に別れて蓄積される。すなわち、 
 M = Mk + Mc + Mv
 である。
 この式を使って、表式を作成すると
  C + V + Mk+ Mc + Mv  = X
  C + V + Mk + Mc + Mv  = X
 であり、二部門の需給均等式は、次のようになる。
  C + V + Mk + Mc + Mv  = C + C + Mc+ Mc
  C + V + Mk+ Mc + Mv  = V + V + Mv+ Mv+ Mk+ Mk
 この式から、同部門内取引を省略して部門間取引の式だけを導出すると、
  V + Mk+ Mv = C + Mc
 という拡大再生産版の基礎条件式が導かれる。但し、こちらの式は(少なくとも『資本論』を読んだかぎりは)マルクス自身は定式化していない。

  ここで、少し考えてみると、この基礎条件式が成立するということは、その両辺に同じものを加えて二部門の需給方程式をそれぞれ復元できるから、(拡大再生産)基礎条件式は二部門の需給均衡を保証するものである。ここで、この式を少し変形して、
  V + (M - Mc - Mv) + Mv = C + Mc
  V + M -  C =  Mc +  Mc
 となる。この左辺は剰余生産手段の価値に等しい(C + V + M = C +  C → M = V + M - C)。それゆえ、
  M = Mc+   Mc
となる。これは、剰余生産手段の価値が両部門の追加不変資本価値に等しいことが、二部門の均衡条件となることを示している(なんのことはない、これは「フェルドマン方程式」のことでないかと、後で気づいた)。
  そこで、両部門の需給を均衡させる必要から、マルクスは Ⅰ 部門の追加不変資本の不足を Ⅱ 部門追加不変資本がカバーするという森嶋(1969、p.142)のいう「非常に特殊な投資関数を導入した」のであろう。
 この点について、マルクスは明示的には何ものべていない。拡大再生産の第一例の所で、「表式Bで Ⅰ の剰余価値の半分。したがって500が蓄積されると仮定すると」(p.709)と、Ⅰ の投資の数字は仮定であると断っているが、「かわって Ⅱ は蓄積の目的で Ⅰ から100m Ⅰ [資産手段として存在する]を買い、これが今度は Ⅱ の追加不変資本になるのである」(同)と Ⅱ の投資として突然に、100という数字が出てくる。なぜ100なのか説明はない。そこで、入門書(山中他、1976)を見ると、「余剰生産手段500のうち400が第 Ⅰ 部門用にふりむけられる結果となります。/他方、第 Ⅱ 部門に関していえば、余剰生産手段はもはや100しか残されていないわけですから、必然的にⅡMc(上記Mcのこと:引用者)100とならざるをえません」と、投資が需給を一致させるように設定されているという説明ではなく、逆に最初から需給一致が前提とされているようである。これも長期的観点というのだろうか?

 再生産表式に関して、もう一点、気に掛かる点を書く。出発式への移行である。
 単純再生産と拡大再生産の出発式を比較する。

  単Ⅰ.  4,000c + 1,000v + 1,000m = 6,000 
  単Ⅱ.  2,000c +   500v  +  500m = 3,000 
  出Ⅰ.  4,000c + 1,000v + 1,000m = 6,000
  出Ⅱ.  1,500c +  750v +  750m = 3,000

 出発式では、4,000 Ⅰc + ,1500 Ⅱc < 6,000 Ⅰ、あるいは同じことであるが 1,500 ⅡC < 1,000 Ⅰv + 1,000 Ⅰm のため、500の Ⅰ 部門(生産財)に余剰があるので、拡大再生産が可能であり、以後の成長の出発点となる。この点は、よく理解できる。
 しかし、単純再再生産状態から出発式経済状態への移行を考えると、Ⅱ 部門では生産財の投入量を減らし、労働力投入を増やすことによって、同量の生産を維持しなければならない。このように、短期間に生産関数あるいは生産体制を変えることは果たして可能なのだろうか。その答えをマルクスに求めると、第21章第2節に、それらしきものはある。単純再生産から Ⅰ が生産を拡大しようと企て、剰余生産物の半分を自分の不変資本に加えようとすると、それだけ Ⅱ に対する需要が減る。Ⅱ の過剰生産は Ⅰ にも反作用して、「Ⅰ の資本家は、普遍の規模における再生産さえも、これを拡大しようとただけで、ひどく妨げられるのを感ずるだろう。そのさい考慮されなければならないのは、Ⅰ では実際は単純再生産がおこなわれたにすぎないということ、そして表式にみられる単純再生産の要素が、将来の、例えば、翌年の拡大のために、組み合わせをかえられているにすぎないということである」(p.702-703)と。生産要素の組み合わせの変更にすぎないから、抵抗はあるが困難ではないといっているように思える。そして、その解決は在庫生産(現在の経済学用語では、意図せざる在庫に該当するか)によって可能だとマルクスは説いているように私は思えた。需要面だけを考えていて、生産方法変更の困難性問題は考慮されていないように思える。
 しかしながら、ひるがえって、こうも考えられるかもしれない。単純再生産は拡大再生産を分析するための仮想的なモデルである。成長を考える時には、単純に出発式から始まると考えてよく、なにも単純再生産からの移行を考える必要はないのではないか。資本主義社会始点に単純生産経済が存在したと考える必要はないとも思う。

 (附論 再生産表式の形成)
 経済表はまことに簡単なモデルであるが、マルクスに反対する人でも、その独創性を認めない人は少ないと先に書いた。例えば、この産業分類では消費財の価格変化は生産財価格に影響を及ぼさないことが含意されている。マルクスの二部門分割で頭に浮かぶのは、それが、現代経済成長理論の二部門モデルとして継承されていることである。『現代経済成長理論』(ジョーンズ、1980、p.117)という本にも、「固定係数を使う場合および新古典派の技法を使う場合のどちらでも、2部門モデルはすべて共通の組み立て方をしている」。それは、生産財部門と消費財部門とへの二部門分割である。そして、「この2部門モデルの起源はマルクスの考えだした有名な「2部門体系」だといわれている」と書かれている。ちなみに、この方面では、わが宇沢弘文の論文が知られている。ペンギン・ブックスに入っているセン編集の論文集Growth economics(1970)でも、Two-Sector Growth Modelは一篇をなし、宇沢モデルが取り上げられている(宇沢論文そのものは入っていない)。
 再生産表式は、ケネーの経済表の研究とアダム・スミスの V+M ドグマの批判から生まれたと教科書的には書かれている。マルクスの再生産表式の形成過程、特にその二部門分割がどのように組み立てられたのかを知りたくて、を調べてみた。

 まずは、予備知識として、マルクスの経済学形成過程のまとめ。マルクスは、亡命先のパリ・ブリュッセルあるいは短い滞在であったマンチェスターにおいても経済学の研究を続け、ノートを残している。1849年ロンドン亡命後は、大英博物館図書館へ通って経済学を抜本的に再学習した。そこで作られたのが「ロンドン・ノート」(1850-53年)24冊である。1857-58年にはそれらの研究をまとめ始めて、経済学の最初の体系的叙述である7冊の及ぶノートを書き上げた。これら草稿は公刊を意図したものではなかったが、その一部は手を入れられて『経済学批判 第一部』(全6部を構想)として出版された。ちなみに、ノートそのものの公刊は約80年の時を経て、第二次世界大戦の直前(1939-41)にソビエトにおいて行われ、大戦後には旧東独において再刊された。この時に、『経済学批判要綱』という名前が付いた。
 1861-63年以かけては、『経済学批判』の第一部の続きとしての草稿を書き始め、途中で構想が変更されて『資本論』に結実する。『資本論』準備草稿である、これら23冊からなるノートは、「『経済学批判』草稿(1861-63)」と呼ばれる。この草稿中には『資本論』のみならず、後に『剰余価値学説史』となる内容が含まれている。
 1867年の『資本論』第一部(巻)出版後も、第二・三部の完成をめざしてマルクスの努力が続いたわけであるが、当面の問題である第二巻第三篇については、第1稿(1864-65)から第8稿まであった(後述)。
 以上の経緯を踏まえ、『資本論 第二巻』出版に至るまでの再生産表の形成過程を、高須賀と鈴木の著作に頼りながら調べてみた。

 最初に、『経済学批判要綱 Ⅱ 』(マルクス、1959、p.375)の「再生産表式の原型」と呼ばれているものを示す。これは、プルードンの過剰生産論(需要不足論)を論駁する文脈の中で示されたものである。

 
         労賃 原料 機械類 剰余生産物 
A)原料製造業者 20―40―20―20=100 2・1/2 
B) 同上    20―40―20―20=100 2・1/2
C)機械製造業者 20―40―20―20=100 2・1/2
E)労働者必需品 20―40―20―20=100 2・1/2
D)剰余生産者  20―40―20―20=100  
         10―20―10―10= 50  

 ここで、E は賃金財の製造産業、D の剰余生産者とは資本家用の奢侈品製造産業のこといである。E と D は順番が逆であるが、このように表示されている。
 最下の行と、最右端の列を除いた部分が、単純再生産を表現していると考えてよいのだろう。部門は5部門分割。価値・素材区分は、労賃、原料、機械類、剰余価値生産物の4分類である。わざわざ、原料部門を2部門に細分したのは、各部門を同じ数字にして、理解しやすくするためではないか。
 マルクスは、E を代表として説明する。「E は、100からなる彼の全生産物を、彼自身の労働者のための労賃20、原料<<製造業者>> A の労働者のための労賃20、原料<<製造業者>> B の労働者のための労賃20、機械製造業者 C の労働者のための労賃20、剰余生産者 D の労働者のための労賃20と交換で手ばなす。そのかわりに彼は、原料40、機械20を交換で手に入れ、20はふたたび、<次期に>労働者必需品に向けるために保存し、さらに20は自分の生活のための剰余生産物の購入用として手もとにのこしておく。他の資本家も同じような関係にある」(マルクス、1959、p.375)。こうして、価値の構成とともに、素材の補填関係が説明された。付け加えれば、以上の「表」の A+B+C を統合すれば生産財部門、D+ E を統合すれば消費財部門となる。
 さらには、この「表」には拡大再生産の契機といえるものも表示されている。最下の行は、各製造業の資本家が剰余価値20の半分10を蓄積し、残りの半分10を剰余生産者の生産物に消費した場合の、剰余生産者の生産を示している。剰余生産者への全需要は10×5=50となり、その価値構成が各素材で示されている。最右端の数字は、剰余生産者を除く各製造業者10の蓄積分が2.5 づつに別れて追加需要されることを示しているようである。私としては、25とした方が、実数の需要量として整合性が取れて解りやすいと思う。その他にも蓄積のことと思われる数字がいくらか書かれているが、私にはよく判らない。

 次に、23冊のノート「『経済学批判』草稿(1861-63)」の段階である。これはMEGA版による『資本論草稿』として邦訳があるが、図書館に行く手間を省いて、手持ちのMEW版にもとづくマルクス=エンゲルス全集の『剰余価値学説史』を利用する。
 『剰余価値学説史』では、第3章がアダム・スミスの章である。その第10節のタイトルは、「年々の利潤が、利潤と賃金のほかに不変資本をも含む年々の商品を買うということは、どうして可能か、の研究」である。いわゆる「スミスの V+M ドグマ」の探求である。
 10節の(a項)において、消費財生産者がその不変資本を消費財生産者間の交換によって補填することが不可能なことが示される。蓄積の無視、すなわち資本家が剰余価値全額消費するなら、V+M (賃金と剰余価値)部分は収入により消費される。問題は、総生産費の残りをなす不変資本部分を誰が買うかである。不変価値部分も消費財として需要されねばならない。消費財生産者 A (リンネル製造)の不変資本部分の価値を B (靴屋)と C (肉屋)の賃金と剰余価値で買うとする(生産者同生産規模で、V+M:C=1:2)。その B と C の生産物(V+M+C)の購入には、D、E、F、G、H、I の生産者の賃銀と剰余価値が必要となる。このように無限の連鎖が必要となるが、実際の産業は有限である。よって、これらは不可能である。
 (b項)は、社会全体の不変資本を消費財生産者と生産財生産者の交換によって補填することの不可能なことが示される。リンネル織物業者を消費財生産者の代表とする。その不変資本(生産財)を紡績業者と機械製造業者が補填し、前者の不変資本をさらに亜麻栽培業と紡績機械製造業が補填するというように無限に展開され完結しない。最終消費財に向け一方的に生産財が流れ込み、生産財、消費財が相互補填する再生産機構が表現できないのである。
 (c項)は生産財生産者間における資本と資本との交換を扱う。これこそが、再生産過程の要であると考える。「どの資本も、つねに同時に、不変資本と可変資本に分けられているのであり、そして、不変資本部分も、可変資本部分と同様に、絶えず新生産物によって補填されて[中略]常に同じ状態で存続し続けるのである。[中略]彼ら(生産財生産者:引用者)の諸生産物は、一方が他方のための前段階をなすのだとはいえ、相互に生産手段として彼らの不変資本にはいっていく」(マルクス、1969、p.154)。
 そうして、最終消費財(リンネル)の「すべての要素は、諸労働量の合計=新たに付け加えられた労働の合計に分解する。だが、この合計は、不変資本に含まれていて再生産によって永存させられる労働全体の合計には等しくない」(マルクス、1969、p.155)。なぜなら、生産物を構成するのは、「一部は生きている労働から一部は前から存在する労働から成り立っている労働量」だからである(同)。スミスのドグマを解く過程で、次のことが明確に認識された。価値を形成する年々の労働は、直接に生産に投下された労働と過去労働が凝固された労働よりなる。前者は賃金及び剰余価値として収入の源泉となり、後者は不変資本に体現することである。
 さらに、マルクスは『剰余価値学説史』でいえば、「第4章 生産的および不生産的労働に関する学説」の「第9節 収入と資本の交換」においても、再生産を論じている。再生産の流通を、「収入と収入の交換」(a項)、「収入と資本との交換」(b項)、「資本と資本との交換」(c項)の三形態で捉え、(b項)において二部門分割があらわれる。そこでは、A がすべての消費用生産物の生産者を表すとして、「A 類」、「B 類―これは非消費用生産物を供給」と書かれている。そして、総生産物は不変資本と収入(新たに付け加えられた労働)に等しいと繰り返す。A 類消費財産業、B 類生産財産業の分類は、刊行された『資本論』の部門 Ⅰ (生産財産業)と部門 Ⅱ (消費財産業)と順番が逆である。この分類は長く続いたそうであるが、少なくとも第二部草稿の第8稿では、刊行本とおりである。
 同じ『学説史』「第21章 経済学者にたいする反対論」の第1節の「(b)単純再生産および拡大再生産における資本と収入とのあいだでの交換について」において、上記第4章第9節の議論を展開して、「彼ら(不変資本を生産する生産者=生産財生産者:引用者)の生産物のうち、可変資本をあらわしてはいるが不変資本の形態で存在する部分が、生活手段生産者のうち生産物のうち、不変資本をあらわしているが可変資本の形態で存在する部分と、交換されるのである。この場合には、新たにつけ加えられた労働が不変資本と交換されるのである。/他方、生産物のうち、剰余生産物を表してはいるが不変資本の形態で存在する部分は、生活手段のうち、その生産者たちの不変資本を表す部分と、交換される。この場合には収入が資本と交換される」(マルクス、1970、p.325)としている。そして、この関係を『資本論』の再生産の基本方程式に該当するものとして、
 数式 V”+R" = C'
 と表現している。ここでは、剰余 M が、「剰余生産物、収入を R とする」と記されている。「’」を付されたものは消費財産業、「”」を付されたものは生産財産業の V、R、C である。また、消費財産業の生産物が Pa、生産財産業の生産物が Pb と記されているので、これを使えば、各産業の生産式は次のようになるのであろう(マルクス自身は直接には表示していない)。
  Pa = V’+C' +R’
  Pb = V”+C”+R”

 次いで、23冊のノート執筆の最終時期にあたる1963年7月6日付けエンゲルス宛書簡に、「同封の「経済表」」が現れる。『資本論』の「最後の諸章のうちの一章のなかに総括として載せるものだ」と書かれたものである。

   
   (マルクス、1999、p.343 より)

 部類 Ⅰ は全生産物が生活手段からなり、部類 Ⅱ は全生産物が不変資本を形成する商品からなる(ここでも、Ⅰ、Ⅱ の分類が刊行本と逆)。「蓄積を除外すれば、部類 Ⅰ が部類 Ⅱ 買うことができるのは、ただ部類 Ⅰ がその不変資本の補填のために必要とするだけの量であり、他方、部類 Ⅱ はその生産物のうちただ労賃と剰余価値と(収入)を表す部分だけを部類 Ⅰ の生産物に投ずることができる」と。基本的には二部門三価値構成である。二部門の合計として総生産物が示されていること、および剰余価値=利潤が、産業利潤と利子と地代に分解されている所が複雑になっている。

 最後に、資本論草稿段階での、再生産表式の形成過程をみてみる。大谷禎之介『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』(2018)という本があったので、主としてこの本を利用して書いてみる。
 資本論草稿番号といわれているものは、エンゲルスの命名による。『資本論』第一部刊行後、1868年に「第二部のために、二つ折り版の原稿を四つ集めたものがあり、マルクス自身の手で第一から第四までの番号がつけられている」(第二巻序文)。この番号を草稿の番号とみて、エンゲルスは第1稿―第4稿と呼んだ。その後の草稿は、書かれた順番を推定して第5稿―第8稿とした。最終稿とされる第8稿は、1877-1878年と1879-1881年の二つの時期に書かれたらしい。エンゲルスは、第三篇を編集するのに、第8稿のほとんど全部を取り入れ、足りないと思われる個所を、第2稿の一部をところどころに挿入することで完成した。
 マルクスは、第1稿において、既に社会的再生産過程を二部門に分割し、各部門の商品資本を三つの価値で構成したものの、それらの相互転換、補填状況は言葉で説明していた。第2稿では、二部門の総資本を C+V+M で示し、それら6要素の価値量を数字で表して、それらの転換、補填状況を直感的に把握できるようにした。再生産表式は、第2稿において始めて取り入れられた。
 そして、第8稿において、第1稿以来の宿題であった、拡大再生産の分析があらわれる。表式を利用して、以下の5つのケースが検討されている。
 1.両部門とも剰余価値の半分を蓄積する仮定をとる。ここでは、両部門の需給が均衡しないから検討が中断される。2.Ⅰ 部門の積率は50%、Ⅱ 部門の蓄積率は両部門の需給が一致するように調整、決定されるとの仮定をとる。マルクスは拡大再生産の表式を5年度まで作成し、6年目の資本を示したところで中断する。中断の理由は、有機的構成が低下したと思い(これはマルクスの勘違いであった)資本主義の進行と矛盾すると、これ以上の追及を止めたのである。3.第 Ⅱ 部門の資本構成を変化させた表式をあげたが、直ぐに止めてしまう。4.剰余価値率を変化させ、その他の資本構成比率は両部門とも変化させないとの仮定。第1年度末のところで中断。仮定との相違や計算間違いがある。5.Ⅰ 部門の蓄積率を50%とし、Ⅰ 部門の消費財供給 Ⅰ (V+1/2m)が Ⅱ 部門の Ⅱc より大きいとし、Ⅱ 部門の需要不足を「度外視」して、第3年度初めまでの拡大再生産を示し中断している。
 以上を見るに、マルクスは、再生産の条件をそれぞれに取り換えて、再生産がどのように進行するかを検討していた。しかし、いずれも研究途中でノートは覚書程度である。編者のエンゲルスは、上記の2.を採用して、拡大再生産を均斉成長のモデルに仕上げた。余りにきれいにまとめすぎたのかもしれない。

 このように見てくると、素直に考えれば、マルクスが産業を生産財産業と消費財産業に二分したのは、剰余価値を説明するために資本を不変資本と可変資本に二分したのに由来するものと思える。

 第一巻の初版本が2千万円以上の値を付けているのに、この第二巻初版は50万円くらいの古書価である。第二巻の初版本は二部私蔵している。ドイツおよびアメリカの古書店よりの購入本。今と違って、インターネット販売草創期のよき時代には、時間と手間を惜しまなければ、掘り出し物を手に入れることができた。まだ販売組織が整備されていず、国内の顧客が相手で、外国販売など考えていない書店のサイトで探求本がまま見つけられた。本屋が、外国に小包(それも船便で3ケ月もかかる)を送るのを面倒がるのだろう、オーダーしても販売済との返事が来る。しかし、商品は依然サイトに載せたままである。根気よく何度もオーダーを出したり、下手な英語で哀訴しなければならなかった。私蔵書も、15年くらい前になるが、5千円とか1万円で購入している。

(参考文献)
  1. 大谷禎之介 『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』 桜井書店、2018年
  2. 置塩信雄・鶴田満彦・米田康彦 『経済学』 大月書店、1988年
  3. 佐藤金三郎・岡崎栄松・降旗節雄・山口重克編 『資本論を学ぶ Ⅲ 第二巻・資本の流通過程』 有斐閣、1977年
  4. サミュエル・ベイリー 鈴木鴻一郎訳 『リカード価値論の批判』 日本評論社、1941年
  5. 鈴木春三 『再生産論の学説史的研究』 八朔社、1997年
  6. ジョーンズ 松下勝弘訳 『現代経済成長理論』マグロウヒル好学社 1980年
  7. 高須賀義博 『再生産表式分析』 新評論、1968年
  8. 高須賀義博 『鉄と小麦の資本主義』 世界書院、1991年
  9. マルクス 高木幸二郎監訳 『経済学批判要綱 (草案) 1857-1858年 Ⅱ 』 大月書店 1959年
  10. 『マルクス=エンゲルス全集 第24巻』(資本論 Ⅱ ) 大月書店、1969年
  11. 『マルクス=エンゲルス全集 第26巻 Ⅰ 』(剰余価値学説史 Ⅰ ) 大月書店、1969年
  12. 『マルクス=エンゲルス全集 第26巻 Ⅲ 』(剰余価値学説史 Ⅲ ) 大月書店、1970年
  13. マルクス・エンゲルス 鈴木鴻一郎他訳『資本論―経済学批判 第一巻、第二巻』(世界の名著 43) 中央公論社、1973年
  14. マルクス・エンゲルス 岡崎次郎訳 『マルクス=エンゲルス 資本論書簡 1(1844-1866年)』 大月書店、1999年 
  15. 森嶋通夫 高須賀義博訳 『マルクスの経済学』 東洋経済新報社、1974年
  16. 山中隆次・鶴田満彦・吉原退助・二瓶剛男 『マルクス資本論入門』、1976年
  17. ブローグ 杉原四郎・宮崎犀一訳 『経済理論の歴史 中 ―マルクスとマーシャル』 東洋経済新報社、1968年

 
 初版本2冊
 
 (標題紙 拡大可能)


(2020/4/14記)


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