第三部 中国感動の旅
5.井岡山(せいこうざん)・瑞金(ずいきん)への旅(1997年暮)  2018年3月UP
   
三湾改編の切り絵 井岡山大井、毛沢東旧居(白屋)

 2018年3月のアップとなりましたが、20年も前、1997年暮れの旅行で、以下の文章も、その時、作成したままであることを、まず、おことわりしておきます。

                         
 岡山(せいこうざん)と瑞金(ずいきん)への旅がやっと実現した。

 毛沢東生誕百周年の1993年の暮、友人、王さんの案内で、湖南省韶山(しょうざん)に毛沢東の生家を訪ねた。その時の日程は、そのあと、南昌から井岡山、瑞金を考えていたが、病床にあった王さんの父君の様態が悪化、旅行を途中で打ち切り、上海へ引き返した。
 それから四年が経ち、今回、同じく王さんの案内で、四年前の旅の続きをすることとなった。
 「井岡山」、「井崗山」、その表記については、本によってまちまちであるが、私は「井岡山」で統一した。ただ著書からの引用の場合は、もとの本の記述に従った。また、地名の読みは、日本語読みを付記したり、中国語の発音を添えたりとまちまちになったがご容赦願いたい。
 なお、旅程は次の通り。

 
第1日  12月23日  関空→上海、上海(夜行)→向塘(江西省)
 第2日  12月24日  向塘(京九鉄道)→吉安
 第3日  12月25日  吉安 文天祥記念館  吉安(バス)→井岡山
 第4日  12月26日  井岡山(江西省)
 第5日  12月27日  井岡山(バス 途中、カン州で乗り換え)→瑞金
 第6日  12月28日  瑞金(江西省)   瑞金(バス)→長汀(福建省)→瑞金
 第7日  12月29日  瑞金(バス)→カン州
 第8日  12月30日  カン州(京九鉄道)→南昌(江西省省都)
 第9日  12月31日  南昌(夜行)→上海
 第10日   1月1日 1上海
 第11日   1月2日  上海→関空


第一日、第二日

《文化大革命期、王さん歩いて井岡山に登る》

  私たちの乗った広西壮族自治区柳州行きの夜行列車は、上海を23時58分、定刻に発車した。京九線に乗り換える向塘(シャンタン)まで810キロ、13時間の旅である。軟臥車(グリーン寝台)、286元(約4600円。一元は約16円)。
  時間も遅いし疲れていたのか、すぐに寝てしまう。翌朝は7時過ぎに目を醒ます。列車はまだ浙江省を走っている。更に一時間ほどしてやっと江西省に入る。
 この路線は三度目ということもあるし、この辺りの農村は、どこも似たような風景ということもあって、ぼんやりと車窓の景色をみて過ごす。王さんも暇そう。時間のたっぷりあるこういう時こそ、博識で経験豊かな王さんにいろいろ訊ねるチャンスである。
「王さんは文化大革命の時、歩いて井岡山に登ったと言っておられましたねえ」
「そうです。文化大革命の始まった年、1966年の12月のことでした」
「毛沢東は、旧来の権威による上意下達や、新聞などのマスメディアでは自分の考えを国民に周知させ、国民を動かすことはできないと考え、紅衛兵を使ったのです。
 文革初期に〝大串連〟(ターチエンリェン)という言葉がよく使われましたが、この言葉は、全国の紅衛兵が自由に各地を旅行して交流することを言いました。つまり、紅衛兵は毛沢東思想の宣伝隊だったのです。しかし、国中〝失控〟(シーコン。コントロールできない)状態になってしまいました。

 小学校から大学まで、学校という学校は授業がなくなりました。浙江大学のかけだし教師だった私も仕事がなくなりました。それで、紅衛兵に年令制限があるわけでないので、同僚の若い先生ばかり八人、この〝失控〟状態に便乗し、半分旅行気分で、井岡山への旅に出かけました。
 紅衛兵たちは、「どこへ行きたい」に関係なく列車に乗っていました。網棚も、トイレも人でいっぱいでした。
 ところが、1966年の12月1日、南昌に着いた時、あまりの〝失控〟状態に、「行きは有料、帰りはただ」というように改正されました。旅費に余裕のない私たちは大変困り、バスをあきらめ、歩いて井岡山へ登りました。毎日四十キロ歩き、十日かかりました。そしてまた歩いて広州まで行きました。広州に着いたのは、12月31日でした。その後、列車で杭州へ帰りました」
 三十数年前の遠い記憶である。しかし、いつもながら、王さんの記憶力のすばらしさには感心する。1966年といえば、私は入社二年目だけど、記憶はそう確かでない。

香港返還を視野に開通した京九鉄道-写真は京九鉄道の列車員-

 私が、今度の旅行を決行した理由の一つに、新しく開通した京九鉄道に「井岡山」という駅があることを知ったことがある。
 以前、王さんの話では、「井岡山へ入るには、南昌からバスで十時間以上かかります」ということであった。それが、鉄道に「井岡山」という駅ができれば、簡単に行けるだろうと考えたわけである。結果は、楽にはなったが、なお大変だった。
 京九鉄道とは、北京と九竜を結ぶ2400キロの新しい路線で、1996年9月に開通した。
 でもまだ九竜までの直通列車は走っていない。現在は、特快が毎日一本、北京西駅を21時31分に発車している。この列車は、約36時間かかって、翌翌日の9時30分に深センに着く。 

 

 この路線が走っているのは、北京に近いところと広東省、香港を除けば、安徽、河南、湖南、江西と、中国でも貧しい省ばかりである。省別一人あたりのGNPは等しく低い。しかもこの路線は、貧しい省の省境の、更に貧しい農村部を走っている。
 沿線に、たいした観光地などほとんどない。11月から12月にかけて、神戸新聞が「京九鉄道の旅-北京~九竜沿線を訪ねて-」という記事を五回連載していたが、第一回が安徽省の亳州、第二回が江西省の廬山、第三回は廬山の続きと南昌、第四回は深センと阜陽、最後第五回は九龍(香港)であった。ところで、亳州、廬山、南昌、深セン、阜陽、九龍は、たしかに京九鉄道の駅には違いないが、すべて、もとからある鉄道を取り込んだ部分である。

 先日、知り合いの中国人Lさんと話す機会があったが、彼女は、「安徽省は、人口に比して海外への国費留学生が多いことで有名な省だ」と言っていた。理由は、安徽省の学生は、貧しさをバネによく勉強するからということらしい。
 また、数年前こんな話が中国で有名になった、と天津社会科学院の張健先生に聞いた。「ある共産党の老幹部が、人民共和国成立後四十数年して初めて故郷へ帰った。ところが、解放前とあまりに変わっていない貧しさに涙した」というのである。
 この京九線を、革命の根拠地の多い江西省のほぼ中央部にどんと持ってきた裏には、「人民共和国の原点をなす地域が立ち後れていたのでは申し訳ない」という中央政府の配慮があるのだろう。貧しさが、解放前と変わらないというのであれば、「自分たちのやった革命が何だったのか」ということになりかねない。
「香港や広東の繁栄を内陸部に波及させる」、そこにこの鉄道の意味があるというのだが、さて十年後、どうなっているだろうか。

 この路線の中には、九江~南昌~向塘のように在来線を取り込んだ部分もあるが、私が乗った向塘~カン州間は、新しく敷設されたところで、本当に何もない所を走っている。目にするのは、松林の続く丘陵、わずかな耕地、疎らに点在する農家、川の流れ、だけである。どの駅も、新しくできた駅舎の付近に住宅が建ち始めてはいるが、まだ人の気配はない。
 私は心配になって王さんに話しかけた。
「井岡山駅に着くのは、20時6分ですが、そんな時間に降りて、うまくホテルが探せるでしょうか」
「分かりませんねえ。一つ手前の吉安なら大丈夫です」
 ということになって、急遽、吉安で降りる。吉安市は、二市11県、人口380万を有する吉安地区の中心都市である。井岡山市もここに含まれる。
 大きな都市のはずなのに、改札口を出ると、夜の暗闇の中、数台の中型バスが客待ちをしているだけで、他には何も見えない。私たちは、その内の一台、市街地に行くバスに乗る。しばらくして、大きな河を渡る。後で地図を見て、カン江にかかる井岡山大橋と知る。十五分ほど乗って吉安市の中心に着く。この日、12月24日の宿泊は、白鷺賓館、ツイン186元。

第三日、第四日

 吉安は南宋末の忠臣、文天祥(ぶんてんしょう)のふるさとである。朝一番に、ホテルから13キロほど離れたところ、吉安県にある文天祥紀念館へ行く。文天祥のことは、旅行記『客家の里を訪ねて』で取り上げたこともあってぜひ行きたいと思っていた。ずいぶん立派な記念館であった。
 文天祥については、記念館の写真にとどめる。

   
軟臥車(グリーン寝台)    吉安の文天祥紀念館


《井岡山の中心、茨坪(ツーピン)今昔》

 吉安から井岡山(せいこうざん)へは、百五十キロ、十六元六角(約二百七十円)のバスの旅である。吉安、十時四十分出発。
 吉安を出てしばらくは、沼地や池が多い。蓮根(れんこん)田があり、家鴨(あひる)が泥をつつき、牛が寝そべっている。切り株の残った水田も混じる。一時間半ほど走ると、赤茶けた土地、松林の低い丘に変わる。雨がひどくなってくる。途中、いくつもの小さな町や村を過ぎる。乗り降りが多い。更に一時間半ほど走ると、バスは山間部に入る。やがて、山は険しくなり、ガスが出てくる。路肩はそのまま谷に落ち込んでいる。ガスの中にうっすら見える木々が急に谷に落ち込むので谷の深さがわかる。そんな恐い山道が小一時間続いた後、バスはしばらく水平に走り、やがて下りに入る。最後は二十分ほど下って三時過ぎに井岡山の中心地、茨坪(ツーピン)に着く。吉安からの所要時間、四時間半。
 井岡山とは、湖南、江西両省の境界を走る羅霄(らしょう)山脈のなかほどにそびえる万洋山(1850m)系に属し、千数百米級の一群の山々をふくむ山塊である。山中の小さな盆地や平野には十数ヵ所の部落があり、1927、28年当時、三、四百戸、二千人ほどの住民がいた。 
 井岡山の地理については、地図を見てほしい。

 


 井岡山の革命根拠地となった、茨坪(ツーピン)、大井(ターチン)、小井(シァオチン)等はいずれも、井岡山のいくつもの峰に囲まれた海抜八百数十米の盆地である。
 これらの革命根拠地に入るのに五つのルートがあり、当時、そのすべてに哨口(シャオコウ 見張り台)が作られた。

 黄洋界哨口、八面山哨口、双馬石哨口、シュ砂冲哨口、桐木嶺哨口がそれである。つまり、これら五つの哨口のいずれかを下ったところに井岡山の革命根拠地はあった。
 私たちはバスで、桐木嶺から井岡山に入った。
 井岡山の中心は茨坪である。井岡山は、行政的には井岡山市で市政府はこの茨坪にある。
 講談社1997『図説中国の歴史9 人民中国への鼓動』に「井崗山の中心・茨坪の今日」というカラー見開きの大きな写真がある。この写真を何度も見て、いつの日か、と思い続けてきた。

 
講談社『図説中国の歴史9』「井崗山の中心・茨坪の今日」より転


 この写真の茨坪の景色だが、中央に、でかい「井岡山革命先烈紀念塔」が写っているが、周りはほとんどが水田である。そして、向こう側、山の裾に市政府、革命博物館等が並んでいる。これはいつごろの写真なのだろうか。記念塔の周りの木立も疎らで低い。今は、でっかい記念塔を覆うほどに成長している。
 茨坪の町なかを歩いて、写真と比較するのに苦労する。今は水田は少しもない。半分は池と公園になり、半分は商店街と体育グランドになっている。王さんが、1966年12月に来た時は、写真と同じようにほとんどが水田だったという。


 写真では、記念塔前から博物館の方へ、ヒマラヤ杉のような、植えて間のない並木が写っているが、今は、すごく背の高い立派な街路樹に育っており、この通りは、茨坪のメインストリートになっている。(右の写真→)
 写真の水田は、大きく長方形に整然と区切られているが、毛沢東が井岡山に来た七十年前には、そんなだったとは思えない。もっとまちまちの歪んだ畔道に区切られた水田だったのだろう。

《毛沢東、井岡山に入る》 

 歴史的順序からすると、
  ●南昌起義
  ●井岡山の闘争
  ●中華蘇維埃共和国(瑞金)
の順で説明するのが筋だろうが、この旅行記は、旅行の順序、つまり、井岡山→瑞金→南昌という順で記す。歴史的順序を重視するなら、「『南昌起義』に至まで」を先に読んでほしい。
 
 まず、毛沢東が井岡山にやってくるまでの話をしよう。
 共産党中央は、1927年8月1日に武装蜂起した「南昌起義」軍に呼応して労農武装を進め、秋の収穫期に湖北・湖南・江西・広東の四省で蜂起する方針を決定した。党の総責任者には瞿秋白(くしゅうはく)が選ばれた。

 この旅行記に関係した時期の共産党の歴代書記長(総書記)を挙げると次のようになる。
  一九二一~二七   陳独秀
  一九二七~二八   瞿秋白
  一九二八~三一   向忠発
  一九三一~三二   王明(陳紹禹)
  一九三二~三五   博古(秦邦憲)
 
 しかし、四月の蒋介石の上海クーデターに続く反共の嵐の中で、すでに農民組織は壊滅し、指導部の多くは殺されていたので「秋収蜂起(しゅうしゅうほうき)」はことごとく失敗に終わった。秋の収穫期は同時に小作米の納入期であり、地主対農民の階級矛盾が最も鮮明になる時期である。この時期に蜂起すれば、農民の熱烈な呼応をえられるという目算であった。

 湖南の秋収蜂起を指導していた毛沢東が、長沙(湖南省の省都)占領計画を放棄して、残存部隊約一千を率いて湖南・江西の省境に横たわる羅霄(らしょう)山脈に入ったのは、1927年9月末のことであった。

 三湾という小さな村で、毛沢東はこの部隊を編成し直し、「労農革命軍第一軍第一師団第一連隊」と名づけた。
 革命性を失って帰郷を望む兵士には、五元の旅費を渡して除隊させ、残った兵士を一個連隊にまで縮小し、指揮官の他に党代表を置き、軍と党を一体化させた。これが有名な「三湾改編(さんわんかいへん)」で、その後の紅軍の原型となった。
 この後、井岡山山岳地帯へと分け入って行く。

 井岡山について、毛沢東選集第一巻『井岡山の闘争』は、次のように述べている。
「第一の根拠地は井岡山であり、(中略)山上の大井、小井、中井、下井、茨坪、下荘、行州、草坪、白泥湖、羅浮の各地には、みな水田と村落があり、もともと匪賊や敗残兵の巣屈となっていたところであるが、いまでは、われわれの根拠地となっている。
 しかし、人口は二千にたっせず、食糧の生産は一万石たらずである。軍糧はすべて寧岡、永新、遂川の三つの県から輸送を受け、それに依存している。山上の要害の地にはみな工事が施されている。病院、被服廠、兵器廠、各連隊の留守本部はみなここにある」
 毛沢東は、井岡山に入ると、以前からここを本拠としていた土匪の袁文才(えんぶんさい)、王佐(おうさ)と手を結び、その部隊に政治的、思想的訓練を与えて、しだいに革命兵士に変えていった。
 アグネス・スメドレーの『偉大なる道』では、
「この地方の農民運動の指導者、王佐と袁文才とは、農民を指導して、土地分配のためにはげしい闘争を行なった。しかし、その後の反革命の嵐でこっぴどくたたかれたので、彼らは、毛沢東がその部隊と農民たちをひきつれて、この地区に入ってくるまでのあいだ、昔ながらの匪賊の習慣にかえっていたのであった」

 と記述されているから、彼らも、ただの匪賊ではなかったのだろう。
 茅坪(マオピン)の「湘カン辺界党的第一次代表大会旧址」へ行った時、1928年5月の中国共産党湘カン辺界特別委員会の委員の表が掲示されていたが、毛沢東、朱徳、陳毅等に並んで二十三名の中に、袁文才、王佐の名が入っていた。
 彼らの改造に一時は成功するが、1930年2月、共産党は彼らを殺すことになる。袁文才は銃殺。王佐は、追われて川で溺れ死ぬ。
 井岡山の生活はきびしかった。雑穀の紅米(ホンミー)とカボチャが常食で、冬でも単衣(ひとえ)一枚しかなく、寒くて眠れない季節には、昼間寝て、夜は運動して身体を温めたという。


《私たちが見学したところ1 ー山上の盆地ー 》 

 (1) 茨坪(ツーピン
    ●毛沢東旧居
      中国共産党井岡山前敵委員会旧址
      朱徳旧居
      紅軍第四軍軍部旧址
      軍械処旧址
      公売処旧址など
    ●井岡山革命先烈紀念塔
    ●井岡山革命博物館

 

 
 茨坪、毛沢東旧居 井岡山革命博物館(現地購入の冊子より)

 当時、茨坪の村のなかに毛沢東の旧居があり、そこは、中国共産党井岡山前戦委員会の執務所でもあり、また、その会合場所にもなっていた。毛沢東の住居に続いて、朱徳の住居があり、そこは、紅軍第四軍の軍部(司令部)でもあった。さらに続いて彭徳懐や陳毅らの住居があり、軍械処があり、公売処があった。
 井岡山闘争時、紅軍が使用した武器弾薬は、多く、敵軍から奪ったものであった。1928年7月、武器の製造、銃の修理のため、ここに軍械処を作った。
 根拠地内の軍民の日用生活必需品、特に、食塩、綿布、薬品等は、敵の厳しい封鎖にあって、大変欠乏していた。そこで、区政府は1928年7月以降、茨坪、小井に公売処を設立し、郷政府はそれぞれの郷で郷公売処を設けた。公売処の商品は、戦闘で獲得した戦利品、土豪を倒して分捕ったもの、国民党支配地の商人が運んできたもの、根拠地の人々から買い付けたもの等々であった。

 (2) 大井(ターチン
   ●毛沢東、朱徳、陳毅旧居


 毛沢東の旧居は、大井村の中央にある。井岡山、およびその近辺に、毛沢東旧居と称する建物があっちこっちにある。同じ時期、あっちで生活したり、こっちで生活したりしたのだろう。あるいはまた、使用した時期がずれていたりする。
 毛沢東旧居は壁が白いので、「白屋」と呼ばれてきた。ここは、地方武装首領の王佐(おうさ)が、かって比較的長く兵営として占用していた。1927年10月24日、毛沢東が秋収蜂起部隊を率い、幾多の危険、困難を経て、大井村に到着すると、王佐の部隊はこの家屋を工農革命軍の兵舎に譲った。朱徳、陳毅旧居は同じ敷地内の少し離れたところにある。
 ここで毛沢東は、農村調査を進め、村人たちを立ち上がらせ、土地革命を展開し、大井郷工農兵政府を建てた。  
 後に毛沢東と結婚する賀子珍も大井に来て、情報収集、新聞雑誌の切り張り、原稿の整理などで毛沢東を助けた。彼女の作業は、井岡山前線委員会が指導する機関に、信頼できる情報を提供するのに大変役立った。

 1993年12月に、毛沢東生誕百周年を記念して、『NHKスペシャル毛沢東とその時代』という番組が放映されたが、その中で、客家の集落の一つである、ここ大井の周貴章さんは次のように語っている。
「当時、私は五歳でした。家にやって来た毛主席は、私が泣きだしたのを見てゴマ飴をくれました。毛主席は手帳を持って貧しい農家を一軒ずつ訪問し、どのように貧しいか、どのように生活が苦しいかを調査していたのです」
 ここは、国民党の攻撃でみんな焼けてしまったが、今はきれいに復元されている。毛沢東旧居の壁の一部、建物前の〝毛沢東読書石〟、建物裏の〝常青樹〟の三つは、当時のものである。

〝常青樹(チャンチンスゥ)〟のいわれ

 毛沢東の旧居の裏に、二本の大きな木があった。一本は海羅杉で、もう一本は柞樹。当時、毛沢東と朱徳は、いつも、これらの木の下で紅軍の操練を見ていた。

 ところが、1929年2月、国民党反動派が大井、小井など五つの村を占領し、大井の村全部を焼き放った。毛沢東の旧居、兵舎等はみな焼け落ち、その裏にあった二本の大きな木も焼けた。
 ところが、解放の年(1949年)に芽を吹き、だんだん繁茂し、1965年毛沢東が井岡山に来たときには、花を咲かせ実を結んだ。それで人々はこの二本の木を「感情樹」、「常青樹」と呼ぶようになった。

 
(3) 小井(シャオチン
   ●紅軍第四軍病院旧址

 濃霧の中にぼんやり見える、でっかくて黒い建物は異様であった。建物の中、診察室、薬草室、重傷者の部屋と続く。暗い病室の一つに入ると、十分な治療も受けられず、傷の痛みと山上の寒さに震えている傷病兵が、目の前に見えるようで恐ろしくなる。現地では濃霧で写真が撮れなかったのでここには、現地で買った冊子の写真を使用した。

 
紅軍第四軍病院旧址 

 毛沢東は、『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』において、
「この根拠地をかためる方法は、
  第一に、完備した工事を施すこと。
  第二に、十分な食糧をたくわえること。
  第三に、比較的立派な紅軍病院を建設すること。
 この三つのことを着実になしとげることが、省境地区の党の努力しなければならないことである」
 と述べている。
 また、毛沢東は『井岡山の闘争』に、
「戦闘があるごとに、一団の負傷兵がでる。栄養不足、凍傷、その他の原因で病気をする将兵が非常に多い。病院は山の上に設けられており、漢方療法と洋式療法の二つの方法で治療しているが、医者も薬も共に欠乏している。現在、入院中の者はみんなで八百余人である。湖南省委員会では薬を支給すると答えてくれたが、今になってもまだ届かない。数名の洋法医といくらかの沃度錠剤を送ってくれるよう、中央委員会および両省委員会にお願いする」と記している。

《私たちが見学したところ2 ー「わーきれいやなあ」黄洋界の雲海ー 

 五哨口のうち、黄洋界(フアンヤンジエ)哨口は当時の石組の一部が残っており、また、後に作った記念碑等もあって、観光および歴史教育のための遺蹟として、もっともよく保存されている。
 今日は一日タクシーを借切り、井岡山から四十六キロ、西北の麓の町、寧岡(ニンガン)まで山を下る。寧岡は、朱徳軍と毛沢東軍の大合流〝井岡山会師〟の場所として有名である。タクシー、一日三百五十元(約五千六百円)。
 今日も昨日と同じで、傘をさすほどではないが、ガスっていて髪に水滴が付くような天気。八時十分にホテル前を出発。まず黄洋界哨口を目指す。哨口(しょうこう)とは見張り台(砦)のことである。井岡山に入るのに五つのルートがあり、それぞれに見張り台が設けられていた。私たちが行く黄洋界哨口には当時築いた砦の石組が今も残っているということだ。
 井岡山の中心地茨坪は海抜八百数十米。黄洋界哨口は約千三百米なので五百米ほど登ることになる。ガスって、十米先も見えない道を登る。カーブで霧の中から対向車が現われ、何度ひやっとしたことか。
「冬にはこんな天気が多いのか」と私。
「そうだ。雪もよく降る。去年の今ごろは雪が降り、道路が凍結し、バスが入れなかった」と運転手。
 ということは、ガスって景色がよく見えないし、写真を撮るのにも難儀するが、まあ来れただけでもよしとしなければならない。
 もうすぐ黄洋界、という所で少し明るくなり、見通しがよくなる。雨雲の上に出たようだ。
「きれいな雲海です。車をおりて写真を撮りましょう」
 王さんの声に谷の方を見ると、「すごい!」。神秘的といえるほどにすばらしい雲海が広がっており、しかも刻々と変化している。急いで車を降り、カメラを構えているうちにも、はやもう、先ほどの景色と違っている。
 それでも、二、三枚は良い写真が撮れたよう。

 その後、運転手が、少し行ったところで車を停め、山側上方の樹を指差し見に行くように言う。言われるままに石段を登っていくと、「全国重点文物保護単位、黄洋界荷樹」とあり、いわれが記されている。
 「1928年冬、毛沢東、朱徳と紅軍戦士が井岡山の麓の町寧岡から食糧を井岡山に担ぎ上げる時、この樹の下で休息を取った」 
 この話は、後で行った井岡山革命博物館の中にも展示があって、毛沢東と五人の兵士が談笑している絵が展示されていた。また、当時の、二つの竹篭と担ぎ棒も展示されていた。中国ではよく知られた話のようだ。
 この後すぐ黄洋界哨口着。運転手の話では、「晴れておれば、ここからの眺めはすばらしい」ということだが今日は雲海のみ。
 そこにあった、次のような説明書きの通りの情景。
「黄洋界は井岡山の西北面にあり、海抜千三百米である。黄洋界は、いつも濃霧が一面に立ち篭めているので、どこまでも白く、海のようである。それで、また、黄洋界は〝汪洋界〟(汪洋:水の深く広いようす)ともいう」

 
 荷樹の下で休む毛沢東たち      黄洋界紀念碑
  黄洋界の雲海


 道路から少し登っていったところに、記念碑が立っていて(上の「黄洋界紀念碑」)、〝星星之火可以燎原〟(一点の火花が広野を焼きつくす)と刻まれている。この言葉は、毛沢東が1930年に言ったものである。
 また、この記念碑と向き合って、毛沢東の詩「西江月井岡山」が大理石の横碑に刻まれている。

   西江月 井岡山

 山下旌旗在望  山頭鼓角相聞

 敵軍囲困萬千重  我自 kui 然不動

 早已森厳壁塁  更加衆志成城

 黄洋界上炮声隆  報道敵軍宵遁

 ふもとには はたやのぼりが はためいて

 やまのうえでは かねたいこ むこうのやままでこだまする

 かずをたのみのてきぐんは とえはたえにもかこめども 

 わがぐんこそは たかだかとそびえたちたれ うごきもやらず

 はやすでに みかたのぼうぎょは しんげんたるに

 くわえてそのうえ ひとびとのこころはひとつ しろとなる

 黄洋界にぞ ほうせいたかく とどろけば

 しらせてきたる そのしらせ てきこそにげね よのうちにとや

 ここより更に少し登ったところに、当時の見張り台の石組が残っている。
 ここで、さきほどの詩のような、「黄洋界防衛戦」という有名な戦いがあったらしい。そこにある説明書には、
「1928年8月30日、湖南、江西両省の敵軍は四個連隊の兵力をもって井岡山に進攻してきた。当時、井岡山の守りは、一個大隊にも足りなかった。大隊長陳毅らは井岡山の村人たちと一緒になって、要害を頼みに抵抗、敵軍を壊滅、井岡山根拠地を防衛した。これが有名な黄洋界防衛戦である」 
 と記されている。これに、王さんの説明を付け加えると次のようになる。
「紅軍兵士たちは、一門の迫撃砲を展望のきく見張り台へ運び上げ、攻めてくる敵軍に砲撃を加えました。といっても、砲弾は三発しかなく、しかも最初の二発は湿っていてうまくいかず、やっと三発目が敵軍に命中しました。
 この砲撃を合図に、山上に隠れていた兵士たちは一斉にラッパを吹き、銃撃を加えました。村人たち老若男女はときの声をあげました。この攻撃、叫びを大軍と間違え、敵軍は及び腰になりました。ちょうどその時、毛沢東率いる紅軍の主力が帰ってきて、敵軍を壊滅しました。毛沢東は、この時の勝利を喜び『西江月 井岡山』の詩を作りました」 
 この話は、後で行った革命博物館にほぼこの通り書いてあったので、王さんの博識に驚くと共に、このような教育が徹底していることにも驚いた。
 しかし、旅行から帰って来て、この話を中国人の若い友人のEさんにすると、「知らない。聞いたかもしれないが忘れた」と素っ気ない。最近は、そう厳密には教育されていないのかもしれない。あるいは若者は、もう、そういう話を全面的に信用しなくなってきているのかもしれない。

《私たちが見学したところ3 ー茅坪(マオピン)ー 》          

     ●紅軍病院旧址 
     ●八角楼
     ●湘カン辺界党的第一次代表大会旧址 
 

 井岡山から北麓の寧岡へ下る途中に茅坪という村がある。今度の旅行で、この茅坪の風情に一番惹かれた。
 私たちの、ワゴン車のタクシーは、村に入ったところで立往生してしまった。道いっぱいの人だかり。タクシーを下りて近づくと、肉、野菜、干物、日用雑貨などを篭に入れ、袋に入れ、あるものは道路にじかに並べて売っている。農村の市なのだ。 
「村人の話では、一、四、七の日に市が立つそうです」
 と王さん。
「でも今日は二十六日ですよ」
「農村は農暦なのです」
 旅行から帰ってきて調べると、12月26日は、旧暦の11月27日だった。さすが、王さん。

   
 茅坪への道  茅坪の村の市
   
 湘カン辺界党的第一次代表大会旧址  湘カン辺界党的第一次代表大会旧址内部


 前述の『NHKスペシャル毛沢東とその時代』の中で、この茅坪村の張桂庭さんが話している。
「毛主席は朱徳総指令と一緒に、よくこの辺りを通ったよ。ボロボロの服を着て、帽子を被ってな。村の人たちは毛主席と朱徳総指令を、毛委員、朱軍長と呼んでた。毛主席はここで民衆にお米をやったり、子どもを救ったり、民衆のために草鞋を編んだりしたんだ。毛主席はわれわれの恩人だ」
 張桂庭さんは、話しているうちに昔のことを思い出し、気分が高じてきたのか、当時よく歌っていたという歌を歌いだす。
  ♪土豪を打倒しよう、劣紳を打倒しよう
   土豪、劣紳を打倒して土地を分配しよう
   土地を分配して、中央紅区の人々は紅軍を讃える
   円満な幸福は毛委員に頼る
   貧乏人は立ち上がり、さらなる闘争を忘れない

 八角楼の説明プレートには次のように記されている。
「井岡山を根拠地とした時期において、八角楼は、毛沢東がもっとも長く居住し仕事をした所である。そして、ここはまた、湖南、江西省境地区武装割拠の指揮の中心であった。
 毛沢東はここで、たくさんの報告、書簡、調査手記を起草した。その中で最も著名なのは、一九二八年の十月、十一月に前後して書いた『中国の紅色政権はなぜ存在できるか』と『井岡山の闘争』である。当時、各方面の状況は非常に艱苦であった。毛沢東は、いつも、油灯のもと、深夜まで仕事をした」
 毛沢東は、『中国の紅色政権はなぜ存在できるか』の中で、次のように述べている。
「共産党の指導する一つの小さな、あるいはいくつかの小さな紅色地域が、周囲を白色政権にとり囲まれながら発生し、もちこたえていけるのはどうしてか。
 中国は、統一された資本主義経済ではなく、併せて、封建的・地方的な農業経済が存在する。また、中国は、帝国主義諸国によって半植民地的状況におかれているが、その帝国主義諸国相互が分裂している。さらに、この二つの状況に由来する軍閥相互間の矛盾と戦争が存在し、その間隙をつくことによって紅色政権は存在することができる」 
 湘カン辺界党的第一次代表大会旧址の裏手の壁に、当時、書かれた標語が残っている。
 「消滅代表土豪劣紳的国民党!」
 「打倒中国国民党」
 「消滅屠殺工農的国民党!」
 「消滅新旧軍閥戦争」
 「消滅欺騙工農的国民党」
そして、これらの標語は、保護のため、ガラスで覆われている。
 同じ壁面の説明書きに次のように記されている。
「古い同志の言うところによると、これらの標語は、賀子珍が手助けし、紅軍宣伝隊が書いたということである。当時、賀子珍同志は、中国共産党井岡山前線委員会の幹部であった」

《私たちが見学したところ4 ~寧岡(ニンガン)ー 》 

   ●龍江書院
     紅軍教導隊旧址
     井岡山会師(毛沢東と朱徳の第一次会見場所)
   ●会師広場
   ●井岡山会師紀念碑


   
 龍江書院  井岡山会師紀念碑

 1928年4月、毛沢東と朱徳が合流したのがこの、井岡山の麓の町、寧岡であった。この出会いまでの背景を少し辿ってみよう。
「南昌蜂起の残存部隊は、長駆広州を衝くため南下したが、広東東部で優勢な敵軍に迎撃されて壊滅した。朱徳らその一部は更に湖南へ転進し、他の一部は広東農民運動の拠点東江地区に入り農民自衛軍と合流して、十一月、海豊、陸豊両県に中国最初のソビエト政権を樹立した。
 湖南に入った朱徳ら二千は優勢な敵軍と三ヵ月近く戦ったあげく、井岡山をたよって撤退してきた。鉱山労働者や農民の武装部隊六千人もいっしょであった」(『図説中国の歴史9 人民中国への鼓動』)
 ここでは、朱徳の方から毛沢東を頼って井岡山へやって来たように記されているが、次のような著述もある。
「毛沢東は、ある風変わりな軍閥革命家を招くために自分の弟を派遣し、毛沢東軍への合流を要請した。この招かれた男が朱徳将軍であり、彼は当時四十二歳だった」(G・パローツィ〓ホルヴァート著『毛沢東伝』)
 と、毛沢東から誘ったとなっているのがおもしろい。
 朱徳は通常、次のように紹介される。
「朱徳(1886~1976)は四川省儀隴県の人である。1909年、雲南陸軍講武堂に入る。この年、孫中山が指導する中国同盟会に加入。1915年、袁世凱称帝に反対する起義に参加。1922年、雲南を離れ北京、上海を経てドイツへ。ベルリンで周恩来やその他共産党員と知り合い、共産党に入党。1925年学習のためソ連に赴く」
 これでは、朱徳の人物がいまひとつ分からないので、さきほどの『毛沢東伝』の続きを要約してみよう。

「朱徳は袁世凱称帝に反対する起義に参加、一躍有名になる。このおかげで政治権力と軍事力を手中にし、軍閥の一人となる。
 1920年、三十四歳の朱徳はたいそう太っていて、まったく堕落しきったアヘン中毒者だった。彼の部下たちが公金を略奪して彼を富ませる一方、彼は宮殿のような邸宅でアヘンを吸ったり、経書を読んだり、妻や妾たちのかなり大きなハーレムを訪ねたりして時を過ごしていた。
 雲南にも、中国のまったくの混沌のニュースが続々と伝わってきた。この学識ある軍閥は、没収した革命文書やパンフレットを読みはじめ、1921年も終わろうとするある日、新生活へのスタートを決心した。
 彼は、妻や妾たちと別れ、財産も捨てて上海へと旅立つ。非常に徹底した治療を受けて、アヘン常習癖を三週間で治してから、あるヨーロッパ行きの革命的学生の仲間に加わった。
 1925年に帰国した後、彼は国民党によって南昌の公安局長に任命された。1927年8月1日の「南昌起義」は朱徳と周恩来が指導したものであった」
 こんな朱徳を毛沢東はどのような判断で井岡山に呼んだのか。この続きは、前述『毛沢東伝』をお読み下さい。朱徳というのはなかなか味のある人物である。
 朱徳の生涯については、名著、アグネス・スメドレーの『偉大なる道(上、下)』岩波文庫がある。
 また、「南昌起義」のところで登場するので、ご記憶願いたい。

《毛沢東の結婚》

 井岡山を北へ下った所、茅坪の手前に、毛沢東と賀子珍が新婚生活を営んだという家がある。井岡山は毛沢東と賀子珍との出会いの場所であった。
 彼女の名前であるが、賀子珍の他、賀子貞、賀子陳あるいは賀子年となっている記述さえある。
 先に、賀子珍が大井にやって来て、新聞雑誌の切り抜きやら、原稿の整理等、毛沢東の手伝いをするようになったと書いた。また、湘カン辺界党的第一次代表大会旧址の裏手の壁に残っている標語の説明の所でも賀子珍のことを書き、当時、賀子珍は、中国共産党井岡山前線委員会の幹部であったと述べた。
 毛沢東と賀子珍について、G・パローツィ〓ホルヴァートの『毛沢東伝』から拾ってみよう。
「最初の妻が処刑された一、二年後に、彼は賀子貞と結婚した。彼女は、まだ毛伝説が生きている長沙師範学校に一時学んだことのある元学校教師であった。この三人目の毛沢東夫人は夫より十七歳も年若く、顔立ちのいい、ほっそりした女性で、熱烈な共産主義者であった。彼女は毛沢東の子どもを五人生んだが、そのうち三人は危険な長征のあいだ農民に預けねばならなかった。これらの子どもも、そしてその里親になった農民たちさえも、その後まったく行方がわからなくなった。賀子貞は長征で生き残った三十人の女性の一人だった。彼女は可能なときはいつでも夫の傍にいた」
 今の文章、「最初の妻が処刑された一、二年後に、彼は賀子珍と結婚した。・・この三人目の毛沢東夫人は・・」。つまり賀子珍は、毛沢東の二番目の妻であり、三人目の夫人であったということである。このことについて、『毛沢東伝』の記述を引用し説明しよう。
「父親は息子のために、十人並みの顔立ちで丈夫そうな一人の村娘を選んだ。毛沢東は、結婚式のまえに相手を見ることができないような妻を得ることに熱心ではなかった。彼は結婚式当日、まだ十五歳になっていなかった。大そう長たらしく念入りな結婚の儀の最後のしきたりは花嫁のヴェールを上げることだったので、この若い花婿は最後に彼女の顔を見たのであろうが、毛沢東はその相手を好かなかった。その少女が毛家で暮らすようになったのかどうか、われわれにはわからない」
 エドガー・スノーの『中国の赤い星』で、毛沢東はスノーに、「私は彼女と一緒に住んだこともなく、その後も一度も同居しませんでした」と語っている。
 次に、最初の妻、楊開慧との結婚について述べよう。
 これも前述『毛沢東伝』からの引用である。
「(長沙の)師範学校の最初の年(1913年、毛沢東二十一歳)に毛沢東にもっとも強い感化を与えた教師は、エジンバラ大学で哲学の学士号をとった楊昌済であった。楊教授は、優秀な生徒の何人かを食事と長い会話のために彼の家へ招くことを習慣にしていた。毛沢東はまもなくこのサークルの一員になった。生徒たちは、楊教授宅のテーブルについて、楊夫人が用意してくれた上等の料理を食べながら、教授の娘の美しさに深く魅了された。教授の娘は小柄できゃしゃなタイプであり、可愛らしい顔の真珠のように白い肌の少女だった。
 (中略)毛沢東は1920年(通説では、1921年、毛沢東二十九歳の時)、以前の教授の娘である楊開慧と結婚した。彼の学生仲間はみなこの結婚を理想的な現代のロマンスだと話し合った。楊開慧は可愛らしい少女であるばかりか、真の革命的同志でもあり、夫の友人たちとあらゆる主義について議論することができ、またほとんどの活動に参加した」 
 楊開慧の最期について述べよう。まず、エドガー・スノーの『中国の赤い星』より引用しよう。
「私の名前は湖南農民の間に知れわたっていましたが、それは生死にかかわらず私の逮捕には高額の賞金がかけられていたからです。湘潭にある私の土地は国民党に没収されました。妻と妹、二人の弟毛沢民と毛沢覃の妻たち、それに私の息子たちはみな何鍵(軍閥の省長)によって逮捕されました。妻(楊開慧)と妹(沢洪)は処刑されました。他の者は後に釈放されました」
 次の文章は野村浩一著『人類の知的遺産 毛沢東』よりの引用である。
「1930年という年、私たちは、毛沢東の個人史について、一つの重要な事件を書きとめておかねばならない。それは、彼の妻、楊開慧の死である。(1927)四・一二クーデタ以後、はなればなれの生活を送っていた彼女は、この年、湖南の軍閥何鍵に逮捕され銃殺された。何鍵は、釈放とひきかえに、毛沢東との離婚証明をせまったが、彼女はこれを拒否したと伝えられる。いずれにせよ、この消息は、毛沢東の心に深い傷あとを残したにちがいない」
 先に挙げた『毛沢東伝』では、「最初の妻が処刑された一、二年後に、彼は賀子珍と結婚した」となっていたが、通説では、楊開慧が殺されたその同じ年、1930年に結婚したことになっている。

 そして、私が思うに、毛沢東と賀子珍の実質的な夫婦生活は、もっと早い井岡山時代からあったはずだ。

 私は、この「毛沢東の結婚」の最初に、
「井岡山を北へ下った所、茅坪の手前に、毛沢東と賀子珍が新婚生活を営んだという家がある。井岡山は毛沢東と賀子珍との出会いの場所であった」
 と書いたが、賀子珍との結婚が楊開慧処刑後とすると、それはもう井岡山時代ではない。
 これは先にも書いたが、長征を共にしたのは賀子珍であったが、延安に着いて間もなく二人は不和になり、賀子珍は病気療養ということでモスクワへと去る。そして江青の登場ということになるのだが、それはもう、この旅行記の範囲ではない。

《毛沢東を賛美する話を二つ》      

 井岡山から北麓の寧岡(ニンガン)へ下る途中に茅坪(マオピン)という村がある。ここの紅軍病院旧址のパネルにあった話を二つ紹介しよう。

 「狗魚的故事」
 狗魚(ゴウユィ)、当地ではまた、娃娃魚(ワーワーユィ)という(下の写真)。学名は鯢魚(山椒魚)。両棲動物である。
 茅坪河は井岡山地区で唯一狗魚が捕れるところである。ちょうど、共産党の湖南省と江西省の省境第一次代表大会が召集されていた1928年5月20日、茅坪の村人たちが一匹の十五キロ以上もある狗魚(山椒魚)を捕らえて、毛委員と大会の代表達に食べてもらおうと届けてきた。

 毛委員は、狗魚を指差して、「それは、何を食べて生きているのか?どうしてこんなに大きく成長したのか?」と問うた。村人たちは、「狗魚は、魚やエビを食べて生きている」と答えた。
「もともとそれは、水中のボス、魚を食べる魚で、ちょうど、人を食べる人である土豪劣紳(どごうれっしん)と同じだ。そのような、〝狗魚〟のような人間は、当然打倒されなければならない」
 と毛委員は、ユーモラスに言った。その場の人々はこの話を聞いて、みんな愉快に笑った。
 続いて、毛委員は言った。「狗魚は、味はいいし滋養にもなる。病院の張師長と傷病兵に食べさせよう」。それでこの狗魚は病院に転送された。入院中の張子清師長と傷病兵達は深く感動し、みんな、このめずらしい動物をとり囲んでひととき眺めたのち、八角楼(毛委員たちの居るところ)へ返した。   
 土豪劣紳■旧中国の農村や都市で、権勢をかさにきて悪事を働いていた地主、富農、退職官僚、金持ちなどをこう呼んだ。彼らは、権力機構をあやつり、裁判権をにぎり、人民を抑圧して悪事のかぎりをつくしていた。この言葉は、毛沢東の著書によく出てくる。

 「毛委員、卵を贈る」
 ある日、牛亜陂村の肖丁秀婆さんが、一籃の鶏卵を持って、毛委員に食べてもらおうと八角楼へやって来た。
 毛委員は、よくよく辞退したが、婆さんが今にも怒りそうになったので仕方なく受け取った。夕方、毛委員は、鶏卵を持って紅軍病院に来て、司務長胡全奎に傷病兵達へ配らせ、これは、肖婆さんに頼まれて持ってきたんだと言った。
 数日過ぎて、バ上郷工農兵政府は村人の代表を連れて傷病兵の慰労にやって来た。肖婆さんも来た。胡全奎は、婆さんに、「数日前、あなたは、毛委員に託して私たちに卵を贈った。どうして、今日また、くれるのか」。肖婆さんは、それを聞くとすぐに言いました、「毛委員はここへ持ってきたのですか、それは、私が彼に贈ったものです」。
 この時みんな、前の卵は肖婆さんが毛委員に贈ったものだったんだと知った。

《民主的な紅軍三話》   

 「三大紀律、六項注意」
 有名な三大紀律、六項注意(のち八項注意)が公布されたのは「井岡山の闘争」の時期である。即ち、三大紀律は、1927年10月に、六項注意は1928年1月に部隊に宣布された。

 三大紀律
  一、行動は指揮に従う
  二、労働者、農民のものは針一本、糸一筋とらない
  三、土豪から取り上げたものは公のものとする
 六項注意
  一、寝るために借りた戸板はもとどおりはめておく
  二、寝るために借りたわらはもとどおりくくっておく  
  三、言葉づかいはおだやかに

  四、売り買いは公正に
  五、借りたものは返す
  六、こわしたものは弁償する
 まぎれもなく、ここには、毛沢東が創りだした新しい世界がある。

 「龍江書院の対聯」
 寧岡(ニンカン)の龍江書院は、清代にできた書院である。一九二七年、毛沢東が井岡山にやってきたとき、ここで、軍の教育、指導をした。
 ここの壁に当時書かれた字がそのまま保存され残っている。
   白軍裡将校尉飲食不同
   紅軍中官兵フ薪餉一様
 入り口の左右に書いてある対聯である。
 次のような注釈が付いている。
「これは、陳毅の原稿をもとに、紅軍宣伝隊が書いたもので、紅(共産党)、白(国民党)両軍隊の性格の根本的差異をよく表している」

 「尻をぶってはいけない」
 これは茅坪(マオピン)の湘カン辺界党的第一次代表大会旧址のパネルにあった話である。
 1928年の二月初めのある夜のこと、工農革命軍第二団特務連隊は(国民党)靖衛団を迎え撃つために、虎嶺へ行くよう命令を受けた。連隊長は、何か土を掘る道具を借りてきて、すぐに出発するよう命令を出した。
 部隊は虎嶺へ急いでかけつけ、すぐに工事に着手した。一人の新兵は、鋤を借りて来ていなかったので、仕方なく、他の兵士が掘り終わった後で借りた。
 彼が、やっと鋤を借りたばかりの時に敵がやって来たので、体を外に曝したまま、銃を取って戦闘に入った。
 戦闘に勝利した後、総括が進み、連隊長周桂春はこのことについて大変怒り、この兵士の尻を百五十打つように命じた。
 この時、連隊の兵士委員会の同志が、過失のある新兵は教育すべきであって、我らは紅軍である、人を打ってはいけない、と提案した。この話は、みんなの支持を得、連隊長も人を打つのは良くないという認識に到った。最後に、兵士委員会は、この兵士に一日の見張りという罰を決定した。

《井岡山の夜校》        

 一日中、寒い霧雨の中をあちこち見学してきて体が冷え切ってしまったので、なにか温かいものを食べようと、井岡山の土産物街に続く一軒の食堂に入る。
 粉(フェン。米で作った細いうどんのようなもの。ところによっては平べったいのもある)を食べる。温かいし、おいしいし、これなら残すところなく全部食べれるし、比較的安い(六元、約百円)。私は毎食これで十分なんだけど、王さんには物足りないようで申し訳ない。
 私たちが食べている横で、炭火にあたりながら夕食を摂っていた二人の少女が、私たちにもあたるように場所を空けてくれる。
 一人は大人びた感じで、もう一人は地味な感じなので、年令が二つ三つ違うように見え、姉妹かと思っていた。
「何年生?」
「中学三年生」
 私が、隣の子の方を見ながら、
「妹?」と聞くと、
「クラスメイトです」と答える。
 中国では一人っ子政策なので妹ということはないのだ。「どうして夕食を一緒に食べているの」
「夕食を食べたら、一緒に学校へ行く」

          夜校の風景

「こんな夜に?今日は何か特別な行事があるの?」
「六時半から夜校が始まる」
「夜校?」
 横から王さんが答えてくれる。
「今、中国では、地方では夜にも学校へいくのです」
 私は、これにはびっくりする。
「何の勉強?」
「自習」
「先生は来るの?」
「出席だけ取りに来る」
「何時まで?」
「八時半まで」
「私たちも見にいっていい?」
「いい」
 ということで、井岡山中学(日本の中一から高三まで)の夜校の参観に行く。
 途中、霧雨の降る、街灯もない真っ暗な道を初級中学の一年から高級中学の三年までが三三五五、夜校への道を急ぐ。小さな流れが合流し、学校が近づくと道一杯になってにぎやかだ。学校の校舎は煌々と電灯がついている。私と王さんも校舎に入る。生徒たちは、見慣れない闖入者にも特に関心を払っている風はない。
 六時半にはまだ少し時間がある。教室の子どもたちは立ち歩き、私語に忙しい。教室の中を写真に撮ろうとカメラを向けると、どこの子どもも同じこと、近寄ってきてポーズをとる。
 旅行から帰ってきて、中国人の友人にこの話をすると、「夜校?そう一般的にあるわけじゃない」という。王さんの言うのとどちらが正しいのだろうか。省によって違いがあるのかもしれない。

《娃娃魚の夕食》

 今日一日、黄洋界、茅坪、寧岡、大井、小井、それに、茨坪に戻ってきての革命博物館など、ずいぶんあちこち見学をしたので大変疲れ腹も減った。
 昨日食べた粉(フェン)がおいしかったので、もう一度食べようということになって、昨日行った食堂へ行く。王さん何やら食堂の主人と話し合っている。
「野鳥と狗魚の料理にしました」と王さん。あれっ。粉を食べようと言ったさっきの話と違う。 
 主人は、店の前の篭にいた、鶏より少し小さめの野鳥を篭からひっぱり出して来て、私に頭を触れという。気色悪い。どうして私が野鳥の頭を触らないといけないのか。しばらくすると、今度は、調理場から私を呼ぶ。調理場に入って行くと、たらいのような容器の中で、じっとしている四匹の山椒魚の子どものようなものを見せる。これを食べるのか。ああ、かわいそう。主人は、高価な食材を注文してくれる客がつき、上機嫌で愛想を振りまいているのだ。
「何これ?」

「娃娃魚(ワーワーユィ)」

 
 野鳥と娃娃魚の夕食

 横から王さんが、
「今日、茅坪の病院址の説明板に〝狗魚的故事〟という話が載っていたでしょう、今のが狗魚(ゴウユィ)です」  
 料理は、野鳥を絞め殺すところから始まるので結構時間がかかる。

 小一時間待たされて、やっと料理が運ばれてきた。
 野鳥のスープ、狗魚の棗(なつめ)入りスープ、干した支那竹の肉炒め、なかなかのご馳走である。
 でも、野鳥は大して肉がない。ましてや、小さな山椒魚に身などない。どちらも、スープばかり飲む。野鳥のスープはまあまあ。狗魚のスープは少し臭い。
 私と王さんのやりとり。
「狗魚は保護動物に指定されているのですが、井岡山でだけは食べていいのです」  
「えっ!そんな理屈あるのか」
「狗魚は大変滋養になります。特に、狗魚の棗入りスープは、風邪によく効きます」
「風邪などひいてないぞ」
「王さん、おいしい?」
「うーん」
 王さんも、あまりおいしくなさそうだ。
「今日の料理いくら?」
「二百元(約三千二百円)」
 まあ、そんなところだろう。値段はともかく、私は、粉(フェン)が食べれなくてちょっと不満。王さん、私の気持ちに気づいたのか、
「今日は、私の招待(奢り)にしておきます」

 そういう意味じゃないんだけれど。

《井岡山土地革命》

 井岡山で毛沢東は何をしたのか。どうして農民は毛沢東についてきたのか。井岡山で買ってきた冊子や毛沢東の『井岡山の闘争』の記述からいくらか抜粋しよう。
「当時、江西方面においては、遂川の土地が最も地主に集中していた。約百分の八十が地主の所有であった。永新がその次で、約百分の七十が地主の所有であった。万安、寧岡、蓮花は比較的自作農が多いところであるが、それでも約百分の六十が地主の所有で、農民はただ、百分の四十を占めるにすぎなかった。湖南方面では、茶陵、レイ県両県を平均すると約百分の七十の土地が地主の手中にあった」
「毛沢東は遂川黄 区工農兵政府成立大会で土豪劣紳を打倒することの意味を次のような喩で生き生きと説明した。
 毛沢東は、一方の手で一つの碗を持ち、もう一方の手で一つの湯呑みを持った。彼は言った、以前は、湯呑みがお碗を圧倒していた。今は、逆にお碗が湯呑みを圧倒するのだ。続いてまた言った。土豪を打倒するのは大きな木を切り倒すのに似ている。大きな木を切り倒したら、薪になる。打了土豪就有飯吃有衣穿(土豪を倒したら、食べる飯があり着る服がある)。この二つの喩は、十分にこの道理を説明した」

 「1928年12月、省境地区政府は、土地革命の経験を総括し、『井岡山土地法』を公布した。これは、土地革命戦争時期において、共産党が制定した最初の土地大綱である。

『井岡山土地法』の具体的内容。
 すべての土地を没収し、ソビエト政府の所有とする。
 土地の売買は禁止する。
 老人、子ども、病人など、耕作能力のない人、および、公衆のための仕事に従事している者以外は、すべて労働する。
 分配する土地の数量基準は二つある。
  一、人数を以て平等に分配する。
  二、労働力を以て基準とする。労働能力の高い者は倍分配を受ける。ただし、一般には第一の基準を主とする。
 土地の分配は、一般に郷を単位とする。いくつかの郷を併せて分配単位とすることもある。
 山林分配法を制定する。
 土地税等を徴収する。
 土地革命の実施によって、省境の貧しい農民は土地を得、農村の生産力を解放し、農民大衆の革命の情熱を刺激した。
 彼らは、積極的に紅軍に参加参戦し、食糧を提供し、靴を提供し、革命戦争を支援し、革命根拠地の建設を促進した」

《瑞金(ずいきん)への旅 -乗り合いバスと困ったホテル-》

第五日、六日

 早朝、六時二十分のバスで井岡山を離れる。カン州まで百七十五キロ、二十四元。更にバスターミナル建設費一元と保険費一元を取られた。保険費一元で、交通事故で死んだら五千元(約八万円)くれるということだ。長距離バスに乗ると、保険費を取られることが多い。でも、死んで八万円貰ってもしかたがない。これが中国の命の値段なのだろうか。
 五時間かかって、十一時二十分、カン州着。
 昼食後再び長距離バスに乗る。

 

 カン州は江西省南部第一の都市である。バスターミナル(右の写真→)には、広州、深セン、南昌、龍岩、長沙などと表示した豪華なバスが停車している。特に、広州、深センなどへは臥鋪車(上下二段の寝台車)も多い。京九鉄道がついたとはいえ、まだまだ庶民の足はバスのようだ。
 私たちが乗ったのは、おんぼろ乗り合いバスだ。瑞金まで百五十キロ、二十五元。十二時五十分カン州発。
 カン州の市街地を出てしばらく走って、カン州の街が泥だらけだったわけがわかる。カン州の街中、雨が降ったり止んだりしているので、ドロドロで、大きなタンクを積んだ散水車が、道路の泥を洗い流して、しょっちゅう町を走っていた。カン州から瑞金を経て福建省へ至る幹線道路が大がかりな工事をやっているのだ。
 雨でドロドロの道を長距離バスがどんどん走る。工事が途切れるとどの車も、それまでの遅れを取り戻そうとスピードを上げる。といっても、傘をさして歩く人、合羽の自転車、天秤棒で荷を担いだ人、トラックター、トラック、たまに乗用車、みんな同じ道を通るのでそんなにスピードは上げられない。ほとんどが二車線なのだ。だから、対向車との距離を測ってセンターラインをオーバーして追い越す。しかし、いつもいつも思惑通りとは行かない。追い越すまでに、対向車が来てしまうと・・・結果は明らかである。
 だから、追突した状態のままのバスとトラック。車体を側溝につっこんだバス。田圃のなかに落ちてしまっている乗用車。井岡山から瑞金までの間、いくら交通事故を見たことか。私だって、保険金が現実になりかねない。
 かつて、運転手の横、最前列が私の指定席で、カメラをかまえてシャッターチャンスを窺うのが私のポーズであった。王さんも、先に乗り込むと、「橘さん、この席、この席」と気を遣ってくれていた。でも、こう、交通事故が多いと、危なっかしくて最前列には座れない。
 乗り合いバスなので、途中どんどん土地の人が乗ってくる。鶏が七、八羽も入った大きな篭を三つも屋根に積んだ。屋根にはすでに、自転車が乗っている。もう立錐の余地もないほどぎゅうぎゅうづめ。私のバッグはもうとっくに椅子代わりになっている上、踏まれてドロドロ。いつのまに乗ったのか、バスの中でワンワン犬がうるさい。
 于都~瑞金はさとうきび畑がずいぶん多い。刈り取る人、道路まで運ぶ人、道路で看貫で計る人、トラックに積み込む人、道路が作業場になっている。ちょうど五年前の暮れも広西チワン族自治区で同じような光景を見ていた。
 五時を過ぎた。すでに一時間以上遅れている。早く着いてほしいと思っているのに、降りた客を車掌が追っ掛けて行き、何やら言い合っている。運賃を正しく支払わなかったらしい。中国のバスで、この種のトラブルはすこぶる多い。                     
 瑞金の入り口の料金所でバスが止まったとき、右手に古い塔が見えた。

 

龍珠塔といい、明代のものだ(右の写真→)。この塔については、『図説中国の歴史9 人民中国の鼓動』の写真で見て、瑞金という町のイメージを膨らませていた。でも瑞金は、古い町を壊して新しい建築が進む、中国の地方、どこにでもある褐色の普通の町だった。
 違うのはあちらこちらにある、〝紅都瑞金〟という文字である。〝紅都〟という文字を見て、「革命の故郷へ来たのだなあ」と思う。
 ここまで南下して来るとさすがに暖かい。アノラックを着ていると暑過ぎるが、ポケットが多く便利なので無理して着続ける。でも、外からの雨と内からの汗でじっとりしてくる。ホテルに着いて一番にシャワーを浴びようとすると湯が出ない。「湯が出ない。どうなっているのかなあ」と言っていると、王さんが、「フロントの娘が、湯が出るのは、七時半から九時半までと言っていましたよ」と言うので待つ。
 王さんは、浴槽のひび割れがセメントで詰めてあるのを見て、「私は街へ出て、サウナへ行ってきます」とホテルを出て行った。私は、今日は十時間もバスに乗り疲れていて、出かける元気がなかったので七時半を待つ。
 ところが、七時半になっても湯が出ない。
「七時半になっているのに湯が出ないじゃないか」
 と私は声が大きくなる。
「今日は、客が少ないのでボイラーを焚いていません。湯が要るとき言っていただければ、持っていきます」
 服務台の娘はしゃあしゃあとしている。私はたまげた。彼女は大きなバケツに湯を入れ、大きな盥といっしょに持ってきてくれた。
 盥に湯を入れ体を拭いて、時間はまだ早いがベッドに入った。ところが、布団が、汚れている上、雨天で湿度が高くジトッとしており気持ち悪かった。
 次の日は、私もサウナに行った。

《瑞金革命根拠地の五年》

 瑞金は武夷山系の麓の丘陵地帯に位置する町である。井岡山の革命根拠地が、高い峰々に囲まれた要害の地であったのと対照的に、ここは開けた土地である。

 1929年1月に国民党軍の包囲攻撃を受けて井岡山根拠地を離れた毛沢東・朱徳ら紅軍第四軍は、江西省南東部から福建省西部にかけての地域で新たな革命根拠地の建設を開始し、31年9月までに二十一の県、二百五十万の人口を擁する「中央根拠地」(中央ソビエト区)を形成した。
 このころ、国民党政権のもとに、ほぼ全中国を統一するかの勢いを見せていた蒋介石は、これら江西ソビエトこそ真の敵であることを感じ取る。蒋介石はソビエト地区を包囲し、いわゆる「囲剿(いそう)」という形をとって、包囲討伐戦を進めようとする。
  第一次囲剿(1930・12)、第二次囲剿(31.2)が失敗に終わったのち、蒋介石は、いよいよ本腰をあげて、31年6月、三十万の兵力を投入し第三次囲剿を開始した。中央軍の精鋭十万が、ソビエト区の中心都市、瑞金へと迫りつつあった、まさにこの時、1931年9月18日、瀋陽で日本軍の手による「満州事変」が起こった。蒋介石は、急遽、討伐戦を打ち切って南京へと引き上げる。蒋介石新軍閥による「全国制覇」対「労農武装割拠-根拠地建設」という構図は、日本の軍事侵略の前に、重大な変化を見せることとなる。
 31年11月、瑞金の葉坪村で中華蘇維埃第一次全国代表大会が開催され、大会後、毛沢東を主席とする中華蘇維埃共和国臨時中央政府(34年2月に「臨時」呼称をとる)が発足する。
  それを促した力が、「満州事変」という外からのものであったとはいえ、これまでの根拠地の連合体-ソビエト区が成長して、一つの中央政府をもった国へと結実したのである。
 この瑞金時代というのは、依然としてコミンテルンの指導する党中央の路線、いわば基本的には都市型革命の路線と、毛沢東の創出しつつあった農村根拠地型革命の路線とのせめぎ合いの時代であった。
 毛沢東が臨時政府主席に就任し、行政責任を持ったことは、紅軍と根拠地にゆるぎない威信をもつ毛沢東棚上げの第一着手でもあった。それは、中共中央軍事部長の周恩来が瑞金に派遣されて来て、毛沢東に代わって紅軍政治委員に就任したことでもわかる。1932年10月には、毛沢東は紅軍の指導から完全に外され、ソビエト政府の仕事に専念するようになる。
 一方、上海で地下活動続ける李立三(り・りっさん)路線以後の党中央は、もはや大都市ではほとんど何らの有効な活動をもおこないえない事態に追い込まれていた。
 1933年1月、党中央は上海にいたたまれず、ついに瑞金にころがりこんで来る。しかし、結果として、党中央の瑞金への移転は、党の指導権を握る、秦邦憲(しんほうけん)など、いわゆる「ソビエト留学生派」が瑞金へと乗りこんできたに等しかった。
 党本部の移転は、毛沢東の生活と仕事とを以前と比較にならないほど困難にした。
  スターリン路線に影響され、教条的な口論にふけっていた党の指導者たちが紅軍とソビエト政府の運営に干渉したからである。
 1933年10月、蒋介石は百万の大軍をもって第五次囲剿に乗り出す。
 一年後の1934年10月、紅軍はほとんど壊滅し、労農紅軍十万は、長征へと出発する。
 
  この期間、瑞金の革命根拠地は、
 (1) 瑞金市街地から北東へ五キロの葉坪
 (2) 西北西へ五キロの沙州バ
 (3) 西へ二十キロの雲石山
 と移転する。
 瑞金市街は何の面白みもない新旧建築の雑居する普通の地方の中都市だけど、少し郊外に出た、葉坪、沙州バ、雲石山などの村は、私のイメージする中国の原風景で、心がなごみ楽しい。しかし、そこに住んでいる人々にしたら、それは、貧困とイコールであって、抜け出したいが抜け出せないしがらみなのかもしれない。

《瑞金で私たちが参観したところ》

(1) 葉坪(イエピン)
  ●中華蘇維埃共和国臨時中央政府旧址群
   (もとは謝氏という一族の祖廟であった)
   ・中華蘇維埃第一次全国代表大会会址
   ・中国共産党蘇区中央局旧址
   ・臨時中央政府総弁公庁(庁舎)址
     中央出版局
     紅色中華通訊社
     紅軍無線電総隊
     国家銀行、国家銀行金庫
     中央郵政局(独自の切手を発行した)
     中央造幣廠(独自の紙幣を発行した)
     中央図書館
   ・紅軍烈士紀念塔
   ・紅軍検閲台

   
 葉坪革命旧址群遠景  中華蘇維埃第一次全国代表大会会址内部

 (2) 沙州バ
   ●中華蘇維埃共和国中央政府大礼堂旧址
   (中華蘇維埃第二次全国代表大会会址)
   ●中華蘇維埃共和国中央執行委員会旧址
   ●紅井    

 沙州バの帰り、烈士紀念館へ行く。烈士とは、革命に殉じた人である。先ず、入ったところに、当時の瑞金県の土地状況が表示されていた。

         地主        農民   

  人口    一〇~二〇%    八〇~九〇%

  占有土地  八〇~九〇%    一〇~二〇%

  全県人口 約 三三〇、〇〇〇 人

  耕地面積 約 三三九、四九〇 畝

 
 中華蘇維埃共和国中央政府大礼堂旧址
 王さん(右)と私

 どの部屋も、どの部屋も烈士の似顔絵が続く。似顔絵の下には人物が紹介され、故郷の写真が添えられている。少ないながら遺品もある。ほとんどが土地(瑞金)の人である。戦争中に射たれて死ぬ場合が多いと思っていたが、捕らえられて、打死、毒刑、銃殺、どう殺されたかわからないが酷刑などと記された人が半分を超える。中国、どこへ旅行しても、このような烈士紀念館とか烈士塔とか烈士陵とかがやたら多い。それだけ多くの犠牲者の上に人民共和国は建設されたということである。
 そしてまた思うのは、毛沢東、周恩来、朱徳、陳毅、鄧小平などは死ななかったということである。昔、子供の頃、時代劇を見て、市川右太衛門、長谷川一夫、高田浩吉など扮する主人公は、子分たちはみんなみんな死んでいくのにいつも生き残るのが子供心に不思議で仕方なかったが、それとよく似ている。

《紅井、「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れない」》

 沙州バの村のなか、中華蘇維埃共和国中央執行委員会旧址に隣接して紅井(ホンチン)がある。
「紅井を見ていきましょう」

王さんが呼び止めてくれなかったら、素通りしてしまうところだった。
「何ですかそれは?」
「井戸です。中国人ならみな知っています」
井戸の横の説明書きには、次のように書いてある。
「1933年の9月、当地の飲み水を解決するため、毛沢東は政府の作業員と村人たちを指揮し、この井戸を掘った。1934年10月、中央紅軍の主力が長征に出発した後、敵軍は何度もこの井戸を塞ごうとし、沙洲バの人々と争いを続けたが、ついに保存することができた。
 1950年、井戸の修理ができ、村人たちは〝紅井〟と称し、井戸の傍に、「吃水不忘 wa 井人、時刻想念毛主席(水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れず、いつも毛主席を懐かしむ)」と刻んだ石碑を立てて、毛主席と紅軍に対する尊敬と懐念を表した」

   
 沙州バにある紅井  雲石山 中華蘇維埃共和国中央政府旧址


 旅行から帰ってきて、三十歳を少し出た中国人の友人に、この〝紅井〟と教科書の二ページを写した石碑の写真を見せると、
「これこれ、私の小学校の時の教科書、この絵も写真もそのまま」
と懐かしがっていた。

 私は、この「紅井」の話から、二十年前の一つの出来事を思い出した。
 1978年10月22日、「日中平和友好条約」の批准書交換のため、鄧小平副首相が来日した。彼は、二十四日、ロッキード裁判の被告として失意の中にあった田中角栄元首相を、目白台の私邸に訪ねた。
 この訪問中だったか、その後の晩餐会だったか、鄧小平は、「田中総理が北京に来られたとき、私は、北京郊外で昼寝をしていました」(二度目の失脚の最中だった)と言って笑わせたとか、「中国には、『水を飲むとき、井戸を掘った人の苦労を忘れない』という古い諺があります。「日中国交正常化」に力を尽くした「中国の友人」に感謝の意を表するのは当然です」と言ったとか、そんなことが新聞に載っていたことを思い出す。

 (3) 雲石山(ユンシーシャン
  ●中華蘇維埃共和国中央政府旧址
     雲石山は、ここから長征がスタートした所であって、〝長征第一山〟と呼ばれている。

《瞿秋白(くしゅうはく)を訪ねて処刑地 長汀へ》

 一時十五分中型バスで瑞金出発。瑞金~長汀、四十数キロ、十元。満席で更にバイクまで通路に積んで出発。途中、みかん畑、稲の切り株だけが残っている水田、さとうきび畑、松林の丘、レンガ工場等を見ながらバスはだんだん武夷(ぶい)山系に入って行く。 
 三十分ほど走るとバスは省境の峠を越え福建省に入る。途端に道路がよくなる。バスのスピードが上がり、十分ほどで〝客家首府創偉業〟と書かれたゲートをくぐって長汀に着く。江西省の悪い道路の感覚で、一時間半ほどかかると思っていたのが半分の時間で着く。
 王さんの話では、道路建設には各省の財政状況が大きく関係しているということだ。そして、広東、福建は豊かな省の代表で、江西は貧しい省の代表ということだ。

 長汀の歓迎ゲートの〝客家首府〟の字にうれしくなる。長汀が客家の集住地だとは知っていたが、客家博物館があったりして、広東省の梅州以上に客家文化を残している都市だとは知らなかった。今回来たのは、瞿秋白が処刑された土地ということでやってきたが、客家文化を残していたり、唐代の城壁が一部、残っていたりして、ずいぶん趣のある町だ。今回は、四時半のバスで瑞金へ戻るので、二時間ほどしか時間がない。ほんと、ずっと思っていたのだが、どこへ行っても時間に急き立てられる旅だった。

 瞿秋白は、「八一南昌起義」後、「秋収蜂起」時の党の最高責任者(総書記)であったが、「秋収蜂起」の失敗から「極左冒険主義路線」として非難され、総書記を退いた人物である。
 瞿秋白処刑の地には、大きく立派な記念塔とその横に、「瞿秋白同志就義地」の石碑がある。また、小さな「瞿秋白烈士陳列室」が建てられている。
 陳列室に入ると、二枚のパネルが目につく。最初の一枚は次のような内容である。
「瞿秋白は、中国共産党の早期の主要な指導者の一人である。彼は、偉大なマルクス主義者で、卓越した無産階級革命家、理論家、宣伝家、中国の革命文学事業の基礎を固めた一人である。
 瞿秋白の偉大な功績を偲んで、党と政府は、彼が義に就いた(国民党に殺された)羅漢嶺の地に瞿秋白烈士紀念碑を建てる。また、紀念碑を敬慕しやってくる人たちが瞿秋白の輝かしい一生のすべてを理解するよう、「追想瞿秋白烈士陳列室」を設ける。
 瞿秋白の崇高な革命精神と偉大な革命功績は永遠に歴史に残され、人々に慕われ続けるだろう」
 
二枚目のパネルは、彼の略歴が記されていた。これは省略
する。


   
 刑場に赴く瞿秋白  瞿秋白烈士紀念碑

 「瞿秋白烈士陳列室」の次の対聯が気になった。

  人生得一知己足矣  人生は一知己を得れば足れり
  斯世當以同懐視之  この世はまさに同懐を以てこれを視るべし

 この対聯に関し、王さんの話に魯迅の名が出てきたので、旅行から帰ってきて、対聯の経緯について、また、瞿秋白と魯迅の公的、私的な交渉について知りたいと思い、いろいろ本を探していて中公新書の『魯迅詩話』を見つけた。詳細は、こちらに譲る。

《公権力には気をつけよう》

 今日は大失敗。長汀からの帰り、福建省から江西省に入るところに検問がある。昔で言えば関所である。公安の気紛で適当にバスやトラックを止めている。運悪く、私たちの乗った中型バスは止められた。運転手が連れていかれ何か聞かれている。王さんの言うのには、密輸の品を運んでいないかチェックしているのだ、というけれど、バスの車内は一向に調べる気配はない。もう十分は経つ。
 私は、バスの運転手が、いったい何をされているのかと、バスを下りて、様子を見にいった。道路の反対側からだったのでかなり距離があり、私は、軽い気持ちで、運転手と訊問している公安を写真に撮った。これがまずかった。公安が二人道を渡ってやって来た。まだ公安の意図は分からなかったが、これはまずいと、私はいそいでバスに乗った。公安が二人バスの中まで入ってきた。私の前で止まり、自分の身分証明書、日本だとさしずめ警察手帳か、を見せ、何やら早口でしゃべる。私は全く分からない。王さんが私のことを公安に中国語で「彼は日本人です」と言ったのだけが分かった。王さんが「パスポート」と言うので、私は、パスポートを出しながら、五年前の悪い記憶がよみがえった。

 深センから香港に入る海関で、「毎日八万人の通過がある世界一出入りの多い国境ということで、それならぜひ写真に撮って生徒に話してやろう。しかしやばいかなあ、撮りたいなあ」かなりの逡巡の後、シャッターに指が行っていた。動機は純粋だったが、思慮が足りなかった。フラッシュが点いた途端、銃を持った四人の国境警備兵に取り囲まれてしまった。あの時は、私一人だった。「ごめんなさい、ごめんなさい」と中国語でただひたすら謝った。中国語サークルの学習の成果をそんな形で使うことが無念であった。しかし、別の所へ連れていかれそうになって事の重大さに気づく。私は、その場に踏張り、「ごめんなさい、ごめんなさい」。結果は、無罪放免となったが、五十にもなって何ともなさけなかった。

 二人だと思った公安が、バスの外にまた三人増えている。バスの運転手への訊問はいつのまにか私の取り調べに変わり、運転手を訊問していた公安までバスの所へやって来た。バスの客は皆興味津々で見ている。「取材許可書を出せ」と言う。そんなものあるわけない。また彼ら同士で話しだす。この瞬間は、どんな結論を出すのか、やたら不安である。この間、五分だったのか、十分だったのかよく分からない。パスポートを返してくれ、フイルムを没収される事無く、五年前同様無罪放免となった。前は、ひとりだったので、ただひたすら「ごめんなさい」を繰り返した。今度は、王さんがいたので、「ごめんなさい」は恥ずかしくて言えなかったし、王さんの説明があったから、公安も理解してくれたのかもしれない。
 今日の教訓。
  その一、「どこの国でも公権力には気をつけよう」
  その二、「同じ過ちを繰り返すな」

第七日

《家鴨は馬蹄が大好き》

 今日は十一時のバスでカン州へ帰る予定にし、朝のうちに雲石山へ行く。雲石山の見学から帰ってくるとまだ九時前で、一つ早い九時三十分のバスに乗れる時間だったので、王さんは、急いでバスの駅へ行き九時半のバスに乗りましょうという。
 私は、九時半のバスに乗って、カン州に早く着いても特にすることもないので、それよりも、あきらめかけた、瑞金中央革命根拠地紀念館へ行きたいといった。王さんは、「昨日は、行きたくないと言ったじゃないですか」と不服そうに言う。昨日、王さんとの話では、「明日(二十九日)は、十一時のバスでカン州へ帰りましょう」ということになっていた。それで、王さんが、「あとまだ行っていないところが、雲石山と記念館の二ヶ所ありますが、両方行くのは無理です」と言うので、私は、「記念館は、革命縁の土地、あるいは建物等があるのですか」と王さんに聞いた。王さんは、あちことで聞いてくれて、「特にそういうものはないただ展示があるだけだ」ということで、「それなら、そこから長征に出発した、〝長征第一山〟といわれる雲石山へ行きます」と答えた。つまり、二者択一なら、雲石山と言ったまでで、こんなに遠い瑞金まで来たのだから、行けるものなら両方に行きたいのは当然だ。それで私は、「行きたい」と重ねて言った。これがまずかった。


   
 セーラームーンの鞄にアディダスの靴  家鴨は馬蹄が大好き

 瑞金中央革命根拠地紀念館はホテルから歩いても、十五分ほどで行ける所にある。だから、十一時のバスには十分間に合うというのが私の読みだった。
 往復で半時間、記念館は急いでみたので半時間。帰り道、バスの駅までやってくると、バスが出発しようとしている。「あれっ、これ何時のバス?」。今、十時過ぎ。私は、てっきり、九時半のバスが遅れたのだと思っていた。王さんはバスの運転手に聞いている。王さんの通訳、「十一時のバスです。満席になったので出発するのです」「なにっ、それっ」私はびっくりしたが、荷物はホテルに置いたままなので、私たちはそのままバスに飛び乗るわけには行かなかった。
「バスの運転手は、待っていてやるから早く荷物を取ってこい」という。私と王さんは、近くないホテルまで走って帰り、荷物を持って、また、バスの駅に戻ってくると、もう、バスはあとかたもなかった。さあどうするか。今、十時半だ。次の 州行きは十三時半なのだ。まだ三時間ある。

 昼食を摂る。私は饅頭二個とゆで卵一個を食べる。一元五角。王さんは鳥肉のスープとご飯を二つずつ食べる。五元。
 食堂の前の歩道に竹の椅子を置いてもらって時間をつぶす。
 食堂夫婦は家鴨を二羽飼っている。瑞金は町中どろどろなんだけど、家鴨もどろどろ。そのどろどろの家鴨が、歩道の凹に溜まっている泥水のなかに落ちている馬蹄を拾い口に入れる。でも、こいもぐらいの大きさしかないのだけど。飲み込むことはできないので、家鴨は、口に入れたりだしたりしながら、少し少し砕いて、やがて全部食べてしまう。あんな汚い、泥水を飲んで、泥水の中に落ちている馬蹄を食べてと思っていると、きっちり、泥水のようなびちゃびちゃの糞をした。馬蹄売りのおじさんに、「家鴨は馬蹄が好きなのか」と訊ねると、「大好きだ」という返事。
 馬蹄は、馬の蹄のような形をしているのでこういうが、「黒くわい」のことで、所によっては地梨というように、甘味が多く料理に使うと共に、皮を剥いただけで、生で、おやつとしても食べる。

 大きなどんごろすのような袋に、いっぱい馬蹄を入れた馬蹄売りの男一人、女二人が私の前にしゃがんでいるが。私が、その存在に気づいていた三時間ほどの時間に、誰一人客は来なかった。
 馬蹄売りは、あまりに暇なので、商売ものに手をつけて時折、皮を剥いて食べている。

  王さんの話では、馬蹄は、食材でもあるが、このまま皮をむいて食べてもおいしいという。おやつにもなるのだ。
  こんなので商売になるのかなあと心配する。その内の男の馬蹄売りは、商品の、どんごろすに入った馬蹄を歩道に置いたままで、食堂に入ってしまった。二羽の家鴨は、そのどんごろすを突きはじめた。よほど、馬蹄が好きなようだ。
 馬蹄売りは、一人の客もつかないのに、家鴨に食べられていては商売にならないと、食堂から出てきて家鴨を追っ払う。

 王さん、バスの駅に入っていったと思っていると、しばらくして出てきて、予期しないことを言う。五時になってもカン州行きが来なかったら、夜行バスで直接南昌へ帰ります、という。かなり豪華バスにこだわっている。
 トイレに行く。三角払う。
 バスの駅に入っていくと、いろんな行き先を表示した中型バスが十台以上並んでいる。私たちが行くカン州行きもある。「あれっ、あるやないか」と不思議に思う。もとの食堂の前に戻ってきて、王さんにそのことを言うと、「中巴は乗りたくありません」、「ええっ」そうだったのか。王さんは、豪華バスにこだわっていたのだ。八時、九時半、十一時、十三時というのは、空調付き豪華バスで、普通の中巴なら、これ以外の時間に、次々、どんどん出発しているのだ。

《「南昌起義」に至るまで》

第八日

京九鉄道に乗る。早朝六時三十六分、カン州発。カン州~南昌、四百十二キロ、特快で六時間半、五十四元。十二時五十五分南昌着。
 私が南昌にやって来たのは、1927年8月1日の「南昌起義」ゆかりの地を訪ねるためである。
 「南昌起義」ゆかりの地の見学に出る前に、ここに至る歴史について、小島晋治著『中国近現代史』を参考に、少し復習しておこう。

 1919年  孫文、中国国民党を組織。
   21   孫文、広東政府を開く(四月)。
        ソ連の支援(コミンテルンの指導)のもと、中国共産党結成(七月)。
   24   第一次国共合作。
        共産党員が党籍を持ったまま、個人の資格で国民党に入党する。

「国民革命の主力は国民党とする」というコミンテルンの指示で合作は実現した。

   25   孫文死去(三月)。
        広東で中華民国国民政府(主席:汪兆銘)樹立(七月)。
   26   蒋介石を国民革命軍総指令として北伐開始(七月)。

 北伐軍は怒涛の勢いで進撃した。内部が腐敗しきっているうえに相互に利害が対立していた軍閥軍は、革命の意気に燃える北伐軍の前に、長沙(湖南省)、武漢(湖北省)、福州(福建省)、杭州(浙江省)、南京(江蘇省)と、つぎつぎに各個撃破されていった。
 北伐軍はいたるところで民衆の歓迎を受けた。民衆は、敵情報告、道案内、物資輸送に積極的に協力し、軍閥軍の輸送、通信を妨害した。なかには、北伐軍の到着前に蜂起して軍閥軍を追い散らしたところもあった。
 この段階での北伐軍(国民革命軍)と軍閥軍の関係は、後の紅軍と国民党軍との関係に似て興味深い。
 軍閥が一掃された地域ではどこでも、労働者・農民をはじめとする民衆運動が激しく燃え上がった。なかでも、農民運動の発展は目覚ましかった。農民たちは、地主・豪紳から権力を奪い取り、地代引き下げ、雑税廃止を要求し、さらには、国民党の指導を乗り越えて地主の土地没収の動きさえあらわれた。

 1927年2月   国民政府、長江流域に進出し、武漢政府(主席:汪兆銘)を立てる。 
 3月    周恩来、上海の労働者を指導し武装蜂起する。臨時政府樹立。

 北伐軍の一部が、帝国主義の牙城上海郊外に到着した三月二十一日、周恩来らに指導された上海の労働者は、ゼネストと武装蜂起で立ち上がり、三十時間の市街戦の末、軍閥軍を一掃して臨時政府を樹立した。
 上海に多くの租界や利権をもつ帝国主義列強や浙江財閥などの大資本は戦戦恐恐、蒋介石との接触を模索した。
 このような状況下、蒋介石の下した決断が上海クーデタであった。次のような計算があったと思われる。
●国共合作なので、北伐軍の連戦連勝は、その制圧地域での共産党の活動、すなわち、農民運動、労働運動などを行いやすくした。事実、この時期、共産党員、工会会員、農会会員が急激に増えた。これは脅威であり、放置するわけにいかない。
●上海の財閥から、蒋介石に巨額の軍資金の提供申し入れがあった。後々、上海財閥の支援は必要だ。
●武漢政府の主席は汪兆銘であるが、いつまでもナンバー2に甘んじるのはイヤだ。これと袂を分かつ。

 1927年4月    上海クーデター。蒋介石、反共クーデターを断行(十二日)。 
     蒋介石、南京に国民政府(主席:蒋介石)を樹立(十八日)。 
 7月     共産党、武漢政府から退去(十三日)。
      国民党、容共政策の破棄を宣言。国共合作の崩壊(十五日)。


 1927年7月、国共合作が崩壊したあと、中国共産党はコミンテルンの指令に従って、「武装蜂起」路線へと急旋回していった。

 8月1日、中国共産党は国民党革命委員会の名目をもって、江西の省都南昌で武装蜂起を敢行した。葉挺(ようてい)、賀龍(がりゅう)、朱徳など、国民党軍内にあった秘密党員と周恩来ら中央派遣の幹部が約二万の軍隊をひきいて反乱をおこしたのである。これが、共産党が独自の軍隊を持った最初の日であった(現在8月1日は人民解放軍の建軍記念日となっている)。
 しかし労働者、農民は全く動かず、国民党軍の大部隊に圧迫されて、蜂起部隊は三日のちには南昌を放棄して、広東省めざして南下した。

《南昌見学》

第八日午後
  賀龍指揮部旧址
  八一南昌起義紀念館(元「江西大旅社」というホテル)
 
  王さんの友人Yさんが案内してくれることになる。まず、ホテルを決め、荷物を置いて、タクシーで見学に出る。タクシーが公園の横を走る。
「ここが、八一公園です。公園側に起義軍、そして手前の、いまビルが建っているところに国民党反動派の軍隊が陣取り、大激戦が行なわれました」と、Yさんが説明してくれる。
 十分ほど走って、賀龍指揮部旧址へ着く。
 入り口のプレートの説明書き。
「1927年7月、賀龍が国民革命軍第二十軍を率い南昌に来て、ここに指揮部を設けた。賀龍、劉伯承、周逸群らはここに住んだ。七月三十一日午後、賀竜はここで軍官会議を召集し、起義の命令を出し、作戦任務を命じた。八月一日払暁、賀龍、劉伯承らは、小さな建物の石段で自ら敵軍総指揮部への攻撃を指揮した。そして、勝利を勝ち取った」
「ここは、私が通った小学校です。起義当時、宏道中学という学校だったのですが、賀龍の指揮部として使用されました。私が子どもの頃は小学校になっていて、私はここに通いました」 
 Yさんは、子どもの頃を思い出すように説明してくれる。
 ここは、南昌の文化を紹介する「豫章民族博物館」が併設されていて、こちらのほうが目を惹く。
 この後、「八一南昌起義紀念館(八一南昌起義総指揮部旧址)」(元「江西大旅社」というホテル)へ行く。

   
 八一公園 南昌起義の激戦地  八一南昌起義総指揮部旧址 元「江西大旅社」
   
 黄埔軍官学校政治部主任時代の周恩来  八一起義指揮部旧址(朱徳旧居)


 1927年7月下旬、共産党は南昌・九江などに駐屯していた同党影響下の国民革命軍を南昌に集結させて武装蜂起することを決定した。七月二十七日、周恩来を書記とする前線委員会が江西大旅社を借り切って開かれ、翌二十八日、賀龍を総指揮とする南昌起義総指揮部が成立した。八月一日未明、約二万の起義軍は、三時間ほどの間に約一万の国民党軍を撃滅した。
 この記念館には、周恩来の執務室、総指揮部の会議室などが復元されている。
 この建物の正面写真は何度か本で見たことがあった。私も写真を撮ろうと思ったのだが、門の外から撮ると、門が邪魔で建物が写らない、門の中に入ると、門と建物との間隔が狭く、通常使っている三十五ミリの一眼レフでは建物の全景が納まり切らない。二十八ミリのコンパクトカメラでやっと入った。
 建物の中の展示は、全て撮影禁止になっていた。井岡山、瑞金など地方の博物館、記念館は、入場者が私たちだけということもあって、撮影禁止を無視して撮ってきた。しかし、ここは入場者が多い上、Yさんに気を使い、撮影禁止の表示の前では撮れなかった。
 ただ一枚、若かりし日の周恩来の写真だけは何としても撮りたかった。これは、黄埔軍官学校政治部主任の1924年11月、二十六歳の時のもので、端正できりっとした顔がなかなかいい。なんとしても欲しく、次の日にもう一度一人で来て撮った。 

《朱徳施計》  

 「朱徳施計」という展示が人気を集めていた。人の後から覗いてみると、南昌の街のミニチュアセットに立体的な映像で人物の動きが映しだされている。料亭のようなところで軍人がマージャンをしている。日本でも、こういう仕掛けの展示が最近多くなった。「朱徳施計」というのは、中国人には馴染みの話のようだ。
 ちょっと長くなるが、おもしろい話なので説明しよう。この八一南昌起義紀念館の売店で買った『走近南昌起義』という本の直訳である。
            ◇
 南方の夏は暮れるのが遅い。もうすぐ八時になる。
 最初の星星がやっと瞬き始めた。
 起義軍が戦闘準備を進めているその同じ時、朱徳は一つの特殊任務を遂行していた。
 七月三十一日の午後、朱徳は前線委員会の支持に基づいて、雲南省の軍隊における自己の威望と影響力を利用し、敵軍第三軍第二十三団長盧澤明、第二十四団長蕭胡子らを自己の部隊から離れさせ、起義軍に対する敵軍の有利な条件を消滅させるため、宴会に招待した。
 夕方、数人の敵の団長は時間通り料亭へやって来た。宴会の席は、gong 籌交錯(杯と、何杯めかを数える竹の札がいり乱れている様子)、箸杯縦横、賓主間猜拳(拳を打つ酒席のゲーム)行令、談笑風生、最高に盛り上がった。十分に飲み食いして、すでに、灯が入る時間となっていた。
 朱徳は時計を見、「時間はまだ早い、こんなに暑いし、少し離れた静かな所に場所を換えて、麻雀をもう何回りかしよう」と言った。
 団長達は大喜びで同意し、車で大士院三十二号の妓楼へ行った。数人の団長は雀卓を囲み、他の団長はアヘンを吸った。朱徳は、団長が連れてきた護衛の兵士達に酒をふるまい先に返した。
 遊びたけなわの時、突然、門を敲(たた)く声がし、蕭胡子の副官が走りこんできた。副官は蕭胡子に、しどろもどろに耳打ちした。「指揮部緊急通知。今夜、共産党が暴動を起こそうとしている。各団、緊急の体制を取り、防衛を厳重にすること」
 副官が言い終わらないうちに、どかん!と大きな音がした。蕭胡子はびっくりして立ち上がり、「ばか!すでに起こっている。どうしてこんな重大なことを今になってやっと伝えるのか」。「私は、九時から街中走り回って団長を探しました。さきほど、やっと護衛の兵士を見付け団長の居場所を知ったのです」と副官は不満げに言った。
 日はすでに八月一日になっていた。
            ◇
 これが「朱徳施計」という話である。
 これと似たような話が、スメドレーの『偉大なる道』にも載っているから、これに近い事実があったのかもしれない。
 ところで、当時、朱徳は南昌の全警察と軍官学校を指揮下においていたが、共産党の秘密党員であった。
「朱徳施計」に相当する箇所について、スメドレーの『偉大なる道』では、「蜂起の夜、朱徳は、前線委員会の命令にしたがって、南昌市内にいた第五路軍と第六軍の全将校を集めて、大宴会を開いた。彼は、連隊長級以上の将校だけを招待した。彼らはまだ、朱徳が雲南軍の将校で、国民党の指導者の一人だと思っていたので、みんなやってきた」
 と記述されている。

第九日

 
 藤王閣

  藤王閣
  杏花楼(八一公園内の池の中の島)
  佑民寺 八一起義指揮部旧址(朱徳旧居)
  
  午後、私一人で市内見学 

  八一南昌起義紀念館(二度目) 

  Yさんの案内で、朝一番に藤王閣(とうおうかく)へ行く。藤王閣は、カン江岸にある唐初に建てられたでかい楼閣で、武昌の黄鶴楼、岳陽の岳陽楼と合わせて江南三大名楼と称されてきた。
 このあと、市の中心部に戻って朱徳旧居へ行く。ここは、八一起義の時、周恩来が南昌へ来て第一夜を過ごしたところで、二人はここで起義について綿密な打ち合せをしたという。

 私と王さんは夜行で上海へ帰る。Yさんは、南昌の駅まで送ってきてくれた上に、景徳鎮の陶磁器までみやげにくれた。
 Yさんには、仕事を休んでまで、大変よくして頂いた。私には、「ありがとうございました」とお礼を言うだけで、何のお返しもできない。恐縮していると、Yさんが、
「日本へ行く機会があれば、そのときは、よろしくお願いします」
 と言ってくれた。それなら、私にもお返しができる。「そんな機会が来ればいいのになあ」と思いながらYさんと別れた。

《旅行の最後はいつも上海》

第十日 
 夜行で上海に着いて駅前のホテルへ直行する。このホテルは四年前にも利用しているので勝手が分かる。上海のお母さん、弟さんの家に行くという王さんとホテルで別れ、私は一人、上海郊外の嘉定と南翔へ行く。
 嘉定(ジャーティン)は、上海から北西にバスで四十分ほどの所にある。嘉定の孔子廟は、かって科挙の地方試験、江南郷試が行なわれたところで、受験生の個室など科挙文物が展示されていると聞いていた。それに、ここは、太平天国軍と清朝軍との激戦地でもあって、一度行きたいと思っていた。
 嘉定のあと、上海への帰り道にある南翔(ナンシアン)の古猗園へ行く。園内にある南翔鎮飯店の蒸篭で蒸した「古猗園南翔小篭饅頭」はとびきりおいしかった。小さいから一口で食べれる。でも熱いので口にほおばっていると、中から熱い汁が出てくる。これがまたなんともおいしいのだ。 南翔からの帰り、バスの中から見た夕陽が美しかった。そういうと、この十日間、晴天は一日もなかった。こんなに、傘とレインシューズの役に立った旅行は初めてであった。

第十一日
 
  いよいよ十一時の飛行機で日本へ帰る。帰りのリコンファームを心配してくれ、王さんは飛行場まで来てくれる。王さんの弟さんのおかげで、ちゃんとできていた。
  別れ際、王さんは、
「今年の暮れは、どこへ行きますか」と言ってくれる。この十日間、乗り物、ホテル、名所旧跡等、一切の支払い、交渉は王さんがしてくれた。それに、私はカメラを持って勝手な行動が多いから随分と気をつかってくれたと思う。なんといっても、私のために十日間も仕事の都合をつけてくれたのだ。そんな私との旅行に懲りもせず、「今年の暮れは、どこへ行きますか」と言ってくれたのだ。うれしくて涙がこぼれそうになる。

 出国検査を済ませ、待合室から飛行場をぼんやり眺めていると、王さんと行った三回の旅行のことがつぎつぎ思い出される。