梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

008号     2004/10/31(日)

 
 
 
  <醒井〜番場〜鳥居本>  
 
 
 

前日は一日雨が降ったりやんだり。こんな日に歩くのはいやだなと思って、夕刊の天気予報を見ると「31日は曇り夕方から雨」。よし一宿でもいいから歩き雨が降るまでには帰ってこようと決心し、姪に連絡した。
朝、起きるとなんと日がさしていた。「やっぱし私は晴れ女だわ。」というお母さんと家を出て、京都駅で姪と合流、快速で米原へ。
9時40分醒ヶ井駅を番場宿に向け出発した。六軒茶屋を過ぎ、しばらく国道21号線を歩いたが、それと平行して「中部北陸自然歩道」が走っている事がわかったので、安全のためそちらを歩く事にした。北陸自動車道をくぐったところが、久礼の一里塚、1時間歩いたのでお茶休憩をとった。
ここから番場宿に入った。まず左手に蓮華寺、ここには鎌倉幕府が滅びる際の悲劇の一場面があった寺で、早目におにぎりを食べるため寄ることにした。おにぎりを食べていると、「和尚が留守なので私が説明しましょうか」と男の人が近づいてきて、入場料300円を払うと詳しく説明してくれた。
1333年京都合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時ら430余人がここまで逃げてきて追い詰められ、この寺の本堂前の庭で自害した。そのとき血が川となって流れて、血の川として残こっている。当時の住職が哀れに思いこの死者のために建てた430個余りの五輪の塔が境内の奥にずらりと並んでいた。
見学している最中も目の前を走る名神の自動車の音が絶えず響いて、せっかくの境内の静けさを台無しにしていた。
西番場の町並みを抜け、名神に沿って峠に向かって歩いていく と、名神との境にある金網に、むかごがいっぱい張り付いていた。むかごを採りながら、時々今来た道を振り返ると、伊吹山をはるか見る事ができた。むかごのおかげで摺針峠に着くのが遅れてしまったが、峠から初めて琵琶湖を見る事ができた。中山道随一の絶景という割には曇ってきた天気のせいか、くすんだ琵琶湖しか見えなかった。
坂を下り鳥居本宿に入ると、曲がり角に立派な家があった。「昔のお医者さんの家かな?」と言いながら近づいてみると、300年以上も続く赤玉神教丸を売る石川製薬の家だった。「赤玉は子供の頃いつも家においてあった。正露丸と同じ胃薬かな。」と京都育ちのお母さんの話。家の前に立つ真っ赤な郵便ポストも印象深い。
しばらく行って右に入ると、近江鉄道鳥居本駅。赤い屋根の洋風の可愛い駅で、これはそのままでも絵になると写真に撮っておいた。
そろそろ昼飯をきっちり食べたいと思うのに店が見あたらない。派出所におまわりさんがいたので 、「食堂か弁当を売っている所はありませんか」と聞くと、「この辺にはありません。3kmほど行くとスーパーがあるのでそこで何か買えるかも知れません。彦根駅へ行くのも3キロほどです。そこまで行けば駅前にいくらでもあります。」
宿場のはずれ近く、「左中山道右彦根道」という道標がある追分があった。雨もきそうだし腹もすいたし今日はここまでにしましょうかということで右に曲がって彦根駅に向かった。佐和山という名前は何だったかなと考えながら、佐和山トンネルをぬけると、石田三成の像が建っていた。ここが関ヶ原の合戦の敗軍の将の居城だったのか、という目で見ると、一帯が公園になっているのだが草ぼうぼうで、荒城という感じだった。
追分から40分かかって、14時20分駅前つき、ビールと名物ちゃんぽんラーメンを食べ締めくくった。 (4時間30分、約3万歩)