乾(本山)市郎平正厚
Inui Ichirobei Masahiro
(  -1869)


諱は正厚(まさひろ)。字は市郎平。幼名は楠弥太。土佐藩士乾左八正春養子。實は同藩士本山彦弥茂良の息子なり。禄は28石8斗。

文政13年(1830)11月24日乾左八正春病気にて、藩主山内少将豊資公は大切な末裔の途絶えるのを憂い、 特に命じて正春の実弟本山彦弥茂良(本名乾右馬之助茂良。のち本山伊平の養子となる)の息子本山楠弥太を、 正春の養子として家を継がしめた。

天保2年(1831)3月28日養父左八跡目五人扶持切府高十石之内の七石を下し置かれ、 格式新御扈従を仰せ付けられる。
元治元年(1864)5月13日京都において小目付役(小監察)御軍付御用仰せ付けられ、 同時に尹宮様(朝彦親王)御用向御勤務を仰せ付けられ、白銀50枚を下された。
同年(1864)7月17日長州兵の入京を阻止せんと欲し、薩摩藩士吉井幸輔、久留米藩士大塚敬介 らと議して連署の意見書を朝廷に建白し、その決意を求めた。
慶応2年(1866)6月に長防探索用を命ぜられ探索方として活躍。 子無きにより板垣退助の子、正士を後嗣とした。

 室 明神源八郎善秀姉


『御侍中先祖書系圖牒』旧土佐藩侯山内氏所蔵(高知県立図書館寄託文書)
『明治維新人名辞典』吉川弘文館(1981)
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