〜のぶゆきのほろにがエッセー〜
「汚れつちまった悲しみ」 

夜遅くまで学校にいることがある。その日は明日の授業で使う一篇の詩の印刷を残して、日付が変わろうとしていた。最後の仕事として、プリントアウトのためにパソコンのボタンを押した。冷気を帯びた闇が少し開いた窓からこちらをうかがっている。いつの間にか季節は冬に向いつつあった。それから数分の時間が流れたが、プリンターからは、印刷物が出てこない。何度か試してみたが、プリンターはその白い四角の体を硬くこわばらせて、口を硬く閉ざしたままだった。
  そこで、私はとっさに、その四角い箱の側面をバンバンたたいた。が、反応がない。よく具合が悪くなることはあったが、肝心な時に故障するのには辟易していた。腹がたって、再びたたいた時、プリンターは「ウーン」という尻下がりの音を立てながら、その気配すら消してしまった。あたりを静寂が支配し、「しまった」と思ったときには遅かった。窓の外は二次元の暗闇となり、この世のすべてが活動を停止してしまったようだった。
  こんなことが前にもあったように思う。文化祭直前に、ビデオデッキがうまく作動しない時、私はやはり、テレビの側面をたたいた。それを見ていた生徒の一人が「先生何をしてるんですか。そんなことしても直りませんよ。」そりゃそうである。直るはずがない。しかし、とっさに電気製品をたたいてしまうのだ。
  私が子供のころは、まだ、白黒テレビの家庭が多かった。そして、よく映らなくなった。その時、決まって、テレビをたたくのである。そうすると、実際によく映るようになったのだ。だから、私が電気製品
をたたいてしまうのは、その短気な性格のみに起因するのではなく、反射的にテレビをたたいて、それが直ると考えてしまう最後の世代だからなのである。
  とはいうものの、いまどき、OA機器をたたいて直そうとする野蛮な方法をとってしまったことによって、こうやってプリンターは、壊れてしまった。この紛れもない事実に、私は夜中に何をやっているのだろうと自己嫌悪に陥った。しかし、明日に迫った必要なプリントアウトを実行するべく、この非常事態を抜け出さなければならない。いろんな部分を開けてみたが、素人にはよくわからない。そして、自分がたたいたこととは違うところに   原因はあるはずだと言い聞かせながら、プリンターの白い箱のいろんな部分を調べた。
  すると、後ろの部分に、凄まじい量の埃が積もっているではないか。パンドラの箱を開けるように紙を入れる部分を開き、奥のほうを恐る恐る覗いてみる。そこには、人跡未踏の惑星の裏側のように薄暗いでこぼこが薄汚れた雪をたたえていた。そこは、わずかな隙間ではあったが、寂しく小さな空間であった。掃除されることもなく、具合が悪いといっては、文句を言われ、揚げ句の果てに、たたかれてしまう。自分がたたいたことも忘れて、この白い箱が哀れに思えてきた。そこで、また安易にも、雑巾で水拭きをはじめてしまった。もう、こうせずにはいられなかったのだ。
  汚れた雪を拭いていくごとに、白い本体が姿を現し始めた。最後に、紙を入れるカセットを差し込んだ。
  すると、止まった時間がいきなり流れ始め、「ウイーン」という高い音を立てて白い箱が動き始めた。
  そして、長い沈黙を破るように、プリントアウトしようとしていた詩の一篇を、白い箱が吐き出した。
 

「汚れつちまつた悲しみに……」        

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪かかつてちぢこまる

 汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……   中原中也 『山羊の歌』より 

〜のぶゆきのほろにがエッセー〜
「60年後の夏」 

屋根より高いひまわりが、畳の座敷の向こうの縁側を黒い額縁にして時間が止まる。僕の幼年期の夏の記憶だ。

今年の夏に、通りかかった姫路の松竹座という映画館が取り壊されていた。閉館のニュースは知っていたが、取り壊されるとは聞いていなかった。工事現場の50代ぐらいの人に思わず「改築やのうて、全部めんでしまうんですか?」と聞くと、その人も、複雑な顔で、「そやな」といって空を見あげた。そこにいた十数人も手を休めてこちらに向かってうなずいた。

この建物は第二次世界大戦の最初の空襲で姫路の駅からお城までの間で唯一残った建物だ。そのあと、すぐ近くの散髪屋さんで頭を刈ってもらいながら、この建物の壁に弾痕が残っているということを聞いた。

今年のはじめになくなった祖母の話を思い出していた。低空飛行をする爆撃機が弾丸をわざとはずしながら撃ってきてその席の中から、にやりと笑う姿がみえたのだそうだ。また、軍医として戦艦ごと爆破され、沈んだという親戚の話。

平成に生きる戦争を知らない世代である僕は、これらの話を聞いても、遠い昔に悪い人がやったこと、遠い昔の悲しい出来事、という感覚であったことを否めない。

僕の父は終戦を姫路で迎えた。まだ、幼年期であったため、あまりはっきり覚えていないということだったが、今年、なにげない会話の中で、母屋の伯父と川の中で身を沈めて空襲が去るのを待ったということ、姫路駅がめらめらと燃えていた記憶、そして、家に帰ると何もなくなっていたこと、防空壕に焼夷弾がつきささっていたことなどを語り始めた。

このとき、ずいぶんと過去のことであった戦争が近いものになった。戦争が日常の中に平然とあったということに、はっとさせられた。遠い昔に行われたことではなく、たかが60年前におこっていた恐ろしい出来事。今に連続するものだということを感じた。
ひときわ暑い夏、ひまわりがゆらりとゆれて、蝉時雨が部屋に満ちた。 

〜のぶゆきのほろにがエッセー〜
「イタリアの病院」

・映画『ローマの休日』での乱闘シーンはサンタ・アンジェロ城の前の川で繰り広げられる。 イタリアはローマの強い日差しの中、街を歩きつかれて 、サンタ・アンジェロ城の前の橋を渡っていた。折から吹いてきた風が砂を巻き上げた。目が痛い。確実に何かが目に入っている。取り除こうと目に手をやると、砂粒がついた。目薬をさしたがおさまらない。かなりいたい。近くの両替所 まで目をしばしばさせながら、やっとの思いでたどり着く。「アーキオ(目)がいたい!」と訴えて病院の場所を聞くと、指を橋の向こう側に指して、説明をしてくれた。「城の近く のあそこに見えるのが、病院だ 」そんな、内容だったのだと思う。 実は内容はほとんどわからなかった。ただエクスチェンジの女性の激しくしゃべった文末にある「OKオーキエイ」というイタリアなまりのOKの言葉が耳に残っていた。病院は石の大きな建物で 歴史的な建造物とまったく違和感はない。警備員の人にいうと、「よし、まかせておけ」(おそらく)といってエレベーターで案内してくれた。少し強面の女医らしき人がドアから出てきた。 「ザ・サンド びゅーびゅーウインド オーノー」で、なんとか目に異常を感じることを伝えると、 「ここで待っているように」といわれた。看護師らしき人が出てきた。どうやらここでは見ることはできないといったことで、別の病院を教えてくれるという。 しかし、道順を理解するのは不可能だった。こちらに入ってくるようにというようなことで、ずんずん中に入っていった。歯医者で座るようないすの上に手術のときにつくような電灯がついていた。目を洗ってもらって少し楽になったが、まだいたい、鏡で視ると黒い点が見える。医師は腕まくりをして、指先で目の中の砂を取ってくれた。

〜未完〜

 

〜のぶゆきのほろにがエッセー〜
「みかんの皮」

・梅の香りがどこかから流れてきた。最近あまりかぐことのなかった香りだ。
僕が小学1年生のときのこと。6年生のお姉さん二人が焼却場へごみ箱を運んでいるとき、あやまって落としていったみかんの皮を、ひろってあげた。そのとき、すごく感謝された。当時、全校の学級委員の集まりに「こだま会」というものがあって、校内の善い行いや悪い行いは、そこでだされた。そして、なんだか今考えるとはずかしいが、そこで推薦された人物は善行の賞としてのじぎくのバッチをつけることを許されるのである。そこで僕がごみを拾ったことが話題に上がったらしく、クラスでも先生から、友達から、ほめられた。そして、のじぎくバッジが与えられたのだ。
しかし、僕は気にかかっていることが一つあった。そのごみをすてて帰ろうとしたときに、6年生のお兄さんが来て、「6年のAさんは悪い人やから、ごみをまきちらしていたと、こだま会で、言うといてな、」と言われた。上級生のお兄さんが言うのだからいっておこうと、「はい、わかりました。」バカ正直にそれを学級委員に言ってしまっていたのである。なんと、そのAさんというのは僕がごみを拾ってあげたお姉さんで、善行賞の推薦をしてくれた人だったのだ。当然そんなことをするお姉さんたちではなかった。その次の日、、冤罪の6年生のお姉さんからクレームがついたのだ。昨日とは一転、HR(学活とよばれていた)で、で尋問され、うそつきであるかのような目で見られ、のじぎくのバッジも一日つけただけで剥奪された。「お兄さんが言っておくようにいったから、いうたんや」と半泣きでいったが、そのときの先生は昨日のやさしい顔とは正反対で鬼のような顔で「あんたは、そしたら、死ねいわれたら死ぬんかいな!」とむちゃくちゃにおこるのである。納得もいかないまま、結局6年生の教室に一人で謝りに行かされることになった。
小学一年生、ちょっとしたことでドキドキするその小さな心臓はもう飛び出るのではないかと思うくらいどきどきしている。しかも6年生の教室である。絶対に緊張する。木造の校舎、キシキシ音を立てる長い廊下を歩いていく。途中 で恐くなって、一度教室に戻ったと思う。そのときの先生の顔はもっと恐くなっていた。あきらめて、覚悟を決めて、6年生の教室の扉の前まできたときにはもう、緊張は頂点に達していた。ガラガラッと戸を開けると、そのまま「す・い・ま・せ・ん・で・し・た。」と大きな声で言った。僕は身長が小さかったので特に6年生のお兄さんやお姉さんたちが二倍ぐらいあるかのように思えた。そして、その「シーン」とした教室の光景が「モわーと」にじんで、僕の泣き声が6年生の教室に響いた。その後はそのお姉さん二人が来て僕を慰めてくれた。「ええんやで、ええんやで、ありがと」と、いってくれた。「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」そのお姉さんの腕の中で、もっと涙があふれた。そのお兄さんもそのお姉さんのうちの一人に怒られながら、僕のところへ来て「わるかったなあ」といった。そのとき、そのお兄さんの声も震えていて目がうるんでいた。ひとしきりないたあと、また、「す・い・ま・せ・ん・で・し・た。」といって戸を閉めると、長い、長い廊下を歩いてまた教室へもどっていった。どこかから、梅の香りが流れてきた。その香りは涙と混ざって鼻の奥のほうに伝わってきた。泣いていたのがばれないように袖で完全にふき取ってから教室にはいった。真っ赤に目をはらしていたんだろうけれど。その後のことはよく覚えていない。
とりあえず疑いも晴れて、その次の日再び、のじぎくのバッジも僕に戻されたが、つける気がしなかった。あんなにやさしい6年生に申し訳なくて、つけるきがしなかったのだ。しかし、それに、こりずに、すぐになんでも信じてしまう、バカ正直な性格はなかなかなおらなかった。

〜のぶゆきのおばかエッセー〜
「鼻の穴」

風邪の季節、風邪にに効くハーブは?ミントは解熱効果があるというし、その他多くが、去痰作用があるという。風邪をひいてしまって、ミントを採りに庭に出ると、かっ、枯れている。しかし、なぜか、冬なのにバジルが生き残っていた。確かどくだみの葉を鼻に突っ込んだら、鼻が通るというのがあったので、バジルで試してみた。たぶん誰もまねをしないと思うが、いっておく。やめておいたほうがよい。初期症状ではいいが、熱があるようなときに鼻の中だけが、ピザマル ゲリータのうえにのっているあのバジルの王国になってしまうのだ。身体は衰弱し、気分がめいっているところに、強制的に夏の王国が攻めてきたという感じである。
そして、この鼻に何でも?詰め込んでしまうという癖は、今に始まったことではない。そう、ちょうど、このホームページのトップにある子供の頃の私の写真。あのころのことである。私は何気なく庭に下り、芝生を眺めていた。そうするとそこには小石があった。それをおはじきにして遊んでいると、どういうわけか、その、小石の大きさが妙に気になりだした。鼻の穴に合う大きさの石 はないか。どうしてそういう発想になったのかはわからない。しかし、遠い記憶ではあるが、あの時、鼻の穴に合う石を探そうと思った意志の堅さはしっかりと覚えている。なんどか試してみたが、それは容易なことではなかった。ある時は大きすぎて涙をこぼし、ある時は小さすぎて吸い込みそうになった。そして、ついに、ぴったりと合う石を見つけた。「これだ!」そのときの感動は今でも忘れない。そして、次の瞬間「やっ、やばい!」その小石は鼻から出ることはなかった。後にこの経験は徒然草の中で鼎(かなえ)が頭から抜けなくなった法師の気持ちが痛いほどよく分かるといった実証的な古典の学習にひそかに役に立つことになるのである。とにかく出ない。そして、さんざん親に怒られた上 で耳鼻科に連れて行かれることになったのである。耳鼻科の先生も、すぐにとろうとはせずに、どうしてそんなことをしたのかということを問い詰めた。しかし、「鼻に合う石を見つけたかった」それ以外に少年の解答はなかった。吸い取っても出なかったが、先生が「切るしかないな」といったとき、すっとでてきた。あのときの耳鼻科の先生の悪意に満ちた恐ろしい表情は今でも忘れない。でてきた小石は僕の手のひらに置かれた。「もって帰るか」先生は冷ややかにそういったあと、カルテに向かった。いったい、なんと書いて おられたのだろうか。「異物除去」であろうか、「小石吸引」であろうか、いや、「たいがいにせえよ」「かんべんしてくれ」とかそういう愚痴をカルテに書き込んでいたかもしれない。しかし、理由はわからないが、はっきりしているのはあのときの私には鼻の穴に合う石を見つける必然性があったということだ。
三つ子の魂百まで。とにかくなんでもかんでも鼻に入れてみるのはよくない。うん、今度は・・・。もうしません。

注意:この話は実話でありますが、現在もおかしな癖があると誤解なさらないようにおねがいします。また、小さいお子さんは危険ですから絶対まねをしないようにしてください。?

 

〜のぶちんのおばかエッセー2〜
「SFおん祭」

おん祭のポスターに今年のせてもらっていたので、そのポスターを見ておん祭の説明をしていると、野球の監督をしておられる方が、「この祭すごい!」といわれた。その方は865回というところに驚かれたよう だ。「甲子園が今年で82回だからその〜〜〜倍か」とひどく感心しておられた。他の分野のかたからこんな風に言われるととてもうれしい。なんか、雅楽やっててよかったなあっていうような。考えてみればスポーツとして80回以上、同じ場所でやっているのもすごい。しかしこれが千年後ににはどうなっているのだろう。はたして野球が今のままであるだろうか。舞楽に「打毬楽」(たぎゅうらく)という曲がある。「打毬楽」は千年以上前に打毬という馬に乗って球を打つポロのようなスポーツだった。それが今、舞として残っている。打毬もあるが一般的なものではない。打毬がオリンピックで競われることもない。スローモーションのような舞として残っているのだ。もっ、もっしかして、千年後の野球は?ちょっと不気味な連想になるが野球のユニホームを派手にしたようなものを着て、バットをスローモーションで振る舞として残っていたらどうしよう。一揩セけが投げる動作を繰り返して、あとの舞人がひたすら、バットのような棒をスローモーションで振っているのだ。想像しただけで鳥肌が立つほど恐ろしく、ぷっとふき出してしま う。しかし、千年後装束は今は手に入らない地球にあった石油から作ったものとして、「この装束は本物のポリエステル100パーセントで出来てるんやて」「へえ〜すごい」てな、会話があるのかも?3000年ぐらいには2600年代ぐらいの野球のユニフォームがバーチャル博物館に展示してあるかもしれない。そうするとその舞楽の名前はなんであろう?もうお分かりですね。「野球楽」・・・。べたやなあ。
ちょっと待てよ。舞台は、「池の舞台」ならぬ、「宇宙空間張り出し舞台」とか、2500年ぐらいには、もう、月面舞台とかが出来ていて、3000年ぐらいまでその舞台の伝統は守られていたりなんかして、現在おん祭で芝舞台ですり足がしにくいと楽人がもらすみたいに、3000年ぐらいの楽人は、「いやあ、月面の舞台は500年続いた伝統のある舞台なんだけれど、クレーターが多くてすり足がしにくいよ。」なんて、いってたりなんかして・・・。それから、あんまり、やらないほうがいいとおもうけど、近い将来バーチャル練習所ができるだろうなあ。本番前に平舞の楽人が四人それぞれの家で舞をしながらある仮想の練習所に集まったような状態で舞をあわせる。

けっこう、この辺のことは笑い話として書いてきたけど、南都の目指す雅楽にとっては悪夢だなあとおもえてきました。未来の道具を練習の補助機能として使うということであっても、今のビデオの問題と同じく大きな問題をはらんでいるように思います。と堅い話になりかけたけれど、バーチャルはあくまで生身の人間がふれあって練習できないし、仮想なので問題点もあるようなきがします。しかし、もう少し先に「どこでもドア」ができると解決するなあ。あれなら、すぐ集まれるし、実際に集まるからOK。「もし、ドラえもんがいたら雅楽は〜」は長くなってきたので別の機会におばかエッセーで書きます。

いやあ、自分で最後ほろーするけれども、1000年も何万年でもやっぱり地球の地面をしっかり踏みしめて舞台に出て、今とまったく変わらない姿で演じていてほしいです。それがおん祭でもっとも大事にしていることであるし、とってもすごくて、素敵なことだと思います。

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