梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

011号     2005/1/6(木)

 
 
 
  <鵜沼〜新加納〜加納>  
 
 
 

新年を向かえ、初の中山道行き。再び青春18切符を使うということで、7時09分の新快速に乗るため、7時前に京都駅中央口に集合した。参加4回目の姪が新しいリュック、新しい靴、サッカー選手が着るコートを羽織って颯爽とあらわれた。いよいよ本気になってきたなと心で喝采しながら三人で電車に乗り込んだ。
鵜沼まで快調だったが、駅を降りると、雨がぱらつきもよう。いつでも傘がさせる準備をして出発した。
うとう峠から下りてきた所で中山道に合流した。
大安寺橋と常夜灯のあるところが、鵜沼宿の入り口だった。その先に芭蕉の句碑が4つほど固めて立っているところがあったが、ここが脇本陣跡と言う事。しかし行けども行けども、車が激しく往来する21号線が続き、中山道を思わせるものが何も残っていない。実は、明治24年の濃尾大地震でこの辺一帯は壊滅的な打撃を受け、江戸時代の建物は残っていないと説明書きがしてあった。暮れのスマトラ沖大地震とそれによる津波の被害が20万人以上の死者と何百万人に被災者を出している事を思い浮かべながら、濃尾大地震の被害状況も後で調べて見なければと思った。
21号線沿いにあるイズミヤに入って、おにぎりとインスタントラーメン の昼食を食べ、各務原の街を歩いていった。
各務原の街を出かかる頃になって、左手後方から耳をつんざくような戦闘機の爆音がコンクリートの路にたたきつけられる。思わず耳をふさぎながら見上げると、戦闘機が急上昇し、左旋回をして、そのまま水平飛行に移り、引き返していった。4,5分するとまた別の戦闘機がやってくる。中には右旋回して、我々の行く手を横切っていく戦闘機もあった。こんな騒音と何時落ちるかもしれない恐怖の下での生活はたまらないだろうなと思った。
東海北陸自動車道の下をくぐり、手力雄神社の隣の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで休憩した。
左木曽路の道標が立つ追分をすぎ、市街地を行くと名鉄の「茶所駅」の踏切を渡るとやっと、加納宿の立派な石の道標が立っていた。ここから岐阜駅までがややこしかった。雨の降る中、たずねたずね中山道から出たり入ったりし、4時40分岐阜駅に到着した。自動車道ばかりの辛いご苦労さんの一日だった。(38700歩)