田 健治郎 「漢詩四行書」


 

    

 

田 健治郎は 安政2年2月8日 柏原町下小倉の 田 文平(季胤)の次男
として生まれ 7歳の時から長澤貞順のもとで 習字や読み書きを習い
10歳の時には 篠山藩の儒学者 渡辺弗措の塾で漢学を学びました
13歳の時には 弗措に伴って江戸に赴き 帰郷の後は 柏原藩の儒学者 小島省斎
のもとで学びます そして17歳になった時 但馬 和田山の富豪 太田太右衛門
と言う人物が 健治郎の賢者ぶりを聞きつけ 「是非 養子に・・・。」
と懇望され 太田家の養子となります その後も 健治郎は 勉学の傍ら
近所の子供たちにも 読み書きや習字を教えるなど 何不自由のない生活を
送っていましたが 静かな山の中で一生を終るのではなく 世に出て
名を上げ 身を立てることを願っていた健治郎は 太田家と縁を切り 東京へと
向かいます そして 同じ小島省斎の門下生でもあった 田辺輝実、津田 要の
世話により 明治7年5月 「熊谷県等外出仕」 に採用となり ここから健治郎の
官界人生がはじまりました その後は 愛知や名古屋の裁判所に勤務の後
高知県警部長、神奈川県警部長、埼玉県警部長などを歴任し 明治26年には
当時 逓信大臣だった 後藤象治郎に見込まれて 逓信省郵便局長となります
そして大正5年には 逓信大臣となり  大正8年10月には 台湾総督
大正12年9月には 農商務大臣兼司法大臣 大正15年5月には枢密顧問官と
重職を歴任しますが 昭和5年10月1日に脳溢血で倒れ
昭和5年11月16日に 76歳で亡くなりました

漢詩が得意だった健治郎は 地元の譲葉山にちなみ 号を 「譲山」 と称して
多くの詩文を残しています この作品は 健治郎が和田山の太田家にいた頃
17歳の時に書いた作品です

 

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