海越ゆる歌舞〜雅楽海外公演回想録エッセー〜

中国の大地 1992秋

1 中国1

↓9/4〜

黄土をかける列車

いちめんのとうもろこし畑を列車に揺られながら、ずんずん進んでいった。開けにくい 「こうがしゃ」の窓を開けると、明け方の心地よい風が寝台の三段目にも届いたのだろうか、むくむくとみんなが起き始めた。中華人民共和国、邯鄲市人口600万人、磁県54万人、これから目の前に現れる町が 、今まで外国人が足を踏み入れたことがない未開放地域であるということは、現地に着いてから知らされたことであった。

中国の空気というのは、乾ききっていて、黄色い砂を含んだ空気のベールが広大な大地を覆っているように感じる。それが日常の平凡さをも包み込んで安心や平穏を生む。アジアには概してそんな空気が流れている。しかし 、日本ではその空気が極度に湿り気を帯びていて、苔むした地に沈み込み、すべてが地に降り立ったときに初めて平穏な空気が靄(もや)のようにわき上がって生まれる。そして、そんな湿り気がもう懐かしくなってい た。

北京〜石花荘〜邯鄲〜磁県とかなり長い距離を汽車に揺られながら行く。舞楽がこんなに遠くから日本に伝わってきたのか。そして、伝えた国の中国では絶えてしまっているのだ。

 

蘭陵王の源流へ

舞楽「蘭陵王」は、昔、中国の北斉という国を治めていた蘭陵王長恭(らんりょうおう ちょうきょう)があまりに美青年であったために、敵に侮られないように、恐ろしい龍の面をつけて戦いに出て、大勝利をおさめたこ とに由来する舞である。平成4年9月に蘭陵王の墓前で南都楽所と奈良大学雅楽研究会のメンバーが里帰り奉納をした。千数百年ぶりの里帰り公演で、その蘭陵王墓がある場所は 、当時、中国でも外国人未解放地域で、特別許可を得て磁県に招待される形で演奏に行かせてもら った。 雅楽曲の中でも有名な曲の一つである蘭陵王は、南都にとっても重要な左方の曲である。今、蘭陵王の墓の前に、蘭陵王像が立っているのは、その公演で、現地の方が歓迎の気持ちを込めて作ってくださったものである。そのかっぷくのいい蘭陵王像が手に持っている面は現在、南都で使用している天下一越前作の面がモデルになっている。

 

サザンオールスターズ★南天全星と南都楽所

ちょうど僕らが行く直前に「南天全星」という音楽のグループが中国へいっていた。つまり、サザンオールスターズである。「南天全星」と「南都楽所」この四文字の故事成語のような音楽グループのことが、 中国のある雑誌に並んで紹介されていた。偶然にも字ズラのよくにた似て非なるもの。かたや日本を代表するロックシーン、ポップスシーンをリードする現代の音楽グループ、もう一方は千年以上の伝統を誇る雅楽の音楽グループ。しかし、桑田さんたちの思いと私たちの思いには共通するものがあったと思う。音楽による掛け橋。この年は日中友好 20年を記念する年であった。

 

トマトのてんぷら砂糖がけ

日本人のイメージする一くくりの中華料理は、実際には一言で語れるようなものではなく、広大な大陸の中にあって地域によって食文化も違う。「ゆじょう」という揚げパンのようなものを朝からかぶっている子供がいたり、おかしらつきの鯉が揚げてあるのだけれど顔と尻尾は時々動くもの、なかでも驚いたのはトマトをてんぷらにして山のように砂糖がかけてあるものには驚いた。磁県では、客人に砂糖を出すのが最高のもてなし方法なのだそうだ。いろんな料理に 激しく砂糖がかけてあった。

 

ランリンワンの夢

蘭陵王は現地の言葉で「ランリンワン」だ。この公演中ずいぶんこの音を聞いた。 千年以上の空白を埋めてのお里帰り。 現地の方も同じ思いなのだろうか、何万という人が、普段は集まらないであろう、田園の中の小山の蘭陵王墓の周りに集まっていた。 古墳の上に登っている子供もいる。墓の前には金色の蘭陵王像がたっていた。かっぷくのいい蘭陵王像の手には蘭陵王の面があった。その前に赤い毛氈が敷かれていて、そこが舞台となった。つめかけた人のあまりに多さに圧倒される。曲が始まってまもなくして汽笛が激しく聞こえる。見物客が近くを走る鉄道の線路の上まで溢れ、列車を止めてしまって いたことを後で知った。
笛にこめる息にも自然と力が入った。それぞれの楽人の思いをのせた楽。蘭陵王の生きた黄土の大地に雅楽の音を響かせること。夢の一つがかなった。

 

蘭陵王の現在(いま)

春日権現験記絵巻には『教訓抄』をあらわした南都楽所の狛近真(こまのちかざね)が春日大社のりんごの庭で舞う姿が描かれている。そこには蘭陵王の今はない舞の手「拝む手」の場面があ る。多くの楽人が今まで舞って来た。 恐れ多くも、 平成15年に蘭陵王の舞の初舞台を踏ませていただいた。頭に思い浮かぶのは蘭陵王の墓前で舞う楽頭のまっすぐに伸びた検印の指先とやさしく軽やかな足裁きだ。 ある楽師のやわらかく繊細なのにどっしりとした迫力でせまってくる舞。またある楽師の力強く大きな舞ぶり。 きりっとした忠実な舞ぶりなど、いろんな蘭陵王の姿がその舞人を通して再現されてきた。この舞に対する思いは、どの南都楽人にも強い。この舞の時は右方の楽人の視線も強く感じる。舞は奥が深く、どこまでもきりがない。この黄土の大地のように。

現行の「蘭陵王」 唐楽・壱越調・中曲・古楽   破早八拍子子・拍子十六  一人舞舞・走舞  番舞「納曾利」