犬山城

 所 在 地   愛知県犬山市犬山  別 名   白帝城
 遺 構   天守・堀・石垣門(再建)  形 式   平山城
 築 城 者   織田信康(信長の叔父)  築 城 年   天文6年(1537)頃
 歴 史  犬山城は、織田信康(織田信秀の弟・信長の叔父)が、天文6年(1573)に三光山に築城したことに始まる。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに際して、 織田信雄の清洲城の支城となっていた犬山城は落城する。
天正18年(1590)、 石川光吉が入城し、今の規模に整備される。石川光吉は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れる。
慶長6年(1601)、小笠原吉次が入城する。この頃 天守が建築される。
元和3年(1617)、尾張藩付け家老の成瀬正成が、城主となる。
慶応4年(1868)、明治維新に際し、成瀬正肥は、諸侯に列せられ、立藩する(3万5千石)。
歴 代 城 主 織田氏・池田氏・中川氏・加藤氏・武田氏・土方氏・長尾氏・三輪氏・石川氏・小笠原氏・平岩氏、明治まで成瀬氏歴代


木曽川が屈折する地点の急峻な丘陵の上に城が立つ。

三国志を詠んだ李白の詩からとって、荻生徂徠によって白帝城と命名されたといわれる。
天守
(現存12天守の一つ 国宝)

(構造) 望楼型
(重・階) 三重四階、地下二階
(形式) 複合式
(高さ) 約18m

二重櫓の上に望楼を載せた典型的な望楼型天守

現存天守のなかでは最も古い。

正面に付櫓を出張らせた複合式天守であり、地階の踊り場を含めると内部六重、外観三階。


石垣上の一階と二階部分は慶長6年(1601)に建築され、元和6年(1620)に三階部分の唐破風と四階部分を建て増し。

石垣は野面積みで、あまり高くなく、約5m。
最上階の廻縁高欄、その下の大きな向唐破風が目立つ。
最上階の二つの華頭窓は形だけで実用性はない。
石落しは一箇所のみ。
石落しの間を出張らせて、側面に横矢用の窓が形成されている


天守内部
天守地階 天守一階 武者走り
      天守一階 上段の間
武者走り
に囲まれて4部屋がある。西南の部屋が畳敷きの上段の間であり、籠城の際に城主の居所となる。
天守一階 石落しの間
天守三階 天守四階 廻縁と高欄


本丸門
再建
(模擬?)


明治維新後も、天守以下、多くの櫓なども残されたが、明治24年(1891)の濃尾大地震で、天守以外が崩壊した。
このとき、天守も被害を受け、修理を条件に旧城主成瀬家に譲渡された。これ以後、成瀬家の個人所有であったが、現在は財団法人の所有となっている。

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