推論的世界
【1】世界は推論でできている
初めて通読した哲学書はニーチェの『ツァラトゥストラ』で、大学に入った年の梅雨のある日の昼下がり、気がつけば薄曇りの陽が射し込む下宿の窓
際に座り込み、睡眠不足の夢見心地のまま書物と向きあっていた、あの時の微熱にくるまれた体感を忘れることはできません。
それから今日まで、理解できたかどうかは別にして、とにかく最後まで(緊張を途切れさせることなく)読み終切ることができた哲学書は十冊余り
で、そのうちノートを取りながら一年以上かけて熟読玩味したのは、ヘーゲルの『大論理学』とベルクソンの『物質と記憶』の二冊。どちらも読み進め
ながら何度かフィロソフィカル・ハイ(と私が勝手に呼んでいる知的陶酔)に襲われました。とりわけ、難攻不落の威容を誇る『大論理学』に挑んだと
きの鮮烈な読後感(というか、読中感)は、いまでもその熱量が身体の奥底で息づいているほどです。
このヘーゲルの主著を読みながら、私はしきりに「世界はロゴスでできている」という“啓示”のようなものに襲われていました。世界は、つまり自
然も精神も歴史もロゴスの自己運動(すなわち推論)を通じて顕れ出てくる。ヘーゲルはそのロゴスに憑かれて、あるいはロゴスの化身となって、世界
創出の秘密(舞台裏)を余すところなく描き尽くしている…。
ヘーゲルのロゴスは、干乾びた平板な静物(死物)ではありません。それ自体のうちに運動(自己展開)のための契機(矛盾)を孕み、あたかも“原
形質(プロトプラズマ)”のごとき創造性を湛えています。
いや、そもそも「論理」それ自体が──たとえ深層(無意識)の論理や古論理(パレオロジック)、レンマなどといった“特殊”なものでなくとも、
形式論理学や記号論理学におけるそれのように、一見ありふれた操作対象のように思われるものであっても──世界のうちに「創(きず)=切断面」を
造り出す力能を秘めている。
これが、私が『大論理学』から授かった“啓示”でした。
独り読書会のようなかたちでヘーゲルを読み通してから数年後、チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波文庫)に
傾倒しました。ノートを取ることはしなかったものの(あまりに内容が刺激的だったので、ノートに書くのがもどかしかった)、同じ哲学書を三度以上
繰り返し連続して読んだのは、後にも先にもこの本だけ。
パースには、それ以前から強烈な関心を寄せてきました。(ベンヤミン、ウィトゲンシュタインと並び、その作品そのものよりも、むしろ生涯や仕
事、思想や哲学について書かれた書物を飽きずに渉猟する対象だった。)
とくに惹かれていたのは、その記号過程論であり、記号の三分類だったのですが、『連続性の哲学』を読んで、パースの思考世界のスケールの大きさ
と、そこで展開されていた「推論と事物[存在者]の論理」の学──原著のタイトルは“Reasoning and the Logic of
Things”──の深甚さにすっかり驚嘆させられ、ヘーゲルに続いて、「世界は推論でできている」という“啓示”に痺れたのでした。
パースと推論、とくれば、アブダクションです。以前、「文字的世界」の第5節で用いた表現を使いまわすなら、太古的な心性(言語と宗教と芸術の
起源)に通じる「洞窟」を導管(duct)とする推論、すなわち「洞窟的推察」、略して洞察(abduction)。
私自身はかねてから、演繹(deduction)、帰納(induction)、洞察に続く第四の推論の形式として、生産
(production)なるものを考えてきたのですが、このことについても以前、「韻律的世界」の第35節や「仮面的世界」の第31節で、第五
の推論形式である伝導(conduction)とあわせて触れたことがありました。
その「伝導」なる推論形式をめぐる、私自身の考えは、次のようなものです。
まず、もっとも基礎的な意義において、それは、あるものをあるものとしてただ保存し、伝え、移すことにほかなりません。修道院の盲目の老師が蔵
書(禁書)をただ保存するように、そして使徒や伝道師が何も言葉を加えずただ福音を宣べ伝えるように、あるいは逐語的な翻訳
(traduction)のように。
しかし、それが「推論」であることをより際立たせるためには、たとえば次のように言ってみることができるでしょう。「生産」があらかじめ設計・
直観・想像され夢みられたものを生み出す推論であるのに対して、「伝導」は前後の世界の連続性が断ち切られるほど奇跡的な出来事(無からの創造)
なのであると。
そして、このような意義における伝導は、他の四つの推論形式と相並ぶものというよりは、それらを総括したもの、すなわち「伝導体
(conductive field)」のはたらきとして考えるべきであると。
伝導体の概念でとらえることができる範囲は、おそらく宇宙大にひろがっていくでしょう。「世界は伝導体でできている」、あるいはいっそ「世界と
は伝導体だ」と言っていいとさえ思います。というか、それほどの広がりと深さをもったものとして考えていきたいと私は思っているわけです。
個人的な関心領域で言えば、(媒質としての)言語や文学作品、物語(歴史)、そして何よりも、永井均氏の独在性の〈私〉の「伝達」といった、人
文的事象を伝導体の概念で捉えることで、そこから何かしら未聞の展望がひらけるのではないかと夢みています。
さて、「推論的世界」をめぐる考察への前口上として、以上、「論理」「推論」「伝導体」の三つのテーマをめぐる、個人的な思い出や“決意”のよ
うなことを記しました。かなり思い入れのある領域なので、気持ちを逸らせることなく、これまでやってきたことを冷静に吟味しながら、作業を進めて
いきたいと思います。
【2】二相性─“論理”をめぐって(1)
このところ同時並行的に、同じ姓の著者による哲学書(かたや現象学系、かたや分析哲学系の──こういう分類や言い方はあまり好みではないが)を
読み進めていて、それぞれの“論理”という語の用法に関して気になる点がありました。
その1.永井晋『〈精神的〉東洋哲学──顕現しないものの現象学』
第三章「潜在性の現象学」の冒頭において、著者は、「潜在性」を「まだ顕在化しておらず、潜勢的な(en
puissance)単なる可能性(simple possibilité)の状態にあるもの」と定義したうえで、次のように分析している。
すなわち、①「単なる」可能性が、実在性を欠いた、“論理”的で概念的なものに過ぎないのに対して、②「潜勢的な」状態としての潜在性は、単な
る“論理”的で形式的な可能性とは逆に、「顕在化しつつある」現実的な(effectif)ものである。「それは生産的・創造的な動きであって、
“論理”的で凝固し、停止した形式の外部で、あるいはそれをかわして、新たなもの、世界にかつて存在したことのないものを‘生み出す’ことにあ
る。」(51頁、「論理」の強調は引用者による)
ここで対比されている(単なる可能性がもつ)「論理性」と(潜勢的な潜在性が孕む)「創造性」は、たとえば「ロゴス」対「ピュシス」のそれにな
ぞらえて考えることができるだろう。概念的で形式的なロゴスと、力動的で生命的なピュシスとの対比といったかたちで。しかし、そこで言われる“ロ
ゴス”は、あくまで自然や生命の生産性との対比のもとで捉えられた、いわば狭義の(実在性を欠いた=死んだ)“論理”でしかないだろう(同じこと
は「概念」や「形式」についても言える)。
西田幾多郎に「論理と生命」という作品がある。ここで西田が想定しているのは、アリストテレス流の形式論理のことではなく、ヘラクレイトス流の
パンタ・レイの論理、いわば広義の(生きた)論理である。「相反するものがかえって相合するのである、異なるものから最も美しき調和が生れる、す
べてのものが戦によって成立するという。流れ去るものが相対立するというには、時が同時存在的でなければならない。バーネットはヘラクレイトスが
見出した真理は、一即多、多即一ということであるといっている。斯くして彼は弁証法の祖となった。歴史的実在の世界のロゴスは、此処に求められな
ければならない。」(『西田幾多郎哲学論集Ⅱ』(岩波文庫)196頁)
念のために付記すると、以上に述べたことは永井氏の議論の中身と直接の関係はない。あくまで「論理」という語のひとつの用例として、たまたま目
にとまった文章を取りあげただけのこと。実際、永井氏には、単なる概念・形式としての論理ではない、それとは真逆の意義における、すなわち生産
的・創造的で実在的な論理としての「イマジナルの論理」を──同時に、実在性を欠いた「単なる」可能性ではない、創造性をもった可能性(創造的想
像力)を──語った論考がある[*]。
──以上の総括。“論理”には二つの相がある。第一のそれは、表に顕れた、概念的かつ形式的で実在性を欠いた「単なる」可能性にかかわる論理
で、第二のそれは、潜在的かつ現実的で、新たなものを生み出す“動き”としての論理である。
[*]「イマジナルの論理」をめぐる永井晋氏の議論を、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第40章第3節からの自己引用(加除修正のうえ抜萃)のか
たちで、以下に記す。
……「イマジナル」とは、アンリ・コルバンの言う「創造的想像力」(約めて‘創像力’とでも?)がもたらす「虚なるもの」(経験的事実性の裏打
ちはないが架空のものでもない、存在論的根拠をもった内的実在、たとえば「元型」イマージュ群が織りなす領域)を指し示す言葉。
◎イスラームの神秘家スフラワルディーは、シャーマン的イマージュ空間を指して「アーラム・アル・ミサール」と呼んだ。「ミサール」とは神話的・
深層意識的な「元型、アーキタイプ」もしくは元型から生起する「根源的イマージュ」のこと。すなわち「アーラム・アル・ミサール」とは「根源的イ
マージュの世界」(井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』119頁)あるいは「形象的相似の世界」(同『意識と本質』(201頁)。
これをアンリ・コルバンがラテン語訳して「mundus
imaginalis」(ムンドゥス・イマジナリス)とし、この「imaginalis」をそのままフランス語にして「imaginal」という形容詞を
造語した(『意識と本質』201頁)。「架空の」という否定的な意味傾向の強い「イマジネール」(imaginaire)ではなく、「特別な意味
でのイマージュ」にかかわる「イマジナル」(imaginal)。
◎永井晋氏は「イマジナルの現象学」(『現象学の転回──「顕現しないもの」に向けて』第七章)で、「無限の現象性としてのイマジナルの構造」と
井筒俊彦による「分節化」のモデル(『意識と本質』144頁)とを重ねあわせて論じている。そして、「分節Ⅰ(表層の現象性)⇒絶対無分節⇒分節
Ⅱ(深層の現象性)」の三段階を経て意識と世界が変容するプロセスの最終段階である「分節Ⅱ」を「イマジナル」な次元に位置づけている。つまり
「元型」イマージュ=「分節Ⅱ」。
◎永井氏はまた、「深層のイマジナル次元」にあっては「AはAであってBではない、という同一律と矛盾律というアリストテレス的論理の基本原理」
は通用せず、「AはBにもCにもなりうることが可能である」と論じている(『現象学の転回.174-175頁』)。この「イマジナルの論理」は
「分節Ⅱ」の論理であり、また「生きたるもの」の論理、すなわち「あいだ」の論理でもある。……
以下、余談。私が物事を考える際の基軸に据えている“世界の構図”──実存と本質、あるいは【空】/【現】の現実性(actuality)の軸
と、これお直交する【虚】-【実】の実在性(reality)の軸とで成るもの──は、永井均氏や入不二基義氏、ベルクソン、ドゥルーズ、ガタリ
といった先達の議論を下敷きにしたものだが、この“構図”を構成する四つの要素のうちの「虚」に“imaginal”の語をあてている。
下図は、「仮面的世界」第30節に掲げた図に加筆したもの。なお、図中の「現實的存在」「可能的存在」「消極的無」「積極的無」は、九鬼周造の
「文學概論」講義が出典。
【現】
actual
┃
可能的存在 ┃ 現實的存在
┃
【虚】━━━━━╋━━━━━【実】
imaginal ┃ real
消極的無 ┃ 積極的無
┃
【空】
virtual
【3】推論─“論理”をめぐって(2)
前註として。
意識の私秘性をめぐるウィトゲンシュタインの有名な比喩に、人は誰もがカブトムシの入った箱を持っていて、自分の箱の中を見てカブトムシの何た
るかを知るのであり、他人の箱の中を見ることはできない、というのがあります。つまり、自分の心の中の思いや感じ、クオリア、考えは直接(誤認し
ようもなく)知ることができるが、他人のそれは見ることができず、それが本当にあるかどうかも含めて外部に現われた表情や言動から察することしか
できない。
この私秘性に関して、私以外の他人が私の箱の中身を見ることは「論理的に不可能」だという言い方があります。そこで「論理」と言われているもの
の「正体」が何であるかについて、永井均氏が、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』の第10章──同書のハイライトにし
て「哲学探究」三部作の大団円とも言える“カント越え“の終章への重要な伏線が張られている──で「ぜひ参照していただきたい」(200頁)と注
記していたのが、以下の書物の該当箇所でした。
その2.永井均『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』
永井氏は、『哲学探究2』終章の「「私秘性」という概念に含まれている矛盾」という節において、意識の私秘性が意識という概念そのものの本質に
属しており、アプリオリな意味上の真理である──複数の意識が互いに私秘的な関係にないケースは、独身者が結婚しているケースと同様、考えること
もできない──としても、言葉の意味はけっして最終審級ではなく、その「成立の秘密」があることを緻密に考察するため、記憶の場合と比較してい
る。
・過去の体験と現在の体験との比較と、自己の体験と他者の体験の比較との違い──過去に感じたクオリアを今直接表象することはできるが、他人が今
感じているクオリアを直接表象することはできない──は、後者には事実として記憶に対応するような直接的表象の方法がないという点だけである。
・それでは、もし自他のあいだにも記憶と同じような認知方法が存在したらどうであろうか。たとえば、至近距離に近づくとその人の感じていることや
思っていることがありありとわかる、というように。
・自他の場合は、相互的な言語描写によってその一致をさらに確かめあうというステップも踏めるので、記憶の場合よりも確度が高くなるともいえるだ
ろう。(261頁)
・とはいえ、たとえその言語描写が一致しても、他者の感覚と自分の感覚とを比較照合する方法は存在しない。だから、それが同じか違うかはどこまで
もわからない。
・しかし、このやり方が日常的に齟齬なく適用している状況では、二人が「同じ」クオリアを感じることになる。そこでは「同じ」の新たな意味が成立
している。(262頁)
・そのような場合にもやはり、通常の自他間や記憶の場合と同様、二つの感覚を比較照合するすることは決してできない。
・この事実には、たとえ日常的に齟齬なき使用法が確立していても、やはり何かしらいわば「形而上学的な意味」が残りつづけるように感じられるだろ
う。なお残るこの感じには重要な意味がある。(263頁)
・それは、たとえすでに概念化されたそれであっても、「独在性という事実」に由来する成分である。
・「意識」とか「感覚」とか「体験」とかいった概念には、「独在性という事実」に由来する意味を持たせないかぎり、「形而上学的な意味」を持った
アプリオリな私秘性などを付与することはそもそもできない。
・なぜなら、独在性は、もちろん端的な生(なま)の事実でもあらざるをえないとはいえ、すでに概念化されたいわば客観的な事実でもあらざるをえな
いからである。(264頁)
・意識の私秘性という問題にはじつは、経験的事実としてそれぞれ他の箱の中を覗くことができないという種類の問題と、箱はじつは並列的に存在して
はおらず、なぜか一つだけいわば裏返されており、すべてがその「中」にある、という種類の問題とが、一つの問題に統合されているのである。
・私秘性という概念には本質的に異なる二種の世界像が混在している。これを「矛盾」と呼ぶこともでき、その場合それはマクタガートの言う時間の矛
盾と(現れ方は異なるとはいえ)問題の根は同じである。哲学的に重要なことは、そこに同じ問題を見て取ることである。
・私秘性がその本質的要素に含まれると見なされるかぎり、意識、感覚、体験、等々のすべての概念に、これと同じことがいえるはずである。
(266-267頁)
──それでは、論理の「正体」とはいったい何だったのか。
ここには、二つの相における“論理”があります。第一のそれは、 「私秘性」という言葉の意味そのものからくる。つまり、他人の心の中を見る
(知る)ことはできない、というのが「意識の私秘性」という概念の定義なのだから、独身者が既婚者であることが不可能であるのと同様、私が他人の
心を直接知ることは「論理的に不可能」である。
第二の相は、そもそもそのような意味(定義)をもつ「私秘性」なる言葉(概念)が成立する背景に、「独在性」という形而上学的な──「実存」に
かかわる「現実性」の世界における──「生の事実」が潜んでいて、それが、つまり「独在性という事実」が──「本質」にかかわる「実在性」の世界
における──「客観的事実」もしくは「主観的事実」として概念化されたのが「意識の私秘性」だったのだ、ということに基づく。
だから、自他のあいだにも記憶と同じような認知方法が存在し、かつ言語描写によってその一致を確かめあうという、日常的に齟齬なき(言葉=概念
の)使用法が確立したとしても、やはり他人の心の中を見る(知る)ことは「論理的に不可能」だという、独在性という事実に起因する形而上学的な
“感じ”がなお残る。
第一の相の論理は、平板で平面的(単層的)な世界において、いわば同一レベルに属する二項の関係を捌くもの。そこでは、Aと¬Aが「同一」とな
ることはけっしてあり得ない。
第二の相の論理は、いびつで立体的(複層的)な世界、つまり最初から矛盾律が破られているダイナミックなフィールドにおいて、異なるレベルに属
する事象──たとえば〈私〉と《私》(概念化された〈私〉)もしくは〈私〉と「私」(一般的・客観的な主体=主観=主語)、時間論の文脈で言えば
「A事実」(〈今〉)と「A変化」(《今》)もしくは「A系列」(過去・現在・未来)と「B系列」(先後関係)、さらには〈私〉と〈今〉、《私》
と《今》──のあいだに「同型性」(「同一性」ではない)の新たな意味を見いだすはたらき(動き)のこと。
先走って書いておくと、私は、この論理の第二の相、世界の成り立ちに深くかかわるそのはたらき(動き)のことを「推論」の核心と考えています。
【4】高次の推論─“論理”をめぐって(3)
前節の最後に、異なるレベルに属する事象間に「同型性」を見いだす論理、といった趣旨のことを書きました。その論理のはたらきの結果である「同
型性」あるいは「構造的同型性」に関連して、永井均の議論をもう一つ援用します、というか、今回は(今回も)永井氏の議論に全面的に寄りかかりま
す。
その3.永井均他『〈私〉の哲学 をアップデートする』
永井氏が執筆した序章「問題の基本構造の解説」に、「これは決して伝わらない問題なのではあるが、決して伝わらないというそのことを含めて、そ
の構造そのものを伝えることは可能なのだ」(9頁)という文章が出てくる。
ここで言われる「問題」とは、「世界のたくさんの人間の中に私であるという特殊なありかたをした人間が存在しているとはどういうことなのか」と
いったもの、すなわち独在的存在としての〈私〉をめぐるもので、それがなぜ「伝わらない」かというと、この問題は「‘だれでも’(その人にとって
は)そうである」という仕方でもつことだけはできないからである。
つまり、そのような一般的・客観的な問題としてではなく、「自分だけが唯一例外的なそのことの‘現実的’実例でなければならず、たとえだれもが
自分だけが唯一例外的な現実的実例であると思うのだとしても、さらに自分だけが‘そのこと’の唯一例外的な‘現実的’実例でなければならない」
(10頁)という仕方でもたなければならないのである。
では、そのような「伝わらない問題」について、「伝わらないというそのことを含めて、その構造そのものを伝えること」が、いかにして可能なの
か。
《一般構造を超えた特殊事実の存在を‘そういう’一般構造の存在としてまずは伝え、伝わった人々がそれをふたたび一般構造を超えた特殊事実の存在
に戻して捉える、ということができるのである。その場合でも、本来抽象化できない(むしろその事実こそが本質であるはずの)問題を抽象化して伝達
しているとはいえるのだが、ここでは逆にむしろ、それなのにこの抽象化(による伝達)が‘可能である’ということにこそ哲学的な関心が向けられな
ければならないはずだ。なぜそんなことが可能なのか、なぜそれが可能な構造をしているのか、その理由を知ることはたとえできなくても、その構造そ
のものをより深く理解することはできるはずである。》(『〈私〉の哲学 をアップデートする』9-10頁)
たとえば、次の図を使って「完全に客観的に」説明することができる。「世界には●とか■とか▲とか▼とか◆とか……色々な人がいますが、そうい
う(図形の違いで表現されるような)属性の違いとは別に、一人だけ(白抜きで表現されるような)あり方そのものが他の人たちとはまったく違う人が
いますよね」と(14-15頁)。
┌───────────────┐
│ … ● ■ ▲ ▽ ◆ … │
└───────────────┘
この図を使って「問題」を説明するにあたって大事なことは、「▽自身が発話者であってはならない」ということである。「それはあくまでも、その
図を使って図の外から説明され、図の外から理解される必要がある」し、「問題の伝達のためには、発話者自身がどれかであってはならない」のであ
る。(15頁)
《とはいえ、これはあくまでも説明とその理解という場面においては、ということであって、問題の意味が伝達された後では、使われたこの梯子は捨て
去られねばならない(正確にいえば、問題の意味が伝わった際には、使われたこの梯子はじつはすでに捨て去られている)。梯子を捨て去るとは、この
図によって一般的に(すなわちだれによっても)理解されるようなことは、端的な事実に反しているという意味であって、この▽とはじつは「(他の誰
でもなく)‘この私’のことなのだ」と悟るということである。
ここには、禅的と言っても、あるいはまたキェルケゴール的と言ってもよいような、独特の実存論的な飛躍が介在している。》(『〈私〉の哲学 を
アップデートする』15-16頁)
──他の誰でもない、唯一例外的な現実的実例である「この私」の実存(現実存在)という端的な事実。この「伝わらない問題」をめぐる「伝達」と
「理解」(悟り、禅的あるいはキェルケゴール的な実存論的飛躍)の両側面を、私は、一連の「(高次の)推論」の過程と捉え、それらを総じて「伝
導」の名で呼びたいと考えています。そして、そのようなプロセスが展開されるフィールドのことを「伝導体」と呼びたいと[*]。
[*]きわめて大雑把な物言いになるが、言語(あるいは言語による語り)は伝導体である。少なくともその雛型である。たとえば『存在と時間──哲
学探究1』第10章で、ヘーゲル『精神現象学』全体の出発点となる「感覚的確実性──〈これ〉と〈言おうとすること〉」を取りあげた際、永井均氏
は次のように括っている。
《…彼[ヘーゲル]が「言えない」と言っているそれ[一般化された地平の上に立った個別者ではなく、原初の、単なる現実性そのものとしての、対比
なき‘これ’]は、ある意味ではまた言えてもいる…。言おうとしていることは言えていないのだ、と彼が言うとき、言おうとしていることと実際に
言っていることの差異が‘言われている’からだ。ということはつまり、彼の議論が伝わるかぎり、言えないはずの言おうとしていることもまた言われ
てしまっていることになる。
…まさにそのことのうちに、彼がそこで言おうとしていることそのものが‘示されて’いる。言えないはずの言おうとしていることも、このように
‘言われる’ほかはないのだ、ということが。
しかしそれは彼が言っていることではなく、その語りにおいて示されることである。つまり、彼が言おうとしていることはやはり言えていない。とい
う意味ではやはり、言えないことが‘在る’ことになる。…言えなかったことは、‘ただ在る’だけで、それが‘何であるか’はまったく言えない。い
やむしろ、ただ在るだけで何であるかは‘ない’とみなされるべきだろう。だから、それはたしかに最も「貧しい」ものではある。だが、その貧しさは
何かであること(本質)の貧しさにすぎず、けっしてともあれ在ること(実存)の貧しさではない。》(『存在と時間』174-175頁)
私は後に、伝導体を合成する四つの推論様式のうち、帰納と演繹を「本質」(実在性)の見地から、洞察と生産を「実存」(現実性)の見地からそれ
ぞれ考察する考えである。
【5】現実性─“論理”をめぐって(4)
前回の話題──独在性という決して伝わらない問題の伝達と理解をめぐる高次の“推論”のプロセス──にも関係する、面白い論考を読んだので、今
回はこれを取りあげます。
その4.ジミー・エイムズ(Jimmy
Aames)「第二性としての独在性:パースと永井均」[https://researchmap.jp/jjaames
/published_papers/46466645]
著者はこの論文の「はじめに」で、永井均の哲学の中心概念である「独在性[solipsity]」と、チャールズ・S・パースの提唱する普遍的
カテゴリーの一つである「第二性」との間には、顕著な類似性があると指摘している。
「いずれの概念も、事象内容(つまり、あるものが何であるか、あるいはどのようなあり方をしているか)の違いとしては決して現れない、「現にあ
る」という仕方でしか語れない端的な現実性にかかわる概念だからである。永井はこれを「無内包の現実性[intensionless
actuality]」と呼び、パースは Brute Actuality といった表現でこのことを語っている」。
<パースのカテゴリー論>
パースの「カテゴリー」は「現象のうちの最も基本的で普遍的な要素」──初期において「概念」と定義されていたものが、後に「明確な概念という
よりは、むしろ思考の様態(mood)ないしトーン(tone)」として捉えられるようになり、やがてそれが存在論的転回を経て世界そのものに拡
張され、自然界に遍在するもの(「思考と自然の根源的カテゴリー」)として描かれるようになった──を言い、次の三つからなる。
①「第一性」(Firstness)もしくは「質」(Quality)
・あるもののあり方が、それだけで自己完結しているという存在様式
・質(クオリア)や偶然といった「第一のもの」、様相的には潜在性(potentiality)ないし可能性
②「第二性」(Secondness)もしくは「関係」(Relation)
・あるもののあり方が、二つのものの関係によって(ただし第三のものとは関係なく)成り立っているという存在様式
・作用・反作用、反発、抵抗、意志といった「第二のもの」、様相的には現実性
③「第三性」(Thirdness)もしくは「代表」(Represemtation)
・あるもののあり方が、複数のものを媒介し関係づけることによって成り立っているという存在様式
:法則、習慣、目的、一般性、連続性、代表といった「第三のもの」、様相的には必然性
<独在性と第二性の類似性>
永井の「独在性」とパースの「第二性」との関係めぐって、著者は三つの類似点を挙げる。
1.インデックスの無内包性
・パースによれば、命題の指示対象は、必ず「インデックス」と呼ばれる記号によって特定される。インデクスの最も純粋な例は、「これ」や「それ」
などの指示詞であるが、このような指示詞を含まない命題にも、その命題の主題を特定する何らかのインデックスが必ず含まれている。
・インデックスの特徴は、指示対象を、その対象が持っている特徴についての一般的記述によって指示するのではなく、相手の「注意」をその対象に向
けさせるという力によって指示する点である。
それゆえ、インデックスはまったく無内包であり、その指示対象が「何であるか」とか、どのようなあり方をしているかといったようなことは一切特
定しない。ただ単に、相手の注意をその対象に向けさせるだけである。
・インデックスは、指示対象との二項関係によって(第三のものとしての解釈項を介在させることなく)その対象を指示する記号であり、その意味で第
二性の要素が顕著な記号であり、命題の中で第二性の要素を担う記号でもある。それゆえ、インデックスが無内包的な記号であることは、第二性と無内
包性の密接な結びつきを示唆するのである。
2.「このもの性」としての第二性
・パースがその進化的宇宙論の構想を初めてまとまった形で表明した重要な著作「謎を解き当てる」において、第二性はドゥンス・スコトゥス由来の
「このもの性」(haecceity/thisness)
と結び付けられ、偶然性(第一性)と並んで‘説明不可能な事柄’として特徴づけられた。(パースはスコトゥスの影響を強く受けていた。)
・あらゆる一般的な事実や規則性、つまり第三性は、説明を要求するし、原理的には説明を与えることができる。それに対して、事物や事実の「このも
の性」としての第二性は、純粋な偶然性(不確定性)としての第一性と並んで、原理的に説明不可能な事柄である。
・永井は、「ものごとの理解の基本形式」に収まらないことこそが、現実性(独在性)の本質的特徴であると語っている(『世界の独在論的存在構造』
第9章)。第二性についても、まったく同じことが言えるのである。
3,現実性のカテゴリーとしての第二性
・パースはカテゴリーの様相的な側面を強調するようになる。第一性は可能性、第二性は現実性、そして第三性は必然性にそれぞれ対応する。なぜ第二
性は現実性のカテゴリーなのか。それは、現実存在するものの特徴とは、反発(react) することだからである。
・例えば、可能的な(想像されただけの)机の場合、その性質を、想像の中で任意に変えることができる。それに対して、現実に存在する机の場合、そ
の性質を意志の力だけでは変えられない。こうした意志に対する反発、あるいはコントロール不可能性こそが、現実存在するものを、単に可能的・潜在
的なものから弁別する特徴である。反発は、第二性のカテゴリーに属する。
・第二性の根底にある特徴を簡潔に表現すれば、第二性とは「事物と事実の端的な現実性(Brute
Actuality)」に他ならない。それはいかなる内包も持たず、事物や事実がどのようなあり方をしているか、あるいはどのような属性を持っているかと
いったこととはまったく無関係に、「現にある」という仕方でわれわれに迫ってくる剥き出しの現実性である。
そして、永井の論じる〈私〉や〈今〉の独在性の核心を成すのは、第二性とまったく同様に、事象内容の違いとしては決して現れない「無内包の現実
性」である。
<第二性としての独在性>
以上の議論を踏まえて、著者は永井の独在性を、パースの第二性の一つの顕現形態であると見なす。すなわち、「第二性はカテゴリーであり、考え得
るあらゆる現象に何らかの形で含まれているという普遍性を持っているのに対して、独在性は人称や時間といったいくつかの特定の文脈においてのみ顕
在化する」。
そして、永井の独在性の議論をパースのカテゴリー論の観点から眺めることの「ご利益」等々について論じている。そのうち、個人的に興味深かった
論点を、二つ取りあげる。
1.独在性の伝達可能性
・独在性をパースのカテゴリー論から眺めることによって、「〈私〉という存在の例外性について、なぜ他人に言語で伝達することができるのか?」と
いう問いに対して、新たな視点が得られる。永井は、この伝達可能性を言語に固有の特徴として語ることが多いように思われる。しかし、パースの立場
から言えば、この伝達可能性は言語によるものというよりは、第三性の働きとして捉えられる。
・何かを理解するとは、それを一般的なものの特殊なケースとして包摂することである。そうすることで、その何かは、他のものとの関係のネットワー
クの中に埋め込まれる。このように複数のものの間に繋がりを作り出す作用が、第三性の働きである。
・しかし、端的な現実性(第二性)は、どうしても一般化を逃れるものである。もちろん、現実性を一般化して概念的思考の対象にすることはできる
が、そうすると、その本質的特徴である「端的さ」は、その概念化から零れ落ちてしまう。とはいえ、私たちが現実性について語るときは、まさにその
ような概念化を経由している。だからこそ、〈私〉の存在の例外性が他者に伝達可能になるのである
2.醒めることを禁じられた夢
・永井は、「醒めることを禁じられた夢」(『〈魂〉に対する態度』)において、現実とは、決して「夢」として明示化されない夢、外部を持たない
夢、「醒めることを禁じられた夢」のようなものである、と論じた。この事態と、ルイス・キャロルのパラドックス(「亀がアキレスに言ったこと」)
との間には類比性がある。
・実はパースも、ルイス・キャロルの対話編が発表されるよりも前に、これと非常に似た議論を行っている(「論証の自然な分類について」)。
パースいわく、すべての推論には、前提の一つとして明示化しても決して消去できない「論理的原理」が存在する。論理的原理は、論証の妥当性を担
保し、その結論を正当化するものであるが、その原理自身は、論証の中に現れないことによってこそ、その論証を正当化する。しかし、ルイス・キャロ
ルのパラドックスにおける亀は、その原理の明示化を繰り返し要求し、明示化された原理はその都度、推論の中に頽落する。これがいわば、夢からの覚
醒に相当するのである。
・それでもなお推論が現に実行されるのは、推論の中には現われない、さらに外側の明示化されない論理的原理が働いているからである。夢から醒めた
とき、そのさらに外側に、夢として明示化されない現実が常に立ち上がるのとまったく同様の事態である。
では、現実という夢から醒めることを禁じている力は何だろうか。それは第二性であり、現実を〈この現実〉たらしめる、有無を言わせぬ透明な強制
力とでも呼ぶべきものである。推論においては、パースのいう論理的原理がこの透明な強制力に相当する。
──いつにもまして、原文からの‘丸移し’に終始しました。
パースの第二性と永井均の独在性との「顕著な類似性」とは、本来、「現実性(actuality)」という、実存の場、器、形式のごときものに
対して第二性が、そして独在性がそれぞれ切り結ぶ関係相互の類比性のことであって、両者の直接的な類似性とは次元が異なるのではないか。
あるいは、私の(勝手な)‘理論’では、第二性の記号であるインデックス(指標記号)は、比喩形象におけるメトニミー(換喩)、推論形式におけ
るインダクション(帰納)にそれぞれ対応するのだが、そうだとすると、インダクションが無内包で、事象内容にかかわらない推論であるとは、いった
いどういうことなのか(あるいは、そもそも“推論”とは事象内容にかかわらない営みなのか)。
その他、掘り下げると面白い(に違いない)論点が浮かんでくるのですが、ここでは、最後に言及した二点のうち、「独在性の伝達可能性」の問題
が、まさに前回の話題そのものであったこと、そして「醒めることを禁じられた夢」については、後に、“推論”をめぐる議論のなかであらためて取り
あげる予定であることを述べるにとどめおきます。
【6】定義─“論理”をめぐって(5)
当初の予定では、今回から、感情の論理(トマス・アクィナス)や感覚の論理・神話の論理(レヴィ=ストロース)をはじめ、深層のロゴスや無意識
の論理・対称論理(マテ‐ブランコ)、擬論理、古論理、レンマ、等々の、「創造的」な論理の諸相をめぐる話題に転じ、それぞれ一瞥しておくつもり
でした。
しかし、私が構想している「伝導」なる第五の推論の、いま一つの“実例について、どうしても書き残しておきたくなったので、今回もまた、先達の
仕事に全面的に寄りかかることにします。
その5.上野修『スピノザ考──人間ならざる思考へ』
第三章「『エチカ』は定義で始まる」の議論を、以下、箇条書きのかたちで‘縮約’する。
1.スピノザの『エチカ』は定義で始まる。
たとえば第一部の冒頭には、「自己原因」や「実体」「属性」「様態」「神」など八つの定義が掲げられているが、これらは「名目的定義」なのか
「実在的定義」なのか、すなわち単なる恣意的なものか、それとも事物の内的本質を正しく表現した根拠のあるものなのかという議論がなされたきた。
多くの研究者が実在的定義と解釈しているが、上野氏はそうではない(いずれでもない)と考え、その理由として二つの事実をあげている。
2.第一の事実。
スピノザは『知性改善論』で、「真なる定義」の例として円の定義「一端が固定し他端が運動する任意の線によって描かれる図形」をあげている。こ
れは「発生的定義」と呼ばれる実在的定義の一種であるが、『エチカ』の定義群がみなこのタイプのものとは言いがたい。
それもそのはず、『知性改善論』はこの定義論の段階で失敗していたのである。というのも、スピノザが求めた認識の出発点となる(円や神の)真な
る定義は、その到達点である事物の真なる認識(円や神の概念)と区別がつかないからである。
3.第二の事実。
スピノザは、『知性改善論』の頓挫の一年後、友人に送った書簡の中で、名目的・実在的という定義の区別は間違っている、といった趣旨のことを書
いている。
上野氏の解釈によると、スピノザの真意は、定義は真であるかどうかによってではなく、その使用によって区別されるべきだというもの。
その区別の一つは「既知の対象を他者に説明し伝えるための記述」としての定義であり、もう一つは「それ自身が試され吟味されるためにのみ立てら
れる定義」すなわち「われわれの思考を導き、未知の結論へ至る定義」である。
4.スピノザは前者(既知の対象の説明)を「真なる定義」と、後者(未知の結論導出の出発点)を「よい定義」と呼んでいる。『エチカ』の定義、幾
何学的証明の出発点となる定義は後者であって、その真偽を問うことにはナンセンスである。ただよく理解できる「よい定義」であればよい、とスピノ
ザは言っているのである。
5.実在する一定の対象を持たず「吟味されるためにのみ立てられる」ものとして、『エチカ』冒頭の定義を捉え、首尾よく定理が導出できるかどうか
「吟味」してみた。そのアウトラインは次のとおり。
・他の性質なしにそれ自身で考えられるような認知的性質のことを「属性」と呼び、そういう属性のもとでまさに他のものなしにそれ自身で考えられる
ようになっている事物のことを「実体」と呼ぶ。これが属性と実体の定義である。
・すると当然、どんな実体も他のものなしに考えられる以上、他の実体と共通点を持たずに、したがって、ある実体を他の実体から説明することはでき
ない。また同じ属性なら実体の区別ができないので、同一属性の実体が複数あることは不可能である。
・すると、どの属性の実体もその属性では唯一で、他なるものを持たず、したがって、他の実体から限定されることも産出されることもできない、とい
うことになる。そこから実体はそれがどの属性の実体であれ、自己原因的で無限で永遠であることが出てくる。
・いま極大の事象性(realitas)を考えるために、無限に多くある属性からなる実体を考え、これを定義により「神」と呼ぶ。つまり、同じも
のがどの属性でもその属性の実体として見いだされる、すなわちこれまで述べてきた実体はみな同じものの異なる属性での表現だと考えるのである。
・すると、この実体はおよそその外というものが不可能な、唯一絶対の事物であることになる。それはどの属性でも他というものを持たず、それゆえ他
から生み出されることはありえない自己原因である。また属性を同じくする複数実体は不可能なのだから、無限に多くの属性からなるこの実体以外には
いかなる実体も存在しえない。ゆえに定義された神は絶対的に無限なもの、極大の事象性そのものである。
6.以上の考察から言えること(神の観念に関連して)。
・スピノザの哲学は神からはじまると言われるが、不正確である。『エチカ』冒頭の神の定義は神の本質を説明的に与えていない。定義は「神」という
タームの意味を定めるがそれ自身は真偽と無関係であって、対象の真なる観念ではない。
・スピノザにとって事柄(経験であれ概念であれ)は分析されるのではなく証明的に構成されるべきものである。スピノザは早い時期から、神を成り立
たせている諸属性は「そのおのおのがそれ自身で無限に完全でなければならないもろもろの無限な実体にほかならない」と考えていた。しかし無限に多
くの実体をおのが属性とするそうした逆説的な対象を提示するためには、あのような定義と証明による、いわば一定対象ゼロからの構成がどうしても必
要だった。証明はやってみなければわからないからである。
──“ロジカル・ハイ”を覚えずして、上野氏の文章を読み終えることはできなかった。
ここに躍動している「生きた」論理のはたらき(それはもちろんスピノザ哲学の実質ではあるのだが、同時に上野氏の思考の捌きそのものの感触でも
ある)、すなわち推論は、かの「伝導」の“典型例”にほかならないではないかと、手前勝手な「理論」のもとで興奮した。
定義から出発し、公理の助けを借りて定理へといたる「構成」、それは「伝導」なる推論様式の──前々回取りあげた「実存論的飛躍」に匹敵する重
要な──側面にほかならず、また、そこに介在する「論理的“時間”」とでも呼ぶべきものは、「伝導体」の概念を構築していくうえで見落とすことの
できない大切な要素である。
【7】ロゴス─“論理”をめぐって(6)
無計画に進めてしまい、肝心の“論理”の諸相をめぐる話題を切りだす機会を失してしまいました[*]。
論理には、実在性を欠いた単なる可能性にかかわる形式的なものと、世界の成り立ちに深くかかわる潜在的・創造的なものとがある、そしてこの第二
の相における論理のはたらき(動き)が、推論にほかならない。このように、書いてしまえばごくあたり前のことを確認したうえで、先へと進むことに
します。
ただ第一の相における論理も、一皮むけば、あるいはそのもともとの淵源にまで遡っていけば、けっして単純簡明で御しやすいものではなく、どこか
しら獣めいた、太古的呪術性に根ざしているに違いないと、私は直観しています。
しかし、このことを詳しく立ち入って論じることができないので、最後に、(ここでもまた)先達の仕事を援用しながら、論理(深いロゴス)の凄み
をあらためて味わっておきたいと思います。
その6.中沢新一『精神の考古学』
書名の由来となった二冊の書物のうちヘーゲルの『精神現象学』(あと一冊はフーコーの『知の考古学』)の原題は“Phänomenologie
des
Geistes”で、「精神」と訳された語は、「ガイスト」(ドイツ語)=「スピリット」(英語)=「スピリトゥス」(ラテン語)=「プネウマ」(ギリ
シャ語:大気や気息)=「霊」=「純粋な運動性(純動)をはらむもの」へと繋がっている。
《ヘーゲルは古代のプネウマ学を詳細に研究することによって、ガイストというものの実像に近づこうとした。彼はソクラテス以前のギリシャ哲学を研
究して、ドイツ語の Geist
の古層に、「動き」や「正気をはらむもの」、「(発酵が起こるときふつふつと湧いてくる)泡」や「酵母」などの古代的概念や、ラテン語からくる「アニマ」
「スピリトゥス」などの概念が、深く埋め込まれている様子を観察している。そしてそれが「こころ(プシケー)」につながり、そこからさらに深い
「ロゴス」の考えへとつながっていく。ヘーゲルはこうした概念の複雑な地下茎網の中から、彼自身の「ガイスト」概念を練り上げていった。
ヘーゲル哲学は、「ガイスト(霊)の考古学」として誕生したのである。ヘーゲルは彼の学生時代にプロテスタント神学が推し進めようとしていた、
ガイストを「父-子-霊」の三一構造から自由な霊に解き放つ運動に、大きな霊感を受けながら、独自の「プネウマ学」を創造しようとした。それを実
行するために、三一構造の堅い岩盤を掘り抜いて解体していくことによって、その下から自由な状態にあるガイスト(霊)」のほんらいの姿を露わにし
たのである。(略)
こうしてヘーゲルのガイスト学としての哲学が構築されていった。『論理学』では、純動体であるガイストが概念をつうじて自己展開していく過程
が、詳細に描き出された。純動体は弁証法によって運動し、自己展開をとげていく。それは「プシケー(こころ)」を生み出していく。》(『精神の考
古学』386-387頁)
《ヘーゲルの「絶対ガイスト」は思考そのものと同一である概念であるから、それをめぐるさまざまな思弁はすべて観念の内部で起こることになる。と
ころがゾクチェンの言う原初的知性[イェシェ]は、物質的な四大元素の聲や他の生物種の聲への通路を保ちながら、法界(存在)をみたす知性であ
る。物質現象も生物現象も、すべてが法界の中に生起していて、そこを原初的知性がたえまなく活動している。
ヘーゲルの「絶対ガイスト」が純粋な運動性であるように、原初的知性も法界の純粋運動と一体になって活動している。しかし双方で働いている「論
理」は違っている。「絶対ガイスト」はロゴスによって運動する。それにたいして原初的知性は縁起的なレンマの原理によって運動する。縁起の論理は
法界を満たしているあらゆる事物が相依相関しながら全体運動をおこなっているので、物質も生命も観念もおたがいを巻き込みながら変化を続けてい
く。それゆえ原初的知性はそのもっともプリミティブな形態において、アフリカ的段階の思考であるアニミズムを生みだす。しかし「絶対ガイスト」か
らは、アニミズムの霊[ガイスト]が出てくることはない。》(『精神の考古学』396頁)
──宗教的思考の古層に根ざす「深いロゴス」。ここには、「ヒュポスタシス=ペルソナ」に匹敵する西欧哲学におけるもう一つの「概念のポリフォ
ニー」がある。
中沢氏の文章を読んで、西東欧キリスト教「神学」(テオロギア)における「弁明」(アポロギア)──弁明されるべきは神の存在であり、神にして
人であることの背理であり、一にして三のペルソナをもつことの背理であった──は、世界を成り立たせる「推論」のこのうえない実例だったのだと、
あらためて気づきました。「純動体(ガイスト)」が「伝導体」の別称に他ならないことも。
[*]予定していた話題を一つだけ取りあげる。以下は、京都学派の系譜に属する山内得立晩年の主著『ロゴスとレンマ』からの抜萃で、「哥とクオリ
ア/ペルソナと哥」第49章に掲載したものの“再利用”。
1.三つの論理─同一律・矛盾律・排中律
〇論理の第一原則である同一律はパルメニデスによって、第二の矛盾律はその弟子ゼノンによって発見され、第三の排中律はアリストテレスの時代には
よく知られた法則となっていた。(9頁)
形式論理学はアリストテレスの三法則によって大成し、長き中世期を経てカントに到るまで一歩も進歩しなかった。
〇カントの先験的論理学は同一律を「批判」し、ヘーゲルの弁証法的論理は矛盾律を「逆転」した。
カントとヘーゲルによってヨーロッパの論理学は大成され、現代に到るまでそれ以上の新しい立場が創設されたためしはない。(13頁)
〇論理の第三法則、すなわち排中律の「逆転」を土台とする新しい立場は、インドの大乗仏教、なかんずく龍樹(ナーガールジュナ)の教学において見
出しうるものではないかと思う。(15頁)
2.ロゴスの展開─差異・対立・矛盾
〇ロゴスは先ず言葉であり、そこには語られるもの(主辞)とそれについて語ること(賓辞)との区別があらわれる。
語ることは人と人との対話であり、そこには語る我と語りかけられる相手とが分立する。その間にコミュニケーションが可能となり、判断が分立す
る。
ロゴスが bivalence となり、ロジク(論理)が発展する。(35頁)
〇ロゴスの展開は肯定と否定との分立に始まり、肯定に対して否定が独立の意味と存在を保有するに至って達成される。(39頁)
その第一段階は「差異」あるいは「欠如性 privatio」であり、第二が「対立」であり、第三が「矛盾」である。(40-43頁)
フィヒテの哲学は「差異=欠如性」を方法論的立場とし、シェリングの哲学は「対立」を主要な原理とし、ヘーゲルの哲学においては「矛盾」が支配
する。(51-55頁)
ヘーゲルの弁証法論理はロゴスの思想発展の最後の、そして最高の段階である。(64頁)
〇ロゴスの発展にはなお一つのとり残された問題がある。それはロゴスの第三の法則たる排中律の逆転である。(65頁)
東洋にはレンマ(lemma)の論理がある。西洋のロゴスと東洋のレンマを区別しながら共に含むことによって、世界全体の思想体系を樹立するこ
とができる。(67頁)
3.テトラレンマ─肯定・否定・両非・両是
〇レンマに二種あり、一はテトラレンマとしてインド大乗仏教の論理をなし、他はディレンマとして中国の老荘思想の論理を形成している。(序)
〇西洋の論理は bivalence であって、判断は肯定か否定かのいずれかで第三のものはあり得ない(排中律)。
しかしインドではこの外に第三及び第四の立場がある。インドの論理は「中」を容認する。すなわち排中律を逆転して容中律を認めることがインド人
の考えであった。(70頁)
〇仏陀の頃のインドに、人間の思惟の様式を尽くす「四論」の説があった。(一)肯定、(二)否定、(三)肯定にして否定、(四)肯定でもなく否定
でもない場合というテトラレンマである。
私(山内)は第三と第四とを逆にして、(一)肯定、(二)否定、(三)両非(両否とも)、(四)両是として、第三の両非の立場を全論理の中心に
おきたい。(71頁)
大乗仏教の創始者・龍樹の「中論」第一偈は、諸々の有体が「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出」であることの主張であった(八不)。この
論法は明らかに両非の論理、すなわち肯定でもなく否定でもない第三レンマの主張にほかならない。(72頁)
〇テトラレンマは第三レンマによって区切られる。
第一と第二とは bivalence を立場とする世俗の論理であり、第三と第四は either-or の両者をともに否定する
neither-nor の勝義の論理に属する。(73頁)
4.即の論理、ディレンマの論理
〇即の論理は第三レンマと第四レンマとの関係の論理であり、大乗仏教の勝義の世界を支配する原理である。
それは矛盾律と排中律の支配する世俗の論理ではないし、存在と非存在とを関係せしめる媒介の論理でもなかった。(310頁)
〇第三レンマは単なる非存在ではなく、肯定を否定するとともに否定を否定する。否定の否定が肯定であるとすれば、第三レンマは外形上否定であるが
実は否定と肯定を両有するともいえる。
第三レンマ(両非もしくは両否)から第四レンマ(両是)への「転換」の可能性と必然性とはここにある。(313頁)
〇インド人の思惟方式がテトラレンマであるとすれば、中国人の思考はディレンマに支配されていた。(353頁)
たとえば老荘の思想は「AはBでないからAはBである」式の逆説に終始している。般若の論理(鈴木大拙)は「AはAでないからAである」と説
く。
しかし、第四レンマが可能なのは第三レンマの絶対否定を前提してのことである。そのことなしにはレンマは論理でなく単なるドクサである。
(354頁)
〇無から有を引き出そうとするのがディレンマの論理で、不生不滅(両非、絶対否定)から生滅(両是)を証明しようとするのがテトラレンマの論理で
あった。前者にはただ逆説があるのみで、後者において一つの論理が展開する。(374頁)
《無から有が生ずるのではなく、一から二が生ずるのでもなく無に於いて凡てがあり、一に於いて万物が存するのもこの第三のレンマによってであっ
た。(略)不生から生に到るのは未だディレンマの立場に止まる。(略)否定は単なる無でなくして非有でなければならぬ。本無はただに「がない」こ
とによってではなく、「でない」ことによって基礎づけられる。(略)
即の論理というのも無が即ち有である、有が即ち無であることではない。否定から直ちに肯定が生ずるということではない。それはロゴスに於いて背
理であるのみでなく、レンマの立場に於ても容易に許され得ぬ逆説であろう。即の論理は必ず即非の論理でなければならぬ。このとき否定は不でなくし
て非である。非は否定として必ずしも不と同一でなく、非有(あらざること)がその当体をなす。例えば非人情は不人情から明別せられる如く即非は決
して即不であることはできぬ。しかしこのような否定から如何にして肯定が措定せられうるのであるか。無が即ち有であるのではなく、無が何ものでも
ないならば無の否定からしては何ものが生ずべきであろうか。即の論理は両非と両是との関係であって単なる否定と肯定との関係ではない。肯定でもな
く、否定でもないからして即ち肯定でもあり否定でもありうるのである。両非から両是に転換することが即の論理であった。この転換には何ら媒介を要
しない。(略)ヘーゲルにとっては媒介は綜合に達すべき手段であり、少なくともその過程であった。しかし大乗仏教の論理はそのような媒介を要しな
かった。その過程は綜合でなくして転換である。ロゴスの逆転ではなくしてレンマの転換であるに外ならなかった。しかし転換にはまた一つの論理がな
ければならぬ。それは両否[ママ]が直ちに両是となるという論理である。それは綜合ではなくまさに端的なレンマの把握でなければならない。両非か
ら両是に転ずることはレンマ的論理によってその必然性が確保せられる。肯定の否定は非存在となり否定の否定は存在となる。第三レンマによって空は
即ち色となり色は即ち空となりうるのである。しかも両非によって初めて両是がありうるとすればこの関係とその論理はテトラ・レンマの論理を措いて
外にはあり得なかった。》(『ロゴスとレンマ』375-376頁)
【8】メロス─“推論”をめぐって(1)
本稿第一節で示した三つの項目、論理と推論と伝導(体)をめぐる相互の関係性、“論理”をベースとした相関図を、大雑把な鳥観図のようなかたち
で示すつもりだったのに、つい気が逸り、脈絡なく細部の議論に立ち入ってしまいました。
今回から、“推論”に的を絞った話題に転じるわけですが、まず、その導入もしくは繋ぎとして、前回のテーマであった「(深い)ロゴス」と(その
註で取りあげた「レンマ」とも)関連する「メロス」(歌、旋律)について、あらためて取りあげたいと思います。
あらためてというのは、かつて「韻律的世界」のなかで、九鬼周造の「日本詩の押韻」や宮野真生子著『言葉に出会う現在』(第二章「押韻という夢
──ロゴスからメロスへ」)などを素材として、メロスや推論に言及したことがあったからです[*]。
そこで考察した事柄を、以下、三点に集約して“反芻”します。
1.メロス、あるいは夢の言語=詩的言語の“論理”
九鬼周造は押韻の先に「言霊」すなわち「自他を繋ぐ言葉」を夢見た──「ロゴスがメロスとして目覚めたときに、初めて「言霊のさきはふ国」とい
うことが…云われ得る」(「日本詩の押韻」)──が、そのような「完全な言語」がはたして可能なのか。「ロゴスを越えたもの」である「メロス」
は、むしろ表現主体とその対象とのあいだのズレを暴くものであるべきではないか。
宮野氏はそのように問い、「九鬼の押韻論とは具体的次元をもたない「夢」にすぎなかったと言わざるをえない」と結論づけた。
私は、宮野氏のこの指摘に(なかば)賛同しつつ、九鬼音韻論が追い求めたものは「夢」に‘すぎなかった’のではなくて、文字通り「夢の言語」
──言葉と事物を繋ぎ、自己と他者を繋ぐ「詩的言語」──そのものだったのではないかと書いた。
そして、「夢の言語=詩的言語」とは、夢の中の事物と直接に繋がる完全な言語としてのクオリアであり、また夢の中の他者と直接に繋がる完全な言
語としてのペルソナ──ウィトゲンシュタインが「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私に
は感じられる」(『哲学探究』)と書いたその「シューベルト」──だったのではないかと指摘した。
さらに、そのような「夢の言語=詩的言語」の論理(メロス)が「韻律」なのであって、それが日常言語の水準にあっては児戯に等しい言語遊戯とし
て現象することになるのではないかとも。(「韻律的世界」第13節)
以上のことを踏まえて、クオリアとペルソナという(マテリアルな次元とメタフィジカルな次元における)「完全な言語」による複眼的パースペク
ティヴのもとであれば、「夢」を、たんなる夢に‘すぎない’ものではなく、むしろ現実がそこから生起する根柢的世界として、「夢の言語=詩的言
語」がそこから生成するフィールドとして、ポジティヴに捉える途がひらかれるのではないかと考えた。
そして、二つの「永遠の今」──偶然性の根柢で開示される「永遠の今」(マテリアルな生命的次元)と、回帰的時間における「永遠の今」(メタ
フィジカルな神秘的体験の次元)──の相のもとに韻律的世界が立ちあがり、そこにおいて言葉が到来しそこにおいて言葉と出会う、「夢の言語=詩的
言語」のフィールドがひらかれるのではないかとも。(「韻律的世界」第15節)
2.音色が担う意味、メロスとロゴスの混然融合
川原繁人氏が、『談』(no.124)誌上のインタビューで語った事柄(「韻律的世界」第17節)。
・サルがヒトに進化する過程のどこかの段階で、ことばを使って意思疎通をするようになる前に、何かしらの「声色」(「音象徴」の根源)を使って意
味を伝えていたのではないか。
・言語には「論理的な意味」と「それ以外の意味」(話者が誰であるか、どんな感情であるかといったような)がある。われわれが現代において「声
色」と言う時には、たぶん「論理的じゃない部分」の情報を伝えるためにそれを使っている。
以上のことを踏まえて、私は、次のように書いた(「韻律的世界」第18節)。
言語発明以前の「声色」が担う「意味」のうち、非論理的なものは「メロス」(生命界)と、また論理的なものは「ロゴス」(精神界)と結びつく。
しかし実際にはメロスとロゴスは混然融合している。少なくとも画然と棲み分けているわけではない。
3.メロスからロゴスへの“以心伝心”
萩原朔太郎が『月に吠える』の序文で、感情をリズムによって表現するのが詩であり、リズムとは以心伝心であって概念の説明ではない、と書いたの
は、「メロス」と表裏一体の関係を切り結ぶ原初の言葉、すなわち「詩的言語」の在り様を記述したものである(と同時に、「以心伝心」とは「詩的言
語」がもつ「伝導」のはたらきを表現したものである)、と私は解釈した。(「韻律的世界」第21・32節)
この「リズム」が、マテリアルな次元(生命界)からメタフィジカルな次元(精神界)へ──すなわちメロスからロゴスへ──と移行することをめ
ぐって、私は次のように考えた。(「韻律的世界」第32節)
この移行は、歌もしくは感情言語としてのメロスから遠く離れて、純粋な論理(形式論理)、無味乾燥な理路(記号論理)の世界に入ることを意味す
るわけではない。少なくとも、移行の直後、すなわち言語が言語として成立した直後のロゴスは、切れば血が出るメロスと不即不離・表裏一体の関係を
切り結んでいたはずだ。(たとえば、パルメニデスの自同律は「自同律の不快」ならぬ「自同律の恍惚(神秘的合一)」といった様相を帯びていたので
はないか。)
さらに極まると、ヘーゲル論理学におけるロゴスのように、この世界の「存在」(物=自然)、「本質」(生命)、「概念」(精神)そのものを産出
し、その在り様と弁証法的な推移(進化=推論)のプロセス自体を規定する力を持っていたとさえ言えるのではないか。
──人間の言語成立以前に遡るメロスが、はじまりの言語(夢の言語=詩的言語)における“論理”すなわち韻律を介して(深い)ロゴスと混然融合
し、やがてそこから単独のロゴスへの移行(以心伝心)がもたらされる。
この、悠久の推移(進化)のプロセスそれ自体が、ひとつの巨大な“推論”にほかならず、そこからいわゆる論理の法則や命題が析出され、そして、
それらの成果のうえに、以心伝心のフィールドすなわち伝導体がかたちづくられ、そこから次なるあらたな“推論”が展開されていく…。
[*]「韻律的世界」の最終節(第35節)は、「韻律的世界から推論的世界へ、伝導体へ」のタイトルのもと、推論の第五の形式としての「伝導」と
「伝導体」をめぐる私なりの定義、理論構築のためのラフスケッチを示していて、本来、推論的世界をめぐる考察の序文として掲げるべきものだった。
全文引用するわけにはいかないので、ここでは、「推論」とは何かに関して書いた(自己引用した)ものを再録する。──「概念操作または言語活動
としての(狭義の)推論のことだけではなくて、時空構造を織り込んだ物質世界(宇宙)や生物の進化、精神世界における(言語以前の、もしくは言語
の外における)観念の運動、はては、神の存在の直観、あるいは、永井均氏の「独在性の〈私〉」の存在をめぐるメタフィジカルな論証、等々を含め
た、およそ物質と生命と精神と意識、つまり森羅万象の存在者の運動全般をつかさどる理法(ロゴス)のようなもの」。
【9】夢の原理─“推論”をめぐって(2)
前回の議論を踏まえて、はじまりの言語=夢の言語の“論理”に思いをめぐらせてみたいと思います。
この点については、かつて、論考群「哥とクオリア/ペルソナと哥」において、渡辺恒夫著『夢の現象学・入門』を参照しながら考えたことがあるの
で、その“成果”を三回にわけて、切り抜きのかたちで紹介します。
1.夢世界の原理(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第50章3・4節)
(1)夢世界のレイヤーは現実世界より次数が一つ少ない
永井均著『私・今・そして神──開闢の哲学』に次のような議論が登場する(140-141頁)。
○夢を見ているとき、われわれはそれが「後で思い出される」ことを意識していない。ところが、現実に生きているとき、われわれはすでにそれが「後
で思い出される」ことを知っている。つまり、現実の現在は、可能な現在のひとつにすぎないこと(超越論的構造)が、その現場においてあらかじめ知
られている。
○文(命題)は否定できるが、絵(像)は否定できない。同様に、文は時制変換可能だが、絵はそれが不可能だ。同じことは、人称についてもいえる。
絵は人称を描けないからだ。対して、文は現実の私を、可能な「私」の一例として把握し、「私は」と語り出すことができる。そのことによって、過去
や未来と同様、他我(他者の「私」)もまた必然的に存在することになる。
○客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができる
こと、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。
ここには、「文の原理」と「絵の原理」の対比を通じて、(精確には、現実の世界における「文の原理」と「絵の原理」の対比が、「現実の世界」の
原理と「夢の世界」の原理の対比との間でパラレルな関係を切り結ぶ、といったかたちで)、鮮やかに、カントの超越論的構成作用に拮抗しうる「夢の
原理」の存在が示唆されている。
それでは、その「夢の原理」とはいかなるものか。それを一言で表現するならば、「夢の世界の構造・意識のレイヤーは、現実世界の構造・意識のレ
イヤーよりも次数が一つ少ない」となる。あるいは、夢の世界では、否定と肯定、過去・未来と現在、他我と私、可能性と現実性とが地続きになる、
(精確には、否定と肯定、等々の対立する二項が、いずれも後項のうちに収斂していく)、と言ってもいい。
(ところで、夢の世界とは何か。それはおそらく、不可視の次元における、文字以前のコトバとイメージ(絵文字のような)にもとづく“哥”の世界な
のであって、可視的次元における「文の原理」と「絵の原理」が(絵日記のように)合成されて出来あがった「物語」の世界とはその存在様相を異にす
る。)
(2)現実世界の原理と夢世界の原理
渡辺恒夫氏によると、これまでの夢の研究には決定的に欠けていたものがあった。それは、夢は「世界」であるという認識だ。渡辺氏は『夢の現象
学・入門』の「プロローグ」にそう書いている。
夢の世界は、現実世界と対等の「体験世界」である。しかし、まったく同じというわけではない。夢世界を支配する基本的な体験構造、すなわち夢世
界の原理と、現実世界の原理とは異なっている。だから、夢は「異界」なのである、と。
こうして著者は、フッサール現象学の方法にのっとって、まず、現実世界との比較のもとで「夢世界の原理」を摘出し、次いで、現実世界における体
験構造が夢世界(異界)においてどのように変容しているかを解明している。
以下は、渡辺氏による「現実世界の原理」(知覚の独体制裁、意識の二重構造)と「夢世界の原理」(志向的構造・意識の一重構造)の対比。
〇現実世界にあって、「これが現実だ」という確信を与えている意識作用は知覚である。現実という名の体験世界では、知覚の独裁体制のもとに、さま
ざまな意識作用が整然と構造化されている。
夢世界の現象学的構造は、これと全く異なる。想起も、予期も、反実仮想の想像も、記号作用に基づくフィクションも、即、知覚となって、「これが
現実だ」という確信を与えるのである。
構造的には現実世界は複雑で夢世界は単純だが、内容的には、知覚以外は「仮定に過ぎない」現実世界よりも夢世界の方がはるかに豊饒である。
(33頁)
〇現実世界では、意識は二重の構造を備えている。すなわち、想起・予期・空想などの「思い浮かべる」志向的意識は、「思い浮かべられた当の対象
像」と「思い浮かべているに過ぎない」という暗黙の気づき(暗黙裏の覚知)との二重構造を備えている。
これに対して、夢世界では、この暗黙の気づきが消滅して、意識は一重構造になる。すなわち、過去や未来や架空存在を思い浮かべると、「思い浮か
べられた当の対象像」だけになり、それらを「現に知覚している」のと同じことになってしまう。(40-41頁)
【10】夢体験の諸相─“推論”をめぐって(3)
前回の「夢世界の原理」につづいて、渡辺恒夫氏(『夢の現象学・入門』)による「夢世界における体験構造の変容」──「時間の変容」「他者への
変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という「夢の原理」を構成する四つの体験フェーズ──をめぐる議論の“要約”を自己引用します[*1]。
2.夢体験の諸相(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第50章4節)
【Ⅰ】時間の変容/相[aspect]・時制[tense][*2]
Ⅰ-1.過去・未来の現在化
〇夢の世界では、すべてが現在形として起こっている。つまり、現在のできごととして「知覚」される。夢世界の時間的体験構造には、仮定法未来とい
う次元がない。過去形も反事実的条件法も存在しない。夢世界では、過去の回想も未来の予期も、過去や未来への短い時間旅行(タイム・トラベル)に
なってしまう。(22~27頁、46頁、55頁)
Ⅰ-2.夢の中での過去想起─互いにつながり合った夢
〇夢の中で過去に見た別の夢を想起すると、「こんな夢を見た」という夢想起にはならず、現在の夢世界にとっての過去として想起されることがある。
今見ている夢との整合性・首尾一貫性を確保するため、過去の夢が「今の状況」にとっての「現実の過去」として位置づけられるのである。
これは一見、「夢世界の原理」(夢の体験構造の一重性、夢世界に過去形は存在しない)に反するように見える。しかし、そこでは、過去想起といっ
ても過去を「ありありと思い浮かべる」ところまでいかず、再認や知識(意味記憶)の域に留まっている。その結果、現在の夢と過去の夢とがつながり
合ったのである。(54~56頁)
【Ⅱ】虚構の現実化/様相(modality)
Ⅱ-1.物語の中で生きる夢
〇夢世界では、生の現実とフィクション(非現実)の二重性を生きることはできない。文字や映像のような記号によって呼び起こされた想像は必ず現実
化する。(30頁)
夢の世界では、解釈対象ともなり知覚対象ともなるような二重性を帯びた記号は存在しえない。記号は必ず透明化する。記号が意味する架空のできご
とが現実に知覚され、架空の世界を現実に生きることになる。(31頁)
夢世界では反実仮想は現実化する。物語は現実化し、私はその中で生きることになる。(60頁、63頁)
Ⅱ-2.自己の交替性を生きる夢、あるいは世界の二重化
〇夢の中で進行するドラマの登場人物である私を、私自身が第三者視点で見ているというタイプの夢がある。
このような、物語を内側から生きると同時に外側から鑑賞している「自己の二重性」は、一見、夢世界の原理に抵触するように思われるが、そうでは
ない。現実世界の意識に伴う「ドラマの登場人物に過ぎない」という虚構意識が、夢世界では欠落しているからである。
だから、二重性を生きるといっても、厳密に同時的に二重性を生きているのではなく、いわば(ホンモノの私とドラマの登場人物に扮した私との)交
替性を生きている、といった方がよいかもしれない。(70-71頁)
〇あるいは、次のようにいえるかもしれない。すなわち、見られる自分がいて、それを上から見ている自分が別にいるという入れ子細工的構造がはっき
りした夢にあっては、覚醒意識に特有の志向的意識の二重構造が消える代わりに、世界が二重化したのだと。(78頁)
【Ⅲ】自己の分裂/人称[person]
Ⅲ-1.自分が二人いる夢
〇夢世界の原理(「……に過ぎない」という自覚が消滅し、二重意識が一重になる)を維持する代償ででもあるかのように、世界ではなく自己が二重
化=分裂する夢がある。たとえば、過去の私を現在の私が「純粋の視線」となって見下ろしている夢。(75-76頁)
〇これと違って、見る自分と見られる自分が同じ世界にいる純粋な自己分裂の夢がある。また、過去に生きた「誰か」として生きている自分を、映画で
も見るように楽しむ夢がある。これらの場合でも、夢世界の原理は貫徹している。「もしも……に自分がいたならば」という反実仮想の現実化と解する
ことができるからである。(78-80頁)
〇自分が二人いる夢には、次の四つの異なるタイプがあった。これらの夢において、なぜ夢見者である私が物語の中に完全に入り込まず、夢見者の視点
が残存したのかという疑問が残る。(80-81頁)
① ドラマの登場人物である私を、私自身が第三者視点で見ている夢
② 過去の私を現在の私が「純粋の視線」となって見下ろしている夢
③ 二人の自分(見る自分と見られる自分)が同じ世界で対峙する夢
④ 過去の「誰か」の人生を自分の人生として、その物語を楽しむ夢
Ⅲ-2.分身の夢、第三者視点の夢
○自分自身の分身に出会うドッペルゲンガー体験は、自己分裂の夢の一種であり、そこから分裂した元の自分自身の視点(夢見者の視点)を消去する
と、単なる第三者視点の夢になる。(101頁、105頁)
視点主体なき純粋の第三者視点の夢の存在は、私たちが日常、自分自身を「他者たちの中の一人の他者」として思い描いていることを示している。
(107頁)
〇メルロ=ポンティの「上空飛行的態度」によって、自分自身を含む「他者たち」を上空から眺める架空の視点を設定し、この視点から見た世界こそが
「客観的」な世界だと思い込む、その思い込みを夢で現実化・映像化したものが第三者支点の夢である。(111頁)
【Ⅳ】他者への変身/態 [voice]・法[mood]
〇「実在する他者になる」ことと「架空の誰かになる」こととは、現象学的にはまったく異なる事態である。(61頁)
実在他者への変身夢の場合、三重の意識(①その他者になったという想像、②それが想像に過ぎないという暗黙の自覚、③私の想像にかかわらずその
他者が実在するという暗黙の確信)が一重化する。これに対して、虚構他者への変身夢の場合は、二重意識(①②)が一重化する。(158-159
頁)
〇ところが、夢の世界では、実在他者と虚構他者の区別なく他者になることができる。これは、(他者の実在が確信できないまま「世に(隠れ)棲む」
独我論者が見出されることで明らかなように)、目の前の他者が実在するという確信が絶対的に強固ではないことを示している。
だから、(現実世界のみならず)夢世界でも、実在他者と虚構他者とを問わず、変身できてしまうのである。(162-163頁)
[*1]かつて『夢の現象学・入門』に接したとき、そこに──以前読んだ『フッサール心理学宣言』ほど“直接的”なものではないが──永井(均)
哲学の“影”を色濃く感じた。たとえば、三浦俊彦氏は「永井独在論」と「渡辺遍在(転生)論」を対比している[https://russell-
j.com/miurat/hiruinai.htm]。私見では、渡辺氏の議論(輪廻転生をめぐる)は「実在性」(リアリティ)の世界に(の
み)かかわり、永井氏の議論(〈私〉や〈今〉をめぐる)は「現実性」(アクチュアリティ)の世界に軸足をおいている。
夢をめぐる議論に関して言えば、渡辺氏は夢世界を現実世界(実在性)が変容した「異界」(実在性)と捉えているが、永井氏は「夢」の世界(実在
性)の根底もしくは外部に〈夢〉の世界(現実性)を据えている。(こうした違いがあるにもかかわらず、夢世界の体験をめぐる渡辺氏の議論は、
〈夢〉の世界の“ロゴス”あるいは「はじまりの言語」(夢の言語)における“メロス”を考えるうえでとても有益である。)
ちなみに、本稿第五節で素材として取りあげた「第二性としての独在性」(ジミー・エイムズ)が、『〈魂〉に対する態度』所収の「醒めることを禁
じられた夢」に言及していた。この論文のなかで永井氏は次のように書いているのだが、そこで言われる「夢」の世界とは、錯綜した言葉遣いになるが
語の一般的な意味における「現実世界」や「客観世界」や「現象世界」すなわち「実在性」の世界にほかならず、また「現実の根底にある夢」「醒める
ことのない夢」「外部をもたない夢」の世界は「現実性」に通じている。夢(精確には〈夢〉)を「夢」として規定すること、すなわち超越論的構成。
《…夢は必ず醒めるが、現実から醒めることはできない。これは決定的な違いである。夢から醒めてみれば、「夢中」で没入していたリアリティのすべ
ては単に「夢」、つまり荒唐無稽なフィクションにすぎない。そして、夢を「夢」として規定しうる視点は、それを「夢のような」ものとして眺める、
夢の外部の視点だけなのである。夢から醒めたときにはじめて「夢」が成立するのだとすれば、現実の根底にある夢が全体として「夢」として眺めら
れ、「夢のように」感じられることはありえない。全体として捉えられた現実は、だから、決して醒めることのない夢、夢として知られることのない、
外部をもたない夢、のようなものである。》(『〈魂〉に対する態度』141頁)
[*2]各項のタイトルの後に全角スラッシュを付けて、四つの夢の体験フェーズにそれぞれ関連する(と思われる)文法カテゴリーを書き添えたの
は、〈夢〉(現実性の世界における)を「夢」(実在性の世界における)として規定する“超越論的構成”において決定的な役割を果たす、あるいは
“超越論的構成”の結果として生み出されるのがそれらの文法カテゴリーであると考えたから。その詳細については、いずれ「文法的世界」を主題とす
る考察のなかで取りあげたいと思う。
【11】純粋な夢世界─“推論”をめぐって(4)
夢世界と現実世界の関係について、渡辺恒夫氏(『夢の現象学・入門』)は、現実世界の体験構造が夢世界においてどのように変容しているか、とい
う観点から論じていました。
私自身はこれとは逆に、つまり、夢世界の原理は現実世界の原理が(四つの体験フェーズにおいて)変容して生まれ出てきたものではなくて、夢世界
の原理が変容して(四つの文法的カテゴリーの成立と同時に)出来あがってきたのが現実世界の原理なのではないかと考えています(「哥とクオリア/
ペルソナと哥」第50章第5節参照)。
そして、こうした純粋な〈夢〉(現実性、アクチュアリティの世界における)から《現実》(実在性、リアリティの世界における)への“変容”と
は、じつは巨大で複合的な“推論”にほかならないのであって、それを私は「伝導 conduction」──「帰納
induction」や「演繹 deduction」や「洞察 abduction」や「生産
production」に次ぐ推論の第五の形式であり、かつ他の四つの推論形式を統括するもの──と呼んでいるわけです。
3.夢は純粋伝導体である(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第53章1節)
夢現象(夢体験)で肝心なのは、その内容、意味、理由ではなく、その形式と構造、夢の構成要素や夢同士の相互の関係性であるということ。こうし
た特質を私の語彙でいいかえると、夢は「伝導体」であるとなる。
夢において伝導されるのは伝導現象それ自体である。つまり、伝導されるのは、内容や意味や理由にかかわるリアルな事象(実在性の世界における)
ではなくて、たとえば色彩、音声など(井筒俊彦が「コトバ」と呼んだもの)が織りなすリズムや韻律、等々の形式や構造や関係性そのもののアクチュ
アルな出現それ自体である。そういう意味で、夢は純粋伝導体である。
世界があらかじめ夢見られている(ガストン・バシュラール)として、夢見られているのは物質的な世界そのものではなく、リアルな物質世界(実在
性の世界における映像)がそこにおいて現象する世界のあり様(現実性の世界における光源)の方だと考える。
映画が「夢の引用」(武満徹)であるとして、そこで引用されるのは個々の「シーン」であるよりも、それらのシーンをもたらす「パースペクティ
ヴ」なのである。つまり、「夢のパースペクティヴの引用」としての映画の実質は、異なるパースペクティブのもとで現象する個々のシーン群を「モン
タージュ」し、そしてそうすることによって、(語り得ず、見えないが)アクチュアルなパースペクティヴ群を「モンタージュ」することである。
※
渡辺氏の議論を参照しながら考えたことの自己引用は、ここまでとします。
これより先は、夢の推論としての「伝導」をめぐって、①それ自体は伝導のはたらきの成果物でありながら、同時にそこにおいて伝導が稼働する
“場”の構図を呈示し、あわせて、②伝導のはたらきを促す起点にしてその終点でもある、あるいは(夢の推論とパラレルな)「誤謬推論」の起点にし
て終点でもある「逆理」について考察したいと思います(②については次回)。
夢の推論が稼働するフィールドの枠組みをめぐって。
私の考えでは、夢世界は「物自体」(世に現われないもの=けっして醒めない夢)の世界を本籍地としつつ、「現象世界」(夢から醒めた現実世界)
との“はざま”を現住所としています。そして、夢体験の諸相は、前者(アクチュアリティ)の世界につながる導管(duct)を縦軸とし、後者(リ
アリティ)の世界につながる導管を横軸とする直交座標によって、その“位置”が定まります。
夢の推論(伝導)を成り立たせるのは、帰納・演繹・洞察・生産の四つの推論形式ですが、このうち、様々な現象(事物事象)を一般化・概念化する
帰納と、(諸現象を外延として含む)一般概念の相互包摂関係に基づく演繹がリアリティの横軸に、諸現象やその集合(概念)に直接かかわらない、む
しろ諸現象やその集合(概念)を世に現わす“力”の作用である洞察と生産はアクチュアリティの縦軸に、それぞれかかわります。
かくして、「演繹-帰納」のリアリティの横軸と、「生産/洞察」のアクチュアリティの縦軸の直交によって、伝導すなわち(〈夢〉から「現実」へ
の)変容=推論フィールドの構図が描かれ、そこに出現した四つの象限に、「時間の変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という四
つの体験フェーズが位置づけられることになりました。
「推論的世界」第2節の註において、「余談」として挿入した図を下敷きにしながら、この構図を図示すると次のようになります[*]。
《洞察》
【現】
actual
┃
┃
《演繹》【虚】━━━━╋━━━━【実】《帰納》
imaginal ┃ real
┃
virtual
【空】
《生産》
[*]「演繹-帰納」の横軸において、帰納を【実】(real)の側に位置づけたのは、演繹と比べより強く事物事象=もの(res)にかかわる推
論形式であることから。演繹を【虚】(imaginal)の側に位置づけたのはその反動にほかならないが、演繹とはけっして形式的・一般的な推論
形式ではなく、実は──パルメニデスの自同律が神秘体験の「論理的表現」であったかもしれないように──アンリ・コルバン=井筒俊彦的な「深いロ
ゴス」の世界に根ざしていることを(結果的に)正しく表現し得ているのかもしれない。
(ベルクソンが『物質と記憶』第三章の冒頭で示した「純粋想起-イマージュ想起-知覚」の直線にあてはめるならば、【虚】=演繹は「純粋想起」
に、【実】=帰納は「知覚」に該当する。)
また、「生産/洞察」の縦軸において、生産を【空】(virtual)の側に位置づけたのは、無から有を生む、あるいは有から有への変容・変身
をもたらす“力”(virtu,vis)に根ざした推論形式であることから。洞察を【現】(actual)の側に位置づけたのは単にその反動とし
てだけでなく、洞察(洞窟的推察)にあっては、帰納や演繹における観想的・傍観者的な態度ではなく、推論者自身の自発的・能動的な行為
(actus)もしくは振舞(conduct)が枢要であることを踏まえている。
【12】誤謬推論─“推論”をめぐって(5)
承前。夢の推論(伝導)を稼働させる原動力であり、かつその成果物でもある「逆理」をめぐって。
ドゥル-ズ/ガタリは『アンチ・オイディプス』で、「オイディプス」とは「内なる植民地」であり、「誤謬推論
paralogisme」こそが「精神分析が無意識を去勢し、去勢を無意識の中に注入する[オイディプス化の]操作」であるとして、「かつ」(連
言:∧)、「または」(選言:∨)、「ならば」(含意:⇒)、「同じ」(同値:=)、「でない」(否定:¬)という五つの論理詞に関連づけて論じ
ていました。
私はこれに触発され、かつ木村敏著『時間と自己』の議論をそこに織り込んで、人間社会に病理現象をもたらすものとして誤謬推論を捉えたことがあ
ります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第48章4節)。
以下は、その簡略版です。
……第一の誤謬推論は、個人と個人のいまここでの部分的かつ特殊的な結合(A∧B)の中から、一般化された普遍的な関係、すなわち共同性を抽出
することである。
第二の誤謬推論は、このような共同性を実体的な価値として外在化させ、二者択一的緊張をはらんだ関係(A∨B)のうちに受肉させることである。
第三の誤謬推論は第一と第二の誤謬推論を基礎として、異質な諸個人に同質性を外挿し、これを同一のタブローの上に並置すること、そして「~か
ら~へ」と至る多数多様でメタフォリカルな諸個人の連鎖(A⇒B)を破壊し、「~ならば~である」という本来恣意的な因果関係のうちに編制してし
まうことである。
以上の誤謬推論の結果、すべてはトートロジカルな相互同質性をもって融合し、社会は“共同体”として実体化され、「イントラ・フェストゥム」
(祭のさなか)的な病理現象──そこでは、あたかも終わりなき祝祭のさなかにあるように、社会は外部性と他者性から遊離し聖なる自己のイメージに
自縛されている──を呈することになる。
第四の誤謬推論は、第三のそれが諸個人の連鎖の多数多様性を破壊することで生成させた因果的世界の恣意性・無根拠性を隠蔽し、これを基礎付ける
ため、外部世界を消去し、もしくは超越的・象徴的な外部世界を仮構し、因果的世界に禁忌(抑圧)あるいは全員一致の排除のルールを外挿することで
ある。
禁忌の対象とされあるいは排除されるもの、つまり虚構の他者(あるいは内部の敵、スケープゴート)の存在をもって、外部世界の存在証明とするま
やかしの置き換え(~=A)を遂行することである。
第四の誤謬推論が蔓延する時、社会は「ポスト・フェストゥム」(祭のあと)的な病理現象──そこでは、社会は聖なるものとの合一がもたらす祝祭
的な眩暈から醒めた、日常的で慣習的な役割関係が支配する儀礼的な世界となって現れる──を呈することになる。
第五の誤謬推論は、第四のそれと類似した推論を、置き換えではなく否定(¬A=~)の操作を介して行うことである。すなわち、因果的世界の恣意
性・無根拠性の基礎付けを、いまここにではなく否定という人為的な操作を介して虚構の過去に求めること、因果的世界の自己完結性を後から遡及させ
ることである。
社会の「アンテ・フェストゥム」(祭のまえ)的な病理現象──そこでは、社会は外部の荒々しい力による聖性破壊への予兆に染め上げられ、純潔無
垢な共同体の価値を保全するため細胞分裂さながらに内部検閲作業に明けくれる──において、外部からの危機(否定)という虚構を介して観念される
「純潔無垢な共同体の価値」とは、まさに第五の誤謬推論が導き出す仮構である。……
以上を参照しながら、私は、(夢の推論のプロセスを誤謬推論の進行と類比的に捉えつつ)、五つの誤謬推論を──第四の誤謬推論(~=A)と第五
の誤謬推論(¬A=~)を一つ(¬A=A)に合成して──四つに集約し、これを帰納・演繹・洞察・生産の推論形式に対応させて考えました。
そして、誤謬推論(夢の推論)の起点にして終点でもある四つの「逆理」[*]──「内と外の往還」「裏と表の縫合」「一と多の連結」「無と有の
反転」──を導出したことがあります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第48章3節、ただしそこでは「逆理(パラドックス)」ではなく「アナロ
ジー」として考察した)。
判じ物めいた生硬かつ強引な記述になりますが、以下、その‘要点’のみ掲げます。
【帰納/A∧B】
virtual かつ real なフィールド(潜在)から actual かつ real
なフィールド(顕在)へと、“力”のはたらきを通じて立ち現われる、「部分がすなわち全体である」ような「A=内側からの視点(現実)でもB=外側からの
視点(虚構)でもないもの」が表現される。(内と外の往還)
【演繹/A∨B】
actual かつ imaginal なフィールド(表、浅い夢)が virtual かつ imaginal
なフィールド(裏、深い夢=無)へと落ち込み、「いま・ここ」という現実性が星雲状に分岐・増殖し無限に織り重なってネットワーク化していく。(裏と表の
縫合)
【洞察/A⇒B】
actual かつ real なフィールドと actual かつ imaginal
なフィールにあいわたる表層において、本来存在次元を異にするA=実像とB=虚像が「A→B」(見立て)と「A←B」(見顕し)の相互反転を繰り返しなが
ら深層における同一性(A=B)を回復する。(一と多の連結)
【生産/¬A=A】
virtual かつ imaginal なフィールドと virtual かつ real
なフィールドにあいわたる深層において“声”(死者=他者たちの記憶?)が共鳴し、「¬A=~」(有から無)と「~=A」(無から有)の逆方向のベクトル
があたかも二重螺旋のごとく絡まりあう。(無と有の反転)
以上述べたことに、かの四つの夢の体験フェーズを対応させ、これを図示しておきます。(たとえば「内と外の往還」が「虚構の現実化」となぜいか
にして結びつくのか、等々について充分な説明ができていないが、これらの難点についてはいずれ機会を見て、たとえば「文法的世界」をめぐる議論の
なかで解決することができればと思う。)
★帰納/A∧B :内と外の往還∽虚構の現実化/様相
★演繹/A∨B :裏と表の縫合∽時間の変容/相・時制
★洞察/A⇒B :一と多の連結∽自己の分裂/人称
★生産/¬A=A:無と有の反転∽他者への変身/態・法
《洞察》
【現】
γ ┃
←─╂─→
│ ┃ ↑α
《演繹》【虚】━┿━━╋━━┿━【実】《帰納》
β↓ ┃ │
←─╂─→
┃ δ
【空】
《生産》
【空】:virtual 【実】:real 【現】:actual 【虚】:imaginal
α:内と外の往還∽虚構の現実化 β:裏と表の縫合∽時間の変容
γ:一と多の連結∽自己の分裂 δ:無と有の反転∽他者への変身
[*]
清水高志氏は『今日のアニミズム』(奥野克巳氏との共著)において、「主体/対象」と「一/多」の二項対立に「内/外」という第三の対立を組み合わせた
「トライコトミー trichotomy」のアイデアを提唱し、これを古くから二元論の克服を課題としてきた東洋の思想的営為に関連づけた。
いわく、西欧の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾律(Aは非Aではない)による「二者択一
dilemma」が常套であったが、インドで発達した四句分別すなわち「テトラレンマ
tetralemma」では、①Aである、という命題に対して、②Aでない、という命題が立てられるのはギリシャでも同じだが、さらに、③Aでありかつ非
Aである、④Aでもなくかつ非Aでもない、という二つの命題が加えられる。(81頁)
第三レンマは二元論を相対的に否定しているに過ぎず、第一レンマでも第二レンマでもない第四レンマこそがまさしく二元論の絶対的否定である。
(82頁)
(第7節の註で取りあげた山内得立の『ロゴスとレンマ』は、第三レンマと第四レンマの位置を入れ替えていた。清水氏によると、第三レンマから第四
レンマへの移行こそがテトラレンマの議論においてもっとも本質的なのであり、山内得立による「この操作はむしろ致命的であったといわざるをえな
い」(95頁)。)
《トライコトミー trichotomy
論において、「主体/対象」、「一/多」といった複数の二項対立を組み合わせることによって最終的に見出されたのは、いたるところに中心と周縁があり、そ
れらがどこまでも可逆的な網の目状の世界、包摂(外)がまた被包摂(内)でもあるような拡張的モナドロジーの世界であった。《はじまり》も《終わ
り》もない無始無終の世界を考えるために、あえて状況論としての主客混淆の状態が「主体/対象」、「一/多」という二項対立によって考察され、ア
トミズム的な構成の方向づけが否定される必要があったのである。──そこにおいてようやく、無数の結節点を持つ網の目状の世界が、世界観そのもの
へと上向することとなり、一即多、多即一の世界が開現する。もっとも根源的なテトラレンマは無始無終であって、そこにおいて主客混淆の部分的状況
の繋縛から逃れた端的な主体もあり、対象──これはもちろん自然である──そのものもある。
この自然との出会い、繋縛を離れた自由な自己との遭遇が、アニミズムという宗教体験の意味するところである。(略)無始無終ということは、生命
と生命が捕食し、捕食される世界、人類とさまざまな非人類が目まぐるしくその立場を入れ替える、その意味で主客混淆の世界──仏教的にはこれは、
輪廻の世界でもあろう──にあっては、その繋縛からの離脱を通じて、自己と自然をともどもにふたたび肯定するための要請でもあった。(略)
このような立場から見るならば、「主体/客体」、「一/多」という二種類の二項対立が組み合わされた主客混淆の状況は、第三レンマまでをしか実
現していなかった。しかしそこを経由して、「内/外」(被包摂と包摂)という二項対立が連鎖的に調停されるようになると、それらの両極のいずれに
も一方的に還元されないというかたちで、無始無終の第四レンマが明確に実現し、先の三種の二項対立のいずれもについてそれが成立し、しかも第三レ
ンマまでとの対比で言えば、端的な主体や対象、端的な一と多(この場合、むしろ全)もこれによって明らかになったのである。》(『今日のアニミズ
ム』223-225頁)
私は清水氏の議論に強烈に惹かれているが、その実質をつかみきれていない。だから四つの「逆理」(テトラコトミー?)をめぐる本文の叙述に生か
すことができなかった。ただ、その議論の射程が夢の推論の世界に及び、かつ、それがおそらく旧石器時代の洞窟を舞台とする“はじまりの論理”や
“はじまりの哲学”に根ざしたものであることを教示してくれるスケールの大きいものであることは間違いないと思う。
【13】アブダクション─“推論”をめぐって(6)
純粋な〈夢〉の世界から《現実》の世界への“変容”を司る巨大で複雑な推論=伝導を成り立たせる四つの推論様式のうち、演繹、帰納に次ぐ第三の
洞察(アブダクション)[*1]と第四の生産(プロダクション)について、いま少し立ち入って見ておきたいと思います。
今回は「洞察」をめぐって、「生産」については次回以降、気になる話題を蒐集し、演繹、帰納、洞察、生産を統括する第五の「伝導」については、
それが稼働するフィールドをめぐる「伝導体」の議論のなかで、一括して扱うことにします。
※
『言語の本質──ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美)の第6章「子どもの言語習得2──アブダクション推論篇」に、演繹
推論と帰納推論とアブダクション(仮説形成)推論の判りやすい具体例が示されています[*2]。
<演繹>
①この袋の豆はすべて白い
②これらの豆はこの袋の豆である
③ゆえに、これらの豆は白い
<帰納>
①これらの豆はこの袋の豆である
②これらの豆は白い
③ゆえに、この袋の豆はすべて白い
<アブダクション>
①この袋の豆はすべて白い
②これらの豆は白い
③ゆえに、これらの豆はこの袋から取り出した豆である
アブダクション推論のもう一つの実例として、『言語の本質』は、ヘレン・ケラーの「water
事件」を取りあげています。「ヘレンは、手に水を浴びたときに、サリバン先生が綴った water
が、この冷たい液体の‘名前であると理解’した。これは、単純な洞察と思われるかもしれない。しかし、ヘレンはそこから「すべてのモノには名前があること
を理解した」と述べている。冷たい水を掌に感じ、同時に掌に綴りを感じたとき、彼女は、過去に遡及してこれまでの経験がみな「同じだった」ことを
理解したのである。そして、そこからさらにアブダクションを進め、「すべての対象、モノにも行為にもモノの性質や様子にも名前があるという洞察を
得たのである。」
続く第7章「ヒトと動物を分かつもの──推論と思考バイアス」では、アブダクション推論の進化的な起源が考察されます。以下、その要旨を箇条書
きのかたちで示します。
・「すべての対象には名前がある」という偉大な洞察の下には、「名前というのは、形式(ことばの音や文字)と対象の間の双方向の関係から成り立っ
ている」というもう一つの大事な(ヒトにのみ可能な)洞察が埋め込まれている。
・「対象X→記号A」の対応づけを学習したら、「記号A→対象X」の対応づけも同時に学習する。人間が言語を学ぶときに当然だと思われるこの想定
は、論理的には──「ペンギンならば鳥である」が正しくても「鳥ならばペンギンである」は正しくないように──過剰な一般化である。
・「XならばA」から「AならばX」を導く(過剰一般化する)ような、前提と結論をひっくり返してしまう推論を、心理学では「対称性推論」とい
う。それは、「英雄は色を好む。Xは色を好む。だから、Xは英雄である。」という推論や、症状から原因(病名)を遡及的に推論する診断などのアブ
ダクション推論と深い関係を持つ非論理的な推論である。
・言語の学習には、記号と対象の間の双方向的な関係性を理解し、「X→A」を「A→X」に一般化できることが必要である。ヒトはこのような対称性
推論を行っているが、ヒト以外の動物は行わない。これらの観察できる事実からアブダクション推論を行うと次のような仮説が得られる。
・すなわち、対称性推論をごく自然にするバイアスがヒトにはあるが、動物にはそれがなく、このことが、生物的な種として言語を持つか持たないかを
決定づけている。
・居住地を全世界に広げ、多様な場所に生息してきたヒトは、不確実な対象について予測し、未知の脅威に新しい知識で立ち向かう必要があった。その
ためには、たとえ非論理的で間違いを含む可能性があってもそれなりにうまく働くルールを新たに作るアブダクション推論を続けることは生存に欠かせ
ないものであり、アブダクション推論によって言語というコミュニケーションと思考の道具を得ることで、さまざまな文明を進化させてきたと言える。
[*1]アブダクション」を「洞察」と訳したことについての註。「哥とクオリア/ペルソナと哥」第11章第1節から。
……「洞観」や「洞見」でもいいのだが、本来は「洞窟的推察」とか「洞窟的【感察】」とすべきところを縮訳したもの。「洞窟的」は、たとえば西
郷信綱著『古代人と夢』の「洞窟信仰」をめぐる議論、等々に触発されて採用したもので、伊藤邦武著『パースの宇宙論』も、その議論の急所ともいう
べきところで、洞窟内の嗅覚や触覚の世界を通じて「無限に連続する質の世界である第一性の世界、偶然性の世界、潜在性の世界」をかいま見る、パー
スの思考実験をとりあげていた。
また、「【感察】」とは、「パース著作集(全3冊)」をとりあげた「千夜千冊
遊蕩篇」第千百八十二夜で、松岡正剛氏が、パースは感情ですらアブダクションの作用のなかに入っていると考えた、「アブダクションとは総合的な【推感編
集】なのだ」と書いていることに触発されて頭に浮かんだ、「【推感】的推察」や「【推感】的省察」や「【推感】的観察」を略して造語したもの。こ
の松岡氏の【編集工学】的考察は、古典和歌、とりわけ勅撰集の世界を考えるうえで、まことに示唆に富んでいる。いまその(思いつきの)一端を、説
明も論証も抜きにして、備忘録として書きとどめておく。
古今集は【アブダクション編集工学】をつかって、もしくはパースの「連続主義(シネキズム)」にもとづく三項関係的「類似」を原理に、万象と交
感しつつアブダクティブに【推感編集】された。しかし、新古今集はそうではなくて、ソシュール流の二項関係的「差異」の原理にもとづき、諸々の歌
をたばねる純粋に言語的な構築物として編集された。また、パースによって「アブダクション」が「レトロダクション」(遡及的推論)といいかえら
れ、そして松岡氏が「パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】」と書いていることを「合成」するならば、貫之が仮名序において歌の淵
源たる「やまとうた」へと遡及し、歌の本質を「人の心」へと遡及したことは、それ自体がひとつのアブダクションだったのであり、だからこそ、歌を
詠出することがひとつの「心」を創出することにつながっていったのではないか。 ……
[*2]『言語の本質』が「パースのアブダクションと帰納推論について明快かつ洞察に富む論考を展開している」と最大級の評価を与えた米盛裕二著
『アブダクション──仮説と発見の論理』(先月、今井むつみ氏の解説が付いた新装版が刊行された)に、パース自身によるアブダクションの推論の形
式とその例が紹介されている(54-55頁、『パースの記号論』196頁)。
<アブダクションの推論の形式>
驚くべき事実Cが観察される、
しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。
<アブダクションの推論の例>
(1)「わたくしはかつてトルコのある地方のある港町で船から降りて、わたくしが訪ねたいある家の方へ歩いていると、ひとりの人が馬に乗ってその
人のまわりには四人の騎手がその人の頭上を天蓋で蔽って、通って行くのに出会ったことがある。そこでわたくしは、これほど重んじられた人となる
と、この地方の知事のほかには考えられないので、その人はきっとこの地方の知事に違いないと推論した。これは一つの仮説である」。
(2)「化石が発見される。それはたとえば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、わ
れわれはこの一帯の陸地はかつて海であったに違いないと考える。これも一つの仮説である」。
(3)「無数の文書や遺跡がナポレオン・ボナパルトという名前の支配者に関連している。われわれはその人をみたことはないが、しかしかれは実在の
人であったと考えなければ、われわれはわれわれがみたもの、つまりすべてのそれらの文書や遺跡を説明することはできない。これも仮説である」。
【14】アブダクション─“推論”をめぐって(6・補遺)
アブダクションをめぐる個人的な書き付けを自己引用する。「哥とクオリア/ペルソナと哥」第17章第4節から。
……佐々木健一氏(『日本的感性──触覚とずらしの構造』)は、プルーストのテクスト(井上究一郎訳『スワン家のほうへ』第一部「コンブレー」
Ⅰ)のあらましを記し、さらに、「過去の情報は、過去の何物をも保存していない」、「過去は理知の領域のそと……何か思いがけない物質のなか
に……かくされている」、「古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわく
はあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上
に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ。回想の巨大な建築
を」と、その文章を引用したうえで、そこから「実在」と「匂い」という二つのことをとりだします。
《ここで語られているのは、確かに回想であり、視覚的な回想である。しかし、その回想を構成している「映像」を実質をもたない単なるイメージと思
うのは間違いだ。過去が「解体」し「崩壊」している、と言うとき、問題になっているのはその実在である。回想され、呼び戻されるのが「巨大な建
築」であるのは、それがこの実在の体系的な全体であるからである。事実、この回想は、注意の視線をそこに向けるだけで、そこにあるものが細部に至
るまでありありと知覚できるような一種の視覚体験である。ケルト人の信仰を引き合いに出し、右の引用文でも「魂」を語っているのは、これが物体で
はなく魂のような実在性に関わっていることを示唆しているように思われる。よく言われるように(ただし、それは「意識の流れ」についてであるよう
だが)、ベルクソンの思想との親近性をみとめることができる。実在をイメージと呼び、心像としてのそれを言わば劣化したイメージと看做した『物質
と記憶』は、このプルーストのテクストの注釈であるかのようにさえ思われる。》(『日本的感性』183-184)
(引用中断。同書の別の箇所から、ベルクソンに関連する話題をひとつ抜きだし、挿入します。貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴
くなり」を評して、俊恵が、「この歌ばかりおもかげある類はなし」、「限なく推し量らるゝ面影は、ほとほと定かに見んにも優れたるべし」(ありあ
りと思い浮かべることのできる面影は、殆ど実景の描写にも勝っている)と述べたことばに照らして、著者は、「「おもかげ」はそのまま「イマー
ジュ」と言い換えることができよう。歌論においては、この語によって歌意としての「心」とは区別された像の喚起力が考えられている」と論じていま
した。引用再開。)
《しかし、このイメージ=実在は物質のなかに受肉して存在している(それが「ケルト人の信仰」である)。この物質を捉えて、そこに閉じ込められた
実在を解放するための接点を構成するのが、(紅茶に浸したマドレーヌの)「匂と味」である。それはこの物質のなかに隠れた実在が、いわば地表に発
芽させた小さな目印の如くだ。ここに、実在に関するダブル・スタンダードをみとめることができる。一方で、実在はあくまで鮮烈な視覚的イメージと
してある。しかし、他方において、われわれの経験のうえでは、「匂と味」が実在そのものではないにもせよ、少なくともその触手のような性格のもの
として考えられている。確かに、実在とは叔母の部屋、町の鐘楼、水中花等々、目に見えるかたちをもった物体だ。しかし、それがわたしの経験に触れ
るのは、「匂と味」を介してであり、言い換えれば物体というよりも物質としてなのである。物質は下級感覚に固有の官能性を刺激して、生きた現実感
を与える(マドレーヌの「豊満な肉感」)。他所ではただ「味」を語っているプルーストが、ここでは「匂と味」と言っているのは示唆的だ。官能的実
在として味と匂いは不可分のものであろうし、また、匂いには、霊的なものへと通じる香気があるからに相違ない。
このプルースト的時間体験を参照項として、日本的感性の想起体験とその時間感覚とを考えよう。うたの世界に味覚は無縁である。うたに食べ物の味
を詠み込むことを想像してみると、それはほとんど俳諧である。花の香がエーテル的であるのに引き換え、食べ物の味には生存に連なる動物性が感じら
れる。マドレーヌに「私」のみとめた「肉感」は、この菓子がたっぷり含むバターを介して、獣の匂いを漂わせる。梅や花橘のエーテル的な香は、衣服
に染みつき、心に粘着して残るが、残るがゆえに、ときの移ろいを思わせずにはいない。》(『日本的感性』184-185頁
以下、「ときの変化を映しだすものとしての梅の香」をめぐる歌の作例、とどまるものとしての香とすぎゆく時の連想を詠んだ「むめがか[梅が香]
を袖にうつしてとどめてば春はすぐともかたみならまし」(古今集・よみ人しらず)から、俊成女の「橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞ
する」(新古今集)までを概観し、最後に、俊成女の歌と同趣でありながら発想を転倒させた、式子[しょくし]内親王の「帰りこぬ昔をいまと思ひね
の夢の枕ににほふたち花」(同)をとりあげます。
《普通は、花の香に誘われて往時を連想するのだが、昔を思いつつ寝たところ、枕辺に花橘の香[男の香]が立った、というのである。香りが連想を誘
うという関係は、プルーストにおける過去を蘇生させる糸口としての味=匂という考えにも見られたことで、自然なものである。しかし、ここに至って
花の香と昔は第二次の連合を形成し、等価なものとなる。香そのものが過去の実体であるかのごとくだ。その「春の夢」には、過去の情景の視覚的な想
起が含まれているかもしれない。しかし、うたから読みとることのできるのは、官能性の雰囲気だけである。それが過去の経験の実体だ、と考えてみる
こともできよう。香りそのものと同様に、ひとの生きた時間もエーテル化している。実在に至るプルーストの想起とは著しく異なるものがそこにあ
る。》(『日本的感性』187-188頁)
文中の「ここに至って花の香と昔は第二次の連合を形成し、等価なものとなる」は、第一次の連合である「香⇒昔」(橘のにほふあたりのうたたねは
夢も昔の袖の香ぞする)に、この関係式の「香」と「昔」の位置を転倒させた第二次の連合「昔⇒香」(帰りこぬ昔をいまと思ひねの夢の枕ににほふた
ち花)が加わり、この二つの関係式が合成されて「香=昔」(香そのものが過去の実体である)が成り立つ、と定式化することができるでしょう。
この「日本的感性の想起体験とその時間感覚」と対をなすプルースト的感性のもとでのそれは、とりあえず、「匂・味⇒過去の視覚的蘇生」の関係式
で示すことができます。しかし、ここで、においや香を介して視覚的に蘇生されるのは、(夢のなかにあらわれるイメージのような)「実質をもたない
単なるイメージ」ではなく、ベルクソンがいう意味での「イマージュ」(=実在)だというのですから、この関係式は、正しくは「匂・香⇒(過去の)
実在の回復」となるでしょう。
ちなみに、先の、「香⇒昔」かつ「昔⇒香」すなわち「香=昔」の図式は、正しくは、「(今の)香⇒昔(の香)」かつ「(実在としての)昔⇒(昔
の)香の蘇生」から「(今の)香=(実在としての)昔」を導く夢の推論(「A⇒B」かつ「C⇒B」ゆえに「A=C」という誤謬推論、あるいは、
「誰かが私のことを想うとき、その誰かは私の夢にあらわれる。ところで、今、私の夢のなかに誰かがあらわれた。そうすると、その誰かは私のことを
想っているに違いない。」といったアブダクションの推論)にもとづくものなのであって、ここから、過去と現在、はては未来までもがエーテル状の
「香」のうちに溶けあい、そうして、「実在」もろとも移ろっていくことになるわけですから、これは、プルースト的な「実在の回復」とは決定的に異
なる体験をもたらします。
(実在は、物質のなかに受肉し、閉じ込められている鮮烈な視覚的イメージと、そのような、物質のなかに隠された物体(としての実在)の目印・触手
として、私たちの経験に触れ、官能性を刺激して、生きた現実感を与える「匂と味」とに二重化されている。この佐々木氏の叙述を、ベルクソン的語彙
を使って強引に単純化すると、実在には「記憶」と「物質」の二つのものがある、となるかもしれません。さらに、プルースト的な「実在の回復」体験
は「記憶の物質化」もしくは「想起体験の知覚体験化」と、また、日本的感性における「過去のエーテル化」もしくはエーテル化した時間体験は「物質
の記憶化」もしくは「知覚体験の想起体験化」と、それぞれ単純化できるのかもしれません。ただし、このあたりのことは、まさに夢の推論のなせる議
論でしかありません。)
日本的感性の世界にあっては、「香」という、官能性の雰囲気だけをもったエーテル的なものと「昔」が等価物となる。つまり、「過去の経験の実
体」が、また「ひとの生きた時間」が、あるいは「生きた現実感」が、(そして、もしそういってよければ、現在や未来を含めた「時間」や「クオリ
ア」や「実在」をめぐる体験もまた)、質量零のエーテル状のものと化し、自在に移動し、ずらされ、重ね合わされていく。
ここで私の脳裏をよぎるのが、貫之の辞世の歌「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」に詠まれた「あるかなきか」の詩句で
あり、また、かの「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき」の歌が醸し出す透明な寂寥感であり、さらには、「千代経たる松には
あれど古の声の寒さはかはらざりけり 」のうちに聴き取られる「いにしへの声」の「寒さ」です。……
【15】プロダクション─“推論”をめぐって(7)
第四の推論様式である「生産」について、いまのところ私は、「プロダクションとは、たとえば、芸術に関する理論や理念について多くを語るより作
品一つ創ってみせる、あるいは、生命誕生の機序を云々するより人工生命を現に造ってみせる、もう一つ例を挙げると、天地創造は神の思惟=推論の具
現である、といったかたちで遂行される推論のこと」(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第7章第4節)という、きわめて雑駁な定義しか持ち合わせて
いません。
本稿第1節では、「あらかじめ設計・直観・想像され夢みられたものを生み出す推論」(「仮面的世界」第31節からの援用)と、やや限定的な言い
方をしましたが、それは、「伝導」に与えた定義──「前後の世界の連続性が断ち切られるほど奇跡的な出来事(無からの創造)」──との違いを際立
たせるためであって、基本的なアイデアに変わりはありません。(私の脳内では、アブダクションとプロダクションとコンダクションの三つの“創造
的”な推論様式が、分化しきれないままま絡まっている。)
このことに関連して、その後の“知見”をひとつ追補しておきます[*]。「仮面的世界」(第31節の註2)で、広狭二義の仮面記号に対応する比
喩形象と推論様式に対して、私は次のような論理詞表現を与えました。「あらかじめ夢見られたものの具現化」と「無から有の創造」との違いを、
「¬A=A」と「¬A⇒A」の書き分けによって表現したものです(うまく表現できているかどうかは別として)。
【狭義の仮面記号(マスク)】
:逆喩(オクシモロン) :生産(プロダクション):¬A=A
【広義の仮面記号(アレゴリー)】
:寓喩・反語(アイロニー):伝導(コンダクション):¬A⇒A
さて、これで終わったのでは“尺が足りない”ので、ここで、淺沼圭司氏の『映ろひと戯れ──定家を読む』と『制作について──模倣、表現、そし
て引用』の議論を取りあげたいと思います。そこで論じられている「引用」という芸術制作の技法が、私が考想している「生産」の概念にとても近しい
と感じるからです。
以下は、「哥とクオリア/ペルソナと哥」からの自己引用です。前段は第13章第7節から、後段は第58章第5節からの抜き書き。
……淺沼氏は、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」をめぐって、次のように書いています。いわく、この歌は、
「見わたす」主体と「見わたされる」対象(客体)の対立と緊張関係をその根柢にもっている。しかし、「見わたされる」対象は現実の光景ではなく、
「花」「紅葉」「浦」「苫屋」「秋」「夕暮」という、「歌語の体系」あるいは「感性的言語の体系」とでもいうべきものから選び取られ、配列された
語によってかたちづくられた(現し出された)、独自の感性的性質ないし「イメージ」にほかならず、また、「見わたす」主体は、現実的状況のなかで
悩み、苦しみ、不満をもらす現実的存在なのではなく、美的世界でのみ生きることを選択した歌人(美的実存)であるとみなすことも、たしかに可能だ
ろう。
ここに出てくる二つの項、すなわち、芸術制作にかかわる「対象」と「主体」について、淺沼氏は、制作において対象的契機が主体的契機に優越する
場合を「模倣」と、対象的契機と主体的契機が同等の立場で緊張関係を形成する場合を「表現」と、そして主体的契機が対象的契機に優越する場合を
「表出」と捉えたうえで、そこに第三の項としての「媒体」(もしくは「質料」、「材料(マティエール)」)を導入し、媒体的契機の(他の二つの契
機にたいする)優越をめざす「もうひとつの制作」の可能性(「具体的には、視覚的性質──線、形態、色彩──そのものにたいする反省と、その特性
の探究を目的とする絵画的制作、あるいは言語にたいする反省と、そのものとしての言語の実現──たとえば、日常的使用のなかで覆いかくされた言語
本来のすがたの開示──をくわだてる詩的制作、など」)を考察し、そのような制作のあり方に「引用」の名を与えます。
《定家の歌が、イメージによるイメージとして、ある種の自己言及性を、そしてメタ・イメージ(メタ言語)的な性質をもっており、通念的な「対象─
主体」関係がそこでゆらいでいることは明らかであった。定家が、その歌と歌論の双方において、「本歌取」の技法にたいしてもっとも自覚的であった
ことは、おそらく否定しえない。そして「本歌取」は、既存の「歌語の体系」──歌の総体──から特定の「詞」(語ないし句)を任意に選択し、切り
取り、それらの「詞」を任意に配列することによって、あたらしい統一的なコンテクストを形成することにほかならず、その点で「引用」として捉えら
れるものであった。短絡的に結論を急ぐことは避けなければならないが、通念的な──「対象─主体」関係を根柢においた──制作の枠組内のもろもろ
の技法のひとつとしての引用ではなく、その枠組を逸脱した、もうひとつの制作そのものとしての「引用」が存在すると考えることには、相応の根拠が
あるのではないだろうか。対象的契機と主体的契機のいずれかにたいして、あるいはその双方にたいして、媒体(マティエール)の透明化をくわだてる
制作(技法)とは別の、対象的契機と主体的契機のいずれをも可能なかぎり媒体的契機の背後に消滅させることをくわだてるもうひとつの制作(技法)
としての「引用」。》(『映ろひと戯れ』200-201頁)
私は、淺沼氏がいう「主体/対象/媒体」を、パース記号論の「記号(レプリゼンタメン)/対象/解釈項」に、より根柢的には、パース現象学の
「第一次性/第二次性/第三次性」(パース三体)に、(さらには、丸山圭三郎氏が『言葉と無意識』で、「欲動/深層のパトス/表層のロゴス」にな
ぞらえたラカン三体に、ひいては、貫之の「よろづ/人のこころ/ことのは」もしくは「物/心/詞」に)、それぞれ関連づけて考えることで、(狭義
の)貫之現象学の世界を読み解いていく手がかりをうることができはしまいかと考えています。
そして、淺沼氏の三項関係のうちの第三のものである「媒体」を、ベンヤミンの「媒質」(としての言語)の概念に関連づけ、そこに、「神」もしく
は「絶対的なもの」の方へ向かう垂直次元の運動を導入すことで、淺沼氏が提示した「表出」「表現」「模倣」「引用」という芸術制作の四つの技法の
位置関係を見きわめることができはしまいか、(それはおそらく、「空虚な器」としての歌体がもつ「運動的図式」をあらわすもの、たとえば、「物」
「心」「詞」「姿」の四つの項からなる「哥の伝導体」のごときものになっていくのではないか)、さらに、俊成、定家を包摂した(広義の)貫之現象
学の世界を解明する手がかりをうることができはしまいかと考えているのです。……
……表現、表出、模倣、引用という四つの制作技法のうち、媒体的契機が優越する「引用」をめぐって、淺沼氏は、『制作について──模倣、表現、
そして引用』の第四章「表現の解体あるいは引用への道筋」で、「その統一の根拠を媒体そのものにもつ作品とは、いったいどのようなものなのだろう
か、あるいはむしろ、そのような作品は実際に存在可能なのだろうか」(269頁)と問いを立て、(そして、モネ晩年の作品、たとえばオランジェリ
美術館蔵の「睡蓮」の連作やマルモッタン美術館所蔵の「睡蓮」連作のためのスケッチなどに予告的に示され、あるいは萌芽としてふくまれていた「表
現の自己解体とそのあとに絵画がたどるだろう道筋」(281頁)について検討し、音楽や文学(小説)といった他の領域についても敷衍したあと
で)、次のように括っています。
《[表現解体の]「はて」における各領域の制作のありかたは、きわめて多様であり、ひとつの枠でくくることはできないが、それらに共通するものと
して、既存のものごとを、それにたいするなんらかの操作によって、べつのものごとに変換すること、一言でいえばひろい意味での「引用」をあげるこ
とができるのではないだろうか。そして、そのことからいえば、表現の解体にいたる道筋とは、「引用」に通じる道筋だったのかもしれない。ところ
で、「引用」と密接に関連するものとして、ヴァルター・ベンヤミンのいう「展示価値」(der
Ausstellungswert)をあげることができるだろう。なぜなら、「展示」とは、既存の対象(作品)を、それがおかれている脈絡──聖域として
の本来の場──から切りはなし、まったくべつの脈絡──ひらかれた場──におくことによって、あらたな対象に転化すること──あらたな価値を付与
すること──にほかならず、その点であきらかに「引用」に通じるのだから。》(『制作について』340-341頁)
ここで言われる「広い意味での「引用」」に通じる「展示」をめぐって、淺沼氏は「ベンヤミン小論──理論史の観点から」(山田幸平編著『現代映
画思想論の行方』所収)で、次のように論じています。
いわく、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」(淺沼訳による読みくだしでは「芸術作品を機械技術的な手段によって複製することが可能な時代
においては、芸術作品そのものはどのようなありかたをするのか」)において、「展示価値」を「礼拝価値」ないし「アウラ」と対置していること、ま
た、アウラ的な芸術作品が「起源的なものの感覚へのあらわれ」として、「エイコーン」としてとらえられるのに対して、「なんらかの材料の主観によ
る形成によって生じ、主観にたいしてあたえられる形象」であり「純粋な表面」である複製は「パンタスマ」としてとらえられるべきである。
またいわく、ソシュールが「語において重要なのは、音そのものではなく、語を他の語から区別することを可能にする音声上の差異である」云々と述
べたように、「複製=パンタスマの価値とは、「展示」による相互的な差異化によって顕在化した感性的性質であり、その差異に根拠をもつ意味作用に
ほかならないだろう」(15頁)。
《「展示」は、起源からの切り離しであり、切り離されたもの(断片)の任意の配列にほかならないのだから、あきらかに「引用」としてとらえられる
だろう──ベンヤミン自身も「引用の根拠には切断(das
Unterbrechen)がある」と述べている。断片は、それを超えたもの──起源的なもの──によってその位置をあらかじめ定められてはいないのだか
ら、ひたすら相互に戯れるだけであり、その戯れによって織りなされたものは「テクスト」としてとらえられるだろう。映画──複製技術による制作
──の所産、「アウラ」を失った芸術作品とは、「テクスト」にほかならない。ベンヤミンは、「アウラ」の否定と「展示(引用)」による「作品」か
ら「テクスト」への転換に、ダダイズムと映画の共通性をみたのではないだろうか。》(『現代映画思想論の行方』18頁)……
[*]いま一つ付け加える。以下は、永井晋氏の論考「未来の現象学──受肉からマンダラ」(『未来哲学別冊 哲学の未来/未知なる哲学』所収)か
ら、ミシェル・アンリの「非志向的な生の現象学」をめぐる一節を切り出したもの。ここで「生の本質は自己産出である」と言われていることが、「プ
ロダクション」なる推論様式について考えるうえで決定的に重要なヒントになるのではないか。
《志向性は意識として原印象に対してその外から。つまりそれが原的に与えられた‘後で’、それを綜合・統一するという形でしか関わり得ない。その
深い理由は、過去把持(志向性、意識)は現象の「形式」であり、それゆえその「内容」とみなされた原印象を自ら「‘生む’」‘ことができない’か
らである。アンリが彼の時間分析の決定的な箇所で強調しているように、形式と内容は「見ること」をモデルとしたギリシャ哲学に由来する概念であ
り、それらは相互に外的で、形式が内容を生む、あるいは創造することはできない。過去把持の外からの介入を全て断ち切って原印象そのものに、とい
うよりもむしろ原印象を通して生そのものに直接、つまりその内部から接近できるのは生だけであり、それは‘生が生自身を生むこと’によってなので
ある。それが、志向性では生に決して接近できない深い理由である。》(『未来哲学別冊』65頁)
【16】伝導の現象─“伝導体”をめぐって(1)
伝導もしくは伝導体という概念をはじめて“使った”のは、いまから20年以上前、「キルケゴールの伝導体」という文章を書いたときのことでし
た。(このエッセイは、「冬弓舎」──内田樹『ためらいの倫理学』や清水高志『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』などを刊行し
た京都のひとり出版社、社主・内浦亨氏の事故死により活動停止──から出ていた中山元編集のムック『ポリロゴス2』に掲載された。その草稿はホー
ムページの「補遺と余録」に収録している[https://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU
/31.html]。)
この論考で、私は次のように書きました。
「私が伝導(体)について思いをめぐらせるようになったのは富岡幸一郎氏のカール・バルト論『使徒的人間』を読んでいて、バルトが、そしてキルケ
ゴールが叙述する使徒の行い(報道)をベンヤミンの「翻訳者の使命」と関連づけて考えることができはしまいかとふと気づいてからのことだ。」
バルトによると、「使徒」とは「空洞を露呈する人間」であり、イエスに啓示された神の意志を、何も手を加えず後代へ伝えてゆく者のこと。その行
いを特徴づける「引き渡し」という語は、ベンヤミンが翻訳の根源的要素であるとした逐語性に通じています。
「こうした使徒の行いと翻訳者の使命が等号で結ばれるフィールドにおいて、媒介ならざる媒介として超越と内在の相互繰り込みの作用を営むもののこ
とを私は伝導体(あたかも虚数と無限大の屈折率をあわせもち、光を全反射すると同時に閉じ込めてしまう固体プラズマのような?)と名づけ、キルケ
ゴールの思索に、そして文学の営みに一瞥をあたえながらその実質を粗描してみたいと考えている。」
かくして、伝導(体)という推論の営みが、キルケゴールの「間接的伝達」や「実験」、そして「反復」(=前方へ向かう追憶──本来の意味におけ
る「編集」と言い換えていいかもしれない)へとつながっていったわけです。とりわけ「反復(編集)」は、プロダクションにおける「引用(展示)」
の、コンダクションにおけるその“発展形”とも言えるものだと思っています。
柄谷行人著『探究Ⅱ』に次の記述があります。
《たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの反復にかんして、「反復は、単独なものの普遍性であり、
特殊なものの一般性としての一般性と対立する」といっている(『差異と反復』)。つまり、彼は特殊性
(個)ー一般性(類)の対と、単独性ー普遍性の対を対立させている(図参照)。だが、すでに明らかなように、
これはスピノザが概念と観念を区別したのとほとんど同じことである。(略)
ドゥルーズは、特殊性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は、直接的(非媒介的)だという。このこ
とは、スピノザの神の観念についていえる。それは「直接知」である。というのは、彼にとって「無限のなかで私は思いつつ在る」ことは、何ら証明
(媒介)を必要としないし、証明すべき事柄ではないからだ。
スピノザに「反復」の主題を読みうるとしたら、それは、自己原因的・能産的な自然(神)という考えにおいてだろう。そこに、「自然そのものにお
ける真の反復」(『差異と反復』)という考えが見出される。》(『探究Ⅱ』(講談社学術文庫)150-151頁)
<観 念>
:
普遍性
∧ ┃
概 ┃
:一般性 ━━━━╋━━━━ 特殊性
念 ┃
∨ ┃
単独性
柄谷氏の図は、私が想定している伝導体の構図(本稿第11節参照)にオーバーラップします。このこと(伝導体の構図)については、次回、主題的
に取りあげます。
ここでは、プロダクションにおける「引用(展示)」とコンダクションにおける「反復(編集)」が、内包や事象内容にかかわるリアリティの水平軸
上にではなく、無内包の現実性にかかわるアクチュアリティの垂直軸上に位置づけられるものであることを確認するにとどめ、以下、伝導(体)という
現象をめぐる“考想”と“素材”を(再掲を含めて)いくつか、未精錬・未編集のまま、箇条書きのかたちで“展示”しておきます。
■表層の伝導/深層の伝導
以下は「哥」とクオリア/ペルソナと哥」第11章第1・2節及び第48章第3節の議論を再整理したもの。
・伝導現象(伝導という推論の運動)は、表象と連鎖という二つのエレメント──推論の対象もしくは素材を特定すること(表象=対象・素材)と、そ
れらの対象や素材が相互に関係を取り結んでいくプロセス(連鎖=関係・プロセス)──に分解することができる。(佐々木健一著『日本的感性』の
“部立て”に倣って、「表象=語彙(要素的なもの)」「連鎖=文法(複合的な関係性)」と言い換えてもいい。)
・表象と連鎖には、それぞれ深浅にわたる二つの相がある。
表象は表現と表出の二つの作用に区分することができる。丸山圭三郎(『言葉と無意識』)の言葉を借りると、表現とは深層の下意識における抑圧さ
れたパトスの解放とその表層におけるロゴス化、つまり「すでに在るもの」の記号化のこと。この意味での表現にはカタルシス(浄化)が伴う。
これに対して、表出とは(表層意識はもとより下意識や潜意識といった深層意識をも欠いた、字義どおりの)無意識の解放もしくは連続体としてのカ
オスの非連続化(言分け)をもたらす根源的な働き、すなわち「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)のこと。この意味での表出は享楽もたら
す。
・連鎖についてもこれとパラレルな二つの区分を考えることができる。
表現と対になるのは、丸山氏がいうところの「等質的・同位相下の変換」や「隣接する位相間の移動」に相当するもので、水平的な伝達(もしくは模
倣)のプロセスのこと。
表出と対になるのが、同様に「異レヴェル間の生成変化へと拓かれる変態」にあたるもので、狭義の伝導あるいは垂直的な反復(もしくは引用)のプ
ロセスのこと。
(ここでいう反復は、『夢分析』のなかで新宮一成氏が、「初めての夢という名に値する夢があるとしたら、それは、自己が自己の現実を言葉によって
初めてとらえたときの驚きを含む夢のことである。この驚きを再現しようとすることが、我々が夢を語り合うことの最も深い動機である以上、その夢が
たとえ今朝見られたのであっても、それはやはり初めての夢と呼ばれるのにふさわしいのである。」と書いている、その「初めての夢」の再現に、すな
わち、一回性をもった出来事を何度でも初めて「今、ここ」で経験することに相当する。)
・以上を整理すると次のようになる。
表象(表層)=「表現」:「すでに在るもの」の記号化(浄化)
表象(深層)=「表出」:「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)
連鎖(表層)=「伝達」(模倣):同位相下の変換、隣接位相間の移動
連鎖(深層)=「反復」(引用):異なるレヴェル間の生成変化(変態)
■ベルクソンの伝導体(conducteur)
杉山直樹訳『物質と記憶』(講談社学術文庫)から。
《…私の神経系は、私の身体に振動を与える諸対象と、私から影響を与えることもできる諸対象のあいだにあって、単なる【伝導体】として運動を伝え
たり分配したり抑止したりする役割を果たしている。この【伝導体】は、抹消から中枢へ、また中枢から抹消へと張りめぐらされた膨大な数の糸で構成
されている。(以下、略)》(『物質と記憶』第一章、【 】は引用者による強調)
《…身体は、それに作用してくる諸対象と身体の側が影響を加える諸対象のあいだにあって一つの【伝導体】にすぎず、その役割は、さまざまな運動を
周囲から取り集めること、そして特に引きとめない場合には、それらを何らかの運動機構、すなわち爻が反射的である場合にはすでに決まった機構に、
意志的である場合には選択された機構に伝達していくことである。(以下、略)》(『物質と記憶』第二章)
《…われわれは身体について、それは未来と現在のあいだの動く境界であり、われわれの過去が絶えずわれわれの未来へと推し進めている動的尖端だ、
ということができる。一瞬間において考察されれば、私の身体は、それに影響する諸対象と身体の側が作用を与える諸対象とのあいだの【伝導体】でし
かないのだが、一転して流れる時間のうちに置き直されてみれば、それは常に、私の過去がある‘行為’へと消え行っていくまさにその点に位置してい
る。(以下、略)》(『物質と記憶』第二章)
《【伝導体】は至る所に見て取られるが、中枢はどこにも存在していないのが分かるはずだ。端と端を合わせるように配置された神経線維、流れが通過
する場合にはおそらく相互に接近し合う末端をもった繊維、目に目るのはこれですべてである。(以下、略)》(『物質と記憶』第三章)
■聖霊のはたらき/言語という仕組み
伝導とは聖霊のはたらき(神の自己伝達作用)であり、言語(という伝導体)はこのアクチュアルな“はたらき”を概念化(一般化・内包化)する。
《このように、神は世界と人がそのなかに置かれる「場」、世界と人は神のはたらきを宿して現実化する「場所」である。世界のなかではたらく神は
「ロゴス」…、人のなかではたらく神は「キリスト」と呼ばれ、それぞれが神との作用的一をなす。「神の作用の場」は、すなわち世界に遍満する「聖
霊」の場である。聖霊とは〈はたらく神〉を、神のはたらきとして、世界と人間に宿らせる作用、つまり神の自己伝達作用だからである。またその結果
として、人間に宿った神のはたらきは「キリスト」といわれる。すると神、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のな
かではたらく神)は三にして一だということになる。神は、はたらきの根源(究極の主体)、聖霊は、はたらきの伝達作用、キリストは、その結果人の
なかに宿る神だからである。三位は、はたらきとして一で、はたらき方として三である。さらに「愛」は、神のはたらきと人のはたらきとの一(作用的
一)…である。(以下、略)》(八木誠一『〈はたらく神〉の神学』45-46頁)
《言語とは、何かを伝えようとする側とそれが伝わる側とのあいだに、どちら側から見ても同一の事柄があるという前提のもとで(それを伝達するとい
う仕方で)初めて成立する伝達の方法だ…。すなわち、それは、一つの客観的世界というものがあって、すべてがその一つの共通世界に収まるという前
提のもとで成立する仕組みなのであって、逆にいえば、その仕組みこそがそのわれわれの世界をはじめて創り出している、ともいえる。》(永井均『独
在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3』75頁)
《…「私」や「今」という語には、伝えようとする側と伝わる側とのあいだに、もともとは無い…「同一の事柄」を作り出す仕組みが内在しており、そ
れが双方を一つの客観的世界の内に収めることになるのだ。われわれはみなすでにしてその仕組みの下僕である。》(『哲学探究3』75-76頁)
【17】伝導体の構図─“伝導体”をめぐって(2)
伝導体の理論の基本構図は、「虚(イマジナルなもの)/実(リアルなもの)」の水平軸──実在性(リアリティ)の軸、すなわち「異界的・想像的
(imaginal)」なイマージュと「物(res)」の世界──と「空(ヴァーチュアルなもの)/現(アクチュアルなもの)」の垂直軸──現実
性(アクチュアリティ)の軸、すなわち純粋な「力(virtus)」と「行為(actus)」の界域・場──との直交によって示される四つの象限
から成る世界として描出されます[*1]。
【現】
actual
┃
Ⅱ ┃ Ⅰ
【虚】━━━━╋━━━━【実】
imaginal Ⅲ ┃ Ⅳ real
┃
virtual
【空】
■伝導体、空虚な器としての
独在的存在としての〈私〉をめぐる決して伝わらない問題が伝達され、理解される高次の推論のプロセス(伝導)をめぐる本稿第4節の議論から。
・伝導体は、それ自身のうちに世界(森羅万象)を含んだ空虚な器である。
・伝導体が伝導するのは、無内包の現実性(例:独在的存在)である。
・伝導体は自らを一般化・抽象化・概念化することによって、決して伝わらない問題であることそれ自体を含めてその構造そのものを伝える。
┌─┐ ┌─┐
α │a│ │a│ α
→ │ │ ⇒ │ │ →
概念化 │ │ 伝 達 │ │ 理 解
(X) │A│ │A│ (X)
└─┘ └─┘
※α=個物 X=普遍 a=特殊 A=一般
■夢、純粋伝導体としての
夢という純粋伝導体をめぐる本稿第11節の議論から(再掲)。
・夢現象(夢体験)で肝心なのは、その内容、意味、理由ではなく、その形式と構造、夢の構成要素や夢同士の相互の関係性である。すなわち、夢は伝
導体である。
・夢において伝導されるのは伝導現象それ自体である。伝導されるのは、内容や意味や理由にかかわるリアルな事象(実在性の世界における)ではなく
て、たとえば色彩、音声など、井筒俊彦が「コトバ」と呼んだものが織りなすリズムや韻律、等々の形式・構造・関係性そのもの(現実性の世界におけ
る)のアクチュアルな出現それ自体である。そういう意味で、夢は純粋伝導体である。
・世界があらかじめ夢見られている(ガストン・バシュラール)として、夢見られているのは物質的な世界そのものではなく、リアルな物質世界(実在
性の世界における映像)がそこにおいて現象する世界のあり様(現実性の世界における光源)である。
・映画が「夢の引用」(武満徹)であるとして、そこで引用されるのは個々の「シーン」であるよりも、それらのシーンをもたらす「パースペクティ
ヴ」なのである。つまり、「夢のパースペクティヴの引用」としての映画の実質は、異なるパースペクティブのもとで現象する個々のシーン群を「モン
タージュ」し、そしてそうすることによって、(語り得ず、見えないが)アクチュアルなパースペクティヴ群を「モンタージュ」することである。
・夢の推論(伝導)を成り立たせるのは、帰納・演繹・洞察・生産の四つの推論だが、このうち、様々な現象(事物事象)を一般化・概念化する帰納
と、(諸現象を外延として含む)一般概念の相互包摂関係に基づく演繹がリアリティの水平軸に、諸現象やその集合(概念)に直接かかわらない、むし
ろ諸現象やその集合(概念)を世に現わす“力”の作用である洞察と生産はアクチュアリティの垂直軸に、それぞれかかわる。
・かくして、「演繹-帰納」のリアリティの軸と、「生産/洞察」のアクチュアリティの軸の直交によって、伝導すなわち(〈夢〉から「現実」への)
変容=推論フィールドの構図が描かれ、そこに出現した四つの象限に、「時間の変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という四つの
体験フェーズが位置づけられることになった。
■伝導体の三つの特質
「仮面的世界」第31節から(再掲)。
・伝導体という概念で私が想定しているのは、たとえば時空、たとえば身体、たとえば物語といった、物(身体)の領域と言語(精神)の領域、マテリ
アルな界域とメタフィジカル(メタフォリカル)な界域、あるいは液体と固体、父と子、生と死といった異なる世界を「通態的
(trajective)」(オギュスタン・ベルク『風土の日本』)に結合するメカニズムを体現する装置である。
・私が構想している伝導体には、動態性と創造性と推論性という三つの特質がある。
狭義の仮面記号である「マスク」が他の記号との関係性のうちに静的に位置づけられていたのに対して、広義の仮面記号(アレゴリー=伝導体)はそ
のような制約を受けず、自在にダイナミックに稼働する。それはアイロニーの論理詞表現「¬A⇒A」が示す運動性を基礎としている。
・この運動性、動態性がもたらすのが、物質的なもの(見えるもの)であれ非物質的なもの(見えないもの、たとえばクオリア、心、観念、等々)であ
れ、あるいはそれらのハイブリットであれ、およそこれまで存在しなかったもの、考えられなかった新奇のものの発生、創設、流出、創造の出来事であ
る。何かが何かとして存在する、そのような出来事が成立する場そのものを産出すると言ってもいい。
・物やイメージ、型、振る舞い、言語、意味、概念といった諸々の要素が伝導体の内部を伝わっていくプロセス──としての推論。それは、概念操作ま
たは言語活動としての(狭義の)推論のことだけではなくて、時空構造を織り込んだ物質世界(宇宙)や生物の進化、精神世界における(言語以前の、
もしくは言語の外における)観念の運動、はては、神の存在の直観、あるいは、永井均氏の「独在性の〈私〉」の実在をめぐるメタフィジカルな論証、
等々を含めた、およそ物質と生命と精神と意識、つまり森羅万象および森羅万象を超出する世界の存在者の運動全般をつかさどる理法(ロゴス)のよう
なもののことである(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第7章)。
■伝導体、地球ゴマとしての
「仮面的世界」第30・35節から(再掲)
・伝導体(広義の仮面記号=アレゴリー)の基本構図は、そこに内蔵された円盤(狭義の仮面記号の世界「インデックス/イコン/シンボル/マス
ク」)が高速回転することによって存立する「地球ゴマ」に喩えることができる。そこにおいて稼働する記号過程の特質を示す語は「アイロニー」にほ
かならない。
・円盤の回転を通じて、その外殻である「アレゴリー」(伝導体)が重力に逆らって直立する。この無限のプロセスを通じて、「実なるもの」の極限と
しての「イコン」が純粋な「アクチュアリティ」へ、「虚なるもの」の極限としての「マスク」が純粋な「ヴァーチュアリティ」へと存在次元の転換を
果たすこと──永井(均)哲学のキーワードを使って表現すれば、「実在性(リアリティ)」から「現実性(アクチュアリティ)」への(「受肉」の逆
過程というあり得ない)飛躍、すなわちキェルケゴール的な実存論的飛躍を果たすこと──、その(伝導の)運動そのものを「アイロニー」の名で呼ん
でみようということである[*2]。
[*1]図を少し変形し左方に45度回転させて、そこに四つの推論様式を落としこむと、伝導がはたらくフィールドを得る。
【現・実】
┃
β ┃ α
【現・虚】━━━━╋━━━━【空・実】
δ ┃ γ
┃
【空・虚】
※α=帰納 β=洞察 δ=演繹 γ=生産
[*2]リアリティからアクチュアリティへの推論(伝導)を司るのが伝導体すなわち“アレゴリー”であるとしたら、その逆の推論プロセス、すなわ
ちアクチュアリティからリアリティへの逆伝導──「ヘーゲル的頽落」とでも言おうか──を統べるのが“カテゴリー”である。たとえば、人称、時
制、様相、態といった文法カテゴリーの成立(言語の成立)とともに、あたかも夢の世界から現実世界が析出されるようにして、リアリティの世界が立
ちあがるといったこと。(続きは「文法的世界」へ。)
【18】実在の運動─“伝導体”をめぐって(3)
推論的世界をめぐる考察を、このあたりでいったん終息させます。もとより、それは議論の“収束”ではなく、かぎりなく中断に近いものでしかあり
ません。息が切れたからではなく、いったん仕切り直しをする、というか気分転換をして、次のテーマ(文法的世界)のなかで、別のかたちで継続して
考えていきたいと思ったからにほかなりません[*]。
■推論と意識変容
ここまで、論理や推論についてあれこれ考えをめぐらせてきて、私の脳髄にひとつの仮説が、しだいに明瞭な“かたち”となって立ちあがってきた。
それは、推論的世界のいわば“根本命題”とも言えるもので、論理の存在様態やその動態(推論様式)と意識の容態とのあいだには、密接な対応関係
があるのではないかということだ。乱暴に括ると、論理のあり様が意識の状態を決定する、あるいは論理のあり様が変わると意識の状態が変容するとい
うこと。そしてもちろん、その逆も言えると思う(たとえば、変性意識状態がパラロジックやパレオロジックを産み出すといったような)。
本稿第9節以降で、夢の世界(夢世界の論理)と現実世界(現実世界の論理)の関係をめぐって、『夢の現象学・入門』(渡辺恒夫)を参照しなが
ら、考えをめぐらせた。
そこで述べたこと──夢世界の原理は現実世界の原理が「四つの体験フェーズ」において変容して生まれ出てきたものではなくて、夢世界の原理が変
容して「四つの文法カテゴリー」の成立と同時に出来あがってきたのが現実世界の原理なのではないか──を、夢の推論(伝導)の起点にして終点であ
ると規定した「四つのパラドックス(もしくはアナロジー)」と関連づけると、次の組み合わせが得られる。
①演繹 時間の変容/相(aspect)・時制(tense)/裏と表の縫合
②帰納 虚構の現実化/様相(modality)/内と外の往還
③洞察 自己の分裂/人称(person)/一と多の連結
④生産 他者への変身/態 (voice)・法(mood)/無と有の反転
ここに無時制・無様相・無人称・無態の第五の類型「伝導」が加わる。
■実在の運動─推論から文法へ
「哥とクオリア/ペルソナと哥」第80章第5・6節から。
《時枝の考えでは、「品詞」という西洋文法の発想は、固定された語に備わる「属性」、つまり意味内容に基づいている。ものを表わす「名詞」を修飾
するのは「形容詞」、というようなものである。実際には、そのような品詞を日本語のなかに固定させることは、いたって難しい。「美しい」は形容詞
で、「綺麗な」は形容動詞の連体形、「咲く花」の「咲く」は動詞の連体形ということになる。これは、理屈が複雑なのではない、分類法が私たちの生
きる母語についての【感情】にまるでそぐわないのである。
江戸期国学者たちの分類では、無論そのようなことはなかった。「詞」、「辞」の別を始めとし、「体」と「用」との類別や、「係[かかり]」と
「結[むすび]」との呼応は、母語の連続する働きそのものに即し、あたかも【言霊】から強いられた分類法であるかのように、それらの性質の差異が
慎重な手ぶりで語られた。(略)
西洋流の「品詞」は、語を孤立させ、【繋がりの運動】を止めさせた時にのみ考えられる「属性」に依っている。「詞」、「辞」や「体」、「用」の
分類は、【繋がりの運動】それ自体を支えている活きた性質の差異に依っている。前者は抽象された静止に基づくが、後者は【実在の運動】に基づく。
ここにこそ、時枝が『日本文法』で述べようとした思想の核心がある。》(前田英樹「時枝文法が創造したもの」、時枝誠記『日本文法 口語篇・文語
篇』文庫解説、【 】は引用者による強調)
直立二足歩行が人類に与えた「第三の眼」によって「地平線」が発明され、これを俯瞰する「空間的パースペクティヴ」がもたらされる(三浦雅士
『スタジオジブリの想像力』)。あるいは「韻律・撰択・転換・喩」につづく第五の表現段階である「パラ・イメージ」がもたらされる(『吉本隆明
〈未収録〉講演集5』)。
これに対して「認知的流動性」(スティーヴン・ミズン『心の先史時代』)が現生人類の心にもたらしたものは、「無と有」の反転、「裏と表」の縫
合、「内と外」の往還、「一と多」の連結といったアイロニカルな「繋がり」もしくは「実在の運動」(伝導)であり、これら異質なものの絡まりを俯
瞰する(メビウスの帯、クラインの壺、ボロメオの輪のごとき?)「時間的パースペクティヴ」であった。
これら空間、時間における二つの(マテリアルな次元での)パースペクティブの働きが合流し、そのプロセスがベルクソンの「凝縮」のメカニズムを
通じて「かたち」づくられることによって、「語クオリア=言霊」がもたらされる。
空間・時間のパースペクティヴのはたらきが「辞」に、それが志向する対象が「詞」に通じる。「詞=語クオリア」ではない。「繋がりの運動」「実
在の運動」すなわち「辞」のはたらきを介してクオリアが「詞」に憑く(もしくは受肉する)のである。
はじまりの言葉はクオリア憑きの詞すなわち「詩語」(折口信夫、吉本隆明)である。それは内側からのクオリア体験をなんどでもはじめてのことと
して「反復」する。
クオリアすなわち言葉の生命が「言霊」である。そのような意味での言霊が何度でもはじめてのごとく反復する、そのはじまりの言語の記憶を「かた
ち」(フィギュール)として保存し伝達する、すなわち反復するのが“やまとことば”である。
[*]最後に取りあげておきたい書物がある。渡邉雅子著『論理的思考とは何か』。前著『「論理的思考」の文化的基盤──4つの思考表現スタイル』
を“利用”できないまま「推論的世界」の草稿を書き終えた頃、岩波新書からそのエッセンス(私の関心領域)をコンパクトにまとめた本書が刊行され
た。以下、“忘備録”として。
いわく、論理的思考は世界共通で不変ではない。論理的思考は目的に応じて形を変えて存在する。たとえば西洋由来の四つの専門領域における「論理
/手段(推論)/目的」は異なっている。
○論理学:形式の論理/演繹的推論/真理の証明
○レトリック:日常の論理/蓋然的推論/一般大衆の説得
○科学:法則探求の論理/アブダクション(遡及的推論)/物理的真理の探究
○哲学:本質探求の論理/弁証法/形而上学的真理の探究
また、何が論理的であるかは文化(価値判断)に基づく社会の領域選択──「経済」(アメリカ)か「政治」(フランス)か「法技術」(イラン)か
「社会」(日本)か──によって異なる。
《では論理も論理的に思考する方法もひとつではないということから、何が学べるのだろうか。それは、私たちは状況に応じて論理的な思考の方法を
「選ぶことができる」ということである。
たとえば、複雑な状況で判断を下すには、論理学の手続きが有効である。(略)
日常生活では論理的に考え人を説得するには、常には正しくはないが、たいていの場合正しいレトリックの推論(蓋然的推論)が役に立つ。レトリッ
クは根拠を定式化して蓄積した「トポス」と呼ばれる常識の貯蔵庫を持っており、人を説得する時にはその貯蔵庫から自由に取りだして使うことができ
る。
さらにレトリックは人を説得するにも三つの方法があることを教えてくれる。データや経験的な事実を使って理性的に説得するのがよいのか(ロゴ
ス)、それとも道徳心や共感など感情に訴えて説得するのがよいのか(パトス)、または謙虚さや思慮深さを示して自分が信頼に足る人間であることを
アピールして倫理的に説得するのがよいのか(エトス)、状況に応じた説得のレパートリーを提示するのもレトリックである。
そして、いかなる情報をどのような順番と長さで構成すれば、それぞれの説得のタイプの理にかないつつ、効果的に伝えられるのかを教わるのもレト
リックである。
科学の仮説検証の方法であるアブダクション(遡及的推論)は、常識では理解し難い原因の究明に役に立つ。(略)
哲学の対話法と弁証法は、私たちが正しいと考えている「前提」そのものを問い直し、吟味にかける方法であり思考法である。(略)
これらの専門領域固有の論理の違いをまず知ること、そして思考の「技術」として使いこなせるようになることは、多様な場面で何が効果的あるいは
合理的な思考法なのかを特定し、実践することを可能にする。》(『論理的思考とは何か』164-166頁)
──本文で、レトリック(蓋然的推論)という“高度”な推論様式(引用文の最後に述べられた「多元的思考」は“最高”のレトリックだと思う)を
取りあげることができなかった。この話題はいずれ「修辞学的世界」あたりで取り組んでみたい。