【平姓 澁谷氏系図】

【始祖】澁谷庄司平重家  【本貫】相模國高座郡澁谷庄

【世系】澁谷氏は、桓武平姓 秩父氏の支流に出づ。 河崎土佐守基家の嫡男重家は、相模國高座郡澁谷庄の庄司たるによりて氏と為す。

【傳説】桓武天皇の御孫高見王の御子高望王は、寛平元年(889)始めて姓、平朝臣を賜り臣下に列す。 平高望の後裔 秩父別當武基は、平忠常追討の時、源頼信公に従ひて功有り。 武基の子基家、武綱は共に源義家公に従ひ、奥州合戦にて功を重ぬるに因りて、 基家は土佐守に任せられ、武蔵國荏原郡河崎を賜ひ、河崎を以て氏とす。

重家は、相模國高座郡澁谷庄の庄司と為りたるに因りて、澁谷を以て氏とす。重家に子無き時、夫婦 揃ひて八幡宮に祈願したるに、金剛夜叉明王の靈光、彼妻の胎内に宿りたる靈夢あり。 而して永治元年(1141)8月15日一子を産するにより、明王の上下の二字を戴いて金王丸と名付くと云ふ。 金王丸、幼にして豪勇夢双たれば、齢17歳にして源義朝公の郎党と為りて、保元兵乱に参して大功を建つといへども、 平治合戦に敗るゝ。因りて義朝、東國に下る途中、尾張國野間の長田荘司忠致の館に滞留したる節、 長田荘司、平家方に寝返りたれば、その家来をして、湯浴中の義朝公を刺殺す。

金王丸、主君義朝の仇を討ちて、京に上り常磐御前に事の由を報ず。 のち澁谷庄に歸りて出家し土佐坊昌俊と名乗りて義朝の靈を弔ふ。
頼朝公、御家人たりし土佐坊に、謀叛の嫌疑ありたる九郎判官義経の追討を命ず。 土佐坊驚きて辞するも、頼朝公、常磐御前の形見なる薬師佛を土佐坊に與へて強く命ずるによりて 土佐坊遂に之を固辞し得ず、文治元年(1185)10月百騎ばかりを率ひて上洛し、同月23日夜義経の館に討ち 入るに、土佐坊、もとより義経を討つに忍びなく、望みて返り討ちに遇ふと云ふ。

【氏神】金王八幡宮(東京都渋谷区渋谷3丁目)


   澁谷
(11)重家(  -  )
   |相模國高座郡澁谷庄司
   +――――――――+
   |        |澁谷庄司
(12) |        重國(  -  )
   |        |
   |        +――――――――+
   |澁谷金王丸   |澁谷      |佐々木秀義継室
(13)常光(1141-1185)  光重(  -  )  女子(  -  )
   ↓法名土佐坊昌俊 |         佐々木義清母
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   |澁谷      |早川二郎    |吉岡三郎    |大谷四郎    |五郎坊     |落合六郎
(14)重直(  -  )  實重(  -  )  重保(  -  )  重茂(  -  )  定心(  -  )  重貞(  -  )
   |        東郷氏祖    ↓祁答院氏祖   ↓鶴田氏祖    ↓入来院氏祖   ↓高城氏祖
   +――――――――+――――――――+
   |澁谷      |澁谷      |澁谷
(15)重尚(  -  )  重光(  -  )  経重(  -  )
   ↓


『平治物語』
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