梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

004号     2004/5/5(水)

 
 
 
  <板橋〜戸田橋>  
 
 
 

夜明け前、息子の下宿で目を覚ますとかなり激しい雨が降っていた。今日歩くのは無理だ、池袋駅から埼京線で大宮まで行き、長野新幹線で長野県の佐久まで行くことにした。朝はゆっくりし、息子の出勤を見送ってから出発した。地下鉄東西線から高田馬場で山手線に乗り換える頃には雨はほとんど上がっていた。「せっかく来たのだから、傘をさして、少しでもいいから歩こうか。」と予定変更。板橋駅で降り、3日の続きを歩き始めた。
板橋宿は、日本橋から最初の宿であり、江戸時代の人はここから旅立っていった人が多かったそうだ。板橋商店街はその面影を残し、ずっと続き、さす傘が重かった。仲宿が尽きるところに橋が架かっていた。板橋の名の由来となった石神井川にかかる橋だった。少し行くと「縁切り榎」が右手にあった。昔は樹齢数百年の榎が道の上まで覆い茂っていて、この下を通ると不縁になるという事でこんな名がついたそうで、「我々もこの下を通ると危ないかな?」「となりに縁結びの地蔵をたてたらプラスマイナスでうまくいくのにな。」と話しながら通り過ぎた。
18号線に出たところで、食堂の前で掃除しているおばさんに、「戸田橋までどのくらいありますか。」と聞いてみた。「歩いたらまだだいぶありますよ。歩いた事はありませんが。どちらにいかれますか。」「中山道を京都まで歩くつもりです。日本橋から歩いてきたんですが…」「そうですか、たいへんですね。戸田橋は日本橋より近いですよ。うちの息子が京都の美山で陶器の勉強に行ってます。」というような会話になった。
志村の一里塚は、めずらしく、左右両方とも完全に保存されていた。 それが18号線の歩道を完全にふさいでいるため、歩きの人はコの字型に回り込むようになっていた。
志村坂上とか志村坂下というような坂道にふさわしい地名が続き、しばらく我慢して歩いていくと荒川堤防にでて、長く立派な戸田橋がまっすぐ かかっていた。ようやく雨の上がった橋の上から堤防を望み、「3年B組の金八先生が走っていたのはこの堤防の先だろうな。」といいながら、埼玉県にはいることになった。
昼食には焼肉を食べ、 戸田公園駅から電車に乗り、長野県に向かった。