LIST, FRIEDRICH, ” Die Ackerverfassung, die Zwergwirtschaft und die Auswanderung ”, Deutsche Vierteljahrs Schrift, Stuttgart und Tübingen, J. G. Cotta, Viertes Heft , 1842, p.106-191. リスト「農地制度、零細経営、国外移住」(『農地制度論』とも)、『ドイツ四季報』第4号(1842年9月刊)所収論文。 『経済学の国民的体系』(1841)は、本来リストの構想した経済学体系のうち、国際貿易部門及び貿易政策だけを扱ったものであることは、既に『国民的体系』の項で述べた。元々彼の経済学体系の最終巻となるべきはずのもの(注1)が、政治的な緊急性および本の営業面を鑑みて、最初に出版されたのである(注2)。そのことは、「緒言」にも述べられている。にもかかわらず、『国民的体系』に対する無理解な批判に対して、「わたしはこの諸批評に目を通しながら、最初にすくなくとも農地制度にかんするわたしの体系の根本思想を知らせることがどうしても必要であることを知ったのであった」(リスト、1974、p.208:以下本邦訳はページ数のみ表示)。 そこで、嬉しい誤算である第一巻の完売を知ったリストは、第二巻として第一巻の最終章(「ドイツ関税同盟の貿易政策」)の詳説を考えていたにもかかわらず(p.207-208)、『農地制度論』の完成を急いだ。本書(正確には論文であるが、以下書とする。よって『』表示)は、「経済学体系」の第二巻の素描として書きおろされた。そのことは、『国民的体系』出版後(両書の出版の間隔は1年以内であるから、直後といっていいであろう)にリストの世界政策の構想に変化があったからでもあると小林は見ている(小林、1978b、p.69-70)。イギリスが自給的帝国の建設を志向しつつあり、ドイツ(プロイセン)の穀物は必要とされなくなるだろうとの洞察によるものである。ドイツ産業資本とユンカーとは農産物自由貿易に対する対立を止めて、共に国内農業近代化に取り組まねばならいということであろう。経済学の体系性よりも政策的考慮が優先されたというべきか。 1842年9月にコッタ書店の発行する『ドイツ四季報』 Deutsche Vierteljahrs Schrift 第四号に発表。同年、別刷りも出された。掲載するには、分量が多いので原稿の半分程度に圧縮されたものである。元の原稿は『リスト全集』(1831-44)に収録。邦訳、したがってこの文も「全集版」による。雑誌発表を予定したものであり、章建て等の区分はなく、読みにくい。リストの書簡にいう、「<農業制度、零細経済(小農制度)、国外移住>という題です。わたしはこれらの三つの対象がまったく新しい光の下におかれると信じています。すくなくとも、それらが相互に持つ関連の叙述は、まったく新しくしかも驚くべきものでしょう」、そして「論文はほんとうに焦眉のもので、センセイションを起こすことを確信しています。[中略]国外移住がまったく新しいやり方で―農業制度を改善する手段として、それに結びつけられています」(小林、1978b、p.72による)と。 本書を高く評価するのは、小林昇である。リスト研究の中心に常に『農地制度論』据え、「『農地制度論』を基軸ないし基底としてリストの全体系を理解するという視座と方法とは、わたくしのリスト研究に固有のものであり、それがリスト体系の構造をもっともよく見通させるという判断は、いまなおわたくしが不変に保っているものである」(小林、1978a、p.461-462)とする。同志の研究者をマイヤー(Gertrud Mayer Friedlich list als Agripolitiker, 1938)に見出すものの、留学先のドイツでも大方の学者に、本書の重要性を説いても理解されず、多少いらだっている様子が『著作集』に散見される。本項の記述も小林(著作集)に寄り掛るものであるから、そのあたりのバイアスはご承知願いたい。 はじめにまず、本書の内容をまとめておこう。南ドイツの農村では、封建的諸負担の軛の下で、交錯圃 Gemengelage と集住村落 Dorf 制度を原因として、経営規模を零細化し過剰人口を抱えていた。農地整理(=エンクロジャー)により農民を解放し、中産独立農民を創出(かつ維持)する。もって、産業資本の原始蓄積と国内統一市場形成に資するものである。農地整理で生まれ、工業で吸収しきれない過剰人口は、ハンガリーおよび東方の近隣後背地の開拓農民として移民する。これにより、ドイツ広域経済圏を確立し、軍事的にも仏・露と対抗できる。というものである。 具体的には、政策として次の五つをあげている。 ① 保護関税によって商工業を奨励すること。農村人口を商工業に移行する。 ② 国外移住の促進により過少土地所有者数を漸減させること。比較的大きい土地所有者数を増やす。 ③ 村有地と国有地を漸減させること。土地整理を容易にかつ活発にするための方法ともなる。 ④ 集住村落制度と交錯圃制度とをしだいに廃止すること。最もたやすく行える地方から、実行すべきものである。 ⑤ 土地整理および新しい農業制度維持という目的に叶った法律を定めること。中・小経営を創出するだけでなく、この状態が永久維持されるよう配慮すべきである。(p.114-115) 以下、少し詳細に本書の内容をみてゆく。 (工業優位から農業中心へ) 『国民的体系』においては、「委縮した農業」verkrüppelte Agrikultur を工業発展によって発達させると考えていた。『農地制度論』では、逆に農地整理による農業改革で国内市場を形成することが工業力の基盤を成すとされている。前者では、農業の委縮(農地の細分化)は認識してはいても、その原因は工業の未発達に帰せられていた。後者では、一層根本的な原因の解決、封建農民を開放して近代農を創設することが必要と論じられている。「人口の九割を占める者の衣類や機具類に対するあらゆる家庭消費がわずか数グルデンでしかない国に、どうして大規模な設備を持つ工場の栄えるいわれがあろうか」(p.59)。「農民が工業製品を消費する場合にのみ、都市の住民は農民の生産物を買うことが出来るのである」(p.60)。 「『国民的体系』における工業優位の思想は、『農地制度』ではいわば農業中心主義へ移っている」(小林、1978a、p.214)。農地整理による近代農業の成立によってはじめて、農・工業の均衡の取れた経済発展が可能である。『国民的体系』で展開した「国民生産力」の発展が将来できるのである。『国民的体系』の「国民生産力」理論をもう一段発展させたといえるかもしれない。リストはさらにいう、「前世紀から現在にいたるまで、社会の関心と科学と才能と資本とは、おもに工業生産力の増加に集められていたが、やがて新しい時代がきて、同様の努力が同様の効果を伴って主として農業の改良に注がれるようになると思う」(p.65)。 (歴史主義の深化) 『国民的体系』の「経済発展段階説」を重視せず、むしろその近代欧州貿易史の叙述を高く評価する小林は、リストは「段階説」の放棄によって歴史主義をその経済学体系に導入したとする。そして、『農地制度論』において、彼の歴史主義は格段に深化したという。本書において、彼の目ざす農場制度と(中産的)農民は、広汎な歴史的文脈のなかに位置づけられている。それらと、欧州各国の政治・経済的制度との比較がなされている。これは、比較経済史といってもよいだろう。もっとも、それらはほとんど註の中に押し込められており(注3)、リストが真正面から取り上げたものだとは私には思えない。さらには1884年の反批判論文「匿名の統計」 ”Die anonyme Statistik gegen das nationale System der politischen Ökonomie " (「副題「農・工・商業の関係について、また古代の経済史について」)にいたって「そこに古代経済史のトルソを描き、『農地制度論』での彼の歴史把握をさらに広大な世界史的構想にまで進めた」(小林、1978b、p.62)とあるが、本書の範囲を超えるため省略する(注4)。 また、リストは、農地整理の結果、中産的農民の獲得する自由を、ドイツ中世帝国自由都市のゲマインデ市民の、あるいは古代ゲルマーネンの自由の復活として捉えている。これは、若き日に学んだ「ドイツ歴史主義の父」とされるユストゥス・メーザー(1720-94)の影響が大きいとされる。 (農地整理) 最初に用語についての説明。零細農地を統合して中間農を創出する過程であるGüterarrondierung に相当する訳語である。小林は主として「エンクロージャー」、他にも「耕地整理」、「土地整理」、「独立農場化」と、文献によって様々な用語を使用しているが以下「農地整理」という言葉で統一しておく(引用の原文は別である)(注5)。 「新興産業資本の騎士」とされたリストは、反面青年期から農村の疲弊に深い関心を寄せていた。南西ドイツでは、18世紀末以来の農奴解放の動きにかかわらず、農民の得た土地処分権は農地の細分・零細化を招いた。ナポレオンの体制の下(ライン同盟)フランス民法典の導入は、その長子相続制によりこの動きを助長した。大・中規模経営の農地は、次第に細分化され小経営以下ともいえる零細経営 Zwergwirtschaft (原義は、「矮人経営」)が拡がったのである。 「われわれの見解では、零細経営は交錯圃制度と村落制度との生んだ娘である」(強調原文:p.39)。「交錯圃とはすなわち、すべての農民が村落のなかに集住的に生活し、きわめてさまざまな位置に分かれつつ村域内に存在している多くの小耕地を、この中心点から耕すという農地制度である」(p.63)。三圃性(小麦耕区、大麦耕区、休耕地)により三分された各耕区は、いくつかの小耕区へ、さらに条地へと細分され、各条地間には柵もなかった(解放農地制度)。農民は、集住した村落から遠くにある分散した自分の農地に耕作に出かけた。各耕地の規模は小さく、分割相続も容易であった。「この土地分割をいっそう蔓延させる原因は、相続に際して土地を平等に分割することであり、この場合交錯圃制度がすべての相続者にいろいろな場所にあっていろいろな地味を持つ土地の小片をあたえてきわめて多くの部分から成る零細経営の生まれるのを容易にしている」(p.55)のである。 「零細経営の蔓延をとどめる方法は、村落制度と交錯圃制度とをしだいにすこしずつ解体をさせて土地整理を実行すること、すなわち農場制度 Hofverfassung を創設する事にあると考える」(p.63)。零細農地を農地整理により、中小農地に統合する。農民は自農地の中心に孤立して居住する。中小土地有とは、80-200アッカー、零細経営は20-80モルゲンとされる(p.38)。小林の訳註では、モルゲンとアッカーは同じで、2エーカー(注6)に相当する。農地整理については、「この改革が、ドイツの広い一地域で、政府の奨励と支持の結果、すでに幾世紀もまえから開始され、最近にいたるまで、われわれがすでに確言した諸利益をともないつづけられているのである」(p.96)という実績があった。この一地域とは、オーバーシュワーベン(ケンプテン)のことである。バイエルンのアルゴイ地方(イラー郡)にある。有名な観光地であるノイシュバシュタイン城の近くであるといえば解り易いであろう。リストは論文執筆中に、二人の人物から、16世紀以来当地で実施された農地整理の史実を教示されて知った。本書に脚注として三か所で言及している。のみならず、この整理について書かれた過去の論文「イラ-郡の諸村での土地整理について」を本書の「附録」(図表付)として抄録しているのである。 (中間農の創出) 「中・小経営が原則であって、大経営と零細経営とがこれに対する例外をなすような農地制度こそ[中略]農業経済的ないし国民経済的原理にも最もよく適合する制度」(p.39)であると考える。さらには、「政治的・行政的観点からすれば経済的に独立している土地所有者の階層が不可欠であると説き、交錯圃制度 Gütergemengeverfassung こそ土地細分という弊害の根本原因であってこれを根本から除去するためには土地整理 Güterarrondierung をまじめに実行しなければならぬ」(p.27)という。経済的独立だけでなく、政治的能力に加え市民的教養を持ち、さらには軍事的義務(註7)をも果たす農民層の創出が求められている。それは近代的農民であり、「農民階層」 Bauerstand と呼ばれるよりも、むしろ「農業者」 Landwirt と呼ばれることが妥当とされている(p.107)。「ジャガ芋百姓」 Kartoffelbauer (p.96)に代わる「完全な市民」 Vollbürger (p.113)である。 リストは、若き日にメーザー影響の下で領邦国家議会を支える自由民としてゲマインデ市民を想定した。その市民を中産農民として創出しようとしたのである。彼の代議制国家(あくまで立憲君主制)は、プロヴィンツ→カントーン→ゲマインデからなる重層的国家(コルポラチオン制度)であり、その最下層を支えるのがゲマインデ市民なのである。あるいはまた、次のようにいえようか。西洋経済史においては、農奴(農民)解放の後に農地整理(エンクロージャー)が実施されるのが通常なのであるが、リストは農地整理によって農民開放を図ろうとする。資本主義確立のために、「エンクロージャーによってドイツにヨーマンリを生み出そうとする、独自の構想」(小林、1978b、p.89)なのである。イギリスの現状と封建的零細農が蔓延するドイツとの差はあまりに大きいので、自然な歴史的発展を待つ余裕はなく、特殊な社会構成を取ってもキャッチアップを図らねばならない。歴史的には逆転した現象で、中間農民を生み出し、それを維持しよう(後述)とするものであり、「それはいわば歴史的自然を人工によって模写しかつ固定せしめようとすることである」(小林、1978a、p.322)。 上に、中・小経営が農業経済的ないし国民経済的原理に最適の制度であるとするリストの所説を引いた。しかしながら、ただ経済的効率のみを求めるなら、大規模経営農場が当然に有利であろう。最大収益をあげ、工業が必要とする農業生産物を大量供給する。加えて、工業が必要とする労働者(プロレタリアート)を大量に生み出す。中産農=中規模農場の創出は、中途半端で、農業自身のみならず工業発展をも幾分か阻害する。『国民的体系』に見られた国民生産力理論の見地とは背馳する。それでも、中産農創出(農場制度)を求めたのは、単に経済的観点ではなく国家を支える市民の経済的基礎をそこに求めたからである。「いかなる種類の土地所有が、すなわち大・中・小・零細経営のいずれが、最大の総収益と純収益とをあげるかをたやすく決定することができる。しかしそれだけではまだ、いかなる種類の所有が最も有能かつ最も高潔な市民を、また最も良くかつ最も永続する国家を、さらに最も強く最も立派な国民を生むか、ということは少しも明らかにされてはいない」(p.12-13)。その回答を農地制度(中小農)に求めたのである。大土地所有が支配的な場合には、土地を分割して抑制が加えられねばならない(p.40)。 (ドイツの進路は英仏の中間の途) 零細所有に平等の理想を見たフランス農民はジャコバン主義の専制政治を生み出した。「ジャコバン主義は自由を欲した。そして土地の細分化を手段として、新原則と新状態の支持者をつくりあげて貴族を絶滅しようと企てたのである。[中略]際限のない土地細分は当然の結果として、真の自由と福祉とをことごとく破壊する平等をもたらし、こうなっては相当の財産を持つ者は一人としてなく、万人が欠乏に悩み、経済力によって確保される独立はどこにもなく、なんびとも、その子供たちに十分な相続財産と教育をあたえて自立的な国家市民の地位を維持しかつその義務を果たしうるようにしてはやれないのである」(p.24)。このような状態は、やはり専制主義の基礎なのである。ジャコバン主義はボナパルティズムの素地を造った。経済面では、零細農民層の貧窮は、フランス産業資本の未熟性、資本主義の後進性を刻印した。 一方、「イギリスがそのありあまる富と商工業上の覇権を購うために支払った代価は高きにすぎはしなかったかという疑問がある。その代価というのは、あまりにも数の多いプロレタリアの階層である」(p.33)。平時でも、60-70万人、不況時はその3倍もの人数を救貧施設で養わねばならない。被救恤者がその体制に疑問を抱きはじめている。 ドイツが向かうべき道は、その中間にある。「われわれはむしろ、フランスとイギリスとに支配的な農地状態を、相互に対立しあう二つの極端であると考える」(p.33)。「あきらかに真理は中間にある。そしてこの中道を正しく維持することが、農業改革 Ackerreform の課題である」(p.36)。 (農地整理の歴史的意味) 以上の農地整理による中間農創出の過程はすなわち、農業近代化を目指しはするものの、資本主義化を徹底することは阻止したいというものである。大規模化による大量のプロレタリアートの発生は望ましくない。零細化に戻ることは、もとより避けたい。人工的に創設した中間農は、規模を拡大することも縮小することもなく一定規模を維持しなくてはならない。そのためには、相続に際して分割を許さぬ国家権力の干渉が必要となる。それが、土地と血統の執着に基づく国家主義意識の高揚、ナチズムへと繋がる道を用意したともいえる。 あるいは、リストの志とは異なり、農場制度の現実の進行において、時代はドイツに仮すに充分な時間的・経済的余裕をもってしなかった。農地整理は不十分なものとなり、中間農でなく小農が簇生し、維持されることになった。このドイツ独自の小農が、リストが忌避した専制的なジャコバン主義を支えた仏の小農と同様、ナチズムの基盤となったといえるのかも知れない。 また一面では、農地整理は、工業に吸収しきれぬ余剰人口を植民へといざなうという考えにより、次に述べるドイツ準帝国 Quasi-Imperium の形成、帝国主義的進出の道を拓いたともいえる。 (植民) 農地整理によって、当然土地を失った(売却した)農民が大量に発生する。リストは、農地整理が完了した後の農場主数を50万人としている(p.212)。家族数を5人とすれば、総計250万人である。これに、雇用される農業労働者を加えたものが、整理後の必要にして維持可能な農業人口である。リストが現実のドイツ(その範囲にもよるだろうが)の農業人口全体をどれくらいと見ていたか、本書をざっと調べたが出てこない。農地整理を実施すれば、農業に就業できない余剰人口が大量であることは間違いない。「ドイツ人は年々ハンガリーに50万人の人間を与えることができ」(p.147)るとの数字の記述はある。 この余剰人口は、農業労働者として雇用される少数の人を別とすれば、国内的には工業労働者として生きる外はない。しかし、ドイツ工業はそれらの人々を吸収できるほど発展してはいなかった。そこで、土地を離脱した農民に生計の途を与えるために、組織的な移民計画が浮上する。農地整理実現のための残された手段としての植民が、『農地制度論』の後半に展開されるのである。 若きリストは、アメリカ移民の途上にある農民の聞き取り調査をした(1817)。リストの任務には、調査の他に移住中止の説得も含まれていた。熱心に任務を遂行し、移住防止措置を建策もしている。『国民的体系』では、植民は論じられてはいるが、工業原料供給国としての熱帯諸国の文脈においてである(ただ、「おなじ政策が、東洋、ヨーロッパ・トルコ、ドーナウ下流諸国についても守られるべきであろう」(p.485)の箇所が『農地制度論』の所論を予示されるようで注目される)。農業の近代化(農地整理)政策と植民政策は、本書においてはじめて結合されたのである。リストは、『国民的体系』までは、いわば貧窮農民が移民を余儀なくされる経済状況を改善するために工業発展を求めていた。それが、一転して工業(国民生産力)発展ために移民を必要としたのである。「そうしてこの組織的植民の一環によって、正常国民の理念的図像と輸出工業国の現実的図像とははじめて矛盾なく結合せられ、また英独同盟を中軸とする世界政策論にも再生産論的基礎づけが与えられ、リストの生産力論はここにようやく統一的把握を許すものとなったのである」(小林、1978a、p. 226)。大国においては植民地を持つとされる「正常国家」は「植民」という輪によって、その論理の連鎖を閉じることができるのである。 それにしてもである。西南ドイツ全体としては、決して人口過剰ではなかったらしい。レーエン制度(荘園)を残す遅れた地域は人工過疎であった。ヴュルッテンベルグでいえば、ネカール(ネッカー)川沿いの低地地帯は零細農地が広がり人口過剰であったが、高地地帯は人口が希少だったそうである。リストが身近な近隣の過疎地への植民ではなく、アメリカほどではないが、遠いハンガリー他への移民を求めたのは不自然に思える。その理由は、ドイツ民族の帝国的拡大のいわば「屯田兵」の役割を中小農民に求めたからである(いま一つの理由として、残存する封建的勢力との先鋭な対抗を避けたことがあげられている(小林、1978b、p.98-99))。 (ゲルマン=マジャール東方帝国) ハンガリーをはじめとするドナウ河下流地域が植民先として選ばれたのには、まずその地理的近さがあるであろう。当時ドイツの海外移住は、「例外なしに北アメリカに向かっている」(p.138)状態であった。しかし、その移住には渡航費が高価であったから、「個人的に移住しようとする場合は、わが国の村落民の大多数は、資本の不足によって閉めだされてしまうのである」(p.171)。なるほどドナウ川下流諸国については、購入する土地の単価はアメリカよりも高いだろう。しかし、それほどの開墾の努力を要しないで(と書かれているように思える)直ちに耕作できる。安価な外国人労働者(ドイツの落伍者)の入手が容易で、生産物市場が既に存在するからである(p.170)。北アメリカへの移住は、「南ドイツにとってはきわめて不自然なものである。[中略]ドーナウ川の、プレスブルグからその河口までの左右両岸の国々、トルコの北部諸地方および黒海の西岸は、ニューヨークやペンシルヴェニアの北アメリカ人にとってミスィスィピ川やミズーリ川のほとりの土地が手に入れ易いのとおなじほど手に入れ易い、未開墾の、だがいうまでもなく肥沃な土地を、たくさんドイツの移住者に提供しているではないか」(p.138-139)。 さらには、リストは愛国者として、移民者がドイツ人のアイデンティティを保持することを求めたこともあろう。『国民的体系』(p.482)では、「北アメリカへの移住者たちがどんなに幸福になるとしても、それがドイツ国民にとって何の役にたつであろうか。[中略]合衆国のなかに住んでいるドイツ人のあいだにドイツ語がなくならないとか、そこにすっかりドイツ的な州がしだいに形成されうるとか思うならば、それはまったくの幻想である」といっている。移民ドイツ人はマジャール語を収得せねばならない(p.148)としつつも、後背地 Hinterland への植民は、母国との絆を強く保ったままのものである。 しかし、なんといっても最大の理由は、地政学的なものであろう。「われわれは北アメリカのように成長することはできる。しかもそれを、海と艦隊と植民地がなくても、ごく短期間に急速に成し遂げることができる。われわれはアメリカ人とおなじように、良い後背地( balack-woods )を持っている。すなわち、ドーナウの下流と黒海沿岸との国々―つまり全トルコ―、ハンガリーの彼方の全南東、これがわれわれの後背地である」(p.143)。その途上のかなめとしてハンガリーが存在する。「ハンガリーはトルコと全近東と東洋を拓く鍵であり、同時に、北方の強大国ロシアに対する防塞である」(p.144)。貴族支配体制下にあるハンガリーは、ドイツと一体化しない限り何もできない、一体化すれば何事もなしうる。ハンガリー植民に必要な資本と技術は、農地整理後のドイツが提供できる。さらに、「ドーナウの流れに従ってゆけば、南東ドイツの得るものはなんであるか。すくなくとも、一歩を黒海に洗われ他方をアドリア海に浸され、ドイツ精神とハンガリー精神とを湛えた、強力なゲルマン=マジャール東方帝国 germanisch-magyarisches Östliches Reichが 建設されることはたしかである」(p.139)。なぜなら、トルコ帝国の没落は火を見るより明らかであるから。 (英国との同盟) 先の「ゲルマンーマジャール東方帝国」の箇所について、小林は「それはフランスとロシアとの帝国的発展の中央に楔を打ち込むものであり、[中略]そこでリストは『国民的体系』における大陸同盟構想を完全に捨てさり、かつての宿敵イギリスと提携して、その地中海回廊の建設への助力を対価に、ドイツの「準帝国」の形成をはかろうとする」(小林、1978a、p. 78)ものであると書いている。かつての、大陸同盟による英国対抗策から、イギリスとの提携によりロシア・フランス対抗へと対外政策の考えを改めたとしているのである。 このあたりが私にはよく理解できない。『国民的体系』(p.476)には、「だからイギリスにとって有益なことは、はやくあきらめの気持ちを持つように努め、時を得た断念によってヨーロッパ大陸の列強の友情をかちとり、同等なもののなかの第一人者であるという考えにしだいになれることなのである」という、イギリスを敵視するような、同盟を組みたいような一文がある。この『農地制度論』では、「右からも左からも敵意のある国民が貪欲な目をわれわれに向けている」(p.95)という記述や、大国民は成長の遅い弱小国民を併合するとして、「この場合、至近にいるわれわれがまっさきに食われてしまうことを認めなくてはならない。[中略]ロシアはこんにちすでに巨人であるのみでなく、国内にあっても国外に向かっても、巨大に成長しつつある」(p.141)との箇所が露仏について触れた所であろう。英国に至っては「海峡の向こうのわれわれの立派な友人であるイギリス人」(p.157)の記述しか見いだせなかった。これらからは、私にはとても上記の対外政策の変更を読み取れない。小林は、リスト晩年の渡英によるロビー活動などを勘案してこのように書いたのであろうか。 最後に本論の大筋とは関係ないが、最近の韓国経済崩壊論や中国経済崩壊論の風潮に関連して、本書で首肯できる記述があったので少し長いが次に写しておく。旧植民地アメリカ経済の抬頭に対するイギリスの対応についてのもの。「イギリスの政府はその立場から、この膨張を妨げようとあらゆる手段を尽くしている。その人民も出版物も忠実にそれに協力している。そこでは幾ダースもの本が書かれて、この新しい巨人である合衆国がじつは内部が空虚であり、頭は狂っており、やがてはその力を自己自身に向けるようになってひとりでに崩壊するだろうことを明々白々に証明している。しかし、イギリスはこのようないかがわしい見立てといかがわしい薬とをすこしも信用していない。[中略]イギリスは、あらゆるうまい勝負師とおなじように、確実な勝負をやる。イギリスは合衆国よりももっと多く成長しようと努める」(強調原文:p.142)。 私蔵のものは、『ドイツ四季報』に掲載された論文そのもの。別刷りのパンフレットではない。ドイツの古書店より購入。『国民的体系』について書くため、『小林昇経済学史著作集』を読んだ副産物としてこの本も取り上げた次第である。よって、参考した文献も増えていない。 (注1)「わたしが自著、経済学の国民的体系の刊行に着手したときには、構想の下図をつぎのように考えていた。それはわたしの根本思想に従って、型通りに以下の諸部分に分かたれるはずのものあった。一、農地制度と農地政策。二、工業制度と工業政策。三、交通制度と交通政策。四、財政制度。五、司法制度と行政制度。六、国防制度。七、国家制度と議会制度。八、国民の精神とそれが生産諸力および富の獲得にあたえる影響。九、国際関係と対外政策。もしわたしが書店のために書くことだけを旨としているのであったならば、自分の本をもこの順序に従って書いたことであろう」(p.205)。
(2015/9/6記) |