LIST, FRIEDRICH, Das nationale System der politischen Oekonomie Erster Band [all published]. Der internationale Handel, die Handelspolitik und der deutsche Zollverein., Stuttgart & Tübingen, J. G. Cotta, 1841, pp.LXVIII+589, 8vo. リスト『経済学の国民的体系』、1841年刊、初版。 著者略歴:List, Friedrich フリードリッヒ・リスト(1789-1846)。ドイツ歴史学派経済学の創始者の一人にして、実業面ではドイツにおけるジャーナリズム、鉄道事業の開拓者であり、ドイツ国家統一に連なる関税同盟運動の中心的推進者。多面的な才能を持つ人物であった。 中世より神聖ローマ皇帝直属とされた帝国自由都市ロイトリンゲンに皮鞣匠の子(第8子)として生をうける。父はツンフト属し、市の役職に就くなど豊かな家庭であった。有力者子弟の通うラテン語学校で初等教育を受けた後、家業を手伝う。ヴュルッテンベルグ公国(後王国)の中にあったロイトリンゲンは、ナポレオンのオーストリア侵攻の余波を受け、1802年に同国に併合されてしまう。05年ヴュルッテンベルグ王国の見習書記から彼の公的キャリヤは始まる。下級の官吏である書記(但し、後に自身が書記制度の改革を提案するように隠然たる力は有していた)なるためにも、住込みの徒弟修業が必用だったのである。ブラウボイレンでの修行の後、「試補」の国家試験に合格、ウルム(アインシュタインの生地!)での税制改革の取り組みにより、上司の引きを受けた。11年チュービンゲンの郡役所に異動、チュービンゲン大学で3年間法学講義を受講した。期間の後半は職を辞し、勉学に専念した。14年上級書記の国家試験に合格、首都シュッツトガルドの内務省に入省する。 折からドイツ諸領邦は、ウィーン会議でのドイツ連邦規約にもとづきフランス憲法を範とする欽定憲法を制定しようとする動きが急であった。当地でも、15年に国王フリードリッヒ一世及び新王ヴィルヘルム一世が議会に憲法草案を提出する。これを機に、旧支配層と市民の間に「ヴュルッテンベルグ憲法闘争」が起こり、リストもそれに参加するのである。リストは国王と閣僚の支持の下に、多くの論説を執筆し世論を教化しようとした。16年に創刊した『ヴュルッテンベルグ・アルヒーフ』(Württembergisches Archiv)と同誌廃刊後の『人民の友』(Der Volksfreund aus Schwaben,1818創刊)が舞台である。ジャーナリスト・リストの誕生である。書記制度批判、地方行財政改革、農業問題が主たる論題である。リスト自身は終生、立憲君主制擁護を持し続けたとはいえ、旧支配層との妥協により議会での憲法草案の承認を得た国王にとって、「シュワーベンのデモクラート」リストは次第に要注意人物として危険視されるようになった。 この間、リストはその才幹を認めた文教大臣ヴァンゲンハイムと共に、チュービンゲン大学に新学部として国家経済学部(Staatswirtschaftliche Fakulät)を創設し、「国家行政実務」(Staatsveraltungspraxis)の教授に就任する(1817)。書記制度を廃し、近代的官僚の養成を狙ったものである。しかし政変によって庇護者が去り、政府の監視・圧迫が強まるようになる。その頃、私生活では、18年2月古典学教授のザイボルトの娘カロリーネ・ナイハルト(後家。ナイハルトは前夫の名。連れ子カール―米国で医師として長生―がいた)と結婚する。その活動においても、舞台を大きく転換する動きをみせる。リスト研究者をして「生涯における最も重大で驚くべき方向転換」といわしめたものである。 リストは、19年の大学休暇中、旅行に出た。ドイツの中心地ともいうべきフランクフルトにおいては、復活祭大市に集合した南・西ドイツ諸領邦の商人・工場主達の間にプロイセン新関税制度に対する請願書提出の運動が起こっていた。故意か偶然か、リストは、これに遭遇する。ナポレオンの「大陸(封鎖)制度」崩壊後の不況に悩む商・工業者は、プロイセンの国家エゴイズムに抗して全ドイツの統一関税による統合国内市場の成立を望んでいたのである。リストは請願書を起草するとともに、「ドイツ商工業同盟」(Der Deutsche Handels-und gewerbsverein)(注1)創立に加盟する。自らは、法律顧問の地位に就き、同盟の実質的指導者となる。該同盟は、国民経済、ひいては国民国家の形成を目指す国民的運動、「ドイツ関税同盟」(34年成立)の先駆だったのである。機関誌『オルガン』(Organ fur den deutschen Handels -und Fabrikantens- Stand )発行による宣伝、および諸領邦の宮廷・政府への幹部派遣による政治工作が主たる活動である。ドイツの二大国は、プロシアとオーストリアである。前者は同盟構想に最初は関心をみせたが、結局は後者の貴族層の反感が総てを決した。運動は失敗し、リストは宰相メッテルニッヒから「最も有能で老獪かつ影響力のある革命家」との烙印を押されるのである。リストはなおも、南ドイツの諸領邦のみに縮小した経済的同盟を画策したが、同様に不首尾に終わる(1820)。この間、リストは気儘な行動をとがめられて大学を追われる(19年5月)ことになる。ドイツ経済の現状を認識し、主流派経済学の欠陥に気づかされた「国民経済学者」形成にとって重要なこの時期は、転落の始まりの時期でもあった。 国王は制憲議会開催(19年7月)のための議員選挙を実施する。リストは、大学問題と同盟運動の多忙の中、ロイトリンゲンの市民に推されて立候補することになる。結果は当選であるが資格年齢不足で失格、その後の補欠選挙で返り咲く。同盟運動の叶わぬ思いを埋め合わせするがごとく、きわめて悪化した状況下で「彼の生涯におけるもっとも急進的な政治活動を集中的に展開させたのであった」(小林、1979、p.255)。20年末にロイトリンゲン市民は議員リストに要望書を手渡した。これを受けて21年1月にリストは「ロイトリンゲン請願書」を作成印刷する。結果的には、リストの政治的没落と生涯の放浪を決定づけたものである。その内容は、「生産諸層への行政者の敬意の要求や、国民産業の促進の必要」(小林、1978b、p.380)求める急進的改革案であった。他都市の愛国的市民に同様の運動が広がり、ズルツ、シュウェービッシュー・ハル、ホルンハイムなどからも請願書が出されることとなる。議会再開のためにも、政府はこの運動を鎮圧せねばならず、リストは議会から追放され、国事犯として有罪判決を受ける。憲法上も行政制度においても、根本的な改革と自由化は実現せず、「ヴュルッテンベルグ王国と市民層との一時的平和状態のなかで、リストだけが傷つき、告発され、逮捕され、追放されることとなるのである」(小林、1978b、p.371)。 服役を拒んだリストは、単身ラインを渡河しストラスブールに逃亡する。後、スイスで妻子を呼び寄せ亡命生活を送る。亡命中、ロンドン・パリに旅行している。ロンドンでは、鉄道を実見したことが特記すべきことであろう。亡命生活に将来の展望を得られず、渡米するか帰国するか去就に迷うリストは、楽観的状況を知らせる書信に「国王の公正を信じて」帰国を決意した。24年直ちに逮捕、要塞監獄に収監される。盟友コッタ(出版者、父の方)の奔走もあり、新大陸への「永久追放」処分を受ける。パリ旅行中に知己を得た、ラファイエット候の援助も期待していた。ホワイトハウス前に銅像があることでも判るように、彼は独立戦争の英雄でもあった。 国賓ラファイエットの旅行に随伴して、華々しく米国に現れた(1825)ものの、ペンシンルバニアでの農場経営の企てに早々に失敗。同州のドイツ系移民の町アドラーでドイツ語週刊新聞『レディンガー・アドラー』(Readinger Adler)の編集に携わる。文筆業に戻った彼は、アメリカ北部の保護関税運動に関与することになる。当時の合衆国は、地域によって経済的利害を異にしていた。工業地域である北部(ニューイングランド)、フロンティアである独立農民の西部、及び奴隷制プランテーションで綿花を栽培・輸出する南部の三つ地域である。ハミルトンに発するアメリカン・システムと称される国内産業発展のための保護主義運動は、綿花の栽培・貿易業者の推進する南部の自由貿易主義と対立していた。運動家は、29年の大統領選には農本主義者で経済自由主義者のジャクソンを推そうとしていた。ジャクソニアン・デモクラシーの基盤である西部独立農民に保護主義の必要性を理解させる必要があった。運動の中心となった「ペンシルバニア工業技術振興協会」(the Pensylvania Society for Promotion of Manufactures and Mechanic Arts)に、リストは才筆を見込まれる。依頼を受け、有力新聞に連載された論文は、『アメリカ経済学綱要』(Outlines of American Political Economy :1827)として出版された。それは、ドイツ関税同盟以来の思索を深化し、保護主義思想を体系化したものであり、スミス、セーとそのアメリカ的亜流であるクーパーの自由主義経済学を批判するものであった。 当時、ペンシルバニアでは、ゴールド・ラッシュならぬ石炭ブームが起こっていた。リストも文筆活動を中断して、この動きに乗り出す。アドラーはスクールキル川の流域都市であるが、上流の渓谷に自ら炭層を発見し、鉱区を取得する。そして石炭輸送のために鉄道会社を企画、設立し、代表者に収まるのである(1929)(注2)。「鉄道」とはいえ、古代の鍬あるいは初期の「甲装艦」の如く、レールは木の上に鉄を被せたものであり、開業時は注文した機関車も届かず馬力鉄道であった。全長35キロ(ちなみに、新橋・横浜間は29キロ)であったが、開業の早さでは全米で五指の中に入るという。事業は、彼に巨大な富をもたらすほどは成功せず、実質的経営権は次第に資金提供者に移った。彼に経営の才がそれほどなく、資本家として大成功しなかったことは、偉大な経済学者を持つことが出来た後世の我々には幸いなことであった。しかし、「青年リストが抱いたブルジョア・ラディカルの魂は、彼のアメリカでの滞在とそこでの事業成功とによって、むしろ産業資本家の魂に脱皮した」(小林、1978b、p169)。マルクスは,「一言で言えば、彼ら[リストとその学派:引用者]はブルジャアジー、とくに大産業資本家(große industrielle kapitalisten)の支配を拡大するつもりなのだ」(注3)と評した。ここでの経験は、帰国後、活動の重要領域の一つである鉄道の企業家としての仕事に生かされるのである。 望郷の念に駆られたのか、新大陸での経験を故国のために役立てたい思いからか、帰国を願う。彼が選挙に協力したジャクソン政府からハンブルグ領事に任ぜられ、欧州状況を視察した後、32年正式にバーデン領事として家族とドイツの土を踏む。領事の地位に守られていたものの、過去の罪状のため、いずれも「領事の資格を拒否されたのであって、ようやくライプツィヒ市が、鉄道事業に対する市の関心のゆえに、彼を迎え入れることを許したのである」(小林、1978b、p.18)。 帰国後活動の二大支柱は、鉄道事業とジャーナリズムである。ライプツィヒに落ちついてからは、前者に情熱を傾けた。「全ドイツ鉄道システムの基礎としてのザクセンの鉄道システムについて、特にライプツィヒからドレスデンへの鉄道を建設することについて」(1833、原題略:以下重要でないものは同様)という建策パンフレット執筆により、ドイツでは最初の本格的鉄道「ライプツィヒ~ドレスデン鉄道」(全長120キロ)建設の機運を盛り上げる。会社設立の趣意書を書き、設立総会では、責任者の一人に挙げられる。しかし、第一回株主総会の場の演説で大方の反感を買い、最大功労者ともいうべき彼の名は役員名簿には載せられなかった。わずかな手切れ金で事業から外されたのである。全ドイツの鉄道網建設を念頭に、同時に進めていたプロイセンでの鉄道建設への関与が、狭いザクセン社会の反感と嫉視を呼んだようである。 次に、ジヤーナリズムの世界である。帰国直後、『国家学辞典』(1834-43)の共同編集者として出版に参与し、ライプツィヒでは、大衆週刊誌『国民雑誌』(1834、同年終刊)を共同で創刊した。その後、彼の重要な出版活動である『鉄道雑誌』(Eisenbahn-journal, 1835-37)を単独で発刊する。 メッテルニッヒをはじめとする反対勢力は、彼の執筆・出版活動に圧迫を加え、『鉄道雑誌』は終刊せざるを得なくなった。また彼が深入りした甜菜糖の新製法事業化も、失敗に帰した。おりから、1837年の金融危機によって米国に残してきた銀行預金も失う。こうした状況の中、失意のリストは、37年ベルギーを経てフランスへ逃避する。「第二の亡命」とも称される。パリではハイネ等の亡命者のサークルと交わるが、生活は窮迫したものであった。2年半余のパリ時代の生活は彼の伝記でも最も不明な時期である。コッタの経営する『総合新聞』( Allgemeine Zeitung )誌の通信員として記事を送って稿料で口に糊しながら、主に賞金目当てのために、フランス道徳・政治科学アカデミーが募集した論文に応募した。『国民的体系』の直接のプロトタイプとなる『経済学の自然的体系』(Le systèm naturel d'économie politique,1837)が、それである。持論の保護主義を、独自の経済発展段階説と結合して、後進国を先進工業国に発展させる理論内容である。長女エミリーエの助力も得たが、達意のフランス語でもなかったせいか、受賞作該当なしの優秀作(3編)の一つに選ばれただけ。賞金は得られなかった。 失敗にもめけず、リストは論文の内容を更に体系化し、仏・独両国で出版する計画を立てる。『国民的体系』はここに、パリで着手され、外国人部隊の将校となった長男をアルジェに戦病死で失うという悲劇の中でも書き進められ、ほぼ完成するのである。首相ティエールから好待遇での官職の誘いもあったようだが、根っからの愛国者リストは、40年またも祖国に帰る。本書は、本国での校正の後、コッタ書肆から41年発売され、好評ですぐに再版、諸外国語にも翻訳される。 三度目の帰国後も彼の多面的活動は健在である。プロイセンの鉄道敷設案に対抗して中央ドイツのチューリンゲン地方を中心とする鉄道網「チューリンゲン鉄道」建設案を打出す(このために帰国したとする説もある)。例の如く、論説と要路への説得工作を行い、これもまた、例の如く最終的には設立会社からは、謝礼金と引き換えに排除されるのである(1840)。この時代のエピソードは、創刊(42年1月)を準備中の『ライン新聞』の編集長に誘われたことである。リストは足の骨折のためこれを謝絶したが、マルクスがその地位に就くことになる(同年10月)。ちなみに、この時の骨折が後遺症を残し、自殺の一因となるのである。 ジャーナリズムの面では、コッタから出た週刊『関税同盟新聞』(Zollvereinsblatt, 1843-49)の編集者・主筆となった。彼のジャーナリズム活動の拠点となった点で、『鉄道雑誌』と並んで重要な雑誌である。リストがそのために戦ったドイツ関税同盟は既に34年に成立していた。しかしそれは、英国へ穀物を輸出し、自由貿易を利益とするプロイセンのユンカーが、牛耳を取っていた。『同盟新聞』は、プロイセンの利害を代弁するものではあったが、リストが本当に擁護しようとしたのはラインラント(プロイセン領)と南ドイツの産業資本家の利益である。 すでに、リストは『国民的体系』出版の翌年に、その続刊となるべき(小林昇が高く評価する)論文「農地制度、零細経営、国外移住」("Die Ackerverfassung, die Zwwergwirtschaft und die auswanderung",1842)を書いている。「農地制度」の構想を広く知らしめるために、『同盟新聞』誌上でも幾度となく論説を展開している。それは、ドイツ工業のための国内市場創出策である。エンクロジャーにより封建的零細農民の開放を行い、豊かな中産独立農民を創出する。余剰となった農民は、ハンガリーとバルカン諸国へ開拓農民として移住させる。もって、広域経済圏を確立するプランである。世界政策としては、それまでの大陸諸国連携による英国への対抗策から、英国と結んで仏・露に対抗する方針へ転進するというものである。 構想実現のために44年に墺・ハンガリーを訪問している。ウィーン(次女が当地有力者に嫁ぐ)ではメッテルニッヒに謁見できたが儀礼的なものに終わり、ブタペストでは敬して遠ざける態のものであった。墺のハンガリー融和策に利用されただけであった。なおも、46年英・独同盟案を携えて英国へ渡るが、受け入れられることはない。 社会活動の面では行き詰まり、私的経済面でも窮迫した。最後の拠り所となるべき『同盟新聞』は、コッタとの紙面を巡るトラブルから自ら経営責任を負うことになり負担が重くのしかかった。精神・肉体面でも、神経疲労や過去の骨折による痛みに悩んだ。イタリアでの保養に旅立った途次、46年11月バイエルンに近いオーストリア領クフシュタインで拳銃自殺を遂げる。 リストは経済学者だけではないので、略歴とはいえ、少し詳細に書いた。 本書は、標題紙を2枚持っている。1枚目は、書名「国民的体系」/著者名「リスト」の下に線を引いて、「第一巻/国際貿易、貿易政策、ドイツ関税同盟」、更に線を引いて、発行地/書肆名/発行年となっている。2枚目は、「国際貿易、貿易政策、ドイツ関税同盟」/著者、線を引いて、発行地/書肆名/発行年となっている。もって、いわゆる現行の『国民的体系』が、彼の構想した経済学体系のうち、国際貿易部門及び貿易政策だけを扱う巻だと分かる。リストは書簡のなかで、自分の論説(正確には『国民的体系』の前身の『自然的体系』のこと)を「このさい仕上げて一冊の本にしたいと思いますが、同時にそれを一層大きい著作つまり経済学の新体系の、序論とするつもりです」(小林、1978a、p.40)と語っている。書物としては刊行されなかったが、続巻に向けての思索は晩年まで継続されており、断片として論考の形で残っている。 リストには『経済学綱要』や『自然的体系』等、『国民的体系』のプロトタイプともいうべき著作があるし、「新経済学体系」を構成すべく『国民的体系』の続巻を著わすために準備された『関税同盟新聞』や『ドイツ四季報』に発表した諸論考(特に「農地制度論」が重要)がある。さすれば、リストの経済学説を『国民的体系』のみ求めて足れりとするのは、知的怠慢である。『国民的体系』をリストの主著とするのは、スミス経済学における主著を『国富論』とするのと意味合いが異なる(小林、1978a、p.99-100)。それにもかかわらず、本書はリストの全著作中、最も大きく、最も体系的である。ジャーナリズムで養われた「大衆にわかりやすく populär書くということ」(リスト、1970、p. 36:以下、翻訳書からの引用はページ数のみ表示。下線は特に注記がない場合、原文の傍点を表わす)を目指した文章は平易で多くの読者に迎えられ、後世に与えた影響も大きい。その意味では彼の主著でなければ、代表作というのをはばからない。 世界市場のイギリス制覇が実現されようとする時代に、内はドイツ関税同盟、外は大陸同盟の構想によりこれに対抗すべく、祖国特にその産業資本のために、「経済発展段階説」を媒介にして、重商主義理論を生産力理論にまで高め、自由主義経済学の欠陥を暴いた。ドイツ歴史学派の淵源の一とされる。研究者には、「その現実感覚のするどさ、その歴史的洞察の深さ、その主張の端的さ、その表現のもつ平易さおよび生命力によって、こんにちまでその活力をもちつづけ、高度の古典としての位置を保っている」(小林、1979、p.385)と評価される。一方、リストは「第二次文献のなかで常に宣伝されかつ好評を博すのだが、実際に読んでみると、必ずや失望を味わうといった人々のなかの一人なのである。/それゆえに、彼が偉大な経済学者かどうかは一考すべき事柄として残るに違いない」(ブローグ、1989、p.145)という覚めた見方もある。小生には、読んでみて、結構面白かったが。 この本の執筆動機について、「この本を世に問おうという勇気を著者に与えたものは、主としてドイツの利害である」(p. 52) 。 学者社会に取入ろうとか、経済学講座や官職を取得しようとするものではなく、「ただ一つ、ドイツの国民的利益の促進だけを眼中においたのであった」(p.36)としている。 しからば、『国民的体系』に至る思考の発想はどこから生まれたのであろうか。リスト自身は「わたしは北アメリカへ行く運命となったが、そのときにはいっさいの本を残していった。[中略]この新しい国で経済学について読むことのできる最良の著作は生活である。[中略]このような本をわたしは熱心にまた勤勉に読み、そこから汲みとった教えを自分の以前の勉学経験や反省の結果と調和させるように努めた」(p.9)といっている。このことから、リストは既存の諸体系からは何ら深い影響をも受けず、現実の体験とコルベール、エリザベス女王、ピヨートル大帝、フリードリッヒ大王等の事績に学んだと小林(1979、p.125)はしている。そして、「商工業同盟」の成立当時、ドイツ産業資本家達が自ら出版したパンフや小新聞上で切実に訴えた論説、それらこそ、「これら著作がリストみずからによって書かれたものでないかと疑ってみたくなるほどである。[中略]リストの全著作において、固有の意味での文献依存関係はここにのみ存するというのがほんとうである」(小林、1979、p.124)とも(ゾンマーの注釈を引いて)書いている(注4)。 『経済学綱要』では、歴史研究の部分を欠いてはいるが、国民生産力理論は既に体系化されている。これを拡充した『自然的体系』は、不充分ながら批判的学説史及び近代商業史を持ち、経済発展段階説はむしろ『国民的体系』よりも整備されている。理論的水準は『国民的体系』より高いと評価する学者もいる。そして、『自然的体系』の頁数をほぼ倍に膨らませて本書は成った。「アメリカで書かれた『概要』(『経済学綱要』のこと:引用者)、フランスで書かれた『自然的体系』、ドイツで書かれた『国民的体系』が、同じリストによって、しかしそれぞれの国の産業資本の立場で書かれながら、きわめて一貫した理論的基調を示しているという事情は、リストのすぐれた特質」(小林、1979、p.393)である。 英国で名誉革命以後、ホイッグ党によって指導された固有の(本来の)重商主義に対して、後進国の保護政策論者一般を称して新重商主義者( Neo-mercantilist )とし、リストもその一人に数えられることが多い。しかし、リストはドイツの経済思想を官房学(カメラリズム)の段階から、固有の重商主義段階に進めようとしたもので、英国でキングが果たした役割をドイツで行ったものであるから、「リストは新重商主義者というよりの、むしろ端的に重商主義者と呼ぶべきなのである」(小林、1978a、p. 394)とされる。 本書の構成は以下の通り。まず、「緒言」において著者前半生の活動を回顧し、現在の経済学を批判し、本書の成立経緯を語る。「序論」で国民の生産力理論を概説し、本編である4編がそれに続く。本編について、「著者は、理論とはまったく矛盾することになるが、まず第一に歴史に教えを求め、そこから自分の基本的諸原理を引き出し、この諸原理を発展させたのちに先行の諸理論体系に検討を加え、最後に、自分の意図はどこまでも実践的なものであるから、貿易政策の最近の事情を説明するであろう」(p.52-53)と自ら書いている。第一編、歴史(Die Geschichte)は、イタリア都市国家からはじまりイギリスの世界制覇に至る近代西洋貿易史である。第二編、理論(Die Theorie)で、古典派経済学を批判し、自己の学説である生産力理論とそれに基づく保護主義理論を述べる。第三編、学説(史)(Die Systeme)では、重商主義、重農主義、スミス、セー等の経済学が批判的に叙述される。第四編、政策(Die Politik)は、先進英国に対する、独を含む後進国の具体的な保護貿易政策論である。 (発展段階説) リストといえば、発展段階説が取り上げられる。モンテスキューに始まる(と思う)発展段階説とリストのそれはどこが違うのであろうか。まず、その内容についてリストの自身に語ってもらう。「国民経済の発達にかんしてはつぎのような諸国民の主要発展段階 Hauptentwicklungsgradeを想定することができる。未開状態 wider Zustand、牧畜状態 Hirtenstand、農業状態 Agrikulturstand、農・工状態 Agrikultur-Manufakturstand、農・工・商状態 Agrikultur-Manufaktur-Handelsstand 状態がこれである」(p. 54-55) 。別の所(p.240)では、第一段階を「原始的未開状態 ursprüngliche Wildheit」とも称している。しかしながら、国際貿易面からは「期」として、別の段階区分がなされている。「国際貿易を介して行われる諸国民の国民経済的発展には、したがって四つのことなる時期が認められる。第一期には、国内農業が外国の工業品の輸入と国内の農産物および原料の輸出とによって発達する。第二期には、国内工業が外国の工業品の輸入と並行しつつ興隆 する。第三期には国内工業が国内市場の大部分の需要に応ずる。第四期には、大量の国内工業品が輸出され大量の外国産の原料および農産物が輸入される」(p.60) がそれである。 リストが段階説を必要としたのは、国民生産力理論にもとづき国内経済市場を発展させ、自立的経済圏を形成するためである。そのためには、農・工業が均衡発展するよう工業に対する貿易保護制度を必須とする時期・経済状態を弁別する必要がある。具体的には、農業段階から農工商業段階へ至る移行は、現実の国際経済の中では各国の経済発展が同一でなく先進工業国が存在するので、保護関税政策によってのみ可能となる。最高の発展段階である農・工・商業段階においては、自由貿易、特に食料・原料供給国である熱帯諸国(植民地等)との交易政策が有利である。これらのことを導出するためである。経済の特定段階にある国家の採るべき「政策」と、将来の世界連邦が成立する時点で適用する普遍的自由貿易「理論」を、結びつけるものとして「歴史」である段階説が必要されたのである。 リストが「発展段階説」を発想というより実感したのは米国であるにちがいない。アメリカ社会には西部のネイティブ・アメリカンの原始、牧畜状態から、プレーリー開拓地の農業状態、北部の農・工・商業状態が併存していた。状態は半世紀を経ても、さして変わらない。明治四年岩倉使節団がサンフランシスコからボストンに向かう大陸横断鉄道の車窓から見たもの(『米欧回覧実記(一)』、岩波文庫)は、経済発展段階をたどる光景であったろう。しかしながら、リストのアメリカ時代の著作には段階説は現れていない。欧州に戻って5年の星霜を経て、『自然的体系』(1837)で登場し、『国民的体系』(1841)で終わる。国民生産力理論を体系化した『経済学綱要』(1827)に段階説がないことは、段階説は生産力理論にとって本質的なものではないことを示している。そして、晩年に農業重視に回帰し、英国との同盟を模索する段階では段階説は消えている。「段階理論は、イギリスに対する大陸同盟が政策構造のモチーフであった、リストの中期の体系のみに属するものである」。「この点に歴史実用主義Geschichtspragmatikとしての段階説の本質が示されている」(小林、1978a、p.349)。段階説は、実践的あるいは便宜的なものでしかなかったようである。 合目的的な理論としての段階説はリストの歴史理論の根幹とされ、これをもって歴史学派の祖であるとされてきた。しかし、明快で図式的な段階説が余りに注目されたため、本書第一編「歴史」の優れた記述部分や後に『農地制度論』で展開された本当の歴史主義(これについては別に書く予定)がと見逃されがちであると小林は書いている。「リストは段階説の放棄によって、はじめてその体系に歴史主義を導き入れ得たのであった」(小林、1979、p.491)。そもそも、段階論は歴史ではないという議論もあるようだ。歴史はその「一回性」einmaligkeitを特徴とするものであり、パターン化し法則化するのはそれに矛盾するといっているようである。 (経済学について) 本書に散在する記述を点綴して、リストの経済学にかんする考えを纏めてみることにする。 「経済学は哲学 Philosophieと政策 Politikと歴史 Geschichteとの上に立脚する」(p. 45)とされる。ここで、「哲学」は経済理論をいい、「政策」(「実践」とも)は各国がそれぞれの経済発展段階に応じて取るべき方策をいい、「歴史」は各国がどの段階にあるかを教えるものである。より具体的には、哲学は古典派経済学、特にその自由貿易理論を、政策は重商主義を意味する。両者は、一面的で偏頗なものであり、「歴史」に媒介されてはじめて真理となる。彼のいう歴史とは、経済発展段階説である。 スミス、セーに代表される古典派経済学なかんずく自由貿易理論は恒久平和と世界連合Universalunionを前提とするものである。それは、「国家権力の介入がなく、戦争がなく、外国の敵対的な貿易上の措置がない場合に樹立されるはずだという、人類の私的経済体系」(p.233)である。しかし、現実の世界は各国が覇権を争う場である。国家の介入を考えない自由貿易学派は、ギリシャ神話のシーシュポスのように、大陸の諸国民に戦争中に工場を建設しては平和時にそれを崩壊させる刑罰を課するであろう(p.246)。この学派には、政治的視点が欠如している。「諸国民の特殊な状態を無視して全人類の福祉だけを心配しているためである」(p.234)。しかもその想定する世界連合は、「多くの国民が同等の段階の文化と勢力とに到達してその結果世界連合が連盟 Konföderationという方法で実現されるときにはじめて、人類の幸福に役立つことができるのである」(前下線引用者:p.54)。「学派はやがて成立するはずの状態を現実に存在しているとみなしたのである。[中略]ところで、世界の現状のもとでは一般的自由貿易から生まれるものが世界共和国 Universalrepublik ではなくて、支配的な工業・貿易・海軍国の至上権におさえられた後進諸国民の世界的隷属 Universaluntertänigkeit よりほかにない」(p.190)。古典派経済学は、イギリスの世界制覇を正当化あるいは隠蔽するものでしかなかった。「彼らはその言葉の上ではいつも世界主義者であり博愛家であったが、その目ざしして行うことところはつねに独占者であった」(p.129)。 スミスは、国民相互の取引=貿易を、個人間取引の原理で説明している。古典派自由貿易理論が、「たんなる人類やたんなる個人だけを見て国民をみていなかったことをわたしは知った」(p.2)。「しかし個人と人類のあいだには、特有の言語と学芸とを持ち、固有の由来と歴史を持ち、特有の習俗、習慣、法律、制度を持ち、存在、独立、進歩、永続に対する要求を持ち、区分された領土を持つ、国民が存在している」(p.237)。「文化の点で大いに進んだ二国民のあいだでは、両者にとって自由競争は、この両者がほぼおなじ工業の発達状態にあるときしか有益に作用しないということ[中略]大いに遅れている国民は、[中略]なによりもまず自分で努力して、もっと進んだ諸国民との自由競争を行うことができるようにならなければいけない」(p.2)。 「わたしの提示する体系の、学派との特徴的な相違として、国民国家 Nationalität をあげる。個人と人類のとの中間項としての国民国家の本質の上に、わたしの全建築は基礎をおいている」(p.35)。「一言でいえば、わたしは世界主義経済学と政治経済学とkosmopolistische und politische Ökonomie の区別に到達した。わたしにはつぎのような考えが生まれた。すなわち、ドイツはその諸領邦間の関税を撤廃し、外国に対する共通の貿易体制をつくって、他国民がその貿易政策によって獲得していたのと同程度の工業・商業上の発達を求めるべきだということである」(p.2)。世界主義経済学(「万民経済学」とも訳される)は、世界経済学 Welt-Ökonomie、政治経済学は国民経済学 National- Ökonomieとも称される(p.184)。あるいは、前者は交換価値の理論 Theorie der Tauschwerte とされ、後者は生産(諸)力の理論 Theorie der produktiven Kräfte とされる。「それらは互いに本質的にことなり、独立に発展させなければならない学理なのである」(p. 56)。リストとしては、「 世界主義経済学の理論を非難するつもりはけっしてない。われわれはただ、政治経済学[中略]もまた、科学として形成されるべき」(p.186)であるとする。反対に、実践すなわち「重商主義」は、国民だけを見て人類を見ず、「制限は手段に過ぎず自由こそ目標なのだということを認識していない」(p. 46)。 (スミス経済学とイギリスの政策) 国民生産力の発展をイギリスは国是としてきた。イギリスが農業段階から農・工・商業段階へ発展して来た道は、万国にも同様に開けているはずである。しかしスミス以来この国是に「もう一つの新しい国是がつけ加えられた。それはすなわち、イギリスの真の政策をアダム・スミスによって発見された世界主義的なきまり文句と議論によって隠蔽し、他の諸国がこの政策をまねるのを防ぐ、ということである。/権勢の頂点に達すると、そこへよじのぼるに使ったはしごをうしろに投げ捨てて、他人があとからのぼってくる手段をなく」(p. 422)した。 イギリスは、高級で安価なインドの絹織物や綿製品を自国の商館に扱わせず、国産の粗悪で高価なそれらを自国で消費した。自国産業を破滅させないために、インドの製品は大陸諸国に転売した事実がある。「イギリスの閣僚たちは、安価ですぐに消費される工業製品を獲得することなどを求めずに、たいせつで恒久的な工業力を獲得することを求めたのである」(p.110)。これらの史実はスミスの自由貿易理論には不都合なものであった。スミスは、「自分の原理に向けられることのあるべき非難を、政治的目的を経済的目的から分離することによって除こうとこころみ」た。このような分離が、事物の本性(リストの頻用する語)と経験とによって是認されないことは明白である(p.110-111)。こうして正当化されたスミスの「理論がピットからメルボーンにいたるまでイギリスの宰相たちに利用されて、イギリスの利益のために他の国民をごまかすという目的で使われた」(p. 35) 。 近くの例として、マンチェスター自由貿易運動は、その工作員としてバウリング博士をドイツに派遣し(1839)、ユンカーの関税反対運動を支援したことがある。博士の報告書にリストが読み取ったイギリスの意図は、「まぎれもなくドイツ保護制度全体の転覆に――ドイツをイギリスの一農業植民地の地位におしもどすことに向けられていると主張したとしても、それは誇張ではない」(p.455)。 (ドイツの工業化) それぞれの国民には、「個々の人間にとってと同様に、自己保存の衝動と改善への努力とが自然によって植えつけられている。未開の国民国家を文明化し、弱小の国民国家を強大化すること、だがなにをおいてもそれに存立と継続とを確保することが、政策の任務である」(p.238)。しかし、リストにとってこれらの諸国民には、熱帯諸国は含まれていない。どうやら、本書中の事例の記述から見て、アジア(主として中国である)も同様に除外されているようである。 リストは、英国のみの覇権は認めないが、温帯諸国の覇権は認める。「全温帯の工業力を全熱帯の農業のために発達させよう」(p.254)とするものである。温帯諸国は、「熱帯諸国と文化の遅れた諸国民とをしっかり隷属させることができるからである。したがって温帯諸国は、他のあらゆる国よりも、国民的分業を最高度に完成させ国際分業を自分の致富のために利用するように定められているのである」(p.225)。熱帯国は、精神的肉体的能力から農業段階に止まる宿命である。温帯国は熱帯国を原料供給者と製品市場とするのは「使命」なのである。そして、「製造工業の場合には、温帯のすべての国民がそれに必要な物質的、精神的、社会的、政治的手段を持つと仮定して、これらの国民はその樹立に同等の使命を持つ」(下線引用者:p.438) としている。ここでいう温帯諸国とは、「ヨーロッパ大陸や北アメリカ大陸」の諸国を指すのであろうが、ともかくも温帯諸国は同等に工業化の権利を持つように書いている。しかし、勿論リストに念頭にあるのはドイツの工業化のみである。 「もしなんらかの国民が国民的工業力を樹立するように定められているものとすれば、それはドイツ国民である。[中略]/いな、われわれはあえて、ドイツの国民国家の存在と独立と将来とはドイツの保護制度の完成を基礎とするものだと主張する。[中略]/国民国家がなくわれわれの国民国家の永続に対する保障がなければ、われわれはいっさいの努力は何の価値を持つであろうか!」(p.477)。 12,13世紀イタリア商工業の発達は、経済の最高段階に達するほどのものであった。彼らが今日の英国となり得なかったのは、ひとえに国民的統一がなかったためである(p.71)。生産力の国際的な結合は、戦争や紛争によって中断される不安定なものである。国内市場は、国際市場に比較して断然重要なものである。領邦国家に分裂しているドイツ民族も統一国家→統一市場を形成する必要がある。そのために、ドイツ商業同盟は「ドイツの人民のゲルマン民族としての統一化 Germanisierung への第一歩である」(p.452)。もっとも、「この措置(関税同盟のこと:引用者)は、オランダとデンマークとを包摂してラインの河口からポーランドの国境にいたる全海岸地方にまで拡大されないかぎり、完全なものとはみなされない」(p.239)というように、リストの考えた国家的統一は「大ドイツ主義」よりもさらに広いものであったように思う。「国民的統一以外の統一をドイツでは望まないだろう」(p. 40) 。 先進工業国イギリスでは工業化によるプロレタリアの社会問題が先鋭化していたことを、リストは承知していた。しかし将来発生するかもしれない問題を恐れて、工業化に踏み出さないのは、国民を無気力に留め、国民を農業段階から抜け出させず、永遠に先進国に隷属させる結果を招く。「現代にあって工業にともなう弊害を工業そのものへの拒否の理由として利用しようとするならば、それもまたきわめてかなしむべきことである。プロレタリアたちの階級よりもはるかに大きい弊害がある。空っぽの国庫―国民の無気力―国民の隷属―国民の死滅がそれである」(p. 40) 。リストは、 プロレタリア問題は工業化に本質的なものではなく、イギリス固有の問題であると理解しようとしていた。 さらに一歩進んで、英国の経済的覇権に対する大陸同盟の構想がある。第二流の海軍国家である大陸諸国が、武力によらず自国の正当な要求を実現するには大陸同盟による他はない。「このような同盟によってのみ、大陸の工業諸国は熱帯諸国との結合を維持することができ、東洋および西半球での彼らの利益を主張し擁護することができるのである」(p. 475)。国民的統一が実現し欧州の中心勢力となった暁には、「ヨーロッパ大陸の東と西のあいだの仲介者であるこの中心点ドイツは、その地理的位置、侵略のおそれを諸隣国に少しもかんじさせないその連邦制度、その宗教的寛容およびその世界主義的傾向、最後にその文化と勢力の諸要素によって右の使命をあたえられている」(p.466)。リストは、どこまでも愛国者なのである。 (国民生産力論と工業化) 「富をつくり出す力は、だから富そのものより無限に重要である」(p.197)。「だがなぜそうなのか。それは、国民の勢力は新しい生産資源を開発する力だからであり、生産諸力は富が成る木だからであり、実をつける木は実そのものよりも価値が大きいからである」(p.112)。生産諸力(productiven Kräfte:複数形)は、(1)精神的・肉体的労働及び能力、(2)社会制度、(3)自然資源、(4)生産資本の四要素(注5)よりなる(p.283)。 国民生産力理論は本書全巻を通じて貫く指導的理念である。リストの生産力論は生産力自体に関する分析ではなく、むしろその与件の議論(オイケン)であるとされる。歴史的与件について考察されている。それゆえ、古典派に代替する価値理論は生み出せなかった。国民的統一の下で、「国民的分業 nationale Teilung der Arbeit および生産諸力の国民的結合 nationale Könfoderation der produktiven Kräfte がなくては、国民はけっして高度の幸福と勢力とをかちえないであろう」(p. 57) と書かれていることから見て、国民的分業と生産力の国民的結合が経済発展すなわち国民生産力増大の鍵であろう。そして、それらは、「国民のなかで精神的生産が物質的生産とつりあっている場合に、国民のなかで農業と工業と商業が均整的、調和的に形成されている場合に、成立する」(p.57) 。最終段階の農・工・商業国は、調和的で、それ自体で完全な国家であり、封建国家に見られた貴族階級と市民階級の間の不一致は解消し、農・工業と商業とがきわめて緊密に結合し協力する社会である。「これは以前に存在していた社会 Gemeinwessenよりも問題にならぬほど完全な社会であった。[中略]農・工・商業国は、国の全体にひろがった都市、ないしは都市にまで向上した国である」(p.392)。 経済発展のためには、産業部門間の均衡成長が要請されるのである。とはいえ、『国民的体系』におけるリストにとって、工業優先はまぎれもない。近代工業建設が経済発展の戦略的ファクターとされているのである。近代的な国家生産力と国民経済を規定するものは産業としての工業である。農業と商業は副次的な役割を果たすだけである。「工業は内外商業、海運および改良された農業の、したがって文明と政治的勢力との基礎である」(p. 55)、あるいは「工業力によってのみ、国内農業は高い発達段階におしあげられる」(p.58) という。小林(1979、p.488)も、「リストの「主著」とされていた周知の『国民的体系』は、全巻をあげて近代的工業力、しかも巨大設備を持つ大工場の生産力を賛美し、これをドイツに建設しようとしたものであった。この点についてはいささかの疑いも存しない」とする。農業改革を国民経済力の近代化・合理化の出発点として捉え直すのは、後の『農地制度論』においてである 「原則としていえることは、工業製品を輸出することが多ければ多いほど、原料を輸入することが多ければ多いほど、熱帯生産物を消費することが多ければ多いほど、国民は富かつ強力だということである」(p.60)。すすんでリストは、「民主主義と工業は同義語である」とまでいっている(小林、1978a、p.61による)。なにせ、「工業国にあっては、虚弱者や不具者の労働が農業国にあって最も頑丈な男子の労働が持つ価値よりはるかに高い価値を持つこともまれではない。子供とか夫人とか、不具者とか老人とかいう最も弱い力さえもみな、工業では仕事と報酬を見いだすのである」(p.261)というのだから。 文明、資本所有と人口の点ですでにかなりの程度まで発展している国民は、「その国自身のものである工業力の発展が、工業を欠いた最もさかんな外国貿易よりも自国の農業にとって比較にならぬほど有利であることをさとるであろう」(p.220)。農業生産力と工業生産力は相互発展する。工業人口が農業人口を「はるかに超えているというのがイギリスの状態であり、ひとしいというのがフランスやドイツの状態である」(p.219)。のみならず、農業人口自体も農業段階にある国よりも、2,3倍多い(p.269)。しかるに、イギリスの統計学者マックィーンの数字をもとに、人々の錯覚を衝く。工業の盛んな国においても、農業資本は工業資本より10~20倍多く、農業生産物の価値は工業生産物の価値を上回っているので、「農業は工業よりも十倍富を増し(有し?:引用者)、したがって十倍も重要であるように見える。しかしこれは外見にすぎない」(p.309)のである。 (保護関税制度) 近代国家を形成するための物質的基礎が工業力であるなら、工業を発達させることは国家の目標であり、そこから保護貿易政策が導出される。自由貿易は、国内産業の成長を阻害しない場合にのみ認められる。重商主義でいえば個別的貿易差額の段階であろうか。 近代工業とそれを支える機械工学の発達は、その発展に資本量と販路の他には、何ものにも制限されない状況を造った。それは、優越的地位にある国民(イギリス)に、幾世期もわたる資本蓄積により、広汎な世界貿易を通じ「他のあらゆる国の製造業に対して殲滅戦を布告できる地位をあたえる。こういう状態のもとでは、他の諸国民にあっては、アダム・スミスが述べているように「事物の自然の進行をたどって」農業上の発達が行われことの結果として大規模な製造業や工場が成立するということは[中略]とうてい不可能なのである」(p.356) 。それは、戦時経済をみれば判る。交戦国間の貿易は途絶え、国家の保護の下に経済性を無視して自給自足体制が取られる。「一方では遅れた工業国民のなかに製造工業が、他方では進んだ工業国民のなかに農業生産が異常なありさまで発展する」(p.365)。工業後進国は、平和を回復しても、先進工業国と自由競争できない工業品目については、戦時体制を維持するのが有利である。また、貿易政策の変更も「繁栄している製造業を数年で破滅させることは破滅している製造業を一世代かかって再興させるよりもずっと簡単だということ」(p.138)、人為の力を思い知らせる。 自由貿易は、工業先進国と後進国の間では、後進国工業を殲滅させることになる。後進国は経済的自立を失い、先進国に経済的ひいては政治的隷属する結果となる。安価な外国製工業品輸入という短期的経済利益の追求は、国民生産力形成という長期的経済利益を喪失させることになるかも知れないのである。そのために、保護関税制度が必要となるのである。「後進諸国民は、他の諸国民の先んじた進歩により、[中略]農業状態から工業状態への移行を実現する方法を、つまり工業独占を目指して努力している先進諸国との貿易を―それが右の移行を妨げるかぎり―みずからの関税制度によって制限する方法を、自分自身で求めるように迫られる」(p. 56) 。 例え自国が保護関税制度を採用しないとしても、外国の諸国民は彼らの現実的ないし想像上の国益のために自国の産業に不利となる立法を行うかもしれない。自国で保護制度を取るにしくはないのである。そして、この工業保護のための関税は工業育成のための関税であって、絶対的に輸入を拒否する禁止的関税ではない。貿易による「適度の」競争は、価格やイノヴェーション面での国内資本に対する刺激剤だからである。「関税法は、その使命を果たすつもりならば、国民工業とともに前進しなければならない」(p.456) 。国内工業の発展に応じて関税は改訂する必要がある。保護関税は、低廉な輸入商品という価値面の犠牲において、将来の国民のための財生産に役立つ生産力を獲得する政策なのである。さらには、戦時の経済的自立も確保できるであろう。 それでは、保護関税制度の行き着く先はどのようなものだろうか。政策のよろしきを得れば、生産諸力は均衡的に発展し、調和的な産業構造が形成される。統合された国民市場が形成され、社会的分業は高度に発達する。労働者と資本家への階級分化も進み、資本主義社会が完成する。十全に均等発展した農・工・商業国は、「正常国民」(Nomalnation:ゾンマーという学者の造語)と呼ばれ、植民地を保持する能力を有していると考えられている。「正常な国民 normalmäßige Nationは、農業、工業、商業、海運はそのなかで均等に発達している。[中略]過剰な人口と精神的および物質的資本とで植民地を建設して新しい国民をつくり出す力がそなわっている」(p.238)。そして巨大な正常国家の場合(ドイツはそうであろう)、実際、それは工業生産をする本国と原料・食料生産地としての熱帯地(多くは属領)から構成される。巨大正常国相互間の貿易の比重は減少することになる。この段階では、自由貿易政策が復活するとされている。私はブロック経済を思い起こすが、 小林(1978a、p.128)は、「フィヒテの『封鎖商業国』の思想に近い」としている。巨大国間では、資本や技術の格差が無くなり自然条件に基づくような比較優位を持つ工業製品のみが交易される世界であろう。 (保護主義の条件) 保護主義は国民生産力を増大させようとするすべての国民の取るべき政策手段かといえば、そうではない。空間的・時間的な条件がある。まず、「いっさいの精神的および物質的特性と手段とを持ちながら、すでにいっそう進んでいる外国の工業力の競争によって進歩をはばまれるような国民――こういう国民の場合にのみ、自国の工業力の樹立と保護とを目的とする貿易制限は是認されるべきものである」(p.241)。「広大でまとまりのよい領土により、大人口により、自然資源の所有により、きわめて進んだ農業により、高度の文明と政治的発達とによって、第一級の農・工・商業国民や最大の陸海軍国と抬頭の地位を主張する資格のある国民の場合に限られる」(p.364-365)。 国民の精神的・肉体的能力、資源、文明・政治状況等が発展の可能性のある国民に限られている。国民生産力の要素が一定水準にあることが条件である。先に熱帯国に工業化の権利がないとしたのは、この条件を欠いているからであろう。 またこのような条件を満たしている「国民の場合にあっても、それが是認されるのは、工業力が充分に強化されて外国と競争がもうおそれるにたりなくなるまでのあいだにかぎってのこと」(p.241)である。段階説でいえば、農業状態あるいは農・工業状態から農・工・商業状態に至る過程のみで必要不可欠であり、最終状態では不要・有害となる。歴史の教える所では、「彼らの進歩の程度に応じてその制度を変えることができるし、またそうしなければならない。[中略]最後には富と勢力との最高段階にのぼりつめたところで、自由貿易と内外の市場での自由競争の原理へしだいに回帰することによって、自国の農業者や製造業者が怠惰になるのを防ぎ、既得の優越を確保するように彼らを刺激しなければならない。[中略]この最終段階に到達しているのはいまのところ大ブリテンだけである」(p.178-179) 。ついでながら、自由貿易はまた、農業状態の停滞社会(第一期)では、発展の契機としての役割もある。「国の工業製品の自由な輸入と国内の農産物の輸出とが、自国の生産諸力を発展させ、怠惰やけんかにふけっている住民を勤労に慣れさせ、地主と貴族とに工業に対する関心を持たせ、商人の眠っている企業心を醒めさせ、ひろく自国の文化と工業と勢力とを向上させるための、最も有効な手段であった」(p.174) と。 重商主義者は、一定の国民の一定の発展段階に有用な保護貿易制度を絶対的・一般的に有用なものと誤った。それは手段を目標と取り違え、「国民だけを見てどこにも人類を見ず――現在だけを見てどこにも未来を見ないで、ひたすら政治的・国民的であり、そこには哲学的洞察――と世界主義的意図が欠けている」(p.46)。とはいえ、貿易制限は抽象的思索から生まれたものではなく、諸国民の利害関係すなわち経済競争と戦争から自然の結果なのである。だから、将来諸国民の法による結合(世界連邦)により利害対立が無くなるとともに、貿易制限もなくなるとする(p.177)。 現実の保護貿易政策としては、国民の工業発達に相応しい政策だけが生産力発展に寄与するのであり、保護の行き過ぎは逆効果である。二国が工業製品の交換によって互恵的な利益を得られるのは、「工業の発達がほぼおなじ段階にある二国民間の場合、すなわち両者のあいだの競争が一方の側から圧倒的、破壊的、抑圧的、すべてに独占的にあらわれることがないばかりでなく、国内交易のさいと同様に相互の競争と進歩と価格の下落とを刺激するという場合であろう。これはたいていの大陸諸国民にとっての場合である。たとえばフランスとオーストリアとドイツ関税同盟とは、かなり低い保護関税からきわめて有益な影響だけを期待して当然といえるであろう」(p.379-380)。これらの諸国が恐れなければならないのは、ただ優越的立場にいるイギリスだけである。 そして、「あらゆる工業部門をおなじやりかたで保護することはけっして必要ではない。特別な保護が必用なのは、経営のために大きい設備資本と経営資本、多くの機械、したがって多くの技術的知識と熟練と修業、多くの労働者が不可欠であって、その生産物が一級の生活必需品のなかの一つであり、そのために総価値の点でも国民の独立にかんしてもいちばんたいせつな最重要な部門」(p.241)である。リストは例として、「羊毛・木綿・亜麻工業等々だけにかぎられる」(同)としているのは、当時産業は軽工業が中心であったからであろう。周知のようにドイツでは、1840年代から鉄道建設とあいまって機械工業が発展する。 なお、リストの保護貿易主義が固有の重商主義者と異なるのは、彼が農業生産物の保護を認めないことである。「農産物の交易にかんしては学派のいうところは完全に正しく、貿易の最大限の自由は、[中略]個人とっても国家全体にとっても最も有利である」(p.276)。「国内農業を保護関税によって発達させようようと望むことは、ばかげた企てである。なぜなら、国内農業は国内工業によってのみ費用をかけずに発達させることができるからであり、しかも外国の原料と農産物とを排除すればその国の国内工業は抑圧されるからである」(p.60)。リストにとって農業は自然独占が支配する産業であり、工業は人為的政策でその発展を期待できる。自由貿易学派のいうように、スコットランドでブドウを温室栽培することは経済合理性に欠ける。「交易の制限は農業生産力に対しては工業生産力に対してとはまったく別の作用をおよぼすからである」(p.273)。 もっとも、リストの農業自由貿易論は、プロイセンのユンカーの対英国穀物貿易を認めることによって彼らを自己の構想に引き寄せようとする政治的なもので、後年英国穀物法により輸出が制限され、ユンカーが自国市場を重視するようになると、その色彩を薄めることになる(小林、1979、p.392)。 以上冗長な駄文を連ねたので、最後に重要であるが触れなかった論点を、一つだけごく簡単に書きとめる。リストは貿易差額による貴金属の国際間移動が、経済の交替や恐慌を生み出すことを論じた。重商主義からの揺れ戻しで、当時は貴金属の意義を余りに軽視し過ぎていると考える。自らも被害を蒙ったアメリカ金融恐慌の描写(23章)は秀逸とされる。 最近たまたま読んだ本に以下の記述があった。リストは、いまでも生きている。 「それまでは、中国国内だけしか売れない製品しか作れなかったが、対外開放により先進国から工場や技術が中国に行き、先進国の人でも欲しがるものが作れるようになる。輸出によって得た外貨で高品質の原材料や中間財を買う、技術を導入する、外国の質の高い消費財を買う、国内の貧しい人たちもそんなものが欲しいから、よく働く。そのおかげで早く成長できたのです。/日本も戦後はそのようにして発展してきました」(竹森、2009、p.171-172:溝口善兵衛の対談発言)。 ドイツの古書店からの購入。元々は、昨年初版本を入手した(と思って)、この項を書き始めたのだが、書いている途中でその本が復刻版だと判った。私としては大枚をはたいたつもりだったので、大いに気落ちして書くのを中断した。購入本を仔細に見るのは、HPに上げるため、原語は解らぬながら、本のあちこちを参照する時である。購入時は、ざっとした点検だから気付かず、このざまである。再度、初版本を探してみると、一本が見つかった。今度は、図書館旧蔵書でコンデションも悪い本ではある。気を取り直して購入、書き継いだ。 この本の第二版について書いたページは自分の記録として残して置く。 (注1)諸田(2003)には、「ドイツ商人・工場主協会」(Verein deutscher Kaufleute und Fabrikanten)と書かれてあるが、正式名称は「ドイツ商工業同盟」と会議で決議されていたらしい(蔵本、1986)。
(2015/7/31 記) |