ENGELS, FRIEDRICH,
The Condition of the Working Class in England in 1844 with Appendix written 1886, and Preface 1887, translated by Florence Kelley Wischnewetzky, New York, John W. Lovell Company,1887, pp. vi+199+ix+ii,8vo

 エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』 、1887年刊米国版初版(初版は1845年刊)。
 著者略歴:エンゲルス、フリードリッヒFriedrich Engels(1820-1895)。ライン川支流ヴッパー川に臨むバルメン(エルバーフェルト等と合併、「空中鉄道」で知られる現ヴッパーダールとなる)の産。曾祖父から続く織物工場を経営する同名の父フリードリッヒと母エリーゼとの間に生まれる。父は「改革派福音主義」を奉じた敬虔なプロテスタントであるが、娯楽を排斥する同派にあって、楽器の演奏を嗜む趣味人でもあった。母は学校長や学者を輩出した知的な家系の出身である。後、過激化した息子は勘当同然であったが、母は息子の無心に、文句を言いながらも、密かに送金を続けた。長男の彼には、3人の弟と4人の妹がいた。
 ラインラントはウィーン会議の結果、飛び地のプロシア領となっていたが、産業化・都市化が進み、ヴッパー川は汚染され、人口も稠密であった。バルメンは、本書の舞台となるマンチェスターの小型版の様相を呈していたのである。家業は家族的経営であり、エンゲルスは職人たちの中で大きく成って、階級的偏見を持たずに育った。地元の都市学校(スタットシューレ)を経て、14歳でエルバーフェルトの名門ギムナジウムに転校、ドイツ古典と文学史へ熱心に取り組んだ。大学で法律を学びたいという本人の希望と学校での優れた評価にもかかわらず、父親は卒業前1837年に、息子を家業に従事させるべく退学させた。
 親元で1年の修行の後、38年父親とロンドンに出張の帰途、港湾都市ブレーメンに留まり、輸出業者ロイポルトの下で見習修行を続ける。当所で、厳格な宗教的環境から離れて自由を満喫する。快適な職場では、輸出入、通貨取引、関税の実務を通じて資本主義のメカニズムの詳細に通ずる。一方、私生活ではダンス、乗馬、音楽、文学等をたしなんだ。 文学サークル「青年ドイツ派」(ユンゲスト・ドイチェランド)を通じて当時の進歩思想に接近した。匿名(後フリードリッヒ・オスヴァルド名義)で評論「ヴッパータールだより」を同派の新聞『テレグラフ・フュア・ドイチェランド』に発表するようになる。そこでは、「エンゲルスは人びとのあいだに入ってゆき、驚くほど熟考された社会・文化の報道記事を書きあげた。貧困の本質やプロレタリアートの意味に関する上から目線の社会理論は、この工場主の息子には見られなかった」(ハント、2016、p.53-54)。すでにして、本書のスタイルが見出せる。しかし、社会批判の対象は、資本主義というより宗教(敬虔主義)に向けられていた。エンゲルスは、シュトラウスの『イエス伝』を読むことにより、次第に宗教のくびきから解放されるようになる。
 バルメンに戻ったエンゲルスは、家業に飽き足らず、41年ベルリンでプロイセン近衛砲兵隊に1年間の志願兵となった。兵舎暮しから下宿に移ってからは、軍務の合間にベルリン大学に通った。ヘーゲル批判のシェリングの哲学講義を聴講する。そこには、ブルックハルト、バクーニンやキェルケゴールが席を並べていた。夕べには、ブルーノ・バウア等の青年ヘーゲル派の「ビール知識人」と交流する。「ベルリンに滞在する表向きの任務はプロイセン王室を擁護するための軍事訓練だったが、エンゲルスはその王室を覆すための思想上の武器を身につけることに時間を費やしていた」(前掲書、p.67)。ホイエルバッハの書物を通じて唯物論に、モーゼス・ヘスを通じて共産主義に接近した。
 42年兵役を終え帰郷したエンゲルスを、父親は「エルメン&エンゲルス商会」のマンチェスター工場に送り出した。当商会は、父親がオランダ人のエルメン兄弟と共に設立した紡績業の合名会社である。エンゲルス家の利益代表としての役割と経営を学ばせるためにであるが、なによりも息子を「これ以上、危険なことに足を踏み入れさせないために」との思いがあった。しかし、父親の願いもむなしく、英国赴任途中ケルンで、エンゲルスは『ライン新聞』の編集長マルクスを訪問する。初めての出会いである。
 マンチェスターは英国、すなわち世界の商工業の中心地であった(かつて大阪は「東洋のマンチェスター」と称された)。いやしくも産業化のことを考えようとする者にとって、思想家であれ権力者であれ、是非とも見学したい町である。トクヴィルしかり、ビスマルクしかり。図らずも、エンゲルスは、この町を存分に観察することが出来た。「ヴィクトリア朝時代のマンチェスターについて、われわれが知っていると考えることのじつに多くがそれ自体、エンゲルスの産物であり、彼が書いた痛烈な文章なのだ」(前掲書、p.109)。エンゲルスは、滞在20ケ月で本書を上梓したが、結果的には前後20年にわたって居住することになる。週末には、ロンドンやリヴァプールに出かけ見聞を広めた。マンチェスターでは、最初の愛人メアリー・バーンズと同棲する。アイルランド人であり、エンゲルスの工場の女工ともいわれるが、資料がほとんど残っていないので良くわからないらしい(注1)。
 確かにマンチェスターは工業化都市の極北を示していたが、それを鮮やかに切り取って見せたのはエンゲルスの才筆である。自ら観察した資本主義の惨状と階級分化の事実を、ドイツ哲学と結びつけたとき、共産主義思想は新たな段階に入った。資本主義によって疎外されたプロレタリアートが、共産革命の歴史的役割を担うとの本書での認識は、さらに「国民経済学批判大綱」となり44年『独仏年誌』創刊号に掲載される。
 44年8月離英、帰国途中パリでマルクスに再会する。あらゆる理論分野における一致を両者は確認し、以後「女の愛を超える結びつき」(ジュリアン・ハーニー:チャーイスト新聞編集者の言葉)を生涯継続する。バルメンに帰ったエンゲルスは、封建的なプロイセン政府に反対する政治運動に参加し、危険分子とされた。父親からは生活費を絶たれ、書斎にこもって本書の執筆に専念する。
 45年4月、親の体面を推しはかってか、エンゲルスはベルギーに行き、パリから追放されていたマルクスに合流する。二人は直ぐにイギリスへ渡る。図書館で経済学書を研究した。彼らが通ったマンチェスターのチータム図書館の閲覧室のアルコーブは、大英図書館G7席とともに、マルクス詣での巡礼スポットとなっている。メアリー・バーンズと再会、彼女はその後エンゲルスとほぼ行動共にする。8月ベルギーに戻り、マルクスと『ドイツ・イデオロギー』を執筆(生前出版されず)。46年「共産主義通信委員会」を設立、ヨーロッパ社会主運動の連携を目指した。エンゲルスはパリに転居、女遊びも盛んであった。47年、別の社会主義運動組織「共産主義者同盟」(「義人者同盟」を改称)から招かれ、第一回ロンドン大会に参加する。同盟にマルクス主義を売り込んだ。エンゲルスは、第二回大会に提出するため『共産主義の原理』を執筆、大会で承認された。大会は改めてマルクス・エンゲルスに理論的・実践的な党綱領の起草を委嘱した。『共産党宣言』(1848年出版)である。
 そして革命の年1848年である。マルクス・エンゲルスは官憲の眼をかいくぐって逮捕を逃れ、ヨーロッパを駆け抜けた。革命を実現すべく政治・宣伝活動、軍事行動を試みた。マルクスはケルンで『新ライン新聞』を発刊した。49年エンゲルスは蜂起した故郷エルバーフェルトのバリケードに乗り込んで一隊を指揮するも、路線の対立から追放される。バーデン=プファルツ選帝侯領の反乱には革命軍の副官となり、四つの戦闘に参加したが、スイスに敗走する結果に。マルクス・エンゲルスは大陸から追放されてイギリスへ逃れる。
 渡英直後は、親に頭を下げて、自分とマルクスの生活(と彼の理念)を支えるために、家業に戻るほかなかった。彼のお気に入りの妹マリーが間に立ってくれた。最初は、すぐに闘争現場に戻れるよう、臨時働きであった。給与はなく、父親の利益分配の一部を貰っていた。「誰もが予期しなかったことは、エンゲルスが仕事においてこれほどの勤勉さと効率のよさを示すようになることだった」(前掲書、p.247)。商会での役職が向上して、収入が増え、実際にある程度マルクスを援助できるのは52年以降であるが、彼は年収半分以上を、マルクス家に送金していた。20年間の額は今日の30~40万ポンドになるという。バリケード上に赤旗を翻させて10年も経ずして、革命家は今やマンチェスター社会の名士となっていた。最高位貴族の参加する狩猟大会チェシャー・ハウンズで巧みに馬を乗りこなす常連であり、名門のクラブの会員であり、文芸クラブの会長、さらにはマンチェスター王立取引所の会員でもあった。郊外の健康的な住宅から通うエルメン&エンゲルス商会の勤勉実直な社員となっていた。それにもかかわらず、19年続くこの時代は、彼の中では、生涯でもっとも惨めな時代であった。
 ロンドンのマルクスとは、郵便で書簡を交わした。大英帝国の郵便制度は、切手(全国一律1ペニー料金)と郵便ポストで象徴される郵便改革が実施され(郵便職員には、トロロープのごとき生真面目人がいた)、夜半にマンチェスターで投函すれば、翌日昼までにロンドンに到着したという。書斎人マルクス会社員エンゲルス双方にとって、手紙は大きな慰めであった。ただし、当局の検閲を疑って偽装し用心したことは言うまでもない。この19年間に、ほぼ毎日のように交換された大量の書簡は、後にエンゲルスが自分の私生活に触れたものを多数焼却したにもかかわらず、マルクス=エンゲルス全集中書簡集で6巻分の大半を占める分量である(1,300通以上とされる)。
 「いま、ぼくは三人の若造を監督しなければならず、そのため検査、訂正、叱責、命令は果てることがない。そのうえ粗悪な紡糸や納期の遅れについて工場主と闘争」(1856年11月17日付:マル=エン全集第29巻、p.66)せねばならない。「僕が毎日八時までは商売にあくせくし、夕食などをすませると、10時まえに仕事を始めることは不可能」(下線引用者:1857年3月11日付、前掲書、p.86)とマルクス宛書簡でこぼしている。パートナーとなる以前の管理職時代で、午前10時から午後8時の10時間勤務(田中、1992、p.11)。昼は綿業工場主、夜は革命を画策する社会主義者という二重生活である。家も表の顔用と私生活用の二軒を保持していた。愛人メアリー・バーンズと妹リジーが実生活を支える。その多忙の中で、『ニューヨーク・ディリー・トリビューン』のマルクス寄稿を代筆し、マルクスには資本主義企業経営の実態を教示しつつ、とかく移り気なマルクスを『資本論』執筆に専念させようと努力する。さすがに頑健なエンゲルスも一時体調を壊している。エンゲルスは軍事評論が自慢で、53年には厭な現職を辞めて、ロンドンの新聞の軍事通信員になろうとさえしている。
 63年、ほぼ20年の月日を共に過ごした愛人(内妻)メアリー・バーンズ死亡。ほどなく、メアリーの妹で家政婦のリディア(リジー)を内妻とする。ヴィクトリア時代には死亡した妻の姉妹で、寡婦や未婚の者と結婚することは普通にあった習慣であったそうだ。
 69年49歳の時、マルクス家に年350ポンドの援助で生活できるかを確認して、商会の共同経営権を一時金12,500ポンド(現価約£120万)で売り渡す。やくざ仕事から手を引いたのである。ちなみに、エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』で、最後の仕事から帰宅する際、エンゲルスが歌う鼻歌が遠くから聞こえる描写は、とりわけ私には印象的であった。ハントの伝記でも同じような場面から一巻が始まる。
 70年ロンドンへ転居し、マルクスとは毎日のごとく行き来できるようになった。エンゲルスは、職業生活からのしがらみから解放され、運動の戦列に加わる。リージェンツ・パーク・ロード及びブリムローズ・ヒルの自宅は国際社会主義運動の指揮所となり、ヨーロッパ各国からの郵便が届いたが、語学に堪能なエンゲルスは、書かれた言語で返信できたという。自宅はまた社会主義運動の闘士の出入りする梁山泊となり、エンゲルスは酒食でもてなした。78年内妻リジーが死亡。死の直前、リジーの希望に応えて、唯物論者・無神論者にしてブルジョア的家族形態を否定してきたエンゲルスが、近くの教会に走って牧師を呼び、15年の関係を結婚という正式なものとしたのである。このあたり人間的で、小生が好ましく思うところである。リジーの死の精神的欠落は、リジーの姪である若い家政婦メアリー・エレン(パンプス)が埋めた。
 83年マルクス死去、喪主を務める。マルクス家の家政婦ヘレーネ・デムート(ニム:マルクスの庶子ヘンリー・フレデリック・デムートの母親であり、その子をエンゲルスがわが子として認知した)を引き取り、二人して、マルクスの思い出に耽る。エンゲルスは、自分の著作を犠牲にしてまで、『資本論』第二、第三巻の刊行のため、遺稿の編集に注力する。84年『家族、私有財産および国家の起源』出版。視力の衰え、リューマチに悩まされながらも、88年アメリカ・カナダをお忍びで旅行、この旅行は健康にも好結果をもたらした。89年第二インターナショナルが設立され、以後終生指導を続けた。時あたかも、イギリスにも社会主義運動の興隆が見られるようになった。マルクスを信奉・援助し、自ら「第二バイオリン」と称したエンゲルスは「第一バイオリン」となり、名士として各地で歓迎された。家庭的には90年ニムの死により、その後釜には離婚したカウツキーの前妻ルイーゼ・フライベルガーが座り、家政を切り盛りした。マルクスの娘エリノアやラウラ、そして妻の係累パンプス(花嫁修行をさせて嫁がせている)を実子のごとく愛でたエンゲルスは、彼女らとその子供たちと共に過ごす時間をこよなく楽しんだ。その反面、彼女ら及びその夫らの事業の失敗を穴埋めするため、度々多額の金銭援助を余儀なくされた。下世話にいえば、やさしい叔父さんは、甘く見られて、たかられたのである。マルクスの娘たちからは「エンジェルス(天使のおじさん)」と文字って呼ばれたそうである。
 95年食道がんのため死去。遺骨は遺言に従い、ドーヴァ海峡イーストボーンの沖合に沈められた。死して後も、自己に注目が集まりマルクスの栄光を弱めることのないようにとの配慮であった。遺産は相続税を除いて20,378ポンド(現価$400万とのこと)あった。エルメン&エンゲルス商会の手切金12,500ポンドは相当増えている。エンゲルスは、『エコノミスト』を熟読する有能な証券投資家でもあった。遺産には26,000ポンド(現価£220万)の株式があったことが判明している(注2)。遺産は主にマルクスの娘たちとルイーゼ・フライベルガーに分かたれた。娘らとその夫たちに対する多額の貸付金は免除された上にである。小生はうかつにも、経済学者で金銭の才のある者は、リカードとケインズだけだと思っていた。額の桁がちがうとはいえ、エンゲルス(経済学者であるかどうかは別として)もそうであることを知った次第である。
 ハントの伝記の原題は、英国版は「フロックコートを着た共産主義者」、米国版が「マルクスに将軍と呼ばれた男」である。将軍generalとは、司馬遼太郎によると「諸価値の統合者」という意味があるそうである。反乱軍の指揮官で、軍事評論家でもあったが、社会主義の理論家にして運動指導者、経済学者、社会学者、歴史家、ジャーナリスト、都市計画家であり、多くの言語に通じ(注3)、有能な経営者にして美食家、乗馬の手練れ等々、なにをやらせても一流の仕事が出来た人である。

 本書は、「若書き」の本とされる。ただし、若書きは稚拙かもしれないが、著作者の本質がすでに顕れている。「作家は処女作に向かって成熟しながら永遠に回帰する」という言葉(亀井勝一郎らしい)もある。ちなみに、記者は同年代の作家でいえは、村上春樹では『風の歌を聴け』、沢木耕太郎では『敗れざる者』が一番好きである――これは余談。マルクスはいう、「君の本を読み返してみて、僕はしみじみ老年を感じさせられた。今なおこの本のなかでは、何と新鮮に、熱情的に、大胆に先取りして[中略]事物が捉えられていることだろう!」(1863年4月9日書簡:マル=エン全集30巻、p.275)と。エンゲルス者自身も、「よかれあしかれ、この本は、著者の若さの刻印を帯びている」(「ドイツ語版第二版序文」、(下)p.267:以下本書翻訳書からの引用はページ表示のみ)とする。 
 本書初版はライプチッヒで1845年に出され、48年に重刷が出されたまま、出版は途絶えていた。63年4月8日付マルクス宛手紙では、エンゲルスは、本書の新版を上梓すべきでないとマルクスに書き送った(注4)。それが、初版出版から約40年の時を隔てて、1880年代後半から90年代には、新版の出版を承認した。英訳アメリカ版(1887)、同イギリス版(1892)、及びドイツ語第二版(1892)の諸版である。イギリスにおけるプロレタリアの革命運動の衰退が増刷中断の背景にはあったとすれば、復刊の背景には次の事情があった。1880年代至ってイギリスの世界市場の独占が崩れ、ヴィクトリア朝の繁栄は終焉し、不況・失業増大さらには、農業危機が生じた。そうした状況から「社会主義の復活」と呼ばれる動きが起こった。ハインドマンの「社会民主連盟」やモリスの「社会主義者同盟」(エンゲルスも創立に協力)による労働者の「反乱」によって、イギリスのプロレタリアートは、「40年間の冬眠から目覚めた」のを、エンゲルスは感じ取ったである。もちろん、青春時代の作物に対する老境(70歳代)に入ったエンゲルスの、愛惜もあったであろう。

 本書の内容は次のとおり。まず、「イングランドの労働者階級へ」と「序文」がある。実質の内容部分は、ほぼ岩波文庫の(上)巻に対応する総論部分と(下)巻に対応する各論部分に分かれる。前者は、「序説」、「工業プロレタリアート」、「大都市」、「競争」、「アイルランド人の移住」及び「諸結果」の各章である。後者は、「個々の労働部門――狭義の工場労働者」、「その他の労働部門」、「労働者運動」、「鉱山プロレタリアート」、「農業プロレタリアート」および「プロレタリアートに対するブルジョアジーの態度」の各章である。岩波文庫版では、その他に各版に付けられた序文、補遺が収められている。補遺は、1846年に「『イギリスにおける労働者階級の状態』補遺」というタイトルで、独雑誌に分載されたもので、単行本原書には収められていないようである。少なくとも私蔵のアメリカ版、ドイツ語第二版には載っていない。なお、アメリカ版には序文の他に「付録」(Appendix)があり、これはドイツ語第二版の序文とほぼ同内容である。
 本書執筆の目的は、「序文」に書かれている。「とくにドイツにとってのイギリスの典型的なプロレタリアートの状態の叙述は――まさにいまこのときに――重要な意味をもっている」ドイツの社会主義・共産主義は理論から出発しているから、現実を余りにも知らない。「われわれドイツ人はとりわけ、この問題では事実の知識が必要なのである。そしてたとえドイツのプロレタリアートの状態が未成熟で、イングランドのそれのように典型的なものとはなっていないにせよ、[中略]この秩序はおそかれはやかれ、北海の向こう側ですでにたどりついているのと同じ頂点まで推し進められるにちがいない」((上)p.21)からである。

 この本の魅力の一つは「ルポルタージュ文学」としてのそれであろう。浜林他の『古典入門』のカバーの惹句にはこうある「産業革命が創出した大量のプロレタリアートの悲惨な状況と、それに抗する労働者運動を”革命家の眼”で描きだした若きエンゲルスの著作」と。特に前者の描写、労働者階級の日常生活の活写は19世紀初頭のイギリス社会史研究の古典との評価を得ている。労働者状態の描写と、書きながら見せる著者の怒りの爆発は、特に左翼的な心情を持たない人の心をも動かす。ネット上で新訳を載せた山形浩生もほめている。
 エンゲルスは、「わたしは、ロンドンの全労働者が上述の三家族のような不幸な生きかたをしているのだ、と主張しようというのではない。一人が社会によって徹底的に踏みつけられているときに、10人はもっとよいくらいをしていることを、わたしは十分に承知している」((上)p.75)といいながら著者の公憤は容易に収まらないのである。 
 英国滞在20ケ月で本書を書くことができたのは、アイルランド人である愛人メアリー・バーンズの手引きがあったからである。彼女の手引きで、よそ者を排除する貧民窟、特にその最底辺のアイルランド人居住区に、出入りできたのである。本書に描かれた労働者家庭の暮らしも「細かい点がバーンズ家の生活に直接言及したものであることを暗示する文章もいくつか存在する」(ウィトフィールド、2003、p.25)。
 しかしこの本を読んでみて意外に思ったのは、著者が直接採取した労働者の言葉が出てこないことである。労働者の「証言」は、すべて、白書、報告書、新聞、雑誌等からの引用である。あらためて、この本の「直接話法」で記された部分を点検してみたが、エンゲルスが直接聞いたとしているのは一ヶ所である(と思う)。それも、ブルジョアの言葉。産後の女性が、すぐに働かされることを書いた所。「わたしはかつてある工場主が監督にこうたずねるのを耳にした。「これこれはまだ出てこないのか?」/「まだです」/「分娩してどれくらいたつんだ?」/「八日です。」/「それじゃ、あいつはとっくにもどってこられたはずだ。あそこにいる女なんて、ふつう三日しか家にいないぞ。」/「そのとおりで。」」((下)p.16-17)である。
 エンゲルスは、ロンドン・マンチェスターの町をはじめ、多くの貧民窟を歩き廻り、実地調査したことは、その詳細な描写から明らかであるが、貧民へのインタビューはなされなかったのであろうか。あるいは、私が現代のノン・フィクションやニュー・ジャーナリズムの文章に染まりすぎて、登場人物が「みてきたような本当」の言葉をとうとうと述べるのに慣れ過ぎているせいで、そう思うのであろうか。アシュトン(2001、p.7)によると、エンゲルス本人も、本書が「イギリスの新聞や本からの「寄せ集め」であるとマルクスへ大胆にも述べた」(注5)そうだが、実態調査よりも、文献から得たものが多いとは言えるのではないか。

 本書は単なる優れた事実の報告書であるに留まらない。社会主義理論の先駆けとなる文献でもあった。第二バイオリンを自任するエンゲルスは、マルクシズムという曲を、手探りで独奏し始めていた。エンゲルス自身の言葉では、本書で述べられたものは、「胎児的な」もので、マルクスによって科学にまで高められたとして、次のように述べる。「この本の一般的な理論的立場―哲学的、経済的、政治的な点での―が、わたしのこんにちのそれとけっして正確には一致しないことを述べる必要は、おそらくほとんどなかろう。[中略]以来それはとりわけ、またほとんどもっぱら、マルクスの業績によって一つの科学にまで育成されたのである。私の本は、社会主義の胎児的な発展の一面をあらわしているにすぎない」(ドイツ語第二版序文:(下)p.275)。
 そもそも、マルクス主義とはなんだろうか。『哲学・論理用語辞典』では、次の三部門からなるとする。1.唯物弁証法、2.経済学、3.科学的社会主義、である。良く知られているように、レーニンも同様の構成部門からなると規定し、その源泉をⅠ.ドイツの古典哲学、Ⅱ.イギリスの古典派経済学、Ⅲ.フランス社会主義に求めている。これに加えて、Ⅳ.空想的社会主義をあげる入門書もある(水田、1971、p.26)。いずれにせよ、唯物弁証法を唯物史観ととらえ、経済学の根幹を剰余価値理論および恐慌による資本主義崩壊理論とし、そして社会主義を社会革命による資本主義からの移行と見ると、エンゲルスのこの書には、すでにこれらが萌芽的な形ながら、すべて出揃っているように思える。
 順に本書から拾い上げてみる。まず、唯物史観である。エンゲルスは産業革命の意義を説く。ちなみに「産業革命」なる術語は、トインビーによって学会に定着したといわれるが、エンゲルスのこの本での使用によって広まったともされる。「イングランドの労働者階級の歴史は、前世紀後半、すなわち、蒸気機関と綿加工機械の発明とともに始まる。周知のように、こうした発明がきっかけとなって産業革命が開始された。この革命は同時にブルジョア社会全体もかえたが、その歴史的意義はこんにちようやく認識されはじめている」((上)p.25:下線引用者)。産業革命の生んだ巨大な生産力の歴史的意義を真っ先に認めていた。「要するにこれが過去60年間のイングランドの歴史であり、それは人類史上類例のないものである。[中略]1760年のイングランドと1844年のイングランドのへだたりは、少なくともアンシャン・レジーム[フランス革命前の旧体制]のフランスと七月革命[1830年]のフランスとのあいだのへだたりに匹敵する。しかしこの産業上の大変動のもっとも重要な産物こそ、イングランドのプロレタリアートなのである」((上)p.49:[ ]内は訳者注)。
 そして、この引用の最後の部分にあるように、産業革命が、工業の独立生産者を資本家と労働者に階層分化させることにも気づいていた。「したがってすでに工業では小中産階級が駆逐され、人口が労働者と資本家という対立物に化したように、[中略]仕事を独立していとなむためには大資本が必要となったため、プロレタリアートは以前にはブルジョアジーへの一登竜門にすぎないことが多かったのに、はじめて人口の中の真の固定した階級となったのである」((上)p.50-51)。
 次に経済学の剰余価値理論である。「ブルジョアはプロレタリアに生活手段を供与する。ただし「等価物」と引き換えに、すなわち、彼の労働と引き換えに、である。しかもブルジョアは、まるでプロレタリアが自由意思で行動し、自由な、強制なき同意によって、成年に達した人間として自分契約を結んでいるかのような外観を、プロレタリアにあたえるのである」((上)p.155)。資本主義制度の下で、ブルジョアは、古代奴隷制の場合よりもはるかに有利である。彼らは自由に労働者を解雇することができ、そのことによって財産(投下資本)を失うことはない((上)p.161)。「ブルジョアは商業または工業よってしか資本を大きくすることができない。そしてこの二つの目的のためには労働者を必要とする。利付で資本を投じるときでさえも、ブルジョアは間接的に労働者を必要とする。商業や工業がなければ、だれもブルジョアの資本にたいして利子を支払わないだろう」((上)p.158)。
 資本制の成立によって、「一方では、すべての製造品の価格の急速な下落、商工業の繁栄、保護下にないほとんどすべての外国市場の征服、資本と国富の急速な増加がみられた」半面、「他方では、なおいっそう急速なプロレタリアートの増加、労働者階級にとってのすべての財産と収入の破壊」((上)p.35)という悲惨な状態を呼び寄せるのである。
 そして、恐慌論である。「工業発展の初期には、このような停滞は個別の製造部門や個々の市場にかぎられていた。[中略]個々の小恐慌をしだいに接近させていく競争の集中作用によって、小恐慌はだんだんに結合され、周期的に繰り返される一連の恐慌となった」((上)p.164)。イングランドは繁栄、恐慌の循環を5年周期で繰り返す(後に10年周期に訂正した)。好況期の市場に合わせた生産に応えるべく、労働者の失業予備軍の形成が必要とされる。「商業恐慌はなくならないであろうし、工業の拡大とプロレタリアートの増加とともに、それはますます暴力的になり、ますますはげしさを増すであろう。[中略]プロレタリアートの自立的発展をうながすあらゆる梃のなかで、もっとも強力なものである商業恐慌は、外国との競争や中産階級の一層の破滅と結びついて、この事態によりはやく決着をつけることであろう。人民がこれ以上恐慌を甘受するとはわたしには思えない」((下)p.246)。
 最後に社会主義革命論。イングランドの労働者階級は、自分たちを搾取する富者に対して深い恨みを抱いており、「このうらみはあまり遠からずして―ほとんど計算しうる時期に―革命となって、それにくらべれば第一次フランス革命と1794年も児戯に類するであろう様な革命となって、爆発するにちがいない」((上)p.53)とし、「イングランドのブルジョアジーがよく考えてみないならば―そしてあらゆるところから見て、彼らがそうしないのは確実である―以前の革命とは比較にならないほどの革命がおこるであろう」((下)p.247)とする。社会問題の平和的解決の希望はなく、「残された唯一の可能な方策は暴力革命であり、それはかならずおこらずにはいないであろう」((下)p.181)と断言する。というのは、「ここイングランドほど予言の容易なところはない。なぜならば、ここでは社会のなかであらゆるものがきわめてはっきりと、しかも鋭く発展しているからである」((下)p.248)。

 以下は、執筆当初から40年の星霜を経て書かれた各国版の序文に関連するものである。
 エンゲルスが本書で描いた、むき出しの資本主義は既に変貌した。資本家は劣悪な労働条件下の低賃金で、労働者を搾取しただけではない。現物給与制度(トラック・システム:「鉱山プロレタリアート」の章)と小屋制度(コテッジ:「大都市」の章)でも搾取した。工場付属の売店で商品を購買することを強制し、工場主の所有するコテッジを賃借することを雇用の条件とした。いずれも、労働者には廉価なものを選択する余地がない。その後のチャーチスト達の労働運動の高まりもあって、現物給与制度は消滅し、10時間労働法が議会を通過した。「イングランドがわたしの描いた資本主義の若い段階を脱した」((下)p.273)のであり、「この本に書かれた状況はこんにち―少なくともイングランドにかんしては―大部分が過去に属する」((下)p.268)。
 その過程は、また労働法規を遵守できない零細な同業者を没落させ、巨大資本に利するものであった。資本の集中を招いたのである。大資本家はストライキを認めるようにさえなった。「正義と人間愛とに対するこれらすべての譲歩は、実際には、まさに少数者の手中への資本の集中をはやめ、そのような特別のかせぎがなければいきていくことのできない、より小さな競争者を抑圧する手段にすぎなかった」((下)p.271)。
 しかしながら労働者階級にとって、剰余価値を搾取され、賃金は生存水準に留められるという状況に、いささかの変化はない。「労働者階級の困窮の原因を、あのような小さな弊害にではなく、資本主義制度そのものに探し求めねばならないという重大な基本的事実が、ますます前面に出てきている。[中略]そしてこの結果をもたらしたのは、あれやこれやの副次的な不服点ではなくて、ただ一つ、制度そのものである」((下)p.272)ことが明らかである。マルクスの理論は「資本家をふくめ社会全体を、現在の圧迫された状況から解放することを最終目標とする一つの理論である[中略]労働者階級はともかくも社会的変革を単独で開始し、遂行しなければならないだろう」((下)p.276)。資本主義生産は永遠の拡大を継続することは不可能である。その崩壊、恐慌がその契機となるであろう。
 さきに本書の復刊をエンゲルスが認めたのは、英国における社会主義運動の興隆がその背景にあると書いた。そしてエンゲルスにとって残念なことに、それはつまるところ社会・経済状況がもたらしたプロレタリアを中心としたものではなかった。モリスのようにプチ・ブルジョアが主導する知的あるいは精神的な運動だったのである。「このようなあらゆる恐怖中の恐怖である社会主義は、本当に立派になったばかりでなく、もはや社交界の身づくろいをととのえて、サロンのソファーにぼやっとすわっている」((下)p.288)(注6)状況である。
 それでも、普通選挙によって議会を通じた活動が、社会主義実現の有力な方法であると考えるようになっていた。革命の現状は、暴力的手段によるより、合法的手段による方がより成功しているとみた。後にそのことにより、改良主義的と批判されるのだが。81年の選挙でビスマルクの弾圧にもかかわらず、ドイツ社会主義者労働党(社会民主党の前身)が躍進し、国会の12議席を獲得した時は大いに喜んだ。しかしながらエンゲルスは、選挙が社会主義への捷径と思われる場合はそれを肯定したが、決して革命を放棄したわけではない。将軍自ら革命軍の先陣を切って突撃することを夢見ていたのである。なにせ、衰える身体について彼が最も危惧していたのは、乗馬が不可能になり戦地勤務できないことだった(87年、67歳の時)。

 最後に本書読了後興味を惹かれた所を3点書いておく。
 第一は、英国の労働者の家族状態を観察したことが、後の『家族、私有財産および国家の起源』執筆の一動機となったのではないかという点である。工業の機械化が進み力仕事が不要となると男子は失業し、より器用でより低賃金で雇える女子労働力が求められる。主婦が働きに出て、夫が家事を切り盛りする形態がみられるようになっていた。「多くの場合、主婦の労働によって家庭は完全に解体されてしまうのではなくて、逆立ちさせられる。主婦が家族をやしない、夫は家にいて子守をし、部屋の掃除をし、料理をする。こうした事例がごくごく頻繁におこる」((上)p.272)。エンゲルスは、この状況を観察して家族制度とは何なのかと思いをはせる。「工場制度によって必然的にもたらされる、夫にたいする妻の支配が非人間的であるなら、太古以来の妻にたいする夫の支配も非人間的でなければならない。[中略]現在の社会の家族が解体するならば、まさにこの解体のなかで、これまで家族をつなぎとめてきたきずなが、根本的に家族愛ではなくて、あべこべになった財産の共有のなかに必然的に保存されている私的利益であることが示される」((上)p.278)。ハントの伝記にも同じようなことが掛かれていたので(ハント、2016、p.397以下)、あながちこの感想は的外れでないであろう。『家族、私有財産および国家の起源』(エンゲルス、1965、p.214)では、「女性の解放、男女の平等は、女性が社会的な生産的労働から排除されていて、家事の私的労働に極限されたままであるかぎり、不可能」であると書いている。性差が生物学的ものというより、経済的に生み出されたものであるとのエンゲルスの見方は、フェミニズムも大きな影響を与えた。
 第二は競争の問題である。エンゲルスは競争の廃止を目指していた。競争の廃止はエンゲルスに限らず、広く当時の社会主義者の共通の目標であったと思うが、まだ調べがそこまで及んでいないので偉そうなことは言えない。労働者間の競争は、「ブルジョアの手中にある、プロレタリアートにたいするもっとも鋭い武器である」((上)p.154)から労働組合によって廃棄しようとするのは当然の考えである。しかし、資本家同士の競争も廃棄しようというのである。「必要にせまられて、彼ら(労働者:引用者)は競争の一部だけでなくて、競争そのものを放棄する―そしてまさしく彼らはそうするであろう。労働者はすでにこんにち、競争すればどうなるかということの理解を日々深めている。有産者同士の競争も商業恐慌もたらすことによって労働者にのしかかること、そしてこれもまた排除しなければならないことを、ブルジョアよりもよく理解している」(下線引用者:(下)p.115)とする。
 競争は資本主義と等値とされている感さえある。資本家でもあったエンゲルスは、無政府的生産と資源の浪費を是とせず、合理的に組織された社会(共産)主義社会を求めた。「資本主義生産の不合理性にたいするいかりは、合理的な経営者の眼としてエンゲルスが死ぬまでもちつづけたものであった。エンゲルスの資本主義批判は、基本的にこの観点からおこなわれたといってもいいすぎではない」(浜林、p.23-24)。
 しかし、競争がイノヴェーションを生み出す側面は考慮されていない。競争が技術革新を生み、経済発展をさせる要因としては見落とされている。新機軸による発展よりも計画生産による効率性が、より重視されたのだろう。その場合、短期的な効率はよいが、長期的な経済性は別問題である。ソヴィエト経済体制の崩壊の一因に、技術革新による情報化社会への乗り遅れがあったと思うのだがどうだろう。資本主義の生産力の優越性については大きく評価するエンゲルスではあるが、その発展力をいくぶん静的に捉えているように思える。例えば、次の記述である。「すなわち、穀物法の廃止によって、自由競争、現在の社会状態は頂点にまで押し上げられる。すると既存の状況内ではそれ以上の発展は止まってしまう。そうなると唯一可能性のある進歩とは、社会状態の根底からの変革だけとなる」(下線引用者:(下)p.197)。
 第三は、これは本書自身ではなく参考書に教えられたことである。エンゲルスが描いた当時、労働の雇用関係は結構複雑であったことである。鉱業において、炭鉱夫は家族ぐるみで生産を請負っていた。父親が採掘し、母親・子供が石炭を運搬等の補助労働に従事した形態が多く見られた。また、紡績工業では二重雇用制がみられた。糸が切れた時の糸つなぎ、糸屑拾い、機械の手入れの仕事は、多くは児童が担った。それら過酷とされた児童労働者を雇ったのは直接的には紡績工であり、資本家ではなかった。「工場制がひとりでに近代的な労使関係をつくりだすと考えるのは大きな誤りであって、工場制は前近代的な搾取方式をとりいれつつ成立したのである」(浜林他、p.52)。

 米国の書店より購入。米国版は稀覯で、大学図書館にもほとんど入っていない。ドイツ語初版の古書価は20万円くらいであるが、むしろ、最近アメリカ版初版(1888)に$6,000の値が付いていたのを見た。私は安く買ったが、このイギリス版初版も高価だろうと思う。ドイツ語第2版(これも高い値段がついている)は私蔵している。
(注1)女工であったとすれば、それはエンゲルスにとっても隠しておきたい事実であろう。本書で工場主が女工を自由にし、ハーレム状態となっていると非難しているからである。但し、エンゲルスの名誉のためにいっておかねばならないのは、エンゲルスの仕事は営業・会計部門で、パートナーとなってからも生産部門にはタッチできなかった(従って、ウィトフィールドや田中によると労働者の労働条件に関与できなかった)ことである。工場はただ知り合った場所にすぎないか。
(注2)いずれも、ハントの著書による。数字が不整合と思われる点や、翻訳書が英国版と米国版を併用したせいか、ポンド・ドルが混合する点は容赦願いたい。大体の目安として書いておく。
(注3)70歳の時イプセンを原語で読むため、ノルウェー語を習得した(ウィトフィールド、2003、p.236)
(注4)「僕が自分の著書を否認している、と彼(クーゲルマン:引用者)に教えたやつはいったいだれなのか、知りたいものだ。これについては君があの好人物に蒙を啓いてやってくれるだろう。その新版(これも前提によれば時代に合うどころではないだろう)について言えば、いずれにせよこの時期は適当でない。というのは、今は一切の革命的なエネルギーがイギリスのプロレタリアートからほとんど完全に蒸発しているし、イギリスのプロレタリアはブルジョアジーの支配に完全に同意している旨を言明しているからだ」(強調原文:1863年4月8日付マルクス宛書簡:マル=エン全集30巻、p.2711)。
(注5)アシュトンがいっているのは、1844年11月19日付け書簡(マル=エン全集27巻、p.9-10)の次の箇所と思われる。「僕は耳の上までイギリスの新聞や本のなかに埋まっている。これらのものによって、イギリスのプロレタリアの状態に関する僕の著書をまとめるわけです」。少し強引な解釈とも思える。
(注6)元々は1892年の英国版序文に書かれたものであるが、岩波文庫版では省略されている。補遺として、英国版をもとに書かれたドイツ語版第2版が巻末に掲載されている。そこにも、引用されているのでそれによった。

(参考文献)
  1. ローズマリー・アシュトン 的場昭弘監訳 『ロンドンのドイツ人 -ヴィクトリア期の英国におけるドイツ人亡命者たち―』 お茶の水書房、2001年
  2. ロイ・ウィトフィールド 坂脇昭吉・岡田光正訳 『マンチェスター時代のエンゲルス』ミネルヴァ書房、2003年
  3. エンゲルス 戸原四郎訳 『家族・私有財産・国家の起源』 岩波文庫、1965年
  4. エンゲルス 一條和生・杉山忠平訳 『イギリスにおける労働者階級の状態』(上)、(下) 岩波文庫、1990年
  5. 思想の科学研究会編 『増補改訂 哲学・論理用語辞典』 三一書房、1985年
  6. 田中章喜 「資本家エンゲルス ―フリドリッヒ・エンゲルスとエルメン&エンゲルス、1850-1869― 」國士舘大學政經論叢,4(2), (1992)
  7. トリストラム・ハント 東郷えりか訳 『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』筑摩書房、2016年
  8. 浜林正夫・鈴木幹久・安川悦子 『古典入門 エンゲルス イギリスにおける労働者階級の状態』 有斐閣新書、1980年
  9. マルクス・エンゲルス 大内兵衛・細川嘉六訳 『マルクス=エンゲルス全集 第27巻』大月書店、1971年
  10. マルクス・エンゲルス 大内兵衛・細川嘉六訳 『マルクス=エンゲルス全集 第29巻』大月書店、1972年
  11. マルクス・エンゲルス 大内兵衛・細川嘉六訳 『マルクス=エンゲルス全集 第30巻』大月書店、1972年
  12. 水田洋『マルクス主義入門』 社会思想社、1971年




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(2016/10/27 記、2017/3/21古書価部分を追加、2022/5/19誤字脱字6ケ所を訂正)



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