ペルソナ的世界
【1】ペルソナ、豊かな倍音を響かせる意味のポリフォニー
探究を始める前に、ペルソナというテーマの個人的な“出自”について、確認しておきたいと思います。
かつて、仮面の原器としての顔をめぐる文献を渉猟した際、坂口ふみ著『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』第2章「ヒュポスタシ
スとペルソナ」の議論を援用したことがありました(「仮面的世界」第7節)。
坂口氏はそこで、「ウシア」(実体、ラテン語訳:essentia)や「ピュシス」(本性、同:natura)と並べて、「比較的新しいヘレニ
ズム・ギリシア語で存在のアクチュアリティ、実存、といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの留まり、という性格をもつ」
(169頁)「ヒュポスタシス」(沈澱・基礎、同:substantia)という語を取りあげています。
そして、それがなぜ、仮面(ギリシャ語では「プロソーポン」)の意味をもつラテン語の“persona”と等値されることになったのか、その
「奇妙な事態」をめぐる歴史的経過を詳細に論じたあとで、元来の意味合いを異にするこれら二つの語──かたや「自然学的・形而上学的な存在論のこ
とば」、かたや「劇場と法律と日常社会生活のことば」(180頁)──が同じ一つの対象を指すとされたときに生じた「概念のポリフォニー」に説き
及んでいるのでした。
《ヒュポスタシスは、存在するものを存在せしめているアクチュアリティそのものであったし、ペルソナは、これこそ劇場や社会のうちでの主演者で
あった。しかし、ヒュポスタシスは宇宙的循環の一要素であるし、劇全体の構成や社会全体の依存関係と関連性なしにはペルソナはペルソナたりえな
い。劇は成立しない。この両概念がそのまわりにひろげる関連の場は、異質なものである。しかし、両者とも個存在性と関係性の両面をにらみ、両面を
必須とする概念であることは共通している。そして、この両者が等置されるとき、結合された概念のもつ場は、宇宙的かつ人間的、自然的かつ法的・社
会的、非人間的かつ日常人生的なものが重なり合い、混じり合い、対位法的に関わり合う不思議な場となった。
したがって、この二つの概念は時にその意味内容を入れ替え、東方教会におけるようにヒュポスタシスが人格的な交わりの原理を意味したり、西欧キ
リスト教哲学におけるように、ペルソナが純粋存在性を意味するという、これも不思議な現象が生じてきた。(略)
ただし、意味が入れ替わっても、それぞれの概念はやはりもとの意味の倍音をしっかりと響かせている。ヒュポスタシスは抽象的で明確な存在概念で
あることをやめないし、ペルソナは神学的概念であると共に「神の似姿へと」造られた人間を示す語であり続ける。「ペルソナという語は、たとい人間
と神との間には非常な相違があるにしても、人間もこの語で語られ得るほどに類的な名称である」とアウグスティヌスは言っている[『三位一体論』
Ⅶ,4,7.]。》(『〈個〉の誕生』(岩波現代文庫)181-183頁)
私がこれから、その世界の“解明”に向けて、関連資料の蒐集と“縮約”と若干の考察の作業に取りかかろうとしているのは、坂口氏がここで叙述し
ている「ペルソナ=ヒュポスタシス」、すなわち豊穣な意味の倍音を含んだ多声的概念の存在様態──個存在性と関係性、あるいは宇宙的・自然的・非
人間的なもの(アクチュアリティ)と人間的・法的・社会的・日常人生的なもの(リアリティ)との多重的・複合的な結合──にほかなりません。
いま、このような、意味のポリフォニーを孕んだ(広義の)ペルソナを“地勢学”的に位置づけるとすれば、次のような構図になるでしょう。
[メタフィジカルな界域]
【ペルソナ】
《文法的世界》 ┃ 《推論的世界》
━━━━━━╋━━━━━━
《ペルソナ的世界》
┃
┃
《文字的世界》 ┃ 《韻律的世界》
━━━━━━╋━━━━━━
《仮面的世界》
┃
【クオリア】
(ヒュポスタシス)
[マテリアルな界域]
上方に位置する
【ペルソナ】(ヒュポスタシスの成分を吸収し、日常人生的領域からメタフィジカルな界域へ向けて“昇華”したペルソナ)と、これと対になる概念として掲げ
た 【クオリア】
(ペルソナの成分を吸収し、マテリアルな界域から人間的領域へ向けて“浮上”もしくは“降下”したヒュポスタシス)との関係については、稿をあらため、次
節以降で論じることにします。
(「韻律/仮面/文字」の形象世界の三つ組に対応するものとして上方に掲げた「推論/ペルソナ/文法」の三世界は、これから取り組む「ペルソナ的
世界」以降の議論の“方向”を個人的備忘録として書き込んだもの。)
【2】クオリアとペルソナ、どろどろしたものから生まれる個物
英語に“from soup to
nuts”という慣用句があります。実際に使われる場に居合わせたことはないのですが、コース料理がスープに始まりデザート(ナッツ)で終わることから、
「始めから終わりまで」とか「何から何まで」といった意味になるようです。
私はかつて、この言葉を使って、次のような文章を、養老孟司編『脳と生命と心』に対する“書評”として書いたことがあります。
……脳や生命や心をめぐる現象と認識について考えるとき、“from soup to
nuts”という語句が威力を発揮するのではないかと思う。たとえば、茂木健一郎氏(『脳とクオリア』)の「志向性」の概念を「from ~
to ~」と、「クオリア」を「~」とそれぞれ対応させることで、心脳問題に関するラフな見取図が描けるのではないか、といったように。
あるいは、質料から形相へ、可能態から現実態へ、普遍性から個別性へ──そしてギリシャ語の「ヒュポスタシス」(サブスタンスにつながる「実
体」の意味とともに「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの、濃いスープ」の意味をもつ)からラテン語の「ペルソナ」へ(坂口ふみ著『〈個〉
の誕生』参照)──などと読み替え、これを、素粒子は豆を煮たスープのようなもので、それを観察すると煮る前の豆に戻る云々と、茂木氏との共著
『意識は科学で解き明かせるか』において天外伺朗氏が語っていたことと組み合わせることによって、そもそも「物質」とは何かを考える上で欠かせな
い視点が導かれる、といったような。
さらにいうと、その経験の確立に時間を要し、つまり再現性が弱く、いいかえれば一回性や個人性の要素が強く、したがって同一性の特定が困難な触
覚的知覚を「soup」に、本来触覚との協働を抜きにしては考えられないにもかかわらず、いったん成立すると身体性から抽象され、無時間性や再現
性や反復可能性や公共性が強くなる傾向をもつ視覚的知覚を「nuts」にそれぞれ置き換えてみることも、何ほどか思考のヒントのようなものが得ら
れるのではないと思う。……
この文章を書いたときに、私の念頭にあったのは、坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』第七講「レアリスムスのた
そがれ」の議論でした。ここでも、昔書いた文章のキレハシを自己引用します。
……坂部恵はそこで、西欧中世の普遍論争において、スコトゥス派(実在論)とオッカム派(唯名論)の対立は通常、個と普遍のプライオリティをめ
ぐるものとされるが、パースは、「定まらないもの」(the
unsettled)が最初の状態であるとするスコラ的実在論者の側に真実があるとして、その論争点をずらした、と論じている。以下、パースの文章を孫引
きする。
《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観──思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定されな
いもの」(the
indefinite)は、完全な確定性という最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者──
「定まらないもの」(the
unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極としての、「確定性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的
にも、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。(C・S・パース「形而上学ノート」)》
対立は個と普遍のいずれが先かではなく、それに先立ち「確定されないもの」と「確定されたもの」のどちらを先なるものと見るかにあるのであっ
て、問題は、「むしろ、(パースはそこまで明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしはどう規定するかにかかわるものである」(47
頁)。
すなわち、実在論と唯名論の対立の因ってくるところは、「個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心のところですが)汲み尽くしえな
い豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定
された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか」(47-48頁)という考え方のちがいにある。……
私は、「どろどろしたもの、濃いスープ」(ヒュポスタシス)から掬いあげられる、「非確定で、汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在を分有
する個的なもの」のことを、ここで「クオリア=ペルソナ」と呼んでみたいと思います。
込み入った話になりますが、前回示した図に関連づけて言うと、私は、下方(形而下の界域)に位置するヒュポスタシスからの生成物(沈殿物)とし
ての“クオリア”と、上方(形而上の界域)に位置する、ヒュポスタシスの概念的「倍音」をたっぷり含んだ“ペルソナ”とが、実は「ヒュポスタシ
ス=ペルソナ」の垂直軸を構成する同じ実質をもった“個物”であることを表現したいと思っているのです。
【3】万物ことごとくが神であったころ─クオリアとペルソナ・続
前回、呈示した「クオリア=ペルソナ」なる“奇怪”な概念について、私には、ある確たるイメージがあります。確たるといっても、それは例によっ
て、先賢の肩の上に立ち眺め見てこそのことです。福田恆存訳、D・H・ロレンス著『黙示録論』第9章の冒頭に、その一文は綴られていました。
かつて、中公文庫版(『現代人は愛しうるか』のタイトルで1982年刊行)でこの訳書を入手し、なにか途方もなく深甚な思想が、これ以上は望め
ない達意の日本語訳文で綴られているのに接し、大袈裟に言えば生涯をかけてこの書物の解読を試みることになるのではないか、と思いこむまでの感銘
を受けました。
なかでも、以下ほぼ全文を引用する次の個所は、書かれている内容よりはむしろ、その文体や(句読点の打ち方を含めた)語り口がもつリズムと響き
が、ほぼ半世紀後の今なお脳髄のどこか奥深いところで反響しているほどのインパクトをもっていました。
《さて、アポカリプスの問題に戻るに際して、吾々はあくまでつぎの事実を銘記しておかねばならぬ。アポカリプスは、その展開の仕方においてやはり
古代異教文明の産物の一つであり、したがって、そのうちに吾々の眺めるものは、例の近代の連鎖進行思考法ではなく、古代異教の回転式形象思考であ
るということである。(略)
吾々がくれぐれもこころにとどめておかねばならぬことは、古代人の意識の方法は、ことごとに【なにかが起るのを目のあたり見ねばやまぬ】という
ことである。万物ことごとく具象であり、世に抽象物など存在しないのだ。しかも森羅万象かならずなにごとかを行うのである。
古代の意識にとっては、‘素材’、‘物質’、いわゆる‘実体あるもの’は、すべて‘神’であった。大きな岩は‘神’である。池水も‘神’であ
る。いや、なぜそうでないと言えようか。吾々はこの世に齢を閲すれば閲するほど、ありとあるヴィジョンのうちその最古のものへと還って行く。大き
な岩は‘神’なのである。私はそれに触れることが出来るのだ。それは否定しえないものである。どうして‘神’でないといえようか。
かくして動くものは二重の意味に於いて‘神’となる。すなわち、吾々はその神性を二重に知覚する、存在するところのものとして、かつ運動すると
ころのものとして、二つの神性を。森羅万象はすべて《もの》であり、またあらゆる《もの》は行動し、その結果を生む。したがって、宇宙は存在し運
動し結果を生むものの複雑な一大活動である。そしてこれら全体はとりもなおさず‘神’なのだ。
今日の吾々には、あの古代ギリシア人たちが神、すなわち【テオス】という言葉によって何を意味していたか、ほとんど測り知ることが出来ない。万
物ことごとくが【テオス】であった。それにしても、それら全部が同時にテオスであったというわけではない。ある瞬間、【なにかがこころを打って】
きたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ。もしそれが湖沼の水であるとき、その湛々たる湖沼が深く【こころを打って】こよう、そうした
らそれが神となるのだ。あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえることがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。ときには夕暮れに
地上から立のぼるかすかなかげろうが吾々の想像をとらえることもあろう、それが【テオス】であった。あるいはまた水を前にして渇きにわかに抑えが
たきことがあるかも知れぬ、そのとき渇きそれ自体が神なのである。その水に咽をうるおし、甘美な、なんともいえぬ快感に渇きが医されたなら、今度
はそれが神となる。また水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象するのであ
る。だがこれは決して単なる【質】ではない。厳[訳文は旧字体]存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。それこそたしかに一箇の【テオ
ス】、つめたいものなのである。が、つぎの瞬間、乾いた脣のうえにふとたゆたうものがある。それは《しめり》だ、それもまた神である。初期の科学
者や哲学者にとっては、この《つめたいもの》《しめったもの》《あたたかいもの》《かわいたもの》などはすべてそれ自身充分な実在物であり、した
がって神々であり、【テオイ】[テオス=神の複数形]であった。》(『黙示録論』、‘ ’は訳文傍点、【 】はゴシック)
存在し運動し結果を生む《もの》(things)、《つめたいもの》(“the cold”)、《しめったもの》(“the
moist”)、《あたたかいもの》(“the hot”)、《かわいたもの》(“the dry”)──すなわち、単なる質(a
quality)ではなく、厳存する実体(an existing entity)であり、殆ど生きもの(a
creature)と言っていい神=テオス(theos)、それ自身充分な実在物(things in themselves
realities)である神々=テオイ(theoi)。
私が考えている「クオリア=ペルソナ」とは、ロレンスが言うところの、厳存する実体・実在物としての「テオス」もしくは「テオイ」にほかなりま
せん。それは「単なる質」ではなく、存在し運動し結果を生む「もの」、いわば「生きた質」(クオリア)であり、かつ、「神」である。そして、ここ
でいう「神(々)」とは、一神教における人格神(創造神)ではなく、「古代異教」的な形象思考がもたらすもの(あるいは「神=自然」のスピノザの
神観に通じるもの?)であった。
今回は、ロレンス=福田の文章を、範とすべき標本として記録しておきたいがために、一つの節を起こしました。以上に述べたような複層する精妙な
概念として、私は、「ペルソナ」を考えていきたいと思っているのです。
【4】モーツァルトとシューベルトの垂直的邂逅─クオリアとペルソナ・続々
茂木健一郎氏は『クオリアと人工意識』において、クオリアの働きは「情報の圧縮」にあると書いています。それはたとえば、文章・発話・楽曲にお
ける全体の「構想」や「姿」のようなものとしてとらえることができます。
「モーツァルトは、作曲の際、曲全体の有機的な構成を一つの「クオリア」として意識の中で把握し、それを作曲行為の中で「展開」していったのだろ
う。多くの情報を圧縮して意識にのぼらせることのできる「クオリア」の働きである。」
《発話や作曲におけるクオリアは、意識の中で必要性や文脈応じて「仮」のものとして生成されている。モーツァルトが作曲の端緒とした志向的クオリ
アもまた、音楽世界の多様性、可能性を表現する上での「仮説」として適切で役立つものだったからこそ、意識され、機能してものと考えられる。
「仮」のものとして生成されたクオリアは、「志向的クオリア」(intentional
qualia)として知覚される。そのように生成された志向的クオリアの中で、特に世界の把握という観点から役に立つものだけが、世界を把握する上でいわ
ば「定番」の基盤をつくるといえる、「感覚的クオリア」(sensory qualia)のレパートリーとして残って行った可能性がある。
つまり、世界を把握する上での基本的な「パーツ」として、いわば、世界をこのように整理してとらえたらよいのではないかという「仮説」として成
立するのが「志向的クオリア」だと考えられる。その中で、重要なものとして進化における自然淘汰の「予選」を勝ち抜いて残っていったもの、つまり
は、実際にそのような「部品」で世界をとらえると効率がよいと確認され、定着していったものが「感覚的クオリア」だと考えられるのである。
例えば、今日私たちが視覚を通して外界を経験する時に主要な役割を果たしている「色」や「透明感」、「金属光沢」などの感覚的クオリアは、過去
に世界を把握する上で有効な「仮」のものとして立ち上がった志向的クオリアのうち、進化の過程で厳選されていったものだと考えられる。同様に、聴
覚においても、さまざまな「音色」のクオリアが、環境からの音刺激を整理する上で大切な役割を果たす感覚的クオリアとして残ってきたものと思われ
る。》(『クオリアと人工意識』第五章「意識に知性は必要か」)
ここで、クオリアに関して論じられた事柄を、ペルソナをめぐる議論に“応用”します。
ウィトゲンシュタインが、『哲学探究』で、「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私には
感じられる。」(第2部270節)と書いています。このことをめぐって野矢茂樹氏は、ある言葉が「身につき、なじんだ道具がそうであるように、私
の体の一部と化している」とき、それを身から引き剥がし、別の言葉で呼んだときに失われる「言葉にとってきわめて大きなもの」のことを、ウィトゲ
ンシュタインは「言葉の魂」(第1部530節)と呼んだと指摘しています(『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』269頁)。
つまり、「シューベルト」という固有名には「魂」がこもっている、というわけです。それは、ロレンスが言う厳存する実体・実在物としての「テオ
ス」、すなわち“クオリア”に通じている、と私は解します。それも、マテリアルな界域に棲息する「感覚的クオリア」の、メタフィジカルな界域にお
けるその対応物である“ペルソナ”に。
そうだとすると、先に引用した茂木氏の議論を拡張して、ペルソナの働きもまた「情報の圧縮」にある、と言うことができるでしょう。複雑微妙な
“人格”情報の圧縮、あるいは長い時間にわたる“生涯”の圧縮としてのペルソナ[*]。
[*]クオリアによる情報圧縮の働きが「いま、ここ」に限定される(もしくは、「いま、ここ」を中心とする)としたら、ペルソナによるその働きは
「過去・未来、そこ・あそこ(よそ)」に拡張されると私は考えている。また、情報圧縮は単なる置き換えではなく「創造性」をもった働きであり、お
そらくペルソナにおいてそれはより強く発現するのではないかとも考えている。
ベンヤミンが「言語一般および人間の言語について」第16段落において、「固有名は人間の音声という姿における神の語」であると述べたことをめ
ぐって、細見和之氏は次のように論じている。
《…ベンヤミンの語っていることをストレートに受け取るならば、以下のようなことになるだろう。すなわち、その子どもをかけがえのない絶対的な存
在として保証する固有名のなかには、さしあたり当の親にも知ることのできない運命、つまり神からのメッセージが書き込まれている。その固有名には
神の語に由来する「創造的」な力がそなわっているのであって、その名前に書き込まれていた運命は、何らかの形で実現される。その意味において、親
が子どもに名前を与えるとき、その親はたんに子どもを神に捧げているだけでなく、あくまで特定の名前とともにその子どもを神に差し出しているので
あって、その固有名には、彼、彼女が与えながらも、当の彼、彼女には見とおしえない運命が刻まれている。とはいえ、その名前を与えたのはまさしく
その親なのであり、またその運命を実現してゆくのはその子ども自身なのだから、その固有名は「人間が神の‘創造する’語と結ぶ共同性」にほかなら
ないのである、と。》(『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』129頁)
【5】感覚質・体験質・人格質─クオリアとペルソナ・続々々
クオリアの働きを「情報の圧縮」と見る茂木健一郎氏の議論は、ベルクソンの「凝縮説」[*]に通じています。平井靖史氏は『世界は時間でできて
いる──ベルクソン時間哲学入門』において、ベルクソンのこのアイデアを精錬もしくは拡張しています。以下、その第1章「時間で解くクオリアの謎
──物質の時間と意識の時間」から、関連の個所を抜き書きします。
○ベルクソンの哲学は、マルチスケールというあり方を人類史上初めて本格的に組み込んだ、まったく新しい時間概念を提唱するものである。(41
頁)
○ベルクソンは、クオリアに関する随伴現象説(脳が感覚クオリアを生み出すという仮説)を熾烈に批判し、「時間の観点」からクオリア生成の問題
(心身問題)にアプローチした。(45頁)
まず、「体験の時間」=「持続」を「計測の時間」から区別し、前者の時間体験が「特定の時間スケール」によって制約されている──私たちは速す
ぎる(電磁波レベルのミクロな)変化も、遅すぎる(天体レベルのマクロな)変化も「流れ」として体験できない─という事実が、意識の成立条件に関
係していることを明らかにした。(48-49頁)
次いで、「持続」が多元的であること、ただし単に複数の時間が「並行して」走っているというだけでなく、ミクロからマクロまで多層的なスケール
の時間(マルチ時間スケール:MTS)が同じ一人の人間のうちに「縦に積層している」ことを明らかにした。(50頁)
○ベルクソン=平井による「時間のマルチスケール的共存」あるいは「意識・心に関するMTS構造」の概要は次の通り。
《…時間の流れを体験する〈持続〉の水準を中心にして、ベルクソンの議論は、上方と下方に時間階層が広がっている。(略)
階層0には「物質」が位置し、階層1との時間スケールギャップを通じて「感覚質」(現代でいう感覚クオリア)をもたらす。これが、ベルクソンが
『物質と記憶』第四章で展開している「凝縮説」であ[る]…。
階層1と階層2のあいだに持続が成立するわけだが、ここでは上下の時間階層間の‘縦方向の’相互作用が必要になる…。なお、「注意的再認」(意
識的にものを見聞きすること)におけるトップダウンのイメージ投射…もこの現場で起こる。つまり、私たちの外界認識というものも、下の速い処理と
上の遅い処理からなるハイブリッドな仕方で構築される。今のところは、「持続」と一口に言っている現在の流れが、実際には‘下と上の時間スケール
が合流する’ことで成り立つらしいということを押さえておいてほしい。
階層2は体験の現象的側面の「記憶」(これを本書では「体験質」と呼ぶ)を構成し、それらが累積した
階層3は「心」の現象的側面を構成する(同じく「人格質」と呼ぶ)。私たちは、現在の枠内に切り詰められた物体ではない。人生という巨視的な時間を貫いて
存続する一人の人格である。この巨大な時間的リソースが、その粒度をダイナミックに変動させうるようなシステム形成を可能にする。これが「意識の
諸平面」を擁するベルクソンの記憶の逆円錐モデルのコアを成す考えであり、そこから私の意志的活動・志向性が与えられる…。
そこに含まれる膨大なリソースを展開し、自動的あるいは能動的に操作することで得られるのが想像や想起、一般観念、注意といった高次認知の働き
である…。》(『世界は時間でできている』54-56頁)
これを図示すると、以下のようになる(平井前掲書56頁の図を簡略化し、若干“加工”して作製)。
[メタフィジカルな界域]
【ペルソナ】
[階層3]人格質(心・私)
├ 想起・観念・注意
[階層2]体験質(記憶)
├ 持続(流れ)
│ 注意的再認
[階層1]クオリア(感覚質)
├ 凝縮 【クオリア】
[階層0]物質
[マテリアルな界域]
──以上の議論を、私なりに“拡張”してみます(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第80・81章参照)。
・「階層1」の「感覚的クオリア」に対応するものとして「語クオリア」なる概念を導入する。これは、言語の単位となる「語」がもたらす独特の感覚
──“この”意味や“この”存在に呼応する語として、“この”響き、“この”感触はまさに“これ”でしかない、という必然的な繋がりの感覚、ある
いは「言霊」と呼んでもいい、語に伴う強い感情──を指す。
・「階層2」の「体験質」(あるいは「記憶クオリア」)に対応するものとして「文クオリア」なる概念を導入する。そこでは「語」が連辞のルールに
則って水平方向に結合する。「階層1」からの(上方へかう)垂直方向の力の作用が強いと、それは呪言や異言(ゼノグラシア)もしくはグロッソラ
リー(©種村季弘))、非人称的な言語実践(マラルメ)となり、「階層3」からの(下方へ向かう)垂直方向の羈束のもとで、干乾びた「魂なき言
語」(古田徹也『言葉の魂の哲学』)か「言語ゾンビ」(茂木健一郎『クオリアと人工意識』)による言語実践に頽落する。
・「階層3」の「人格質」(あるいは端的に「ペルソナ」)に対応する「文章クオリア」なる概念を導入する。それはウィトゲンシュタイン=野矢の議
論に登場した「シューベルト」に対応している。「体験質(記憶クオリア)としての文」が累積することによって構成される「人生という巨視的な時間
を貫いて存続する一人の人格」のクオリアである。
[*]ベルクソンは『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)第四章の「持続と緊張」の項において、クオリアの凝縮
(contraction)について論じている。
いわく、二つの異なる色が相互に還元不可能で非連続なのは、両者が「われわれにとっての一瞬のあいだにも実際には数兆回の振動を行いつつ、それ
が非常に狭い持続に凝縮されているということに由来している、と考えることはできまいか」。
《われわれの意識が体験している持続は、ある特定のリズムにおける持続であり、それは物理学者が論じる時間、すなわち与えられた間隔のうちにいく
らでもたくさんの現象を収めることができる時間とは、まったく異なる。一秒のあいだに、赤色光──光の中で最も波長が長く、したがってその振動数
が最も少ないもの──は継起的振動を四〇〇兆回行っている。これがどれくらいの数であるかを理解してもらうには、われわれの意識がそれを数えられ
るか、あるいはせめてその継起をそれとして記録できるまでにそれらの振動を相互に引き離して、当の継起が何日、何カ月、何年を占めることになるか
を調べてみなければなるまい。ところで、われわれが意識できる最も短い時間の間隔は、エクスナーによれば、二ミリ秒である。その上、これほど短い
間隔が複数続いた場合でもそれを〔きちんと〕知覚できるかどうかは疑わしい。それでも、われわれにはそれがはてしなくできる、ということにしてお
こう。つまり、一つ一つは瞬間的な四〇〇兆の振動が、互いに区別されるのに必要な二ミリ秒の間隔を空けながら並んでいるところに立ち会う意識とい
うものを想像してみるのだ。ごく簡単な計算で、この作業を終えるには二万五〇〇〇年あまりが必要になることが分かる。したがって、われわれに一秒
間体験される赤色光の感覚は、それ自体においては、われわれの持続で最も時間を節約して展開されても、われわれにとっての歴史の二万五〇〇〇年あ
まりを占めるような諸現象の継起に対応しているわけだ。》
ベルクソンの「凝縮」は、感覚的クオリアの生成という物質のレベル(ミクロな時間スケール)から、人類史のレベル(マクロな時間スケール)にま
で及ぶ。
《…持続には唯一のリズムしか存在しないわけではないのだ。われわれは数多くの異なるリズムを想像できる。ゆっくりか速いかに応じて、これらのリ
ズムは、さまざまな意識の緊張度ないし弛緩度を示す尺度になるものであろうし、またこのことから諸存在の系列におけるそれらの意識それぞれの位置
を定めるものでもあろう。伸長度の異なる複数の持続というこの表象は、われわれの精神にとっておそらく考えにくいものではあるだろう。意識が直に
体験する真の持続を、等質的で〔意識からは〕独立した時間に取り替える、という有用な習慣を身につけてしまっているからである。だが、まず言うな
ら、かつて示したように、以上のような表象を考えにくいものにしている錯覚を暴くことは容易だし、加えて言えば、そうした発想は実はわれわれの意
識の暗黙の同意をとりつけている。眠っているあいだに、自分の内に同時にありながらも別々の二人の人間を捉えることがないだろうか。その一方は数
分間眠っているだけなのに、もう一方は数日や数週間にわたる夢を見る、というわけだ。そしてさらに言えば、われわれの意識よりもいっそう緊張した
意識にとっては、歴史の全体ですら、ごく短い時間に収まるのではないか。そして、そうした意識なら、人類の歩みに立ち会いつつ、それを歴史展開上
の主要な諸段階にいわば凝縮するのではないだろうか。だとすれば結局、知覚とは、限りなく薄められた存在の長大な諸期間を、さらなる強度をそなえ
た生のいっそう異質化された諸瞬間に濃縮すること、かくして非常に長い歴史を要約してしまうことなのだ。知覚するとは、不動化するというこのなの
である。》
平井靖史氏は、ベルクソンの「(持続の)リズム」を「(時間の)スケール」と読み替え、ここで論じられている「異なる持続のリズム」の議論(持
続の多元論)を「マルチ時間スケール(MTS)」の理論へと精錬している。
【6】“これ”と“あれ”の通底─クオリアとペルソナ・又
クオリアとペルソナの「関係」をめぐって、入不二基義著『問いを問う──哲学入門講義』第3章「どのようにして私たちは他者の心を知るのか?」
から、関連する個所を摘出します。
1.運動としてのクオリア
〇味覚の例で言えば、意味・概念の水準とは区別された、直接経験の水準での「味わい」が、味のクオリアである。「甘さ」と名指されている味が、自
分にどのように直接感じられているか、その質感を「クオリア」と呼ぶ。(112頁)
意味・概念(関係性)の水準における心は「表層の心」(ふるまい即心=喜怒哀楽という基本感情)と「中層の心」(意味・概念のネットワーク=憂
い・不安・恐れなど複雑・微妙な感情の関係性)とからなり、直接経験の水準における心が「深層の心」(クオリア≠深層心理・無意識)である。
(133-134頁,153-154頁)
〇クオリアの特殊性・独自性に対する擁護側と批判側は、クオリアを「確定されている何か」と考えている点で一致している。
《しかし、私はそう考えていない。クオリアは、心の表層から中層を突破して、深層にまで潜っていく、【質的な経験の逸脱運動】であると考えた。ど
こかの深度で、とりあえず確定(固定)されることはあるとしても、その確定(固定)からもさらに【逸脱する力が潜在している】からこそ、クオリア
はクオリアであり続ける。【潜在的なクオリア】も、クオリアである。
もちろん、【運動としてのクオリア】には、潜っていく逸脱運動だけではなく、深部から浮かび上がって確定(固定)されようとする方向性[包摂]
の運動も含まれている。いわば、【心の表層⇄中層⇄深層の往復運動】こそが、クオリアという現象に他ならない。》(『問いを問う』139頁、
【 】は原文ではゴシック)
〇私と他者のクオリアは同一なのか、類似しているのか、あるいは逆転しているのか、そもそも無いのかという問いは、クオリアを「確定されている何
か(無という確定も含む)」として考えている点で逆立ちしている。
話は逆で、そのような問いの反復(同一性→類似性→逆転→…→不在)が終わらないこと自体が、すなわち直接性の局面でも関係性の局面でも完結せ
ず、両者の包摂‐逸脱関係が繰り返される、その全体がクオリア現象なのである。(140頁)
2,コギトとクオリアの関係─対照と通底
〇これと同じ事態を「コギトと他性」の問題──「他者の心の他性が、まさにその疑いの遂行において構成される」、あるいは「他者の心について疑う
(問う)のではなく、疑う(問う)こと自体が、他者の心の他性を生み出す」──に見ることができる。
《コギトと他性は、あたかも一つの楕円(疑い)を構成する二つの焦点のようであり、コギトは今の疑いのこの【一回性】に対応し、他性は終わらない
疑いの【反復可能性】に対応する。さらに、楕円の極限形態としての円を表象するならば、コギトと他性、あるいは疑いの【一回性と反復可能性】は、
一つの点(中心)へと潰れる。コギトは疑い(思い)の遂行・生起それ自体であり、その中身・内容とは無関係にそれ自体として働く。中身・内容との
無関係性ゆえに、コギトは「空っぽ」である。》(『問いを問う』141頁)
〇心の深層を降っていくと、どのような概念にも収まらない質感や、新たな概念化を待つ(まだ感じられていない)潜在的なクオリアが存在する。一
方、コギトは認識即存在であり「厚み」のない「点」的な存在であった。(164頁)
《コギトが認識即存在であることは、次のことを意味する。‘何を’想い、‘何を’疑うのかの「何(認識内容)」はまったく関与することなく、‘何
であれ’思っていれば・‘何であれ’疑っていれば、(認識内容とは無関係に)その思い・疑い自体が存在する。コギトが「点」的であるとは、コギト
が無内包な認識生起それ自体であることを表す。
それに対して、クオリアには「深さ」があって、「点」には留まっていられない。「‘何を’・‘どのように’感じるか」(質感の内容)は、クオリ
アがクオリアであることに欠かせない。しかし、認識内容に無関与であるコギトと、認識内容に深く関与するクオリアという対照だけでは済まない。》
(『問いを問う』165頁、‘ ’は原文では傍点)
〇コギトは「何であれ思う・疑う・思考する」の「何」に関しては無関与であっても、「思い」「疑い」「思考」であることにはコミットせざるを得な
い。また、コギトはその反復によって、自らの認識即存在を自己産出する仕組みになっている。つまり、コギトは純粋で完全な「点」に留まること──
その反復が不可能な「ただ一回きり」の思い・疑い・思考の生起であること──ができない。
《コギトとクオリアは、まずは「点的な認識即存在の現実」としてのコギトと、「深さにおける認識と存在の乖離の可能性」としてのクオリアのよう
に、互いに対照的である。しかし、疑いの反復(繰り返し)運動のところでは、互いに通底する。コギトにおいては、疑いの反復運動が自己産出になる
し、クオリアにおいては、疑いの反復運動が意味(概念)からの逸脱運動に繋がる。両者に共通の「底」では、「疑い」のあるいは「逸脱」の反復(繰
り返し)運動が働いている。
そのうえで、コギトは、その反復運動が不可能になる「唯一回性=点」としての「‘これ’」を指し示そうとするが、クオリアは、その反復運動の果
ての「潜在的な質」としての「‘あれ’」に逢着しようとする。「‘これ’」も「‘あれ’」も、どちらも意味(概念)のネットワークに組み込むこと
が不可能な外部であるけれども、「‘これ’」は意味(概念)がゼロの地点であり、「‘あれ’」は、意味(概念)がそこから無限に発しうる無尽蔵の
地点である。》(『問いを問う』166-1677頁)
──私は、入不二氏が論じている「コギトとクオリア」の関係を「ペルソナとクオリア」のそれに重ね描きし、もしくはその下絵として据えることに
よって、これら二つの対照的な概念が通底する見えない回路、あるいはそのロジックを炙り出すことができないかと考えています。
それは、たとえば「意味・概念のネットワーク:認識内容にかかわるリアリティの水平軸」(表層・中層・深層とこれを反転させた下空・中空・上
空)と「意味・概念がゼロの地点:認識即存在の現実性にかかわるアクチュアリティの垂直軸」(深さと高さ、無限と無)とで合成される図の“向こう
側”あるいは“こちら側”に棲息しているのだと思います[*]。
[メタフィジカルな界域]
認識即存在の現実性:無・空っぽ
<無内包>
【ペルソナ(コギト)】
<第〇次内包>
━━━━━━╋━━━━━━ 上空
┃
───<第一次内包>─── 中空
┃
表層 ━━━<第二次内包>━━━ 下空
┃
中層 ───<第一次内包>───
┃
深層 ━━━━━━╋━━━━━━
<第〇次内包>
【クオリア】
潜在的な質・無尽蔵の地点:無限
<マイナス内包>
[マテリアルな界域]
[*]図に書き込んだ「第〇~二次内包」「マイナス内包」「無内包」の概念について、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第62章第5節から、関連す
る個所を自己引用する。
……無内包の現実性──「それが何であるかは決してわからないどころか、いやむしろ、それは何であるか[=リアリティ(実在性)]がない」純粋
なアクチュアリティ(現実性)。この概念は、二次にわたる「永井(均)-入不二(基義)論争」(私の勝手な命名)を通じて精錬されてきたもので、
その経緯をざっと一瞥すると、以下のようになります。
《第一次・永井-入不二論争》
○永井が『なぜ意識は実在しないのか』(2007年11月)でクリプキ-チャーマーズの二次元的意味論を踏まえ「第〇次内包」の概念を導入。
○入不二が「〈私〉とクオリア──マイナス内包・無内包・もう一つのゾンビ」(共著『〈私〉の哲学
を哲学する』所収、2010年10月)で、永井の「第〇次内包」の概念には「私秘性」(感覚の認知の自立)と「独在性・現実性」の二つの場面が同居してい
ると批判。これを、①「(当初の意味での)第〇次内包」=クオリア、②「マイナス内包」=潜在的なクオリア(特定の概念[例:痛み]から自立・逸
脱した不明瞭な「何らかの感じ」)、③「無内包」=〈私〉や〈今〉、の三つに腑分けした。
○永井が入不二の指摘を一部(無内包に関する部分)受け入れ、『改訂版
なぜ意識は実在しないのか』(2016年6月)を刊行。「[「私」の私秘性を作り出す]基になっているのはもちろん独在性であり、独在する私です。…これ
はもはや第〇次内包ではなく、無内包の現実性です」(170頁)。
──第一次論争を通じて明らかになった「三次元的」意味論の概要は次のとおり。(私的言語とは「無内包の現実性」を語る言語、いわば「無内包言
語」であって、「第一次内包言語」(=パブリック言語)と関連づけられていない「第〇次内包言語」(永井前掲書改訂版131-132頁)のことで
はない。)
【無内包】
・独在的な〈私〉や〈今〉(=純粋経験)
【第〇次内包】
・私秘的な意識=クオリア/内的体験/「文脈独立的・内面孤立的な内包」(入不二前掲論文)
・「[第一次内包に対する]第一の逆襲[=感覚の認知の自立]をへて、何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可
能になった段階の酸っぱさの感覚そのもの」(永井前掲書改訂版12頁)
・「《つめたいもの》や《しめり》として現象する神(テオス)」(ロレンス『黙示録論』)
【第一次内包】
・公的言語において認知された「感じ」/外的文脈(ふるまい・表情)/「日常文脈的な内包」(入不二前掲論文)
・「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べたときに酸っぱそうな顔をするとき感じている‘とされるもの’」(永井前掲書改訂版12頁)
・「海や湖の透明度が高くて飲める液体、水らしきもの」(チャーマーズ『意識する心』)
【第二次内包】
・物理的な状態・事実/「科学探究的な内包」(入不二前掲論文)
・「[第一次内包に対する]第二の逆襲[=物理的状態の側からの逆襲、脳科学的・神経生理学的な探究]」によって判明する酸っぱさの本体、脳内の
ミクロな物理的状態(永井前掲書改訂版)
・「水はH2Oである」(チャーマーズ前掲書)……
【7】物と心が通底し地続きになる潜在性の場─クオリアとペルソナ・又々
クオリアとペルソナが「通底」する回路もしくは理路をめぐって、以下、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第69章第2節から、入不二基義、永井均
両氏の議論を援用した箇所を自己引用します。
込み入った(あるいは“混乱”した)物言いになりますが、私は、ここに出てくる「クオリア」(心)を「形相なきマテリアル」もしくは「形相なき
質料的現実」(物)と重ねあわせ、これを「深度」もしくは「潜在性」の場として捉えました。一方、「無内包の現実」へ向かう方向に「ペルソナ(コ
ギト)」の概念を位置づけ、これを「高度」もしくは「現実性」(広義の「潜在性」)の場として捉えています。前節の図は、このような概念的関係を
念頭において製作したものでした。
……入不二氏は『現実性の問題』第7章「無内包・脱内包・マイナス内包」において、クオリアを第〇次内包として捉えた永井氏の説を拡張し、「マ
イナス内包としてのクオリア」という概念を呈示する。
いわく、マイナス内包としてのクオリアとは、特定の概念による明確な括りの下で(たとえば赤の赤らしさとして)感じられるようになる(ありあり
と現前するようになる)より「以前」の、「(概念なき)潜在的なクオリア」あるいは「クオリアの潜在態」を言う。もしくは「クオリアの闇」であっ
て、そこから無数の顕在的な(ありありとした)クオリアが発現してくると想定される存在論的な「無尽蔵」である。(261頁、279頁、
292-293頁)
《マイナス内包のクオリアは、第〇次内包に残る「概念」の括りを解かれた、概念化されない「何らかの感じ」であり、さらにその感じの「潜在的な原
質」であった。クオリアのこの潜在的な次元は、「物」のほうの潜在的な次元──形相なきマテリアル──と地続きである…。概念による区画化以前で
あるという点で、マイナス内包と形相なきマテリアルは、同じ一つの潜在性の場である。その場は‘物でも心でもなく’、そこから心と物の区別やその
領域間の緊張関係が創発するような源泉である。
物理主義・機能主義が依拠する「物質や情報(第一次内包や第二次内包)」は、すでに科学的な概念による区画化がなされた「形相を持つ何ものか」
である。それは、第〇次内包としての「心的状態」が心的な概念の括りの下で「感じられるもの」であることと、パラレルである。そのパラレルな水準
から「奥底」へと降りていくと、「物と心」はそれぞれの(物としての/心としての)形相を失っていき、潜在性の場において通底する。》(『現実性
の問題』295頁)
文中の「形相なきマテリアル」は「形相なき質料的現実」[*1]とも言い換えられる。人間の(諸)言語の稼働帯域は、この「形相なきマテリア
ル=形相なき質料的現実」と「マイナス内包=無尽蔵のクオリアの潜在態」が同じ一つのものになる場、つまり物と心が通底し地続きになる「潜在性の
場」[*2・3]に根差している。
[*1]「形相なき質料的現実」には次の註が付いている。「私がここで念頭においているのは、永井均が「物理学主義(physicalism)」
と対比させて述べた「究極の唯物論(materialism)」である。」(337頁)
入不二氏が「念頭においている」永井均の議論(「聖家族──ゾンビ一家の神学的構成」)を引用する。
《『なぜ意識は実在しないのか』で私が使った「第二次内包」という語はチャーマーズに由来しているが、そのもとになっているのは『名指しと必然
性』におけるクリプキの理論である。クリプキによれば、ある種の語が指している対象の本質は、その語に関してわれわれの側が持つ概念(さしあたっ
ては第一次内包)によってではなく、世界の現実のあり方の側によって決まっている。われわれは「水」の何であるかを知らずに水を指し(指示を固定
し)ており、水の何であるかはそれに関するわれわれの概念とは独立に世界の側で決まっているのだ。だが、クリプキに反して、世界の側で決まってい
る‘それ’に、われわれが辿り着ける保証はどこにもない(第二次内包といえども単に「第二次」であるにすぎない)。
にもかかわらず、‘それ’は在る。と考えるとき、この強い実在論が要請しているのは、第二次内包の方向に、第〇次内包に対するマイナス内包に相
当するものを想定することだろう。ビンゾ[引用者註──「完全にフィジカルな存在者」であるゾンビの逆、すなわち意識は存在しているが身体が存在
しない「完全にメンタルな(フェノメナルな)存在者」(204頁)]は、概念としてはそれを持つが、にもかかわらず、現実のそれを欠く。第一次内
包から出発して、第〇次の方向にも、第二次の方向にも、ともに到達できない「彼方」が在ることになる。しかし、そのように考えるとき、「痛み」や
「酸っぱさ」や「赤さ」のマイナス内包の想定が実は無内包の〈私〉の現存在から生じていたように、「水」や「金」や「熱」に関するその「マイナス
内包に相当するもの」の想定もまた、じつは無内包の現実世界の現存在から生じていることになるだろう。この究極の唯物論
(materialism)は物理学主義(physicalism)と徹底的に対立する。そして、[ゾンビに欠けているのが「質的な意識」(概念
としてではなく現実の)であったのに対して]ビンゾに欠けているのはまさに‘それ’(materia)である。》(『〈私〉の哲学
を哲学する』(春秋社)225-276頁)
[*2]入不二氏によると、「現実性(actuality)」と「潜在性(potentiality)」の対照には、認識論的な水準と存在論的な
水準がある(76頁)。認識論的な水準における現実性は潜在性の発現(manifestation,realization)・現前
(presence,appearance)としてあり、そこでは現実性と潜在性は相互排他的である。これに対して存在論的な水準におけるそれは
一番外側で透明に働く現実性であり、発現・現前するしないに関わらない「純粋現実」である。そこでは潜在性は現実性の働きの内にあって「‘現に’
潜在している」のである。
《一番外側で透明に働く現実性こそ、内容化・様相化から退避する仕方で、最も潜在的に働いている。また、どれほど「深度」の大きい潜在性であって
も、発現・現前としての現実性からは退却できるとしても、それでもなお現実性のうちで働いている。つまり、‘現実性はどこまでも潜在的であり、潜
在性はどこまでも現実的である’。現実性と潜在性は、相互に排他的であるどころか、純粋であればあるほど(深くなればなるほど)接近し合い、互い
に似てくる。
一番外側で透明に働く現実性が、自己顕現化(現実性の受肉化)を行うやり方は、特定の命題内容(e.g.ソクラテスは哲学者である)や個別的な
輪郭(e.g.可能世界)を身に纏って、一定の制約された姿で現れることである。…現実性の転落とその逆の遡行が、現実性の「受肉化」とその逆の
「脱受肉化」に相当する。
同様に、潜在[性]とその発現・現前の間の関係にも、自己限定による顕現化と(その逆の)退隠化、すなわち潜在性の受肉化と脱受肉化を見て取る
ことができる。潜在性の「深度」の深まりが脱受肉化に、その反対(発現との結合度の高まり)が受肉化に相当する。現実性と潜在性それぞれの「受肉
化」は、認識論的な水準へと差し戻されることに相当し、現実性と潜在性それぞれの「脱受肉化」は、存在論的な水準へと差し戻されることに相当す
る。》(『現実性の問題』79頁)
[*3]「形相なき質料的現実」(潜在性の場)と「無内包の現実」(一番外側で透明に働く現実性)の違いについて、入不二氏は次のように論じてい
る。
《…「形相なき質料的現実」とは、「物質」[すでに言語を介して概念化・差異化を被っているもの]もまたそこから切り出されてくるしかない
「〈地〉としてのマテリアル」である。そのような…「生[なま]の原質」は「ただ一つの現実」である。(略)
とはいえ、この「形相なき質料的現実」は、概念化・差異化に対して開かれてはいて、概念化・差異化を‘待っている’。その意味で、「形相なき質
料的現実」は、概念化・差異化以前の存在ではあっても、概念化・差異化が原理的に可能な何かであり、概念化・差異化のための原・素材を提供する。
それに対して、…「「現に」という現実性の力」「無内包の現実」は、質料的現実のように「概念化・差異化を‘待って’」などいない。むしろ、
「概念化・差異化」とは無関係に働く力が、「現に」である(たとえ、「現に」というこの書記自体は概念化を被るとしても)。…「マテリアルな現
実」も…「無内包の現実」も、ともに「区別なきベタ(無差異)」という点では同じである。しかし、その「ベタ性」自体が異なっている。区別(境
界・差異)が‘まだ入っていない’という「ベタ」と、区別(境界・差異)は‘入りようがなく意味がない’「ベタ」との違いである。…「現に」とい
う現実性の力は、一番外側で働く力であることによって、区別(境界・差異)とは無関係に遍在する「透明なベタ」である(一方、…[マテリアルな現
実]は「塗り潰されたベタ」である)。》(『現実性の問題』338-239頁)……
【8】クオリア性言語とペルソナ性言語─クオリアとペルソナ・又々々
クオリアやペルソナは、ともに言語現象である[*]。あるいは、言語的産物である。すなわち、前者は音声言語の誕生を通じて、後者は文字言語の
発明を介して、それぞれもたらされた。
クオリアは言語による表現以前にはありえない。言語以前のものとして、言語によって表現されるのがクオリアである。また、ペルソナも言語による
表現以前にはありえない。ただし、言語によって形成されたものでありながら、言語以後のもの、超言語的なものとして言語によって表現されるのがペ
ルソナである。
──いきなり唐突な断言で始まりました。以上は、ペルソナの問題を考える際、私の直観があらかじめ告げる“仮説”です。これを説得力あるかたち
で論証することは、今は(あるいはこれからも)出来そうにないので、ここでは(あるいはここでも)、クオリア、ペルソナと言語の関係をめぐるかつ
ての試案を「哥とクオリア/ペルソナと哥」第73章第4節から引くことによって、この“仮説”の周辺を散策してみたいと思います。
……人間の(諸)言語をかたちづくる三つの界域のうち、メカニカルな界域は、下方におけるマテリアルな界域=「クオリアの海」と上方におけるメ
タフィジカル界域=「ペルソナの空」との間に位置づけられている。
──クオリアは「物に成り入る」技術にかかわるアニミズムと、ペルソナは「他者に成り入る」技術にかかわるシャーマニズムとそれぞれ深く関連す
る。リアルな感覚が託く(憑依する)クオリア、アクチュアルな意味が宿る(受肉する)ペルソナ、などと言ってもいいだろう。
そして、それぞれに固有の言語を「クオリア性言語」(別名:マテリアルな言語)や「ペルソナ性言語」(別名:エーテル状言語)と表現することも
できるだろう。いま、それぞれの言語の典型例を、手元にある文献から引くと次のようになる。
◎沈黙の声(層)─クオリア性言語をめぐって
今福龍太著『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』冒頭の「元素的な沈黙」から。
《風という根源的エレメント、万物をつくりなすこの究極的な元素のひとつを、この土地に住むインディオはエカトル ecatl
と呼んだ。微風も、大風も、竜巻のような突風も、みなエカトルである。厳密にはエカトルの「エ」の音は途中に声門閉鎖音を宿していて…、喉を閉じて一瞬の
ちにふたたび開く無音にちかい破裂音のなかに、風のすべての形態が隠されている。言語を生成する喉が、すべての風のヴァリアントを模倣する。声門
をふるわせて過ぎるのは穏やかな風ばかりではない。なかには邪な風、荒ぶる精霊も。エカトルの音は多様な風の変異型を意味として抱きながら、イン
ディオの声調言語のなかに自然物の元素的な運動を導き入れる。彼らの言語は、いわば反言語によって裏打ちされている。元素と、鉱物と、動物と、植
物とに開かれた音が、彼らの言語のなかに沈黙の層を堆積させる。多弁や饒舌な言葉へのインディオのためらいは、言語のなかに隠されたこの沈黙の層
が彼らの表情や挙動を通じて示す、ある種の警戒信号でもある。人間の言語がそれ自体ひとつの暴力であることをよく知っているからだ。言語を使いな
がら、恣意的な音声記号の氾濫する騒然たる世界から遠く離れて生きる彼らの充満した沈黙に、私は近づきたいと願う。
極小の語彙の世界から、人間と宇宙と神々を結ぶ像を精密に語り出す彼らの流儀を学ぶために、私は風の獣が駆け抜ける草原に通いつづけた。饒舌と
雄弁を至上の価値としてコミュニケーションなる理解の強迫観念を創りあげた文明を離れて。攻撃的で論理的で説明的な言葉の支配から完全に自由でい
ることはもはやいかなる人間にもできない。若者たちは、沈黙を消極的な態度として否定され、寡黙であることをなじられ、自己主張と説明責任を厳し
く強いる競争的な社会で孤立し、疎外される。その言語的疎外は、彼らの自閉的な言葉の寂しい自己主張によってさらに増長されてしまう。意味と絆を
求めて、言葉が絶望的に生産され、無益に消費され、その残骸がディジタル信号の廃墟にうずたかく堆積する。だが、意味の充満も、希望も、そしてお
そらくは真の絆も、沈黙の側にある。沈黙に退却することがけっして自閉でも疎外でもないことをインディオの音響的世界は私たちに教える。なぜな
ら、元素的な沈黙を媒介にして聴き取る風の声のなかに、万物を結ぶ理法が隠されてあるからだ。風が化身する草の穂のざわめきは、この元素的な沈黙
が発する精妙な叡智の声なのだ。》(『薄墨色の文法』3-4頁)
◎非人称の文字空間─ペルソナ性言語をめぐって
金子兜太との対談『他流試合――俳句入門真剣勝負!』でのいとうせいこうの発言。
「実は十日くらい前に、急に鬱っぽくなっちゃったんです。小説を書く上で今、何が嫌か、何を嘘っぽいと思うかというのをずーっと検証してた。そう
したら、「非人称の文字空間」という言葉が浮かんできたんです。つまり、「私」とか「誰々」とかという人称を使って文章を書いている自分がとても
嫌だということに気がついた。でも非人称の文学とはどういうものなのか? 主語をわざわざ明記しないという表現はいくらでもあるわけだけれども、
そういうことではなくて、文字の空間に自分をゆだねてしまうように、そんなふうにものを書けないのか、と。そうしたら「あ、それは俳句じゃない
か」と、思ったんです。」
「漱石の「則天去私」っていう言葉も、精神主義的に解釈されちゃうと最終的には悟りの境地になって自我を捨てたっていう話になるけれど、そういう
ことではないかもしれない、と。非人称という形式の中で、自在に文字の空間を戯れる──この自由さを「則天去私」と言ってるんじゃないか。イコー
ル「俳句」ということにもなるんじゃないか。」
「文庫版まえがき」でのいとうせいこうの言葉。
「…本書はやがて明かされる「すべての言葉を詩と捉える」という、大変に大きく強く、また優しくもおそろしくもある詩語論の精髄に至るための、金
子兜太からの導きの足跡だ。」
金子兜太の発言も一つ。(これはむしろ「クオリア性言語」にかかわる発言だ。)
「それじゃその季節感に代わるものはなんだと、こういうふうになりますね。私はそれを「物象感」と言っているんです。ものの本質感。詩人の安藤次
男はそれを「自然の質」というような言い方をしていた。自然の、そのものの質を捉えると。それが捉えられれば、季節感がなくたって、充分にいろん
なものを表現できるということです。」
──それでは肝心の、メカニカルな界域(狭義)に固有の言語をなんと名づければいいのか。「饒舌の言語」だろうか。「人称的言語」だろうか。光
の三原色を混合するとすべての可視光を含む透明の白色光が得られるように、「沈黙の声」×「X」×「非人称の文字空間」=「客観的・公共的言語」
という奇跡の(と言っていいと思う)等式を成立させる「X」とは何か。
私はそれを「演劇の言語」(演劇を成立させる言語、舞台空間において現象するすべての記号活動)として捉えてみたい。精確には「演劇」をモデル
とすることで、未知の言語「X」の存在様態(ペルソナが「仮面」として現象する言語空間)を垣間見ることができるのではないかと期待してい
る。……
[*]三浦雅士氏は、『孤独の発明
または言語の政治学』において「私には共感覚とは言語現象であるとしか思えない。」(447頁)と書いている。
《共感覚の問題は、言語の獲得とともに人間が直面しなければならなくなったさまざまな問題、すなわち社会的・政治的・宗教的問題の基層に潜んでい
る。共感覚すなわち感覚の転位にこそ、人間の基層を解く鍵が潜んでいる、と私には思える。
むろん、言語以前にすでにこの種の感覚の交響あるいは照応があったと想像することもできるわけだが、かりにそれがあったとしても現実には意味を
持たない。なぜなら、感覚の転位も交響も照応も、表現においてしか意味を持たないからである。(略)
要するに、感覚を比べるということ自体が言語以前にはありえない。》(『孤独の発明』447-448頁)
【9】原意識と高次の意識─クオリアとペルソナ・余聞
ペルソナをめぐる考察を進めるために、これとは存在の次元を異にするクオリアに関する理論、いわば「クオリア的世界」をめぐる議論を参照し、ペ
ルソナ論への援用を試みてきたのには、それなりの訳というか事情がありました。それは、私なりの“体系”的な思惑のようなものに裏打ちされていま
す。
というのも、これまで取りくんできた「韻律」「仮面」「文字」が、マテリアルで形象的な素材をふまえたものであったのに対して、いま取りあげよ
うとしている「推論」「ペルソナ」「文法」の各項は、メタフィジカル(もしくはメタフォリカル)で形相的な対象であって、前者と後者を代表する典
型例として、それぞれクオリアとペルソナの概念を取りだし、相互に関係づけることによって、マテリアルとメタフィジカルという二つの界域を接続す
る理論的な“導管”を設えることができるのではないかと考えたからです[*]。
この目論見が果たして充分に達成されたかどうか、あるいは、少なくとも議論を深めていくための論点の抽出くらいはできたかは措くとして、ここで
は、クオリア、ペルソナをめぐる(使いこなせなかった)手持ちの素材を生のまま拾っておきたいと思います。
◎「原意識」(クオリアの空間)と「高次の意識」(自己=ペルソナ)
ジェラルド・M・エーデルマン 『脳は空より広いか』(冬樹純子訳)の第6章「脳は空よりも広い──クオリア、統合、複雑系」から。
《クオリアはたくさんの座標軸からなる高次元の空間を構成するし、その位置は他のいろいろなクオリアとの相関によってはじめて決まる。相互識別と
いうのはそのような空間で生まれる。(略)
クオリアの組み合わせは無数にあり、ゆえに意識状態もまた限りなく豊かである。それでいて一つ一つの意識状態は分割不能な単一のものだ。「無数
に差異化される意識状態」と「単一の意識状態」、これらは一見矛盾するように思えるかもしれない。これらの特性が両立することを示すには、このよ
うな意識の特性が、どのような神経系の組織化から生れてくるかを説明できれば十分ではないだろうか。
まさにこのような特性が複雑系にみられる。》( 『脳は空より広いか』85-86頁)
エーデルマンは、複雑系としての脳の機能クラスターを「ダイナミック・コア」と呼ぶ。
《途方もなく複雑な神経回路を瞬時のうちに動員するこのダイナミック・コアは、意識のプロセスがもつ、「ひとまとまり(単一)でありながらも、
次々と変化し推移する」という特性にぴったりの神経系の組織化だと考えられる。(略)
とりわけ、コアを構成する回路やニューロン群がもつ縮退とか連合といった性質があるため、意識をもつ動物は、コアの活動によって高い次元の識別
が可能になる。クオリアとはこの識別に他ならない。そして多種多様な識別は、ダイナミック・コアが複雑系だからこそ現れるのだといえる。》(
『脳は空より広いか』90-92頁)
《動物がごく初期に行う識別は、自身の身体に関する知覚カテゴリー化が中心となる。そうした知覚カテゴリー化を担うのは、身体状態の地図的関係を
形成するいくつかの構造(脳幹その他の価値系にある)からの信号である…。これら「自己系」からの信号は、自分の身体が、内部環境および外部環境
とどのように関わっているかを報告する。報告は、いわゆる固有受容性感覚、運動感覚あるいは体性感覚、自律神経などからもたらされる。(略)
発達初期には、こうした身体感覚に基づいた原始的な自己意識(これは胎児期の動きでさえ影響する)を体験するが、これこそがわれわれのクオリア
空間に最初の方向性を与えてくれる。そしてそれを基点に、今度は外界からの信号(=非自己)をもとに、記憶が丹念に築かれていく。このように、高
次の意識が現れる前にまず、「身体を中心に据えられた」意識シーン、あるいは「脳が身体に伺いを立てる」クオリア空間が構築されるだろう。(略)
自己と呼べるような自己は、ヒトでは、意味能力や言語能力や社会性が徐々に備わって高次の意識が発達していく中で現れる。そうなるとそれぞれの
クオリアは然るべく名づけられ、はっきりと識別できるようになる。しかしクオリアはそうなる以前から、原意識によって識別されているし、しかもそ
の識別は、現在進行中のカテゴリー化に照らして行われているにちがいない。》( 『脳は空より広いか』93-94頁)
[*]私の現時点における“構想”では、さらに第三の「比喩・修辞」「イメージ」「註釈(学)」の三つ組が、メカニカルで道具的なテーマ群として
予定されている(項目名はいずれも仮称)。──ここに出てきた「マテリアル/メカニカル/メタフィジカル」の(高次の)三つ組は、「哥とクオリア
/ペルソナと哥」の第68章第5節から第77章第3節にかけて(その中軸は第69章から第76章まで)論じた「人間の言語の三帯域論」において詳
説している。
【10】昆虫のペルソナ・生けるペルソナ─ペルソナの諸相1
ペルソナという概念をめぐって、いくつか素材を蒐集します。まず、『エピステーメー』vol.1-2(1975年11月号)に掲載された三つの
論稿を、二回に分けて取りあげます。
その1.日高敏隆「昆虫におけるペルソナ」
─チョウの変身、プシケーの姿
《われわれがいつも見かける‘イモムシ’や毛虫は、すべてペルソナであり、‘かいこ’も‘かいこ’の‘まゆ’も、その中にひそむ‘サナギ’も、す
べてある意味ではペルソナである。
何にとってのペルソナか? それはいわずとも明らかであろう。彼らはチョウの、あるいはガのペルソナなのである。
一匹のチョウの産んだ卵は、けっして小さなチョウの姿に孵ったりしない。それは必ずイモムシに孵る。イモムシはやがてサナギになり、このサナギ
が何日か、あるいは長い冬を越して何か月かたったのち、突如として美しいチョウに変身するのである。
ギリシア人は、チョウがこのはげしい変身の過程でなおみずからの姿を忘れず、さいごにはちゃんとチョウになることに心を打たれた。姿はいかに変
わろうとも、チョウの魂は滅びない。そこでギリシャ人は、チョウのことを魂と同じことばでプシケー…と呼んだ。》(『日高敏隆選集Ⅴ』59-60
頁)
《しかし、より正確にいうならば、イモムシはじつはチョウに変身するのではない。なぜなら、イモムシはチョウのペルソナであるからである。
サナギから抜け出たばかりのチョウには、まだ伸びていないとはいえ、立派に翅が生えている。美しい色模様もすっかりできあがっており、チョウは
血液の力でみるみるうちに翅を伸ばしてゆく。(略)
ではチョウのこの翅はいつできなのか?(略)
こうしてわれわれの質問は、ついに卵の時代にまでさかのぼってしまう。チョウの翅は、じつに卵の中ですでにできているのである。いやできている
といっては、いいすぎであろう。翅の芽がすでに卵の中でできているのだ。(略)
翅はイモムシの体の中で、イモムシの成長とともに大きくなってゆく。イモムシは脱皮という現象の存在によって、不連続的に、階段状に発育してゆ
くが、内部の翅はそうではない。まったく連続的に、着々と、大きさを増し、終局的なチョウの翅に近づいてゆく。
そこには何の変身もない。ただ成長あるのみである。外から見れば、ギリシア人に魂にまで思いを致させた驚くべき変身も、その内部には何の変身も
はらんではいない。これは逆説的である。そしてそうであるがゆえに、イモムシはペルソナなのだ。》(『日高敏孝選集Ⅴ』64-67頁)
《昆虫においては、プシケーの姿はあらかじめ決まっている。(略)そして、その変身のシナリオも、そのペルソナの顔も表情も、すべてその種によっ
て決まっている。種の「遺伝的プログラム」というこの認識は、近代生物学のものではなく、現代生物学の基型をなす認識である。ギリシア人はそれを
ギリシア風に、プシケーと言う美しいことばで表現したのだ。
ぼくはイモムシがペルソナだといった。けれど、それはチョウをプシケーと認めたからにほかならない。種とはチョウすなわち親によって代表される
ものではない。すでに繰り返し述べたとおり、アゲハチョウは卵のときからすでにアゲハチョウ以外のものではない。どこをプシケーと見ても、いっこ
う差し支えない。種として見れば、すべて等価なのであるから。もしそのように見たとき、チョウはイモムシの美しいペルソナとなる。》(『日高敏孝
選集Ⅴ』67-68頁)
──日高敏隆が言う「ペルソナ」は、「プシケー」(ゲーテ形態学における「原型」と同義とみていいだろう)の異なる等価な「姿(現われ)」であ
る。それ(ら)は、私の語彙で言えば「メカニカルな界域」──すなわち「実在性(reality)」(©永井均)の水平軸であり、あるいは「地平
(Horizont)」(フッサール)にして「地平線」(三浦雅士『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』参照)でもある水平面──におい
て、転々とメタモルフォーシスを繰り返していく。
その2.渡邊二郎「生ける全体としてのペルソナ」
─ 世界によって貫き通されること
渡邊二郎は、①「仮面」から発して──すなわち「面が生きた人を己れの肢体として獲得」(和辻哲郎「面とペルソナ」)して──その背後に「人
格」の「現われ」や「役割」を想定する方向を「求心的志向」と呼び、②役者が「仮面」をつけて「役柄」を演ずる中で、当の役者も「登場人物」もは
じめて具体的に存在すると見る考えを「遠心的志向」と呼んでいる(著作集第10巻、621-622頁)。
前者の「求心的志向」は、「長い論争ののちに三八一年のコンスタンチノープル公会議で確立されその後中世を支配し続けた「三位一体」論、すなわ
ち「一つの実体」である神が「三つのペルソナ(ヒュポスターシス)」においてそれぞれ固有な働きの主格として現われているという教義のうちにも、
生きている」(623頁)。
これに対して「遠心的志向」(現代の哲学的状況)においては、「理性的なペルソナではなしに、「生ま身」のペルソナや、「役割」としてのペルソ
ナ、そして「個体」としてのペルソナよりも「世界」の中に連れこまれ、捲きこまれ、それと連関しているペルソナが、前景に浮かびあがってきてい
る」(626頁)。
《…ここでは、遠心的志向において、ペルソナが、野生の自然のうちに浸され、歴史社会的現実の役割諸関係の中に分断され、事物や他者とかかわる諸
連関の中におき戻され、世界全体の流動のうちに解消されかかってさえいる。「知覚の束ないし集合」にすぎないヒューム的な人格解体と、これはもう
一衣帯水の間にあること、言うまでもない。
もしも、「西欧の精神」の伝統が、「世界」を「思惟」と「行為」によって「響き渡らせ」「貫き通し」(ペル・ソナーレ)、こうしてみずからをも
「意識」と「自由」の「高次」の「包括的」段階に高めるところにあったとすれば、これは、それの崩壊なのか。それとも、その同じことが、ただ逆の
符牒を帯びて、人間が、世界によって「響き渡らせられ」「貫き通される」という事態において、現われているだけなのか。
「ヴォワイヤン」になり「詩人」でありたいと希ったランボオは、「われ思う」は誤りで、「〈われ〉は一個の他者である」と、一八七一年ジョル
ジュ・イザンバアル宛書翰で書いた。「森の中にあって、私はなんども、森を見ているのは私ではないと感じた。樹々の方が私を見つめ、私に話しかけ
るのだと、感じた日々もあった。……画家は世界によって貫かれるべきであり、世界を貫こうと欲したりしてはならないと、私は思う。……」と、アン
ドレ・マルシャンも書いた。》(『渡邊二郎著作集 第10巻 芸術と美』626頁)
──「求心的志向」のもとにおけるペルソナは「昆虫におけるペルソナ」と実質的に同等であり、一方、「遠心的志向」のもとにおけるペルソナはこ
れと異なり、「マテリアルな界域」と「メタフィジカルな界域」の両界域にまたがって──すなわち「現実性(actuality)」(©永井均)の
垂直軸に沿って、“世界”の側から──響き渡り、「メカニカルな界域」(“人間”の言語の界域)を貫通する力の働きがもたらすものである。
ところで、“人間”(水平軸)と“世界”(垂直軸)が、一方向ではなく相互に響き渡らせ・貫き通す関係を、坂部恵は「うつし身とうつし世がたが
いにうつり合う関係」として論じている。次回へ。
【11】高天の神々と荒ぶる国の神々─ペルソナの諸相1
その3.坂部恵「うつし身とおもて」
─高天の神々と荒ぶる国の神々
《〈うつつ〉は、たんなる〈現前〉ではなく、そのうちにすでに、死と生、不在と存在の〈移り〉行きをはらんでおり、目に見えぬもの、かたちなきも
のが、目に見え、かたちあるものに〈映る〉という幽明あいわたる境をその成立の場所としている。そこに、〈移る〉という契機がはらまれている以
上、〈うつつ〉は、また、時間的にみれば、たんなる〈現在〉ではなく、すでにないものたちと、いまだないものたち、来し方と行く末との関係の設定
と、時間の諸構成契機の分割・分節をそのうちに含むものである。》(『仮面の解釈学』195頁、『坂部恵集4』72頁 ※単行本収録に際して「う
つし身」と改題)
《〈うつつ〉の世界、うつし身とうつし世がたがいにうつり合いながら、いわば一つの構造化の規則あるいはコードのもとに秩序づけられた表面[おも
て]としての〈うつつ〉の世界は、すでにみたように、その上層と下層にそれぞれ目に見えぬ領域、「高天[たかま]」と「荒ぶる国」をひかえた、中
間領域として構成され、立ちあらわれる。
ところで、〈うつつ〉の世界を〈うつつ〉の世界として構造化しコードづける規則、あるいはコードはどこからくるかといえば、これもすでにみたよ
うに、それは、「高天」からくる。(略)
高御魂[たかみむすび]の命[みこと]などの「命」は、同時に「御言」 Verbum,Logos でもある。(略)
「命」は、同時に「御言」であり、神王[かみおや]の命を「顕し斎る」皇御孫の命によって告げ知らされ「告[の]ら」れる「みことのり」(御言
宣り)は、〈うつつ〉の世のもっとも基本的な構造を示す規則[のり]として、「みこともち」たる臣下によって、国の諸方にもち伝えられ、荒ぶる神
どもを、「鎮め平け」て、「顕し事」を「顕し事」として構成する。]》(『仮面の解釈学』201-202頁、『坂部恵集4』78-79頁)
《仮面[おもて]とは、〈うつつ〉の世界に、〈うつつ〉の世界とは別種の構成原理[コード]をもった下層の深みの世界が映じ、たちあらわれてくる
ところに成立する。いわば一種の〈反-うつ〉、超現実の世界において立ちあらわれてくるものにほかならない。(仮)この二重に意味づけられ、多元
的に決定された境位において、通常の〈うつつ〉の世と〈うつつ〉の身の表面[おもて]は色あせ、通常の〈うつつ〉の世界の構成規則[コード]から
すれば、一片の物体にすぎぬ仮面[おもて]が、世界と心の深みからくみとられたより深い生命をおびてかがやき出る。
(略)
「石ね・木立・青水沫も事問ふ」世界、「蛍火のかがやく神、また蠅声[さばへ]なす邪[あら]ぶる神」の世界、主体なき思考としての夢の世界も
また、それ固有の確固とした構成原理をもつ。この別種の構成原理によって構成された世界の生命が、ときに、〈うつつ〉の世界を破ってたちあらわ
れ、たとえば、異形の神々の〈仮面[おもて]〉を通してかがやき出る。
「高天[たかま]」の神々あるいはその名代もまた、ときに仮面[ペルソナ]のすがたをとって、異形の神々を「鎮[しづ]め平[む]け」る役柄を
おびて、たとえば祭式のドラマの中心部分に登場することのあるのは、よく知られたところだが、すでにみたように、こちらの方は、「御言」をその決
定的な審級としてもつものであるがゆえに、むしろ、地霊をはじめとする下層の神々の仮面[おもて]の相手役として(アルトーのいう〈ことば〉をそ
の決定的構成契機とせぬ残酷[クリュオーテ]の演劇の二次的なペルソナとして)、いわば前者にさそい出されてはじめて登場するとみなすべきものな
のかもしれない。(ペルソナ)を、〈位格〉として、第二の位格[ペルソナ]たる Vebum,Logos
を中核とした〈三位一体〉のうちに閉じこめてしまったキリスト教文明のなかで、仮面劇が衰退して行ったことの意味をおもうべきだろう。》(『仮面の解釈
学』204-206頁、『坂部恵集4』81-83頁)
──「移る=映る」とは、「受肉」(©永井均)のことだろう。受肉、つまり「現実性」の世界に属する事象が「実在性」の水位に「移る=映る」こ
と。あるいは、『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』における永井均氏の表現を借用して、次のように言えるかもしれない。
すなわち、「どんな天使にも最低限の質料があるように」(137頁)、いかなる「独在的」存在にも、言い換えれば、およそ「かたちなきもの」の
世界=「現実性」の世界に属するいかなる存在にも──‘上層’における「高天」の神々であれ、‘下層’における「荒ぶる国」の異形の神々であれ
──最低限の「受肉の事実」が、つまり「実在性」=「うつつ」=「表面(おもて)」の世界に「移され=映され」た‘何か’が──「仮面(ペルソ
ナ)」の姿をとった高天の神々であれ、「仮面(おもて)」のかたちをした異形の神々であれ──ともなうのだと[*1・2]。
《フィルム[=うつつ=実在性の世界──引用者註]をどんなにくわしく調べても、どこが現在であるかはけっしてわからないとはいえ、その逆に、ス
クリーン[現実性の世界]上に現に映っている映像の内容を調べてみれば、それがフィルム上のどこに対応するかを知ることができる…。端的な現在
[独在的存在]や端的な私[同]を、そちらの側からフィルム上に位置づけ[移し=映し]、いつであるか、誰であるかを知ることは可能で、むしろか
なり容易な仕事なのである。これがすなわち受肉の秘儀であり、そこには必ずいま述べたような一方向性がある。このように捉えた場合、自己意識[仮
面(ペルソナ)や仮面(おもて)]とはこの一方向的受肉の別名であることになる。》(『世界の独在論的存在構造』135頁)
[*1]ここで自問自答。私がかねてから想定している“理論的”な図式では、実在性=うつつ=表面(おもて)の世界、すなわちメカニカルな界域
(水平軸)をはさんで、上方にメタフィジカルな界域が、下方にマテリアルな界域が設えられている。この枠組みに準拠するなら、前者のメタフィジカ
ルな界域に「高天」を、後者のマテリアルな界域に「荒ぶる国」をそれぞれ配置し、この「高天/荒ぶる国」の垂直軸を「現実性」すなわち「かたちな
きもの」の世界と捉えることができるように見える。
しかし、私はそうは考えなかった。「高天」や「荒ぶる国」が「現実性」の世界に根ざしていることは間違いないが、それらは共にマテリアルな界域
に属するものである。込み入った言い方になるが、マテリアルな界域の‘上層’に「高天」が、‘下層’に「荒ぶる国」が位置づけられるということ
だ。(これに対してメタフィジカルな界域に配置するのは、一神教の人格神あるいは「一者」とでも総称すべき超越的存在がふさわしい。)
そうだとすると、「受肉」という概念をこの局面(坂部恵の仮面論、ペルソナ論)に持ち込むのがそもそも妥当だったかどうかという疑問が生まれ
る。これに対する私の考えは、「受肉」には広狭二義があって、メタフィジカルな界域からメカニカルな界域への「一方向性」をもったそれを狭義の
「受肉」と呼び、マテリアルな界域からメカニカルな界域への「一方向性」をもったそれを「憑依」と名づけて、この両者をあわせて広義の「受肉」と
解するというものである。
(ここでもまた込み入った言い方をすると、マテリアルな界域からメカニカルな界域への「一方向性」をもった憑依物のうち、「憑依」の語によりふさ
わしいのは「仮面(ペルソナ)」の方である。これに対して「仮面(おもて)」には、憑依とは別の、まだ見つけることができていない語──たとえば
「ペルソナ→モノ(ヒト)」の「憑依」に対する「ペルソナ(ヒト)←モノ」の「逆憑依」のような?──をあてはめて、これら狭義の「憑依」と未知
の語の両者をあわせて広義の「憑依」と解することができる。)
[*2]坂部恵によると、「仮面(ペルソナ)」とは「ことば」(Verbum,Logos)であり、「仮面(おもて)」もまたこれとは異なる「こ
とば」(主体なき思考としての夢のことば)であった。私は前者をシャーマンによる憑依の「ことば」に、後者をアニミズム的世界におけるモノの「こ
とば」に準えることができはしまいかと考えている。(これらに対してメタフィジカルな界域から降下するのが預言者による啓示の「ことば」であろ
う。)
最後に場違いな蛇足を一つ。本文において。前回から今回にかけて「©永井均」の印をつけて導入した「実在性」「現実性」「受肉」の概念について
は、いずれ「ペルソナ的世界」の“締め”の議論のなかであらためて取りあげるつもりである。
【12】日本語特有の論理とペルソナの倫理─ペルソナの諸相1
坂部恵のペルソナ論──『仮面の解釈学』(1976年)から『ペルソナの詩学』(1989年)を経て『〈ふるまい〉の詩学』(1997年)に至
る──の見事な要約を、「ペルソナの詩学」の特集を組んだ『表象06』(2012年)に見つけたので、以下、長くなりますが丸ごと抜き書きしま
す。一続きの文章(同書45-46頁)ですが、段落ごと分割し、それぞれに(勝手な)見出しを付けました。
その4.横山太郎「能面とペルソノロジー──和辻哲郎と坂部恵」
【人称分岐以前の原─人称の次元/日本語特有の論理】
《坂部によると、行為の主体 Subject (あるいはそれを記述する文の主語 Subject
)が一人称、二人称、三人称のいずれかとして明確になるような人格の表層の下に、人称分岐以前の原-人称の次元がある。そこでは行為の主体(述語の主語)
は置換可能である。こうした構想の背後には、佐久間鼎から三上章へ引き継がれた述語一本立ちの日本語構文論(いわゆる主語否定論)がある。三上
は、「あいまいで非論理的な日本語」という非難に対して、主語構成的ではない日本語特有の論理を記号論理学と同型的であると擁護した。主体の人格
(ペルソナ)/主語の人称(ペルソナ)が自己同一的でなくても、行為/文は論理的であり得るのだ。》
【自己同一的で相互排他的な表層/憑依され、変身し、多様な存在へ置換可能な深層】
《ここから坂部のペルソノロジーは、ペルソナ(人格=人称)の表層と深層の関係についての学となる。人格は、表層においては自己同一的で相互排他
的な意識の主体である。一般にはこれを「素顔=本当の私」と考えがちである。しかし、深層においては、人格は語源であるペルソナ=仮面と同じ構造
を持つ。それは、自分ではないものに憑依され、変身し、しかも仮面が付け替え可能であるように、一つに固定されずに多様な存在へ置換可能である。
他者と移り合い変換し続けるこうした人格の深層こそが、人格を生み出すポイエーシスの次元である。これは、「仮面の深層にある素顔」という近代的
な人格概念における「深層」とは全く異なる、優れて交通的な次元である。ドゥルーズ風にパラフレーズするなら、現勢的な次元で自分‘である’こと
は、潜勢的な次元で他者‘になる’ことによって支えられている、とでも言えるだろうか。》
【無限に他者になる深層/人格同士の間で移り合い、響き合う表層】
《たとえば私が私であることの深層には、「私」の置換可能な項としてあなたやその他の人々や人間以外のものたちが無限に連なっている。潜在的には
あなたが私に(私があなたに)なるかもしれず、彼らが私に(私が彼らに)なるかもしれない。私もあなたも彼らも根底においてそのような他なるもの
への無限の連鎖へ接している。表層においては、私でありあなたであるような人格が個別にかたどられているとしても、それらはこの無限に他者になる
深層の次元から、「なにかであること」の可能性を確保している。そうであればこそ、個別の人格同士の間で、移り合い、響き合う関係が成立する。》
【深層の論理(古論理)を表層の論理と短絡した和辻ペルソナ論の失敗】
《先に和辻のペルソナ論が、理論的帰結として表層と深層の区別を解消すると述べた。坂部が表層と区別された深層の次元を強調するのは、和辻の「失
敗」を繰り返さないためという側面がある。上述したように、人格の生成を支える深層の次元では、自己と他者一般が相互に浸透する。坂部はこれをア
リエッティの「古論理」を念頭に柔らかい構造と呼ぶ。これに対して、表層における自他の関係は、自己同一的主体同士の関係であり、強い構造を持
つ。自他が截然と区別されずに相互浸透することを、うっかり表層の強い構造のなかで理解するなら、それは個人と個人の差異が共同体全体に解消され
ることを意味する。坂部によれば「結局のところ、個と共同体全体との関係を排他的部分とその総和という人格的ないしより正確には間人格的世界の表
層でのみ妥当する論理ないし図式にしたがって考える傾向の強かった和辻」[『ペルソナの詩学』114頁]は、深層の論理を表層の論理と短絡してし
まったために、戦時期の自民族中心主義のイデオロギーに抵抗できなかった。》
【自他の相互浸透を深層に限定して理解する坂部のペルソナの倫理】
《坂部は自他の相互浸透を深層に限定して理解することによって、それが人格を賦活する力を確保し、一方で表層においては責任主体としての個人を維
持する。こうして、近代的主体を根底において他者へ開きつつ、政治的全体主義の陥穽に陥ることを回避することが、和辻をふまえた坂部の「ペルソナ
の倫理」であった。》
──ここで言われる「表層」は、実在性=うつつ=表面(おもて)の世界すなわちメカニカルな水平軸に相当し、「深層」は、現実性=「形なきも
の」の世界(高天と荒ぶる国)、すなわちメカニカルな水平軸に対して下方(=マテリアルな界域)から直交する垂直軸に相当する[*]。
それでは、実在性の水平軸(メカニカルな界域)に対して上方あるいは「高層」(=メタフィジカルな界域)から直交する、もう一本の現実性の垂直
軸についてはどのように考えればよいのか。私自身の考えは、すでに前回の註の中に書き込んでいる。すなわち、それは一神教の神あるいは「一者」が
棲息する界域のことである。
[*]「深層のペルソナ」に関連して、ここでどうしても引いておきたい文章がある。いずれも川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)の第17章「声とペ
ルソナ」から。
《…声とのかかわりで、ペルソナの単子性、重層性について考えてみよう。それは、本書のはじめから断続的にとりあげてきた語りの人称の問題、声を
発しているのは誰なのか、声がさしむけられ、またその声で存在を与えられ、あるいは強められているのは誰なのかという問いに戻ることでもある。語
源からして、ペルソナ(仮面)は、「音(声)によって」(per son)声を発している主体を認知させることにかかわっている。
声を発している“私”は、あくまでも醒めている。そして声のさしむけられる相手と対話し、第三者を指示する──それが「近代的」理性に最も適合
する、声とペルソナのあり方であろう。だが、これまでも見てきたように、もっと不定形[アモルフ]なコミュニケーションの場や、非単一指向性の発
話、あるいは真の宛て先[アドレシー]にはさしむけられていない発話、他の人称のとりこまれた言述などのいりまじる中にあって、一、二、三人称の
ペルソナを単子として想定したコミュニケーションを、「純粋」ないし「標準的」とみること自体が、「近代的」偏向の所産とみなすべきかもしれな
い。
単子化されえないのは、発話者の人称だけではない。声をさしむけられることによって、それを受ける者の人称もまた変質する。》(『聲』
241-242頁)
《超常界の‘もの’が発話者の口をかりる一人称の語りが、能、とくに夢幻能の後ジテの語りにいかに緊迫感を与えているかは、つとに横道萬里雄、表
章が指摘しているが、ペルソナと語りの人称の融通無碍な性格が、能ほどあからさまな領域もないだろう。地が感情移入してシテの人称でうたったり、
掛ケ合でワキとシテが融合するなど、人称の離合が自在であるだけでなく、死者や霊界、植物、動物、果ては雪や山の精と人間との主体の変換も、ごく
自然に行なわれる。(略)
このような能の表現に接していると、まず単子としてのペルソナがあって、その交錯や変換が起っていると考えるより、自然界に包みこまれたた未分
化の人称的世界に、登場人物や、元来の意味でのペルソナである面によって、かりそめの切れ目が入れられて物語が進行しているとみる方が、妥当では
ないかと思えてくる。(略)
近松半二以後の人形浄瑠璃においても、歌舞伎においても、「A、実はB」という、登場人物の人格の多重性が著しい。「××の世界」というフォー
クロアの下敷きがあって、「世界を曽我にとって」、花川助六実は曽我五郎時到といった、日本の芸能には親しい「趣向」や「見立て」の精神が生まれ
る土壌にも、日本の日単子的なペルソナ観念がしみこんでいるのであろう。》(『聲』245-247頁)
──ここで言われる「超常界の‘もの’が発話者の口をかりる一人称の語り」が、坂部恵の「仮面(おもて)」の、もしくは「仮面(ペルソナ)」の
「ことば」であることは見易いだろう。
蛇足ながら、このことも含めて、横山氏の文章に出てくる「述語一本立ちの日本語構文論(いわゆる主語否定論)」や「主語構成的ではない日本語特
有の論理」については、いずれ「文法的世界」のなかで(“やまとことば”の文法論として?)考えてみたい。また「ペルソナの深層」における「古論
理」についても、「推論的世界」なかであらためて取りあげたい。
【13】神のペルソナ、関係性をこそ本質とする存在─ペルソナの諸相2
「ペルソナの“高層”」をめぐるいくつかの話題を蒐集します。まず、西欧キリスト教神学における三位一体の神のペルソナをめぐるトマス・アクィ
ナスの議論。
その1.山本芳久「解説 かけがえのない「個」への導きの書」
(坂口ふみ『〈個〉の誕生』(岩波現代文庫))
《…トマス・アクィナスの三位一体論のうちには、「父」と「子」と「聖霊」という神の「位格[ペルソナ]」とは「自存するものである関係
(relatio ut
subsistens)」であるという謎めいた言明が見出される。普通に考えるかぎり、「関係」というものは、「自存する」すなわち自分の力で自立して存
在するものではない。なぜならば、「関係」というものは、自立して自存する「実体」があってはじめて存在するものであり、「実体」に依存してはじ
めて存在しうるものだからである。(略)
この世界の根源にある「神」は、孤独な存在ではない。この世界の創造後にはじめて「神」とこの世界との「関係」が成立するのではない。一なる
「神」自身のうちに、永遠的な「関係」が含みこまれている。東方のギリシア語では「ヒュポスタシス」、西方のラテン語では「ペルソナ」という言葉
で捉えられてきた「父」と「子」と「聖霊」という神の「位格[いかく]」が、「他」からの自立性ではなく、「他」との関係性をこそ本質とした存在
であること、いや、むしろ「他」との関係性のただなかにおいてこそ自立性を維持し続ける存在であるということを、著者[坂口ふみ]は、「ヒュポス
タシス」や「ペルソナ」という言葉の発生現場にまで遡って丹念に捉え直しているのである。》(『〈個〉の誕生』407-408頁)
──ここで述べられた“高層”におけるペルソナの意義、すなわち「関係性をこそ本質とした存在」[*]は、前回引いた坂部恵の“深層”のペルソ
ナ論(横山太郎によって和辻哲との比較において要約されたもの)と呼応している。たとえば、(主語的)関係性を本質とする「ペルソナの“高層”」
と、(述語的)置換可能性を旨とする「ペルソナの“深層”」といったかたちで。
(ちなみに、刊行されたばかりの『〈個〉の誕生』を、「中世哲学を、近現代の哲学との対話という広い土俵へと引っ張り出す」ための手がかりを与え
てくれる書物として山本芳久にいち早く教えたのは坂部恵だった(402頁)。)
その2.稲垣良典『人格[ペルソナ]の哲学』(講談社学術文庫)
《つまりトマスが、「御父」「御子」「聖霊」と呼ばれる神のペルソナは「自存する関係」を意味する、と言うとき、彼は神のペルソナにおいては「交
わり・即・存在」であることを見てとっていた。そうして彼はこの洞察によって、最高に一なる神において三つのペルソナが実在的に区別される、とい
う信仰の神秘への新しい神学的理解の道が開かれる、と考えたのである。》(『人格の哲学』186頁)
《ここで私はひとつの仮説を提示したい。それは、トマスが神のペルソナは「自存する関係」を表示する、と述べ、神のペルソナにおいては「交わり・
即・存在」が成立していることを示唆した──しかも何らの説明・弁明も必要としないかのように、いわば事柄そのものが語るという論調で──のは、
神(の存在・本質)は愛[アガペ]である、という啓示から霊感をくみとった「ペルソナ論的存在論」と呼ぶのがふさわしい存在論にもとづいてであっ
た、という仮説である。》(『人格の哲学』202頁)
──「自存する関係(=愛)」としてのペルソナ、あるいは「他との関係性(=愛)をこそ本質とした存在」であるペルソナは、「実存が本質であ
る」(『哲学探究2』251頁)ところの独在性の〈私〉(©永井均)に通じている。あるいは、ペルソナとは「現実性」と「実在性」の「混成体」
(同267頁)である。この話題はいずれ、「ペルソナ的世界」の“締め”の議論のなかで取りあげたい。
[*]この言葉から連想したのが、『死にいたる病』(桝田啓三郎訳、ちくま学芸文庫)第一編冒頭のよく知られた文章だった。キルケゴールはそこで
次のように畳みかけている。「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?」
《自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係が関係それ自身に関係するということ、
そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。》(『死にいたる病』27頁)
中島義道氏によると、キルケゴールが言う「自己」とは、自分を客観化している自己意識の段階に達した意識のことであり、そこでは“ich(語る
私)=ich(語られる私)”という「関係(V1)」が成立している。また、熱烈なクリスチャンであったキルケゴールにとって、「息子」という語
がすでに父親との関係を表わすように、「(人間)自己」はすでに神との「関係(V2)」を表わしている。すなわち“Ich⇔Gott”。
《自己とは、ひとつの関係(V1)、その関係それ自身(V2)に関係する関係である。あるいは、その関係(V1)において、その関係(V1)が関
係それ自身(V2)に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係(V1)がそれ自身(V2)に関係するという
ことなのである。》(『てってい的にキルケゴール その1 絶望ってなんだ』61頁)
中島氏の“解読”は、実は琴線に触れない。(ただし、キルケゴールにはカントやフッサールのように「自分の思想を厳密な言葉を尽くして客観的に
伝える才能」がないという指摘(59頁)は当たっているかもしれないと思う。)
私がキルケゴールの文章を想起したのは、「その関係が関係それ自身に関係する」という「関係」の累乗(三乗)表現のうちに、三位一体における神
のペルソナの存在様態が暗示されているように感じたからというただそれだけ(そこまで)のことでしかない。
【14】人間のペルソナ、もう一人の「わたし」─ペルソナの諸相2
“高層”から“地上”(人間の世界)に降りてきた「神のペルソナ」をめぐる話題を蒐集します。
その3.八木雄二『「ただ一人」生きる思想──ヨーロッパ思想の源流から』
《聖者フランシスコの出現が、当時の人々が人間イエスを考えるきっかけとなったことは、大いにありうる。そしてヨーロッパにルネサンスが始まっ
た。(略)
…キリストの再来を思わせる聖者フランシスコという特異な人間が同時代に出現したことによって、人々は生身の人間イエスが、ごく自然に生き生き
と想像できたことになった。フランシスコの行為は、キリストさながらの無私の行為だったからである。ところで生身の人間イエスを生き生きと思い浮
かべることは、生身の人間一般の評価を高めた。なぜなら、イエスがキリストであったということは、生身の人間が神と一体化する価値をもつと見られ
ることだからである[*]。ルネサンス芸術はまさしくその表現である。そしてスコトゥスのペルソナ理解も、キリスト論を通してこのルネサンス的人
間理解の線上にある。
それゆえ[フランシスコ会の]修道士スコトゥスは、ペルソナを考えるとき、人間界のなかの大物を考えるのではなく、フランシスコのような聖人を
思いつつ、キリストのペルソナ自身から、人間が取り戻さなければならないペルソナ性を把握しようとしている。つまりペルソナ、は、堕落した人間か
らではなく、むしろ典型としては神のペルソナ(キリスト)を考察の出発点にしなければならない、とかれは考えているのである。》(八木雄二『「た
だ一人」生きる思想』150-151頁)
その4.八木雄二『キリスト教を哲学する』
《したがって聖霊は信者が感謝して神の外側から祈る相手ではありえても、「父」と「子」のペルソナと比べると、神の内で一個の別の「ペルソナ」と
呼ぶのには物足りない側面がある。「ペルソナ」は神の内で独特の主体性ないし実体性をもつものとして理解されているからである。つまり、わたした
ちの経験によれば、わたしたちの間で二人の人間が顔を突き合わせたとき、目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるも
う一人の「わたし」という主体存在の印象)が、ペルソナの主体性ないし実体性と呼ばれる。それが聖書の記述のうちで「父」と「子」のペルソナの間
に、たしかにある。イエスも、父なる神に「なぜわたしを見捨てるのか」と、十字架による死の直前に訴えていたと伝えられている(マタイ福音書
27-46)。このような訴えは、相手が別の主体であるという認識がイエスの側になければ成り立たない。
しかし聖霊については、このような場面が聖書には出てこない。せいぜいイエスが「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ福音
書12-12)と言った中で、聖霊が主語、主体となるものとして言及されているだけである。しかしこれだけでは、一個の独立した「ペルソナ」とし
て一般人がイメージすることはむずかしい。それゆえ、信者にとっての聖霊のペルソナ性は、むしろ事実上、聖母マリア信仰の場面で生じている。聖母
自身は、たしかに一個の人間である。神ではないから神のペルソナのうちの一つではない。しかし、神の子を宿し、愛した母ではあると見なされるか
ら、信者が聖霊のはたらきの具体的姿として聖母を思い描くことは否定できない。》(『キリスト教を哲学する』187-188頁)
その5.ジョルジュ・アガンベン「ペルソナなきアイデンティティ」
(岡田温司・栗原俊秀訳『裸性 イタリア現代思想1』)
《今日、人間が剥き出しの生へと縮小している…。剥き出しの生はいまや、国家が市民にたいして認めるアイデンティティから成り立っている。アウ
シュビッツに収容された人びと…と同様に現代の市民は、匿名的なマスのなかで、潜在的な犯罪者と同一視されることで孤立を深め、生体測定的なデー
タによってのみ規定される。そして最終的には、いまだ不透明で理解しがたい、過去からの宿命の一種、すなわちDNAによって規定されるのである。
(略)生体測定による本人確認はあらゆる権力装置と共通の性質を持っている。というのも、それは多かれ少なかれ巧妙に隠蔽された幸福への欲望を取
りこみ、内面化しているからである。この場合に焦点となるのは、ペルソナの重圧から解放されたい、自身が身につけている道徳的かつ司法的責任から
解放されたいという欲求である。ペルソナは(悲劇的な面相であろうと道徳的な面相であろうと)罪をもたらすものであり、ペルソナが含み持っている
倫理は、分裂(個人と仮面の分裂、倫理的ペルソナと司法的ペルソナの分裂)にもとづくがゆえに必然的に厳格なものになる。まさにこの分裂に逆らう
べく、ペルソナなき新たなアイデンティティは、仮面の唯一性ではなく、果てしない多極性という幻想を主張しているのである。ペルソナなきアイデン
ティティは、純粋に生物学的かつ非社会的なアイデンティティに個人を拘束しておくことで、個人にあらゆる仮面を、ありうべきあらゆる第二・第三の
生を、インターネット空間のなかで好きなだけ身につけられるように仕向けるのだが、個人はそのなかのどれひとつとして、本当に自己の所有物とする
ことはできないであろう。》(『裸性』90-92頁)
《わたしたちは慨嘆するでもなく期待するでもなく、ペルソナ的アイデンティティともペルソナなきアイデンティティとも違う、人間の(あるいはたん
に、生命体の、といったほうがよいかもしれない)新たな像[フィグーラ]を模索する準備をしておかなければならない。新たな像の容貌は、仮面を超
えたところ、生体測定的な‘外観’を超えたところにあり、いまだわたしたちはそれを見ることができない。しかし、夢を見るかのように気絶している
とき、正気に返るかのように意識を失っているとき、新たな像の予感は時として唐突にやってきて、わたしたちを身震いさせるのである。》(『裸性』
93頁)
※
抜き書きした以上の文章には、①受肉した神のペルソナとしての人間のペルソナが、②聖霊のペルソナ性(霊性)もしくは「目の前の相手から受け取
る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の印象)」へと推移し、やがて、③「いまだ不透明で理解しがた
い、過去からの宿命の一種、すなわちDNA」へと矮小化されていく“頽落”のプロセスが示されていました。
ペルソナの諸相の次なる展開は、まず、②のテーマに深くかかわる森岡正博氏の仕事を一瞥したうえで、最後に、①と③のテーマにも関連する永井均
氏の議論──すなわち、受肉(①)ともう一つの「過去からの宿命」である“記憶”に基づくペルソナ論(③)──を取りあげる、といった流れで進ん
でいきます。
[*]番外として、R・A・ニコルソン『イスラーム神秘主義におけるペルソナの理念』の邦訳書に寄せられた井筒俊彦の「序詞」の一節を引く。
《キリスト教の中核をなす三位一体の教義をまぎれもない多神教、偶像崇拝の一形態として糾弾し、キリストもムハンマドも含めて全ての預言者の神性
を徹底的に否定することが、初期イスラーム思想の根本的立場だった。だが時の経過とともに、預言者ムハンマドにたいする信徒の尊敬と熱烈な愛と
は、ムハンマドを、彼自身の意図に反して、次第に神格化していく。そしてここに至って、キリスト教のキリスト論とイスラームのムハンマド論とは、
いわば平行線をなして展開しはじめるのである。》(『読むと書く──井筒俊彦エッセイ集』217頁)
──井筒の文章は続く。ニコルソンの著書がキリスト教とイスラームの「極めて微妙な」類似と相違を見事に描きだしていること、そしてスーフィズ
ムにおける宗教的実存の主体性の本質的構造が「人格性」の観念をめぐって浮き彫りにされていること。「そこに展開されるスーフィー的主体の形象
は、スーフィズムを越えて、より普遍的に、神秘主義的主体性の本質を衝く。」
魅力的な世界だがこれ以上は深入りせず、ここでは、キリスト教、イスラーム思想のいずれにあっても、(キリストやムハンマドの神性をめぐる)ペ
ルソナ論が神と人との間をつなぐ“媒介”として機能したこと(そのように私は捉えたこと)を確認しておきたい。
【15】森岡正博のペルソナ論─ペルソナの諸相3
前回抜き書きした文章のなかに、「目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の
印象)」(八木雄二)という表現がでてきました。これにもつながりうる話題として、以下、森岡正博氏のペルソナ論を取りあげたいと思います。
実は、「ペルソナ的世界」を立ちあげたのは、森岡氏が提唱する「アニメイテド・ペルソナ(animated
persona)」について考えてみたいと思ったからでした。まず、この概念に至る前史、“森岡正博のペルソナ論”を構成する諸論文の概観からはじめま
す。
①「パーソンとペルソナ──パーソン論再考」
/『人間科学:大阪府立大学紀要』第5号(2009年)
この論文で森岡氏は、生命倫理学における「パーソン論」(自己意識主体に限定して生存権を持つ存在者=パーソンとして認める)を批判し、「自分
たちの同類である」ことにではなく「その存在者が自分にとってこの上なく大切である」こと、すなわち「関係の歴史性」に着目する概念として「ペル
ソナ」を提示する。
<私との個別的な「対関係」のうえに生成してくる何ものか>
《ペルソナとは、他人の身体のうえにあらわれたところの、言語を用いない対話をすることのできる何ものかのことである。そのような対話をすること
ができるのは、ペルソナのあらわれる身体をもった人間と、そのペルソナを感じ取る人間のあいだに、長い時間をかけて培われた関係の歴史性があるか
らである。その歴史性のなかに堆積した記憶の積み重なりが、ペルソナとなって二つの身体のあいだに立ち上がり、「私とペルソナの対話」として私に
感受されるものを、私に経験させるのである。したがって、ある身体にペルソナが立ち上がるかどうかは、その身体と私とのあいだの関係の歴史性に依
存する。ある身体が、どんな人に対してもペルソナとして立ち現われるわけではない。ペルソナの立ち上がりは徹底的に個別であり、普遍妥当性は持た
ない。この意味で、ペルソナは私との個別的な「対関係」のうえに生成してくる何ものかである。》
②「ペルソナと和辻哲郎──生者と死者が交わるところ」
/『現代生命哲学研究』第1号(2012年)
和辻哲郎の「面とペルソナ」を踏まえて、森岡氏は次のように論じている。
あたかも生気の吹き込まれた能面が「ペルソナ」となり、舞台上の人格の座となって肢体をふたたび獲得するように、「家族が脳死患者の身体にペル
ソナをありありと感受するとき、家族は脳死患者の身体を、ちょうどペルソナが受肉したものであるかのように理解するであろう」。
<「ペルソナ」としての「死者」>
《ここから、「死者」のひとつの意味が明らかになる。それは、もう生きてはいないけれども、「ペルソナ」の宿っているような人間の身体のことであ
る。脳死の人の家族が、脳死の身体はもう生きていないと考えていたとしても、そこに「ペルソナ」を感受していたとすれば、その脳死の身体は家族に
とって「死体」ではなく、「死者」であるということになるだろう。「ペルソナ」は、「死体」を「死者」へと引き上げるはたらきをする何ものかであ
る。(略)
「ペルソナ」としての「死者」とは、自己意識を持っておらず、実体として存在しないにもかかわらず、そこにその人が存在しているという確かなリ
アリティをもって私に迫ってくるような何ものかなのである。古来より「幽霊」と呼ばれてきたもののうちのある種のものが、この「ペルソナ」として
の「死者」に近いように思われる。》
③「ペルソナ論の現代的意義」
/『比較思想研究』第40号(2013年)
森岡氏はこの論文で、(坂口ふみ『〈個〉の誕生』に多くを依りながら)西洋思想史における概念の歴史的変遷をたどり、自らが提唱してきたペルソ
ナ概念を振り返っている。
<届いてくる声、響いてくる声に耳を澄ませること>
《森岡のペルソナ概念は、これら歴史的に脱落してきた重要な意味を、現代の文脈にふたたび取り入れようとするものである。すなわち、脳死の人との
「対話」「会話」にペルソナを見るとは、脳死の人から届いてくる声、響いてくる声に耳を澄ませてそのリアリティを担保することであり…、死んでし
まった人間が死者としてふたたび現われるという実感をペルソナとして捉えるとき、それは生命を与える息吹のようなものをそこに感受しようとしてい
るのであり…、脳死の人にペルソナが現われる理由を関係の歴史性に見ようとすることはまさに存在が交わりであり関係であることを確認することであ
る…。…神との関係については確言することはできないが、生者のみならず死者もまたペルソナとして現われて対話することができるという世界観は、
何かの超越者との関係において人間の存在を捉えようとしていることにつながるように思われる。
と同時に、西洋のペルソナ概念と相容れないように見える側面もある。それは、森岡の言うペルソナは、理性や自己意識を持たない存在者、たとえば
脳死の人、死者として現われる者、あるいはロボットや人形にまで現われる。これは、キリスト教で思索されたペルソナとはまったく異質なものであろ
う。しかしながら、仮面から声が届いてくることや、生命を与える聖霊の動きという意味にまで遡れば、それらこそがまさに私の言うペルソナを支えて
いるものであるようにも考えられる。》
④「人称的世界はどのような構造をしているのか──生命の哲学の構築に向けて(10)」
/『現代生命哲学研究』第7号(2018年)
この論文で森岡氏は、かねてから進めてきた「ペルソナ論」の試みと「独在論」の議論を「人称的世界 the personified
worid」の哲学のもとに合流させている。
以下、議論の中心をなす「人称的世界の9象限構造」(一人称・二人称・三人称の三つの主体と、一人称・二人称・三人称の三つの指示対象という二
つの軸を組み合わせることで得られる区分)のうち、「ペルソナ的主体」に関連する記述のみ抜粋する。(永井(均)哲学にかかわる「独在的存在」の
議論が興味深いが、ここでは割愛する。)
<そこに人がいるという否定しがたいリアリティ>
《二人称的主体(ペルソナ的主体)・・・そこに人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫ってくるような主体のこと。
…二人称的主体とは、目の前に人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫って来るような主体のことである。たとえば、私が誰かと楽し
く食事をしているとき、私は、ありありとした人の存在を目の前に感じ取っている。目の前に人がいるというリアリティは疑いようがなく、私はそこに
人が確実にいるという前提でもって、その人としゃべったり、笑い合ったりする。そのときに目の前の人の身体に現われている主体が、二人称的主体で
ある。私が誰かと楽しくしゃべっているとき、私はその相手の頭の中に魂やクオリアが存在しないかもしれないとか、ほんとうはよくできたロボットか
もしれないと本気で疑ったりはしていない。この意味で、二人称的主体とは目の前の人の身体の背後に隠れて存在する精神的実体のことではなく、私の
前にありありと現われてくるところの、そこに人がいるとしか思えないという迫力のことであると言える。それはまた「ここにいるよ」という「音波の
ない声」として規定することもできる。
脳死の子どもには自己意識は存在しないと考えられるが、その子を前にした親が、自分の子どもの身体に「まだその子がいるとしか思えない」という
リアリティを持つことがある。彼らは、その子の身体にまだありありと現われているその子に向かって語りかけ、その身体を撫でるのである。このとき
に、その親に対して現われているところの、そこにその子がいるとしか思えないというリアリティのことを私は「ペルソナ」と呼んできた。「ペルソ
ナ」は、目の前の身体に自己意識がなくても、その身体に立ち現われ得る。能舞台では、能役者が顔に付ける木製の能面の表面にさえ「ペルソナ」が現
われることを和辻哲郎は指摘した。私は二人称的主体のことを、ペルソナ的主体とも呼ぶことにする。》
【16】アニメイテド・ペルソナ─ペルソナの諸相3
森岡正博のペルソナ論、承前。
⑤“Animated Persona:The Ontological Status of a Deceased Person
Who Continues to Appear in This World.”(2021)
⑥ “The Sense of Someone Appearing There: A Philosophical
Investigation into Other Minds, Deceased People, and Animated
Persona.” (2023)
⑦「誰かがそこに現われているという感覚 ──他者の心、死者、アニメイテド・ペルソナの哲学的探究」
/『現代生命哲学研究』第13号 (2024年)
アニメイテド・ペルソナをめぐる二本の英文論文のうち、⑥を著者自身が暫定的に翻訳したのが⑦である。以下、この日本語論文から、関連する個所
をペーストする。
<「私はここにいる」という音波のない声>
《私は近年の論文[⑤]で、「アニメイテド・ペルソナ animated
persona」の概念を導入し、脳死の身体や役者の顔に付けられた木製の能面でさえ、いったん様々なファクターによって活性化されればそれは人格性の現
われる場所となり得ると主張した。それらのファクターとは、たとえば、患者と家族のあいだの人間関係の堆積、役者の舞台上での身体運動、そして彼
らが置かれたダイナミックな文脈などである。私はアニメイテド・ペルソナを以下のように定義した:「アニメイテド・ペルソナとは、何かあるいは誰
かの表面上に現われて発せられた「私はここにいる」という音波のない声である a soundless voice saying, ‘I AM
HERE’ that appears on the surface of something or
someone」…。ここで、「音波のない声」という言葉は、アニメイテド・ペルソナは五感を通して認識される幻覚ではない(つまり音声幻覚ではない)の
であり、身体全体を通してのみ認識可能なものであるということを意味している…。 》
森岡氏は⑥で、アニメイテド・ペルソナの概念を次のように「再解釈」している。
<誰かが現われていると私に強く信じさせる音波のない声>
《アニメイテド・ペルソナは何かあるいは誰かの表面上に現われる。アニメイテド・ペルソナとは、私の前の人間の身体や物体の上に誰かが現われてい
ると私に強く信じさせるところの、音波のない声である。それが周りの環境のなかにおぼろげに現われることもある。アニメイテド・ペルソナは、物体
のもつ人間のような姿かたち、堆積した人間関係の歴史、物体に対する愛着、愛する人間への愛情、物体がコミュニケーションを取ろうとするふるま
い、などの様々なファクターによって活性化されて現われる。アニメイテド・ペルソナは、眠っている子ども、亡くなった人間の身体、人間ではない物
体の上にも現われ得る。》
このような理解のもと、森岡氏は「人間に似た何ものかの現われのメカニズム」について──死者の現われを現象学的に説明する「幻肢モデル
the phantom limb model」や、人間ではないものの表面への現われを説明する「期待モデル expectation
model」を組み合わせて──、様々な「現われ」のケースにごとに分析を進める。
アニメイテド・ペルソナが現われるいくつかのケースのなかに、そこに現われた誰かとの会話が同時に生起している場合、すなわち会話のパートナー
が現われているケースがあることに触れ、この二つの現われは明確に区別しなければならないと指摘している。
<二人のパートナー、アニメイテド・ペルソナと会話のカウンターパート>
《大事なポイントは、私が話しかけているカウンターパートと、友人の身体の上に現われているアニメイテド・ペルソナは、異なったレイヤーに存在す
る異なったものであるということだ。というのも、アニメイテド・ペルソナは私によって主観的にのみ認識され得るのに対し、私の会話のカウンター
パートは多くの人々によって客観的に観察され得るからである。友人と会話しているあいだ、アニメイテド・ペルソナのレイヤーにおいて私はアニメイ
テド・ペルソナの現われを感じ続け、そこから発せられる「私はここにいる」という音波のない声を聴き続けているのであるが、同時に会話のカウン
ターパートのレイヤーでは、私は双方向的で対称的で客観的に観察可能な言語のやりとりを目の前のカウンターパートと行なっているのである。この二
つのプロセスは我々の会話において同時に成立する。もちろん前者は主観的であり、後者は客観的である。
もちろんアニメイテド・ペルソナとカウンターパートは存在論的に異なった存在者であるのだが、この二つが現われる物理的な場所は、通常ほとんど
同一である。アニメイテド・ペルソナは友人の身体の表面上に現われ、私のカウンターパートもまた友人の身体の上あるいは内部に漠然と存在するよう
に認識される。したがって、私が友人に話しかけるときには、私は自分の目の前にたったひとりのパートナーだけがいるかのように感じるのだが、それ
は正確ではない。私には二人のパートナーがいるのである:ひとりは友人の身体の上に私が感じるアニメイテド・ペルソナであり、もうひとりは私が双
方向的な会話をしているところの、私の会話のカウンターパートである。 》
森岡氏の議論は、アニメイテド・ペルソナの現われの三つの重要な側面、すなわち「表面性」「投影」「道徳性」をめぐる考察──人間に似た何もの
かが住みついたのは目の前の身体や物体の表面であって、その背後の領域ではないという「表面性の背後性よりの優越 the supremacy
of surface-ness over buhind-ness」の概念の提唱など──へと進む。
最後に、「アニメイテド・ペルソナの概念は、ロボット倫理学における有益な概念的道具として働くことができる」といったアニメイテド・ペルソナ
理論の“応用”もしくは“拡張”の可能性に言及しつつ論考が閉じられる。
※
以上、摘まみ食い的な摘要になりました。森岡正博氏のペルソナ論、とりわけその現時点での到達点であるアニメイテド・ペルソナの理論をめぐっ
て、ここで、気になった点や気がついた事柄について、いくつか覚書を残しておきたいと思います。
まず、私が気になったのは、アニメイテド・ペルソナの現われを表現するのが、なぜ「音波のない声」であって「顔」ではないのか、ということでし
た。
「汝殺すなかれ」とメッセージを発するレヴィナスの「顔」など、いかにもアニメイテド・ペルソナの概念に似付かわしいと思われるのに、そして何
より、「私はこのラテン-日本語である「ペルソナ」という言葉を、和辻哲郎のエッセイ「面とペルソナ」から借りた」とわざわざ註を付けているにも
かかわらず、なぜ顔(面)には一切触れず、特権的に「声」を取りあげたのか。
このことは、アニメイテド・ペルソナと「会話のカウンターパートナー」との存在論的区別の強調とも関連しています。声にならない(沈黙の)声、
会話にならない(一方通行の)会話。唐突ですが、私がここで想起しているのは“固有名”です。
本稿「ペルソナ的世界」の第4節で、「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私には感じら
れる。」というウィトゲンシュタインの言葉(『哲学探究』第2部270節)を引きました。また、ベンヤミンが「言語一般および人間の言語につい
て」で「固有名は人間の音声という姿における神の語」であると述べたことにも触れました。
おそらく、森岡氏のアニメイテド・ペルソナの概念をつきつめていくと、その有力なゴールの一つは(「彼の顔にぴったり合っているかのように…感
じられる」)“固有名”になるのではないか。私はそのように考えます。
そのほか、森岡氏の議論は、「内なる心・意識」(シニフィエ)対「表に現れたアニメイテド・ペルソナ」(シニフィアン)といった記号論的構図へ
の徹底的な拒否の姿勢に貫かれているわけですが、一方で、アニメイテド・ペルソナにはどこかしら「浮遊するシニフィアン」を思わせるところがあり
ます。この点が少し気にはなりましたが、これはただそれはそれだけの話で、後がつづきません。
それより大切だと思うのは、森岡氏のペルソナ論と永井均氏の独在性の〈私〉をめぐる議論との関係です。これも結論めいたことを先に言ってしまう
と、アニメイテド・ペルソナは、いわば「もう一つの〈私〉」という本来あり得ない存在について語るための概念装置として考案されたものだったので
はないか、たとえば「アニメイテド・ペルソナ=〈汝〉」といった等式を念頭において。
このことについては、次回以降、永井哲学──ペルソナ論との関係において、私はそれを“永井神学”と呼んでみたい──を一瞥するなかで、再考し
たいと思います。
【17】“永井神学”とペルソナ論─ペルソナの諸相4
ペルソナの諸相をめぐる話題は尽きませんが、このあたりで、いったん締めることにします。
最後に取りあげるのは、独在性の〈私〉をめぐる永井(均)哲学です。まず、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』の第1
章および第2章の議論を援用しながら、永井哲学におけるペルソナ論(永井氏がそういったテーマで論じているわけではありませんが)の概略を一瞥し
ておきたいと思います。
永井氏は、色や匂いといった感覚(クオリア)にかかわる事象における「現象(appearance)」と「実在(reality)」の区別と、
(その「主観側バージョン」である)心や意識における〈私〉と《私》の区別──すなわち、現に(actually)「なぜか一つだけ例外的に存在
するむきだしの意識」という独在的なあり方と、実のところ(really)は他の人々も「なぜか一つだけ例外的に存在するむきだしの意識」という
あり方をしていることとの、言葉の上では違いが識別できない二つの事実の区別──とを類比させて論じています(第1章段落13以下)。
両者に共通するのは、①「現に黄色く見えれば黄色く、現に甘く感じられれば甘い、という問題と、現に「なぜか一つだけ存在するむきだしの意識」
であれば現にそうなのだ、という問題を同型と見る」(14頁)ことができる点、そして②両者がともに「あらかじめ可能性の空間を前提としてそのう
ちの‘これ’[前者の場合:諸々の色ではなく黄色い、諸々の味でなく甘い、後者の場合:他の人々ではなくこの人]が現実だ」(同)としている点で
す。
ただしかし、前者の感覚については、色や味といった一般概念と、黄色い・甘いのような個別事例とを対比させることができるのに対して、後者の
〈私〉は、他に比較すべき例のない、それこそ例外的存在なのですから、この点で両者は決定的かつ根底的に異なります。「それが現に永井均のそれで
あれば[永井均に受肉した〈私〉であれば]、それがすべてで終わりである。その事実と並んで、もうひとつの現実にむきだしの心が存在することはも
うできない」(16頁)。
もちろん、私たちが依拠している「言語的世界像」においては、すべての人がそういうあり方をしています。「この世界像の内部では、なぜかただ一
つだけむきだしの意識が存在しているという端的な現実性が否定されるのではなく、最初から「可能な「端的な現実」」として理解されることになる」
(18頁)。
この「端的な現実性」──「突出する現実性」とか「実存的突出」などと表現されることもある──すなわち〈私〉に対する「可能な現実性」、言い
換えると概念的に理解された〈私〉のことを、永井氏は《私》と表記しているわけです。(カントールの超限順序数に倣って、0=φ(={ })=
〈私〉,1={φ}=《私》、などと置き換えてもいい。つまり、〈私〉そのものを、独在性を表わす山括弧〈 〉の中に代入する=概念化することで
《私》が得られる[*1]。)
精緻な哲学談義を乱暴に括るのが心苦しくなったので、以上の議論を、永井氏自身が別の観点から「補足」している箇所を第2章から引きます。
《[第1章]段落13以降の、感覚との類比についてもひとこと補足しておくなら、これはつまり第0次内包と無内包との対比である。第0次内包に
は、文字どおり第0次的に、つまり直接的に、固有の内包が(つまり特徴が)ある。痛みはくすぐったさと、甘さは酸っぱさと、それぞれ内容的に端的
に異なっている。対して無内包のほうには、いかなる特徴もない。《私》たちとは異なって〈私〉であることにも、《今》たちとは異なって〈今〉であ
ることにも、固有の特徴がない。それはちょうど現実に存在するということに特徴がないのと同じことである。百ターレルが札束であることも、重いこ
とも、見えることも、……も、みなそういう特徴であるが、そうした諸特徴をもった百ターレルが現実に存在することは、そこに付け加えられるべき、
それらと並ぶ特徴ではない。同様に、悲しいことも、鳥の鳴き声が聞こえていることも、子どものころのことを思い出していることも、……も、その心
のもつ特徴であるが、それが唯一のむきだしの心であること、すなわち〈私〉の心であることは、そこに付け加えられるべき、それらと並ぶ特徴ではな
い。どれが〈私〉であるか、いつが〈今〉であるかを、そのもつ特徴によって識別することはできない。それが無内包の(内包の違いによって識別され
ない)端的な現実性なのである。》(『哲学探究3』30-31頁)
無内包の──内包=事象内容=特徴によっては識別されない、というか、そもそも内包=事象内容=特徴というものを持たない、ただ「現実に存在す
る」こと、つまり現実存在=実存であるというだけの──現実性(アクチュアリティ)と呼ばれるのが〈私〉の本籍地であり、対して、感覚的なもの
(クオリア)は、第0次的に固有の内包=事象内容=特徴をもつ、実在性(リアリティ)の世界(有内包の世界)に属している、ということです。
(ちなみに、内包には他に、第1次内包(例:梅干しや夏みかんを食べて酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるもの)と第2次内包(例:脳科
学的・神経生理学的な探究によって判明する酸っぱさの本体、脳内のミクロな物理的状態)がある。本論稿「ペルソナ的世界」の第6節を参照。)
それでは、ペルソナはどうなったのか。永井哲学(神学)におけるペルソナの位置づけを、いったいどう考えればいいのか。そして、それは「アニメ
イテド・ペルソナ」といかなる関係を切り結ぶことになるのか。
私なりの答えは、第6節の図中にあらかじめ、先走って書き込んでいました。簡略化し、かつ若干の補訂を加えて再掲します。
<無内包:現実性(非実在性)>
[メタフィジカルな界域]
【ペルソナ】
<第0次内包>
━━━━━━╋━━━━━━
┃
┃
<有内包:実在性>
━━━━━━━━━━━━━
[メカニカルな界域]
┃
┃
━━━━━━╋━━━━━━
<第0次内包>
【クオリア】
[マテリアルな界域]
<無内包:現実性または潜在性>
ペルソナは、〈私〉それ自体が属する本籍地──「実存(existence)」もしくは「現実性(actuality)」の世界──ではなく
て、「神学的=科学的」[*2]な世界──「本質(essence)」もしくは「実在性(reality)」の世界──という現住所において捉え
られるべき存在です。
精確に言えば、ペルソナは、クオリアとは異なるレベルで、つまり実在性の世界の“深層”ではなく“高層”において、クオリアと同じ第0次内包を
もってリアルに実在している。したがって、それは、〈私〉を概念化──「内包化、事象内容化、実在化」(『探究3』74頁)──して得られる
《私》と同型の存在構造をもってはいるが、けっして同じものではない[*3]。
森岡正博氏が論文「人称的世界はどのような構造をしているのか」で提示した区分を借用すれば、一人称的主体にして一人称的対象である《私》に対
して、ペルソナは本来、二人称的主体としてこれと対峙して立ち現われてくるものなのではないか、と私は考えます。
前回用いた記法で表現すれば、ペルソナとは《汝》で(も)ある──もう一つの〈私〉という、本来あり得ない存在を概念化=内包化して得られる実
在物、あるいは、“固有名”で呼びかけられるべき二人称的主体にして二人称的対象、すなわちアニメイテド・ペルソナで(も)ある──ということに
なります。
[*1]『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』に、「実存が本質である」という命題が登場する。
《現に私は、私が存在することが何が存在することなのか、じつのところはわからない。わかるはずがないだろう。類例がないのだから。それはただ
‘これ’であるだけである。その‘これ’が何であるかはわからないし、わかるはずもない。それは何にも似ていないし、似ているはずもないからだ。
世界(森羅万象という意味での)が何にも似ていないのと同じことである。これがすなわち、実存が本質である、ということである。》(『哲学探究
2』251頁)
最後の一文に付けられた註では、「〈私〉や〈今〉にかんしては──少なくとも最終的には──存在しているということそれ自体がその本質であらざ
るをえない」とも言い換えられている。
そうすると、引用文で「それは何にも似ていないし、似ているはずもない」と書かれているにもかかわらず、著者自身が、〈私〉と〈今〉が似てい
る、類比的であると認めていることになる。さらに、「世界(森羅万象という意味での)が何にも似ていないのと同じことである」と、森羅万象(実在
性の世界)ではないという意味での世界、すなわち現実性の世界もまた、〈私〉と類比的であると認めている。つまり、〈私〉≒〈今〉≒〈現実〉。
それはさておき、「実存が本質である」を、独在性を表わす記法〈 〉を使って表現すると、「実存すなわち〈 〉が本質すなわち《 》である」と
なる。
この《 》は、現実性(実存、無内包)ではなく、実在性(概念・本質、有内包)の世界に属する事象を表わしている。〈私〉や〈今〉や〈現実〉は
語りえないが、《私》や《今》や《現実》は語りうる。前者を後者に変換し、「私」「今」「現実」のように一般/特殊の並列関係に置き換えるのが言
語である。すなわち「言語的世界像」。この世界像は、主として人称、時制、様相の三つの文法カテゴリーの働きによって成立する(『哲学探究3』
18頁)。
[*2]「神学的=科学的」という言葉は、『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の109頁で使用されている。
創造神によって開かれた世界の実相を探求するのが科学である。神学が、「現実性」の世界における事実を「実在性」の世界における言語によって記
述=弁明するものだとすると、科学はこれと同型の探究を、「法則」と「観察・実験事実」との間で数学的言語を使って遂行する。こうした理解のもと
でこの語(「神学的=科学的」)を捉えることができる。
ちなみに、私が本節のタイトルに“永井神学”なる語を配したのは、このような意味での神学(だけ)ではなく、たとえば「受肉の秘儀」をめぐる議
論にうかがえるような、永井哲学のコアな部分で、文字通り、西洋神学の思索と親密な関係を結んでいる──結んでいると見ることによって、永井哲学
を理解するための有益な示唆が得られる──のではないかと、かねてから直観していたからだ。
(“永井仏教学”という方向もある。現に永井氏には仏教関連の複数の著書(鼎談、座談形式の共著)がある。いずれも中身が濃い。ただ、議論そのも
のとしては“永井神学”の方が鋭く刺激的である。好みの問題かもしれないが。)
[*3]ここで気になるのが、〈私〉という表記の不徹底性である。本文の括弧書きの中で、山括弧〈 〉を独在性の表現として扱った。その論法でい
くと、無内包の現実性は本来〈 〉と表記するのが妥当なのではないか、という批判が成り立つ。(現に入不二基義氏は、〈私〉や〈今〉で語られる永
井の無内包の現実性は無内包性が不十分であると指摘した。)
この疑問に対する永井氏の回答が、『存在と時間──哲学探究1』で次のように示されている。
《感性の形式(つまり時間空間)や悟性の形式(つまりカテゴリー)の適用を経ていないため、まだ現象を構成していない、つまり実在していないが、
その素になっているものを「物自体」と呼ぶとすれば、〈私〉や〈今〉は物自体である。とはいえしかし、ほんとうに物自体だとすれば、〈私〉だとか
〈今〉だとか、何らかの内容的規定[=事象内容]を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらは、このような超越論的な(=実在を構
成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残った)、
物自体のお零れのようなものなのであろう。》(『哲学探究1』77頁)
森岡正博氏のアニメイテド・ペルソナ──それは私が考えようとしている(してきた)ペルソナと、まったく同じものであるとまでは言えないにして
も、少なくともその“半身”(二人称的存在様態)を共有している──は、〈汝〉という「物自体のお零れ」(痕跡)を、というか「(音波のない)残
響」をとどめる実存(現実存在)を概念化=内包化したものであると言える。
(私が考えようとしている(してきた)ペルソナの残りの“半身”は、〈私〉とまったく同じものではないとまでは言えず、少なくともその形象性にお
いて、「物自体のお零れ」(痕跡)を質料化したものであるとは言えるのではないかと思う。たとえば「(光波のない)残像」として“見える”ように
なった天使の顔や姿態のかたちで現象界(実在性の世界)に立ち現れたもののような。)
【18】混成体、記憶、クオリアとゾンビ─ペルソナの諸相4
最後に、永井哲学(永井神学)とペルソナ論との関係をめぐる話題(個人的関心事)を、いくつか備忘録として拾っておきます。
その1.「混成体」をめぐって
“愛”を本質とするペルソナは、現実性と実在性の「混成体」である。第13節で、私はそのように書いた。後半部分の出典となった永井均氏の文章
を引用する。
《意識の私秘性という問題にはじつは、経験的事実としてそれぞれ他の箱[=心]の中を覗くことがでないという種類の問題と、箱はじつは並列的に存
在してはおらず、なぜか一つだけいわば裏返されており、すべてがその「中」にあるという問題とが、一つの問題に統合されているのである。私秘性と
いう概念には本質的に異なる二種類の世界像が混在している。これを「矛盾」と呼ぶこともでき、それはマクタガートの言う時間の矛盾と(現れ方は異
なるとはいえ)問題の根は同じである。哲学的に重要なことは、そこに同じ問題を見て取ることである。私秘性がその本質的要素に含まれると見なされ
るかぎり、意識、感覚、体験、……等々のすべての概念に、これと同じことがいえるはずである。それらはみな、寄与成分[第0次内包:実在性]と無
寄与成分[無内包:現実性]の混成体だからだ。》(『哲学探究2』266-267頁)
私が考えようとしている(してきた)ペルソナは──その“半身”をなすものとして、不遜にも限定的に取り込んだ森岡正博氏のアニメイテド・ペル
ソナの概念ともども──ここで言われる「私秘性」の範疇に、すなわち第0次内包と無内包との「混成体」に属していると言える。
ただその場合にあっても、その本籍地は現実性(実存)ではなく実在性(本質)の世界なのではないか。つまり「混成体」とは堕天使のような存在な
のではないかということ。
──唐突だが、私はここでかつて傾倒した八木誠一氏の「統合体」としての心、その統合をもたらす「内なるキリストのはたらき」という思想を想起
している。神が受肉したイエス・キリスト、そのキリストが受肉した私(統合体にして混成体?)。
その2.「記憶」をめぐって
森岡氏の──「目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の印象)」をめぐる
──アニメイテド・ペルソナ論を一瞥したうえで、「受肉」と「記憶」をめぐる“永井神学”の議論を取りあげる。第14節で、私はそのように書い
た。まだ充分な準備ができていないので、以下、素材のみ覚書として書き残しておく
永井氏は『哲学探究2』において、「〈私〉の持続という問題」をめぐって次のように書いている。
《彼ら[「唯物論的独我論者」と「東洋の専制君主」]は、〈私〉であることが一人の人物と結合し、その結合がその人が生まれてから死ぬまで持続す
るという素朴な直観を疑っていない。彼らの問いも答えもこの前提に依存している。しかし、「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、
現実に思い出したり予期したりする人」とか、「その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると現実に痛く、その体だけを直接動かせる、……
人物である」といった、〈私〉の成立の第一基準は、じつのところは「現に今そうである人」の意味であって、過去にそうであった人や未来にそうであ
ろう人は含まれていない。理由は簡単で、過去にそうであった人とは今そう‘記憶されて’いる人のことであり、その記憶の現実性それ自体には第一基
準が使われているとはいえ、過去との繋がりはその記憶の内部で保証されているにすぎないからだ。未来についても事情はまったく同じである。》
(『哲学探究2』236-237頁)
文中の「記憶の現実性」に付けられた註。「…ここで「記憶の現実性」とは、その記憶が正しいという意味ではなく、その記憶だけが現実に与えられ
ているという意味である(すなわち、われわれがずっと問題にしてきた意味での「現実性」である)。記憶におけるこの二要素──その現実性(実存)
とその内容(本質)──の‘結合’こそが〈私〉を世界に繋ぎ止めている。」(237頁)
〈私〉を世界に繋ぎ止め、〈私〉の持続を成立させているのは、言い換えれば、〈私〉の受肉の受け皿となっているのは、身体と記憶だろう。現実性
(実存)と実在性(本質)の「結合」とは「混成」の別名だろう。
森岡氏が、アニメイテド・ペルソナ──その究極は、「固有名」で呼びかけられることを待っている存在なのかもしれない、あるいは“霊性”(生命
感覚)のごときもの?──が現われ活性化されるファクターとして挙げていた要素は、煎じ詰めると「身体(姿形、ふるまい、表面性、等々)」と「記
憶(歴史、愛着、文脈、等々)」に集約できるように思う。そして、私が考えようとしている(してきた)ペルソナの(アニメイテド・ペルソナではな
い方の)“半身”は、このうち「記憶」の成分をより濃厚に含んだ存在だったのかもしれない。
その3.「クオリアとゾンビ」をめぐって
永井氏は、『哲学探究3』第5章のⅡ「「クオリア」とそれを欠くとされる「ゾンビ」の真の(隠された)意味」において、次のように論じている。
いわく、自己識別の第一基準「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、現実に思い出したりする人」には、二つの側面がある。
第一は、意識あるものとして理解された犬や猫のような動物において、非言語的な仕方で、反省的自己意識の成立とは無関係にはたらいていると考え
られる側面であり、第二は、人間における「私」という語の適用基準として、いわば自己意識の成立基準のようにはたらいている側面である。
この二つの側面に対応させて、二つのゾンビを想定することができる。
第一の犬猫ゾンビは、通常理解される意味での「哲学的ゾンビ」が十全な形で、つまり感覚質としてのクオリアを欠いた生き物として想定可能だが、
第二の人間ゾンビは、そのような形でのゾンビが想定できない。ゾンビの人に欠如しているクオリアとは意識の感覚的成分のことではなく、想起や推論
に必ず伴う「それが自分に起こっているという事実」だからだ。
心的事象を質的成分と意味的成分に分ける場合、通常の理解では前者がクオリアと呼ばれるが、意味的クオリアというものもある。質的成分であれ意
味的成分であれ、問題の構造は変わらない。いずれにせよ、「たくさん存在している意識主体の意識経験のうち、どの主体の意識経験がただ一つ現実に
体験されるか」という問題が、ここに介入してこざるをえない。
犬猫ゾンビに関して、第1章では次のように述べられている。
「…人間という生き物からクリア成分を取り除くとゾンビという生き物になる、といった捉え方はじつは誤りである。そのように捉えられれば、そこで
取り除かれるべきクオリアという成分は、実在しないからだ。クオリアを取り除くとは、その究極的な意味においては、累進の原点にあるただ一つのむ
きだしの心からそのただ一つのむき出しという性質を、これまで使ってきた表現法で表現するなら〈私〉である人からその〈 〉性を、取り除くという
意味でしかありえない。そのこと自体が累進的に一般化されることによって、人々(あるいは生き物)が一般的に持つ実在的なクオリアという発想が生
じたのである。」(20-21頁)
「だから、クオリアは無関与成分かという問いも、的はずれである。無関与的であるのは〈私〉の〈 〉性であり、クオリア概念はその疑念の一部にそ
の無関与的なあり方に由来するものを密輸入して暗に取り入れているにすぎない。」(21頁)
また、永井氏がいう人間ゾンビは「《私》ゾンビ」(82頁)にほかならないのだが、このことも既に第4章で論じられていた。
「…〈私〉だけあり方が他の人々と違っているというその違い方が概念化されて他者たちにもそれぞれ適用できるという段階を経て、その違い方の適用
が概念的にもできないような人を想定してそういう人を「ゾンビ」とみなす、という段階に達することができる。通常の哲学的ゾンビの想定にもこの意
味が控えめに言っても含まれてはいるように思われる。」(68頁)
そして、他人はじつはゾンビかもしれないという懐疑論の哲学的意味についても、第5章のⅠにおいて次のように語られていた。
「これまでそう理解されてきた「クオリアの欠如」という側面からこれを捉え返すなら、この問題は、たしかに平板な(平面的な)世界理解においては
第0次内包レベルにおける感覚的な質の欠如と解釈されざるをえないとはいえ、じつのところは、平板な(平面的な)世界理解の内部ではそもそも理解
不可能な、それを超えたいびつな(立体的な)世界理解において初めて理解可能となる、「無内包の現実性」としての〈私〉(およびその概念的理解と
しての《私》)の成立とその欠如にかんする問題にほかならないのではあるまいか、という問いなのである。比喩的に語るなら、クオリア(感覚質)と
は立体的な事実が平面へ投影された形でしかないのではあるまいか、ということである。」(95-96頁)
※
かくして、議論は「クオリアとペルソナ」の問題へと帰還しました。第6節の図における「ペルソナ(コギト)」(それは永井氏が独自の意味で使っ
た「クオリア」でもある)の欠如態としての「ゾンビ」すなわち《私》ゾンビ。
私は、アニメイテド・ペルソナにも、この意味でのゾンビ性──永井氏が言うところの「人格ゾンビ」(114頁)──を感じるのですが、はたして
この直観が正しいかどうか、正しいとしてそれがどう正しいのかは、(ゾンビをめぐる永井氏の議論の真意を私が理解できているかを含めて)今後の宿
題として残しておくことにします。