CAIRNES, J. E. , The Character and Logical Method of Political Economy; Being a Course of Lectures Delivered in Hilary Term, London, Longman, Brown, Green and Roberts, 1857, pp.xii+184, 8vo. ケアンズ『経済学の性格と論理的方法』1857年刊、初版。 著者略歴:Cairnes, John Elliott(1823-1875)。アイルランドのダブリンの北、ラウス(Louth)郡にあるアイリッシュ海に臨むキャッスルベリンガム(Castlebellingham)に生まれる。父ウイリアムはビール醸造業者である。学業を終え、家業とジャーナリズムの仕事に携わった後、ダブリンのトリニティ・カレッジに入学、一般教養と法学を収める。1848年学士、54年修士号を取得。弁護士資格も得たが、法律家としての仕事にはさしたる熱意を持たず、新聞にアイルランドの社会・経済問題を論じることに忙しかった。 ダブリンで、ホエートリーの知己を得、56年彼の創設したトリニティ・カレッジの政治経済学教授職(5年期限)を襲った。講座の規定に従い、初年度の講義を出版したのが、この『経済学の性格と論理的方法』である。61年ゴールウェイのクイーンズ・カレッジの法律学・経済学教授に任命される(70年まで)。62年『奴隷の力』(The Slave Power)を出版、米国南部の奴隷制の経済的基礎を説明し、奴隷経済の前提とその結果を明らかにした。アメリカ連合国(南部)を告発したこの本は広く読まれ、イギリス知識人のアメリカ南北戦争に対する姿勢の形成に大きく影響したとされる。クイーンズ時代の後半、多くのアイルランド土地問題に関する論文を書いた。元々、健康には恵まれなかったが、65年自宅での転倒により一層衰弱した。以後、体は不自由となり病気に研究を妨げられる日常となった。 66年ロンドンのユニバーシティ・カレッジの経済学教授に就任。その後、68-69年にはイタリアでの保養を余儀なくされたが、教職復帰を果たす。72年まで講義を続けるも、健康悪化で務めを果たせず、同年退職。75年ロンドン近郊のブラックヒース(Blackheath)で亡くなる。 晩年は、既発表の論文を編集出版することと、彼の研究の総決算というべき著作の準備に充てられた。73年には、『政治論文集』(Political Essays)と『経済論文集―理論と応用』(Essays in Political Economy, theoretical and applied.)とを上梓。前者は、アイルランドと大学教育に関するものである。後者は、カルフォルニア、オーストラリアのゴールド・ラッシュによる金供給の増加について、貨幣数量説を検証した諸論文(60年頃発表)を含む。彼の方法論を、理論と検証という問題に実際に適用したものである。74年、主著であり最後の著作である『経済学の若干の主要原理の新展開』(Some Leading Principles of Political Economy newly expounded.)を出版、古典派経済学の中心課題である価値、分配、国際貿易についての学説を祖述した。その中で彼の最も独創的とされる貢献は、労働市場における「非競争集団」の理論である。現実には、教育・訓練等の差が存在することから、労働の自由移動が困難である。そのため、労働集団によって賃金率が異なっている。たしかに、上位の技能職の賃金率は非熟練労働者の賃金より高いが、彼らが作る製品の価格格差は賃金格差以上のものがある。しかし、この価格格差は解消しない、労働の移動が自由でないため競争が働かないからである。こうして、商品価値が生産費に比例するという生産費説は修正されるべきだとする。 シュンペーター(1957、p.1122)いわく、「経歴は、その不健康によって災いされたが、これは彼がその偉大な才能を充分に盡しえなかった明白な理由であった。それでも彼は第一線の地位を確保した。すなわち1873年におけるミルの逝去の後で(ジェヴォンズはなお未だその功績に応ずるだけ高く評価されてはいなかった)、何びとが、イギリス第一流の科学的経済学者であるかと問われたときに、だれでも彼の名を挙げたであろう」。 本書はミルの経済学方法論を祖述し、一層精緻にしたものである。ミルの経済学方法論は、『経済学試論集』や『論理学体系』第6編に述べられた。「この問題はケアンズによって一層詳細に『経済学の性格と論理的方法』で議論されているが、これは見事な明晰性をもった著作であり、その論理に関する限り、長い間イギリス経済学の権威ある教科書と考えられた」(J・N・ケインズ、2000、p.10)。シュムペーター(1957、p.1122)も「この書は方法論史における画期的な労作である」と評価する。 科学の方法論は、論理的にはその科学を具体的に研究する前提であり、科学的営為に先行するものである。しかし、現実には方法論的には無意識のまま研究が遂行された後に、むしろ研究の停滞局面において、暗黙裡に前提としていたものを反省することから生まれるものらしい。J・S・ミルはいう、「科学の定義(方法論と読み替えてよいだろう:引用者)はほとんど常に科学そのものの創造に先立たずして、これに随った。都市の壁と同じく、それは通常後に至って立ちならぶ建物のための容器となるためではなくて、すでに存在する集団を囲繞するために設けられた」(ミル、1936、p.157-158)。シーニアとミルによって始められた方法論の研究が、古典派の掉尾を飾り、「最後の古典派経済学者」とされるケアンズの手で、本書により「完成」したのも頷ける。 古典派の方法論といっても、方法論として明確には書かれなかったものを含めて、スミス、リカード、マルサス、ミルの間には大きな相違があった。ケアンズはそれらの相違にではなく、古典派に共通な思考法を取り上げ、外部の批判から擁護しようとしたのである。外部とは経済学に重きを置かない現実重視派であり、経済学者にもまたそれに迎合する風潮があった。彼らは、経済の実態が経済学の原理と相違した場合は、たやすく経済学の理論を否定した。「したがって、ケアンズの方法論は、観察事実から古典派の原理を弁護するという意味で、防衛的な色彩を強く帯びることになった。しかし、そのような弁護論は逆に、経済理論の性格やその検証といった問題について、素朴で楽天的な見解を凌駕する洞察をもたらすことになったのである」(佐々木、2001、p.89)。 以下、主として佐々木(2001)と福原(1966)の著作に寄り掛かりながら、本書内容について紹介する。私蔵初版の紹介のサイトであるので、引用は初版によることにしたが、増補された第二版(London,Macmillan,1875)のみの記述も多く、それからも引用している。第二版からの引用に統一すべきだったかもしれない。 (経済学の定義) ケアンズの経済学の定義は以下の通り。「「経済学とは、人間性の諸原理や、外的世界の物理的諸法則を究極的事実として受容し、それらの結合した作用の結果である富の生産・分配の法則を研究するものである。」あるいは、「経済学とは、富の生産・分配の諸現象を、人間性の諸原理や、外的世界の諸法則や諸事情にまで、その原因を追究していく科学である。」」(本書、p.10:以下本書からの引用はページのみを表示。第二版からの引用も同様)とする。 ここで、経済学は富を研究の対象とするものと考えることは、古典派に共通した考え方である。しかし、ケアンズの富概念は物的生産物に限られ、サービス生産を含まない。ケアンズは、「該科学の主題は富である。そして、富は物質的対象(material objects)よりなるが、それはこれらの対象が物質であるからではなく、それらの有する価値から―すなわち、精神によるそれらの属性を持つこと、からである」(second ed.、p.32)と書く。 経済学史を見るに、すでにセイは価値(効用)を有し、自由財でないものを富とした。重農主義者のように農業生産のみだけを生産的とするのではなく、商工業も生産的とした。のみならず、スミスのように有形的生産だけを生産とするのではなく、無形的非物質的生産をも生産とした。セイは、富を非物質的なサービス生産にまで拡大したのである。シーニアにおいてもまた、富を三条件で定義し、サービスの生産も等しく価値、富を形成するとした(本サイト「シーニア『経済学』」を参照下さい)。現代経済学の富の概念は、セイ・シーニアの方向に進むのであるが、古典派においてはスミス・マルサス・ミル(リカードの考えは私にはよくわからない)のように、富は物質的生産物に限定するのが主流であった。ケアンズは当然この古典派の主流の伝統に立つものである。 (経済学の性格) 次いで、経済学の性格を見る。まず、経済学と科学、精神的科学と物理的科学の関係についてのケアンズの考えを見る。そのためには、ケアンズに先行する古典派学者の考えについても触れねばならないが、長くなるので、詳細は末尾にまとめた。 経済学と、精神的法則と物理的法則の関係はどう解釈すべきか。ケアンズの古典派の先達に対する解釈は、次のごとし。ミルは経済学は精神的・物理的両法則に比較的均等に依拠すると考えたのに対し、シーニアは経済学は主として精神的法則に依拠し、これに関する限りで物理的法則を考慮するというものであった。ケアンズ自身の考えはミルに近かった。「ミルが経済学は「最後に双方(精神と物質の法則)の結果をまとめる」といっている彼の論文の一節にある結論的な文は、私には該科学の働きを正しく述べていると思われる。しかしそれは、その一節に対するシーニア氏の解釈にも明白に矛盾しているように、それに先行する所見の趣旨にも矛盾している」(second ed.、p.30)。いずれにせよ、上記ケアンズの経済学定義に見られるように、経済学の研究対象たる富は、純粋に物質的でも精神的なものではなく、経済法則も精神的法則と物理的法則の両法則に跨るものである。特に、「古典派の方法論者たちは、心理学的なものの見方を経済学の基礎と考えていたが、そうだからといって、経済学を心理学に還元したわけではなかった。彼らは、ここでもまた、経済学の独立性を確保するために、心理学と経済学との間の境界を明確にしようとしたのである。この点を最もはっきりと示したのは、ケアンズであった」(佐々木、2001、p.107)。 さらには、経済学は実証的か仮説的かの問題がある。この問題も、ミルとシーニアとの論争が契機となったものである。ミルは、次のように考える。ユークリッド幾何学が、長さを持つが幅を持たないものとして線を定義した如く、経済学は、最小努力で最大の利得を得るものとして、資本家・労働者・地主等を定義する。「経済学は、想定された諸前提から、事実の中に全く根拠をもたないかもしれず、普遍的にこれと一致していると見做されていないところの諸前提から推論するものである。それ故に、経済学の諸帰結は、幾何学のそれと同様に、普通に言われているごとく、抽象性においてのみ正しい、すなわち一般的原因[中略]しか考慮されていない一定の仮定の下のみで正しいのである」(ミル、1936、p.185:強調原文)。 ミルは、経済学も幾何学と同様に仮説的と考えるわけである。しかし、この仮説的という意味があいまいであった。ミルの仮説には第一に、真であることも既知の事実を説明することも期待されていない、例えば空想上の動物のごとき、「純粋に任意な仮説」の意味がある。しかし、一般に仮説は観察にもとづいて(経験とつながって)いることが求められるから、第二には、夾雑物を排除して現実を理想化した想定という意味がある。ミルにとっては、幾何学の公理や定義さえも、経験から帰納によって一般化されたものにほかならない。 ミルの仮説を第一の意味にとって、エディンバラ・レビューにおいて、ミルを批判したのはシーニアである。シーニアの考えでは、「すべての科学と技術において、これらの源泉は三つのみ―観察・意識・仮説である」(Senior、1852、p.26)。物理的科学は、二次的にしか精神と関係せず、ほとんどもっぱら観察や仮説から前提を引き出す。数量を扱う純粋科学は、すべて仮説から導き出す。物理的技術はほとんどもっぱら観察に基づく。これらと反対に、精神的科学と精神的技術は主として意識から前提を導出する。物理的科学と精神的科学では、実験が可能かどうかでも大きく異なっている(同、p.26-28)。シーニアにとって、仮説は物理科学および典型的には純粋科学の方法であり、精神的科学の方法ではなかった。経済学と幾何学とが共に仮説的方法による類似的な学問である、とするミルの考えをシーニアは批判したのである。 以上のミルとシーニアの意見対立に対して、ケアンズは一つの解決策を示した。二人の対立は、言葉の使用法の問題にすぎないと総括したのである。経済学の仕事は、前提となる事実から結論を導く演繹過程にある。現実世界は複雑で多様であるから、その前提は重要でないと思われるものを捨象した抽象的なものである。そして、その結論は、重要でないとして捨象したものが、攪乱要因として結論に影響を及ぼさない場合に限り現実と一致する。その意味で、経済学の法則は実証的真理ではなく仮説的真理である。「それゆえ、経済学は仮説的科学に分類されるべきことは、私にはまったく正しいと思われる」(p.41)。 実証的か仮説的かの議論は、前提の性格と結論の性格に分離して考える必要がある。自然科学で見ると、前提が任意な数学は、仮説的である。しかし、前提が実証的ではあるが、機械学や天文学は、攪乱要因を無視しているから結論に関しては仮説的である。一方、地質学は演繹的方法を使用するまでに発達しておらず、記述的科学に留まっており、実証的である。経済学については、天文学のように演繹的方法が利用可能な段階に発達した科学である。しかし、その前提は数学のように任意的なものではなく事実に基づくが、結論は観察事実の一般的叙述でなく、演繹されたものである。導かれた結論は、現実的であるとは限らないという意味で、仮説的であると言ってよい(p.37-39)。 経済学の結論が持つこの意味の仮説性については、ミルのみならずシーニアも同意するであろう。しかし、ケアンズの解釈では、シーニアは、「仮説的」という言葉を、結論の性格に関してではなく、もっぱら前提の性格に関して使用したとする。シーニアにとっては、経済学の前提は現実のなかに基礎を置くものでなければならない。前提は、仮説的ではなく実証的である。のみならず、進んでその実証的前提から導いた結論もまた実証的であるとしたのである。このような場合、経済学を仮説的科学とするか実証的科学とするかは、言葉の上の問題にすぎないとケアンズはみたのである。 (ケアンズの経済学主要原理) シーニア経済学の前提、いわゆる「公理的方法」の公理に当たる命題は、『経済学序講』では5命題であった。『経済学』では4命題になっている。それに該当するのが、ケアンズの3基本原理である。「第1に人間に植付けられた富の欲求と労働の忌避、第2に人間の生理的性格と精神的性向に由来する人口原理、第3に人間勤労が行使される自然的要因、特に土地の物理的性質」(p.50)である。すなわち、第1原理は経済人の仮定、第2原理は人口原理、第3原理は収穫逓減の法則(土地についてケアンズはThe law of diminishing productiveness of the soilとしている)を指している。第1原理の経済人の仮定は、ミルによって、初めて自覚的に方法論として持ち込まれたものであり、第2原理はマルサス、第3原理はリカードの名前と結びついている。この意味でケアンズの3基本原理は、古典派の精神あるいは、ヴィジョンを象徴している原理としていいだろう。ちなみに、シーニアが取り上げ、ケアンズが採用しなかった他の2原理は、富の生産要素を将来の生産手段に使用することにより無限に富を増加させることが可能という原理、及び『経済学』では定義に回された富の規定である。 これら主要原理に加えて、富の生産と分配とに影響を及ぼし、主要原理を攪乱したり、その作用を弱めたりする副次的原理(subordinate principles)がある。副次的原因とも称されている。蒸気機関のごとき生産技術の大発見。富を追求する人間行為を変化させる習慣の影響のごとき、社会進歩に応じた動機や行為原則の進展(p.34-35)をあげている。第二版では、この他に、一国の政治的社会的制度、特に土地地代に影響する法律が第一番にあげられている(second ed.、p.43)。 主要原理に戻ると、そのうち2原理について、特に一章(講)ずつを割いて詳述している。「第5講 マルサスの人口学説について」および「第6講 地代の理論について」である(これらの詳細についても、紙幅を考えて、末尾に付記する)。 ケアンズのいう経済学とは、つまるところ、経済現象を分析し、基本3原理からの演繹により説明することではないかと思われる。 (経済学原理) 以上の基本原理に関しては、オックスフォード大学教授リカーズ(G.K. Ricards:リカードと表記が似ているので以下要注意)が、リカードによる地代理論にもマルサスによる人口論にも反対していた。両理論とも、人間の多産性に対する土地の逓減生産性の仮説に立っていると考えるからである。リカーズの見るところ、イングランドでは農業生産性は着実に上昇を続けており、土地生産性の逓増が歴史的事実なのである。「リカーズ氏は農業の生産性逓減が経済学の基本的法則であることを否定する」(p.163-164)。そして、経済法則そのものについても、「リカーズ氏に従えば、「経済法則」は、何か一原因の影響、あるいは既知で明確な諸原因の複合した影響に関して主張することではなく、実際起こった様々な出来事(events)―これらの事件は、多少とも知られているか、あるいは全く知られていない膨大で多様な原因の結果なのである―の秩序(order)の言説なのである」(p.166)。ケアンズにとって、リカーズの主張する農業の進歩(彼のいう法則でもある)は、富の生産と分配と関係したどんな現象にも説明を提供していない。むしろ、それ自身が、経済学者が説明すべき複雑で困難な現象である。リカーズの言説は経済原理による説明をあざ笑う試みに思える。 リカーズに代表される考え方は、いわゆる帰納科学の論理と矛盾し、事物の複合した統合体を単純な原理に分解する(ベーコンのいう「自然の解釈」)試みを断念し、大まかな統計的結果で満足するものである。経済学は単に、富と人口の統計学と同一視されている。そしてこの見方が、敬意を持って一般に受け入れられているのである。これら経験の一般化が究極の事実とされ、複雑な事実を単純な形で再確認する説明に留まるなら、そしてより以上の分析、すなわち、統計的記録に表われた事実の原因と法則に関する説明および分析を断念するなら、経済学の科学的性格は失われる。経済学という学問は、自然を観察するだけでなく、解釈するものであるとの主張は、もはや認められなくなる。しかしながら、分析と帰納的推論の方法なくしては、富現象を説明できないとケアンズは考える。 (経済学の方法) ただし、経済学の帰納的推論の方法は、自然科学の方法とは異なる。物理的発見が常に試みるのは、物理現象の観察と分類であった。それは、原因の存在と性質が確立されるまで続く。この間接的で煩瑣なプロセスに依存するのは、究極的物理的真実は、より直接的な証明を許さないからである。例えば、引力の法則や運動の法則のような物理現象では、究極原因やその作用の様相を直接理解することはできない。これら原因の発見は、それが生む結果からの推測・推定(「自然の解釈」)によって、原因と法則に従う現象自身を解読する努力によってのみ発見される。 だが、この物理的探求方法を経済学には、類推適用できない。富の生産・分配の原因研究においては、我々は原因による作用の様相から、それらを富現象の例証として、推量を行うわけではない。なぜ農業者が穀物を生産するのか、なぜ彼がある土地まで耕しそれ以上耕さないのか研究する場合は、穀物と耕作の統計からはじめて、一方では農民の勤勉を刺激する精神的感情に至るまで、他方では農業の生産性が依存する土壌の物理的性質に至るまで、遡って知識を演繹する必要はない。「なぜなら、もし注意をその主題に向けるなら、我々は心をよぎる意識に、および感覚がもたらすか少なくとも外界の事実がもたらし得る情報に、これらの原因の直接的知識(direct knowledge)を持つか持てるかも知れないからである」(p.54)。 資本投下による土壌の逓減生産性の原理は、感覚判断が可能な実験により確立することができる。それでも、経済学者が実験をしないのは、農業者が彼に代わってこれを行っているからである。経済学の物理的前提は、精神的前提ともども、物理科学の厳正な真理演繹過程とは別物である。経済学者は、自然科学者が困難で回りくどい研究によって到達する地点から出発できる。「経済学者は究極的原因の知識をもって出発する。彼は、すでに企ての出発点において、自然科学者が何世代もの辛苦の研究の後にようやく到達する立場にいるのである」(second ed.、p.75:強調原文)。経済学者は、「一方では、物理的自然を研究するのと比較して、実験を排除されて、そして極端に複雑で変動的な事実を扱うことで、多くの不利益の下で我々は努力してきた。他方、長い帰納的推論の過程による導出を余儀なくされずに、意識からの、あるいは容易に確認可能な物理的事実からの直接的前提により演繹できる特別な便宜を我々は持っている」(p.172)。 すなわち、「私は経済学を富の生産と分配の法則を研究する科学、外界の実際の環境下で作用する人間性の原理から由来するものとして定義した。これらの精神的原理と物理的状態は、経済学者によって究極の事実として、彼の推論の前提として受け取られ、それ以上は富現象の原因追究に関係しないとされたことも、私は述べた」(p.50)。 さらには、経済学者は、帰納的推論において別の方法も持っている。上に、経済学者は実験から排除されていると書いた。しかし、それに代わる経済学の方法を、ケアンズは「精神的に制御された実験(experiment conducted mentally)」または「仮説的実験(hypothetical experiment)」(second ed.、p.80)と呼ぶ。普通にいえば「思考実験」のことであろう。「思考実験」なる便利な言葉は、マッハが『力学史』(1883)で最初に使用した(そしてアインシュタインの名と共に知られる)もので、当時はなかった。自然科学では、実験は文字どおり実際に行われるものであった。「経済学者は実験の使用を排除されている。しかしながら、この強力な道具に対する下等な代替物が使える。[中略]経済研究の目的の観点から組み立てられた仮説的事例の使用について言及する。実際には目的に適した条件を作ることはできないが、経済学者はこのような条件を彼の想像上の光景(mental vision)として描くことは妨げられないし、あたかも現存するとして推論することも妨げられない」(second ed.,p.77-78)。もちろん、下等な代替物であるからには、「仮説的実験には、論証過程で、存在すると想定された諸条件を見落とす危険だけでなく、考慮はしたが特定原因の作用によって推論を誤る危険も常に存在する」(second ed.、p.80)。それでも、「このようにして、仮説(的実験:引用者)は経済学研究において、一種実験の代替物として役立てることができる。そして、実際のところ、該科学の少なからぬ重要な学説が作り上げられてきたのは、この手段によってであった。この特段の方策を最も自由にかつ最も効果的に使用した著作家は、リカードである」(second ed.、p.81)。 (法則と現実) こうして得られた、経済法則とは、ケアンズの考えでは、ミルに倣って、他の攪乱原因により妨げられないときに、ある既知の原因が及ぼす富現象への影響のことである。「以上から次の結論に達した。すなわち、経済法則は、現象が生ずる秩序を表現するのではなく、現象が従う傾向を表現する。それゆえ、外的事象に適用される場合、経済法則は、攪乱原因がない場合にのみ正しいのであって、結果的に実証的真実ではなく仮説的真実を表す。経済法則は、一定の精神的および物理的諸原理からの必然的結果によって演繹され、想定する前提諸原理の存在を立証すること、および、主張する諸原理に伴う傾向の論理的必然性を提示することによってのみ、立証可能である。そして、原理が存在しないか、その推論が不正であるかによってのみ反駁される」( p.77)。 経済学の法則は、思考の上で攪乱要因を排した理想的な状況を作り上げた中で成立するものであるから、現実の攪乱要因が影響する観察事実とは合致しない場合が間々生じる。逆にいえば、経済法則は経済の現実によって、直接否定はされないのである。経済法則による予測が外れたとしても、想定外の攪乱要因によるものであり、その法則自体が直ちに修正される必要はない。法則は、原理の存在を認めるとすると、論理的にのみ否定できる。当時の経済事実の重視、理論軽視の風潮のなかにあって、ケアンズは方法論的には事実による法則の反証は不可能として理論を擁護した。 このことは、経験科学の境界設定を「反証可能性」に置くカール・ポパーの科学論を思い起こさせる。ポパーによれば、観察と衝突しうる主張をしている場合のみ科学的である。反証可能性が経験科学を形而上学や数学・論理学と区別しうる。論理的で高度の確かさを持ち、すべてを説明する理論は、内容が空疎で実際には何事も説明していないとする(『科学的発見の論理』)。ポパーから見ると、ケアンズいう経済学の法則は、経験科学ではないのであろう。また経済学の「公理主義」というと、シーニアと結びつけられているが、ケアンズはシーニア以上に公理主義的かもしれないと思えるが、このあたりは勉強が足りないので感想だけにとどめる。 [付論1]((完成期古典派経済学者の経済学の性格についての考え方―精神的科学か物理的科学か―)) まず、シーニアである。『経済学入門四講』(1852)から抜書きする。 経済学が精神的研究か物理的研究かという一個の実際問題について、「疑いもなく、経済学者は物質を多く扱う。物質的富の生産に伴う現象が、彼の多く注目することである。そしてこれらは主として物質法則に依存する。機械の効率性、生産性の逓減、ある環境の下での、土地への継続的資本投下、そして人類の生殖力と寿命、これらはすべて経済学の重要な前提であり、物質法則でもある。しかし経済学者はこれらを説明に役に立つ精神的法則に関してのみ論ずる」。もし経済学の主題が富の生産に伴う経済現象とするなら、経済学体系は機械学、航海術、農業、化学等、ほとんどすべての物理科学と技術の論文を含まねばならない。なぜなら、富に役立たない科学・技術はほとんどないからである。しかし、経済学者はこれらを詳細には述べないか、控えめに説明する。経済学者は、蒸気機関の機械学的・化学的法則を述べようとせず、それらを物質法則として省く。しかし、知識が許す限り、機械家が蒸気機関を建造し、労働者がそれを運転する誘因となった動機を説明する。これらは精神法則である。彼は、地質学者に石炭形成の物質法則、化学者にその構成元素の識別を、技術者に抽出手段等々の説明を任せる。経済学者が自分自身に残すのは、地面の所有者が、牧場を荒れるに任せても、鉱物を採掘することで償うことを認める精神法則の説明である。資本家が自身の直接的快楽にも使える基金を立坑や坑道の開削に使用し、労働者が労苦と危険に満ちた仕事をする精神法則である。そして、かれらが共同して獲得する生産物あるいは生産物の価値を三階級に分割する割合を決定する法則、また精神的法則である。経済学者が、前提として使用する事実は物理科学から提供され、それらを説明しようとはしない。彼は経験を述べるだけで満足する。もし証明しなければならないなら、出来る限り人間精神のうちにその証明を求める。こうして、一定量の土地に対し、労働を無限に投下しても、比例的収穫が不可能なことを彼は説明する必要がない。これが事実と認めだけで充分である。そして、さもなければ、人間性の原則から、最も肥沃で最適な土地以外は耕作されないことを示すことで、これを証明するのである。それゆえ、経済学の術語は、需要、効用、価値や制欲のように純粋に精神的な思想を表すか、富、資本、地代、賃金や利潤のように、その一部は物質的な、人間精神のある種感情の原因や結果となる限りで経済学者に考慮される対象である。(Sinior、1852、p.32-35)。高橋誠一郎(1929、p.11)によると、シーニアは後年もっと端的に「経済学は、富の生産及び分配を律する諸法則を、それ等が人心の活動に依存する限りにおいて叙述する科学と定義される」とした(注)。 次いで、 ミルである。最初は『経済学試論集』(1844)所収の「経済学の定義について、およびこれに固有なる研究方法について」から。 物理的科学、および道徳的(moral)または精神的(mental)科学という、「我々の知識のこれらの二つの部門の差異は両者の関係する研究対象のうちにあるのではない」。精神の法則と物質の法則は、性質が著しく異なるので、研究を分離せざるを得ない。物理的諸科学とは、物質の諸法則、およびそれに依存するすべての複合的諸現象を論ずるものであり、精神的または道徳的科学とは精神の諸法則、およびそれに依存するすべての複合的諸現象を論ずるものである。そして、「富の生産の法則は、経済学とほとんどすべての物理的科学との両者の研究対象である。これらの法則のうち純粋な物質的法則は物理的科学に、しかもこれにのみ属する。そのうち人間精神の法則であるものが、そしてこれのみが経済学に属し、経済学は両者を併せての結果を終局的に概括する」。「従って、経済学はすべての物理的科学を予想する。それは、これらの科学の真理にして人類の欲望が必要とする諸対象の生産に関係ある総てのものを承認されたものとみなし、[中略]それは、次いで、同じこれらの対象の生産および分配に関係ある精神の諸現象が何であるかを研究する。それは、精神の純粋科学からこれらの現象の法則を借り来たって、さきの物理的諸法則と競合して作用するこれらの精神的法則から如何なる結果が生ずるかを研究する」(ミル、1936、p.164-171)。 『経済学原理』(1871、第7版)では、「諸国民の経済状態が、物理的知識の状態によるものであるかぎり、それは物理的科学およびこれに基づく技術上の問題である。しかしその原因が道徳的ないし精神的要因にして、制度および社会関係または人間性の原理に依存するかぎりにおいては、それらの探求は物理的科学に属さないで、道徳的ないし社会科学に属し、いわゆる経済学の対象をなすのである。[中略]経済学は、このような外的自然の諸事実と人間性に関する諸真理を組み合わせ、富の生産を決定する第二次的または派生的法則を突き止めようと試みる。その中には、過去、現在の貧富の差の説明と、将来のために富の貯蓄をいくらかでも増加させる根拠がある」(ミル、1959、p.61-62:一部訳文を改変。強調原文)と。 [付論2]((第5講 マルサスの人口学説について)) 第5講の標題は「人口学説」(doctrine of population)となっており、「原理」となっていない。ケアンズは「マルサスは、人口原理(principle of population)を、もしその作用が制限されないなら、その速度に併せて食料が増加できないような力として示した」(p.113)というように、アメリカ植民地で見られた25年で倍増する人類の潜在的な増殖能力または増殖性向を、人口の原理とした。一方、「名高いマルサス学説は、次の効果があるとされる。すなわち、「すべての生命体はそのために用意された食料を超えて常に増加する傾向」がある、特に人類を参照するなら、「人口は生存資料より早急に増加する傾向がある」と」(p.116)するように、人口が生存資料よりも早く増加する傾向のことを人口学説とした。 シーニアの場合は、その人口命題は、「四基本命題中の第二、即ち、世界の人口、換言すれば世界の住民数は、ただ道徳的あるいは肉体的害悪か、もしくは各階級の住民各自の習慣上必要な物品の不足の懸念によってのみ、制限されること」(シーニア、1929、p.64-65)に見られるように、人口抑制要因までを総合したものであった。対するに、ケアンズは人類の潜在的増加傾向そのものを主要原理とした。当然、彼にとって人口の抑制要因は副次的原理となろう。 実際には、マルサス人口学説は、人口が食料より急速に増加することを主張するものではなく(それは物理的に不可能)、またその表現に食料自身も「増加する傾向がある」と読める点に不満を漏らしている。しかしながら、マルサスの主張し、彼の論文が証明しようとしたのは、種の増加が依存するところの人間性の性向、および外界の実環境と使用可能資源の処分能力を考えると、人間は生存手段が増加可能なよりも急速に増加する傾向が常にあることであったとする。ケアンズは、人口学説を「人口原理」の形で、主要原理として採用する。 [付論3]((第6講 地代の理論について)) 「第6講 地代の理論について」におけるケアンズの所説を以下に摘記する。 地代理論の目的は、地代の事実とその水準の決定条件を説明することである。重農主義者は、地代を農業生産性の優越性に求め、スミスは、さらに人間の食料需要の大きさに求めたが、価格水準がなぜ通常利潤と生産費を超え、恒常的な剰余価値を発生させるかの理由を説明できなかった。この疑問に対してアンダーソンが最初に答え、リカードが生産・分配の法則に与える影響を掘り下げた。その答えは、農産物が異なる費用で栽培されることである。それは、異なった土地の肥沃度の違いのためであり、同じ土地でも生産費が異なるためでもある。農産物価格が最大経費で栽培される穀物部分の費用と普通利潤を償えるようなら、それはより少ない経費で栽培される穀物部分に対し費用と普通利潤を償う以上のものとなるだろう。この剰余価値が地代である。 ケアンズによれば、地代理論の仮定は、二つの仮定に立っている。第一に、異なる費用で栽培されながら、一国の全農業生産物が、市場では同一価格で販売されることである。第二に、販売価格は最大費用で生産される穀物部分に規制されることである。剰余価値の存在が他部門からの資本を誘引して、その競争の結果は、農業利益が一般利益水準になるまで―すなわち剰余利益が地主の地代に変わるまで、続くことである。以上の仮定は、@最良の土地と最悪の土地の間に肥沃性が異なる種々の土地があること、A現在耕作中の土地以上に耕作されて増産される可能性がないことから明らかである。Aにより、耕作の限界地は社会の穀物需要で決まり、限界地では費用と通常利潤が回収できるだけを意味し、価格は常にこの水準に近づく傾向を持つことになる。 ところで、ケアンズの考えでは、リカード地代理論は、農業地(最大費用生産地を除く)に存在する地代を説明できるが、次の事実の説明には成功していない。第一、肥沃な最良の土地しかない植民地での地代の存在。第二、あらゆる国の最大費用で生産される最悪の土地、あるいは耕作もされない劣等の土地にも地代が存在すること、である。これらの事例は、リカード理論を拒絶する理由とならない。未だ、その原因が説明されずに残る地代現象があることを示すにすぎない。第一の例は、国家による土地独占の結果である。第二例は、耕作できずとも狩猟地として利用される場合等であるが、これも所有者による独占の結果であり、事実上の地代は支払われてはいない。この他に、特許の発明者に支払われる地代がある。これもまた独占によるものである。――ちなみに、記者いう、土地の地代の他にいわゆる「経済レント」を地代とするのは、誰から始まるのかよく知らない。私が読んだ範囲では、マンゴルドが早いほうである。――すなわち、独占が地代の別の原因である。 ケアンズの結論は、普通の農業地代と独占の地代の違いは、第一に、原因としては、前者が農業生産物の生産コストの差であり、後者が独占原理による。第二に、富の分配に対する効果も異なる。前者は、地代は高穀価の結果であって、原因ではない。後者では、地代は価格の原因である。前者地代は、価格に影響せず、後者地代はそれに比例した価格の上昇を招く。第三、支配法則が異なる。前者は農業生産性と農業生産物価格の関係に依存し、後者は需要供給の原理に支配される。 標題紙には、Milltown park(ダブリンだろう)のイエスズ会図書館の蔵書印とこれもダブリンの聖イグナチウス・カレッジの蔵書印がある。 オランダの古書店より購入。この本の第二版は、安い値段で容易に市場で見つかるが、初版はなかなか現れない。私蔵書も入手に時間を要した。 (注1)高橋によると、Report of the British Association for the Advancement of Science.1860に記載されているとのことである。高橋自身も、全文を見ていないとしている。私もネットで探したが、それがPresidential Address to Section F.と解っただけで、原文を入手できなかった。
(2016/4/16記) |