御同朋の社会を目指して!




tomoの同朋運動


 

「煩悩がある限り差別はなくならない?」
 以前、ある僧侶研修会で部落差別を中心とした差別の問題に関する討論会 (フリートーキング)を聞く機会があった。
 その中で、参加者の中から「人間に煩悩がある限り差別は無くならない!」とい った意見が複数出た。それに対して多くの参加者が頷き、誰一人として反論は出 てこなかった。

 本当にそうなんだろうか?
 確かに浄土真宗の教えでは、この娑婆世界に生きている限り、私たち人間(凡 夫)から煩悩をなくすことは出来ない。だから、人間社会から差別を根絶すること もできないないだろう。そう考える僧侶が多いのかもしれない。

 でも、本当にそうなんだろうか?
 正直な所、私には人間の「煩悩と差別心」の関係についてはよく分からない。
 でも、もしそんなことをお坊さん(住職や布教使)がご門徒さんの前、特に差別 を受けているご門徒さんの前で当たり前のように話していたとしたら、どう思うだ ろうか?
 もし私なら「何を偉そうなことを言っているんや!このクソ坊主が!!一人、悟 ったようなことぬかすな!」と思い、二度とその宗教には帰依しないだろうなと思 う。
 「煩悩と差別心」の関係なんて知ったことじゃない。被差別者にとっては、日々 の生活の中で差別されていることに対して痛みを感じ、苦しく、悲しく、何とかして そこから解放されたいと切に願っているはず。
 そんな人を前にして、権威染みた教義や教えを前面に出して、「差別はなくなら ない!」とお説教するとしたら・・。

 私たち僧侶は、「人々の苦しみ、悲しみに寄り添おう!」「誰でも訪れることので きる拓かれたお寺を目指そう!」と言いながら、一方では知らず知らずのうちに たくさんの人を傷つけていることはないのかな?
 私たちは大好きな仏様の教えを、有難い親鸞聖人の教えを、差別を肯定する 道具(手段)に使ってはいないのかな?「(煩悩があるから)仕方がない。アキラメ よ!」と。
 もしそうなら悲しすぎる。
 
 なぜ私たち僧侶が同朋運動として部落問題を中心とした差別の問題に取り組 んできたのか?なぜこれからも取り組んでいかなければならないのか?もう一度 考え直さないといけないんだろうな。
 自分自身のためにも・・
 

06.5.17(tomo)


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