LAUDERDALE, JAMEA MAITLAND, Earl of
, An Inquiry into the Nature and Origin of Public Wealth, and into the Means and Causes of its Increase., Edinburgh and London, Arch. Constable & T. N. Longman & O. Rees, 1804, pp .[8]+ 482+ Folding chart, 8vo

 ローダデール(ローダーデイル、ローダデイル、ロウダアデイルとも表記)『公富論』、1804年刊初版。
 著者は、(1759-1839)第八代ローダデール伯爵、ジェイムズ・メイトランド。エジンバラ東郊ラーソ村ハットン城(Haltoun House)に生まれる。エジンバラ、グラスゴー大学で学ぶ。パリにも遊学したことにより、ラジカルになったと云われる。1780帰国、下院議員に選出される。1790年には、父の爵位を襲い、スコットランド貴族として上院に移った。ホィッグ党チャールズ・フォックス派(左派)に属し、小ピット内閣と激しく対立する。政府の強圧的な人身保護令停止や扇動法(1994-95)に反対し、折から起ったフランス革命には支持の態度を明確にした。この反抗的な態度(わざとジャコバン派風の粗野な服装で議会に出たこともある)の故か、あるいは貴族仲間との暴力沙汰(血の気も多かったようである)も影響したのか、1796年には、上院議員から外された。
 しかし依然、ピット内閣への攻撃を続け、経済面では財政・税制・通貨政策、減債基金等を批判する諸著作を出版した。また、フランス革命の最中1792年(ルイ16世幽閉の年)再渡仏、「市民メイトランド」として、半年間パリに滞在した彼は、フランス語が堪能であった。1806年には、三度渡仏して、ナポレオンとの和平交渉に尽力したが、叶わなかった。
 同年枢密院議員となり、スコットランド国璽尚書(Keeper of the great seal of Scotland)に就くなど貴族としての数々の栄典にも輝いている。ナポレオン戦争の経験は、彼の政治的立場を大きく変えた。1821年のあざみ勲位(the Order of Thistle)の受爵を機にトーリー党へ鞍替えする。晩年の著者は、国王(ジョージ四世)の寵愛を受け、穀物法に賛成し、児童労働制限の工場立法には反対する等、保守化することになる。なお、若き日から関心を持続し、一時はその総督にも擬せられた東インド会社に関して著作『インド統治論』があることを付け加えておこう。

 本書の正式書名(『公共の富の性質及び起源に関する研究』)を一見して、アダム・スミスの『国富論』を意識していることは明らかだろう。よって、ここでは書名を『公富論』とする。公刊は、『国富論』出版の後、リカード・マルサスの以前である。アダム・スミス対する最初の体系的批判の書とされる(注1)。学説史的には、スミス→リカードの系譜に対し、スチュアート→著者→マルサス(→ケインズ)を対置する見方もある。また、マルクスは『哲学の貧困』で、著者を「二人の重要な経済学者」としてシスモンディとともにあげ、リカードの労働価値説に対するに、著者の名を出して需要供給説を説明している(第1章第1、2節)。
 本書は、書名とおり富についての理論的著作であるが、第1章は、「価値と精確な価値尺度の可能性について」と題されている。「公富と私富の構成、あるいは両者の増加条件の調査について考察を進める前に、価値の性質を明確に理解する必要がある。」との記述から本文は始まる。
 ローダデールにとって、「価値という用語は、元々の意味が何であれ、普通の言葉で使われるのは、商品に固有のある性質を表すものではない。実質的、内在的、不変的価値を持つものは存在しない。…経験の教える所では、価値ありとされるものは、人間の欲望の対象とされる性質があるのに加えて、希少な存在であるとの事情の下にある、と一般に考えられている。」(本書,p.12)。すなわち、効用(使用価値)と希少性によって、価値は生じるのである。
 そして、商品の価値は次の四つの異なる状況で変化するとする、(1)量の減少から価値の増加、(2)量の増加から価値の減少(3)需要増加状況から価値増加(4)需要衰頽からの価値減少、である。結局、商品価値は需要と供給(ローダデールは、供給ではなく、量quantityという言葉を使用)で決まるとするのである。さらに、固定的・内在的な価値を持つ商品はないのだから、価値尺度としてこの四つの変化要因が少ない商品を選ぶほかない。こうして、「価値」(交換価値)は価値尺度に選ばれた商品と価値評価の対象となる商品の各四つの状況計八つの状況により変化することになる。しかるに、多くの人が真実の価値尺度という「賢者の石(philosopher’s stone)」を求める。優れた才能・知識を持った人はそれを「労働」に求めたとして、ウィリアム・ペティ、ハリス、スミスの著作を引いて批判する。
 こうして、ローダデールは、後にリカードやマルサスが苦労した価値尺度の問題を二商品の相対価値と需給決定論に解消した。第一章の最後を著者はこう結んでいる。「我々が確立しようと努めた二つの一般原理を、明確に疑う理由は存在しない。(1)人間の欲望の対象となったものが、ある程度希少に存在する状況と結合した結果としてのみ、物は価値を持つ。(2)あらゆる商品が持つ価値の程度は、その量と需要との間の関係による」と。彼の価値論(特に1.に関してであろうが)は、使用価値と交換価値の矛盾解消の可能性を含んでいる(安川)とか、オーストリア学派の先取り(溝川)と書かれているが、私にはむしろベイリーの議論との類似性を強く感じる。
 次に、「第2章 公富、私富、およびその相互関係」である。従来、単純に私富(private riches)の合計が公富(public wealth)を構成すると考えられてきた。私富を増加させれば、公富も又増加すると考えたスミスのようにである。著者は、公富と私富は、別物であるとする。むしろ、私富が希少性により増加することを考えれば、公富と私富は対立する。著者の例示では、社会にとって最も有用な水を希少化させることによって、井戸の所有には価値が付加され、所有者の私富は増加する。逆に、飢饉のとき救済の為に食糧を豊富に供給するのは、私富の総額を減少させる。
 ここで、「国富(national wealth:公富と同じと思われるー引用者)とは、人間が自己にとって、有用あるいは快適として欲求する総てのものから構成されると正当に定義される。…[公富に希少性を付加することにより価値を与え、私富となるので、]…私富は、人間が自己にとって、有用あるいは快適として欲求するもので、一定の希少性がある総てのものと定義できよう」(本書,p.56-57)。とすれば、私富は交換価値で評価された富であり、公富は使用価値で評価された富となろうか。ローダデール自身も本書に対する反批判の論文では、「スミスの語法でいえば、私富を交換価値、公富を使用価値の語で表現することも可能」(杉山,1991,p.101)と述べている。
 個人は希少性に関心を持ち、社会は豊富に関心を持つ。私富と公富の対立について、ローダデールは、次にように云う。一般的には、一商品の価値増大による私富の増大に従って、国富は減少し、逆に一商品の価値減少による私富の減少に従い、国富が増大すると。――しかし、この「事実」は一般的というより、彼が例にあげる食料品のように価格弾力性が非弾力的な商品のケースであろうと思える(注2)、もっとも弾力的な商品のケースは書かれていない。ここで、彼のあげる例とは、穀物収穫の1割、2割、3割、・・・の減少は、各3割、8割、16割・・・の価格騰貴を招くというものである。マーシャルは『経済学原理』の「需要の弾力性」の章で、「この推計は一般にグレゴリ・キングによるものとされている。これが需要法則からみてどのような意味をもっているかは、ローダデール卿がたくみに吟味している。(マーシャル『経済学原理』U、1966,p.39)と評している。
 さらに、私富の本質とその変化を理解するため、需要の価格弾力性(著者はこの術語は用いず)を論じている。1.量の減少、2.量の増加、3.需要の増加、4.需要の減少の各場合について、各商品の価値(=価格)への影響を詳述している(本書,p.59-81)。1.のケースでは、砂糖の例をあげ、量の半減は購買資金から考えると、一見価値を倍増するように思えるが、実際は消費者の趣味と慣習により、以前の消費量を出来るだけ維持しようとする人がいるため、予想の程度を遥かに越えて価格が上昇するとする(注3)。
 弾力性の話は一商品に留まらない。商品相互間の影響も関説する。ある商品の(1)量の減少、(2)需要の増加、(3)量の増加、(4)需要の減少の四つの場合について、今度はそれが消費秩序の変化に与える効果を書いている(本書,p.81-98)。(1)の場合の例では、砂糖の供給量が1,000(重量)ポンドから500ポンドに半減し、価格高騰で砂糖の総購入価額が£50から£200へと増加したとする。さらに、砂糖購入の追加必要額£150を捻出するため、消費者は既存の3商品、肉・ワイン・辛子、から各£50の消費額を削減すると仮定する。著者は、上述のごとく需要の弾力性を考えると、これらの3品の価格下落は需要の減少量よりずっと大きいとする。しかも、同じ£50の各市場からの流出が与える影響は同じではない。弾力性が商品によって違う外、市場規模も異なるからでもある。もう一つ(3)の場合をあげると、ある商品の供給増は、価格低下の結果、購入必要金額が減り、解放された購買力が他商品の購入に向かい、それらの価格増を招く。実例として、穀物豊作の年は、不作の年に比べて、家畜価格が2-3%高いとする。
 (1),(2)の場合は、供給量減か不増で、公富も減か不増。当該商品の価格増で、直接的には私富は増加する。しかし、消費秩序撹乱による他商品価格低下の間接的効果を勘案すると、(需要の弾力性から)全体として私富に大きな減少があるとする。公富と私富が同じ割合で増えることが可能なのは、(供給)量と需要が同率で増え、購買に必要な資金も同率で供される希有な場合のみである。需給が同率で増えても、資金が伴わなければ、購入資金は既存の消費から引き抜かれることになるので、全体として私富が減る。著者例では、砂糖需要者である穀物栽培者の購買力源である穀物の収穫も、同率で増加する必要がある。肉・ワイン・辛子の消費は減らしては、均衡増加は保たれないのである。
 著者が、私富と公富は同じ割合で増えることはほとんどないと述べる時、最初に変動が生じた商品価値だけでなく、間接的に影響を受けた他のすべての商品について、それらの量と需要の変化から生ずる価値変動をも考慮した結果である。この点を、「ある特定財貨の価値騰貴と、それにもとづく消費者の支出構造の撹乱ないし需要の方向変化が、各商品の需要の弾力性を媒介として、他の特定財貨の著しい価値下落となって累積する」(溝川、1966,p.180)私富の破滅的減少過程と捉え、これを「ローダデールの不均衡論」としたのが溝川である(注4)。小生には、公富・私富の不一致論から離れ過ぎて、読み込み過ぎと思えるのだが。
 この章の最後には、需要の重要性も書かれている。「交換価値(その所有は私富の一部をなす)は、特定商品に対する欲求の程度を表示する単なる実際的な手段にすぎないとしても、よく考えると、…それは又、需要が常に生産物の質・量双方を規定する仕方の強力な表現を、最も本質的に見せるものでもある。」(本書、p.107-108)商品の需要増によって、その商品の産業は価格上昇で直接的に生産を増やすだけではない。同時に産業の一部では、需要減による価格低下によって商品の製造から離脱するからである。同様に、ある商品の需要減少による価値低下は、需要減少商品の生産を減らすが、同時に、他商品価値の継続的上昇により、その生産に従事する人を奨励する。もちろん、商品価格の変動が、(供給)量の増減によって生じる場合も、同様に直接的な産業に与える効果の外、間接的な影響がある。
 第3章は、「富の源泉」である。ローダデールは古典派に同じく富の源泉は、土地、労働、資本にあるとする。それぞれの機能について、先行の重農主義、スミスの学説を批判している。ここでは、労働と資本について彼の特徴的な所説を見ておこう。
 労働については、スミスの生産的労働・非生産的労働という区分を批判する。菓子を作る労働を取り上げる。お雇いの家事使用人が菓子を作る労働は非生産的であり、独立した職人が商品として菓子を作れば生産的労働となる。労働の性質は同一であるのに用途によって区分がなされるのである。スミスによれば、労働が生産物に固着しないとの理由から、社会にとって重要な宗教、司法、国防、教育等の労働は非生産的とされてしまうのである。
 次に、資本について。資本利潤については、スミスは、労働により付加された価値からの控除とした。著者によると、利潤は派生的なものではなく、資本の独立した働きから発生するものである。「固定であれ流動であれ、国内投資であれ海外貿易投資であれ、資本が人間にとって役立ち利益となるのは、(スミスの国富論が云うように:引用者)労働を始動させたり、労働の生産力を付加することにあるのでは全くない。反対に、さもなければ人手でなされたであろう必要労働の一部に取って代わるか、あるいは人力ではとうてい達成出来ない労働の部分を遂行することにある。」(本書P.203-204:下線は原文イタリック)いわゆる「間接生産力説」(高橋)あるいは「素朴な生産力説」(溝川)である。
 残る2章(「第4章 生産以外の手段による富の増加の可能性について」、「第5章 富を増大させる手段とその増加を規制する原因について」)は「資本蓄積論」である。スミスは、資本量が生産的労働の雇用を決定し、富を生産すると考えたから、資本蓄積を進めれば社会も豊かになる。そこで、資本蓄積を図るためには、消費を節約する必要があった。スミスに節約に対して、ローダデールは、生産を資本形成の原因とする。上記の生産力説では、労働の代替や労働不可能な仕事の遂行が資本の役割とされた。ここから、労働の遂行や代替以上の資本を蓄積しても、一国の利益を増進する事はないと推論される。あらゆる時代に、これを越えては資本が有利に増加し得ないという最適量がある。その時代の生産知識に制約されるのである。最適点を超えて消費を削減し、節約を行うことは社会に害をもたらす。資本を効率的生産から非効率的な生産に移動させるからである。また、著者にとって、節約は社会の労働が働く方向を(消費財生産から資本財生産に)変えるだけで、国富を増加させることはなく、生産、勤労の増加のみによって国富は増加するのである。
 その他、スミスの云う分業の生産性増大効果は資本の「代替及び遂行」の効果に比べて、問題にならないほど小さいこと、及び資産配分の不平等が需要に及ぼす影響等についても述べている。

 英国の古書店より購入。テキスト部分は、かなりしみのある所がある。表紙部分は古い革装を紙で糊付包装して補強されていたので、製本し直した。

(注1)ローダデールは、『国富論』を読み込んで、読書ノートを書き込んだ。そのために、初版本二巻を解体し、ページ毎に白紙を挟み込んで製本し直している。その本は現在東京経済大学図書館に所蔵されている。
(注2)価値(=価格)増大で、私富(価格X量)増大となるのは、需要曲線が非弾力性(e<1)場合のみではないか。説例を見ると、ローダデールは、使用価値は数量に関わらず一定、即ち公富は商品数量に比例すると仮定しているようである。よって、価格と数量は反対に動くので、価格増→数量減→公富減となる。価値減少の場合も同様にe<1の前提である。
(注3)その説明には、100家族の砂糖需要者から構成され、それらが砂糖消費量維持のための価格上昇耐忍程度により3グループに区別されるモデルを使っている。ただし、価格は最高欲求グループにより決定されると考えられているようで(私には)よく理解できない。
(注4) 溝川によると、著者は、この「恐慌」について「対仏戦争の開始にあたって生じた大幅な、かつ、急激な需要の変化にもとづいて、軍需品以外を取り扱っていた商人や製造家の蒙った損害あるいは倒産という」(溝川,1966,p.181)当時の現象から学んだ。

 (参考文献)
  1. 杉山忠平 「ローダデイルの経済学説 −アダム・スミス批判を中心に」 『東京経大学会誌』172号,1991,pp.89-104
  2. 高橋誠一郎 『古版西洋経済書解題』(高橋誠一郎経済学史著作集 第四巻) 創文社 1994年
  3. 堀経夫 「ロウダデイルの公富論」 『経済学雑誌』10巻4号、1942年4月
  4. マーシャル 馬場啓之助訳 『経済学原理 U』東洋経済新報社、1966年
  5. マルクス 岡崎三郎訳 『哲学の貧困』(マルクス『経済学・哲学論集』 河出書房、1967年 所収)
  6. 溝川喜一 『古典派経済学と販路説』 ミネルヴァ書房 1966年
  7. 安川隆司 「ローダーデイル −人と学説」 『経済資料研究』36号,2006,pp.17-31




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