GEORGE, HENRY,
Progress and Poverty. An Inquiry into the cause of industrial depressions, and of increase of want with increase of wealth – the remedy  , Author’s edition. San Francisco, William m. Hinton & Co., 1879. 8vo, pp. [4]+ 512, 8vo.

 ヘンリー・ジョージ『進歩と貧困』、1879年刊初版、著者版。
 著者略伝:ヘンリー・ジョージ Henry George(1839-1897)。フィラデルフィアで下層中間階級家庭の10人兄弟中の次男に生まれる。父は、宗教書の印刷業者。家計の不如意から、14歳にならずに学業を廃す。給仕や水夫(豪、印へ渡航)、植字工として働く。18歳のとき恐慌で失業し、一攫千金を夢見てゴールドラッシュに沸くカルフォルニアに赴く。生活は苦しく再び植字工として働き始め、二十歳の頃には一人前の印刷工として認められる。61年オーストラリアから来住した17歳の孤児アニーと結婚、4人の子をあげる。生活苦(65年頃は失業し路上で物乞いをした)は社会問題に目を向けさせた。65年新設のサンフランシスコ・タイムス新聞社に印刷工として就職し、67年編集長にまで上り詰める。フランクリンやプルードンは印刷工、ファラデーは製本工だった。これ等の職業は、無学歴者の独学には向いているのだろう。68年雑誌に「鉄道がわれわれにもたらすもの」(”What the railroad bring us”)を発表した。ここに、すでにジョージズムの基本思想が現れている。その後、出張先ニュー・ヨークでの都会の貧富差の見聞や、加州での鉄道延伸による土地投機の経験が、思索を深めることになった。71年に『わが土地および都市政策』(Our land and land policy)を処女出版する。土地独占が社会悪の根源とし、その対策を著した書である。その間、いくつかの新聞社でジャーナリストとして働き、次第に頭角を現していく。71年に自ら新聞社を創設その社主となった。この時期は、1973年の恐慌期であり、ジョージはまたもや厳しい赤貧生活を経験した。
 75年経営上の不和から社を辞す。ガスメーター検査官という閑職を得て生計を保ちながら、経済学研究に打ち込む。こうして、『進歩と貧困』が完成する。著者みずから植字をした「著者版」が79年に、その活版を提供した大手出版社アップルトン社版が翌年出版される。前著では土地独占を打破し小土地所有を望ましいとしたが、本書では土地共有を理想とする。「単一税」の名称と共に喧伝された。私生活面ではまたも失業し、80年求職の為にニュー・ヨークへ移住する。しかし、ようやくこの頃から知名度が上がるようになった。本書は大ベストセラーとなり、各国語に翻訳され、世界的に大きな影響を及ぼした。国内各地で講演活動を行い、カナダにも足を延ばした。アイルランドでは、土地問題が衆目の的であったから、米国内のアイルランド系団体により数度、アイルランド、スコットランドにも講演に派遣された。
 1886年名声を見込んだ労働会議にニュー・ヨーク市長選候補に推される。自説の普及の機会と考えて立候補する。結果は、次点ながら落選(三位は後の大統領、セオドア・ルーズベルト)。翌年、同州の総務長官選挙にも出馬するも落選。労働運動や社会主義運動とジヨージズムの呉越同舟の結果である。その後、1897年になって、独立民主党(ジェファーソン党)に推薦され、再びニュー・ヨーク市長選に挑戦する。健康は衰え、医者の反対を押し切っての立候補である。しかも市域は2倍に拡大していた。選挙運動中に脳溢血で死亡。享年58歳。葬儀には十万人が参列した。

 旧稿では、本書の内容については詳しく触れず、主として書誌学的記載(本稿では末尾に記載)のみであった。私蔵の本でも指折りの稀覯書であったからである。本書を見直した契機は、たまたま、徳富蘆花『巡礼紀行』(1989、p.216)を読んだことにある。そのトルストイ訪問記には、翁の書斎に「ヘンリー・ジョージ」の画像が掲げられている記事がある。うかつにも、トルストイがジョージを崇拝しているのを知らなかったのだ。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』は読んだが、『復活』は未読だったので、ジョージが出てくる周知の事実を知らなかった。トルストイが、ロンドン・タイムス紙に寄せた論説には、ジョージの教えをひとたび知れば賛成せざるを得ない、土地問題解決について(現行の国家組織と租税制度の下との限定ではあるが)、これ以上実行的で平和的な解決法は不可能なほど考え抜かれていると評価しているのである(山嵜義三郎、1961,p.165)。また、孫文の三民主義の一つ民生主義・「地権平均」にも(わが宮崎民蔵を通してともいわれる)影響を与えた。
 ジョージの影響は現在では想像できないほど大きかった。ガルブレイス(1988、p.238)によれば、『有閑階級の理論』のヴェブレンとともにアメリカでもヨーロッパでも最も広く読まれた経済著述家であり、アメリカの著作家として最も広汎な読者をえた人のひとりである。「十九世紀最後の四半期に、英語圏において過激な若手知識人の間に起こったすべての論争の中心点は、マルクスではなくてヘンリー・ジョージであったほどである」(ブローグ、1989、p.96)といわれる。マルクスが諸悪の根源を資本に求めたように、ジョージはそれを土地に求めた。近代人は生産手段を「所有していないし、また決して所有を望めない道具で仕事をする」(p.209)という一節はある。しかし、本書の目的は「スミスとリカードーの学派によって認められた真理をプルードンとラッサールの諸学派によって認められた真理と結びつけること」(p.vii)とはいっても、マルクスの名前は出てこない。リカードが差額地代理論を考える際に、「穀物比率地論」(リカード『利潤論』参照)によったように、ジョージも都会の地代を強調しているが、発想の基礎には工業生産よりも農業生産があったように思える。賃金や利潤が地代に支配されるとの思想は、工業社会からは生まれてこないだろう。
 本書を読む前は、単一税推進のパンフレットを膨らました本のように考えていたのだが、まぎれもなく本書は経済学書なのである。これが何百万部のベストセラーになったとは信じられないほど高度な内容である。引用所は、聖書、ギリシャ古典(プトレマイオス、テミストクレス)、同時代の文学(デッケンズ、スウィフト)、歴史書(テニスン、カーライル)、社会科学書(モンテスキュー、トクヴィル、バーク、スペンサー)からインドの古文書まで及んでいる。経済学書では、ケネー、アダム・スミス(「天文学史」まで言及)、リカード、マルサス、ミルはもとより、ミラボー、マカロック、ウェイランド、ウォーカー、ソーントン、フォーセット、バジョット等々まで博捜している。ただ惜しむらくは独学者の悲しさ、その範囲が古典派経済学に限られ、経済学の新しい動き(限界革命)には及んでないことである。社会主義についても、否定的でほとんど触れられていない

 書名の由来は、本書の目的にある。最も物質的に進歩した所、すなわち人口密度と富裕が最大な所で、最も深刻な貧困、最も先鋭な生存競争が見出される事実を解明することである。社会の進歩、相次ぐ発明、発見は労働者の労苦を軽減しなかったし、貧者を豊かにしなかった。西部の開拓地では、最良の住居は掘立小屋であるが、乞食も贅沢もない。米国では、村落が都市となるにつれて、貧困と犯罪が増えている。「貧困とそのあらゆる付随物は、物質的進歩が向かっていく状態に共同体が発展してゆくのにちょうどつれてそこに現れるという大事実」(p.6)がある。事実を説明し、救済策を支持するのは経済学でなければならない。まず、ジョージは「最良の権威者によって現在承認されているような経済学が与えている説明」(p.13)の吟味に入る。もっとも、先述のように検討されるのは古典派経済学の範囲である。主たる対象は、賃金基金説、マルサス人口法則およびリカード(正確にはウエスト等との同時発見)の差額地代論である。著者は、賃金基金説はマルサス学説と調和し、両説は差額地代論を支柱にしていると考える。両説は否定するが、差額地代論には全面的に依存している。そして、その後に、現状への救済策提案とそれを実施したときの影響について考察する。
 以下に本書の概要をほぼ章立てとおりにまとめてみる。

 (賃金基金説)
 賃金基金説では、賃金=賃金基金/労働者数、となる。労働者を雇用する基金(資本)と労働者の数によって(平均)賃金が決定する。広く承認されているこの説は現実と符合しない。賃金は労働者数に対する資本量の比であるから、高賃金は資本の相対的夥多、低賃金は資本の相対的希少を意味する。一方、利率は資本の相対的多少の指標でもある。だから、この説に従えば、賃金の高い国(時代)は利子が低く、賃金の低い国(時代)は利子が高くなるはずである。しかるに現実には、高賃金には高利率が伴い、低賃金には低利率が伴うことが観察されるからである。
 以下理論的考察である(専門的で読み飛ばし可)。資本家の資本から賃金が支払われる。労働は、目的の生産物が完成される前に、既存の資本によって維持され、支払われるとされる。ジョージによれば、資本とは貯えられた労働であり、労働の成果が貯えられるまで労働は使用できないことは矛盾である。賃金は資本から支払われるのではなく、生産物から支払われると考える。生産を全体としてみるならば、各人が労働に対して得る報酬は、直接自然から来る。言い替えれば事実上、労働するものは彼が受取るものを生産している。それは、高度に発展した社会でも、原始社会と同様である。賃金は、貨幣(手形である)の形であろうと特定形態の富の形で受取ろうと、既存資本による生活費の前貸しではなく、労働が付加した富の一部を示している。
 アダム・スミスは、土地占有と資本蓄積に先立つ原始社会では、賃金は労働の生産物であることを認めたが、自営労働者が5%にも満たずほとんどが雇用労働者である当時の社会では賃金は資本から支払われるとした。こうして、今日の経済学は矛盾と不合理を抱えることになった。生産なしに賃金はない。賃金支払は労働の生産物からであり、資本の前貸しからではない。現在、多数いる失業者の誰もが、雇用を求める際、賃金の前貸しを要求はしない。賃金の支払いは労働者の労働供給を前提としている。労働供給は富の生産を意味する。労働者は、彼の労働が新たに生産した資本の一部を受け取るに過ぎない。雇主は、賃金を支払う前に、労働によって創造された資本を得ている。労働者が賃金を受け取ることで、既存の個別資本も総資本も増えることはあれ、減少することはない。賃金支払いに資本を必要としないことは、賃金が現物給付される場合をみれば明白である。生産物がトンネルであっても、賃金がトンネル(株での支払)で支払われれば資本は必要ない。
 なるほど、人は労働の前に朝食を摂る必要があることは確かであるが、資本家が朝食を与えるのではない。労働者の朝食は生産の為に用意された富(資本)からではなく、生計の為に取り置かれた富(所得)から支出される。現在の労働は過去の労働の生産物によって養われねばならないといわれる。その意味は、直接生活に必要でない富の生産のための労働がなされるには、前もって労働者の生活手段の蓄積が前提とされることであろう。しかし、事前の生活財の生産は必要ではない。必要なことは、非生活財の生産の進行中に、同時に十分な生活財が生産されており、交換可能なことである。そして、他人の財に対する支配力は、自分の生産から発生する。
 もし、賃金が資本からでなく労働の生産物から支払われるなら、賃金は労働者数の増加によって減少されずに、労働生産性は労働者数と共に増加するだろうから、労働者の増加により賃金も増加する。

 (マルサス人口学説)
 スミスに発する賃金基金説では、労働者数の増加により資本が細分化されて賃金が低下する。マルサス説は、人口数の増加により食料が細分化されて貧困が現れる。二命題が実質的、形式的に一致するには、資本(賃金基金)と食料の同一性および労働者数と人口の同一性が認定されればよい。それらは、諸論文によってなされ、マルサス説は基金説を決定的に証明することになった。一方、リカードの差額地代論は、人口増大が次第に耕作をより低生産性地、あるいは同一地をより低生産性状況に追い込むことによって地代が高騰すること(および相対的食料生産物の減少)を示した。それはマルサス説を支持するものであった。こうして三者同盟が形成された。人口増加による賃金低下および地代騰貴は、人口による食料の緊迫を表現するものである。マルサス説は欠乏と貧窮の原因は政治的制度によるものではなく、自然的原理にありとした。不平等の原因を創造者に帰すことによって、改革の要求をかわして利己心を良心の痛みから守った。
 ジョージは、賃金基金説を構成する資本について、賃金が資本から引き出されるものではないとして、その基礎を否定した。同様に基金説を構成する労働者数=人口についても、マルサス説を否定できると考える。現在の観点からは不思議に思われるが、彼は当時の世界人口が歴史上最大であることに疑問を持っている。人口は、増大の時代も減少の時代もあったと考えた。そして、現実には、インド、中国、アイルランドという最貧国とされる例を見るに、人口増加が食料を圧迫して罪悪と貧困を生み出したことも、食料生産の相対的減少を招いたこともない。貧困は自然の吝嗇よりも、政治的制度的原因によるものであるとする。
 生物のあらゆる種は、その繁殖には、天敵や食物量の存在が現実的な制限をなしている。しかし人間は、自らの繁殖力以上に食料を増大させる力を有する唯一の生物である。熊を欧州から北米に移送しても、全体としての熊の頭数は増加しないだろう。しかし、人間の移住は、人口を大きく増大させ、一人当たりの食料も増加させた。食物の増加が人口を増やしたのではなく、人口の増加が食物を増やしたのである。ある特定地の食料の限界は、該地の物理的限界ではなく、地球全体の(現生産技術下での)物理的限界である。ロンドンの人口は10億人でも可能である。
 また人間は、欲求が充足されるに從って欲求が増大する唯一の動物である。量への欲求が満たされると質への欲求を求める。食料、生存条件が一層有利となると、動物は繁殖するだけだが、人間は発展する。より高い状態に、より広範な力を所持して拡張する。安楽水準の向上と人知の発達によって、マルサスのいう人口増加に対する積極的あるいは消極的妨げの他に、第三の妨げが発動する。人口増加の傾向は一様ではない。逆境によって民族の存続が脅かされる所では増加傾向は強いが、個人の一層の発展が可能で民族の永続が保証されるに従い弱まる。
 ある人口の生活必需品生産力は、実際に生産された必需品生産物ではなく、あらゆる形態の生産物で測られるべきである。問題は、どの位の人口で最大の食料が生産されるかではなく、どの位の人口で最大の富が生産されるかである。マルサス説とは反対に、比較的大きな人口数は、比較的小さな人口数に比べ、より一層容易に扶養できる。人口密度が最高で、最も自然の能力の限界に接近している旧国では、労働生産性が高く、生産物の大きな部分が非生産的な贅沢品に向けられ、資本があふれている国である。新興国では、持てる力の全部が生産向けられ、生産的労働に従事しない人はいないが、富の生産は人口に比べて少ない。最低階級の状況はましだが、贅沢のできる者もいない。過剰人口の所為とされる欠乏と貧困の原因は、自然の吝嗇ではなく、社会の不正にある。
 各共同体では、ほとんどの人がぎりぎりの生活をしており、一世代から次世代に持ち越される富はほとんどない(その維持にも労働が必用である)。共同体で労働が休止すれば、富は消え失せるだろう。労働が再開すれば、焼け野原からも富は再建される。人口増加は、富の生産の減少ではなく増加を意味する。なぜなら、人口増加は、一層劣等地に頼ることで富の自然要素の力を減少させるけれど、それ以上に人的要素の力を非常に増大させるからである。しかし、生産力最大である文明中心地に貧困が現れる。この矛盾の原因を究明せねばならない。

 (分配の諸法則、差額地代説)
 これまでの推理からは、各労働者は自身の賃金を生み出し、労働者数の増加は各人の賃金を増加するという結論になる。しかし、現実には労働者数の増加は賃金の減少をもたらしている。その原因は生産の法則に見出せなかったから、分配の法則に求めねばならない。労働者階級貧困化の原因究明には、生産物が労働者に賃金として分配される法則を発見しなればならない。生産物のうち、資本と土地に帰する部分を決定する法則も見付けねばならない。
 著者は、生産三要素である土地、労働の報酬には普通に地代、賃金の用語を充てるが、資本の報酬は利潤ではなく利子の用語を使用する。利潤には監督賃金や、危険補償が含まれると考えるからである。三要素の分配法則は相互に関係づけられなければならないが、現在の経済学では関連も調和もない。労働が資本を使用するのであり、労働は土地上だけで、土地から原料を得て実行される。起点は土地であり、労働、資本と続くのが自然的順序である。土地上で行われる労働は資本の助けなしに可能である。それゆえ、地代法則と賃金法則は相互に関係せねばならず、資本の法則と無関係に体系を形成しなければならない。また、資本は貯蔵された労働に過ぎないから、資本法則は賃金法則に従属せねばならない。そして、地代の生じない生産(限界地等)で、労働と資本に分配される場合に適用されるために、賃金法則と利子法則とは、相互に独立的関係を持たねばならない。
 生産能力が高い土地が占有される時、地代は発生する。地代は、無償で使用できる土地と比較した当該地の生産能力で決定される。要するに、地代は独占価格である。人間が生産も増やしもできない自然的要素が私有されることで生まれる。独占といっても、近代社会では土地は多人数によって私有されているから、価格は競争により一定の安定した水準に落ち着く。幸い、地代法則については議論が一致している。ジョージは差額地代説(ロートベルトゥスの絶対地代は触れていない)によっているが、リカードは地代を農業関係に限定し、実際には工業都市と商業都市で高いことを見逃していると主張する。地代法則を代数形式で表現すると、
  生産物=地代+賃金+利子  よって
  生産物-地代=賃金+利子
 賃金と利子は労働と資本の生産物に依存しない。それは、生産物から地代を除去したのちの生産物、あるいは地代なしの最劣等地の生産物に依存する。それゆえ、先進国で見られるごとく、生産力がどれほど増加しても、地代が同じように増加すれば、賃金も利子も増加できない。「この簡単な関係が認識される瞬間、それまでは説明不可能であったものにあふれるばかりの光明が流れ入り、外見上は調和しない諸事実は明白な法則のもとに整列する」(p.128-129)。地価上昇が生産力増大以下の時に限り、賃金と利子は生産力増大によって上昇できる。
 研究の最終目的は賃金法則の発見にある。そのために、まず利子の問題を解決する必要がある。しかし、拠るべき古典派は根本的には利潤(著者のいう利子)理論をもっていなかった。ジョージも、利子の原因を自然(動植物)の生殖力、成長、再生産の原理に求めるだけである。もし、利子の原因が時間の要素に利益を与える自然の生命力にあるなら、自然の平衡が維持されているように、様々な自然の再生産力は破壊力との間に、増加を一様にする均衡が存在する。それは価格を考慮すると一層明らかである。もっとも、この平均値は社会の発展段階が異なると相違する。そして、資本と労働が協力して生産した生産物を利子と賃金に分割するときに、その割合は一定率に落ち着く傾向があるだろう。賃金と利子の間には、絶対的ではないが徐々にしか変化しない一定の関係または比率があって、資本を供給する労働はこの比率で資本に転化され、絶えずこの比率は維持される。賃金が低下する時に利子が低下しないならば、労働を資本に代える方が労働を直接使用するより有利となり、資本が増加するからである。それゆえ、利子と賃金はともに騰落する。また、「賃金+利子」は耕作の最劣等地で決定されるから、利子の法則は地代の法則と結び付けられる。資本は労働の一部に過ぎないから、富の分割は、本来、賃金と地代の二分割形態にあって、利子を含めた三分割形態にあるのではない。

 賃金の法則を再説する。人間の行動原理は、最小努力で欲望を充足させことである。それは競争を通じて、すべての等しい労働から獲得される報酬を均等化する。しかし、生産は土地と労働の二要素によるから、同一労働であっても、その生産量は自然的諸力によって異なる。そこで、同一原理によって、賃金は耕作の限界、すなわち、地代を支払わないで、現在の労働に解放されている自然の最高生産性地点における生産物によって決定される。同様に、その生産性最大地点は、継続して生産が行われる生産性の最低地点でもある。それ以下の地点では、同量の生産は見込めず労働は投入されないからである。ここに、明白で普遍的な原理の帰結として、賃金の法則が見出された。
 差額地代法則を認めることは、先述の著者の利子法則と賃金法則と矛盾しない。地代法則は通説と同一である。賃金法則は、通説の賃金基金説に対し、耕作の限界に依存して決定されると考える。利子法則は、通説では資本の需要供給で均衡するか、または賃金に依存し賃金とは逆の動きをするとする。著者は、利子は賃金と一定比率を維持し資本の純増加力により決まり、それは耕作限界に依存するとする。これら著者の諸法則は相互に支持、関係しあい、一つの体系の部分を形成している。
 いまや、富の分配に関する明白で一貫した理論が獲得できた。もし、生産が増加しているにもかかわらず、労働者や資本家がより多くのものを獲得していないのならば、土地所有者が増加分全額を獲得していると確実に推論できる。賃金が生産力増加に応じて増加できないのは、地代の増加によることは明白である。地代の増加、あるいは地価の高騰は、物質的進歩に必ず付随する。土地価値の増大につれて貧富の格差が生じる事実は、普遍的に観察できる。

 (物質的進歩と富の分配)
 利害の対立は、一般に信じられているように、労働Vs資本ではなく、労働・資本Vs地主に存在する。なお、地代と人口の関係について注意すべきは、人口増加による、より劣等地への依存は必ずしも、労働の投入に比してより少ない生産物をもたらすのではない事実である。まず、技術の進展がある。そして、何ら技術発展がなくとも、人口増加はそれ自身で労働生産力の増進を意味する。100人の労働は1人の労働の100倍以上の生産が可能である。人口増加は、劣等地の自然生産力の低下によって地代を上昇させるが、労働力の増進がそれ以上なら、劣等地の生産物を増加させる。賃金は割合として低下しても賃金額は低下しない。労働力の増進はすべての耕作土地の労働に作用するから、平均生産性も減少しない。
 西部の最初の入植者は全くの辺境の荒野を開拓する。続く入植者は、すでに入植者が居住し生活基盤が整備されつつある土地に隣接して入植する。人口の集中する土地では、辺境地以上に土地の価値や地代は高い。人口がさらに増加し続けると、農業生産性は変わらずとも、そこでは職人、製造業者、商店主は、彼等の労働が他所より多くの報酬を受けられる。土地所有者は、農業生産性が幾倍も高い土地の価格で売ることができる。人口密度増加により土地に付着した生産力は、本来の肥沃度が千倍化したにも等しい。それは地主がしたことによるのではなく、ただ人口増加によるものである。地代騰貴の原因となる土地生産性の格差は、人口増加による劣等地依存によるのではなく、人口増加が既使用地に与える生産性増加によるものである。後者の原因が地代高騰を通じて富の分配に与える影響は経済学者によっては、ほとんど注意されていない。先進国の最も高い地価の、最高の地代を生み出す土地は、肥沃度の高い土地ではなく人口増加によって優れた効用を持つに至った土地である。
 人口増加なしの、技術革新のみが分配に与える影響を考察する。技術革新は必要労働を節約する。人間の欲望は限りがないから、節約された労働は富の増産に向けられる。富の増産には土地と資本が必用である。土地への需要は、耕作限界地を引き下げ、地代を高騰させることになる。地代を上昇させるのは農業部門の労働節約的技術革新に限らず、すべての産業のそれら技術革新である。ただし、厳密には、節約された労働は増産だけではなく、サービスの消費や余暇の獲得にも向けられ、その割合は社会の進歩とともに増加する傾向がある。人口の増加がなくても、技術革新は土地所有者の分け前を増加させ、労働・資本の分け前を減少させるのである。技術革新には直接に生産力を向上させる改善だけでなく、間接に向上させる統治、風習等の改善も含まれる。例えば自由貿易は英国の富を激増させたが、貧困は減少せず地主階級を富ましただけであった。
 物質的進歩が富の分配に与える影響にはもう一つ要因がある。それは将来の地価高騰への期待である。地代理論では、耕作限界は生産の実際の必要から決定されると仮定している。しかし。地代の迅速で着実な増大が確実に予想される社会では、より高騰への期待が地主に土地の使用を控えさせ、生産の必要水準より以下に耕作の限界を押し下げる。通常の商品であれば、価格騰貴は供給増により落ち着くが、土地は人力で供給を増やせないため投機的高騰を防止できない。しかし、賃金には生存費の限界があるし、利子にも生産に向けられる最低点があるから、地代高騰には限界はある。

 (救済策)
 あらゆる文明国の景気循環の主要原因は土地投機にある。地価は労働と資本に慣習的報酬額を残さぬまでに上昇する。生産は停滞し始める。新たな労働と資本の増加に必要とされる慣習的報酬が期待できる仕事がないために、生産は増加できない。生産の麻痺は産業のネットワーク通じ工業と商業全体に波及する。あらゆるところに過剰生産と過剰消費が起こる。不況は新たな均衡がもたらされるまで継続する。
 他のすべての産業の需要を創出する第一次的基礎的産業は、自然から富を抽出する産業である。富の生産の障害物となるのは、産業構造の基礎にある土地である。諸産業の生産抑制を探ると、労働を土地に投下することを妨害する地代に行き当たる。それは、労働と資本を締め出している。商店主が農民を誘引するのではなく、農民が商店主を誘引する。都市発展が農村を発達させるのではなく、農村の発達が都市を発展させる。都市に多くの失業者がいるのは農村で仕事を見出せないからである。収穫期には彼等は都市から続々と出ていき、それが終わると続々と帰って来るのだから。未使用地が十分あれば失業者に仕事を与えることができる。それを妨げているのは、土地が独占されて、現在価値ではなく人口増を見越した投機的価格で保持されていることにある。例えば、急速な鉄道建設と産業不振とが関連することは、地価高騰の意味を理解し、鉄道建設の土地投機への影響を認める者には明らかである。
 労働は生産力増進から生まれるあらゆる利益を奪われている。どころか、自由労働者は救い難い奴隷状態に陥る。生産力増強によるあらゆる改良は、能率を求めて分業を細分化し労働者の独立性を犠牲にする。豊かな社会での貧困階級は、未開人ほどの人身の自由を感じず、未開人以下の窮乏に苦しんでいる。このような富の只中に困窮欠乏が見られる所では、土地が全人民の共有財産でなく個人の私有財産として独占されていること、労働の使用に対してその収益の多くが強奪されていることを見出すだろう。フォーセットの計算によると、イングランドの数千人の地主が所有する土地を賃貸料によって資本価値を計算すると45億ポンドとなる。それは全イングランド人口を(米国南部の奴隷平均価格で)奴隷とした価値の2倍である。また、カルフォルニアで法外な賃金が支払われたのは、労働が自由に行われた未私有地で金鉱が発見されたからである。我々は土地に生まれ、土地で生活し、土地に帰る、土地の子供である。
 貧困増大に対して考えられた救済策は、政府の干渉や国民教育による習慣改善、労働者団結、生産協調等々いずれも効果はない。大土地所有の規制も、大規模経営の生産性を阻害し富の総生産量を減少させる不利益がある。それ以上の問題は、規制は地代を減らすことも賃金を増加することもできず、生産物の公平な分配を実現できないことにある。土地分割しても、なお地代は増加する。労働者階級の状態は改善されず、異なるのは、かつての借地人が新たな地主となって地代増加の利益を得ることだけである。それは、徹底的改善を伴う方策の採用を妨げ、現行制度を強化する傾向がある。小地主が、借地農と共に農民労働者と混住して生活することは、仲間意識を育てる。小農の土地所有は、革命の避雷針である。土地の平等分配は不可能であるから、それに及ばない規制はどれも単なる緩和療法であり、治療療法ではない。真の救済策は土地を共有財産にする外ない。

 労働生産物に対する権利は、自然を自由に行使する権利なしには享受できない。土地私有の承認は、労働生産物の財産権の否定である。それは、人間の平等権の否認であり、労働しない人が労働する人の自然的報酬を没収することを認めることである。もし、我々すべてが造物主の平等な許しの下にこの世に生を受けたのであれば、我々すべては彼の賜物を平等に享受する権利を有している。我々が最高の文明のさなかで、貧窮で死亡したりするのは、自然の吝嗇のせいではなく人間の不正のせいである。
 既にみたように、土地価格は独占価格である。価値を決定するのは土地の相対的生産力である。それゆえ、土地価値は個人の私有土地に対する共同体の権利を明確、正確に表現している。そして、地代は個人が共同体の他の成員の平等権を満足させるために共同体に支払うべき額を示している。もし、土地の占有者に自由な使用を許す代わりに、地代を共同体のために没収するなら、万人の土地使用平等権と完全に調和させることができる。
 奴隷制度が不正であれば、土地私有制も不正である。事態を放置すれば、土地の所有権は人間の所有権を与えるようになるだろう。土地が占有され法外な地代を徴収されたアイルランド農民は、ロシアの農奴以下の状態であった。奴隷制度の本質は労働者から動物的存在たる以上に生産物を奪うことにある。自由労働者の賃金は間違いなくこの最低点に向かっている。南部諸州の大農場主は奴隷解放で何ら損害を被らなかった。人口が増加し地代が高騰するにつれて、大農場主は労働者の生産物から、奴隷制度で得た以上の分け前を受け、労働者は奴隷であったとき以下の分け前を得ることになるだろう。「土地所有権は石臼の下石である。物質的進歩は石臼の上石である。それらの間に、増大する圧力で、労働者階級は挽かれている」(p.265)。
 土地私有制を廃止するのなら、地主に充分賠償すべきとの議論がある。J・S・ミルは、土地私有制度を不正と認めた。だが、土地を全面的に社会に回収するのではなく、所有者の改良によらないで将来土地に付加される価値のみを国家が徴収すべきと考えた。それは現在の富の分配の不公正を拡大しないが、それを是正するものではない。土地所有者の特権を奪わずには、一般人は何物も獲得できない。米国の反奴隷制運動は所有者に賠償するということで始まったが、奴隷解放時に賠償はなかったし、しつこい要求もなかった。地代の本質を考えよ。地代は、土地から自生的に生ずるものではなく、土地所有者の努力によるものでもない。共同体全体によって創造された価値を表す。共同体全体の創造物たる地代は、必然的に共同体全体のものである。

 土地は、時と所を問わず私有財産とされていたのではない。社会の初期段階では、どこでも土地は共有財産であり、すべての人は平等の権利を持っていた。権力者が現れ共有地を独占し、さらに征服戦争によって被征服者が農奴に陥れられ、彼等の土地は有力者に分割配分された。ギリシャ・ローマ時代は、土地に対する平等権思想と土地を個人的に所有・独占しようとする動きとの闘争が国内対立を引き起こした。封建制度は土地共有権と排他的財産権思想の融合である。封建制は、理論上では、土地は個人ではなく社会に属すると認識した。絶対的土地保有を条件付き土地保有に変更し、地代受領権と交換に特定の義務を課した。法律用語での不動産と動産の区別は、本来共有財産みなすものと性質上個人の私有財産とするものとの区分のなごりである。
 米国は、独立宣言で、生命、自由および幸福追求に対する不可侵の権利を謳いながら、土地に対する平等にして不可譲の権利を否定した。究極的には生命と自由に対する平等権を否定する原理を受け入れたことになる。米国民を特徴づける、なべての知性と安楽、活発な発明、順化と同化能力、自由独立の精神、勢力と希望の横溢は、国民性の原因ではなく結果である。囲いのない公有地から生まれたものである。欧州では、子供が成人する時、人生の宴会の特等席に「予約席」の札が立っているのを見る。米国では、子供がどんな境遇にあろうとも、公有地が自分の背後にあるとの意識がある。それが上記の国民性を生んだ。だが、米大陸でも農業の最適地は既に耕作済で、最劣等地だけが残されていることを思い出さねばならない。
 物質的進歩に伴って、労働者階級の欠乏と困苦、産業不振の周期的突発、雇用の過少、資本の沈滞、および賃金の生存水準への低下が出現するのは、土地が少数者の排他的財産である事実に起因することが明らかとなった。土地を共有財産とすることを躊躇させるものは何もない。しかし、如何にそれをなすべきかの方法の問題が残されている。国家がすべての土地を没収し、最高入札者に土地を賃貸する方法は可能な最善の方策とは思えない。それは政府機関の不必要な拡大をもたらすだろう。もっと簡便で、もっと穏健な方法で同じことを実行できる。大変革は旧形態の下で最も良く達成できる。必要なことは土地を没収することではなく、地代を没収することである。最高の救済策として、国が課税によって地代を占有することを提案する。さらに著者は、全地代課税によって他の課税を廃止することを提案する。すべての文明国では、土地の価値は統治の全費用を負担するのに充分であると考えるからである(このあたりは安価な政府の前提であろうか)(注1)。
 次に、全地代課税を以下の課税四原則から吟味する。1.生産を阻害しないこと(中立性のこと)、2.簡便性、3.明確性、4.公平性の原則である。1.では、生産を妨げずに収入を徴収できる租税の最大種目は独占への課税である。独占利潤は生産に対するある種の課税に等しいから、それを国庫に振替えるにすぎないからである。土地は占有による純粋で単純な独占下にあるから、その価値は課税に適している。地価課税は、生産を阻害することなく、むしろ投機地代を破壊することにより生産を増大させる傾向がある。2.では、すでに地代の一部を地租として徴収する機関は各国に存在している。一部分の徴収を全部徴収に変更するだけで、別段費用を要しない。3.は略。4.では、共有財産の共同使用への充当である。どの市民も不労所得をもたない。
 リカードは既に『原理』で、地代への租税はすべて地主が負担し、他の消費階級に転化されないと述べていた。彼の地代法則を承認する経済学者達は、地代は簡便性と公正の両面で課税の特別な対象であるとしても、ジョージが達した必然的結論にまで推し進めて考察しなかった。土地私有利益擁護のためか、賃金あるいは貧困原因の誤った経済学説を信じたからである。

 (救済策の影響)
 父ミラボー(elder Mirabeau、訳書は「兄ミラボー」とされているが誤り:重農主義者)は、ケネーの地代単税(one single tax on rent)の提案を、文字の発明と貨幣使用と並ぶ大発明だとした。地価単一税の導入は、富の生産を夢想もできぬ速度で増大させるだろう。そしてこれがまた、社会公共のために徴収される税の源泉である地価を上昇させる。現在、交換を妨げ産業を圧迫している諸税の廃止は、産業の負担を除去し刺激を与え、新たな活動を開始させる。国家が労働者と資本家に全報酬を与えても、国家が取得できる財源がある。それは、生産活動の増加に比例して増加する。課税負担を生産と交換から土地の価値又は地代へ転嫁することは、新たな刺激だけでなく新たな機会も与える。このような制度では、実使用のため以外の土地を保有しないし、現在使用が控えられている土地が改良の為に解放されるからである。土地売価は下がるだろう。土地投機は壊滅的打撃を受け、土地独占は引き合わなくなる。全租税を地価に依存するこの簡便な方策は、実質的には国家に最高地代を支払うものには誰でも土地を競売するに等しく、土地需要が地価を決定するからである。
 地代全部が税金として徴収されるようになると、地代は不平等を惹起するのではなく、平等を促進するようになる。各共同体で生産される富は二部分よりなる。生産者が生産に参加した割合で賃金と利子として分配される部分、および全体として共同体に属し全構成員に公共利益として平等に分配される部分である。また、共同体の物質的進歩は、地代上昇に二重の傾向をもたらす。一つは技術進歩により、地代と同時に、賃金と利子も量的に増加する傾向である。もう一つは土地私有制下で劣等条件に耕作が拡大され、量として地代を増加させ、賃金と利子を低下せる傾向である(いずれの場合も地代割合は増え、賃金・利子割合は減少する傾向がある)。全地代課税は、土地の投機的独占化と地価の投機的上昇をなくすことにより、地代の下落と賃金・利子を上昇させる新均衡を確立する。そして、新均衡下で余計な税負担ない技術進歩は生産力を一層発展させる。賃金と利子を犠牲とせずに地代は増加し、大衆の利益は絶えず向上する。
 大地主は、相対的には損失を被るが、絶対的な利益が存在する。生産は非常に増大するから、土地私有についての損失よりも、ずっと多くを労働と資本について利得する。そして、彼がその一員である共同体全体の利益増大にも与かるからである。土地により多くの租税を支払わねばならないが、動産・不動産課税、家族の衣食住の租税はすべてなくなる。他方、賃金上昇、雇用改善、取引拡大によって収入は増大する。農民にとっても、単一税は大きな利得である。地価課税は小規模な農業地よりも、地価の高い都市部に最も重い。一方、動産と改良への課税は農村にも都市にも課税されないからである。
 現在租税徴収と脱税防止に政府の仕事の3/4を占めている。単一税は行政組織を簡素化するであろう。富の公平な分配は、万人を困窮の恐怖から免れさせ、ちょうど上流階級で食物の貪欲がなくなったように、富への貪欲をなくすだろう。

 現在はダーウィン・スペンサーの進化哲学が支配している。しかし、我々の文明はエジプト古代文明三千年ほどの歴史もない。国民または民族の生命にも、個人と同じように成長だけでなく衰退があるかもしれない。時代的あるいは地理的に異なる文明段階にある諸共同体の相違は、それを構成する個々人の相違によるものではなく、社会に備わった知識、信仰、法律、制度等のネットワークまたは環境の影響力の相違である。それでは文明の相違、その進展と退化を説明する法則とは何か。人々の集結と平等が進歩の原理である。人々が一層緊密に結合し相互に協同することによって、改良に向けた精神力を増大するにつれて、文明は進歩する傾向がある。だが、闘争が起きるか、人々の地位と力の不平等が拡大するにつれて進歩傾向は弱まる。奴隷制国家は、かつて発明的国家であることはなかった。そして社会の発展につれて不平等は広がる傾向がある。人々が社会に集結することによって得られた権力と富は、次第に不公平な分配により社会の進展力を抑制する。それが、文明の停滞と退化を説明する。この原理は提案された土地共有財産制が文明に大きな進歩をもたらすことを証明している。
 富の生産と分配を支配する経済法則を正当に理解すれば、現在社会の欠乏と不正は必然ではなく、反対に貧困がなく人間性の一層の高度な発展する社会が可能なことを示している。人間を総体として考えると経済法則と道徳法則は本質的に一つであることが解る。

 ヘンリー・ジョージは原稿をいくつかの出版社に送ったが、無視されたので、自分で出版する。活字の組版も一部自ら行っている。部数は約200部とされている(一説に500部とも)。初版は標題ページに発行年が1879年とされているのと印刷所が”Hinton”とされているので容易に識別できる。印刷されたものの内、一部は製本せずに出荷された。Hintonが製本したものには、背の部分に”Author’s edition”と金文字が入っている。


"Author’s edition"

  1880年発行”First trade edition”は、初版の版を提供されることを条件にAppleton社で発行されたので、内容は同じとのことである(K.M.Johnson ‘Progress and Poverty---a Paradox’ Museum of the San Francisco のwebsite より)

 米国の書店より購入。図書館に入っている本書を見たことがあるが、装丁しなおされていた。私蔵本は元装のまま。稀覯本思う。

  (参考文献)
1. ヘンリー・ジョージ 山嵜義三郎訳 『進歩と貧困』 日本経済評論社、1991年
2. J.K.ガルブレイス 鈴木哲太郎訳 『経済学の歴史』 ダイヤモンド社、1988年
3. 徳富健次郎 『巡礼紀行』 中央公論社、1989年
4. 山嵜義三郎 『ヘンリー・ジョージの土地制度改革論』 泉谷書店、1961年
3.マーク・ブローグ 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1989年




標題紙(拡大可能)


(2004/8 記、2022/5/19 徳富蘆花の部分およびHP内の形式統一のため参考文献欄を追加、2023/12/28全面改稿)



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