BAILEY, R.
, A Critical Dissertation on the Nature, Measures, and causes of Value; Chiefly in Reference to the writings of Mr. Ricardo and his followers. , London, Printed for R. Hunter, 1825, ppxxviii+255, 8vo.

 サムエル・ベイリー著『価値の性質、尺度、及び原因に関する批判的論文、主としてリカード氏及び彼の追随者たちの諸著作に関連して』、1825年刊初版。
 著者略:サムエル・ベイリーBailey S.(1791−1870)は、イングランドのシェーフィルド生まれの商人・銀行家。一時商売のためアメリカ合衆国に渡った他、ほぼ生涯を生地で過す。若くして半ば事業から身を引き、広い範囲に亘って著作をしたアマチュア学者。政治・経済・銀行業・哲学の著作の他シェークスピア研究の本もある。南方熊楠が理想としたlaymanとは、このような人のことか。

 最初に本題の理解の便宜のために、主に批判の対象となったリカード価値論の概要を、少し記してみる。リカードによれば、商品の価値は投下労働量によって決り、利潤・賃金とも価値の中から支払われる。賃金の騰落は価値に影響しないとされるから、価値(投下労働量)が同一である限り、賃金の高騰は価値の労働者取分を増やし、資本家の取分である利潤が減ることとなるだけである。繰り返せば、あくまで、投下労働量によって価値は決定されるのである。
 もっとも、時間的差異のためというか(一般)利潤率の成立によって、各商品生産に必要な固定資本・流動資本比率等が異なるため、賃金率の変動により労働価値説に修正が必要となることは、リカードも認めている。晩年に至るに従って、賃金率(利潤率)の変更が価値に及ぼす影響をますます重大視するようになったが、最後まで労働価値説は放棄していない。しかしながら、なぜ投下労働量が価値の原因であるかは、スミスの説を引いたりするものの、もうひとつ明確な説明はない。

 本書は、匿名の書として出版された。交換比率の背後にあって、他物とは独立にその物に内在しているとするリカード流の価値(絶対価値論)を、ベイリーは批判し、価値は相対的概念であるとする。価値とは、二物の交換される商品としての関係にすぎないとして、「一物が他物との関連なしにそれ自身で価値をもつことができないのは、あたかも一物が他物の関連なしにそれ自身で距離をもつことができないが如くである」(邦訳p.4)。絶対価値論では、Bの価値はAに対し不変のままで,Aの価値がBに対し上がり得ると説明するが、それは、あたかも太陽から地球の距離は変動するが地球から太陽の距離は変わらないとするのと同じことだと批判する(本書、第1章)。価値は他の商品との交換関係を表すから、比較される商品に従い、貨幣価値・穀物価値・布価値等無数に存在し、それらはみな同等である(第2章)。
 著者からすれば、同時代の商品のみが相互に交換できるから、価値はあくまで同時代の商品間の関係である。従って、リカードが時代を超えて、同一労働によって生産される商品の価値は同一と云うとき、異時点の価値を比較することになる誤謬を犯していることになる。不変の価値尺度となる商品もありえないのである(第5章)。
 徹底した相対主義者として、リカードの絶対価値の概念と不変の価値尺度論に対する批判を展開し、ミルやトレンズに影響を与えたことは、よく知られるところである。しかし、本書の論点はその他にも、多伎にわたる。セリグマンの次の一文が、本書の内容をよく尽くしていると思う、「労働価値説への反対、価値の一要素としての時間にたいする強調、地代概念の拡延、地代が価格にいりこまぬという論述の批判、価値に影響する生産性に与えられた重要性――すべてこれらは経済科学の現段階における重要諸学説を構成する。これらのものが1828に明言され、ついで表面上忘れ去られねばならなかった」(セリグマン、1955年、p.53-4)。
 マルクスは、『資本論』、『剰余価値学説史』で、ベイリーを批判しているが、批判の要点は、ベイリーが絶対価値を否定したことにあるようだ。日本では、戦前からのリカード研究は、福田徳三→小泉信三と、対するに河上肇→堀経夫→(森耕二郎)と続く二つの流れがあった。後者はマルクスの『剰余価値学説史』の立場からの研究であるため、ベイリーに対しては厳しい。最近の本を見ても、日本(玉野井芳郎『理論経済史』)でも、外国(ドッブ『価値と分配の理論』)でも、マルクスの流れを汲む学者は、ベイリーに一定の評価は与えるものの、概して否定的である。
 一方、シュンペーター(1957、p.1026)の評価を見るに、ベイリーは価値論の基本原理に関する限り、論ずべきことのほとんどすべてを、論じ尽くしていて、「著者を科学的経済学の歴史における第一級の地位またはその近くに位置せしめるに充分なものである」としている。  

 上記のようにベイリーは、価値を二点間の距離にたとえたが、マルクスには価値を重量にたとえた個所(『資本論』第一巻第一章第三節A三 等価形態)がある。目に見えず、触ることもできぬが、存在するとのことであろう。
 「距離」対「質量」といえば、思いつくのはマッハの力学のことである。マッハは、観測できない量、観測の手がかりのない量は物理学から排除する。そして、ニュートン力学の質量の定義は、同義反復だとする。マッハ流には、質量は、加速度したがって距離の変化(の変化)から定義するのである。
 なにか、ベイリー絶対価値論批判とマッハのニュートン力学批判には相似形を感じる。こんなことを言えば「マッハ主義者」として叱られるのかもしれないが、そこは素人の気楽さ、そんなことを書いた本がないかと探してみたが、見つけられなかった。もっとも、最近文庫化したマッハ『力学史』も、ざっと目を通してみたが、なかなか歯が立たないのであるから、偉そうなことは言えない。

 英国の左翼系書店から購入。買う前に写真をメールで送付して貰ったところ、表題紙に「森」と読める蔵書印が認められた。蔵書印をめぐるミステリといえば柴田翔『されど我らが日々』を思い浮かべ(年代が知れるか)て、気になって購入した。私の知る範囲では、戦前のリカード研究家に九州帝大教授の森耕二郎がいるが、その蔵書印だろうか。ちなみに、中国にも少数民族の希少姓だが、森姓はあるようである。もしも、日本人の蔵書印とすれば、一旦英国に里帰りした後,再来日したことになる。こういう想像を巡らしてみるのも、集書の余得である。

(主要参考文献)
  1. 内井惣七 『空間の謎・時間の謎』 中央公論新社 2006年
  2. シュンペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史 3』 岩波書店、1957年
  3. セリグマン著 平瀬巳之吉訳 『忘れられた経済学者たち』未来社 1955年
  4. サミュエル・ベイリー著 鈴木鴻一郎訳 『リカアド価値論の批判』日本評論社 1941年
  5. 堀経夫『リカアドウの価値論及びその批判史』 評論社 1950年
  6. 真実一男『増補版 リカード経済学入門』 新評論 1983年




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(H20.7.21記)
(2022/5/11 HP内の形式統一のための表示改訂と誤字訂正)



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