御同朋の社会を目指して!


浄土真宗の戦争責任・私の見方




「本願寺教団が、新たな「戦死者」を「英霊」として顕彰しないために−教団の褒賞制度へ楔を打つ−」@
 賛同人の小武さんのご好意で、論文:「本願寺教団が、新たな「戦死者」を「英霊」として顕彰しないために −教団の褒賞制度へ楔を打つ− 」を2回に分けて公開させていただきます。
 05.5.6(tomo)



本願寺教団が、新たな「戦死者」を「英霊」として顕彰しないために
  −教団の褒賞制度へ楔を打つ−
              小武正教



◇はじめに−「国益」の名の下に

 二00五年三月二十日、米・英軍による一方的なイラク攻撃から二年を迎える。イラクでは、昨年には暫定政権が発足し、今年国民選挙が行われるに至ったたが、米軍の実質占領統治の状況は変わっていない。メディアの伝える回数は減っているが実際に米軍等への抵抗運動は続いており、米軍を始めとする「占領軍」の死者も一五百人を超え、イラク市民の死者に至っては十万人をゆうに超えると昨年暮れの段階で報道されている。
 日本の政府も二00三年十二月に自衛隊イラク派遣を閣議決定し、「自衛隊派が派遣されるのは非戦闘地域であること」「人道復興支援活動をおこなうのであり、治安維持などを担うものでないこと」等の制約の下、二00四年一月から自衛隊の派遣が行われて、陸・海・空の三隊一000人規模の自衛隊員がイラクの地で活動を続けている。
 政府がいくら「非戦闘地域に自衛隊は派遣する」といっても、いみじくも国会の場で小泉首相自身が、「イラクのどこが戦闘地域でどこが非戦闘地域か私にわかるわけがにない」「自衛隊のいる地域が非戦闘地域だ」という言葉に象徴されているように、「戦地」への自衛隊派遣であったことは明白である。自衛隊を派遣するが為の何百億というお金をかけ、NGOに委ねるなら三十分の一の費用で給水作業等をおこなうことができる「人道支援活動」なるものを自衛隊に行わせるのはなぜか。まさに、「戦地」であるイラクの地に、自衛隊を派遣し、そこに留まらせることそのことが政府の目的であることもハッキリしている。小泉首相が多様する「国益」という言葉にそのことが象徴されている。




◇奥大使・井上書記官の死への叙勲と日本人人質へのバッシング

  二00三年十一月二十九日、イラクに派遣されていた奥大使と井上一等書記官がイラク北部のティクリートで何ものかに襲撃されて死亡するという事件が起きた。イラク戦争がはじまってから初めての死者ということもあり大変大きな記事となった。十二月六日の葬儀の様子を日本経済新聞社は次のように伝えている。
 「イラクで復興支援業務中に殺害された外務省の奥克彦大使(45)と井ノ上正盛一等書記官(30)の葬儀が6日午前11時過ぎから都内の青山葬儀所で両家と外務省の合同葬として営まれた。川口順子外相が葬儀委員長を務め、小泉純一郎首相をはじめとする政府関係者や衆参両院議長、ベーカー駐日米国大使ら在京の各国大使館関係者など1500人以上が参列し、志半ばで倒れた両氏のめい福を祈った。
  葬儀に先立ちイラク復興での功績をたたえて贈られた奥大使の旭日中綬章、井ノ上一等書記官の旭日双光章を外相が祭壇に供えた。−中略−(小泉首相は)「お2人ともご家族の誇りであると同時に日本国、日本国民の誇りでもあります。私たちはあなた方の熱い思いと功績を決して忘れません。政府はあなた方の遺志を引き継ぎ、国際社会と協力してイラクの復興に努めていきます」と締めくくった。」 
 イラクへの自衛隊派遣の政府の閣議決定がなされたのがそのすぐ後の十二月九日である。大使館員二人の死とその葬儀は自衛隊をイラクへ派遣するためのセレモニーであったといえるのではないか。「国の意志に従い、国のために死んだものには、国はこのように讃えていく」という姿勢を国民に見せつける場でもあった。葬儀にあたっては間髪をおかず政府は奥参事官大使に、井ノ上三等書記官をそれぞれ二階級特進させている。殉職者を二階級特進させる慣例は、かつて日本軍でも行われおり、今でも自衛官や警察官、消防官の世界に引き継がれている。さらに「国家又は公共に対し功労のある方」に送るとする勲章(奥大使には従四位と旭日中綬章授与、井ノ上一等書記官は従七位と旭日双光章)が授与している。


  二00四年四月八日、イラクで日本人三人(高藤菜穂子さん・今井紀明さん・郡山総一郎さん)が人質となり、3人を拉致したグループから日本政府に自衛隊の撤退を要求される事件が起きた。全国各地から「人命尊重し、自衛隊を即時撤退させよ」という声が上がった。広島の地でも原爆ドームの前で集会やデモがくり返され、私の地元三次でも駅前街宣をくり返した。しかし小泉首相は「テロには屈しない。従って自衛隊は撤退させない」の一点張り、まさに最初に結論ありきというスタンスが見え見えで、政府の意志に反して行動した、まして政府の方針に反対している国民の生命など一顧だにしないという姿勢が表れていた。政府は何ら有効な手だてを打てないままの中、アルジャジーラなどを通しての犯人グループへの呼びかけや、イラク聖職者協会からの働きかけで4月15日に3人は解放されが、人質とその家族に対して、政府やメディア、それに扇動される形で一般国民による「自己責任論」というバッシングの嵐が吹きあれたことは忘れることは出来ない。読売や産経などは、人質家族の政治的背景とか、家族の一部が激高して自衛隊の撤退を求めた、デオ撮影の際に演出を受けたとか等々を取り上げ、あたかも国家の方針に反して行動する者に対する「みせしめ」と言わんばかりに批判し、無数のメールやFAXを家族へ送りつけられるという事態が生じたのである。人質となった人間が同じ民間人でも、政府の許可の下にイラクに入った報道陣やら企業の人間であったらバッシングをしかけた政府やマスコミの対応は違っていたことであろう。逆にイラク戦争を始めた当事国のアメリカのパウエル国務長官から「危険を知りながら良い目的のためにイラクに入る市民がいることを日本人は誇りに思うべきだ。もし人質になったとしても「危険をおかしてしまったあなたがたの過ちだ」などと言うべきではない」とのべる談話が紹介されたり、フランスのルモンド紙が「日本人は人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに、政府や保守系メディアは解放された人質の無責任さをこきおろすことにきゅうきゅうとしている」との報道が日本の記事となり目を引くありさまであった。
 十月二十七日には、イラクで再び香田証生さんが人質となり、自衛隊の撤退を要求されるという事件がおきた。小泉首相は即座に自衛隊の撤退を拒否、テレビに映し出される憔悴した両親のコメントは、自衛隊の撤退などには一切ふれず、「元気でもどってきてほしいとひたすら祈っている」というものだった。しかし今回は犯行声明を出したザルカウイグループによって香田さんは十月三十一日に遺体となって発見された。両親は「皆さんに非常にご迷惑をおかけしました」という謝罪の言葉を繰り返し、さらに政府に対しては、「一介の青年のため、国を挙げて対応していただきありがとうございました」と感謝の言葉を述べたと報道された。4月の人質事件におけるバッシングが日本国民にもたらしたものがここに表れているのではなかろうか。当の遺族が政府と社会に対する「お詫び」と「感謝」しか述べることが出来ない、怒りや不満、そして悲しみを公に露わにすることの出来ない社会が作られつつあるのを感じる。それは戦前、戦死した遺族の下に遺品が届けられた時、悲しみを押し殺して、「ありがとうございます」と感謝の言葉で受け取らなければならなかった時代とそんなに遠く離れていないように思われる。 
  そして政府のこの時の本音は、イラク派遣を引き続き延長しようという計画に影響を及ぼさないようにするかということであり、新聞には「首相、薄氷踏むイラク対応 派遣延長論議に影響も」という文字が踊っていた。




◇戦死者を想定した叙勲の変更、補償金は1億円

 イラク戦争開戦から二年、幸いにも自衛隊員に死者は誕生していない。もし、自衛隊に「戦死」者が出たとき、政府はどのような対応をするか、政府は当然のことながら想定してきたに違いない。そしてサマワの自衛隊宿営地にロケット弾が何度も着弾したり、イラクで活動をするイラク占領に反対する武装勢力などから日本も名指しで非難されている以上、いつ「戦死」者が出てもおかしくない状況は続いている。
  政府は自衛隊の「戦死」者を視野にいれ、2000年から「栄典制度の在り方に関する懇談会」を発足させ、2002年8月に「栄典制度の改革」を行っている。その一項目にこうある。
 「春秋叙勲とは別に、警察官、自衛官など著しく危険性の高い業務に精励した者を対象 とする叙勲の種類を設け、これらの業務分野における受賞者数を増やすことにより、受賞年齢の引き下げを図る。また、生命の危険を伴う公共の業務に従事し、その職に殉じた者の功労をより高く評価するとともに、民間人が生命身体を犠牲にして公共のための行為を行った場合にも、適正な評価を行う」
  さらに「勲章の授与基準」が2003年5月に閣議決定されているが、その最後に「緊急に勲章を授与する場合−各号の一に該当する者に対しては、その功績の内容等を勘案し相当の旭日章を緊急に授与するものとする」として一項が設けられている。


 (1)風水害、震火災その他非常災害に際し、身命の危険を冒して、被害の拡大防止、救 援又は復旧に努め、顕著な功績を挙げた者。
  (2)身命の危険を冒して、現行犯人の逮捕等犯罪の予防又は鎮圧に顕著な功績を挙げた者。
 (3)生命の危険を伴う公共の業務に従事し、その職に殉じた者
 (4)その他特に顕著な功績を挙げて、緊急に勲章を授与することを必要とする者。

  
 奥大使と井ノ上一等書記官の死には、この制定後約半年であり、葬儀においてすぐに「緊急の叙勲」が適用されたわけであろう。それは当然、これから予想される自衛隊の「死」に対しても適用されるべく改革されたものであることは言うまでもない。


 さらに政府はイラクに自衛隊を派遣するにあたり、自衛隊員の処遇を改善するため、「任務中に死亡または重度障害になった場合に支給される弔慰、見舞金の最高限度額を、現行の6000万円から9000万円に引き上げ、派遣に伴う特別手当も1日あたり3万円としたのである。さらに自衛隊員が任務中に死亡した場合、首相から特別報奨金(最高1000万円)も支払われるため、自衛隊がイラクで「戦死」した場合は1億円が支払われるということになったのである。




◇イラクで「戦死」した自衛隊員はどこに祀られるか

 ではイラクで自衛隊員が死亡するという状況がうまれた時、その自衛隊員はどこに祀られるだろうか。それが今、自衛隊員の「志気」を如何に保たせるか、別の言い方をすれば、「国家のために生命を捧げさせることが出来るか」ということに繋がって大きな問題として政府は考えている。
 日本を「戦争する国家」にするためには、「国に生命を捧げたものを祀り、後に続け」という所謂、靖国思想を体現した施設がどうしても必要となってくる。靖国神社への1985年の中曽根首相公式参拝がそうであるし、20001年からの小泉首相公式参拝も、国家の戦前の戦死者の慰霊追悼という意味以上に、新たな戦死者をいかに産み続けるかということに主眼があることはいうまでもない。「国のために死んだものを国が祀らなくて、新たに国の為に死ぬ者は生まれない」という85年の中曽根発言がそのすべてを物語っている。
 しかし、現行憲法下において、政府や自衛隊が、自衛隊員を靖国神社や護国神社に祀ることが出来ないことはいうまでもない。憲法第89条の「政教分離規定」によって、公的機関が一宗教法人である靖国神社や護国神社に係わることは出来ないからである。しかしながら、戦後においても自衛隊員が「殉職」した場合は各県の護国神社に祀られている。(しかし、戦死者に限定されていた"祭神"を靖国とは別に加えることに難色を示す護国神社などもおり、全てではない)
  今自衛隊員がイラクで死亡すれば、まず東京市ヶ谷にある「メモリアルゾーン」に祀られる。「メモリアルゾーン」には自衛隊殉職者慰霊碑が建てられ、追悼式は一九五七年からすでにおこなわれ、総理大臣の参拝もすでに一九五七年の岸、六二年の池田、八八年の竹下と続いて、九六年の村山からは毎年出席が続いている。そして二00三年九月に「メモリアルゾーン」として整備を整え、当時の石破長官は拶に立ち、慰霊碑地区整備に至る経緯について触れながら「本日この場において、御霊の御遺志・御偉業を自衛隊員の鑑として永く顕彰するとともに自衛隊の任務完遂のため最善をつくす」ことを誓ったと報道されている。
 しかし、「メモリアルゾーン」における顕彰で、死者の顕彰が澄むと考えていないからこそ、現憲法下における「靖国神社からのA級戦犯の分祀案」や「無宗教の国立追悼施設の建設」等の意見が政府の側から出されてくるのである。国民の誰もが認知する「国家に生命を"捧げた"者を顕彰施設」を、一時も早く作りたいということに、逆にイラクにおける自衛隊員の死をこそ利用しようとしているのではないかと思わざるをえない。権力をにぎった者はとことん国家の名の下に国民の死を利用しつくして、その目的を達成してきたのであり、それこそまさに靖国の構造・靖国思想である。

◇本願寺の褒賞制度の問題点

  奥大使と井ノ上一等書記官がイラクで殺害され、私の脳裏に浮かんだことの一つに、二人が本願寺派の門徒ではあるまいかということであった。実は本願寺派にも現在褒賞制度なるものがあり、毎年五月と十一月に褒賞授与が行われている。宗門法規の褒賞規定には次のようになっている。
 第一章 褒賞の種類
 第一条 宗門の褒賞は、左の二種とする。  一 特別褒賞。  二 普通褒賞。
 第三条 普通褒賞には、左に掲げる種類に、これを分ける。
  一 褒詞。 
  二 等級 優特、甲特、特等、一等、二等、三等、四等及び五等の順を設け、各等を一級乃至七級の次第に区分する。
  三 施功状 四 顕功状 五 感謝状 六 表彰状 七 褒物 左の通り分ける。     イ 院号法名 ロ 蔵版物 ハ 紋章付什物 ニ 肩衣 ホ 門徒式章 ヘ 念珠 
 第二章 褒賞の事由
 第八条 褒詞は、僧侶、寺院、寺族、門徒又は宗門に属する団体で、宗門又は社会に対して特に功労があったもの若しくは他の模範となる善行を行ったものに、これを    授与する。 
  特別褒賞の場合も事由はほとんど代わりがない。
 褒賞は、褒賞委員の審査を経てこれを授与することに「褒賞手続」に定めているが、国から叙勲されたような場合には、住職の申請によってほとんどそのまま「宗門褒賞」となっているのが実状である。


 本願寺はまがりなりにも、米軍のイラク戦争に反対の声明を出してきたし、自衛隊のイラク派遣にも反対の意思表示をしてきている。一方で米・英軍のイラク戦争とそれに追随する自衛隊のイラク派遣を批判しながら、他方では日本政府のイラク政策の最先端で働いて殉職し、叙勲された人を、そのまま褒賞するというのでは本願寺教団の一貫性がないばかりか、再び本願寺が国家による死者の利用・顕彰という靖国状況に加担することを恐れたのである。
  そして案の定、井ノ上一等書記官は宮崎県の本願寺派の門徒であることが判明した。申請されれば、今の教団において宗門褒賞を出さない理由が成り立たない。しかし、結果として井ノ上一等書記官の宗門褒賞の申請は上がってこなかった。もし申請が上がり宗門褒賞がなされたならと考えるとゾッとするのである。イラクに派遣された自衛隊員が死亡した時、すでに述べたように政府は大々的にその死を顕彰していくに違いない。それが本願寺派の門徒であって時、宗門褒賞の申請が上がってきたとした時、前例を作ってしまていたら、はたして「NO!」と言えるかということである。現行の宗門の褒賞制度の在り方、特に褒賞の事由について問題として論議してきたのだが、「人道世法をまもり」という宗門法規の宗風全体に係わる問題でもあり、一朝一夕にはいかない。そこでとりあえず、教団として出した声明に反するような宗門褒賞に楔を打つために4団体が共同して総長への申し入れを行った。




 浄土真宗本願寺派総長 不二川公勝 様
 2004年1月19日
 真宗遺族会事務局長 菅原龍憲
 浄土真宗本願寺派反靖国連帯会議事務局長 木村真昭
 備後靖国問題を考える念仏者の会事務局長 小武正教
 国立追悼施設に反対する宗教者ネットワーク事務局長 山本浄邦
 (連緒先)FAX O729一78−0850


   宗門の褒章制度に関する要望書

 貴職におかれましてはますますご清祥にて宗務にご精励のこととお慶び申し上げます。
 新年より、首相の靖国参拝への抗議・要請文提出等、ご多忙のことと存じます。
 さて、ご承知のように私たちの平和への願いに反して、政府は「イラク人道復興支援特措法に基づく対応措置に関する基本計画」により、自衛隊をイラクに徐々に派遣しています。
 これに対して宗門としてすでに反対の意思を明確にされておられることほ、さまざまな報道をつうじて私たちにも伝わってまいっております・この意思を最後まで貫いていただくことは当然のことと考えておりますが、加えてこの意思と矛盾すると思われる宗門の制度について、私たちの要望を申し述べたく存じます。
 それは、国家の栄典制度と連動した褒章制度の問題です。政府・与党は5年ほど前から自衛隊異の公務死に対する栄典制度を整備・強化する考えを明確にし、自衛隊員が今回のイラク派遣のような任務を「誇りをもって遂行」でさるように、栄典制度を改革しました。つまり、新たな戦死を国家が賛美するシステムとして栄典制度が機能しはじめているのです。
 一方、宗門の褒章制度は国家の栄典制度と一体化しているため、万が一、自衛隊員に戦死者がでて国家から叙勲された場合、現状のままでは宗門に所定の申請があれば事務手続さ上の不備がないかぎり宗門の褒章制度に基ついた対応がなされると考えられます。
 宗法には「宗門若しくは社会に対する功労又は他の標範となる善行に対して、宗則で定める手続さに従い、褒章を授与される」とあります。これでは宗門が「社会に対する功労又は他の模範となる善行」として戦死を賛美することになってしまいます。
 戦争を賛美した宗門の過去の過ちに学ぶならば、再び宗門が戦死を賛美することとなる現行の褒章制度を放置しておいていいものでしょうか。
 以上の問題点をご理解いただき、早急に現行の褒章制度を改定し咤ださますよう、強く要望いたします。
南無阿弥陀仏



 
 この要望は、教団にとってもタイムリーなものでもあったし、私たちからの要望を取り入れ、素早く具体的な対応に結びついていった。宗報9月号に二00四年四月二十日に開かれた第一回本部会議の要旨が以下のように掲載されている。




(協議内容 宗門褒賞制度について)
 
  現在、日本の自衛隊がイラクに派遣されています。イラク派遣終了後、国が自衛隊員に対し叙勲の対象とすることが考えられます。宗派からは総長名で2度にわたり小泉首相に大使、自衛隊イラク派遣を取りやめるよう要請文を出しています。現行の宗派の褒賞制度は、叙勲の対象者は住職の申請により褒賞を行っており、自衛隊員など、今回のイラク派遣関係者が叙勲の対象となった場合に、褒賞を行うべきかどうか協議を行いました。
 この問題について、宗派内の任意団体から基幹運動の視点から叙勲しないようにとの要望も出されており、関係する各委員会で協議を行いましたが、いずれの委員会等でも継続審議となっています。
 本会議では、反対しているイラク派遣に関する叙勲である点、基幹運動の重点項目の「非戦・ヤスクニの課題」の点からも褒賞を行うことには矛盾がある。また、国の後追いとなっている褒賞規定の運用そのものにも問題があるのではないか、といった意見が出されました。
 協議の結果、イラクに派遣された自衛隊員の方を宗派の褒賞対象とすべきではない、との方向性が出されました。




◇おわりに
  今の日本の状況は、日本を「戦争する国家」へと「国のかたち」を変えていくのか、やはり「平和憲法」の理念を生かした「戦争をしない国家」に留まるのか、選択の最終段階にさしかかっている。政府のイラク戦争への自衛隊の派遣への執念とそれへの栄典制度の改革等の準備を見るとき、すでに既成事実として外堀が埋められていることを思わざるをえない。しかし、叙勲という勲章とお金による補償でもその体制は完成しないこともまた露わになってきた。それが国家における戦死者の追悼というきわめて宗教的課題が残るのである。自民党が2007年に目指している憲法「改正」では、政教分離規定を見直して、首相の靖国参拝をクリアーしようという意見がすでに出されている。それは、靖国参拝にとどまらず、国家による追悼に道を開くものであることは十分予想される。
 本願寺教団は国の侵略戦争に協力し推進した過去を持ち、特に戦死した兵士に「軍人院号」を出して顕彰した歴史をもっている。再びおなじ過ちをくり返さないためにも、靖国国家護持や靖国公式参拝のみならず、それにつながる一つ一つに楔を打ち込むべく、ハッキリと意思表示をしてこそ、今この時代に本願寺教団の存在価値があるというものである。そのために、これからも教団の姿勢を糺すべく尻を叩きつつけねばならない。




 以上
 小武さん、ありがとうございました。
 原文はこちら→http://www.saizenji.com/page141.html

書籍の紹介:『解放の宗教へ』


 浄土真宗の戦争責任を考える上で、参考となる本を紹介します。

 『解放の宗教へ』 緑風出版 菱木政晴著 1998年12月8日刊
 
 目次
 第一部 宗教とはなにか
  ・宗教とはなにか 
   〜解放の宗教と支配イデオロギーとしての宗教

 第二部 宗教はいかに支配イデオロギーとなるか
  ・「靖国」という問題
  ・国家神道の宗教学的考察
  ・遺族の声とどく 公式参拝違憲
   〜京都・大阪靖国神社公式参拝違憲訴訟と戦没者遺族
  ・一九九0年即位の礼・大嘗祭とは何であったか
  ・日本仏教による植民地布教
   〜東西本願寺教団の場合
  ・日本仏教の戦争責任

 第三部 解放の宗教にむけて 真宗の場合
  ・解放の真宗の前提
  ・解放の真宗の基盤
  ・解放の真宗の実践

 あとがき




 本の内容ですが、「国家神道とは」「靖国神社とは」「浄土真宗の戦争責任とは」などについて具体的に述べられていてすごく参考になりました。
 書評などできませんが、私が一番印象に残った一節を本文から引用させていただきます。参考にしてみてください。

 05.2.21(tomo)




 「受容できないほどの悲しみを受容可能なものにするのは、宗教のひとつの機能ではあろう。しかし、受容すべきでないものを受容させ、諦めさせるように機能するのは、それとは異なる。日本仏教は、これまで差別による苦しみを前世の宿業や因縁として諦めさせるなどの差別助長を行ってきたが、侵略戦争に対しても、戦死の賛美によって受容するほかはないのだろうか。


 私は、そうは思わない。悲しみに対する仏教の基本的な立場は、それを共にすることである。戦没者とは「(侵略)戦争にかりだされて命を失った悲しい死者」である。もっと露骨にいえば、「強盗の手先とされて命を失った悲しい死者」である。教団は、この悲しみを共にしているだろうか。悲しみを共にしていれば、立派な死・喜ぶべき死などという冷酷なことは言えないと思う。

 悲しい死を共にすることは、その死のもたらされた原因や状況を如実に見る助けにならないだろうか。そしてそれは、死をもたらした国家社会の状況に屈伏し悲しみを押し殺してきた遺族に、時代・状況と批判的に対峙する「真実に生きる道」を共に歩む促しにならないだろうか。


 私たちは、悲しみを押し殺し状況に屈伏することを「信心」だ「癒し」だと誤解してきたのではないだろうか。

 そうではなく、仏教の信心の智慧は、状況にたいして批判的な認識を与えるものである。すなわち、侵略を行う国家は「神国」でも「皇国」でもない。つまり、浄土ではなく穢土である。この場が浄土ではなく穢土であるということは、われわれが浄土ではなく穢土を形成しているということでもある。穢土の現実に埋没し侵略に参加し友朋をその手先としてきたわれらは五濁悪世の罪人である。そういう批判的認識をもたせるものこそが「信心」とよばれるべきではないだろうか。

(中略)

 そして、そういう智慧の眼が開けることこそが仏教の癒し、仏教の救済であったはずである。仏教の戦争責任の自覚は、仏教の自虐ではない。仏教の救済であり、仏教の人間解放なのである。」



(第二章 仏教はいかに支配イデオロギーになるか「日本仏教の戦争責任」から引用)


「軍人院号」

 みなさんは「軍人院号」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?「軍人院号」とは、明治から昭和初期(敗戦まで)にかけて、本願寺教団(本願派)が戦争で戦死した門信徒に特別に下附した院号のことです。


 
 この「軍人院号」を考える前に、まず「院号」というものについて少し説明しておきます。
 「院号」の起源は、平安時代にさかのぼるそうです。嵯峨天皇が上皇となって出家したときに、都の一画に嵯峨院というのを建てて移り住み、自ら嵯峨院≠ニ称するようになったのがはじまりと言われています。これは、身分の高い人を名前で呼ばず、住まいや場所の名前で呼称するという中国の風習からきたものだそうです。つまり、もともとは仏教とは何の関係もなかったということですね。
 その後、貴族や武士、一部の僧侶などが生前の自らの権威を誇示するために戒名や法名の上につけるようになていったんだそうです。
 つまり、「院号」というものは、生前その人がどれだけの地位や位に就いていたかを知らしめるためのものだったようです。それがいつの間にか、仏教古来の"しきたり"みたいに考えられるようになっていったのではないかと思います。

 ちなみに現在でも、本願寺教団(本願寺派)では、「院号」を門信徒や僧侶に下附していますが、その意味づけは、『院号下附状』に次のように書かれています。

 「「院号」は、法名の上につける名称で、寺院の名をもって、そこに住む僧侶を呼ぶ風習が、平安時代ごろから起こり、後には居住する寺院の名に関係なく「○○院」の称号を用いることになりました。現在、本願寺では宗門の護持発展に功績のあった人に対して、院号が授与されます」
 
 まあ、実際には、一般寺院の住職や僧侶、本山に一定以上の懇志を納めた門信徒に授けられるそうです。




 さて、話を「軍人院号」に戻します。
 1894年(明治27年)、日清戦争が始まった翌年、教団は一般寺院に対して次のような通達を行ったそうです。

 「今般本派門徒にして従軍戦死の将校及び相当官以上には御染筆御染筆院号法名授与、下士以下には御判形法名授与と相成候條、格壇寺におけるは勿論、隊名官名等を記し組長総長を経て本山へ差出すべし此段相達候事」

 つまり、戦死した門信徒には特別に「院号」を授与するので本山に申し出ろということだと思います(将校と下士官との差はあるけど・・)。


 また、1937年(昭和12年)、日中戦争が始まると、文部省から本山に対して次のような通達が出されたそうです。

 「宜しく信徒を教導し正しく時局を認識せしむるに努め以って国民たるの本分を守もらしむと共に協力一致いよいよ国民精神の振作に遺憾なきを期せられ度」


 この通達を受けて、本山は一般寺院に対して当時の教団の機関誌で次のように通達しています。

 戦病死者御扱
 イ、将校 院号法名 弔慰状 龍谷香
 ロ、兵士   法名 弔慰状
 この場合住職は兵科、位階、勲等、氏名を明記し、官事を経て願出すること。


 つまり、政府の意向を酌んだ教団は、当時「院号」を下附されることなどほとんどなかったであろう一般の門信徒に対して「軍人院号」を授けることで、兵士の戦意向上に役立たせようとしたのですね。また同時に、戦死した門信徒の遺族の悲しみ、怒りというものを、「軍人院号」を授けることにより、納得のいく名誉の戦死≠ノすりかえていったのでしょうね。



 でも、このやり方ってどこかで聞いたことありませんか?そうです、靖国神社です。戦死者を "日本の国のために貢献した"英霊として祀ることにより、兵士の戦意を向上させ、遺族の悲しみをそらせ、「お前達もあの人たちに続け!」と国民を鼓舞させる靖国神社です。
 本願寺教団も、同じようなことをしていたのですね。だからこそ、今、私たち教団人は「靖国問題」にも積極的にかかわっていかなくてはならないのでしょうね。

05.1.13(tomo)



参考資料:『ブックレット基幹運動NO.4 法名・過去帳』 浄土真宗本願寺派刊

聖教削除
 太平洋戦時下、戦時国家体制に迎合した本願時教団は、聖教の削除や変更を行ったそうです。

 たとえば、私たちの教団(本願寺派)では、親鸞聖人が著された『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を、「御本典」と呼び、宗門にとって最も大事な根本の聖典としています。その「御本典」のなかに、「主上臣下、法に背き義に違(い)し、忿(いか)りを成し怨みを結ぶ」という箇所があります。現代語訳すると、「天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心をいだいた」という意味です。
 この部分は、旧仏教側からの要請を受けた当時の朝廷が法然上人をはじめとする念仏者に大弾圧をおこなった※「承元の法難」に対する親鸞聖人の痛烈な批判が述べられている箇所です。

 しかし、当時の教団は、この箇所の「主上」の部分を、天皇に対して不敬の恐れがあるとし、本山みずからの手で削除したそうです。具体的には、その部分を読まないように墨で黒く塗りつぶしたそうです。

 親鸞聖人を開祖とする私たちの教団は、「御本典」と仰ぐ聖教までも削除、変更し、当時の戦時国家体制に積極的に協力していった悲しい歴史をかかえています。




※承元の法難(1207年)
 法然上人の専修念仏の教えに対して、聖道門(旧仏教教団)の人たちから非難がおこり、興福寺から「念仏停止」の奏状が出され、それを受けた当時の朝廷が、風紀を乱した≠ニいう無実の罪により、念仏の一門に対する大弾圧が行った。その結果、数名の弟子が死罪となり、法然上人は土佐国へ、親鸞聖人は越後へと流罪に処せられた。

05.1.11(tomo)



参考資料:『平和問題・ヤスクニ問題研修カリキュラム』 本願寺出版 基幹運動本部事務局刊
       『浄土真宗聖典註釈版』
       『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語版』

聖徳太子安置形式
 みなさんは、浄土真宗本願寺派(お西)の一般のお寺の内陣(仏様が安置されているところ)を見たことがあるでしょうか?
 一般には、中央にご本尊・阿弥陀如来様の木像が安置されており、向かって右側(左脇壇)に親鸞聖人、左側(右脇壇)に蓮如上人若しくは先師上人(本願寺の前門主)の御影がかけられています。そしてさらにその外側には、親鸞聖人の向かって右横(左余間)に聖徳太子、蓮如上人若しくは先師上人の向かって左横(右余間)に七高僧が安置されています(例外もありますが)。

 しかし、昔はこの順番ではなかったそうです。ご本尊、親鸞聖人、蓮如上人までは変わりありませんが、以前は七高僧が右側、聖徳太子が左側に安置されていたそうです。つまり、形式上、七高僧が聖徳太子よりも上座におかれていました。
 
 ところが、1939年本山から一般寺院に向けて次のような通達が出されたそうです。

 末寺一般
 今般 聖徳太子奉安様式ヲ別記ノ通相定ム
 昭和十四年九月十六日
 執行長 本多 恵隆
 (別記)
 一、太子影ヲ本堂ニ安置スル場合ハ 向ッテ右余間ニ奉安スヘシ
 追而七高僧御影ハ向ッテ左余間ニ安置ス
  (略)

 このような通達が出され、それ以後、七高僧が聖徳太子の下座に安置されるようになり、現在に至っているそうです。

 なぜでしょうか?ちょうど1939年というと、日本は十五年戦争と言われる侵略戦争の真只中であり、国内においては天皇の権威を一層強めることで、軍事体制の強化を図っていた時期だったそうです。
 そんな時に、「天皇家につながる聖徳太子が、インドや中国の僧侶である七高僧よりも下座≠ノ位置することは不敬にあたり、当時の天皇中心の国家体に抵触する」(『親鸞と差別問題』法蔵館 小武正教著)といったような理由から変更されたのではないかということです。
 この外にも、戦時中、本願寺教団は戦時教学というものを作りだし、積極的に戦争に協力していったそうです。

 そして、このような経緯や各方面からの批判があるにもかかわらず、現在でもなおこの聖徳太子の安置形式は本願寺教団によって訂正されていないそうです。

05.1.9(tomo)

参考資料:『親鸞と差別問題』法蔵館 小武正教著
      『平和問題・ヤズクニ問題研修カリキュラム』ブックレット基幹運動NO.5 浄土真宗本願寺派

浄土真宗の戦争責任
 戦時中、浄土真宗(本願寺派)がどのように戦争に協力していったのか、当時の教団の機関誌『教海一瀾』より引用しましたので、参考にしてください。
 
 前回の「お釈迦様の言葉・親鸞聖人の言葉」と読み比べてください。



 『教海一瀾』第八四二号より
 「人類は平和を要求する。真実に平和を確保するものは軍隊である。然るに世間には智慧の足らない者があって戦争と云つたら何でもかんでも反対するものがある。これが所謂平和論者である。・・・仏教も、軍隊も、倶に平和を目的とする。平和を目的とする為に戦争をする。これは自然の順序として止むを得ないことである。」




 『教海一瀾』第八四六号より
 「今吾等の起たむとするは、まさに正義の為に剣を取るの正義の戦争であります。・・・正義のためには戦をも亦辞せざる勇気を有(も)たなくてはなりません。・・・
 仏教には「摂受折伏(しょうじゅしゃくぶく)」「破邪顕正(はじゃけんしょう)といふことが教えられています。摂受の慈悲忍辱(にんにく)も、時には折伏の忿怒(ふんぬ)と現ずるのであります。正法の旗の下には、破邪の利剣も亦欠くべからざるものと教えられています。正義のための刃こそは、軈(やが)て亦真実の平和をもたらす活人(かつじん)の剣であります。」




 『教海一瀾』第八四七号 「仏教と戦争」より
 「「仏教に於いて戦争が果して肯定されるか」、「若し肯定されるとすれば、果して如何なる意味に於いて肯定されるのであろうか」。非常時日本の仏教徒の脳裏に浮かぶ問題の一つである。正義を愛し、人道を重んずるわが国家、世界、殊に東亜の平和のために力をつくすわが国家が、正義のため、人道のため、平和のために戦ふことは、仏教徒たると否とを問はず、全国民の最大の義務である。殊に我が浄土真宗に於いては、真諦俗諦両全を教旨とする宗祖親鸞聖人は、「朝家の御ため国民のため」と教へられ、蓮如上人は、「王法為本」と諭された。「詔(みことのり)を承けては必ず謹め」と垂訓し給ふ聖徳太子を俗諦門の師表と仰ぐ吾が真宗の宗徒は、かしこくも天皇の御名に於て行はれる戦争に率先して従つている。(略)
 仏教が一切の戦争を否定するかの如く誤解することは、仏教の精神を充分に理解しないからである。」


 「殺戮鏖滅(さつりくおうめつ)は戦争の本義であるが、かかる行為が仏教の不殺生戒の精神に合致しないといふ非難も、制戒の精神を忘却した抽象的形式論である。凡そ戒律といふものは、仏陀が教団統制上、所請随犯随制として、随宜随処に弟子の行為を警戒された所にその起源が存するのであって、それを後の偏狭な小乗教徒の如く、形式的に固執して律法化するが如きは、制戒の根本趣意を見失ふたものである。もし不殺生戒を以て形式上絶対に守るべきものであるとするならば、吾々は戒律を厳守せんとする限り、地上生活の逃避を企てる外に、道なきに至るであろう。かくのごときは仏陀の真意ではない。」


 「「正法護持の為に」といふ如き、正しき理由を有し、しかも止むを得ざる場合の戦闘行為は、大乗仏教に於ても充分これを認めているのみならず、寧ろ法身獲得の因縁として積極的にこれを勧励し、賞揚しているのである。(略)
 衆生救済のための護法の戦争が肯定されることを述べたのであるが、仏教にては更に進んで一般護国のための戦争も、亦明らかに是を是認する。勿論この護国のための戦争が、正義を擁護し、平和を希ふための義戦であることを申すまでもない。」


 「北支の風雲愈々(いよいよ)急を告ぐるの秋(とき)、吾々は固く仏陀の教旨を尊信し、王法為本の宗風に遵び、皇国の為め、正義の為め、将(ま)た又正法のために、立信報国の誠意を抽(ぬき)んでなくてはならない。」

05.1.6(tomo)

参考資料:『親鸞さまと歩む道C 戦争と差別』 本願寺出版社 岩本孝樹著



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