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善長寺 縁起


堺市が設置した銘板

 勝軍山・善長寺は、天文18年(1549年)に三好政勝が、

父宗三の菩提所として、宗三戦死の日(6月24日)を以て

開基と定め、浄土宗粟生光明寺(京都)の顕空上人を請

して開山とした。

  境域には本堂、庫裏および門外に観音堂があり、

本尊は阿弥陀如来像で、観音堂には永正13年(1516) 

 8月13日宗三が戦陣を堺に布き、網道場(金光寺)に

宿泊した際感得したものといわれる十一面観世音菩

薩像(微笑観音
)を安置。

 政勝はこれを「松の観音」と称して、天文9年(1540)3月

堂宇を創立して像を移し荘厳なる供養を行ったと寺伝に

書かれています。

 粟生光明寺の末寺であった当寺は、寛永5年(1628)

 9月8日第6世の住持聴誉利道の時、浄土宗知恩院の

末寺に改め今日に至っています。
























  → 松観音略縁起書


*三好政長(宗三は法名) 1491~1549
        従四位少将三好善長公・越前守

  阿波の大名三好一族の武将、かの三好長慶も一族

の一人で共に室町幕府の管領細川晴元の家臣として仕

えた。

  時あたかも戦国時代、下克上の世、畿内で次第に

勢力を伸ばした三好長慶は一族の長老三好政長の

存在がうとましく、政長の讒言によって父元長が誅殺さ

れた恨みもあり、晴元に政長父子の誅殺を請うたが受け

入れられず。

 これがため、晴元に叛旗を翻した長慶は晴元・政長と

敵対した。

  摂津国江口城に籠城した政長は援軍間に合わず、

長慶軍の猛攻に会い討ち死にした。

 細川晴元は将軍足利義輝を伴って近江に逃避、三好

長慶が洛中で天下を手中にする。



 三好宗三の墓所

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