梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

015号     2005/5/4(水)

 
 
 
  <栗東〜草津〜石山>  
 
 
 

京都駅のホームでいつもの三人で電車を待っていると、もう一人の姪が三人の子供(小3、小1、3歳)を連れて参加してきた。覚悟を決め出発した。
栗東駅で下車し、歩きはじめると3歳の子が歩くのが嫌とぐずりだした。子供達のことを考えると、今日は休み休み、無理をしないで、行ける所まで行くという気持ちで行こうと決めた。
線路沿いに行き、路がどん詰まりになると思われたら、左手線路のしたを潜る、天井が極端に低いトンネルがあった。それをぬけ反対側に出る路が中山道と記されていたが、線路建設のためここまで圧迫されたかと思うとちょっと侘しかった。
草津駅に近づき商店街を行くと、左手の覚善寺の前に、大きな石の道標があり、「右東海道、左中山道」と刻んであった。ここが二つの街道の追分なのだと感激し、少し早いがここで子供達は昼飯に、我々はおやつを食べゆっくり休憩する事にした。昼飯をとり落ち着いた子供達を励まし草津商店街を抜け、草津川の下を潜るトンネルをぬけた。すると、ぬけたところに再び、「右東海道いせみち、左中山道美のじ」という道標があった。説明によると、ここが、高札場の置かれた草津宿の東入口で、東海道と中山道の分岐点の本来の草津追分であり、覚善寺の前の道標は明治19年草津川のトンネルが出来た以後移したものとのことだった。という事は、ここが「中山道の終点」といってもいいわけで、後京都の三条までは実質的には東海道になるという事だと理解した。
二つの街道が合流する草津宿はさすが大きく、本陣が2つ、脇本陣が2つと今まで見てきた宿の中では最も立派な宿だったが、見物はそこそこにして先を急いだ。
南草津駅前で子供組と別れた。
昼食は11時45分、清宗塚の前で取った。清宗は、壇ノ浦の戦いにおける平家の総大将平宗盛の長男で、鎌倉からの帰り、源義経の部下によりここで首を切られ、三条河原にその首を晒された。17歳だった。その義経も何年か後、奥州衣川の地で殺される事になる。
14時30分、瀬田の唐橋まで歩き、喫茶店で一息入れ、石山駅に向かった。