文法的世界
【1】前口上、二つの論点
私がnoteに投稿している「××的世界」シリーズは、これから始める「文法的世界」で第二部を終え、つづく第三部として、現時点で想定してい
る三部作──「修辞学的世界」「イメージ論的世界」「註釈学的世界」──をもって、完結の運びとなる予定です。
この「連載」で私が試みたのは、もうかれこれ20年近く取り組んできた「哥とクオリア/ペルソナと哥」という論考群から、よく言えばそのエッセ
ンスを抽出し、異なる文脈・論脈のもとでさらに“磨き”をかける、といったことですが、これを有体に言うと、書きっ放しのまま放置し、その後存分
に展開させることなく消失しかけているアイデアの素のようなもの(思いつきとも言う)を、あらためて俎上に乗せ、吟味し、使い勝手のよい概念に仕
立てあげることでした。
文法をめぐる話題などは、その最たるもののひとつです。「推論的世界」でも、「夢世界の原理が変容して「四つの文法カテゴリー」の成立と同時に
出来あがってきたのが現実世界の原理なのではないか」といった──ある意味では、哲学と歌論(永井均著『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬著『花鳥の使』に
代表される)がオーバーラップする領域において、何事か言い立てようとする企ての核心をなす──“アイデア”に言及し、そこでもまたそれ以上踏み
込ま(め)ず、先送りしていたのでした[*1]。
さて、以上を前口上として、それでは「文法的世界」の試みを通じて、私はいったい何を論じたいと思っているのか、このことについて書いておこう
と思います。
論点は二つあって、その第一は、すでに前口上のなかで述べた事柄、つまり、文法カテゴリーによる現実世界の構成をめぐるものです。カントの「超
越論的構成」の向こうを張るつもりなど毛頭なくて、強いて言えば、永井哲学における──永井均氏が表立ってそんな議論をしているわけではありませ
んが──独在論的な「頽落」(キェルケゴール的な実存論的飛躍に対するヘーゲル的頽落?)もしくは「(夢からの)覚醒」あるいは──これについて
は永井氏自身が何度か言及している──「受肉」のメカニズム、といったことについて考えてみたいということです。
「推論的世界」の最終節で、夢の原理を構成する四つの体験フェーズと四つの文法カテゴリー、四つのパラドックス(アナロジー)を四つの推論様式
と関連づけ、そこに第五の推論(伝導)を位置づけました。「文法的世界」の第一の課題は、この関係図を“解明”ないし“展開”することである、と
言っていいでしょう。
①演繹 時間の変容/相(aspect)・時制(tense)/裏と表の縫合
②帰納 虚構の現実化/様相(modality)/内と外の往還
③洞察 自己の分裂/人称(person)/一と多の連結
④生産 他者への変身/態 (voice)・法(mood)/無と有の反転
➄伝導 ー /無時制・無様相・無人称・無態/ ー
第二の論点。
「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第80章2節で、私は、紀貫之⇒本居宣長⇒西田幾多郎(⇒時枝誠記)⇒今西錦司という「存在語(詩語)」をめ
ぐる系譜について簡単に触れ、その註に、次のように書きました。
……金谷武洋氏は『日本語と西欧語──主語の由来を探る』第一章「「神の視点」と「虫の視点」」の「三上章と西田幾多郎」の項の直前に、「今西
錦司は三上章と旧制三高で同期だったが、三上がいなかったら僕の進化論はなかったとまで言明している。(略)
貫之と今西錦司を結ぶラインのうちに、時枝誠記ではなく三上章を据えた別の系譜を引くことができる(浅利誠著『日本語と日本思想──本居宣長・
西田幾多郎・三上章・柄谷行人』などに依りながら)。……
私が取り組んでみたいと目論んでいるのは、(どこまで迫れるかは別として)、まさに、ここで書いた「別の系譜」を探索することにほかなりません
[*2]。それは、ある意味では、「文字的世界」の続篇であ(り、同時に「註釈学的世界」や「修辞学的世界」へ向けた予備的考察でもあ)ると言え
るでしょう。
[*1]本文に書いたもののほか、文法に関連して心残り(手付かず)になっている事柄をいま思い出すまま書きつけてみると、次のようなリストにな
る。
○坂部恵著『かたり──物語の文法』から切りだした概念群。──神話的アウラを帯び、記憶を絶した「インメモリアル」な時間、科学が理想とする
「無人称性」ないし「無限人称性」、対して詩の特質である「多重人称」ないし「原人称」、一回的かつ繰り返し・逆転不可能な過去の出来事を述べる
「アオリスト」(語部の時制)、等々。
○日本的感性のモチーフ群を「語彙」(要素的なもの)と「文法」(複合的な関係性)の二部に分類し考察した佐々木健一著『日本的感性──触覚とず
らしの構造』。その文法の部で論じられた事柄。──転身するわれに伴う未来完了の時間意識、融通無碍に移動する人称世界、世界の現実性とわれの実
在性の喪失、はては言語構文の攪乱、等々。
○内田樹『死と身体──コミュニケーションの磁場』が引用するラカンの言葉。──わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際に
あったことを語る単純過去でも、いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でもない、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点
においてすでになされたこととして語る前未来なのだ。
○浅利誠著『日本語と日本思想──本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人』から。──七五調、五七調を包括した歌学(詩学)の研究という意識が
宣長にはあったのではないか。この韻律形式こそは「係って=結ぶ」という形式を通して発現されていると考えていたのではなかったか。そして「係り
結び」を宣長は構文論(非歴史的なもの)と文字論(歴史的なもの)との交差点にあるものとして意識していたのではなかったのか。係り結びとは、宣
長に言わせれば、係って結ぶという構文論的現象であると同時に、文字論的には、辞が主要な役割を担いつつ、係助詞と文末の言い切りの間で織りなさ
れる「歌(和歌)」の生命線をなすものだったということになるのではないのか。
[*2]「存在語(詩語)」の系譜にかかわるもうひとつ別の系譜──「折口信夫⇒(時枝誠記/三浦つとむ⇒)吉本隆明」──を考えることもでき
る。
あるいは折口信夫と同時期、慶應義塾大学教授であった西脇順三郎の門下生にして、(安藤礼二氏によると)折口信夫の営為の真の意味での完成者で
ある井筒俊彦をこの系図に書き込むこともできる(「折口信夫⇒(西脇順三郎⇒)井筒俊彦」)。
【2】リベラルアーツとイメージと文法─文法の諸相(1)
まず最初に、文法をめぐる“イメージ”を膨らませておきたいと思います。以下、思いつくまま順不同で、いくつか話題を拾います。
その1.リベラルアーツと文法[*]
神田房枝著『知覚力を磨く』にこんなことが書いてありました。
いわく、文法学・論理学・修辞学の「3学」と算術・幾何学・音楽・天文学の「4科」からなる西洋の「リベラルアーツ」の核心は、「教養を広げる
こと」や「幅広くいろんな知識を学んで、それを融合させること」などではなく、「知覚を起点とする知的生産のトレーニング体系」だった。
「人文科学は、明確な答えがない問いに対して、自分なりの答えを提案していく学問です。例えば「幸福とは何か?」には、無数の正解があり得るで
しょう。この問いに答えようと思えば、あらゆる角度から問題を観て、思考し、それを言葉に落とし込んでいく作業が必要になります。人文科学におい
ては、リベラルアーツの3学(文法学・論理学・修辞学)が目指していたような知的生産の3ステージ(知覚・思考・実行)が自ずと鍛えられるので
す。」
リベラルアーツの基盤である3学のうち、「論理学」は「真実を知るためにいかに考えるかというクリティカル・シンキングや分析的思考のための手
順やルール」を教え、「修辞学」は「説得力・影響力・プレゼン力を重視したコミュニケーション」を中心に「相手と考えを共有する際の戦術や伝え
方」を学ぶといった具合に、現代とさほど意味の違いはない。「文法学」は、その名称から「単なる言語の習得」だと勘違いされているが、「単に文法
ルールの暗記科目」などではなく、パターン認識トレーニングであり、また部分を全体へと関連づける能力を育てるといったまさに「知覚の向上を目的
にした言語学習」だった。
「そもそも。古代ギリシャ、ルネッサンスから20世紀半ばまで、リベラルアーツの文法学で教えられてきた古代ギリシャ語・ラテン語は、日本語や英
語とは異なる総合的言語です。これらの言語においては、文中の単語の数・性別・関係性・機能などの情報が、何百パターンという特別な語尾変化に
よって表されます。学生たちが文法学で取り組んでいた課題は、いわば徹底したパターン認識トレーニングでした。」
──リベラルアーツにおける「文法学」、それは具体的にはラテン語、そしてその文法の源流となった古典ギリシャ語を学ぶことだった。それらを通
じて「知覚の向上」を図ること、すなわち「パターン認識」の能力と「部分を全体へと関連づける」能力を育てるということは、ある物事や出来事、事
象の全体的な“イメージ”を大掴みに、かつ精密に把握する能力を培うことにほかならないだろう。
その2.イメージと文法
古田徹也氏は『はじまりのウィトゲンシュタイン』の中で、“イメージ”という言葉をめぐって次のような議論を展開しています(第二章第三節)。
いわく、人はときに「人間の行動は石の落下運動や天体の運行のようなものだ」といった記号列に触発されて、あるイメージのもとに人間の行動を見
ようとする。物事に対する特定の見方や活動の仕方を大雑把に表すこうした物言いを──というより、こうした物言いをするときに人が抱いているイ
メージを、後期ウィトゲンシュタインはしばしば「像(Bild)」と呼ぶ。
あるイメージで物事を捉えているときに、何か絵や映像のようなものが実際に念頭に浮かんでいるかどうかは、本質的でない。我々はしばしば、ある
物事の諸特徴を別の物ごとに重ね合わせるかたちで──たとえば、川の流れの諸特徴を時間に適用することで──物事をおおまかに捉えようとするが、
この種の把握の仕方にとって、視覚的なイメージそのものは肝心ではないのである。
こうした違い、すなわち、(1)人がときに実際に頭に思い浮べるイメージそれ自体(=心的な絵、映像、写真の類)と、(2)何かのイメージで物
事を捉えるということ(=何かになぞらえて物事を把握するということ)とをはっきり区別するために、後者の(2)の方の意味で言われる「イメー
ジ」を、特に「像」という言葉で表していく。そして、あるイメージで物事を捉えることを、ある‘像のもとで’物事を捉える、とも表現していく。
この第二の意味での“イメージ”すなわち後期ウィトゲンシュタインの「像」は、ゲーテ形態学における「原型」につながる(第二章第七節) 。
「…ゲーテが「原型」と呼んだものは、ウィトゲンシュタイン流に言えば「像」にほかならない、ということになる。葉を[個別の事象を関連づける]
連結項にして植物の各器官──子葉、幼根、花弁、萼など──の間に類似性を見出すというのは、‘葉のイメージで’植物の各器官を捉えるというこ
と、つまり、‘葉の像のもとで’植物の各器官を捉える、ということだ。…〈葉のイメージで捉える〉といっても、その際に我々は具体的な形や色をし
た個別の葉をイメージしている必要はない。その意味で、ここで言う〈葉のイメージ〉ないし〈葉の像〉とは、現実に存在するどの個別の葉とも異なる
抽象的なものだとも言える。」
──物事の全体的な“イメージ”を(パターン認識と部分・全体の関連のもとで)大まかに掴むこと、あるいは物事に対する特定の見方や活動の仕方
を大雑把に言い表すことが、つまり文法のはたらきにほかならない、そこにおける“イメージ”とは心的イメージそのものではなく、ある「像のもと
で」物事を捉えること、つまりある物事の諸特徴を別の物ごとに重ね合わせるかたちで把握することである。
[*]2021年6月9日に開催されたローマ日本文化会館主催のオンラインセミナー「日本語教師のためのリベラルアーツ入門」(講師:山本貴光・
吉川浩満・多久和理実)《https://www.youtube.com/watch?v=9RnHVhpYApE》における山本貴光氏の発言
(摘録)。山本氏はここで、ラテン語を学ぶ効能といった文脈において、戦国時代のポルトガル宣教師ジョアン・ロドリゲスが作った日本語文法書『日
本大文典』を紹介している。
いわく、それまで日本には歌学のための文法研究(係り結びがいい歌になるにはどうしたらいいかといった実用本位のもの)しかなかった。日本語の
システムはどうなっているかに本格的に取り組むため、ロドリゲスは宣教師たちの基礎教養であったラテン語文法の見方で日本語を見た。
たとえば日本人は品詞を三つしか考えていない──名(名詞)と詞(動詞)とてにをは──がラテン語に照らせば品詞は八つだというところから日本
語文法をつくってしまったのである。
しかも『日本大文典』は単なる文法書ではなく「手紙の書き方」(敬語の使い方)や当時66か国の国名や役職名まで書いてあって、イエズス会士た
ちの日本(異文化)理解にとても有効なものだった。この事例からも西洋中世のリベラルアーツがいかに役に立つものであったかが分かる。
【3】純粋文法と哲学的文法─文法の諸相(2)
今回と次回、三人の哲学者と文法のかかわりを瞥見します。いずれも“先達”の肩に乗って。まず今回は、初期フッサールと中期ウィトゲンシュタイ
ンにおける文法の意義をめぐる黒田亘氏の論考を(まるごと)参照します。
その3.純粋文法と哲学的文法─フッサールとウィトゲンシュタインと文法
◎黒田亘「現象と文法」(『哲学』1975巻25号)[*]
《https://doi.org/10.11439/philosophy1952.1975.38》
<フッサールの「純粋文法」─暫定的な意味志向の自律性>
著者は、フッサール初期の『論理学研究』における「意味論的還元」のプロセス──⓪「表現」と「指標」の機能的区別、①身振り・表情記号の表現
からの分離、②告知作用の分離・表現機能の独話への限定、③「孤独な心的生活」における表現作用からの記号の物理的存在の排除──を批判的に分析
したうえで、「フッサールにおいて、一般に「意味」の概念は「真理」の概念に従属する」と結論づけている。
「意味志向の自律性という…契機も、『論理学研究』の中でたしかに重要な役割を担っている。例えばフッサールは第四研究において、論理学のもっと
も基礎的な領域をなすものとして、「純粋文法」を構想し、「意味の妥当論」に「意味の形式論」を先行させるが、この重要な提案も、…「意味」の
「真理」への従属というフッサール意味論の基本的な体制を破るものではない。その証拠に「純粋文法」という名称は、第二版において「純粋論理学的
文法」とあらためられる。フッサールは、この理念といえども対象的妥当性という認識の目標によって限界づけられており、「一般的・文法的なアプリ
オリ」の全域に広がるものではないことを自ら認めたのである…。つまり意味志向の自律性は、やがて認識過程に吸収されるという予約つきの、暫定的
な自律性にすぎず、デリダの簡潔な表現を借りて要約すれば、「意味は真理の先取りとしてのみ真理に先行する」[高橋允昭訳『声と現象』186頁]
のである。」
<ウィトゲンシュタインの「哲学的文法」─アプリオリな意味の形式>
ウィトゲンシュタインが『哲学的考察』で用いた重要な用語である「現象学」は「文法」とも言いかえられる。
「例えば色彩空間の現象学的記述は、同じ色彩概念の体系に属する諸規定について両立の可能と不可能をさだめる、アプリオリな意味規則を示すものだ
からである。ヴィトゲンシュタインのこの構想は、疑いもなくフッサールの「純粋文法」の理念に基づいている…。」
ウィトゲンシュタインの後期思想は、『論理学研究』のフッサールとの対決を通じて築かれた。『哲学的文法』(1931~34)第一部は、現象学
的意味論に対する批判作業の記録と見ることができる。
「『哲学的文法』という標題も、『論理学研究』とこの書の密接なつながりを示すために選ばれたのであろう。これはフッサールが「純粋文法」の理念
を説明するときに用いた言葉であった…。言語過程に関する経験的な諸事実はことごとく捨象し、もっぱらアプリオリな意味の諸形式、諸法則を研究し
ようという「哲学的文法」の理念をヴィトゲンシュタインはフッサールから継承したが、彼の追究する文法からは、言語表現の意味を構成する精神的な
志向作用、という想定は徹底的に排除されねばならなかった。」
<志向作用の契機を言語から除外する①─記号置換の文法規則、言語の自律性>
『論理哲学論考』の(初期)言語観を背後から支えていた「志向作用」──あるいは「画像把握」
Bild-auffassung──の想定を徹底的に問いなおす作業を軸にして、(中期)ウィトゲンシュタインの思索は進められた。
それでは、どのようにして志向作用の契機を言語から除去することができたか。『哲学的文法』におけるヴィトゲンシュタインの議論を、とくに重要
な二つの問題について要約する。
第一、「直示的定義」の考察。
「われわれが知覚野の内に現存する対象をまなざしで、あるいは身振り手振りで指し示しながら、「これはバラ」、「これは赤」などと子供に教える場
合、実際にわれわれが行なっているのは、「バラ」とか「赤」とかいう言葉の意味を身振りの記号を用いて説明することではないか。言いかえれば身振
りの記号を言葉に置きかえ、翻訳する規則を示すことではないか。つまり直示的定義は、言葉による言葉の定義と同様に記号の置換規則
(Ersetzungsregel)を示すものであり、文法規則の提示として解釈することができる。」
直示的定義のこの解釈には、二つの重要な思想的契機──①言葉と身振りの連続的把握、②「意味の説明」によって逆に「意味」を定義し、意味の実
体化を徹底的にしりぞける操作主義の見解──が含まれている。
「…ヴィトゲンシュタインは、直示的定義をめぐる考察の結論としてこう述べる、「《言語と実在》の結合は、言葉の説明によってもたらされる。これ
は言語の記述に属することであり、したがって言語はそれだけで完結したものとして、自律性を保ちうるのである」…。「言語の自律性」というこの主
張こそ、『哲学的文法』の根本命題であり、過渡期におけるヴィトゲンシュタインの思索のすべてはこれに向けて収斂したと言ってよい。子の自律性
は、何よりも意識の志向作用に対する自律性を意味している。記号操作を背面から生化する意味作用の仮定は、もはや意味考察の全域から排除されるべ
きものである。「意味は文法の規則によってはじめて規定され、構成される」…からである。」
<志向作用の契機を言語から除外する②─言語ゲームへ>
第二、期待・願望・意欲・探究・希望・恐怖といった、まだ実現されていない事態にかかわる体験の分析。
ここで筆者は、期待の体験を例にしてウィトゲンシュタインの議論の大筋を示している。問題の基本構造(「期待」とそれを満足させる「対象」とそ
れらを結合する精神の「志向作用」)は、直示的定義の場合と変わらないのだが、筆者はそこに、言葉による期待の表現(発話者の行為を一定の期待と
して定義づけるもの)をつけ加える。
「一定の期待と、それを満足させる対象とは、期待の言語表現によっていわば文法的・論理的に結びつけられており、その関係は──例えば空腹と食事
のあいだの──経験的・仮設的な関係とは違った、「内的」な性格の関係である。しかしこの内的結合の源泉を志向的統一の作用に求めるには及ばない
のであって、期待とその対象とは、現に一人称の期待表現によって内的に結びつけられている。「言葉のなかで期待と満足が触れ合う」…。われわれ
は、期待の表現を期待の作用(行為)そのものと考えればよいのである…。」
「…フッサールは、「私は期待する……」「私は願う……」といった言表の意味機能を、判断作用の表現というただ一つの機能に還元してしまった。…
これに対してヴィトゲンシュタインのように、言葉による期待や願望の表現が反省的な判断の結果でなく、期待の行為そのものであるような場合を認め
れば、もはや言語の機能を記述(判断の表現)のそれに限定する立場にとどまることはできない。『論理哲学論考』を『論理学研究』に結びつけていた
検証主義の前提は捨てられねばならぬ。実際ヴィトゲンシュタインの場合、この着想は「言語ゲームの多様性」という『哲学探究』の主張に直結した。
言葉を語ることは一定の生活形式に結びついた行為である、というあの根本的な認識に彼を導いたのもこの着想であったと考えられる。」
[*]永井均氏のX(Twitter)の記事から。
たまたまだが、私は黒崎宏も黒田寛一も愛読した。どちらも全著作とはいえないが大半の著作を読んだ。が、黒田亘は間違いなく全著作(全論文)を熟
読し、とりわけ『経験と言語』は文飾の細部まで解釈し尽くせるほど繰り返し読み「哲学」なるもののほぼすべてを(したがってその限界も)そこから
学んだ。(2019年3月3日)
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『経験と言語』は超越論哲学の伝統と分析哲学の伝統とを他に例のない本質的な仕方で結びつけていると思う。フッサールとウィトゲンシュタインの関
連づけの話は作り話だろうが、その作り話こそが隠れた真実を始めて明るみに出すような種類の作り話だろう。(2019年3月5日)
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ということがわかるには、「現象と文法」、『哲学』25、所収、も不可欠。(2019年3月5日)
https://t.co/gUoWO5zGnU
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余談ながら、たとえばこの論文の冒頭の段落に見られるような文章の繋がりの美も味わってほしい。ここの「…それは私も疑ったことがない。」と「…
それはまた別の問題である。」の二文の「それ」の美しさ! これと同じ内容をこんなふうに表現できる人がほかにいるとは思えない。(2019年3
月5日)
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しかし、稀代の名文家である黒田でさえ、哲学的に悪戦苦闘している現場ではこんな美文は書いていない。晩年の因果性にかんする議論では、よいとき
はむしろ悪文になり、わるいときは美文でごまかしている、と感じる。(2019年3月10日)
【4】ウィトゲンシュタインとスピノザと文法─文法の諸相(3)
初期(論理・写像)から中期(文法)、そして後期(言語ゲーム)へと至るウィトゲンシュタインの思索の推移を、入不二本を基本に概観し、永井本
でその転換の勘所を確認します。
あわせて、スピノザの聖書解釈を、敬虔の言語ゲームの運用を規制する聖書固有の文法の解明であったとする上野修氏の論考(ただし、以下に“要
約”したのはその前段部分まで)と、最近、本邦初訳本が刊行された『ヘブライ語文法綱要』[*]をめぐる、『中動態の世界』の著者國分功一郎氏の
論考を取りあげます。
その4.ウィトゲンシュタインと文法
◎入不二基義『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』
「隣接項のない一なる全体(それがすべてでありそれしかない)」としての「私」の「無主体性」を考察するために、ウィトゲンシュタインは「経験か
ら文法へ」(言語の外から言語の内へ)──すなわち「直接経験という場面から、言語使用のルール(文法)という別の場面へ」──と新たな一歩──
写像としての言語という『論考』の言語観からの転換──を踏み出した。
「ウィトゲンシュタインによれば、検証[三人称の場合:「認識-ふるまいという基準-認識対象(他人の痛み)」]がそもそもありえない「一人称の
言語使用」とは、「言語外の対象(体験)を描写・記述する」ことなのではなく、むしろ「体験を直に表出する」ことなのである。」
「こうして、「ウィトゲンシュタインの無主体論」は、直接経験という場から言語の内(表現様式の問題)へと移された。そして言語の内において、そ
の多様な「異なる表現様式」の可能性のどこにも表れえないものとして、隣接項を持たない「私」は、消し込まれることになる。」
「(通常とは)異なる表現様式」の問題から見えてくる言語の姿をウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶ。「特異で強力な「私」というあり方
についての考察もまた、そのような「言語ゲーム」の実践の中へと投げ込まれている。」
言語ゲームにも文法がある。
「…[「感覚日記」における]記号「E」は、「感覚」の文法(ルール)に従う。そして、そのルールに則って、「E」は私的な感覚を指し示す記号と
して認められるべきである。…「感覚が私的なものである」ことは、言語ゲームの文法(ルール)に属する事柄なのである。そして、‘文法によって’
「私的なもの」であるからこそ、「E」は私的言語‘にはなれない’。」
◎永井均『ウィトゲンシュタイン入門』
初期から中期へ。
「「論理から文法へ」の、そして「写像から検証へ」の、中期ウィトゲンシュタインの推移は、こうして「文法」へと統合され、一元化されることに
なった。
文法は、確固不抜の規則であって、個々の経験に先行してそれを可能ならしめるという意味では先験的でさえあるが、にもかかわらず、それ自体とし
ては、偶然的で恣意的なものである。それは、その文法の外部にある何ものの内にも根拠を持たない。(略)
ものごとの本質(「~とは何であるか」という問いへの答え)を決めるのは文法であるから、実在そのものの本質と見えるものは、実は文法が映し出
す影にすぎない。(略)
そんなことはない、…と反論したくなる人は、その反論に使われる…語もまた、文法に従って使われざるをえないことを忘れている。つまり、根拠づ
けられるはずの文法に依拠せずには、根拠づけるはずの事実を引証することさえできないのである。それゆえ、われわれは文法の外に出ることができな
いのだ。」
中期から後期へ、規則(ルール)から実践(プレイ)へ、「文法主義」の最終的な放棄へ。
「われわれは普通、規則そのものの中にそれへの従い方の正しさが指定されている、と考えている。(略)どうしてそう考えないことができようか。し
かし、よく考え直してみれば、規則(あるいは意味)という摩訶不思議な力を秘めた実体はいったいどこにあり、それはどのようにして正しさのすべて
をあらかじめ決めることができるのであろうか。これはまた、「文法(的規則)」という中期の自分自身の考えへ向けられた懐疑でもあることに注意し
ていただきたい。
言語ゲームの実践そのもの以外の場所に、実体化された文法のようなものがあると考えるのは、(「意味」なるものを最終的なものと見なすのと同じ
種類の)原因と結果を取り違える錯覚である。とはいえしかし、もし規則がその適用の仕方を決定できないならば、規則に従うことは、その都度その都
度の「暗闇の中での根拠なき跳躍」(S・A・クリプキの表現)となるであろう。そんな馬鹿なことがあろうか。」
その5.スピノザと文法
◎上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀』
第3章「スピノザと敬虔の文法――『神学政治論』の「普遍的信仰の教義」をめぐって」
『神学政治論』の課題は、「だれが、いかなる権利に基づき、またいかなる権威をより所に、いかなる者を不敬虔と断罪しうるのか」という問いにか
んして客観的な基準と定義を与えることでなかったかと思われる。問題の中心は、いかなる信仰が「敬虔」と呼ばれうるのかである。
スピノザは、自分が確定しようとしている基準が哲学的な根拠づけと無縁であることを知っていた。それはむしろ、ウィトゲンシュタインふうに言う
なら、人々の生活の形式が依存しているある種の言語ゲームとその規則にかかわる。つまり、敬虔と不敬虔をめぐって何が語られえ、また何が語られえ
ないかを神学-政治論的な文脈において規制している、いわば、「敬虔の文法」にそれはかかわっているのである。
スピノザは聖書を、もっぱら敬虔のゲームが依拠すべき唯一のレファランスと見なしていた。そこに『神学政治論』の孤独がある。スピノザの聖書解
釈とは、敬虔の言語ゲームの運用を規制する「聖書の文法」の研究であった。その聖書解釈の方法──聖書をひとつの資料体「ヒストリア」として研究
し、聖書の語りの真の意味をもっぱら言表可能性の条件に基いて規定する(聖書が知らない「聖書の文法」を明らかにする)──が真に革命的なのは、
この点なのである。
聖書は、ヘブライの民の敬虔をめぐる言語ゲームの歴史的記録にほかならない。だから問わねばならないのは、いかにして預言者は自らの異言を神の
言葉として民の前に正当化しえたのか、また、そうした教えのいかなる部分が恣意的改竄を免れ、削除不可能なまま伝承され得たのか、といった聖書の
文法なのである。
もし聖書の文法に従って正当に語りうる神の思弁的命題があるとすれば、それは神への服従を隣人愛の実践によって示すべし(「普遍劇信仰の教義」
第五項)とする、そのかぎりでの命題でしかあえいえない。こうスピノザは考えるのである。
◎國分功一郎『スピノザ──読む人の肖像』
第七章 2「『ヘブライ語文法綱要』──純粋な知的喜び」
『ヘブライ語文法綱要』に大変興味深い論点が存在する。それは動詞の態についての考察である。
動詞には能動態と受動態がある。ヘブライ語ではそれに加え、行為の強度を強調する表現がある。さらに、使役のような形態も存在する。だから、
「不定詞のカテゴリーは、それが行為する者だけにかかわる[例:訪問する・頻繁に訪問をする・何者かを訪問者にする]か、あるいは行為を受ける者
だけにかかわる[例:訪問される・頻繁に訪問を受ける・訪問者にされる]限りで、全部で六つになる」(『綱要』第12章)。
ところが、スピノザは以上のカテゴリーに収まらないケース[例:自分自身で自分を訪問する]に言及する。「そういうわけで行為する者と結びつけ
られた行為、あるいは‘内在原因’を表現するもう一つ別の[第七番目の]不定詞のカテゴリーを考案する必要があったのである」(同)。
「内在原因 causa immanens」は(「表現
expressio」とともに)『エチカ』の要諦をなす概念であった。万物の内在原因である神は自分以外からいかなる影響を受けることもない。神は行為す
る者であり、且つ、行為を受ける者である。スピノザは内在原因の概念を、いわゆる能動と受動の外側で構想していた。
わざわざここ(『綱要』第12章)で内在原因という用語を用いて説明しているということは、文法についてのスピノザの考察が哲学的な思惟と切り
離せないものであったからだろう。実際、内在原因を巡る『エチカ』の言葉遣い──「変状 affectio」という名詞に加えて「変状する
afficitur」という動詞表現(「働きかける・刺激する・影響を及ぼす
afficio」の受動態)を頻繁に用いる──には、ある特徴が見出せる。
神の内在原因の概念に基づいて afficitur
という動詞表現を用いる場合、その表現には、自動詞表現と他動詞表現と再帰表現の三つの意味が込められている。ラテン語にはそのような受動態の用法があ
り、それは一般に、中動態的受動態と呼ばれている。スピノザの用いる afficitur はこの中動態的受動態に相当する。
スピノザの『ヘブライ語文法綱要』は単なる文法書には留まらないポテンシャルを秘めている。いや、そのような言い方は文法に対して礼を欠く。こ
の水準の哲学的な思惟に到達していなければ、とても文法を論じているとは言えないと言うべきなのだろう。
[*]早速手にして“記念”のため数頁読んで、訳者解説(秋田慧)と附論1・2(手島勲矢)に目を通した。とくに記すことはないが、一点だけ、こ
れも“記念”に記録しておく。
解説で、『ヘブライ語文法綱要』(Compendium Grammatices Linguae
Hebraeae)は「20世紀に入るまでほとんど閑却されてきたと言ってよい」が、ここで新旧にこだわらずCGLHへの応答をいくつかの側面に分けて紹
介すると、「哲学的な側面では、単純にテクストの取り扱いの困難さが障壁となってか、多くが断片的な印象を受ける。象徴的なものを一つ取り上げる
とすれば」(264頁)として、ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』第6章注2に言及していた。
《彼の『ヘブライ語文法綱要』において、スピノザはある種の特徴を、つまりヘブライ語の文法上の構造によって表現についての真の論理を形成し、そ
して命題の理論を基礎づけている特徴を引き出している。注釈をつけた版がないため、この書物はヘブライ語を知らない読者にはほとんど理解されてい
ない。従って、われわれはそのうちから単純なある種の事項しか知ることができない。つまり、一、不定詞の無時間の特徴(第五章、第十三章)、二、
諸様態の分詞的特徴(第五章と第三三章)、三、その一つが主要原因に関係づけられた行為を表現する、異なる種類の不定詞の規定(‘支配するため
に’、‘何らかの支配を構成する構成することと構成されること’とが同義であること、第十二章参照)。》(『スピノザと表現の問題』(工藤喜作他
訳)389頁)
【5】修辞学と注釈学と文法学─文法の諸相(4)
西洋の哲学者と文法の関係を概観したので、続いて、本邦における哲学(的思索)と文法の関係をめぐる具体例を取りあげたいと思い、手元にあるわ
ずかな文献を渉猟した結果、たどりついたのが『詞玉緒(ことばのたまのお)』。
「本居宣長の著した文法書。7巻。1779年成る。宣長が《てにをは紐鏡(ひもかがみ)》で明らかにした係り結びの法則を,八代集(はちだいしゅ
う)を中心とする古歌によって実証し,係結研究を大成した書。」(マイペディア)
今回参照した加川論文によると、『詞玉緒』は文法書というよりは修辞の書とされ(山田孝雄の説)、歌学や古典注釈学の伝統を踏まえて著された作
品。つまり、和歌を詠み(修辞)、あるいは和歌を読み解釈する(註釈)といった実地の言語実践を離れては考えられない“文法”を探求した書物であ
るということです。
ちなみに、これが哲学とどうかかわるかをめぐって、私の頭の中には、西洋哲学の伝統はプラトン哲学の注釈に過ぎないというホワイトヘッドの言葉
とともに、柄谷行人氏の次の文章が浮んでいます。
《注釈学は、朱子におけるように、哲学に下属するものではなく、また、哲学と別個にあるものではない。注釈学は、「哲学」をディコンストラクトす
る外部性であり、仁斎以後、哲学は注釈学としてしかありえない。》(「江戸の精神」、『現代思想』(1986年9月臨時増刊号)21頁)
その6.修辞学と注釈学と文法学
◎加川恭子「文法の発見」(『江戸の思想2 言語論の位相』)
<言連接の中に分出してくる質─詞の玉としてのてにをは>
「てにをは」の「本末をかなへあはするさだまり」は神代以来時代を超えて存在し、かつ言語一般を律し得る基準であるという信念を示した本居宣長
の『詞の玉緒』について、著者は次のように書いている。
「『詞の玉緒』の序文によると、『詞の玉緒』という題は、「てにをは」を「ことの葉の玉のよそひ」をぬきつらねる「緒」にたとえて付けられたもの
ものである。既に明らかなように、この「玉」を概念を表す語の比喩として理解する道は閉ざされている。「緒」によってぬきつらねられた「玉」とい
うのは、「言連接[コトツヅキ]」として分出してくる質を、語り得るものとする為に採用されたメタファーである。(略)ここでいわれるような、其
れ自体が「言連接[コトツヅキ]」の中に分出してくる質としての「てにをは」は、「玉」と「緒」の比喩の中では、やはり「玉」であろう。「緒」と
は、「てにをは」の「本末をかなへあはするさだまり」だと考えてよい。」(56頁)
<文法学の書か修辞の書か─伝達されるべき内容=意義という観念>
「『詞の玉緒』が、思想的に如何に成功した書であるかということは、山田孝雄の次のような叙述からも明らかである。」(57頁)
《玉の緒は其の研究の方法の帰納的なるを以て頗近世の科学的研究に似たる所あれど、其の主義や全く理想的なりしなり。而、そはいづこ迄も作歌の上
に範をとるが為になしゝものなり。しかるに後学の輩之を以て文法学の書と誤認し、種々の論議を以て、一切の文学上の産物を否定せんとす。其の大胆
実に驚くべきなり。》(山田孝雄『日本文法論』1297頁)
著者はこの一文を引いたうえで、「山田が『詞の玉緒』を文法書ではなく、修辞の書であるとした」ことをめぐって、次のように書いている。
「このような判断の背景には、文法書は「意義の通不通」に与るものという通念が存在すると考えられる。要するに、文法は、伝達されるべき内容=意
義を正確に表現し、理解するための条件だと考えられているのである。しかし、伝達されるべき内容=意義というようなものは、伝達が成り立った後
で、事後的に見出されたものに他ならない。」(60頁)
「伝達されるべき内容=意義という観念が成立すると同時に、その由来は隠蔽され、従って、それが抽象的なものあることも見失われる。近代という時
代を画するものとして、伝達されるべき内容=意義という観念の成立という転機を強調しなければならない理由は、ここにある。「国語」というイデオ
ロギーを人々の思考にもたらすものの存在を明らかにしなければ、そのイデオロギーに対する真の批判にはならない。近世の国学者と近代の国語学者の
差異を見失うことは、「国語」というイデオロギーを人々の思考にもたらすものの存在を否定することによって、「国語」というものを分界を有する一
箇の全体として存在せしめた、国語学という科学の成立の歴史を見失うことでもあるのである。」(60頁)
──「分界を有する一箇の全体」云々に関して、著者の発言を引く。
「言語の歴史的変化とは、空虚の中に分界を有する語というイメージによって、伝達された内容=意義から逆算され固定された意味の、抽象的な比較を
通じて見出されるものである。中世以来の共通認識を崩壊させるものと、言語の歴史的変化という通念が成り立つ根拠とは、同じものである。宣長の異
常な信念は、その根拠を危うくするものである。」(56頁)
<開かれた質の分離を追う注釈学の中で見出されてきたもの>
「…言葉のなかのさままな質の分離を追うという宣長や[冨士谷]成章の視点が継承されていく過程で、次第に、それらの質を所謂形態素[*1]のよ
うに実体化していく方向に進み、その結果として形態と意味との間にある法則が究明されるべき最大の課題となっていた…。」(58頁)
「形態論的視点は、宣長の研究において準備されていたということもできる。そこから、形態素が実体化される傾向も出てきた。その意味では、有意的
単位という観念も用意されていたと言ってもよい。しかし、その有意的単位は、結合を前提とする区分によって見出されたものではなかった。近代に
至って、それが区分の中で再発見され利用されたことは事実である。しかし、そのことは、その有意的単位が、もとを辿れば、むしろそうした区分を否
定して、開かれた質の分離を追う注釈学の中で見出されてきたものであることを無視してよい理由にはならない。
伝達され終わった内容=意義から、結合を前提とした区分によって見出された単位へと、再配分された意味は、抽象的なものである。話すこと(書く
こと)聞くこと(読むこと)の中に生じてくる【意味】とは、全く異質なものである。しかし、その抽象的なものも、元をたどれば、話すこと(書くこ
と)聞くこと(読むこと)の中に生じてくる【意味】に由来している。」(60頁、【 】は原文で圏点付き)
──ちなみに著者いわく、「本居宣長は、「てにをは」研究の中心を歌の切れ続きに置くという点で中世の歌学の伝統を継承し大成した」(47頁)
[*2]。
[*1]厳密には「形態素」と関係しないのかもしれないが、表現の基本単位に関連する一つの仮説として。──永井均著『なぜ意識は実在しないの
か』で導入された「第二次内包/第一次内包/第〇次内包」の区分をめぐって、入不二基義氏が「〈私〉とクオリア」(『〈私〉の哲学 を哲学する』
59頁)に書いていることを参照すると、たとえば次のような分類が得られる。
(入不二氏が前掲論文で導入した「マイナス内包」のアイデアをこれに加えると面白くなる。また、平井靖史氏の「MTS(マルチ時間スケール)」の
理論と組み合わせるのも面白いだろう。)
「文」:第二次内包:記述(命題)
「語」:第一次内包:概念
「質」:第〇次内包:クオリア
[*2]「歌学」あるいは「修辞学」「注釈学」に関連して、山本哲士氏によるYouTube番組「日本語には主語も人称もコプラもない、述語制言
語である:正しい日本語への考察を開始せよ!」《https://www.youtube.com/watch?v=eauXoc5d1es》か
ら、関連する発言(23分あたりから)を記録する。ちなみに、この番組は『述語制の日本語論と日本思想──主語制「国語」への言語革命
序説』の著者による解説。
「和歌をつくりはじめて、和歌の言語を、あるいは和歌をクリエイティブなかたちで自ら表現し考えていかないことなしに、日本語論は絶対に成立しな
いということが実感でわかりました。述語制という言語が言語として認識されなくなっているのは、和歌をつくるということを、あるいは和歌の表出・
表現をしない国文学者たちが平然と主語制言語を打ち上げたからだと思います。もう一点大きな問題は、翻訳語に漢字をあてはめたこと。しかも生命、
社会、国家、市民といった二語で。その時同時にわれわれは漢文という世界を見失っていきます。漢字かな交じりの文章を考えていくうえで、非常に根
源的な問題としてある。そこをどうやって見直していくのかという指針は、齋藤希史(『漢文脈と近代日本』)がかなり明確に示している。」
【6】“ある”の論理と“なる”の文法─文法の諸相(5)
文法の“イメージ”をめぐる助走的考察の最後に、論理と文法の関係について考えてみました。──論理は「ある」ことにかかわり、文法は「なる」
ことにかかわる、たとえば「論理+推論(法則、時間)≒文法(物語)」といった具合に。
その7.“ある”の論理と“なる”の文法
永井均氏の『存在と時間──哲学探究1』を読んでいて、「われわれは「現に今」がない世界というものを、考えることはできても、思い描くことが
できない。」(196頁)という表現に目がとまった。
前後の論脈を簡単に括ると、われわれは「‘現に’動いている」という特性=本質を抜きに、時間を経験することができない。だから、「現に今」と
いう「動き(変化)」のない時間は、“考える”(頭で理解する)ことはできても“思い描く”(それを心で感じる)ことはできないというわけであ
る。
(注記。「動性」が時間の本質であるとは、マクタガートが論じたA系列の時間の特性(永井氏によるまとめ)──①特別な一点による端的な「領域分
割」(過去・現在・未来)と、②その一点がもつ「動性」──に基づく。)
この一文に接して、私は次のように考えた。すなわち、何らかの事象について“考える”ために必要なものが「論理」であるとしたら、“思い描く”
ためには、つまり、その事象のリアルな動きと展開を具体的にイメージするためには「文法」が必要なのではないかと。
言い換えると、なにものかが「ある」ことすなわち存在を(客観的に)語るための道具が「論理」だとしたら、そのあるものの変化すなわち「なる」
ことを(主観的に)生きるための条件が「文法」であると。
(そしてまた、永井氏が言う「端的な領域分割」と「動性」との偶然の結合こそが、文法が成り立つための基本原理になるのではないかとも。)
もう一つ、永井氏の議論を援用する。
共著『〈私〉の哲学 を哲学する』(2010年原著刊行)の序章「問題の基本構造の解説」において、永井氏は、「私の哲学の主要部分」として次
の二つを挙げている。
第一は、私=永井の問題(独在性の〈私〉をめぐる)が他者に理解されるとき何が起こっているのかというもので、第二は、どれが私であるかを決定
するのは何かをめぐる「分裂」と「転移」の思考実験(第一の論点を人に説明するための議論)である。
分裂の思考実験とは、私と完全にそっくりな人、たとえば私が二人の人間に分裂した場合の私でないもう一方は必ず私か? という問題にかかわる。
これに対する実験結果は、私か私でないかを決めるのはその人が持つ特性(事象内容)ではない、現に存在するかどうか(無内包の現実性)であるとい
うもの。
転移の思考実験の方は、私が他の人間になる場合のように、いま私である人間とまったく違う人間が私でありうるか? という問題にかかわる。結果
は次のようなものになる。原初的には、それはありうる。しかし、そうなったという事実を示す痕跡は、その世界のどこを探しても存在しない。「この
変化は、世界そのものの「変化」なので、原理的に、世界の内部に痕跡を残すことができないのである。」(16頁)
私の理解では、分裂の思考実験は“ある”の論理にかかわり、転移の思考実験は“なる”の文法にかかわる。言い換えれば、前者はこの世界の内部に
おける問題であり、後者は世界の外部あるいは異なる世界(=物語)における問題である。両者を繋ぐものは、トートロジーではない推論規則──「推
論的世界」で一瞥した「生産」や「伝導」のような創造的推論──であろう。
付記。“なる”の文法について考えるとき、私の脳内に浮かんでくるのは、世阿弥の「成り入る」──「(その物に)成り入りぬる」(『風姿花
伝』)や「先能‘其物成’、去能其態似」(『花鏡』)──である。この能楽における転身(メタモルフォーゼ)は、憑依の問題ともども、永井氏の議
論とは異なる局面における論点として、かねてから強烈な関心を寄せてきたものだが、いまここで何事かを弁ずるところまで熟成していない。
【7】アレゴリーとカテゴリーと私的言語─現実世界の構成(1)
これより、第一の論点に入ります。「文法カテゴリーによる現実世界の構成」(あるいは、夢からの覚醒もしくは“頽落=受肉”)が、ここでのテー
マです。今回は、そのための準備、というか議論の舞台を設営することに徹します。
「推論的世界」第17節の註2において、私は次のように書き込みました。
……リアリティからアクチュアリティへの推論(伝導)を司るのが伝導体すなわち“アレゴリー”であるとしたら、その逆の推論プロセス、すなわち
アクチュアリティからリアリティへの逆伝導──[永井均氏が言う「キェルケゴール的と言ってもよいような、独特の実存論的な飛躍」(『〈私〉の哲
学 をアップデートする』16頁)の向こうを張って]「ヘーゲル的頽落」とでも呼んでおうか──を統べるのが“カテゴリー”である。たとえば、人
称、時制、様相、態といった文法カテゴリーの成立(言語の成立)とともに、あたかも夢の世界から現実世界が析出されるようにして、リアリティの世
界が立ちあがるといったこと。(続きは「文法的世界」へ。)……
続きを書くべき時が到来しました。
ここで、議論を先に進めるための補助線を引きます。
かねてから、「純粋経験を語る四つの私的言語」なるものについて、考えをめぐらせてきました。以下、「哥とクオリア/ペルソナと哥」(第60章
から第65章まで)から、該当する個所を順次、縮約しながら抜き書きします。
・本来、言葉では言い表せない経験を「純粋経験」と言う。すなわち、「単純な‘あれ’」と言うほかない「素朴な現実性ないし現実存在」(W.ジェ
イムズ『純粋経験の哲学』(伊藤邦武訳、岩波文庫)30頁)、あるいは、「色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感
じて居るとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるかという判断すら加わらない前」の「経験其儘の状態」(西田幾多郎『善の研
究』(岩波文庫)17頁)。【第60章1節】
・「私的言語」とは、言詮不及の意味体験や主客未分の経験といった語り得ない純粋経験を語る言語のことを言う。私的言語のアイデアはウィトゲン
シュタイン(『哲学探究』)に由来するが、ここでは、永井均氏によって次のように“拡張”されたヴァージョンのもとで考えている。
「…私的言語とはそもそも世界の中に存在するある個人の言語に関する問題ではない…。それは、「何が見られていようと、見ているのはつねに私だ」
という独我論的主体たる「私」の言語に関する問題であり、あえて「体験」という語を使うなら、およそ体験を持ちうるのは私だけであり、そもそも私
以外の他人が体験を持つなど‘ということの意味がわからない’というような、そういう「私」の言語に関する問題なのである。/そういう「私」の特
徴は、何よりもまず、固有名で置き換えられないという点にある。」(『新版 哲学の秘かな闘い』243-244頁)【第62章1節】
・固有名で置き換えられない「私」(=〈私〉)の言語──あるいは、「私秘的」なクオリアをではなく「独在的」な存在を語る言語、それが私的言語
である。そして、それによって語られる純粋経験には、独在性の〈私〉のほか〈今〉や〈現実〉や〈感情〉が含まれ、それらが「純粋経験を語る四つの
私的言語」へと分岐する[*1]。
(いま述べた四つの独在的存在のうち〈感情〉は、私の個人的こだわり──「世界は感情的なのであり、天地有情なのである」(「自分と出会う」)と
いう大森荘蔵の言葉への傾倒や、富士谷御杖の歌論における「神」(迦美)が個人の内なる神すなわち「私思欲情」を指していたこと、等々──にもと
づき命名したもの[*2]。
〈感情〉をめぐる私的言語とは、「無」なるものの「世界」への出現、言い換えると「実存」それ自体を(ただそれだだけを)「本質」とする存在の
うち、「感情」の相においてとらえられた「世界」を表現するものである。(そこでは、「感情」が実存することとそれを表現すること、すなわちそれ
が表現された「世界」が存在することとが区別できない。)【第60章4節・第62章4節】
・永井(均)哲学や入不二(基義)哲学、そしてミシェル・アンリの議論を援用して、私的言語を、無内包の現実性すなわち「純粋なアクチュアリ
ティ」を語る(示す)「詩的言語」と、存在するものの事象内容=実在性すなわち「リアリティ」を語る(それのみを語る)「公的言語」との中間に
あって、それらをつなぐ媒介として、公的言語では語れない無内包の現実性の「お零れ」(痕跡)を語る(示す)ものとして位置づけた。【第63章4
節】
【詩的言語】=「私的言語」に先立つ言語
・純粋な「私的言語」(ベンヤミンの「純粋言語」につながる?)
・無内包の現実性(純粋なアクチュアリティ)そのものを語る言語
・実在性(リアリティ)はもちろん、物自体(無内包の現実性)の「お零れ」をも欠いた不在の言語
【私的言語】=「感情の言語」あるいは「いのちの言語」
・公的言語によっては語ることのできない現実性そのものを、事象内容(リアリティ)的な差異を語るのとは全く別の原理において語る言語
・端的にそれ自身において現実として顕現する経験をもたらす(世界の現出、現実の現実的顕現に「感応」する)言語
【公的言語】=「人間の言語」あるいは「われわれの共通言語」
・現実に存在する何か或るもの(Etwas)の「現実性(アクチュアリティ)」を失わせ、あるいはあらゆる差異を「事象内容=実在性(リアリ
ティ)」の差異に還元し、「空虚な現実もどき」のものにする言語
・実存(現実存在)を産出せず、その無数の複製(事象内容的には同一の複製物)を可能世界のうちに措定する言語
・何も表現しない「詩的言語」と、それとはまた違った意味で何事・何物をも言い表わさない「公的言語」──これら二つの言語領域の中間にあって、
私的言語は両者を媒介する。そのうち公的言語を詩的言語へと遡行(もしくは“飛躍”)させる媒介作用をベンヤミンの「アレゴリー」(例:夢=水の
中の読めない文字)に、それとは逆に詩的言語から公的言語へと推移する(“頽落”の)プロセスをカントの「カテゴリー」(例:様相─可能性、現実
性、必然性)に準えて考えることができる。【第64章1節】
──さて、以上の“道具立て”を使って、四つの文法カテゴリーと四つの私的言語、そして四つの逆理(パラドックスもしくはアナロジー)との関係
性を吟味していく運びとなりました。ここで、あらかじめ、議論の基本となる模式図を示しておきます。
アクチュアリティ/夢の世界
==== ≪詩 的 言 語≫ ====
↓ ↑
↓ ↑
≪私 的 言 語≫
カテゴリー アレゴリー
↓ ↑
↓ ↑
==== ≪公 的 言 語≫ ====
リアリティ/現実世界
註記を二つ。アクチュアリティは垂直方向(ヴァーチュアル↑アクチュアル)の力の相のもとで、またリアリティは水平方向(イマジナル⇔リアル)
の拡がりもしくは二項対立のかたちで捉えられるべきものですが、上図ではそのことが表現できていません。
また、アクチュアリティと夢の世界、リアリティと現実世界がそれぞれ対となるかのように表記されていますが、精確には、「アクチュアリティ/リ
アリティ」∽「夢の世界/現実世界」、という類比関係がメタレベルにおいて成り立っている(というか、私はそのように考えている)ということで
す。
※長文になったので、註は一括して次回に回します。
【8】アレゴリーとカテゴリーと私的言語・註─現実世界の構成(2)
[*1]私が「四つの」私的言語の“着想”を得たのは、永井均氏のたとえば次のような議論に接したことがきっかけだった。(以下は「哥とクオリア
/ペルソナと哥」第62章3節からの自己引用。)
……『私・今・そして神』がその“開闢”を告げた永井哲学の到達点は、『存在と時間──哲学探究1』『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』
の二冊の書物に見ることができます。それらの著書で(何度でも最初から)取りくまれているのは、〈私〉と〈今〉そして〈現実〉が存在することへの
驚きと、それらに共通する構造の解明という、紛れもない永井哲学(永井神学?)の刻印を帯びたテーマにほかなりません。このことについて、たとえ
ば「哲学探究2」の雑誌掲載稿の冒頭では、次のように述べられています。
《私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という
端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず
問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外
のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。この連載の最終的な狙いは、この最後の点に照準を合わ
せて、それらに共通の構造を解明することにある。》(『世界の独在論的存在構造』ⅱ)
私と今と現実をめぐるメタ・フィジカルな問題は、『私・今・そして神』の最終局面で述べられた言語による世界創造をめぐる形而下的な言語哲学的
問題と響き合っています。「言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開
闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。「私の今の言語」──この言い方が、言語の内部ではその人称概念と時制概念に吸収されて理解さ
れることになる。」(222頁)
ところで、その『私・今・そして神』で、永井氏は、「私の分裂」と並行的に論じて哲学的意味を失わない思考実験として、「世界の分裂」と「今の
分裂」、そして「神の分裂」を挙げていました(107頁)。また、第2章最終節の最後の項「神・現実・私・今」では、「この私」や「今」や「現実
世界」や「神」の存在証明をめぐる議論を経て、次のように述べていました。
《ともあれ、神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、
そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて‘同じ一つの’問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う。
私はずっと、自分の関心に従ってまったく自分勝手に哲学をやってきた。だが、本書で到達し本書で論じられたような問題が、古代ギリシアに始ま
り、デカルト、カントを経て今日にいたるあの固有名としての哲学にとっても最も中心的な課題であったことはまず疑いのないことであるように思われ
る。》(『私・今・そして神』180-181頁)
神と現実と私と今の取り合わせは、同書最後の一文にも登場します。
《私、今、現実、神……世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎない。だ
からもちろん、そんなものは存在しないとつねに言える。しかし、通り越して短絡させることができる、機構全体とまったく繋がっていない、その歯車
こそが、その機構全体をはじめて現実に存在(つまり実存)させているのだ。
それがすべての開闢であると同時に、そんなものはどこにも存在しない。すなわち、そんなものはどこにも存在しないと同時に、それがすべての始ま
りなのである。》(『私・今・そして神』222-223頁)
冒頭でふれた「現在の」永井哲学の最先端の議論、すなわち、三つのメタ・フィジカルな存在の共通構造の解明と、ここで語られた四つの思考実験、
四つの哲学史上の中心課題とを組み合わせてみます。するとそこに、ひとつの「空白」があらわれてきます。(さらに客観的世界の成立要件の話題をこ
れに組み合わせると、人称、時制、様相に次ぐ第四の文法的概念の欠落が浮き彫りになってくる。)
・〈 私 〉⇔ 私の分裂 :コギト命題の解釈をめぐる論争
・〈 今 〉⇔ 今の分裂 :A系列とB系列をめぐる時間論上の議論
・〈現実〉⇔ 世界の分裂:現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立
・〈 ? 〉⇔ 神の分裂 :神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説
最後の山括弧の中に入る語彙の第一候補は、間違いなく「神」(=「在りて在るもの」すなわち「存在」?)でしょう。つまり、〈神〉の存在構造
(〈存在〉の存在構造?)をめぐる考察は、永井哲学においていまだ手つかずの課題として残されている、ということになるのでしょう。あるいは、
〈神〉とは〈私〉と〈今〉と〈現実〉が三位一体的に存在することそれ自体にほかならず、だから〈神〉の存在構造をめぐる課題はそれら三者の共通構
造の解明作業のうちに回収されていくのだ、(だから山括弧の中は空白のままでこそ意味があるのだ)、といった議論がありうるかもしれません。
(〈神〉をめぐる私的言語は〈神〉について語り合う言語ゲームのうちに回収されるのだ、といったような議論も?)
しかし、私はこれまでから、そこに「感情」という語を嵌めこめないかと考えてきたわけです。……
[*2]〈感情〉をめぐる私的言語に関して、私が──「神」や「世界」や「アウラ」や「霊性」や「φ」などではなく──「感情」という語にこだわ
る背景について、いま少し“素材”を補っておきたい。
・ポール・クローデルは「能」(『朝日の中の黒い鳥』)の中で次のように書いている。「驚くべき逆説によつて、それはもはや演者の内部にある感情
ではなくして、演者が感情の内部に入つてしまつてゐるのである。」(堀辰雄「クロオデルの能」)
・永井均著『西田幾多郎』の次の一節。「私が悲しいとき(私には)世界が悲しいように映る。…経験の主体は常に世界の内部に存在する個人であると
いう事実を、言語表現の基礎にあらかじめ…織り込んでいない非人称的な日本語的表現のほうが、(他者を、排除しているという意味であれ、含み込ん
でいるという意味であれ)実は暗に独我論的であ…る。」
・最近、萩原朔太郎の『詩の原理』を読んでいて、「音楽や、詩歌や、舞踊等は、物の「真実の像」を写そうとするのでなく、主として感情の意味を語
ろうとする表現である故に、…この表現は「描写」でない。それは感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば「情象」である」(形式論第三
章)とあるのが目に留まった。
(これを読んで私は、新石器の洞窟芸術の時代の、つまり始まりの言語、始まりの心の頃の混然一体となった「感情」のこと、すなわちクオリアやペル
ソナといった第〇次内包と無内包の現実性とのいわば“界面”現象における「始まりの言語=心=感情」を想起した。
このようなものとして「感情」を捉えれば、九鬼押韻論に対する不満や、萩原朔太郎の詩論におけるリズム論の不在などは、すべて洞窟的観点──
“正常意識”の基底としての“変性意識”(メロスとロゴスに分岐する以前の)に対する認識──の不徹底によるものであることがわかる?
ちなみに、野沢啓氏は『詩的原理の再構築──萩原朔太郎と吉本隆明を超えて』で次のように書いている。「朔太郎は《感情は理智の知らない真理を
知っている》というパスカルのことばを愛用しているが、その意味は《智慧の認識と共に融け合ってる感情──即ち主観的態度の観照──を指してい
る》のである。そしてこのことは未発表ノートのなかでも《‘感情は真理である’》とくりかえされていることでも朔太郎の確信を確かめることができ
るだろう。」(72-73頁)
【9】アレゴリーとカテゴリーと私的言語・承前──現実世界の構成(3)
先へ進む前に、議論のための舞台設営の続き、もしくは、設営された舞台で上演される出し物の主役をめぐる、若干の考察を加えておきたいと思いま
す。
前々回の議論を(ここでの関心事に即して)一言で“要約”すると、「私的言語=(文法)カテゴリー+アレゴリー」という定式になるでしょう。
この右辺の二項のうち「アレゴリー」[*]は、「仮面的世界」の議論において、パース記号論における「類似記号(イコン)/指標記号(インデッ
クス)/象徴記号(シンボル)」の三つの記号に「仮面記号(マスク)」なる第四の類型を加え、さらに第五の記号として「広義の仮面記号」を導入し
た際、これに与えた名にほかなりません。
……アレゴリーは髑髏であり、死者のおもかげ(肖)であり、「仮面」である。アレゴリーは純粋経験、無内包の現実性の「記憶」の痕跡、お零れ、
幽霊、天使的質料性を「響き」として蓄える「空虚な器」である。アレゴリー(≒私的言語)は、神懸かりの言語(文字)であり、シャーマンの語りで
ある。……(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第65章5節)
また「推論的世界」では、アレゴリーを、「帰納(induction)/演繹(deduction)/洞察(abduction)/生産
(production)」に次ぐ第五の推論としての「伝導(conduction)」に関連づけて考え、先立つ四つの推論を総括する伝導の稼働
フィールドである「伝導体(conductive field)」の別名もしくは異名として、この語(概念)を採用しました。
……他の誰でもない、唯一例外的な現実的実例である「この私」の実存(現実存在)という端的な事実。この「伝わらない問題」をめぐる「伝達」と
「理解」(悟り、禅的あるいはキェルケゴール的な実存論的飛躍)の両側面を、私は、一連の「(高次の)推論」の過程と捉え、それらを総じて「伝
導」の名で呼びたいと考えています。そして、そのようなプロセスが展開されるフィールドのことを「伝導体」と呼びたい。……(「推論的世界」第4
節)
かくして、アレゴリーは、本論考群におけるいわば“最重要概念”の位置を占めるに至ったわけですが、そうであればなおさらのこと、上記定式右辺
のいま一つの項である「(文法)カテゴリー」──前々節に掲げた模式図において、私はそれをアレゴリーと相並ぶものとして位置づけました──を考
える際、これと類比的な概念である「アレゴリー」を参照することには、なにがしかの合理性があるのではないかと思います。
さて、以上のことを踏まえ、次回以降の「四つの文法カテゴリー」をめぐる考察を意識しながら、(つまり「(文法)カテゴリー=私的言語-アレゴ
リー」の定式を念頭に置きつつ)、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の関連する議論──「四つの私的言語」をめぐる第62章6節および第83章2節
の議論、「アレゴリーの四態」をめぐる第65章5節とこれに関連する「アナロジーの四態」をめぐる第48章3節(「推論的世界」12節において縮
約のうえ引用)の議論──を合成したうえで、紹介したいと思います。
(「見立て」「縁語」「本歌取り」「掛詞(懸詞)」という「四つの和歌のレトリック」をめぐる議論は、本稿のこの局面では不要なものだが、第二の
論点(日本語文法)あるいは「文法的世界」以後の議論への複線として、削除せずそのまま掲げておいた。)
α:〈 私 〉をめぐる私的言語
〇〈現〉のアレゴリー
・存在次元を異にするAとBの根源的同一性(A=B)を深層の「地」とし、そこからactual かつ real なフィールドと actual
かつ imaginal
なフィールにあいわたる表層における「図」──「A→B」(見立て)と「A←B」(見顕し)の二つのベクトルから成る──を導出する。
・この二つのベクトルは相互反転的な(あれかこれかの)関係を切り結び、やがて移動・変換と重ね描き・複合・圧縮からなる「伝達=模倣」のプロセ
スを経て、「現」のフィールド(actual
field)において、A=実像(言葉の領域での顕在的・現実的統合)とB=虚像(心の領域での可能的統合)との同一性を実現=回復する。(一と多、根源
的一者と現象的多の連結)
〇文法カテゴリー:人称(person)
β:〈 今 〉をめぐる私的言語
〇〈虚〉のアレゴリー
・actual かつ imaginal なフィールド(表、浅い夢)が virtual かつ imaginal
なフィールド(裏、深い夢=無)へと落ち込み、「いま・ここ」という現実性が星雲状に分岐・増殖し無限に織り重なってネットワーク化していく。
・すなわち、可能的統合の世界と不可能な統合(夢)の世界が縫い合わされる。そして、「いま・ここ」という現在性とともに心の鏡像としての言葉
(縁語)のネットワーク(A∨B)が、いわば合わせ鏡のごとくそこにおいて映現する「虚」のフィールド(imaginal
field)が設営される。その時、無限に織り重なった歴史的時空が拓かれる。(表と裏の縫合)
〇文法カテゴリー:時制(tense)・相(aspect)
γ:〈現実〉をめぐる私的言語
〇〈実〉のアレゴリー
・virtual かつ real なフィールド(潜在的統合の集蔵体)から actual かつ real
なフィールド(言葉の領域での顕在的・現実的統合)へと、“力”のはたらきを通じて立ち現われる、「部分がすなわち全体である」ような「A=内側からの視
点(現実)でもB=外側からの視点(虚構)でもないもの」が表現される。
・すなわち、①潜在的な統合可能性の懐胎(被憑依)、②A=内とB=外の連鎖(A∧B)、そして③声と文字の物質的痕跡をまとった個別具体のもの
の晶出(本歌取り)へと到るプロセスが「実」のフィールド(real
field)において進行する。そこに立ち上がるのは、イマジナルな心からアクチュアルな言葉へ、潜在的統合から顕在的・現実的統合へという存在様態と存
在次元の転換(置き換え)がもたらす「歓び」である。(内と外の往還)
〇文法カテゴリー:様相(modality)
δ:〈感情〉をめぐる私的言語
〇〈空〉のアレゴリー
・virtual かつ imaginal なフィールドと virtual かつ real
なフィールドにあいわたる深層、すなわち心の鏡像としての物の圏域において化肉した“声”(死者たちの記憶)が共鳴する。
・「¬A=~」(有から無)と「~=A」(無から有)の逆方向のベクトルがあたかも二重螺旋のごとく絡まりあい、「空」のフィールド
(virtual
field)に響きわたる。そこからダイレクトに、物と照応する「言葉」が立ちあがり、二重化された言葉(掛詞)として表出される。(無=不可能な統合と
有=潜在的統合の反転)
〇文法カテゴリー:態 (voice)・法(mood)
【現】Actual
┃
←─α─→
│ ┃ ↑ real
【虚】━β━━╋━━γ━【実】
Imaginal ↓ ┃ │
←─δ─→
┃
Virtual【空】
α 〈 私 〉をめぐる私的言語-〈現〉のアレゴリー≒人称 :一と多の連結
Β 〈 今 〉をめぐる私的言語-〈虚〉のアレゴリー≒時制・相:表と裏の縫合
γ 〈現実〉をめぐる私的言語-〈実〉のアレゴリー≒様相 :内と外の往還
δ 〈感情〉をめぐる私的言語-〈空〉のアレゴリー≒態・法 :無と有の反転
[*]アレゴリーという概念をめぐる私の“イメージ”の骨格は、(ほぼ)次の二つの文章に接した経験から出来ている。
◎道籏泰三「髑髏のにたにた笑い──廃墟からの構築としてのアレゴリー」(『ベンヤミン解読』二章)。
「恣意的かつ暴力的に意味を引き寄せ、言葉のもつ通常の意味を自由に歪曲し、変容させるアレゴリーは、それ自体が暗号としての謎めいた絵であり、
ヒエログリフ(象形文字)としての絵文字であり、さらに広くいえば、物質そのものとしての文字である。ベンヤミンがアレゴリーにおいて問題にする
のは、ちょうどカフカにおける事物の名の攪乱の試みに似て、言葉の意味性、記号性に対立するものとしての文字、図像としての文字がもつ反乱性に他
ならない。文字像としてのアレゴリーは、慣習的な記号としての言葉の閉じた主観的世界から暴力的に排除されてゆくものを、言葉の意味や概念に媒介
されない直接的な図像のかたちで、いわばゲリラ的に奪回しようとする試みであり、そこには捨て去られ忘却されたものの痕跡が瓦礫の下に隠れひそん
でいるという意味で、他でもない「それ自体が知に値する対象」なのだ。」(66-67頁)
「彼[ベンヤミン]においては、物質としての言語音声もやはり記号性に対する歴然たる反乱的要素なのであって、文字像が意味の撹乱としてのアレゴ
リーに収斂するのに対して、こちらは究極的には、意味を無化したうえでの純粋な感情の表出としての音楽に収斂してゆくものとして考えられてい
る。」(69頁)
◎石牟礼道子「夢の中の文字」((『石牟礼道子全集 不知火 第9巻』)
……あの世(生まれぬ前)からこの世へ、川底(川床)から川面へと水中を浮上してくる解読できない文字。一度も形になってくれない文字、生まれ
ることが出来ない文字、書かれざる(書けない)文字。濡れた髪のように、和紙(基底材)と共に溶けてゆく毛筆で書かれた仮名文字。題名のない音楽
(虚無的な無限をあらわした、白い静かな炎を伴っている曲)と、ことば以前のイメージをまとわせた文字。(石牟礼道子は「ことば以前」と題された
エッセイで、もの心つく頃に「無語の世界」を垣間見た最初の記憶(遠い景色)として、「赤い罌粟の花一輪を持って、白い象と共に旅をする自分の
姿」を語っている(同書450-451頁)。)
ここに描かれた「夢の中の文字」こそ、「それは何であるか」(リアリティ)の軛から解き放たれ、純粋に「それが在ること」(アクチュアリティ)
に根ざした私的言語の、本然の姿をかたどったものではないか、(それはまた「意味」の軛から脱しつつある文字像としての、そして題名のない音楽が
そこから湧きだすところのアレゴリーの本然の姿そのものではないか)。……(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第64章5節)
【10】文法カテゴリー①人称─現実世界の構成(4)
今回の課題は、①「人称」の文法構造の成立を通じて独在的存在である〈私〉から一般化された「私」が構成される道筋を示すこと、②その(〈私〉
→「私」の)プロセスが「一と多の連結」という逆理(パラドックスもしくはアナロジー)とがどのような関係にあるのか──逆理がプロセスを稼働さ
せる動力源なのか、それともプロセスの展開が逆理を解消(治癒)するのか、等々──を明らかにすること、この二つです。
最初に断っておきます。私は、現段階ではこの自問に対して自信をもって答えることができません[*1・2]。そのための蓄積と能力、熟慮熟成の
ための時間が足りないからです。だから、以下に述べることは、「悪戦苦闘のドキュメント」ならぬ試行錯誤の記録、覚え書、備忘録か素材集の類でし
かありません。ここで述べたことは、次節以降の議論にも妥当します。
※
人称構造もしくは人称的世界をめぐって、「哥とクオリア/ペルソナと哥」から関連する議論というかキーワードを抜き出してみます(いわば個人的
な備忘録として)。
──「非人称的な日本語的表現」(永井均『西田幾多郎』)、「純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現して
いくことだ」(横光利一「純粋小説論」)、「特定の視点からはまったく自由ないわば〈無人称性〉(ないしより正確には〈無限人称性〉…)」「〈多
重人称〉(ないし…〈原人称〉)」(坂部恵『かたり』)、「人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動」(坂部恵『仮面の解釈学』)、「シテが自
らを3人称で語ることによって表現されるものは何であろうか」(小西甚一「能の特殊視点」)、「非人称の中動態的な言語[=純粋言語]」(互盛央
『言語起源論の系譜』)、「非人称の文字空間」(子兜太との対談『他流試合』におけるいとうせいこうの発言)、「「かたる」とき、語り手はすでに
多重化した人称を帯びてしまっている」(川田順造『聲』)、「引用の人称=四人称(物語人称)」「ゼロ人称」「擬人称」(藤井貞和『〈うた〉起源
考』)、「物語人称」「無人称あるいは虚人称(作者人称)」(藤井貞和『物語論』)、等々。(ちなみに、私は藤井氏の「ゼロ人称」を「言霊の人
称」または「よみ人しらずの人称」と呼んでいる。)
これらはいずれも、興味深いのですが、ここでは深掘りすることはせず(精確に言うと、深掘りする余裕がないのでそれは断念して)、いま現在、気
になっている“素材”を拾うことに徹します。
◎人称という問題の源泉
永井均氏は、「なぜこの人が私なのか」という問いをめぐって、世界に人が一人しかいない場合と、二人いる場合と、三人以上いる場合で、「問題の
意味が少しずつ変わるであろう」と書いている(『〈私〉の哲学 を哲学する』序章)。
「一人(一つ)しか(い)ない場合、問題の意味は最も純化された形で理解されるはずだが、にもかかわらず理解は非常に難しい仕事となるだろう。現
実世界には三人以上の人がいるが、それは後に述べる分裂の思考実験でやっと理解されることになるべき第一歩がすでに生起していることを意味する。
ここに「人称」という問題の源泉があるだろう。」(30頁)
ここに問題の源泉があるという「ここ」とは、「現実世界」が(哲学的省察を経ずに)すでにして生起してしまっていることを指すのだろう。つま
り、「人称」という文法カテゴリーが成立することと、現実世界が生起することとが不即不離の関係を切り結んでいるということ。
ここで「カテゴリーとアレゴリー」の関係について確認しておく。
・カテゴリーは「現実性」を「実在性」に接続するための装置・概念群であった。たとえば文法カテゴリーは世界を言語的に制作するための装置・概念
群である。
・アレゴリーは「実在性」から「現実性」へ向かう志向性を表現する。カテゴリーとは真逆の方向(世界の消失へ)をもった装置・記号群である。
◎一般的な「私」や「今」が構成されていく、という図式
─言語的伝達によって「現実性」が絶えず言語の内部へ組み込まれ続けること
青山拓央氏は、前言語的な〈これ〉と言語さえあれば世界は復元されると述べている(『〈私〉の哲学 を哲学する』第Ⅲ部)。
「自分にとっての〈これ〉、特別な〈これ〉があり、そして‘この’言語──私の解する言語──がある。この言語はなぜか人称構造や時制構造を含ん
でいますから、私の〈これ〉とこの言語さえあれば、みなさんには意識があることになり、過去や未来もあることになる。ちゃんと世界は復元されて、
うまくいく。だから、この本は正しい、と思うわけです。」(138頁)
この本は正しいという「この本」とは、永井均著『なぜ意識は実在しないのか』のこと。実は青山氏は師でもある永井氏を目の前にして先の発言をし
ている。
「ですが、そう思った瞬間にふと疑問に思うのは、私はこの本を書いていないということです。この本を書いた人はいま目の前に座っている。これはし
かし冗談ではなく、決定的に重要なことだと言えます。この本を書けるような人がそこにいるということによって、前言語的な〈これ〉がそこ(永井さ
ん)にもあるという感じがするからです。私の〈これ〉と同等であり、私の言語によって復元されたのではない本物の〈これ〉が、やっぱりそこにあ
る。そうじゃなかったら、他人がこの本を書けるわけがない。このように感じるのです。」
これらの発言を受けて、当の永井氏は次のように括っている。
「要するにやっぱり二本立てなんですよ。青山さんが、否定的な意味で、前言語的な〈これ〉と言語さえあればいいことになっちゃうじゃないか、とい
う疑問を出されましたが、そうだ、なっちゃうんだ、だって実際なってるじゃないか、と。二本立てだから、前言語的な〈これ〉は必要で、そして、そ
れと言語によって、現実性が…言語的伝達によって絶えず言語の内部へ組み込まれ続けることで、一般的な「私」とか一般的な「今」というものが構成
されていく、という図式になっている。この本はね。この本だけで終わる可能性はありますけどね、この方向の議論は。うまくいくかどうかわからない
から。でも、どちらかというと、これでずっと行ってみたいという感じはしてるんですけど、それはまあ一種の投機というか、それでやってみよう、み
たいな感じですから。」(175頁)
[*1]課題①に関して、かつて「哥とクオリア/ペルソナと哥」において、永井均氏の議論を踏まえ次のような道筋を描いたことがある。以下、第
62章1節から加筆修正のうえ抜萃する。
……私的言語の生成とその“受肉”をめぐって。
【Ⅰ】〈 〉=〈私〉:「そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬもの」すなわち〈 〉が、世界開闢の「あと
から」他のもの(たとえば他人)との対比が持ち込まれて〈私〉と名づけられる。
しかし、この、科学的・歴史学的な客観的事実を超えた「超越的な存在」をめぐる等式は、やがて「世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それ
ぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈」のもとでとらえられるようになる。すなわち、次のようなかたちで。
【Ⅱ】《私》=「私」:「対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項[私と他人に共通の「人間」]がもともとあったかのよう
な錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になる」(『私・今・そして神』41頁)。
ここで、【Ⅰ】から【Ⅱ】への推移(頽落)のプロセスを、空想的に追跡してみる。
①〈私〉=『私』:超越的世界における【Ⅰ】の等式が、この世界の内部へと類比的に繰りこまれる。メタフィジカルな世界における独在性の〈私〉
は、この世界の内部における愛と経済の主体である特殊・個別の『私』(かけがえのない唯一の私、自己利益を追究する私、等々)と類比的に同一であ
る。
②〈私〉⇒《私》:独在性の〈私〉(この世界の客観的事実を超えた語りえない存在)は、単独性の《私》(この世界に実在する他でもないこの私)と
して語られる。
③《私》=『私』:①と②によって。
④『私』⇒「私」:愛と経済の主体である特殊・個別の『私』は、公的言語(日常言語)における一般的な「私」として語られる。
⑤《私》=「私」:③と④によって。
ここまでに登場した四つの等式(〈 〉=〈私〉,〈私〉=『私』,《私》=『私』,《私》=「私」)の、それぞれの等号を矢印に変形すると、次
の四つの式が得られる。
・〈 〉⇒〈私〉:世界の開闢
・〈私〉⇒『私』:キリストの受肉
・《私》⇒『私』:並列的な世界の描像(モナドロジー、華厳経の世界)
・《私》⇒「私」:平板な世界解釈(公的言語の世界)
最後に、この四つの式を一般化する。──それらは、「名づけえぬもの」(開闢の奇蹟)がこの世界の内部で、「その内部に存在する一つの存在者と
して位置づけられ[=受肉され]、名づけられる」(『私・今・そして神』43頁)プロセスを示している。(永井均氏は『世界の独在論的存在構造
──哲学探究2』で、「私の見るところでは、超越的事実を平板な世界像の内部へ強引に位置づけることは、一般に宗教というもののもつ特性の一つな
のだ」(293頁)と書いている。以下の四式は、そのような宗教のはたらきを示すものと理解することができる。)
【A】〈 〉⇒〈E〉
【B】〈E〉⇒『E』
【C】《E》⇒『E』
【D】《E》⇒「E」
これらの式に用いた「E」は、ドイツ語「Etwas」の頭文字で、それは、「言語的な象徴によって心にもたらされる「何か」」(井筒俊彦)と
か、「〈私〉は、だれでもないどころか、何でもないのだ。しいていうなら、ただ‘これ’でしかない。それが‘何であるか’は決してわからないどこ
ろか、いやむしろ、それは‘何であるか’がない」(永井均)などと言われるときの、その「何か」や「これ」を指している。
本稿で考察しようとしている私的言語は、永井氏によって余すところなく定義されたそれ、つまり、固有名で置きかえることができる《私》ではない
〈私〉の言語、あるいは、私秘的な感覚──永井氏が『〈私〉の哲学 を哲学する』の序章「問題の基本構造の解説」のなかで、「現実性の累進構造こ
そが「私秘的な意識」(あるいは「クオリア」)という不可解な概念の根源にあるのではないか、ということが、私が『なぜ意識は実在しないのか』で
論じた問題であった」(36頁)と書いていた、その「クオリア」──を語る言語ではなく、独在的な存在を語る言語にほかならない。
このことをいいかえると、私的言語とは、語り得ない純粋経験を語る言語である、となる。そして、その純粋経験(〈E〉)には、独在性の〈私〉の
ほか、〈今〉や〈現実〉(や〈感情〉)が含まれる。……
[*2]課題②に関しても、前節で一応それらしいことを仄めかそうとしてはいるが、到底納得できるものではない。この課題を考える上でヒントにな
りそうな“素材”の一つとして、「梵我一如」をめぐる永井均氏の議論を引く(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第61章4節)。
……『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の付論「自我、真我、無我について──「気づき(サティ、マインドフルネス)」はいかにして可能
か」から、永井均の文章を引く。
《バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)
と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたく
さんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部でだけ理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のよ
うに思える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、
と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可
思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。》
(290頁)
文中に「世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈」とあるのは、「一般的な自己意
識」としての「私」たちの、つまり、「だれかとして(すなわち固有の属性を持った者として)捉えられ」、「属性の違いによって他の人々から識別さ
れる一人の人間(たとえば永井均氏という人物)」たちの世界を描写するもの。
これに対して、『改訂版
なぜ意識は実在しないのか』の文章に出てくる、「相互の含み込み合いみたいな形で並列的に描」かれる「ライプニッツのモナド世界や華厳経の世界」の方は、
同じく「並列的」であっても、これよりはもっと複雑である。というのも、それは、「この世界の客観的事実を超えた超越的な存在」という本質を持
ち、あるいはそのような概念によって規定され、そして同時に、固有の属性によって捉えられ、固有名でもって他から識別されるところの単独性の
《私》たちの世界を描写するものだから。
これらに比べて、「端的な事実」として「超越的な存在」(=ブラフマン)であり、したがって「本質的に属性を持たない空っぽの存在」(=無我)
であるところの独在性の〈私〉(=アートマン、真我)の世界は、ほんとうは、これ以上単純で明晰かつ判明な事実はないにもかかわらず、《私》たち
の世界よりもっとずっと複雑で精妙な構造をはらんでいる。というのも、《私》たちの世界の並列的な描像こそがそこから、そして「後から」創作され
るものだからにほかならない。
さて、ここに三つの私が登場した。私はそれらに加えて、第四の類型を呈示したいと考えている。それは、第一の一般的な「私」(のうち、科学的・
歴史学的要素を捨象した、純粋に言語的な「私」)と、第二の単独性の《私》とのあいだに位置づけられるものである。すなわち、たんなる言語上・文
法上の存在ではなく、この世界に実在する科学的・歴史学的な存在(物質的・生命的かつ心理的・精神的な存在)としての私。この、第一の「私」から
分岐してできた、いわば愛と経済の主体ともいうべき私のことを、ここで『私』と表記する。
(この第四の私は、永井氏の処女作『〈私〉のメタフィジックス』の章立てで言えば、第Ⅱ部「利己性―─『私』の倫理学」で論じられた利己的な
『私』と、第Ⅲ部「自己愛─―“私”の人間学」でとりあげられた人間学的な(生物としての)“私”を合成したものと言える。)
永井均解説による「梵我一如」の宗教的特性を、私をめぐる四つの表記を用いて表現すると、次のようになる。すなわち、〈 〉=〈私〉。この等式
で、〈 〉はブラフマン(あるいは「空っぽの存在」=空虚な器)に、〈私〉はアートマンに、それぞれ対応している。そして、これと対比されるキリ
スト教の思想は、〈私〉⇒『私』と表記することができる。この「受肉」の定式において、〈私〉は父なる神(=〈 〉)に対する子なる神・キリスト
に、そして『私』はナザレのイエスにそれぞれ該当する。……
【11】文法カテゴリー②時制・相─現実世界の構成(5)
時制(テンス、過去・現在・未来)についても「哥とクオリア/ペルソナと哥」から関連する議論・キーワードを抜き出してみました[*1・2]。
──(複合過去形を使うことによってクローズ・アップされる)「「語っている現在」の浮上とともに、二十世紀の小説ははじまる」(芳川泰久『謎
とき『失われた時を求めて』』)、「永遠化された過去、今によみがえってくる過去」(若松英輔『小林秀雄 美しい花』)、「アオリスト=インメモ
リアルな神話的過去=語部の時制」(坂部恵『かたり』)、「《現在→過去→過去における未来としての現在から見たその過去⇒未来から見た過去とし
ての現在》という複雑な時間意識」(佐々木健一『日本的感性』)、「「死んだ後の自分」という前未来形の消失点から「今」を見ることのできる人=
賢者、名人、聖人」(内田樹著『死と身体』)、その他「(永劫)回帰する時間」や「永遠の今」やマクタガートの時間(時制)非実在論、等々。
今回もまた、これら蠱惑的な論点については“素通り”して、いま手元にある素材の精査にとどめます。
◎時間と文法─時間のアスペクト的な把握
平井靖史氏の「時間とは何か?──スケールとアスペクト時間論」(『現代思想』2024年1月号)は、テンスに先行する(という強力な証拠があ
る)アスペクトに着目した時間哲学へのアプローチを試みている。
その際、『世界は時間でできている』(平井氏はこの著書で「アスペクト時間論としてのベルクソン哲学」を提示している)で導入した「時間のマル
チスケール」のアイデア──事象には固有の時間スケールがある(砂糖が水に溶けるのにかかる時間、放射性元素の半減期、生物それぞれの寿命、「深
い悲哀」を一秒間だけ感じることはできない(ウィトゲンシュタイン)、等々)というもの──から始める。
<幅のある現在とスケールの多元性>
「「現在」というものに具体的な有限の幅を認めることができるのは、スケールの導入が時間哲学にもたらすわかりやすいインパクトである。」
「一歩進んで後者[ベルクソンが幅のない瞬時の同時性と区別した(幅のある)流れの同時性]のサイズを対象系ごとに個別に見定めてやることで、多
元的な時間スケールから成る宇宙を描けるようになる。」
「帰結は現在の話にとどまらない。過去の問いも大きく変わる。(略)時間スケールの哲学の観点に立つと、…「端的な」過去など成り立たない…。過
去とは現在の相関者であり、宇宙に一つの普遍的現在などなく、あらゆる「現在」は特定のサイズがある。したがって、ある時が過去かどうかは、注目
系の時間スケール次第になる。」
<時間経験を時間に組み込む/時間的ゾンビ>
「…後者[マクタガート系の「時間の哲学」]で争点となるのは、突き詰めれば「変化」の実在である(「時制」の実在はその代理戦争である)。そこ
で以下のような問いが立つ。そもそも変化というものを、それ自体において、つまり変化の経験抜きに定式化できるのか。」
「一般に、「変化」というものがその経験から独立であるように見えるのは、変化を可能にしている条件をスコープの外にうまく掃き出しえている限り
においてでしかない。ひとは相手が「時間的ゾンビ」[知的な推論能力を備えているが、時の流れを味わうことのない仮想的存在]でないこと、つまり
明示しなくても流れを読み込んでくれることをどこかで当てにしている。」
「結局、変化の実在はその経験を要求する。だがそれは主観のうちに時間を囲い込むことを帰結しない。逆である。(略)それは、経験ないし主観と呼
ばれてきたもの自体を宇宙内部の一時間事象として扱うことを要求する。それにスケールが不可欠なのである。」
<流れと未完了>
「アスペクトの観点で眺めてみると、以上の議論[マクタガート(すべてが一挙に与えられる=何も流れない)対ベルクソン(時間とはすべてが一挙に
与えられるのを妨げる遅延のことだ)]はずっと完結相・完了相の領域に留まっていることがわかる。その‘アスペクト的制約のために’、系列上の位
置移動としてしか流れを表現できない。だが、マルチスケールの落差を利用してある単位──分割されない拡がり──の「内部」を語ることができるよ
うになる。‘未完了相’が利用可能になるのである。」
「こうして現在について、通常の意味での幅ではなく、スケール方向の、いわば‘垂直的な幅’を論じることが可能になる。上下のスケール比が、現在
一つ分が包括できる要素数を与える…。これだけの要素をどう組織化するか。その決定責任を現在は担っている。」
「つまり、我々の経験はいつも「作りかけの最中」にある。確定していると思う時には、もう振り返っている(完了相)ことに気づかねばならない。/
同じイベントは、同時に、上の時間スケールとの関係においては「完結相」である。つまり、完結相と未完了相が、スケールの縦の構造を相対的に…表
現する。」
「したがって、外からはいつでも系列構造を語れてしまうのだが、アスペクトは完結となるため、そこから流れ(とその経験)は取り出せない仕掛けに
なっている。逆に、未完了変化を捉えるためには、適切なスケールを見つけ(前系列的・前時制的に)その亜周期[intraperiod、ブオノ
マーノが『脳と時間』で用いた概念]を見てやることが必要だ。時間哲学にスケールを組み込むことは、すべてが一挙に規定されないという‘局所性の
制約’を自然な仕方で用意し、時間のアスペクト的な把握に構造的な基礎を提供する。」
──時間のマルチスケールの垂直もしくは縦の落差における「上と下」を「表と裏」へと読み替えると、私がテンスやアスペクトに、つまり〈今〉を
めぐる私的言語に関連する逆理(パラドックスもしくはアナロジー)として想定した「裏と表の縫合」の出自を説明できるかもしれない。
(あるいは少なくともアスペクトに関して言えば、「外と内」への読み替えが適切なのかもしれない。たとえば入不二基義氏は平井論文に対する所感を
述べたXの記事(2024.01.04)で、「私にとっては、スケールとアスペクトを組み合わせて、「超越(外在)と内在」が新たな仕方で考察で
きるようになる点が、もっとも魅力的だった。」と書いている。
[*1]「アスペクト」について取りあげた箇所(ただし、文法カテゴリーとしてのアスペクトを論じたものではない)も抜き出しておく。
──「現認(知覚)、想起、懐疑、等々のノエシスのあり方に応じて、そのつどノエマの見え方、アスペクト(相)は変わっていく」(内田樹『レ
ヴィナスと愛の現象学』)、「視点(パースペクティヴ)にも身体にも解消しえない世界の眺め(眺望)としての「アスペクト」」(野矢茂樹『心と他
者』)、「言葉の相貌が転換する「アスペクトの閃き」」「アスペクト盲の人は言葉遊びが理解できない」(古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイ
ン』)。
[*2]文法カテゴリーとしてのアスペクトについて、本文の後の議論に関連するのでここで一言触れておく。
バーナード・コムリーによると、アスペクトは「ほかのなんらかの時間に場面の時間を関係づける」(=テンスの特性)ようなことはしない。「それ
はむしろひとつの場面の内的な時間構成にかかわっている。このちがいは、場面の内的な時間 situation-internal
time(アスペクト)と場面の外的な時間 situation-external
time(テンス)とのちがいである」(浅利誠『非対称の文法』35頁)。
平井後掲論文は「基礎アスペクト」として次の三つを掲げている。①完結 perfective
相(アオリスト、出来事全体に言及)、②非完結/未完了 imperfective 相(状況の展開にフォーカス)、③完了 perfect
相(事後の時間に言及)。
【12】文法カテゴリー③様相─現実世界の構成(6)
最初に、断っておかなければならないことがあります。それは、今回の話題である「様相(モダリティ)」が、文法カテゴリーに属するもの──表現
類型(叙述・意志・命令・疑問)のモダリティ、評価・認識・説明のモダリティなど──というよりは、様相論理学(modal
logic)やカント哲学で言うところのそれ──必然・偶然・可能・不可能、可能性-不可能性/現実性-非存在/必然性-偶然性──であるということで
す。(文法カテゴリーとしてなら、むしろ「法(ムード)」──直説法、命令法、仮定法など──をもってくる方が適切なのかもしれない。)
以下、そのような意味での様相(モダリティ)をめぐる話題を一点、取りあげます[*]。
◎ヨコ問題はもっぱら様相的な問題である
永井哲学のキーワードに「タテ問題」と「ヨコ問題」の区別がある。
《タテ問題とは、内在的意識がなぜ超越的外界を認識できるのか、物質である脳がなぜ意識を生みだせるのか、過去(や未来)が存在するとなぜわかる
のか、といった問題で、ヨコ問題とは、たくさんの意識があるとされているが、本当にそうだとしてもほとんどは現実には意識できず、一つだけ例外的
に現実に意識できる意識が存在するのはなぜか(この差異は何が作り出しているのか)、といった問題や、同じことだが、たくさんの現在があるはずな
のに、ほとんどは現実には現在ではなく、一つだけ例外的に現実に現在であるのはなぜか(この差異は何が作り出しているのか)、といった問題であ
る。》(『存在と時間 哲学探究1』59-60頁)
「ヨコ」の方は判りやすい。内容的あるいは概念的に同列・同格のもの──永井氏の記号を使えば《私》や《今》──が横並びに並列して存在(リア
ルに“実在”)しているなかで、そのうちの一つだけが例外的に“現実”に存在(アクチュアルに実存=現実存在)しているのはなぜか(この──
《私》と〈私〉の──差異は何が作り出しているのか)という問題はいかにも「ヨコ問題」と呼ぶのにふさわしい。
しかし「タテ」の方は少し判りづらい(少なくとも私は最初つまづいた)。「内在的意識」と「超越的外界」のように「内」と「外」の問題だったら
すんなり理解できただろう。しかし、物質と意識、現在と過去(未来)の関係を「内-外問題」に含めるのは無理がある。(そもそも存在の土俵を異に
する《私》と〈私〉の差異をめぐる問題と違って)、次元を異にする二つのもの、ただし共に同じ存在の土俵(“実在性”)の上にあるものの関係をめ
ぐる問題を「タテ」問題と呼ぶことへの違和感。
このことに関連して(いるかどうか確証はないが)、Xに投稿された永井氏の一連の記事を適宜抜萃しておこう。
2023年7月15日
このとき、一般的な自我、主観、意識、…たちから、唯一の現実の(「現実の」に傍点)開けの原点*を識別する根拠としてはたらくのが「無内包の現
実性」であり、その識別の際に起こっている問題が「ヨコ問題」である**。
* これは世界がそこから開けるだけの原点で、開かれた世界の側からは存在しない。(ゆえに実在しない。)
**
対して、一般的な自我、主観、意識、…たちと客観的(対象的)世界のあいだに起こる問題(精神と身体の法則的な繋がりの問題なども含めて)がタテ問題であ
る。
|
2023年7月16日
ヨコ問題はもっぱら様相的な問題である。独在性問題が言表可能でありえたのは問題を様相的に捉えるということができたからなのだ。多くの哲学者た
ちはこの問題を様相的にではなく概して認識論的に捉えてきた。するとこれもまたタテ問題化される。それは滑稽な誤解の歴史であったと思わざるをえ
ない。
そうすると、カント的なカテゴリーは事象的カテゴリー(real category)と様相的カテゴリー(modal
category)に分けなければならないことになるだろう。そうでないと、物や法則の構成だけでなく《私》や《今》の構成も含む超越論的世界構成はでき
ないであろうから。
カントは「様相」自体を含めてすべてに感性的な裏打ちを与えて認識論化し、事象的カテゴリーにしてしまうが、これはかなりまずいやり方だと思う。
この世界はそのままですでに形而上学が内在しており、そのことによってこのように成り立っている、という事実に本当に気づいていないようだ。
|
2023年7月17日
ところで「様相」の特徴は、「事象」的にはまったく(「まったく」に傍点))同じであっても、それが現実であったりたんに可能であるにすぎなかっ
たり、という根源的差異が認めうる、という点にある。人称や時制にもこの見方を持ち込みうるし持ち込まなければならないという点がキモ。
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2023年7月18日
「事象的にはまったく同じであっても…」がすなわち「無内包の…」ということ。(まったく同じなので様相絵は描けない)。この見方を持ち込まなけ
ればならないのは、持ち込んだ時に初めて「私」や「今」を、無内包の現実性から出発しつつも累進的に一般化しても使用する、ということが可能とな
るから。
──ヨコ問題はもっぱら様相的な問題である。つまり、様相は、タテ問題のような同じ存在の土俵(“実在性”)の上にあるが、(内と外、深層と表
層、低階と高階、等々のように)場所を異にするものの関係ではなく、《私》と〈私〉のようにそもそも存在の土俵(《私》=“実在性”か〈私〉=
“現実性”か)を異にするものの関係にかかわるカテゴリーであるということである。
[*]「哥とクオリア/ペルソナと哥」でも論理学・哲学的な意味における様相について(のみ)言及している。そのうち、いつか集中的に取りあげた
いと思っていた論点にかかわる“素材”を切り出した。(ここから出発して、たとえば「九鬼周造の文藝論」としてまとめてみたいと考えている)。
……九鬼周造の「文學概論」講義に、「藝術は単に「ない」事柄をつくるのみならず「有り得ない」事柄迄もつくり出す」とある。
九鬼によれば、「存在」に「現實的存在(ens reale,ens
actuale)=狭義の存在(existentia)」と「可能的存在(ens
possibile)=本質(essentia)」の二つの様態があるのに対して、「無」(または非存在)には「積極的無」(「現實的存在でないといふ無
の領域」=「ない」事柄)と「消極的無」(「可能的存在でもあり得ないといふ無の領域」=「有り得ない」事柄)とがある。……(第39章1節)
……「錯綜体」(Implexe)とは、ヴァレリーが精神分析由来の「コンプレックス(Complexe)」を意識し、フロイトの「無意識」へ
の批判を込めて提出した概念で、「ひとりの人間の潜在的な可能性の総体」を意味するものであること、そして、市川宏氏がこれを、「現実的(顕在
的)統合+潜在的統合+可能的統合+不可能な統合(夢)」の「〈身〉の多次元の統合」の概念へと拡張し(『〈身〉の構造』、『身体論集成』)、さ
らに、「重畳無尽の現実的ならびに可能的関係(縁起)からなる錯綜体」としての世界、すなわち「存在でもなければ、不在でも、非存在でもなく、そ
のいずれでもありうる虚在とでもいうべきもの」(『〈中間者〉の哲学』、『身体論集成』)へと拡張したこと……(第57章1節)
……このような「〈身〉の多次元の統合」に「多次元の世界の相貌」が相応している(『身体論集成』170頁)。それらを、九鬼周造(講義「文學
概論」)の議論と重ね合わせて、「現実的世界」=「現実的存在」、「潜在的世界」=「積極的無(現実的存在でないという無)」、「可能的世界」=
「可能的存在」、「関係不可能な世界」=「消極的無(可能的存在でもあり得ないという無)」という等式で結ぶことができる。……(第45章3節)
参考として。以下は、「推論的世界」第2節で掲げた図。
【現】
actual
┃
可能的存在 ┃ 現實的存在
┃
【虚】━━━━━╋━━━━━【実】
imaginal ┃ real
消極的無 ┃ 積極的無
┃
【空】
virtual
【13】文法カテゴリー④態・法─現実世界の構成(7)
私は前回、法(ムード)は〈現実〉をめぐる私的言語にかかわる文法カテゴリーとして位置づけるのが適切かもしれない、と書きました。
それはそうなのかもしれませんが、たとえば堀田隆一氏の「hellog~英語史ブログ」の記事(2020-03-23)には、「法とは話者があ
る命題をどのような「気分」で述べているのかを標示するものである…という解釈で大きく間違いはない」とあります。なので、(やや論理の飛躍があ
りますが)、やはり法(ムード)は〈感情〉をめぐる私的言語にかかわる文法カテゴリーに(こそ)ふさわしいものと考えて、当面、原案を維持するこ
とにしました。
ただし、初学者ゆえ、これ以上、法(ムード)について語るべき言葉をもちあわせていません。以下に取りあげるのは態(ヴォイス)について、それ
も中動態(ミドル・ヴォイス)をめぐる先達の議論のみ。
◎國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』から。(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第53章2節における摘録の一部)
<出来事を描写する言語から行為を行為者へと帰属させる言語へ
─バンヴェニストによる中動態の定義から明らかになる「驚くべき」事実>
○バンヴェニストによる中動態の定義。──「能動と受動の対立においては、‘するかされるか’が問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対
立においては、主語が過程の‘外’にあるか‘内’にあるかが問題になる。」(88頁)「中動態は動詞の示す過程の内に主語が位置づけられる事態を
示し、能動態はその過程が主語の外で完遂する事態を示す。」(100頁)
○バンヴェニストの定義から明らかになる「驚くべき」事実。──すなわち「在る(存在する)」や「生きる」が能動態に属すること。「「能動性」と
は単に過程の出発点になることであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している。」(91
頁)
《中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、その
ような言語であったのだ…。‘出来事を描写する言語’から、‘行為を行為者へと帰属させる言語’への移行──そのような流れを一つの大きな変化の
歴史として考えてみることができる。》(『中動態の世界』176頁)
<日本語にも中動態は存在していたし、存在している>
《「見える」という動詞について考えてみよう。この動詞は「見る」という‘他動詞’と対の関係にある‘自動詞’だが、それが‘受動’の意味から派
生したものであることは明らかである。それは自動詞でありながらも、“which is seen”や“which is to be
seen”と翻訳される意味をもつ。「見える」はしたがって、自動詞と受動態の意味をそこから導出することのできる中動態に対応する動詞として考えること
ができる。
「見える」は文語では「見ゆ」である。同じ系統の動詞にはたとえば「聞こゆ」や「覚ゆ」などがある。この語尾の「ゆ」こそが、インド=ヨーロッパ
語で言うところの中動態の意味を担っていたと考えられる。
この語尾はその後、動詞の複雑化に伴い、「ゆ」および「らむ」へと分岐する。今日にも伝わる「いわゆる」や「あらゆる」といった表現はその名残
である。それぞれ「言う」と「有る」にこの語尾が付いて形成された語だ。》(183-184頁)
◎木村敏『あいだと生命 臨床哲学論文集』五章「中動態的自己の病理」から。(同第53章3節)
ミシェル・アンリのコギト解釈をめぐる木村敏の解説。──いわく、デカルトが『省察』に書いた「(私には)……と見える、思われる」の部分のラ
テン語 videor
は中動態の用法であって、私の感覚に対して光、物質、熱などの現象が(いわば共通感覚的に)現れ感じられる事態を指す。デカルトの「コギト」とは「自己自
身を自ら感じることであり、現れることのそれ自身への本源的現れ」(ミシェル・アンリ『精神分析の系譜──失われた始原』)である。
木村によると、統合失調症においては、このような人称以前的なアンリ的「自己」すなわち「感覚の純粋な自己触発」と、一人称的なハイデガー的
「自己」すなわち他と交換不可能な「この私」とを結ぶ関係そのものが病的に変化している。
《言い換えれば、特殊人間的な自己意識において表象されるリアリティとしての「私」と、その生命的根拠を形成するアクチュアリティとしての「主体
それ自身」との‘差異そのもの’が、統合失調症という精神医学的な事態を担っている。統合失調症においては、感覚の自己触発の「場所」としての中
動態的な「主体」あるいは「自己」が成立不全に陥っている、といっても同じことである。》(『あいだと生命 臨床哲学論文集』126頁)
木村は続いて、「驚くべきことに」、日本語では中動態に相当する語法が現在でも広く行われていること(「思える」「見える」「聞こえる」「匂
う」「薫る」「……の味がする」「私には……ができる」)に言及し、金谷武洋(『英語にも主語はなかった──日本語文法から言語千年史へ』)によ
る中動態の機能の定義「行為者の不在、自然の勢いの表現」を紹介したうえで、アンリ的「自己」とハイデガー的「自己」を、古代ギリシャ人が区別し
た「ゾーエー」(生命以前・生死未分の根源的「生」)と「ビオス」(個体的な「生命」あるいは「人生」)に対比して論じる。(以下省略)
◎福岡伸一・池田善昭『福岡伸一、西田哲学を読む──生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』から。(同第53章4節)
福岡伸一は、西田幾多郎の「逆限定」の概念、すなわち環境と主体の関係が「包まれつつ包む」というかたちになっていることに関して池田善昭が挙
げた年輪と環境のたとえ、「普通の考えでは、環境が樹木を限定するはずなのに、樹木のほうが逆に環境を空間の中に限定してもいる」(84頁)をめ
ぐって次のように語っている。
《十分に理解できなかったのは、「包む・包まれる」の実相についてでした。「包む」と「包まれる」が逆向きの作用である、というところまではわ
かったんですけど、私が陥った陥穽は、それが単に視点の移動に過ぎないのではないか、つまり、能動態[年輪が環境を包む]を受動態[環境が年輪に
包まれる]に言い替えているにすぎないのではないかと思ってしまったことでした。(略)
そうして段々「ああ、そうなんだ」とわかったことは……「年輪が環境を包む」というのは、同時に「年輪が環境に包まれている」とも言えるという
こと。(略)
逆限定においては、「環境が年輪を包む」ということは同時に「環境が年輪に包まれる」ということを含んでいて、それは「包む・包まれる」という
言い方で──これは「作る・作られる」という言い方に置き換えてもいいのかもしれませんが──、つまり、ピュシスにおいては、環境が年輪を作ると
同時に環境は年輪によって作られている、と。(略)
作用の方向としてロゴス的にも言えることは、「環境が年輪を作っている」という方向がまずあります。このことは誰でもそうだと認めるでしょう。
しかし、同時に、環境は年輪によって作られてもいる、そうした逆向きの方向があるということなのです。
過去の環境が年輪を見ればわかるということは、それが年輪によって作られているからですし、たった今も樹木は生きつつあって環境に作用を及ぼし
ています。さらに、未来においても年輪は常に環境に影響を及ぼすわけです。つまり、環境は年輪によって作られているし、環境は年輪を作っているわ
けで、それはまさに同時的な存在として逆限定的に作用しているということ。このことがようやくわかりました。》(『福岡伸一、西田哲学を読む』
134-135頁)
──以上の議論を“自己引用”しながら、態(ヴォイス)にはどこかしら“器”を思わせるところがあると考えた。
その内部に何もない「空ろな器」(あるいは「虚ろな器」)。あるのは声(ヴォイス)を伝える媒質だけ。一たびそこで“振動”(=感情)が発する
と、それは“波動”となって無限反復し、やがて容器としての“器”そのものに浸透していく。そして、内部に投じられる事物事象をその“響き”で
もって染めあげる。あるいは、事物事象、森羅万象を“響き”をもって産出すると言ってもよい。
すなわち、“器”は“無“”を抱懐し、この“無”は“空”となり、「真空妙有」の法理をもって“有”を現象させる。妙なる楽器のごとき態(ヴォ
イス)。
【14】第五の私的言語─現実世界の構成(8)
さて、四つの私的言語にかかわる四つの(文法)カテゴリーについて、文字通り“一瞥”してきたわけですが[*1]、ここで、いまいちど確認して
おきたいのは、純粋経験を語る(示す)──詩的言語と公的言語を媒介する──私的言語をめぐる「私的言語=アレゴリー+(文法)カテゴリー」とい
う定式です。
定式中の「アレゴリー」は、「推論的世界」において考察した五つの推論とそれぞれに対応する五つの比喩・記号を包括した──すなわち、①推論形
式・様式の五つ組「インダクション(帰納)/ディダクション(演繹)/アブダクション(洞察)/プロダクション(生産)/コンダクション(伝
導)」に対応する②比喩形象の五つ組「メトニミー(換喩)/シネクドキ(提喩)/メタファー(隠喩)/オクシモロン(逆喩)/アイロニー(寓喩・
反語)」と③記号類型の五つ組「インデックス(指標記号)/シンボル(象徴記号)/イコン(類似記号)/マスク(狭義の仮面記号)/アレゴリー
(広義の仮面記号)」を包含した──最も広い意味におけるアレゴリーです。
そうだとすると、(文法)カテゴリーにも第五の形式・様式があり、したがって私的言語にも第五の類型があるということになるでしょう。なにしろ
「私的言語=アレゴリー+(文法)カテゴリー」なのですから。
この第五の(文法)カテゴリーについて、私はかねてから(たとえば本稿第1節)、「無時制・無様相・無人称・無態」と規定してきましたが、その
実態はいまだ不明です。それをどう呼べばよいか、そもそもそれが存在するかどうかも不確かです。
(「仮面的世界」で主題的に考察した「やまとことば=ネオテニー説」──“やまとことば”は「はじまりの言語」の記憶を痕跡=かたち(フィギュー
ル)としてとどめている──を究めることで、無明の闇から脱することができるのではないかと“あたり”をつけてはいるが、そのための作業は手つか
ずのままになっている。次節から──「文法的世界」の次に予定している「註釈学的世界」にかけて──取り組む日本語文法論の“勉強”を通じて、ど
こまで迫ることができるかはやってみなければ分からない。)
第五の私的言語なるものについても、ほぼ同様のことが言えるでしょう。それでも、若干の手がかりはあります。以下、「哥とクオリア/ペルソナと
哥」(未発表分)から関連個所を抜粋します。
……私は、〈私〉、〈今〉、〈現実〉、〈感情〉をめぐる四つの私的言語に加え、〈 〉(無内包の現実性)それ自体をめぐる──もはや「語る」こ
とはおろか「示す」ことさえできない──第五の私的言語という類型を呈示し、これを「伝導」(第五の推論様式)と対応させました。(第五の私的言
語は、たとえば「光あれ」と言葉にすることと現に世界に「光がある」こととが区別できないような事態にかかわる「強い」私的言語である。)
また、私的言語のいわば「往路」(詩的言語:アクチュアリティ→公的言語:リアリティ)を担う文法カテゴリーを、「〈私〉:〈今〉:〈現実〉:
〈感情〉」⇔「人称:時制・相:様相:態・法」のように対応させ、「〈 〉」には「無人称、無時制、無様相、無態[*2]」を割り当てました。
これらのことについては、──独在性の「伝達」(という推論)にかかわる第五の私的言語(あるいは「強い」私的言語)の完成態が、そこにおいて
「反復(編集)」すなわち「伝導」(という推論)が稼働する「物語(歴史)の伝導体」にほかならない、という見通しを含めて──、藤井貞和氏の物
語理論や坂部恵著『かたり──物語の文法』などを参照しながら、さらに考えを深めていきたいと思っています。
ここでは、一点、今後の議論のための補助線を引く、というか、その前提となる大切な視点について確認しておきたいと思います。
永井均著『存在と時間 哲学探究1』第11章の冒頭に、「私秘性と独在性の混同」(185頁)をめぐる議論が展開されています。
私秘性とは、たとえば他者のクオリアを私が直接感じることはできず、私のクオリアを他者に向かって言葉で表現することはできないといったこと
(次の引用文で永井氏は「感覚の貧しさ」と表現している)で、これは実在性(リアリティ)の世界での事象。
独在性とは、現実性(アクチュアリティ)の界域における実存がもつ「無内包性=山括弧(〈 〉)性」とでも形容できる存在性格・構造のこと。
(もっとも純粋な独在的実存は山括弧(〈 〉)それ自体、すなわち無内包の現実性(物自体)であって、〈私〉や〈今〉は、物自体の「お零れ」とし
て実在性(リアリティ)の世界に(いわば)片足をつっこんでいる。)
永井氏によると、ヘーゲルもフレーゲもウィトゲンシュタインもこの二つを混同していた(そして、『〈私〉の哲学 を哲学する』以前の永井氏自身
もまた)。
《「今」[=〈今〉]の貧しさは感覚の貧しさとは種類が違っていた。感覚の貧しさは、どんなに貧しくとも、たとえ言葉で言い表すことができないと
しても、いわく言い難い「これ」という‘特定の’内容[=第〇次内包]があった。それは、貨幣価値に変換できないとはいえ自分自身にとっては特別
の意味をもつ所持品があるようなものであった。対して、「今」の貧しさは、「これ」と指せるような‘特定の’内容がない[=無内包の]貧しさであ
る。今を今たらしめる特定の内容はなく、今はその内容を刻々と変えていく。逆に言えば、今であった内容はその内容を‘まったく’変えずにただ今で
だけなくなる(過去になる)ことができる。それは、自分にとっては特別の意味をもつような所持品さえもない貧しさである。もしそんな所持品があっ
たなら、それは‘内容的に’(他と区別されて)意味のある出来事になってしまうが、今はただ今であるという事実だけによって(その内容とはいっさ
い関係なしに)他時点から截然と区別されていなければならないからである。(言うまでもないことではあるが、私[=〈私〉]であることについても
まったく同じことがいえる。私であることにも特定の内容がない。)》(『哲学探究1』184-185頁)
これに続く一文。
《しかし、この極限の貧しさはまた極限の豊かさでもある。なぜわれわれが今を(その内容とはいっさい無関係に)他の時点から截然と区別できるのか
といえば、今以外の時点はそもそも存在していないからである。これは、じつはそれがすべてである(他のものはじつはすべてその内部にある)という
豊かさである。ところが、その豊かさは外的視点や他時点から見ればたんなる妄想にすぎない。つまり、そんな特別の時点などは実在しない。実在する
とすればみな‘平等に特別’であるにすぎない。すべての時点は、そのとき起きている出来事の内容の違いを除けば、まったく対等の存在である。とい
われても、そもそも外的視点や他時点から見ることなど‘不可能’なのだ、ということこそが先に言われていたことなのだから、そんな批評は痛くも痒
くもない、ともいえるところがこの対立のポイントなのである。》(『哲学探究1』185-186頁)
長々と引用したのには、二つの理由があります。
私は、「強い」私的言語は“無内包の現実性”(純粋経験、空虚な器)に、「弱い」私的言語は“第〇次内包のクオリア”にそれぞれ起点を持つと考
えています。永井氏の文章を読みながら、(「弱い」私的言語が「クオリア」の言語化をめざすとすれば)、「強い」私的言語の到達点は「クオリア」
の制作にあったのではないかと考えました。これが一つ。
二つ目の理由は、永井氏の議論を参照することによって、かねてから関心を寄せてきた“アンソロジー”というものの(私秘性にかかわる)伝導体か
ら、物語=歴史という(独在性にかかわる)伝導体へといたる“導管”を見出すことができるのではないかと考えたことです。たとえば次のようなかた
ちで。
──アンソロジー(という“器”)を構成する個々の作品群は、それぞれ「これ」と指せる(「これ」と指すしかない)特定の(貧しい)内容をもっ
ている。そこでは無数の(古今集で言えば千百十一の)「心」が、つまり「平等に特別」な「今」と「私」が“跳梁跋扈”している。
やがてそれらが匿名化し、主体なき「思い」となって自在に飛び交い、相互の関係性を結び自己編集を繰り返すうち、混沌の海に生命のDNAが誕生
したように、物語の種子が育まれる。実在性(リアリティ)の世界における物語のはたらき(推論)を通じて独在的存在が生成し、やがてそれは歴史と
いう現実性(アクチュアリティ)の界域へといたる。……
逆から言えば、この独在性の水準における歴史を再び実在性のレベルに引き戻すのが、第五の私的言語を成り立たせるもう一つのファクター(として
の文法カテゴリーの機能)である。
[*1]数多くある“心残り”のなかで最も大きいのは、永井均著『『純粋理性批判』を立て直す──カントの誤診1』を参照できなかったこと。
たとえば同書第2章は『純粋理性批判』のカテゴリー論を取りあげているのだが、「一応はカントの分類に従ったカテゴリーの(勝手な)解説」の項
の冒頭、永井氏は「話を戻して文法について考えていくことにしよう」と書いている。
戻す前の話題とは感性論をめぐる第1章の要約とカテゴリー論への接続に関するもので、そこでは次のように書かれていた。
「前章で感じることと考えることを区別したが、感じたことは語で表現されるが、考えたことは文で表現される、といえる。文とは要するに複数の語を
(ある規則に従って)繋げたものであり、その繋げ方の規則がすなわち文法なのであるから、先ほど、五感に与えられるものを秩序づけて整理する仕方
には言語の構造と結びついたものもある[「きわめて大雑把にいえば、それがカテゴリーである」]、と言われた際のその言語とは、すなわち文法のこ
とであった、ということになる。」(28頁)
(私はここで、語彙の部・文法の部の二部構成をもつ佐々木健一著『日本的感性──触覚とずらしの構造』のことを想起した。)
[*2]入不二基義氏は『現実性の問題』第3章「事実性と様相の潰れと賭け」で、「無態」という概念を呈示している。
《「態(voice)」は、「こちら側(主体)とあちら側(客体)の関係性」を前提にしている。それゆえ、「こちら側とあちら側の無関係性」が
ベースになっている「祈り」の場合は、[こちら側とあちら側の関係性を前提にしている選択や賭けや神頼みと違って]能動とも受動とも言えないし、
双方向とも言えない。とりあえず「無態」(態=関係性を持たない)と表現した。その意味で、現実の現実性は、「無内包」であり「無様相」であるだ
けでなく「無態」でもある。「無態」と呼んで、「中動」と呼ばなかったのは、「中動態」を、「能動と受動の高次の折り畳み」(能動の自己再帰や受
動を能動するや受動的能動……等々)として考えたいからである。》(『現実性の問題』117頁)……
【15】“やまとことば”の文法(1)
言語一般における文法から日本語文法へと話題を転じるに際して、ここでひとつの模式図を示します。
┌──────┐ ┌──────┐ ┌──────┐
│ 詩的言語 │→│ 私的言語 │ ⇒ │ 公的言語 │
└──────┘ └──────┘ X1 └──────┘
〈 〉 〈私〉 〈今〉 「私」 「今」
〈現実〉〈感情〉 「現実」「感情」
┌──────┐ ┌──────┐ ┌──────┐
│ はじまり │→│ やまと │ ⇒ │ 日本語 │
│ の言語 │ │ ことば │ X2 │ │
└──────┘ └──────┘ └──────┘
上図の「X1」が、現実の世界(公的言語が流通する世界)の構成という大業において重要な役割を担う文法のはたらきを示しています。残念なが
ら、私の力では、そのメカニズムを解明することは叶わなかったのですが、ここで、(やや場違い、というかはなはだ時期遅れではありますが)先賢に
よって提示されたひとつの強力な手がかりを引用します。
永井均氏に「聖家族──ゾンビ一家の神学的構成」(『〈私〉の哲学 を哲学する』所収)という論稿があります。『転校生とブラック・ジャック』
終章の「解釈学・系譜学・考古学」とともに、読むたび新鮮な刺激を受けてきた文章です。そこで永井氏は、言語の「驚異的な力」を示すものとして、
否定文の存在を挙げています。
いわく、「雪が降っている」という言明が偽であるのは、雪が降っていない場合である。このことはただ現実との対比だけで決まるので、「雪が降っ
ていない」という否定文は実際に登場する必要はない。
しかし、言語には「雪が降っていない」という否定文を主張する(否定を肯定する)高次の操作が可能である。ここに、(現実との対比における)誤
りではない「偽」、主張することが可能な「偽」、‘もし’「雪が降っている」と言う(思う)‘ならば’それは偽であるという、現実的ではない、可
能的な「偽」が成立する。このとき、雪が降っているような「可能世界」が考えられている、と言ってもよい。現実的な(現実との対比における)偽り
もまたこの否定の一種として組み込まれることになる。
《…「降っていない」という否定性には、「降っていない」という言明の形では登場せず、「降っている」ことが‘現に’偽であることのうちに(の
み)示される、(相対化・可能化されない)最終局面があるのでなければならない。それが、否定が現実とつながるための条件だからだ。しかし、
「降っていない」という否定文が言明として登場するときには、それはすでに「降っている」と対等の資格をもち、事態は全体として可能性の地平に移
行し、実際に降っていないこともまた単なる可能性の一つとして位置づけられて非特権化されることになる。言語を使うことにおいて、雪が降っていな
い現実世界は、雪が降っている世界と並び立つ、諸可能世界の一つにすぎなくなるわけである。[*1]》(『〈私〉の哲学 を哲学する』
214-215頁)
ここに示されているのは、〈現実〉をめぐる私的言語から、公的言語における「様相」のカテゴリーが構築されるメカニズムにほかなりません。永井
氏の議論は、つづきます。
《人称や時制も基本的にはこの機制に基づいて構築されている。現実的な偽に対応するのが現実的な私(つまり〈私〉)で、否定を媒介にした偽に相当
するのが他人たちの語る「私」であることは言うまでもない。(現実から出発して考えれば、)現実に降っていることが相対化・可能化され、偽が否定
に進化し、否定を媒介した相対化された偽が生じるように、(私から出発して考えれば、)現実に唯一しか存在しない私であるあり方が相対化・可能化
され、〈私〉が「私」に進化し、「私」を媒介した相対化された《私》が生じる[永井氏によると「《私》とは(他者が自己である人物を指す「私」の
ことではなく)その他者にとっての〈私〉のことである」(228頁)]。「‘現実には’雪が降ってい‘ない’」という言い方が、言い方としては相
対化できるのと同様に、複数の〈私〉が可能になるわけである。言語の立場に身を置くならば、複数の可能世界が実在するという考え方はけっして突飛
なものではないだろう。その際、「現実には」という表現は、「私は」や「今は」と同様の反省意識(世界の内観!)の表現となるだろう。実証(検
証)とは世界の内観であることになる。》(『〈私〉の哲学 を哲学する』215頁)
永井氏の議論は、こうした言語の驚異的な力(技)がはたらくための条件(「独在的身体」)に説き及び、さらにスリリングな「神学的」世界をめぐ
る議論へと踏み込んでいくのですが、当面の論脈とは直接つながらないので割愛して、ここでは、先の図の「X2」、すなわち“やまとことば”が日本
語へと展開していく機制やその根拠はいったい何なのか、について見ておきたいと思います。
※「はじまりの言語」→「やまとことば」のプロセスについては、「仮面的世界」の16節で言及した「やまとことば=ネオテニー説」を参照してくだ
さい[*2]。
[*1]脈絡はないが、言葉の(掛詞的な)つながりで連想したことを書いておく。以下は、尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使──歌の道の詩学Ⅰ』のなかで、
藤原俊成にとって「和歌はイメージではない」と指摘している箇所。長くなるが一息に引用する。
《貫之が桜の散るさまを「空に知られぬ雪ぞ降りける」[桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける]と詠んだ時、桜が雪として降るという
一つの型が成立する。そして以後の和歌がこの型を引用する時、もはや花と雪との区別はない。詩的世界において、花は雪のように降る(比喩)のでは
なく、花は雪として(複合)降るのである。また例えば、日常我々は露のような涙(比喩)ということあある。しかし和歌に「袖の露」という時、それ
は草葉に濡れた袖であると同時に、恋の紅涙なのである(複合)。
だが、そのようなイメージの複合を、人は一体表象できるだろうか。むろんできない。ここで、和歌とは「姿」であるという俊成の考えを思い起こそ
う。つまり、和歌はイメージではない。〈丸い四角〉は、日常言語としては、表象不能である故に背理だが、詩的言語の中にこの種の結合はいくらでも
ある。和歌における価値体験とは、言葉によってイメージを思い描いて後、そのイメージに感動するというようなものではない。まず、言葉のもつ
「姿」に感動するのである。でなければ、見たこともない歌枕が、どうして題材となりえようか。
今一つ例をあげよう。定家が「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」と詠んだ時、上句のイメージは、ただ茫漠たる空虚にすぎな
い。なにしろ「無い」と言っているのだから、我々はこの歌に花や紅葉のイメージを重ねて、思い泛べるわけにはゆかない。しかし、「何もない」と言
うことと「花も紅葉もなかりけり」と言うこととは、明らかに効果の違いがある。その効果は、夕べの浜の点景にあったかも知れぬ花や紅葉を想像する
ことによるのではない。「花」「紅葉」という「言葉」が担っている一種の〈含み〉によるのである。この〈含み〉は、詩的世界の中で、「花も」「紅
葉」という〈言葉〉がこれまで結びついてきた無数の〈価値体験の型〉の集積によって生じたものである。この集積のために我々は、「花紅葉」と聞い
ただけで、一群の価値を受容する準備を心の中に整える。むろん価値体験は実現しないわけだが、過去の「花紅葉」に関わる〈価値体験の型〉を想起す
る準備だけは果たされるのであって、おそらくこれが、「花紅葉」という〈言葉〉のもつ〈含み〉なのである。そしてこの非顕在的な〈価値体験の型〉
としての〈含み〉こそ、「姿」の重要な構成要素なのであろう。つまり、作者は、イメージではなく、この〈含み〉を複合させることによって「姿」を
つくるもである。
詩的言語が、その意味をイメージに頼る限り、現実の法理を無視することはできない。「花」は常に「花」にとどまり、「雪」となることは許されな
い。しかし、詩的言語が、その意味を、生活世界の映像ではなく、詩的世界内部での〈価値体験の型〉に依存する時(顕在的には〈引用〉、非顕在的に
は〈含み〉)、〈言葉〉は日常の規約を超えて自由に結合し、自律的な世界を産出、展開することができたのである。》
(『花鳥の使』94-96頁)
──ここには、(「詩的言語/私的言語/公的言語」∽「詩的世界(価値体験の型の集積)/詩的世界(引用・含みによる詠歌)/生活世界」の対応
とともに)、本稿の次節以降の議論がすべて集約されている。たとえば、和歌の言語(それは像=イメージではなく喩=フィギュールである)が結びつ
いてきた無数の価値体験の型の集積(和歌的言語世界における「含み」)を読みほぐしていくための技法としての註釈学、そしてその実践の積み重ねの
結実としての文法といった具合に。
また、歌を詠み読むための言語体系である“やまとことば”のレトリック、すなわち歌の姿(複合されたフィギュール)を構成する「見立て/縁語/
本歌取り/掛詞」の四つの技法が、それぞれ「顕在化された引用/非顕在化された含み/顕在化された含み/非顕在化された引用」として捉えられると
いった具合に。
[*2]場違いな註記になるが、私が、はじまりの言語の記憶を「かたち」(フィギュール)として保存し伝達=反復するのが“やまとことば”である
と言うのは、“やまとことば”が唯一無比の特異な言語だと考えているからではない。むしろすべて人間の言語は、その程度の差はあれ、はじまりの言
語の記憶を留めているはずだと考えている。
そのような意味では、ことさら「やまとことば=ネオテニー説」などと強調する必要はないのだが、敢えてそのような作業仮説というか人間の言語に
対する一つの見方を設定したのは、そのようなパースペクティヴを通じてこそ何事かこれまで見えなかったものの姿が明らかになるのではないかと期待
してのことである。
ことのついでに、いま一つ註を施す。
私が念頭においている「はじまりの言語」とは、(文字言語の誕生に先立つものとされる)音声言語のことではなく、アンドレ・ルロワ=グーランが
「神話文字(ミトグラム)」と名づけた、石器時代の洞窟壁画に描かれた抽象的記号群を想定している。あるいは、出口顯氏が『声と文字の人類学』の
第六章で論じた「文字の受肉化」(8頁)としての声を創り出す原エクリチュールとしての「はじまりの文字」(164頁)。
そして、そのような意味でのはじまりの言語の記憶を「かたち」として保持する“やまとことば”(形成途上の日本語、原日本語)のイメージについ
ては、たとえば『考えるための日本語──文法と思考の海へ』における井崎正敏氏の議論を参照している。
井崎氏はそこで、①江戸期の国学者による「詞」と「辞」の区別は漢字仮名交じりの表記のなかに実現されていたと断言する柄谷行人(「文字論」、
『〈戦後〉の思考』所収)、②日本語の統一原理(アイデンティティ)は和語の中国語あてはめ(訓)と中国語の和語あてはめ(音)の複線・二重性
と、漢語の詞を仮名の辞が支える構造に存在すると指摘した石川九楊(『二重言語国家・日本』)、③漢字なしには日本語そのものが存立し得なかった
と述べ、漢字・書記言語的な世界のなかではじめて『古事記』が成立したのだと指摘する子安宣邦(『漢字論』)の議論を紹介したうえで、次のように
述べている。
《思想的立場も異なる三者が共通して指さしているのは、小言語が乱立していまだ「日本語」の成立を見ない状況に漢語が招来され、その訓読という作
業のなかから「日本語」が次第に形成されてきた、その歴史的なステージであった。また柄谷と子安の議論は、ともに国学以来の言語ナショナリズムに
対する批判の表明であった。》(『考えるための日本語』127頁)
【16】“やまとことば”の文法(2)
前節の末尾に、「“やまとことば”が日本語へと展開していく機制やその根拠はいったい何なのか、について見ておきたいと思う」と書きました。し
かし、ここでも私は確たる自説をもちあわせていません。
ただ、手掛かりになると目星をつけている“素材”はいくつかあります。ここで、その“有力”な候補を紹介したいと思います。以下は、『無名草
子』と比較しながら『松浦宮物語』を論じた深沢徹氏の『自己言及テキストの系譜学──平安文学をめぐる7つの断章』第Ⅲ章から。
《「鏡」を隔てた向こう側に自らの帰属すべき場を求めてあくがれ出ずる、主人公の霊魂[たま]の寄る辺なさを最後に描き出して、テキストは唐突に
閉じられる。この世とあの世との幽冥境を異にする二つの世界を行き来して、ついには帰り着く場を失ってしまった主人公を、そうした自己疎外のジレ
ンマから救い出すためには、テキストの〈外部〉へと抜け出ていくしか残された手だてはない。というより、こちら側とあちら側とが「合わせ鏡」のよ
うにして入れ替わり、めまいを誘う錯綜した世界を描き出すことで、テキストの〈内〉と〈外〉とを行き来するロマンティック・イロニーの迷宮へと読
者をいざなうことが、『松浦宮物語』の真のねらいだった。》(『自己言及テキストの系譜学』260-261頁)
そして、「「合わせ鏡」のように、互いに互いを照らし合う自己相似[フラクタル]の関係にあった」二つの「奇妙なテキスト」(『松浦宮物語』と
『無名草子』)が、院政期になって書かれるようになったわけを──岡真理「「二級読者」あるいは「読むこと」の正統性について」(『棗椰子の木陰
で』所収)の「二流読者」のアイデアを視野に入れながら──次のように論じています。
《線状的[リニアー]に展開するストーリーをたどりながら、その世界に没入して、いっとき現実を忘れてしまうような、…素直[イノセント]な〈読
み〉を、通常「二級読者」はしない。しばしばテキストの〈外部〉へと抜け出してはそれを「書物」として対象化し、その形態や成立過程について考
え、さらにはその典拠や流通経路についても考えたりする。テキストの〈内〉と〈外〉との出入りを常態とする、こうした「二級読者」の読みを内部化
したものが、実は『松浦宮物語』であり『無名草子』であった。
東山のとある山荘での女房たちの対話という「虚構の枠組み」を設定して物語評論を展開する『無名草子』はもとより、境界としての「松浦の宮」を
あいだに挟んで日本と唐土との二つの世界を行き来し、さらには神仏や天上世界を回路として次々と世界を輻輳化していく『松浦宮物語』のストーリー
展開もまた、「書物」の〈内〉と〈外〉とを縦横無尽に出入りする「二級読者」の〈読み〉が内部化され自己投影されたものであった。そうした「二級
読者」の読みの最初の自覚的な実践者に、定家がいた。
『源氏物語』のテキストに代表される王朝文化に憧れながらも、そこから決定的に排除されているという喪失感情が、そうした「二級読者」の〈読
み〉の基底にあった。憧れの対象としての王朝文化は、容易に「母なるもの」へと読みかえられる。だがそれは、もはや「書物」というかたちを通して
しか拓かれることのない「鏡」の向こう側の世界として遠く隔てられており、文献学的な〈知〉の対象としてしか扱うことのできない失われた過去とし
て、古典化されていた。「二級読者」の〈読み〉とは、だから、個々のテキストを通して間接的にしか「母なるもの」と触れ合うことのできない、疎外
された者の不幸の別名であった。》(『自己言及テキストの系譜学』264-265頁)
いきなり結論めいたことを書きます。私は、深沢氏の文章を抜き書きしながら、次のようなことを考えていました。
……「暗に独我論的」であった“やまとことば”。精確には、そこにおいて〈私〉や〈今〉といった独在的存在がアクチュアリティとリアリティの幽
冥境を異にする二つの世界を自在に行き来する“やまとことば”。──それはまた「天地有情」の言葉の世界でもあったのだが、哥はそこから根源的な
韻律とともに、レトリカルな「感情の言語」を型(フィギュール)として切り出し、やがて物語や劇のことばへの分岐を経て、世にある人の日常の言語
をかたちづくっていった。
つまり、“やまとことば”とは本来“哥のことば”であり、そしてそれこそが──精確には、世にある人の言語となった哥のことばに註釈を施し、そ
こから起源としての“やまとことば”の生理=文法を探求すること、そしてそのような営みを通じてアイロニカルなかたちで(意図せざる逆向きのプロ
セスとして)遂行されていったのが──かの「X2」(やまとことば⇒日本語)にほかならないのだ。……
ここに出てきた三つの命題、すなわち「やまとことばは独我論的である」「やまとことばは天地有情である」「やまとことばは哥の言語である」が、
次節以降の議論のテーマになります。
※本稿の冒頭(第1節)に掲げた第二の論点、日本語文法における三上章の系譜の探究は、残念ながら先送りもしくは断念せざるをえません。この課題
に挑むための準備が整っていないからです。
が、ほんとうの理由は、それはここで議論することではない──もちろん、ここで考えるべきこと(それが何であるかはいまだ暗中模索の状態)の根
底に伏流水となって流れていて、いつか表に浮上してくることは間違いないのでしょうが──と思い至ったからです。以上、空手形を切ったことに対す
る自分自身への言い訳として。
【17】暗に独我論的な言語─“やまとことば”の文法(3)
“やまとことば”が「暗に独我論的」であるという指摘には、出典があります。永井均著『西田幾多郎──言語、貨幣、時計の成立の謎へ』がそれで
す。永井氏はその冒頭で、川端康成の『雪国』の始まりの文章「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」を取りあげています。
いわく、この文には主語がない。誰か、たとえば小説の主人公(島村)が自身を指していう「私」が、そういう経験をしたと述べているのではない。
強いていうなら、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ということそれ自体が「私」なのだ。だから、その経験をする主体(世界の中の個
物)は、存在しない、西田幾多郎の用語を使うなら、これは主体と客体が分かれる以前の「純粋経験」の描写である(17頁)。
《私が悲しいとき(私には)世界が悲しいように映る。しかし(実は)世界が悲しいのではない。なぜなら、隣の人は(実は)悲しくないだろうから。
英語的表現は、この可能な事実をあらかじめ言語表現の基礎に据えているわけである。言いかえれば、経験の主体は常に世界の内部に存在する個人であ
るという事実を、言語表現の基礎にあらかじめ織り込んでいる。それを織り込んでいない非人称的な日本語的表現のほうが、(他者を、排除していると
いう意味であれ、含み込んでいるという意味であれ)実は暗に独我論的であり、前期西田哲学もそうであるといえる。しかし、その後の西田哲学は、そ
こから出発して英語的表現の成立の謎を解明した。》(角川ソフィア文庫『西田幾多郎』23頁)
暗に独我論的な日本語的表現が「非人称的」であるという指摘は、とても重要です。ここから、次の三つの方向で議論を膨らませることができるで
しょう。いずれも「非人称」をどう定義するかにかかっているのですが、以下、そのアイデアの骨子を記しておきたいと思います。
その第一は、非人称と無人称とを対比させること、具体的には、無人称・無時制・無様相・無態の第五の私的言語との関係を考察する、という方向で
す。
ひとつの考え方として、無と有のあいだに「非」(ペルソナ的なものの気配は感じられるので無いとは言いきれないが、何者かが確かにそこに有ると
も言えない)を位置づけ、英語的表現への過渡的形態として“やまとことば”(日本語)を位置づける、といった道筋を描くことができます。「過渡
的」といっても、別段、価値の序列を想定しているわけではないので、単に私的言語と公的言語の「中間」に位置づける、と言ってもいいでしょう。
ここで気になってくるのは、第五の私的言語とは、はたして私的言語の範疇に属するものなのかどうか、それは──なにしろ語りえない無内包の現実
性(〈 〉)を語る(示す)言語なのだから──むしろ詩的言語そのものと言ってもいいのではないか、ということです。
自問自答はやめて、ひとつの仮説を立てます。第五の私的言語とは、詩的言語から私的言語が“流出”してくる際の基体であって、なかば詩的言語、
なかば私的言語の鵺的性質をもった「原私的言語」とも呼ぶべきものである。
第二に、「推論的世界」(第8節以降)において考察した「夢の言語」をめぐる議論への接続をはかる方向が考えられます。
暗に独我論的であるとは、夢の言語に近いこと、つまり夢の世界に半ばとどまっている(現実世界がいまだ充分に確立していない)ということです。
ただし、(ここでもまた)それは日本語が非論理的であるとか、文法が未発達であるということを意味するのではありません。事実として、日本語はそ
のような特質をもっているのではないかということです。
それでは、その日本語の特質とは何か。それは、渡辺恒夫氏が『夢の現象学・入門』で論じた「夢世界における体験構造の変容」、すなわち「時間の
変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」といった「夢世界の原理」を構成する四つの体験フェーズにかかわってきます。
夢世界の原理とは何か。渡辺氏の議論──「知覚の独裁体制、意識の二重構造」という現実世界の原理に対して、夢世界の原理は「志向的構造、意識
の一重構造」(夢の体験構造の一重性、夢の世界に過去形は存在しない、等々)として規定される──を踏まえて、私は次のように考えました。
……夢の世界の構造・意識のレイヤーは、現実世界の構造・意識のレイヤーよりも次数が一つ少ない。あるいは、夢の世界では、否定と肯定、過去・
未来と現在、他我と私、可能性と現実性とが地続きになる。精確には、否定と肯定、等々の対立する二項が、いずれも後項のうちに収斂していく。……
暗に独我論的な日本語の世界が「非人称」であるとは、他我と私が、私において地続きになる(一重化する)ということにほかなりません。そうであ
るとすれば。時制や様相や態においても同様の事態が生じているはずです。つまり、夢の言語(暗に独我論的な日本語)とは、非態・非様相・非時制・
非人称の言語である。
ここで、一点、訂正しておきたいことがあります。訂正ではなく議論の精緻化だ、と強弁したいところですが、それは、「推論的世界」において、夢
の言語を詩的言語やはじまりの言語と同一視したこと(夢の言語=詩的言語=はじまりの言語)には行き過ぎがあった、と認めることです。
精確に規定すると、夢の言語とは、詩的言語を源流としつつ公的言語(現実世界の言語)と詩的言語の「中間」に位置し、両者を媒介する言語である
となります。要は、夢の言語とは私的言語の別名あるいは別の存在様態であったということです。
第三の方向は、いま述べた非人称、非時制、非様相、非態の間に序列ないし順序を設けることです。つまり、夢の言語としての四つ(ないし五つ)の
私的言語が、現実世界の言語たる公的言語へと移行していく際の、いわば“発展”プロセスを考えてみようということです。
私はかつて、①〈感情〉の私的言語、②〈現実〉の私的言語、③〈 今 〉の私的言語、④〈 私
〉の私的言語の“発生”機序を考えたことがあります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第64章5節、65章2節、第66章1節)。それは、自分自身でも納
得がいくものではなかったのですが、いま、この仮説を採用したうえで、詩的言語から公的言語への推移の段階を描くと、次のようなものになります。
α:詩的言語から私的言語へ
⓪無人称・無時制・無様相・無態 :詩的言語&原私的言語
①無人称・無時制・無様相・非態 :〈感情〉の私的言語の成立
②無人称・無時制・非様相・非態 :〈現実〉の私的言語の成立
③無人称・非時制・非様相・非態 :〈 今 〉の私的言語の成立
④非人称・非時制・非様相・非態 :〈 私 〉の私的言語の成立
:(四つの)私的言語の完成
=原“やまとことば”の成立
β:私的言語から公的言語へ
⓪非人称・非時制・非様相・非態 :原“やまとことば”
①非人称・非時制・非様相・態 :哥の“やまとことば”の成立
②非人称・非時制・様相 ・態 :物語の“やまとことば”の成立
③非人称・時制 ・様相 ・態 :劇の“やまとことば”の成立
:暗に独我論的な日本語の成立
④人称 ・時制 ・様相 ・態 :日本語の完成=公的言語の成立
これまで、“やまとことば”の語を無規定のまま、また日本語との関係を曖昧にして使ってきました。一応の定義を与えておくと、まず“やまとこと
ば”には広狭二義があって、広義のそれ(α①~④)は私的言語そのものにほかなりません。ただしこの場合の“やまと”は、“カンブリア”(ウェー
ルズの古称)や“ジュラ”(ジュラ山脈)などと同様の意味合いで用いています。
上記β①~③に位置づけた狭義の“やまとことば”(「詩(哥)/物語/劇」は吉本隆明『言語にとって美とはなにか』第V章「構成論」に依る)
は、古日本語あるいは原日本語などと呼んでもいい「実証的」なもので、この場合の“やまとことば”は日本語との関係を意識して用いています。
(α④=β⓪の原“やまとことば”を広狭二義に相渡るものと規定することもできるが、ここではその考え方をとらなかった。)
その日本語の成立をβ③に位置づけたのは、現時点での仮案にすぎません。また、β④の「日本語の完成」はα④の「私的言語の完成」と平仄を合わ
せただけのことで、特段の価値づけを念頭においているわけではありません。
さて、狭義の“やまとことば”の成立をβ①の段階に設定することで私が主張したかったのは──あるいは、これは明示していませんが、広義の“や
まとことば”の発祥がα①すなわち〈感情〉の私的言語の成立と同時であるということで私が示唆したかったのは──、“やまとことば”は天地有情の
世界の言葉であり、哥の言語であるという命題にほかなりません。
……どのような世界においてであれ、またいつ誰に対して起こることであれ、「“これ”あるいは“それ”が悲しいとき(“これ”もしくは“それ”
には)世界が悲しいように映る」といった事態とともに、広狭二義にわたる“やまとことば”は立ちあがる。……
【18】天地有情の哥の言語─“やまとことば”の文法(4)
前回試作した「詩的言語から公的言語への推移」のプロセスを、“やまとことば”をフィーチャーして仕立て直してみました。
α:原“やまとことば” β:“やまとことば”(原日本語)
①〈感情〉の原“やまとことば” ① 哥の“やまとことば”
②〈現実〉の原“やまとことば” ② 物語の“やまとことば”
③〈 今 〉の原“やまとことば” ③ 劇の“やまとことば”
④〈 私 〉の原“やまとことば” ④ 日本語
二点、確認しておきます。まず、原“やまとことば”(広義の“やまとことば”)というのは、実は(四つの)私的言語と同義で、これは実証の世界
に住まいするものではありません。言ってしまえば、頭で考えられた観念物です。これに対して原日本語ないし古日本語としての“やまとことば”(狭
義の“やまとことば”)は、実証の世界に具体的に存在する(存在した)言語形態、言語実践、言語現象、等々を指しています。
次に、広狭二義の“やまとことば”と文法カテゴリーとの関係に関して肝心なことは、それぞれの“展開”の起点となる類型において、「態
(voice)」に特徴的な変化が生じていたということです。“やまとことば”が天地有情であり(α①)、かつ哥の言語である(β①)という命題
は、このことに基いています。具体的に示します。
α①〈感情〉の原“やまとことば” :無人称・無時制・無様相・“非態”
β① 哥の“やまとことば” :非人称・非時制・非様相・“態”
ところで、私はこれまで、「感情」をめぐる文法カテゴリーとして「態」とともに「法(mood)」を掲げていました。が、浅学の身ゆえ、本稿で
はいっさい触れることができませんでした。「コト」と「ムウド」を構文論の基本に据えた三上(章)文法の“勉強”とあわせて、これは(これもま
た)今後の宿題です。
ついでに(?)、いまひとつ、宿題の項目を書いておきます。藤井貞和著『日本文法体系』。2016年11月、刊行直後に入手しておきながら、今
日までまったく繙くことのなかった書物です。繙くことができなかったのは、その前に(魅力的なタイトルに惹かれて)『文法的詩学』や『文法的詩学
その動態』を一瞥しておこうと無謀な試みに挑み、計画倒れに終わったから。
付け焼刃でいいとこ取りをするにはあまりに豊穣な内容なので、これは少し時間をかけて──たとえば終章「論理上の文法と深層の文法」で論じられ
た、懸け詞、序詞、枕詞、縁語などの詩歌の技法をめぐる「深層の文法」の議論を、今後予定している「修辞学的世界」の考察に際して参照すべく──
読み込んでおきたい。これがもうひとつの宿題です[*1]。
言い訳と自戒の弁ばかりになりましたが、このあたりで、いったん「文法的世界」を閉じることにします[*2・3]。
[*1]他にも刮目すべき箇所は多々あって、たとえば物語は原則、非過去=現在で叙述される(第二章)という指摘は、「物語の“やまとことば”」
の文法カテゴリーが「非人称・非時制・様相・態」つまり非人称かつ非時制であることと“符合”する。
《物語に立ちいるならば、刻々と進む現在がつづく。映画のスクリーンやテレビのドラマが、たとい戦国時代や昭和十年のことであろうと、いま映写な
いし放映される画面としてある。物語のなかが非過去だとは、劇画やアニメをひらいて観る時、いま眼前に繰り広げられる一齣一齣であることにおなじ
だ。》(『日本文法体系』51頁)
「おわりに」の次の文章も心に残る。ちょうど一頁分、長くなるが抜き書きしておく。──言語意識としての文法カテゴリー。読むこと(註釈)を通
じた文法の動的体験。「詩歌語」としての日本語の隠れた文法構造(深層の文法)。
《世界のどこでもそうだったと思うが、時制(テンス)やアスペクト(時間の諸相)が未発達なままに、必要から言語が、時間の認識や予測、推量、判
断、命令といった役割を持ち、情操をも司るようになって、そのなかから諸言語の一つである古日本語がついに成立させられた段階で、言ってみれば
〝アオリスト〟(無時制状態)の大海に浮かぶそれらだったろう。アクセントも音数律もない等時拍的で自由な言語だったろう。初めから時制やアスペ
クト、あるいはモダリティ(心的態度)ありでなく、それらは時間をかけて言語意識として獲得されてきた実質であり、古典語、ひいては現代語に至る
はずだ。
物語や詩歌を読むとき、時制やアスペクト、あるいはモダリティに関する、知識を動員して眼前のテクストにはいり込むよりは、時制語(「き」や
「た」)、アスペクト語(「ぬ」や「つ」)、モダリティ語(「む」や「べし」)の有/無、そしてそれらの成長を、テクスト上に一つ見つめ、確かめ
てゆきたい。膠着語である日本語ではそれができるということではあるまいか。
そして、〝散文語〟というよりは、豊かな〝詩歌語〟性をつよくのこしていると言ってよい日本語を、一部のひとの嘆きのように、論理的でない言語
だとか、情緒的な言語だとかいって蔑みするのでなく、論理を支える在り方や情緒性が出てくる性格を、日本語の隠れた文法構造として評価し、鍛える
べきところは鍛え、足りないところは補いながら、たいせつに育てる必要がある。》(『日本文法体系』322頁)
[*2]書き残した話題、その一。天地有情をめぐって。
この語の出典は大森荘蔵が「最後に書いた文章」(伊藤勝彦)とされる「自分と出会う──意識こそ人と世界を隔てる元凶」(『朝日新聞』1996
年11月12日)。大森はそこで,人は感情が「心の中」だけのものだと誤解しているが、事実は単純明快であると書いている。
《事実は、世界其のものが、既に感情的なのである。世界が感情的であって、世界そのものが喜ばしい世界であったり、悲しむべき世界であったりする
のである。自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。此のことは、お天気と気分
について考えてみればわかるだろう。雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自他として陰鬱なのであり、その一点景としての私も又陰鬱な気分
になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、其の一前景としての私も又晴れがましい気分になる。
簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。そ
れが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。此のことを鋭敏に理解したのが、山水画、文人画を含む日本画家達で
あり、又西洋ではフランスの印象派の人々であったと思う。彼等は其の風景の描写にあたって何よりも其の風景の感情を表現するのに努力したからであ
る。又音楽も、三次元空間に鳴り響く世界そのものが、音楽的感動なのであって、我々は其の感動のお相伴を受けているだけなのではあるまいか。》
(『大森荘蔵セレクション』453-454頁)
追記。これは伊藤勝彦著『天地有情の哲学──大森荘蔵と森有正』を読んで知ったことだが、黒崎宏氏が、大森の物語論──「言語的制作[ポイエー
シス]としての過去と夢」(『現代思想』1991年8月、『時間と自我』)において、大森荘蔵は過去や未来をはじめ遠隔地の現象や分子原子レベル
の現象など知覚不能な事態、そして数学の全域が言語的制作物であると論じた──をめぐって次のように書いている(伊藤本185-186頁)。
「私(黒崎)」は、大森哲学が最後に到達したこの「物語り論」──言語ゲーム論に基づいた「物語り論」──に、大森先生の最後の、そして最大の光
芒を見る思いがする。この最後の大森哲学に依れば、人間が消え失せた後に残る世界には、時間は存在しないことになる。そして私は、このぞっとする
結論に完全に同意する。」(岩波版大森荘蔵著作集第二巻、月報)
伊藤氏は大森の議論に関して「天地有情ということを生涯の最後にいった人物が人間の過去の記憶については、なぜどこまでもロゴス的にだけ見てパ
トス的側面を無視しようとするのか」と書いているが、私が「自分と出会う」を読んで得た触感はむしろ黒崎氏が「ぞっとする」と書いたそれに近い。
そもそも誰も、そして生あるもの(有情)が一切存在しない無人称の世界ではなく、ついさっきまで(あるいはインメモリアルな神話的過去におい
て)誰かあるいは何かが間違いなく生存していた気配が残る非人称の死の世界。それは確かに「ぞっとする」のだが、同時に「のすたるぢい」(懐郷
心)に煽られるのである。
[*3]書き残した話題、その二。劇の“やまとことば”をめぐって。
私はかつて、人間の諸言語(公的言語)の中核をなすものとして「演劇の言語」を考察したことがある。その詳細は省くとして、ここでは「演劇の言
語とやまとことば」と題した一文(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第77章1節)から関連する議論を自己引用する。
……これまでの“紆余曲折”を通じて、日本語や英語といった具体の言語を含む人間の(諸)言語の中軸をなすのは「メカニカルな帯域」であるこ
と、そして、そこにおいて遂行されるのが、声や文字を素材とし、かつ、「拡張された」アナグラムを中心的技法として展開される「モンタージュ」の
作業にほかならなかったことを見てきたわけですが、その核心とも言える部分、つまり狭義のメカニカルな帯域における言語のあり様を、私は「演劇の
言語」と名づけました。
その際、念頭にあったのは、──「演技という行為の視点を持ちこむことで、和歌のさまざまな謎をほどいてゆく」渡部泰明著『和歌とは何か』の議
論とともに──かねてから温めてきたアイデア、すなわち、定家に極まる王朝和歌の姿(文[あや]ある詞が醸しだす風体)が、連歌的言語実践(松岡
心平氏の言う「言葉のまわし飲み」)を経て、世阿弥の「二曲三体」に、すなわち舞歌二曲と老体・女体・軍体の三体(あるいは、これに物狂と鬼を加
えて五体)に、とりわけ能役者の「振る舞い」(「身振り」と「声振り」と「面振り」?)のうちに客観化され結実し、文楽や歌舞伎へと変容していっ
たのではないか、との見立てでした。
王朝和歌(やまとうた)は、やまとことばによって詠まれた詩的表現物にほかならないのですから、いま述べた見立ては、やまとことばの“生理”に
即した事柄であると言えるかもしれません。というか、私はそのような考え方のもとで、やまとことばを考察していきたいと考えているのです。
この意味での“やまとことば”は、上代・中古の日本語といった、実在性のレベルでとらえられた言語のことではありません。もちろん、古語や雅
語、客観的存在物としての日本語とは無関係ではありませんが──それどころか、“やまとことば”をめぐって、おそらく、主として(「詞」と「辞」
の区分に典型的な)日本語に固有の文法などに引き寄せた議論に頼らざるを得ないだろう、とは思いますが──、私が想定している“やまとことば”と
は、和歌という詩的言語行為をめぐる生態と論理、すなわちやまとうたの“生理”を明らめるための作業概念、いわば理念型のようなものなので
す。……