第二部 江蘇省の歴史を歩く
10.淮安、「韓信の胯下り橋」

現在の淮安(わいあん)市の市街地は4つの区からなる。清河区を中心にして、北に淮陰区、南に清浦区、これらは一続きで淮安の中心をなす。ここから20キロほど南に離れて楚州区がある。ここ楚州区が淮陰侯韓信(〜前196年)の故里である。韓信は劉邦に従い、蕭何の知遇を得て大将軍に進み、趙、魏、燕、斉を滅ぼし、垓下に項羽を滅ぼし天下を定めた。
 「漢淮陰侯韓信故里」の碑私は、'05年10月、'06年1月、4月の三度、淮安へ行った。「漢淮陰侯韓信故里」の碑は、楚州区の繁華街の丁字路に立っており、最初の淮安旅行のときから分かっていた。しかし、“胯下橋(またくぐりばし)”は三度目のとき、初めて気が付いた。
  伴野朗(とものあきら)は、氏の小説『国士無双』のプロローグで次のように記述している。
「司馬遷は韓信の故郷を訪れ、土地の古老から若いころのエピソードを取材し、淮陰侯列伝の筆を執った。彼の時代からわずか八十年しか経っていないので、生々しい話が聞けたであろうことが想像される。それだけ、韓信の一生に司馬遷は興味を抱いたわけだ。淮陰侯韓信、兵を指揮して戦場でただの一度も敗れたことがないという奇跡の武将である。秦末の漢楚の合戦絵巻のなかで、そのひときわ鮮やかな軍功が、光彩を放っている。国士無双といわれた戦争芸術家。その波乱万丈の生涯とは・・」
 私は、「韓信の胯下り(またくぐり)」の話をしたくて伴野朗の小説『国士無双』を引合いに出した。続けて、『国士無双』の中から、「韓信の胯下り」の場面を辿ろう。
                      
  淮陰(わいいん)は淮水(わいすい)の南に広がる水郷地帯である。
  秦の密偵、曾光は河原で剣を振っている一人の若者に視線を集中していた。二十三、四か。彼は、河原の柳の葉を斬っていた。それも尋常に斬るのではない。最初に斬り落とした柳葉が地上に落ちるまでに三度剣を振うのである。そして、柳葉は三つに分断された。あの時の小童だな。曾光は、言葉にしないでそう呟いた。確か、韓信とかいったが・・・。彼は、九年前の記憶をまさぐった。同じ淮陰の地、淮水の河原で子どもたちが戦争ごっこをしていた。いずれも十二、三から、十四、五の少年たちである。おや?曾光は眼を凝らした。一方の組を指揮している子どもの采配が理にかなっていた。敵の手薄なところ、手薄なところを突く戦法は冴え渡っていた。曾光には、韓信が自分たちにとって、危険な存在になりそうな予感があった。(中略)
  彼の奇骨を愛する人も少数だがいた。淮南地方で有名な女性陰陽師、甄姐(けんしょ)はそんな一人であった。彼女は、看相にも長けていた。「ここ三日のうちに剣難が振りかかるね。この難を逃れる手は一つ。知りたいかい、韓信?」「なにとぞご教授下さい」「それじゃいうよ。絶対に剣を抜いてはいけないよ」「剣は抜くなと!」「それでは斬られてしまいますが・・・」「斬られても、怪我ですむ。剣を抜くと、一命を落とすことになる・・・」
  彼の住んでいる小屋から街へ入るには、運河の橋を渡らなければならない。楓橋と呼ばれている。いま楓の木があるわけではない。昔、三本の楓がはえていたところから、その名が付いたといわれている。楓橋は、一種の太鼓橋であった。一番高い中央部に登り詰めると、辺りの風景がよく見える。韓信は、その高みから前方を見て、おや?と、眉をひそめた。数人の男が、彼の姿を認めるや、いっせいにもの陰に身を潜めたのである。(中略)
「でっかい剣なんぞ腰にぶら下げやがって、格好だけは一人前につけているが、肝っ玉のほうはからきしだろう!」「ここまでいわれても、抜けないのか。お前は腰抜けだ。俺の股の下、潜ってみろ。潜れたら、きょうのところは許してやらあ!」
  韓信の手は、長剣の柄にかかっていた。その時、韓信の耳に昨日の甄姐の予言が甦った。(中略)
  なぜ、韓信は剣を抜かなかったのだ。なぜだ?曾光は、またそう呟いた。韓信は、彼が考えていたよりも遥かに大きい存在であったのだ。生かしてはおけぬ。(中略)

  韓信股潜りの現場は、楓橋という橋のたもとであったが、韓信が漢の大将軍になってから、この橋は、“将軍橋”と、名を変えていた。彼は役人に命じて、“胯下橋”と、再度改名させた。「胯下」とは、中国語での股潜りである。この橋は、淮陰には、いまも残っているという。
                     
  ところで、司馬遷の『史記』、淮陰侯列伝の記述は次の通りである。
  後に淮陰侯となった韓信は、もともと淮陰出身の人である。(中略)淮陰の屠殺業仲間の若者に、韓信をあなどる者がいて言うには、「お前は体格がよく、いつも刀剣を身に付けているが、心の中はびくびくしているにきまっている」と。更に衆人の中で侮辱して言った、「韓信、死ぬ気で俺を刺してみろ。死ぬ気になれないなら俺の胯下をくぐれ」と。そこで韓信はこの若者をじっと見つめたかと思うと、俛(ふせ)って胯下からはいつくばって出た。街中の人々は韓信を笑って、臆病者だとした。(訳は明治書院『新釈漢文大系』による)胯下橋
  ただ、これだけの資料から先にあげたような筋を創作するのだ。さすが作家だ。
 左の写真、
人が渡っている直ぐ下、欄干部分に赤字で“胯下橋”と記されている。現在、この一角、全体が新しくなり、橋も新しく作られたもので、なんとも風情がない。                                                          

   狡兎死して、走狗烹られ。

    飛鳥尽きて、良弓蔵められ。
    敵国破れて、謀臣亡ぶ。 
      (『史記』淮陰侯列伝)

  韓信は項羽を倒した後、斉王から楚王に移され、更に、反乱を企てたとして、高祖(劉邦)にとらえられる。これは、その時のことばである。ただ、このことばは『史記』越王勾践世家にも記述があり、初出ではない。韓信は、この時、楚王から淮陰侯に落とされるが命は助かる。のち、呂后(劉邦の皇后)の命でとらえられ首を刎ねられる。
漢韓侯祠。現地で買った絵葉書の写真 なお、淮安には、「漢韓侯祠」がある。今回も時間に追われ、行きたいのに行けないところができてしまった。次の機会に譲る。そう、まだまだ、行くつもりである。