HERMANN, FRIEDRICH B. W. von, Staatswirthschaftliche Untersuchungen über Vermögen, Wirthschaft, Productivität der Arbeiten, Kapital, Preis, Gewinn, Einkommen und Verbrauch., München. Anton Weber , 1832, pp.xvi+374+(2), 8vo. ヘルマン『国家経済研究』1832年刊、初版。 著者略歴:F. B. W. von Hermannヴィルヘルム・フォン・ヘルマン(1795-1868)。ドイツ・バイエルン州のディンケルスビュール(Dinkelsbühl )の生まれ。製図工として働いた後、エルランゲンとヴュルツブルグ大学(どちらもバイエルンにあり、前者はエルランゲン・プログラム、後者はレントゲンで知られる)に学ぶ。1823年エルランゲンにて官房学の私講師資格を獲る。ギムナジュウムと工芸学校の数学教授を務めたのち、フランスの工業学校事情視察のため渡仏。1827年ミュンヘン大学の国家学の准教授に就き、1833年正教授。この間彼の代表作である本書が1832年に上梓される。バイエルン王国の学士院会員、技術教育の視学官、教会・学校の監督官を経て、1850年バイエルン王国統計局長となる。ドイツではプロシア王国統計局に次ぐ、規模を誇るものであった。1848年のフランクフルト国民議会では、ミュンヘン市代表として、オーストリアを含めたドイツ統合いわゆる「大ドイツ主義」を主張した。翌年大ドイツ党を組織する。プロシアに対抗して開催されたウィーンでの関税同盟会議でも活躍した(1852)。1855年には、枢密院議員に上り詰めた。 死期を悟った著者は、本書の変更を要する箇所を子息に書き取らせた。ヘルフェリヒ(Helferich)とマイル(Mayr)により改訂された第二版が1870年に単に『国家経済研究』(Staatswirthscaftliche Untersuchungen)と題して出版された。 イギリス古典派経済学のドイツへの移入は、ゲッティンゲン大学関係者の手によって主導的に行われた。ゲッティンゲン大学の正式名称は、ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンである。創設者ハノーファー選帝侯ゲオルグ・アウグストは、イギリス王ジョージ2世でもあった。ゲッティンゲンは、英国王の領土でもあり、英国人留学生も多かった。そして、古典派経済学は、その資本主義の後進性によって、ドイツ風に色揚げされて「国民経済学」(Nationalökonomie,Volkswirtschaftslehre)と称された(注1)。それは、古典派経済学の個人主義に対する批判を含むものであった。1940年代に「歴史学派」が形成されるまで、チューネン、マンゴルドのものと共に、ヘルマンのこの本は国民経済学の傑出した著作であった。そしてこれらの著作は、歴史学派の隆盛と共に忘れ去られたのである。 ヘルマンは「ドイツのリカード」と呼ばれ、受けた教育と経歴からすれば「使用するのが当然なのに、かれは数学的推論をほとんど用いないが、にもかかわらずかれの考察の論理性は説得力がある」(オット・ヴィンクル、1992、p.125)とされる。同様に、マーシャルも『経済学原理』(1965、Ⅰ.p214)のなかで(資本概念に関して書かれた箇所であるが)、「かつてチュルゴーがそうであったように、数理的な思考傾向を示すものにおいて、このうごきが顕著なのである。たとえばヘルマン、ジェヴォンズ、ワルラス、パレート教授およびフィッシャー教授などがその代表的である」とヘルマンを「数理経済学」の巨匠並みの高みにおいている。そしてシュンペーターは、「この書の出版の日付を考えると」(1957、p.1058)という限定付ながら、「当時におけるドイツの経済学者が進んだ大道の最高峰に立つものである」(1980、p.127)と評価する。 本書に従って内容を紹介する。まずは、序文から、 「国民経済学研究において最も困難なことは、おそらく次の疑問に答えることであろう。何が利潤の高さを決定するか、および如何に利潤と賃金は相互作用するかと。これに関して最初の鋭利な研究をなしたのはリカ-ドである。しかし彼の仕事は充分一般化したものではなかった。なぜなら、その帰結は、しばしば制約下でのみ正しく、真実の価値はほとんどそれによったからである」(p.V:以下原書からの引用、紹介はページ数のみを表示)。 所得理論において、財と生産の概念についての恣意的な制約の欠点が最も目立っている。この研究を進めるに当たって、著者は対象の内的関連のみを追求し、統一性は放棄したことを認めねばならない。しかし、幾多の箇所で過度に抽象的と非難されると思う。とりわけ、多くの解説的逸脱が記述を妨げ、厳格な科学的思考方法が難しくしている。それでも、賢明な読者には、充分に応用できる結果を示すことができる(p.V-VII)――としている。 (Ⅰ.経済学原理の基礎概念) [編・章・節は付けられず、ほとんどがローマ数字と数字による区分である] 「人びとのあらゆる必要を満足させるものが財である。個人にとっては、外部と内部の財に分かたれる。万人が、天与のものとして自己の内に発見するか、無償で自己の内に生産されるものを内部財(inneres Gut)という。必要の満足や取得の為に外部世界の助力を伴うものを、外部[財](äußeres[Gut])という。他の外部財と直接・間接に結合して享楽のために与える場合は、ある人の内部財は他の人の外部財となるだろう」(p.1)とし、続いて、価値、富、財産等の概念を厳密にするために定義をしている。 このⅠ.(編)で興味深いのは、古典派の利己心についての考察である。 序文IVページでも「国家の経済生活に優勢な動因を表現するのに奇妙な矛盾が見られる。主として利己心が個人経済の原理として参照される。しかし行き過ぎた主張がなされて、利己心は経済的事情の中で単に個々人にとっての最善ばかりでなく、個々人の利益はつねに全体の利益をもたらすとされた。というのは、多くの場合、個人の獲得意欲は自己の目的を追求するだけではなく、逆にしばしば、全体としての利益と一致するとされるからである」と書いた著者は、経済生活を貪欲で利己的な行動と見るが、同時にあらゆるものを利己主義から演繹することを良しとしない。英国古典派経済学者の自由競争による、公的利益と個人的利益の予定調和を認めない。 「種の保存と繁栄を指向する第二の人間性に深く根ざした力。あらゆる社会制度――国家自身も――がそれに由来する。公共精神(Gemeinsinn)(この原理はそのように呼ばれる)もまた、国家の経済的繁栄の根本条件である、というのは個人が希求する共同利益となる制度や秩序は自己利益では実現できず、それにのみ由来するからである」(p.15)と。利己心のみを経済的動機とみなすことは充分でなく「公共精神」も考慮すべきことは、本書で諸所に述べられている。 (Ⅱ.労働の生産力について) ヘルマンは、経済学における技術的事象と経済的事象の区別を論じた。前者は生産についての物理的原因による物理的結果に関するものであり、後者は最小の犠牲で最大利益を得る原理にもとづく商品数量の取扱に関するものである。そして経済的生産を(Ⅰ)生産者の見地、(Ⅱ)消費者の見地、そして(Ⅲ)国民経済全体の見地から論じている(P.24-38)。 生産的であるかどうかについては、「1)労働者。その自発的な仕事が完全な報酬を得られる者は直接的に生産的である。/2)非労働者は、a)手中の財産を通じて他人の生産に寄与する者は、間接的に生産的である。b)また、収入からの支払なしに、他人から必要品を調達するものは非生産的である」(p.42)としている。 (Ⅲ.資本について) ヘルマンにとって、土地は地代という所得を生む点で利子を生む資本と異ならない。シュムペーター(1980、p.234)は、「彼がすべての物的生産財を以て一つの基本(ファンド)となし、その効用は元本を消耗しないで生産物に移行するから、従ってこれらの効用の価格は純粋所得であるとなしている解釈は、まさに土地地代の場合にも維持される、そして彼は地代と利子はその本質を等しくするが、ただその計算形態が異なっているに過ぎないと概括して、後代の多数の人びとの先駆者となっている」と、後継者としてクラーク、フィッシャー、フェッターの名をあげる。 資本は持続的に経済的用益を生む基礎であり、その観点からヘルマンは資本を分類する。本書の資本に関するまとめ的な部分(p.59-61)を次に訳してみる。 これらの議論を経て、完全で自然な形での資本についての基準と分類を下記に試みる。これらの資本は、経済的用益を生むために持続的使用価値を持つ。逆に言えば、それが持続する間は、その使用によって、利子という交換価値を生む。これが、ヘルマンの名とともに関説され、後メンガーやクニースによって代表される利子「用益説」(Nutznug Theorie:利用説とも)である。ヴェーム―バウェルクによる命名である。「この説の根本概念は、たとえ大多数の資本財が――土地を例外としてすべての――経済的には生産物のなかに入り込むが、しかし資本のなかの何ものかは消耗されずに常に再び新しい「利用」を保持すると為すもので、確かにフォン・ヴェーム―バウェルクによって提示されたあらゆる非難に曝されものではあるが、しかも一片の[正しき]認識を包含している」(シュムペーター、1980、p.261)。 (Ⅳ.価格について) シュルツ(1932、p.22)によると、ヘルマンの価値研究は、分配問題解決の為になされたという。「1.研究。価値決定の詳細」の初めにいう。市場において財の需要と供給が十全な範囲にある時、自由な作用の下で働く力を市場価格という。価格を決定する環境は、買手と売手について、あるいは需要側と供給側と別々に考えねばならない。1.での標題(目次)を以下に写しておく。大体の内容が推察できるであろう。 1.研究。価値決定の詳細つけ加えておかねばならないのは、主観価値説を述べていることである。後のオーストリア学派に先駆けるものである。そして、上記1.のA.Ⅱ.において、主観価値が個人の所得水準に依存することを述べている。「二人の人にとって、交換財の相対価値はそれによって得た量、またはその商品の購入能力に逆比例する」(p.73)と書いて、数字をあげて例示している。ここで、注目すべきは、脚注において、ラプラスと共に(ダニエル)ベルヌーイの名があげられていることである。オット/ヴィンケル(1992、p.219)やリハ(1992、p.36)は、ヘルマンが主観価値説において、ベルヌーイの原理に立脚していることを強調している。 ベルヌーイは、「くじの計算に関する新理論」(『ペテルスブルグ学士院紀要』1738年)において所得の限界効用が所得の増加により逓減することを仮定した。ブローグ(1989、p.23)によると、この論文が再発見されてその経済学上の意義が認められたのは、140年後(1879年:『経済学の理論』第二版か?)ジェヴォンズによってである(注2)。それでは、ヘルマンは早くも1832年にはベルヌーイの論文に気づいていたのであろうか。そこで,改めて脚注の部分をみると、「参照。ラプラス『確率の哲学的試論』。5版1825年、p.28。そこには、ベルヌーイの類似の評価が示されている」(p.73)と書かれているだけである。ベルヌーイの論文名はあげられていない。 ヘルマンの脚注にあるラプラスの本の該当箇所(注3)は「ダニエル・ベルヌーイによって提唱された一つの原理」(ラプラス、1997、p.41)として「第十原理」を示したところだと思われる。これから見ると、ヘルマンはベルヌーイを直接読んでいないと推測される。ラテン語で書かれたベルヌーイの当該論文が独訳されたのは、1896年であるのも傍証となろうか。もっとも、ヘルマンは元々数学者でもあるので、ベルヌーイの論文を直接読んでいた可能性も否定はできないが。 もう一点、ヘルマンは労働価値説(むしろ労働費用価値説とするのがよいか)についても述べている。私には理解のできぬ所もあるが、できる限り原文(p.130-134)に沿って、その内容を次に記してみる。 第一の見解ではこういわれている。労働は、多くの財で費用を構成する要素である、逆に財の価格は、少なくとも生存資料については、労働の価値決定に与る。労働と財の間には、ある種の均等関係の法則が存在するにちがいない。 これに対し、古い時代の厳密な賃金比例は不可能となり、地域と取引の多様性から、費用のなかでとりわけ資本用益部分が優勢となっている。労働は生産の増減と直接関係しなくなり、労働者がその労働供給の増減により生存資料の価値変動に対抗しうる限りで、利潤率と共に、ただ間接的に関係するにすぎないといわれる。また、ある程度価値尺度に適した財は労働と資本用益の二要素財を含んでおり、それらは共に直接に価格を変動させる。それでも、穀物による事例が一番である。それゆえ、利益が許されているとして、一財を他の多くの可能な財と比較するに、賃金は穀物価格に次いで、貨幣やその他の財の真実価値ための正当な表象とあるとしても非難されない。 第二の見解は、リカードが提唱しマカロックにより詳細に擁護されたものである。それに従えば、稀少性のみによって交換価値が決定される少数の財がある。しかし、大多数の財は任意の量が生産可能である(1)。 供給が欲求を丁度満たしている場合、その価値は単に生産費、すなわち財の生産に必要とされる労働に応じて決まる。同一の労苦の生産物が等しいとは限らない。それでも、真実価値は費やされた労働量によっており、その生産性にはよらない。いかに異なって見えても、同じ労苦を費やしたものは、価値において等しい。それゆえ、同じ労働を費用としたものは、互いに交換される。とはいえ、このことは、ある労働量の生産物はいつも同量の労働の生産物と交換されることを意味しない(2)。 生産労働量は、財相互または労働に対して交換する比率を決定するだけである。というのは、財はつねにその生産に必要とする以上の労働またはより以上の労働による生産物を購入するからである。この余剰なくしては、資本家の利潤なく、資本の運用は止まる(3)。 これらの出費は過去労働としてのみ存在する。労働量の必要生活費金額にかかわらず、将来ではなく過去の労働が価値を用意する。一日分の仕事が、5・6時間や10時間の仕事を購入することになるかもしれない。しかし、これらは真実価値や等労働の生産物の交換価値を変更するものではない。労働者には常に同量の負担がかかる(4)。 リカードの主要功績にある正しい命題:二財の真実価値は生産労働に関係することと、間違ったスミス説:労働量に応じて交換される との命題間の矛盾が明らかにされたのはマカロック以後である(5)。 リカード説を広い観点から調べてみると、 (1)増産できない交換財は少ないとするのは真実ではない。なぜなら、土地はそれら財であるから。また、その価値、あるいはむしろその用益価値が他のすべての生産物の費用と価値に大きく影響する。たとえ増産可能な財であっても、生産費、平均費用は資本経費あるいは資本用益を含む。これら費用は労働、材料、資本用益の購入に使われる。材料価格はさらに、労働経費と用益価値に分かたれる、それゆえ完成した生産物には労働のほかに用益が費用となっている。機械そのものが労働を含んでいるとしても、それは加工された素材としてすべて製品に移行するのではなく、単にその機械が消尽されるに限り素材となるにすぎない。だいたいその結合した労働と資本用益は、流通の外に置かれ、単に製品の要素である用益の基礎となる。 (2)もし、価値が同じで同労働を要する物が相互に交換され、そして生産労働が財の交換比率を決定するなら、2a労働はa労働の二倍を購入できるだけでなく、a労働はa労働を購入できねばならない。にもかかわらず、 (3)各生産物はそれ自身含んでいる以上の労働と交換される。もし、生産物A中のn労働が生産物B中の5/4n労働と交換されるとすれば、同時にどのようにしてB中のn労働はA中の5/4n労働を購入できるのか。これに答えるに、材料や生活手段(食料)なしに、すなわち過去の労働なしに、新たな労働は需要生産物を生産できないと主張すべきなら、労働以外になお今一つの要素、すなわち資本用益が、製品生産のためには必要であることを認めなければならない。そうして、製品がそれに含まれる労働に比べて高い交換価値を持つとすれば、これら資本用益が使用価値のみではなく交換価値を持つことが、これにより明白となる。 (4)しかしながら、最終生産物が、希少な交換価値のごとき労働以外の構成要素を持つとき、単に労働のみが費用となるのではない。これら第二の要素を考慮しないで、かつ二つの生産物の資本用益が等しい場合にのみ、多分労働が生産物の交換価値を決定するであろう。しかし、二つの生産物の用益が現実に等しいことがほとんどないとすれば、それによっては何も得られない。 (5)事実上、マカロックによって表現されたリカード法則は、他にA=Aをいうにすぎない。交換価値の本質は全く説明されていない。 (Ⅴ.利潤について) 利潤を企業者の機能から説明した最初の学者はセーとされる。古典派では、資本家は同時に企業者(経営者)であり、資本の重要性は認めても、企業者機能には関心はなかった。ようやく、J.S.ミルに至り、企業者に注意が向けられるのである。企業者利潤に関し、「しかし最善のものを果たしたのはフォン・ヘルマンとフォン・マンゴールドであった。十九世紀の中頃になって今日でもなお講述されているような見解が形成された」(シュムペーター、1980、p.264)。 ここでも、原文(p.204-205)に沿って内容を記す。 他人資本を使って労働し、その用益で生産する人は、資本所有者が提供する財産を資本として管理している。ほとんどの資本種類は相互に結合した場合のみ生産的となり、購入材料の統合が目的となる。購入取引の管理の如き経営計画の策定は、万人には備わっていない能力と才能を要求する。企業者は確定した収入を保障する一方、利益は生産物価格の変動に依存する。この二重の職務は無償ではなく、彼が生む利益からその一部を、経営および収入の不確実性に対する代償として報酬を要求する。資本利益のこの部分は企業者利潤と呼ばれている。利益の残りの部分のみが利子となりうる。資本所有者が利益のこの部分を許せないなら、生産に資本を求める人を誰も見いだせない。彼は自ら運用せねばならない。 企業者の利益部分は真実の収入であり、次のものと取り違えるべきではない。 a) 賃金と。特に小企業に良く見られる例であるが、企業者が同時に労働者補助として働いている場合。これらの賃金は、他の労賃同様、実際は資本支出から生じる。そして、ほとんど企業者の他の収入と併せて個人別に把握される。 b) 企業者利潤は他人資本の運用によって企業者が負担する危険の補償とは別のものである、それは大方、収入全体が実際の費用を超過する余剰の中にのみ含まれている。この補償金は所得ではなく、実際の利潤とは注意深く区別しなければならない。それは資本であり、元の資産を減少させないように、生じる損失に備えて保留すべきものであり、資本補償経費と名付けねばならない。この経費を所得として消費する者は資産を減少させる。 (Ⅵ.資本について) Ⅵ.がⅢ.と同じ標題。資本論の再論である。 原文(p.266-274)を摘記すると。 資本の作用は、特にそのさまざまな種類において考察せねばならない。 流動資本は労働と資本用益の集合体に他ならない、それは個別経済において将来の欲望による供給のために集積したものである。流動資本の役割は異なった人によって異なった時になされた労働と用益の蓄積・保存を可能とし、将来に使用される労働と用益を結合することにある。個別の流動資本は、構成部分の価値に応じて、価値を変動することが可能である。それゆえ、個別の利子額や所得にかかわらず、利子率は変らないかも知れない。利子率は、流動資本用益の平均としての価値を示しており、それは労働と用益が全体として投下される割合で決定される。個別資本価値は個別生産物の需要と供給の変動と共に変化する。資本譲渡に現金を使用するのは、現金の価値に変化がない限り、価値を保蔵する。 固定資本が生産に寄与し、その価値が消耗しない場合、他財においてのみ、すなわち商品購入者に固定資本の移行部分として表現される。家賃を例にすれば、それは賃借人の家の用益の使用によって、労働と用益の反対価値として建築資本から差し引かれる。それは、建設者がその労働と用益を賃借人と直接交換するのと同様である。家屋所有者資本は、購入者にとって貯蓄と伝達の働きをしたにすぎない。 固定資本の用益価値は、相互に排他的な一定の範囲内でのみ等しい。それゆえ、非常に多くの固定資本用益が非常に高価な独占的価値を持つ。それは、資本だからではなく、交換価値を持つ一定の用益を根拠としたものである。市場において他のすべての資本と共に(流動資本利率に比例して)、用益の真実価値から評価されるのである。 流動資本の利益や利子率の高下は、用益の価値とは反対に、相対的にはともかく絶対的にはその資本価値を変化させない。しかし、それ自身では無価値で、その用益の価値によってのみ評価される固定資本は、利率が騰落すれば絶対価値が増減する。その用益価値は同時には騰落しない。それゆえ、その動向は、個々の生産階級の資産にとって非常に重大である。 ヘルマンをシュンペーター(1980、p.256)は賃金基金説を真面目に批判した二人の内の一人(他はロンジ)とし、高橋誠一郎(1947、p.239)は賃金基金説から「年代的に最初に離れた[中略]鋭利にして独創的な思想家であった」としている。 ヘルマンはいう(p.274-280)。 流動資本の研究から、従来の学説の誤謬を正すことは容易である。アダム・スミスの見解では、資本用益そのものは、はっきりとは経済財とみなされない。労働が主要事で、資本は労働に影響する限りで機能するとしている。アダム・スミスは、すべての資本は生産的労働の生活費を用意するとの単純な命題を建てるのに慎重だったが、逆に賃金に使う資本が増大する時、すべての労働者の生活費または賃金は資本に由来し、資本で決定されるとも主張した。これに従うと賃金は、求職者数および労働者雇用を決定する企業の資本量により規制される。 しかしながら、ここでて留意すべきは、 1)賃金は流動資本の一部にすぎず、そこから生産の各段階で労働者に賃金が支払われるとしても、賃金の騰落によって、資本一般が直ちに増減することがないと結論できよう。配分上の重大な変化が起きるほど増加すると、総資本のより大きな部分が固定されているので、それ以上の労働者賃金支払いが困難となり、賃金資本に対する労働者数および賃金を圧迫することになる。 2)企業家資本が労働賃金の源泉であるという想定は浅薄な見方で不十分である、というのは私的奉仕を遂行し、(主人の)収入から直接支払われる労働者の数は無視できないからである。根本的には、事物の本質は反対のことを示している。すなわち、企業家が労働を購買するのは、消費のためではなく(消費者の発注する)生産物として再販売するためである。賃金は、生産の為に労働者の仕事の対価として与えられる。企業家は自己の資本の一部を、消費者と労働者の間の交換流通のために、一時的に賃金として置き換える。この点では私的奉仕といわゆる生産的労働に違いはない。労働に対する真の需要は新しい交換価値を提供するものから生じる。こうして、賃金は供給労働量と資本用益に依存する。 1)は賃金支払いに充てる流動資本額と総資本額に直接の関係がないこと。2)は企業家の資本で雇用される労働者以外に召使い等として働く人数も多いこと。賃金支払の源泉は資本ではなく消費者の支出であり、賃金は求職者数と資本額ではなく、求職者数と資本用益で決定するといっているのであろう。 (Ⅶ.所得について) 目次を下記に写す。 本研究推進の必要/所得、収入/享楽され交換される:本源的所得/後者の例/財産と労働からの所得の注釈/外国に基づく所得/社会経済の所得/経済的基礎に基づかない所得/国民所得の構成/個人及び国家の所得見積り/二国の所得の比較/諸見解の検討:A.本源的および派出的所得、B.所得と欲求の関係/C.粗所得と純所得/一国の粗所得は純所得と同一ではない/粗所得の知識は重大か(Ⅷ.財の消費について) 同様に目次から。 1章. 消費の概念。生産と消費/その占有と放棄との相違、利用の重視と拒否との相違以上翻訳・紹介には高橋誠一郎『古版西洋経済書解題』に大いに助けられたが、ドイツ語は辞書を引ける程度の読解能力の為、多々誤読があると思います。ご海容下さい。 スイスの古書店からの購入。標題紙、本文とも経年によるシミが見られる。 (注1) Nationalökonomieは1805年にヤーコブ(Jacob, L. H.von 1759-1827 )とゾーデン(Soden, F.J.H.von 1754-1838)によって同時に使用され、Volkswirtschaftslehre は(フェーフェラントHufeland G. 1771-1838)によって1807年に使用された。(オット/ヴィンケル、1992、p.115)
(2015/2/19記) |