立春も過ぎて世の中がバレンタイン商戦に踊らさせていた そんなある日の土曜日 西田は勤務の帰り道 レンタルビデオショップに来ていた
西田真美は大阪市内のとある 中学校に勤務する女教師40歳を過ぎたとはいえ
スタイルと顔立ちは女優の松下由樹に 間違えられるほど若々しく その年齢を感じさせなかった
夫も小学校の教師で子供は
小学校5年生の長女と同じく小学校3年生の長男に囲まれ
ごく普通の幸せな家庭生活を 送っていた
普段なら勤務が終ると近所のスーパーで買い物を済ませ一目散に帰路に
着き台所に立つのだがこの日は夫が子供たちを連れて一泊の予定で朝から釣りに出かけ 何年ぶりかで静かな一人の週末を過ごしていたのだった
そこで今夜はワインでも
飲みながら大好きな映画のビデオでも見て思いっきり一人の時間を楽しもうという 魂胆なのである
「“マディソン郡の橋”かぁ〜 そう言えばこの映画 まだ見てなかったよねぇ〜 よし!これに決定!」
西田は心の中でそうつぶやきながらそのビデオを手に取ると レジに向った ・・・とその時 「・・・先生?」うしろから誰かがそう呼んだ
呼ばれて
西田が振り返るとそこには20代半ばのスーツ姿の青年が立っていた見れば今人気の 若手俳優窪塚洋介に何処となく似た好青年である
「西田先生でよすね?」 「ハイ そうですけど〜」「俺ですよ先生 わかります?」 言われて西田は青年の顔を マジマジと眺めた
好青年だけど何処か淋しそうな目と照れを含んだ笑顔・・・ 西田は
すぐにそれが誰だかわかった 「・・・中塚くん?」
中塚英俊
25歳 彼は西田が教師になって初めてクラス担任になった時の生徒の 一人だった 中塚は当時
いわゆる登校拒否で初めて西田を手こずらせた生徒 だったのだ 登校拒否といっても 今
社会問題になってる“引きこもり”とかいった 生徒ではなく
かといって集団でたむろする不良タイプでもなく
いわゆる一匹狼的な 古いタイプの問題児だったのである
そんな中塚だったが西田とは何故か波長があった そして親身になって接してくれる西田に対して少しずつ心を開くようになり
いつの間にか 中塚は西田に好意を持つようになっていたのだ
思春期に年上の女性に憧れを抱くという
まぁ男にはありがちな話ではあるが
そのおかげで中塚は無事に中学校を卒業できたし 西田にとってもそれが教師生活を始めて最初にぶち当たった難関だったので
それが クリア出来て教師を続ける自信にもつながった大事な思い出の生徒の一人だったのだ
「久し振り〜 随分と立派になったね スーツなんか着てるから一瞬別人かと思ったよ この近くに勤めてるの?」「いいえ
東京の出版会社で営業の方をやってるんですけど きょうは ちょっと所用でこっちに帰ってきたんですよ
ご無沙汰してます〜」そう言って 中塚はペコンと頭を下げた すっかり大人の男性へと成長した中塚だったが
視線を そらせて照れ笑いを浮かべたその顔は昔のままだった 「先生
きょうはビデオ鑑賞ですか?」 「そうなの
夫が子供たちをつれて一泊で出かけてるから久し振りに独身生活に帰って のんびりしようと思ってね・・・そうだ! ねぇ 中塚くん!時間ある?
良かったら お茶でもしない?」「えっ!先生がお茶に誘ってくれるんですか?それならもう喜んで・・・。」
久し振りの再会で意気投合した二人は ビデオショップを出るとすぐ向いにある喫茶店に 入った
そして時間を忘れて話込むのであった
「先生覚えてます?俺が昔 駅前で近所の不良グループを相手に大ゲンカしそうになった時
先生が金属バットを振り回して止めに入ってくれたのを・・・。」 「忘れる訳ないでしょ5人も相手に一人でケンカしようとするんだもん
無茶苦茶も
いいところよ」「でも 金属バットを振り回して“私を殴ってからにしてェ〜”なんて止めに 入る女教師というのも
今考えたら無茶苦茶なんじゃないの?」「ハハハッ〜確かにそうよね
実はあの頃
私も教師を続けて行く自信がなくてね“もうどうにでもなれ”って感じで半ば
ヤケクソだったのよ」「でもあの時は先生の迫力に見ていた大勢のギャラリーからも拍手が 興ってさ〜
それに圧倒されて不良たちもバツが悪そうに退散していったんだよね
あの時の先生カッコ良かったよな〜」「あの一件以来よね 中塚くんが学校へ来て
くれるようになったのは・・・。」「まぁね
先生の男気に惚れたと言うか・・・。」 「なんだとぉ〜 もう一辺言ってみろ 誰が男だってぇ〜」「ハハハッ〜」
何時の間にか二人は 周りの目も忘れるほど大きな声で大笑いをし話に熱中していた 「なんて楽しいんだろう」 西田は心の中でそう感じていた
この若い青年を前に 久し振りに生き生きとしている自分自身に気が付いていたのだ
思えば結婚して以来 夫以外の異性とこんな風に二人っきりで話すのは
これがはじめてではないのか? 夫はギャンブルや女遊びをする訳でもなく真面目に働いてくれるし二人の子供たちも 大きな問題を起こすでもなく
すくすくと育っている傍目から見ればこんな幸せな生活は ないだろう しかし毎日 朝一番に起きて朝食の準備をし
夫と子供たちを送り出し
自分も仕事に出かけ終ったらまた一目散に帰宅して夕食の準備・・・。毎日の家事と
仕事に追われるばかりで変化のない退屈な生活にうんざりしていた西田にとって この中塚との会話は久し振りに味わう新鮮な快感だったのである
楽しい会話は終ることなく続いた
西田は何時しか中塚に対し大人の異性としての 魅力を感じはじめていたが
この時はまだ西田自身それに気付いてはいなかった
ふと我にかえって外を見ると辺りはすっかりと日が暮れ 春とは名ばかりの冷たい雨 となっていた「わっ
どうしよう?私 傘持って来てないわ」「すみません先生 すっかり 引き止めてしまって・・・
俺 車ですから
お送りしますよ」「大丈夫よ すぐそこだから
この程度の雨なら走って帰ればすぐだし・・・。」「まぁ そう遠慮せずに・・・。それとも
俺の運転じゃ信用できなって訳かな?」「そう言う訳じゃないけど・・・。」 少し戸惑いながらも西田は 「まぁ いいか
それじゃお言葉に甘えようかな〜」 「そう来なくっちゃ」 こうして西田は中塚の車に乗り込んだ
さっきまでの賑やかだった 喫茶店での会話とは打って変わって二人だけの空間は静かなトーンの会話となった
「ねぇ先生!先生は今の旦那さんと何処で知り合ったの?」「なんでそんなこと聞くの?」 「いや
何となく興味があって・・・。」「そうねぇ〜 職場結婚ってとこかな?」 「へぇ〜 ・・・ということは先生の旦那さんも教師なんだっ」「そうなの
夫は小学校だけどね」
「へぇ〜
そーなんだ・・・ところで先生は幸せ?」「ちょっとぉ〜 一体何が言いたいの?
ひょっとして変な宗教にでも入ってるんじゃないでしょうね」 中塚の質問に対し西田は疑問げにそう問い返した すると中塚は「ごめん
今の質問は
取り消すよ 妙な宗教に足を踏み入れたりはしてませんのでご安心を・・・。」そういって
苦笑いをした
そんな中塚に対して今度は西田が反撃に出た「私のことより 中塚くんは
どーなの?彼女とかいないの?」「残念ながら・・・。」「なんだ なんだぁ〜
人の心配を
するより自分の心配をしろ」そう言って西田は右手で運転席の中塚の頭を軽く指で
突付いた
そんな会話をしているうちに車は西田のマンションへと到着した 二人は
携帯のアドレスと電話番号を交換すると・・・ 「ありがとう
それじゃ仕事頑張ってね」
そう言って車を降りようとした西田の右腕を掴んで中塚が・・・。「ねぇ先生
もう少しだけ
いい?」「何 どうしたの?」「実は俺 きょう先生に話があってここへ来たんです」
「えっ?」
予期しなかった中塚の言葉に西田は一瞬“ドキッ”とした 「学校の方へ
行ってみたんだけど先生は転勤されてたみたいで・・・それで学生の時に一度だけ
あのビデオショップで先生を見かけたことがあったもんで
もしかして・・・と思って
来てみたんです
そしたら先生が・・・。」「そうだったの
でもどうして?」 「実は俺 ずっと先生のことが好きだったんです・・・。」
西田は動揺した 久し振りに会った教え子からまさかこんな言葉が帰ってくるなどとは 想像もしていなかったからである
考えてみれば目の前にいる中塚はすでに中学3年生
だった頃の中塚ではない
すっかり大人の男性として成長した一人前の男である そんな中塚が西田に対し真剣に恋心を抱いたとしても何の不思議も無かった
そして 西田自身もこの時ようやく自分の気持ちに気づきはじめていた しかし西田には夫も 家族もいる それを考えると うかつな返事は出来なかった
西田は努めて冷静なふりを して・・・。「ありがとう 突然だったからビックリしたんだけど
なんか凄いうれしい・・・。 今 すごく動揺してるんだけど でもなんて言ったらいいのか・・・ ごめんね
こんな
在り来たりな言葉しか言えなくて・・・。」「俺の方こそ突然変なこと言ってすみません こんなこと言ったら先生が迷惑するのは承知してるんだけど でもどうしても 自分の
気持ちだけは伝えておかないと俺の中で心の整理ができなくて・・・。学生の頃から ずっと先生に憧れてたんです
でもそれが最近になって単なる憧れなんかじゃないって ことに気が付いたんですいろんな女性と付き合ってはみたんだけど
いつも俺の心の中には
先生がいて・・・
それがどうしようもなくて・・・。実は来週
仕事の都合でシンガポールへ 行かなけりゃならなくなったんです
行けば多分4〜5年は帰れないと思うんですよ そう思ったら余計に先生のことが気になりだして それで
旅立つ前に自分の気持ちを
先生に伝えてスッキリして終わりにしようと思って・・・。」「その為だけに大阪まで来たの?」 「ハイ」「もし
きょう私があのビデオショップに来ていなかったら?」「その時は
あきらめて 帰るつもりでした」
突然の展開に頭の中が混乱する西田は「・・・ありがとう」その一言を いうのがやっとだった「俺の方こそすみませんでしたでも会えてよかった
これで気持ちが スッキリしました」「そっちの気持ちはスッキリしたかもしれないけど
おかげでこっちは 複雑よ・・・。」 西田は中塚に視線を向けると微笑みながらそう言って車を降りた中塚は
西田の手の温もりと感触を記憶にしっかりと刻み込むかのように名残惜しげに車の ドア越しに握手をすると「ありがとう 先生」「うん こっちこそありがとう
仕事頑張ってね」
「先生もね」そう言い残すと「ア・イ・シ・テ・ル」・・・と
ドリカムの 「未来予想図U」の歌の歌詞さながらにテールランプを5回点滅させ雨ににじむ 街中へと消えて行った
マンションの部屋に戻った西田は リビングの机の上に借りてきたビデオを置くと
ソファーに座ったまま夕食の支度をする気分にもなれずジッと一点を見つめて物思いに ふけっていた
こんな時もし家族がいたら直ぐに気持ちを切り替えることが出来た
だろうに・・・。よりによって今夜は一人っきり・・・。西田は借りて来たビデオを見る気にも なれず冷蔵庫からワンイを取り出すと一人で飲みはじめた
外の雨音は一段と激しく なっていた
どれくらい時間が経っただろう?「トゥルル〜 トゥルル〜」西田の携帯電話が鳴った
西田は手に持っていたワイングラスをテーブルの上に置くと携帯電話をとった 「もしもし・・・。」 問いかけてみたが返事がない そこで
もう一度「もしもし・・・?」 すると今度は小さな声で返事が返ってきた「・・・先生?」それは
さっき別れたばかりの 中塚の声だった 「中塚くん?」「すみません先生 自分の気持ちを整理するつもりで
先生にお会いしたはずなのに先生に会ったら余計に気持ちが・・・。」
中塚の携帯の 向こうからは激しい雨音が聞こえていた「ねえ中塚くん 今
何処にいるの?」
そう問いかける西田に対して電話口の中塚は・・・。「先生のマンションの下にいます」 そう言われて驚いた西田が5階のベランダから下を覗くと 雨の中
傘もささずにジッと 立ったまま携帯電話を握り締めた中塚がそこにいた 「ちょっとぉ〜風邪ひくよ〜」 西田は そんな中塚の姿を見たとたん思わず電話口でそう叫んだ そのあと
しばらく 沈黙が続いた 雨は容赦なく中塚の頭上から音を立てて落ちている
見かねた西田は
静かな口調で・・・。「上がってくる?」そんな西田の言葉に中塚は「いいんですか?」 確認するようにそう問いかえした 西田は しばらく間を置いて「うん ・・・いいよ!」 とうとう その一言を発してしまうのだった
「部屋
間違えないでね 5階の516号室よ それとお隣に聞こえるからチャイムは 押さないで・・・玄関のカギを開けておくから・・・。」 そう言って電話を切ると
西田は 罪の意識にさいなまれている暇もなく
リビングに飾ってある家族の写真を大急ぎで 取り外し押入れに片付るとバスルームから洗いたてのバスタオルを取り出し それを 胸元に抱え 玄関のドアの後ろで息を殺して中塚が来るのを待った
しばらくすると かすかな足音がしてドアの前で止まる やがてドアのノブがゆっくりと廻りだした
そして スローモーションのように扉が動き始め10センチほど扉が開いたところで西田は中塚を
確認すると静かに中へ招きいれ玄関のカギを閉めた降りしきる雨の中で立ち続けていた 中塚の体は滝にでも打たれたかのように上から下までビッショリだった
西田は用意していた バスタオルで中塚の頭を拭きがら「ホントにもぉ〜
無茶苦茶なところは昔からちっとも
成長してないんだからぁ〜」ささやくような小声でそう言ったすると中塚も負けじと・・・。
「先生だって・・・。」中塚のお返しの言葉に西田は上目遣いにニッコリと微笑むと 雨で体が冷え切った中塚を暖かいリビングへと招いた「服
乾かすから脱いで・・・。」 さすがに夫の衣服を着せるのは
ためらったのかそう言うと西田は一枚の毛布を手渡した 裸のまま毛布一枚に包まった中塚はソファーに座ると
目の前のテーブルに置かれた ビデオと飲みかけのワイングラスを見つけ「ごめん 先生
ビデオ鑑賞の邪魔して・・・。」 「ホントよぉ〜
あなたのおかげで折角のビデオを見る気にもなれなかったんだから・・・。」 そういうと西田は中塚の背後からソファーの前にある消えたテレビの画面に映る中塚に 向って おどけて舌を出し“アッカンベー”をして見せた
緊張していた中塚だったが そんな西田の顔を見て一気にその緊張がとけた
二人はテレビの画面に映ったお互いの 顔に視線を合わせニッコリと微笑んだ そして・・・「中塚くんもワイン飲む?」
そんな 西田の問いに「ハイいただきます」そんな会話を交わすと寄り添いながらソファーに 座り仲良くワインを口にした
しばらくは取りとめも無い会話が続いていたが
一瞬 会話が途絶えると二人はどちらからとも無くお互いに視線を合わせた
そしてその顔が 真剣な表情に変わったかと思うと中塚は
西田と視線を合わせたまま自分のグラスを テーブルの上に置くと 今度は西田の持っていたグラスを右手でそっと奪い
それを テーブルの上に置いた そして自分の包まっている毛布の中に西田をやさしく包み込んで 抱き寄せた
雨の音に加えリビングに置かれた熱帯魚の水槽のポンプの音が大きく 聞こえてくる
こうして幻想の世界に迷い込んだ二つの影はやがて静かに一つに重なった 二人の吐息をかき消すかのように外の雨は ますます激しさを増していた
このまま世の中が終わりを向えるならそれもいい・・・。 二人で化石となって永遠に地の底で眠れるなら・・・。
しかし
別れの時は容赦なくやって来た あれだけ激しく降っていた雨も明け方には止んで 夕べまでの雨音がウソのように静まりかえっていた新聞配達だろうか?
まだ暗い外の 世界から単車の音だけが忙しく響きわたり 街が動き始めたことを伝える
二人には この音がさながらシンデレラの鐘の音のように聴こえるのだった
朝には中塚の服もすっかり乾いていた 西田は白いバスローブを一枚羽織ると玄関の ドアの後ろで中塚を見送った
中塚は玄関でもう一度振り向くと西田の体をしっかりと 抱きしめ「先生 俺と一緒に来てくれない?」耳元でささやくようにそう告げた
そんな
中塚の言葉に西田は消え入りそうな声で「一緒に行けたら どんなに素敵だろうね・・・ ごめん・・・わかって中塚くん」そう言って中塚の両肩に手をやるとゆっくりと引き離した 中塚は西田の目をじっと見ながら「わかったよ先生
俺の方こそ無茶言ってごめん」
そうつぶやくと更に・・・
「どう先生?俺もちょっとは成長しただろう?」そう言いながら 小さく微笑んで見せた
西田は唇が震えて声にならなかったが精一杯の笑顔でうなずいた やがて・・・「じゃぁ 俺行くよ」そういうと中塚は
まだ明けきらない朝の街へと出ていった
一人っきりになった西田は まだほんのりと暖かさの残ったリビングのソファーに座り直すと テーブルの上に仲良く並んだ空のワイングラスを見つめたまま
まんじりとも動こうと しなかった 涙だけが止め処も無くあふれてくる この時
西田は初めて自分の気持ちに
ハッキリと気が付いたのだ「今なら間に合う」そう思った西田はテーブルの上に置かれた 携帯電話をひらくと
中塚に電話をしようと電源を入れた・・・と
まさにその時だった 「トゥルル〜 トゥルル〜」携帯電話が鳴ったのである
西田はその瞬間電話の主を 中塚だと思ったが違っていた 見ればそれは夫からの電話だったのだ
西田は一瞬
動揺したが呼吸を整えると少し間を置いて電話をとった「もしもし?」「あっ!もしもし ママ? 今ねぇ
パパが凄い大きなチヌを3匹も釣ったんだよ〜
今夜は買物行かなくて いいからね〜」 電話の主は娘だった
恐らく早朝から親子3人で海に出て釣りを 楽しんでいたのだろう 母親に大漁の感動を伝えようと電話してきたのだ
西田は努めて 明るく「凄いね〜楽しみに待ってるからね〜 気をつけてね〜」「うん
夕方には帰るから
じゃぁね〜」 それだけを継げると電話は切れた 西田は魂が抜けたかのようにその場に
座り込んだ
携帯電話を握る力もなくなり床に転がり落ちる
しばらくして西田は 思い出したように押入れを開けた
そこには西田が夕べ慌てて仕舞い込んだ家族の 写真があった
満面の笑顔で写った子供たちと夫の顔・・・その写真を手にとって西田は やっと我に返った
涙でにじむ目で写真をながめる西田の目からまた別の涙が溢れてきた
西田はその写真をきつく胸に抱きしめると溢れる涙をぬぐいながら元あった場所に飾り 床に転がった携帯電話を手にとると静かにそれを閉じた
夕方になって出かけていた夫や子供たちが帰ってきた 先を争って賑やかに土産話を
繰り広げる子供たち・・・夫はと言うと・・・今朝方まで中塚と一緒だったソファーに腰掛け
ビールを飲みながら夕べの出来事など知るはずも無くサッカー観戦を楽しんでいる 西田は鉢植えに水をやるふりをしてベランダへと出た
外はすでに薄暗く暮れかかっている 冷たい風が街路樹の落ち葉を巻き上げて目の前を通り過ぎて行く・・・。 西田はきのう土砂降りの雨の中 中塚が立っていたあたりをしばらく呆然と眺めていた・・・。
買物帰りの近所の主婦が幼い子供の手をひいてそこを通り過ぎてく・・・。西田は目を閉じて
大きく一つ呼吸をするとポケットから携帯電話を取り出し中塚のデータをすべて削除した 「お〜い 風邪ひくぞぉ〜」
夫の声に呼ばれて西田は「うん」そう返事して部屋へと戻った
やがて窓灯かりの向こうから賑やかな夕げを囲む声が聞こえてきた 外は すっかりと暮れて空には満天の星が瞬いていた
〜完〜
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