梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

002号     2004/4/5 (月)

 
 
 
  <美濃赤坂〜垂井〜関ケ原>  
 
 
 

10日まで使える青春18切符が2枚残っていた。出来るだけ遠くまで行って中山道を歩いてこようと、米原、大垣と乗り換え、終点美濃赤坂で下車して歩きはじめた。古い町並みをしばらく行くと、昼飯という変わった町名の町に入った。「昼飯というからにはここで昼飯を食べないといけないのかな」といいながら進むと、阿弥陀寺の前に名前の由来が書いてあった。信濃の善光寺へ阿弥陀さまの像を運ぶ時ここで休憩して昼飯を取ったのが由来で、「昼飯(ひるい)」と読むそうで。では我々もと、寺の前に腰を据えてお握りを一つ食べた。
昼飯をすぎると今度は「青墓宿」。学校の名前にも青墓というのが付いているので、「墓などという文字の入った学校名は暗いな」「よっぽど青墓という地名が由緒ある名前と違うか」と言い合いながら歩いた。
垂井にはいると、相川にかかる大きな橋を渡った。橋から上流の堤には桜並木が満開で、川をまたいで数十匹の鯉のぼりが雪の残る伊吹山を目指して元気に泳いでいた。実は昨日まで桜祭りだったとか、垂井宿の町並みに入るとそのポスターが貼り残されていた。曲がり角には200年以上も続く「お宿」が昔そのままの姿で今も現役で開業していた。中山道を行く時はこんな宿に泊まり泊まりしていったら楽しいだろうと思った。垂井の一里塚は片方が完全に保存されていて、国の指定になっていて、そのそばには広重の浮世絵が石に刻まれていた。
垂井から関ケ原への道は、新幹線と国道と中山道とJRとが狭い所を平行に走っていて、中山道が生活道路になっていた。家康が最初の陣を構えたところを左に見ながら松並木をぬけると関ケ原の町。郵便局に入って切手を買い、駅を聞くと、すぐそこですよ。駅前には観光タクシーが何台も停まっていて、大きな古戦場を手軽に見学出来るようになっていた。