神功皇后
Jimgukogo
(170-269)


神功皇后の御諱は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。漢謚号を神功皇后と云ふ。 気長宿禰王(おきながすくねのおほきみ)の女にして、御母は葛城高額媛(かづらきのたかぬかひめ)なり。 第14代足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)(漢謚号仲哀天皇)の皇后なり。

幼にして聡明叡智容貌壮麗でゐらせられたれば、父気長宿禰王も之を異(あやし)み給ふ程であつた。 仲哀天皇の即位2年に立ちて皇后に為りたまふ。
皇后は天皇に従ひ筑紫にゐらせられたが、仲哀天皇の即位8年9月群臣を召して 熊襲(くまそ)征伐の軍議を開かせられた。

時に皇后神託を得て、熊襲の服せざるは新羅の後援あるが故なれば、先づ之を討たば 熊襲は自ら服従するならんと、天皇之を聴き給はずして熊襲を撃ち勝たずして9年2月 橿日(かしひ)宮で崩じ給ふた。皇后は天皇が神教に従はずして早く崩じたまひしを傷み、 齋宮を小山田邑(香椎の近地山田郷)に造って、3月、武内宿禰、 中臣(なかとみ)烏賊津(いかつ)をして神を祭らしめ、新に紳託を請ひて後、 鴨別(かもわけ)なるものを将として熊襲を伐たしめられしが、久しからずして征定することゝなつた。 次で層増岐(そそぎ)野(現 佐賀・福岡県境近邉)に至りて、羽白熊鷲(はしろくまわし)を撃ち滅さる。 転じて山門(やまと)ノ県(あがた)(筑後)に到りて土蜘蛛田油津(たぶらつ)媛を誅戮(ちうりく)せられ、 両筑地方の賊が平定したので、同年四月肥前國松浦縣(まつらあがた)に到りて 渡韓地の地理を探らせれ、玉島川に釣針を垂れ給ひて征韓の挙を卜し、一旦橿日に還りて 軍旅(ぐんりょ)を整へ再び松浦に入り、更に宝鏡を捧げて戦勝を祈願し給ひしところが 今の鏡山である。当時は松浦山といつてゐたやうだ。風土記に録してあるが如く、 今の湊村大字相賀にて鹿に逢ひ給ひたれば其の地を逢鹿(あふか)といひ今は訛りて相賀と書く。

湊村は其の当時和珥(わに)ノ浦といったのだが、皇后の軍船輻輳(ふくそう)せしところなるより 湊といふに至った。其の対岸の神集島は、皇后が少時駐屯し給ひしところで大八洲國(おほやしまくに) の神集(かみつど)ひをなし戦勝祈念を込め給ひし地なれば神集島といふのである。 玄武洞で名高き七ツ釜の辺を土器(かはらけ)崎といひ、神酒(みき)を捧(ささ)げて 酒盃を流し給ひしより土器崎の名起る。今呼子村字友といふところがある。 皇后が愈々我本土を離れて海に航し給はんとせし地にて鞆(とも)を堕(おと)し給ひしより 友の地名が起つてゐる。かくて皇后は冬十月玄海の波濤荒ぶる間を加部島、加唐島、壹岐、 對島と辿(たど)りて新羅の國に旗鼓(きこ)堂々として攻め入らせられしも、新羅王 「波沙寐錦はさむきん(婆娑尼師今)」は戦はずして降り、金銀綾羅(あやぎぬ)など八十船を貢し、 天壌無窮貢献(こうけん)を怠らざることを誓ふ。またこの時、『三國史記』に依らば、実聖王元年(402年)先王たる奈勿王の第三子「未斯欣 (微叱己知波珍干岐みしこちはとりかんき)」を人質として倭へ送ると記せり。

即ち大矢田宿禰(おほやだすくね)を止めて此の國を監せしめ、皇后筑紫に凱旋して、 放装を唐津町四郊の丘上に干し給ふ、今の衣干山(きぬぼしやま)がそこである。 皇后最初懐胎し給ひければ、神に祷り石を取りて腰に挿み凱旋の日此の土に産まんと、 果して験ありて事なく還啓し給ひて、石を今の福岡縣糸島郡深江村子負原(こふのはら)に残し給ひ、 同縣粕屋郡宇美にて安らけく應神天皇を産みまゐらせられた。宇美はもと蛟田(かだ)といひしが 此の時より宇美と称するに至つた。


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