梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

014号     2005/4/11(月)

 
 
 
  <鏡立場〜守山〜栗東>  
 
 
     
 

篠原駅に8時40分下車、2月重い足を引きずって歩いた道を、鏡宿入口の善光寺川まで30分かかって到着、9時10分スタートする。鏡宿は守山宿と草津宿の間に作られた立場だが昔の面影を残している。
鏡神社の前に義経の名前の入った旗が何本かはためいていた。NHKの大河ドラマ「義経」の影響か。向かいにある駅の道「竜王鏡の里」 でおやつを仕入れた。
そこから200メートルほど行くと、「平家終焉の地」。おやおや義経の次は平家かと薮の中の小道をたどっていくと、突き当たりに、石が二つ置かれていた。説明によると、壇ノ浦の戦いで平家一門はほとんど死んだが、総大将の平宗盛とその息子清宗は義経に捕らえられた。鎌倉に送られた後、この地で首を切られた。したがってここが平家終焉の地だという。草ぼうぼうの中に石二つのみ、敗者にふさわしいと言うわけか。
しばらくいくと左手堤防の上に桜が咲き誇っていて、その堤防に腰を下ろし休憩をした。見るとあたり一面つくしが芽を出していた。今夜のおかずにとつくしを摘んだが、一本一本摘ぐのがめんどうだと、バサッと数本まとめてつかみ取りが出来るくらい芽を出していた。
篠原神社をすぎ、新幹線の脇を歩いていくと、甲のような形をした古墳がいくつか集まっている公園に出た。その名前が難しい、「桜生(さくらばさま)史跡公園」と読む。公園に登って昼食をとった。古墳の名前が「甲山古墳」、何かで有名ではなかったかと思いながら歩いていくと、銅鐸記念館の案内と大きな銅鐸の模型が屋根の上においてあった。近くの人にお聞きすると「今日は月曜日ですから、記念館は休みです。残念ですが又の機会にどうぞ。」この辺は1メートルを越える大型銅鐸の出土する事で有名ではなかったか、銅鐸文化圏の中心を今歩いているのだと思った。
守山宿に入る。昔の人は 「京発ち、守山どまり」といって一日行程のところ。京都にいよいよ近づいたが、まだまだ8里8町、我々の足では一日では無理。今日歩けるだけ歩き、残りを二回に分けて歩こうと話し合った。
地獄の閻魔様を祀った「閻魔堂」の前をとおり、さらに行くと、大宝神社に出た。鳥居の横に、芭蕉の句があった。ー「臍村(へそむら)のまだ麦青し春の暮れ」ー
栗東駅に着いたのは14時45分。